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NO331_J・・・魏志倭人伝 文法構造で解読する

1.原文のブロック化
1.譯は驛の誤字
1.郡は帯方と同じ場所
1.自郡至~と従郡~の違い
1.余里の余は15%増しの実数にする
1.女国の謎
1.女王国は領域ではなく地点
1.末盧国は糸島前原だった(1.松浦佐用姫物語)
 1.一里は0.06kmを検証する
 1.韓土を測定する
 1.壱岐を測定する
 1.対馬を測定する
 1.韓国を測定する
 1.帯方郡治を測定する
 1.帯方郡と韓国の国境を測定する
 1.卑弥呼の塚を測定する
 1.帯方郡治所を測定する
 1.投馬国と邪馬台国を測定する
1.女王国を検証する
1.かたわらのその他の国々を検証する
1.狗奴国も女王国以て北にある
1.狗奴国南を検証定する
1.狗奴国北方を検証する
1.伊都国を検証してみた
1伊都国、.有明海が海の玄関口だった。
1.卑弥呼のいた所は北朝鮮元山市(ウォンサン)不耐城の北方50km。
1.宋書に文献証拠があった。倭国は高句麗の東南、倭国が朝鮮半島の日本海側にあった(東沃沮)ことについて。

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帯方郡から邪馬台国までのブロック 
 魏志倭人伝は明らかに計算されています。そこで、魏志倭人伝をプログラムのように構造的に分析してみました。大きな囲みが親ブロック、小さな囲みを子ブロックと見立てます。
親ブロックが全体のプロジェクトです。小さな囲みは、子ブロックです。これを、入れ子構造といいます。
下のように罫線で原文(紹興本)を囲ってみました。漢文の訓読みの誤訳や誤解釈を排するのには、はなはだ好都合なな方法だと言えます。
 連続する「其」がどこを受けているのか、また、「至」をいたると読んではいけない、「行」をいくと読むことは間違い、又を再びと訳すのは誤訳!・・・などの部分はカテゴリーを変えて、おいおい書いていきます。
 いままで、おざなりにされてきた狗奴国の真実の在りかと名称を明かすことが目的ですので、そこに特化した説明になります。狗奴国が特定できてこそ、はじめて倭国も特定できるのです。とくに邪馬壹國が主題ではありません。わたしは、どうして現代の知識人が邪馬壹國だけを突出して議論するのか不思議でなりません。そもそも女王卑彌呼が邪馬台国にいたと思考するのは最初のボタンの掛け違えなのです。まあ、新井白石が『古史通或問』でヤマタイコクと読み下し、大和に比定したのですが、晩年になって似た古地名である山門郡(瀬高町)に変えました。大和説から九州説になったのですね。(晩年の書『外国之事調書』)、日本のことだから、日本の古地名から探ろうとしたのでしょう。いずれにしても固有名詞をすべて音借文字だと考えたのです。日本の地名の音を聞いて漢字の音でリプレースしたというわけです。伊都国が怡土國に不彌国が宇瀰國、奴国が那珂郡の那に因むとか、これらのワードがみな中国人が音借文字で変換したという前提での一つの推理なんです。中国には54言語、いまは方言といいますが、文字は共通ですが、発音はそれぞれ地域ごとに異なっていました。そんな環境の中で地方の発音を中央語の発音に相当する文字に変えるようなことは中国人はしません。漢文にルビをふるような例はありません。発音は規定しない。つまり、漢字という文字は地域ごとに自由に発音していいのです。固有名詞が音借による表記だという思考に反対です。もともと、魏志倭人伝は日本書紀を参考にしようがないのです。当の新井白石が死ぬ前の享保9年(1724年)にある人にだした手紙に、「魏志は実録に候、日本紀などは、はるか後にこしらえたて候事ゆえに、おおかた一事も尤もらしき事はなき事に候」と、日本紀には、真実らしいことは一つもないと書き残しています。魏志倭人伝は中国史書ですから、原理的に日本書紀が入り込む余地はないのです。

『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条 陳寿著 (280年ー297年頃)
 ->  ->  ->  -> 倭人傳             紹興本準拠

親ブロック

倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國

子ブロック_A
從郡至倭
<從郡>循海岸水行歷韓國乍南乍東其北岸狗邪韓國七千餘里
<從狗邪韓國>始度一海千餘里對馬國其;大官曰卑狗副曰卑奴母離所居㠀方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴
<從狗邪韓國>南渡一海千餘里名曰瀚海一大國官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴
<從狗邪韓國>渡一海千餘里末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之

<從末盧国>東南陸行五百里伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸

王皆統屬女王國/郡使往來常所駐


子ブロック_B
<自伊都国>東南奴國百里官曰兕馬觚副曰卑奴母離有二萬戸
孫ブロック(まごブロック)

<自奴国>行至不彌國百里/官曰多模副曰卑奴母離有千餘家

<自郡>投馬國水行二十日/官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸

<自郡>邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月/官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸

 自女王國以北其戸數道里可得略載
孫ブロック(まごブロック)

 其餘旁國遠絶不可得詳次;斯馬國次;巳百支國次;伊邪國次;都支國次;彌奴國次;好古都國次;不呼國次;姐奴國次有對蘇國次;蘇奴國次;呼邑國次;華奴蘇奴國次; 鬼國次;爲吾國次;鬼奴國次;邪馬国次;躬臣国次;巴利国次;支惟國次;鳥奴國次;
 
奴國此女王境界所盡

其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王
自郡至女王國萬二千餘里


 全文にかかる主語は、大ブロックの冒頭の文字列、「倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國」です。其はここを係り受けします。「其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」の其は帯方になりますので要注意です。陳寿の文法法則で文字列に「其」が連続している間、其、其、其・・・・とつながり切れない限り、其は、冒頭の文字列の主格「帯方」を主語に共有します。
倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國

「倭人は帯方の東南にあり、大海にある数ある島に住み、それらの国は山によってなり、漢の武帝のころ、もともと百カ国もあり、朝見するものがあった。今、所を使って通じるところは三十カ国である。」

これから記すことは、以下の国邑30か国です、という宣言文なのです。
国は王がいるところ、邑には長官がいます。前漢には併せて100カ国あったものが、後漢末期になった時には、たった30か国しか服属していないということがポイントです。

譯の字は驛の間違い!

 訳中に誤字を指摘しておきます。使所の譯(訳)は、(駅)の誤字とみなします。隷書体から楷書体に転記されたさいに、あるいは写本の時に写筆ミスが起きたと考えます。驛所は中国における郵驛亭のようなもので、驛所なら通行のカテゴリーに使えますが、訳所という語彙では意味をなしません。この転写誤記は東夷傳全般にわたっています。訳すとは人為的行為ですから、人称代名詞になるはずです。譯長、、譯者、通譯などはよいとして、譯所はへんだということです。史書には驛の文字は相当大量に譯に転記ミスがあります。

*郵驛亭 周王朝の頃に高速馬を使って緊急に簡本(竹簡)を届けるため、街道に亭(休憩所)、舎(宿舎)、館(宿屋)、舖(駅)などの通信システムがありました。十里一亭(≒4.3km:漢書百官公卿表 班固著)

上の、全文のうち、親ブロックの定義がグローバル定義となり、その条件が子ブロックを拘束します。 子ブロックの前段をAブロックとし、後段をBブロックとします。 AとBに分けた分岐条件は、意外と簡単です。 Aの場合は、至の文字の前に、【距離】が書かれています。 Bの場合は、至の文字の後に【時間】ないし、【距離】がきています。 分岐条件としてはこれで十分です。(至と到の文字の使い分けがありますが、文法上は同一です。 )
Aブロックは、従~至~の構文ですが、至だけしかない一行はみな「従~」が省略されています。従~至~は、その途中の状態や様子が書くことができ、いわば3次元的要素が記入されます。従~至~が前置詞ですから、距離または時間が名詞術語となります。「千里」だけで、「千里です」とか、「千里あります」と訳すのです。
従+【場所A】+方位+至+【場所B】の構文について面白い文章がありました。
《西域傳》的書籍 電子圖書館より。于窴國の条
「建武末,莎車王贤强盛,攻并于窴,徙其王俞林為骊歸王。明帝永平中,于窴將休莫霸反莎車,自立為于窴王。休莫霸死,兄子广德立,後遂灭莎車,其國轉盛。从精絕西北至疏勒十三國皆服从。而鄯善王亦始强盛。自是南道目葱嶺以東,唯此二國為大。」
現代文の訳を入れてみます。
建武の末に莎車王・賢が強勢となり、于窴国を攻め、王を移し俞林を骊歸王にした。明帝の永平中、于窴に将軍休莫霸が莎車に反旗を翻し、自ら于窴王となった。休莫霸が死んで、兄の子である广德が立ち、その後、莎車はついに滅んだ。于窴国はますます盛んにり、精絕から西北にある疏勒までの十三カ国がみな服従した。しかし、鄯善王がまた強勢になりはじめた。この南道の目葱嶺(そうれい・パミール高原)より東は、ただこの二国だけが大国となっている。
上記の赤い部分です。
从精絕西北至疏勒十三國皆服从。は従精絕西北至疏勒十三國皆服従。と从はなんじゃ?となるからです。从は従の簡体文字なのです。書き換えると、「精絕西北至疏勒十三國皆服。」となります。
この一行の文字列の最初の従が、従A至BのーどこAから~どこBまでの前置詞として使われています。最後にある従は「したがう」という本来の意味での従です。服従の合成語として使われています。従が異なる字義で、一つの文章に使われています。面白い例文ですね。
ちなみに、建武(けんぶ)は、後漢の光武帝劉秀の治世に行われた最初の元号です。25年 - 56年です。新の王莽(おう もう、前45年 - 23年)の失政で西域は統制不能になり、西域は匈奴の離反など群雄割拠のありさまになっていました。後漢の光武帝になって、ようやく西域を中国の統制に戻そうと働きかけるようになったのです。光武帝の末の西域は莎車國に取って代わって于窴国(ホータン)と鄯善王(ローラン)が二大強国だったという状態だったというのです。

郡は帯方郡治所のある地点として見る

郡は帯方郡治所にポイントを置きます。「自郡至女王國萬二千餘里」という、郡は魏略では帯方、御覧魏志でも帯方と記されています。
『魏略』:「自帯方至女國万二千余里」
『御覧魏志』:「自帯方至女国万二千余里」
帯方と略していますが帯方郡治所のことです。測定ポイントがなければ12000里といった距離を出せません。また、女王国または伊都国など、国もすべて地点とします。
自郡至~と従郡至~の違い

自~至~と従~至の違いが、里程論にはすご~く重要です。

従至の構文で倭の場所は伊都国を終点として完結しています。従~が皆省略されています。
区間距離の合計は、総距離に一致するを式化する。自~至~は至の後ろに直線距離しか表現できません。
従~至の構文の距離は至の前におかれています。いずえれも直線距離です。点と点を直線で結びますから、例えば折れ線グラフ、または星座表のようなイメージです。
区間距離は「余」が付いている場合15%増しにして整数化します。
自至や从至の構文で、自~、从~が脱落している例文:
魏書 倭人伝の『魏略西戎傳』の引用14 打開字典 倭人傳:
「北新道西行,東至,且彌國、西且彌國、單桓國、畢陸國、蒲陸國、烏貪國,皆并屬車師後部王。王治于賴城,魏賜其王壹多雜守魏侍中,號大都尉,受魏王印。轉西北則烏孫、康居,本國無增損也。」
「北新道は西から並び、東まで且彌國、西且彌國、單桓國、畢陸國、蒲陸國、烏貪國があり、みな車師後部の王にまとまって属している。王は于賴城で統治しており、魏はその王壹多雜守魏侍中に、大都尉の称号を賜わり、魏王の印を受け取らせた。西北に転じると烏孫、康居があり、本國は無增損である」

上の例文の北新道/西行/東至/○○國、○○國、○○國・・・・・・・皆并屬車師後部王。この文字列を分析します。訳は次のようになります。
「北新道を西からに行列し、東まで○○國、○○國、○○國・・・・・・・までの国々はみな車師後部王に併属している。王は于賴城を治め、魏は其の王に壹多雜守魏侍中という身分をあたえ、大都尉と号して魏の王印を与えた。西北に転じるとそこは烏孫、康居がある。本国は無增損である。」
このように訳しますが、●西行/東至/ ・・・この文字配列●の個所にある文字が脱字されています。”从”(従)を入れることによって基点を示すことができます。基点がなければ距離を記載できません。その前提では基点は必ず必要です。倭人伝は基点がどこにあるのか書いていない、または詳細ではないという方がいますが、そういう方も必ず基点をあれこれ模索しているのです。基点がどこなのか?それが、さまざまな推理にによって比定されるので結果として邪馬台国の比定地も乱立してしまったのです。
こうした推理によってではなく、文をマクロ(論理式)にすることがが重要です。
西に並ぶ国は基点から西方向に並ぶわけですから、基点とは記述者の立ち位置で、その目線が東方向になります。从+西行+東+至+○○國、○○國、○○國・・・・・・・、このように省略を穴埋めして配列構造にします。加えていうと、この文字列は、一見述語部のようですが、全体が主語を形成する名詞句となります。従が脱落しているのですが、なぜ従で、自ではないのか、その理由は重要なポイントです。
  
これは魏志倭人伝の不彌國以下の配列構造に適用することが可能です。まずは略字を探って、略字を代入してみます。
●●東至不彌國百里/官曰多模副曰卑奴母離有千餘家
<従奴国東行><自郡>
南至投馬國水行二十日/官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
<従奴国東行><自郡>南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月/官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸

上記の●●は省略されているので構文定義に従って挿入する文字を特定します。「従奴国」、奴国から、と定義づけします。行に制約される国(被修飾国)は不彌國、投馬国、邪馬台国です。奴国、不彌國、投馬国、邪馬台国が東緯線に並行している状態が結果として得られます。●●=自西が脱落しているといえます。

原則規則
至の前に里数が書かれていれば、従~が省かれています。
至の後ろに里数が書かれていれば自~が省かれています。

従至のAブロックの始まりは郡治所、終点は伊都国で、この間が12000里になります。この間はエリアとしては倭韓の領域を通貫しているのです。
狗邪韓国は倭地の最初の到着地点です。また、到の文字がありますので狗邪韓国は倭地となります。

Bブロックは、自~至~の構文が省略されています。自~至~は、【距離】と【時間】の要素しか説明できません。地点から地点を示すだけですので、二次元的な要素しか書けません。スタート地点は伊都国になります。Aブロックのスタート地点は郡でしたが、ここから起点が変わっています。そして、孫ブロックになると、奴国が起点になります。ひ孫ブロックは奴国を起点にしています。
起点と終点を以て二点間の距離をとります。国名を、すべて地点(ポイント)みなします。

従~至~の構文の特徴は状態表記ができることです。言えることはAブロックは、「ぼくんちから駅の間に愛ちゃんの家が100メートルも歩くとあるんだよ。」、なんて3D表現ができます。です。要するに、Aブロックは行程(道行き)やその間の様子(状態)を書くことが可能ですが、Bブロックは自~至構文では立体的な状態は書けません。書きたいときは、文節を違えて文を後ろに繋げます。文をいったん区切って、平叙文でもって繋ぎます。

Bブロックは自~が省略されています。距離のみ表記できます。
Bブロックの国々は伊都国から自構文で再配置されます。

余里の余は15%増しの実数にする

   Aブロックの一表 分割区間  区間里数  A1余里を整数化・15%増しにした実数値   B1
単位km
 A1÷B1
一里実数
 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千餘里。 7000余   8050 金海  483km  0.06km 
 始度一海千餘里、至對海國。 8000余   1150 対馬下島  69km  0.06km 
 又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。*狗邪韓国を基点に放射状  9000余  1150 壱岐  69km  0.06km 
 又渡一海千餘里、至末盧國。        **狗邪韓国を基点に放射状(距離は通算)  10000余  1150 糸島前原  69km  0.06km 
 東南陸行五百里、到伊都國。(余なし)  500  500 吉野ヶ里   30km 0.06km 
  区間距離の合計は総距離に一致する。  合計  12000 12000   720km  0.06km 

   Bブロックの一表    総里数  区間  比定地    
[自伊都国] 東南至奴國百里。 奴国は伊都国を始点に東南。 12100  100 神崎郡
みやき町 
6km  0.06km 
 [自奴国]東行至不彌國百里。 不彌國は奴国から東に転じる  12200  100 久留米市  6km  0.06km 
h  投馬國、[自郡]南至投馬國水行二十日。 投馬国は不彌國から東に並ぶ 12900  700 日田市  42km  0.06km 
 邪馬壹國、[自郡]南至邪馬壹國水行十日陸行一月。 邪馬台国は投馬國から東に並ぶ 13800  900 別府市 108km  0.06km 
   自郡至女王國萬二千  A・Bブロック合計  13800 1800  大分市  828km    0.06km
  13800里に邪馬台国があるのですが、倭地の終点ではありません。女王国以て北の範囲に入る国の中では行き止まりにあたります。女王国が邪馬台国であるという論理は成り立ちますが、郡使が往来する国は女王国です。Aブロックの終点がBブロックの始点になります。ですから、伊都国を基点に諸国を列配している関係にになるBブロックは終点をを郡から12000里の女王国に置き、余里の1800里の東西線の中に以北の諸国が入ります。その最終國は九州を離れ、余傍の国々として四国・中国方面に続き、鳥奴国になります。これが邪馬台国に到字が使われていない理由です。 以て北に奴国が入るという条件を満たすには、女王国が奴国との緯度線に重なることになるはずです。しかし、Bブロックのfからiまでは距離方向は伊都国こと吉野ヶ里から計測したと判断します。はじめの計測が奴国東南100里です。伊都国から順次、計ったとみなせます。その理由のひとつには、郡使が道なりに歩測したりしていないからです。奴国に行かなければ不彌國との距離が実測できないというわけではありません。また、結果的には放射状ということになります。投馬国だけは距離があいまいです。したがって日田市は遺跡や地勢からの推定です。




奴国から東行を描くと、下図のような東西線が描画できます。不彌國、投馬國、邪馬壹國とこのラインに並びます。
邪馬壹國はごらんのように、九州の東海岸にあります。九州の東端、その先は海です。ただし、邪馬壹國が最終地ではありません。至は途中地であり、さらに海を渡ったその先に餘旁20カ国があります。瀬戸内海の両岸、四国、中国、近畿地方にあり、最終地は鳥奴國になります。倭人伝で出現する國名の数は使譯通じる所の30か国が同期されています。
緑の線は八方位線です。30か国は漢時には100余国に分かれていたと解釈できます。これが意味するところは倭地の領域が減ったのではなく、100余国がしだいに30か国に収斂されたと言っているのです。

女王国は大分市

女王国東渡海の場所。女王国を東に渡海すると読むべきだった。女王国と郡からの距離は13800里。12000里は伊都国ですから、伊都国からL字のように東に方向をとります。東に転じる起点は伊都国です。1800里ほどの距離は別府を通過します。よって、女王国=別府です。上のシミレーションでは方位90度、真東に取っています。別府になっているのを確認してください。
奴国から真東(しんとう)の方位1800里、すなわち108kmの交点は大分城址に近いところになります。しかし、伊都国=吉野ヶ里からは別府になるのです。自郡至女王國萬二千これは郡から女王国まで、12000里+15%だといっている以上、、地図上ではドットからドットと考えるのがプログラム思考なのです。諸国の王はみな女王国に従属しています。転じると別府にいる王に統属されていたのです。邪馬台国も別府の王に従属していたのですね。「女王国の首都は宇佐市、女王国の版図は豊前平野および国東半島、豊後平野(大分平野)を含む広大な領域だった」、この説は女王国を国の領域つまりエリアと誤解していますが、あながち的を得ています。
自郡至女王國萬二千里の地図描画。

女王国以北については戸数や道里を簡略に記載することができた。伊都国、、奴国、ほか邪馬台国も以て北の条件を満たす。
それは、吉野ヶ里ー大分の東西ラインで、方位磁石を用いた前提では98度が東であり、方位90度ではない。


大分川は東九州自動車道あたりから西に蛇行し、ちょうど九大本線の豊後国分駅周辺に女王国があったのだろうか。近隣に緑ヶ丘というホームタウンがあり、その三丁目を指している。その南側に隣接して大分冨士見CCというゴルフ場があり、支流の七瀬川の間に挟まれている。南東方向に3つの山がある。
霊山(りょうぜん)596m
障子山 751m
本宮山 608m


女國は女王国と同じ!

郡は帯方郡のことです。『三国志・・魏志倭人伝』「自郡至女王國萬二千餘里」、この郡は魏略では帯方、御覧魏志でも帯方と記されています。郡が帯方郡であることに疑問はありませんが、なんと、女王国には女國という別称がありました。

『魏略』:「自帯方至女國万二千余里」
『御覧魏志』:「自帯方至女国万二千余里」

魏略と御覧魏志が女國と記し、魏志倭人伝が女王國と記しているのは何故なのか、あまり争点にならないのが気にかかります。

        
伊都国=A(従)ブロックの終点=東南12000里
奴国=12000里+100里=東南12100里、B(自)ブロックの東南ラインの終点

女王国=12000里+1800里
       

どうして、『魏略』と『御覧魏志』は「女國」と記したのでしょうか?
(女しかいない国の参考文献;三国志魏書三十烏丸鮮卑東夷伝 東夷伝 東沃沮:「また、ある国が海中にあり、女ばかりで男がいなかった。」(母丘儉(ぶきゅうけん)第一次高句麗討伐と同年王頎の伝聞・西暦244年の伝承)日本を女國と記録したのはこの一件です。

「王頎別遣追討宮,盡其東界。問其耆老「海東復有人不」?耆老言國人嘗乘船捕魚,遭風見吹數十日,東得一島,上有人,言語不相曉,其俗常以七月取童女沈海。又言有一國亦在海中,純女無男。又說得一布衣,從海中浮出,其身如中國人衣,其兩袖長三丈。又得一破船,隨波出在海岸邊,有一人項中復有面,生得之,與語不相通,不食而死。其域皆在沃沮東大海中。」
以下自前の訳文:
「王頎を別動隊として派遣し、宮(東川王)を、その東界の最も遠い所(日本海沿岸)まで追った。そこの耆老に、王頎は「海の東に、さらに人がいるのかどうか?」と問うた。耆老は言うのには、そこの(沃沮の)国人はかつて、船にのって漁をして数十日風に遭遇して東のある島に着いた。その島には人がいて言語は互いに分からなかった。そこでは常に七月に童女を海に投げ込む風習をもっていた。また、ある国が海中にあり、女ばかりで男がいなかった。海中から浮き出て、その身は中国人の衣服をきているようだった。その両袖は三丈もあった。また、一つの破船が浜辺に漂着したが、首筋に面(入れ墨)がある人間が一人、生きていたが、言葉が互いに通じず、食をとらずにとうとう死んでしまった。その地域は沃沮の東の大海の中にある。」

王頎は玄莬軍太守の時、母丘儉(ぶきゅうけん)の命で東川王(とんせんわん)を朝鮮の東北海岸まで追撃しましたが、このとき、「女ばかりの国」が東の大海(日本海)にあると土地の年寄りから聞いたという経緯があります。事件は正始6年、西暦245年ですから、今から1776余年も前です。日本に関する中国正史での記録では最古になるでしょう。

日本のことを女國としているのは間違いありません。『後漢書』にも書かれています。
《後漢書》
[南北朝] 420年-445年
《列傳》 《東夷列傳》
18 打開字典顯示相似段落 東夷列傳:
「又有北沃沮,一名置溝婁,去南沃沮八百餘里。其俗皆與南同。界南接挹婁。挹婁人憙乘船寇抄,北沃沮畏之,每夏輒臧於巖穴,至冬船道不通,乃下居邑落。其耆老言,嘗於海中得一布衣,其形如中人衣,而兩袖長三丈。又於岸際見一人乘破船,頂中復有面,與語不通,不食而死。又說海中有女國,無男人。或傳其國有神井闚之輒生子云。」
「また北沃沮がある。一名、置溝婁ともいう。南沃沮と800里離れている。その俗は皆南沃沮と同じである。境は南に挹婁に接している。挹婁人は夜明けに船で襲って略奪行為する。北沃沮はこれを恐れ、毎年夏にはいつでも岩穴に隠れ、冬になると船が通れなくなるので、ようやく下の村に住む。その老人が言うのには、かつて海中にある衣を拾い上げた。その衣服は中人の衣で、しこうして両袖が三丈もあった。また海岸に難破船があり一人の男が乗っていた。うなじや体にかけて入れ墨があり、言葉が通じず、食べないので死んだ。また、老人が説明するには、海中に女國があり、男の人がいない。あるいは、その国には神がいて、井戸をのぞくとたちまち子供が生まれると伝えられる。」
*中人 朝鮮の身分で1.王族.貴族、2.両班、3.中人、4.常民、5.賤民の順。朝鮮時代では中人(チユンイン、중인)は、李氏朝鮮の官僚機構を担った階級身分。中人は常人より上で科挙の受験資格がありましたが、両班には平伏する義務がありました。中人の衣とあるのは、衣に色彩があった、つまり染色されていたからでしょう。朝鮮では常人は衣服は白のみが許されていました。

女王国は大王の為政地。諸国王がみな従属している。

自郡至女王國萬二千
 ここで、重要なことは、女王国を地点とみるか、領域をみるかの違いです。

狗奴國も「郡と女王国の間」にある ブロック全体を拘束する条件

この自~至の構文は、ある出発点から終点までということです。点から点ですから、その間は直線(二次元)です。そして、至の後ろには、距離か所要時間しかこないのです。肝心なのは、二次元ですから里数は地図上の直線だということです。
したがって、大ブロックでの「自郡至女王國萬二千餘里}は、はじめから女王国は地点として既定されます。そして、AとBのブロックのロケーションを拘束します。
この大ブロックの中にある地名は、すべて「郡と女王国の間」に存在するのです。
 ここは、最も重要なポイントですね。したがって、狗奴國も「郡と女王国の間」にあるのです。狗奴国もこのブロックの中にあるので例外ではありません。

 魏志では「奴國此女王境界所盡」と、奴国は女王の境界が尽きる所という書き方をしています。「女王国境界」ではなく、「女王境界」という書き方で使い分けをしているのです。一字の違いを厳密に考えれば、女王国はエリアではないのです。女王国とは倭地にあるきわめて重要なポイント(地点)です。郡使が通い、常に留まるところだとすれば、それは伊都国のほかにありません。「東南陸行五百里到伊都國」と、ここでは至ではなく到の文字になっています。至より強調された文字になっています。また、「丗王皆統屬女王國郡使往來常所駐」とは、王たちがみな服属し、魏の郡使が常駐しているとしています。魏が帯方郡を中継して)な為政地が女王国なのです。こうしたことで、「郡至女王国」が帰結として最後にきています。伊都国は奴国以て北の一国になり、奴国以て北は奴国を含んで北です。奴国が最南端なのです。そして、女王国は領域ではなく、ポイントなのです。女王国を領域と考えると、どこが国境なのか定めないと区間距離は出せません。そこで、奴国と女王国は同じ地点であると言えます。

12000里を総里程とみます。いわゆる「部分里程」は「総里程」に一致するというのは鉄則になります。そして、その方向は東南線です。
よく、帯方郡治所ー狗邪韓国ー對馬國一大国ー末盧国ー伊都国ー奴国ー不彌国と里程を順次つなげる考え方には不備があります。
一大国は東南の線上にはありません。一大国は其の南と書かれ、放射状に書かれているからです。一大國は順次に列することができません。一大国はパスしなければなりません。
また、不彌国も奴国の東と書かれています。東南の線上にはなく、方向を転じています。


對馬、壱岐は狗邪韓国から放射状

又の字は又又又と三回まで主格を同じくすることができます。(説文解字)
狗邪韓国から東南に對馬國の次の行から又が2回続きます。これは又の主格狗邪韓国が代入されますから、對馬國、一大国、末盧國の三か国は狗邪韓国から放射状に記述されていることになります。これは何を意味するかというと、水行といっても航路ではなく、陸行といっても道路を歩くことではないことを示すことになります。

帯方郡治所ー狗邪韓国ー對馬國(東南)
        狗邪韓国 ー一大国(壱岐)(南)
       狗邪韓国ーーーーー末盧国(東南)
このように狗邪韓国から放射状になるわけですが、東南の線上に一直線に並ぶあるのは、狗邪韓国ー對馬國ー末盧国ー伊都国ー奴国まで計5か国となります。

従~至~で書かれるAブロックの終点は伊都国ですよね。そして、自~至~で書かれる親ブロックの終点は女王國です。
 東南は基軸となる方位線で奴国が最南端です。奴国から東に基軸を転じます。この東のラインからすべての国は北側にあります。
12000里の最終地は、伊都国となります。古田武彦は総里程の12000里の最終地は不彌国であると言っていますが、これは鉄則に外れています。かつ、不彌国をその玄関にあたるとして、博多沿岸であるとしています。最終地が不彌国であり、かつ、玄関口であるというのは矛盾します。古田武彦は、”途中の方角、里程、日程のまま読む手法で見直しをする”ことを力説しています。この鉄則には大いに賛同してわたしなりに鉄則を貫徹したのですが、結果がまるで異ってしまいました。
 出発地点について、古田武彦は帯方郡治所をソウル近郊としています。1970年から2010年ぐらいの間の大勢的な説の一つだったのです。出発地と最終地も、見誤ったら区分里程が総里程に一致しませんし、一里の相対的距離の解も得られません。わたしは、大同江の南支流にある【沙里院】に想定しました。
沙里院(さりうぉん)は一般には黄海北道鳳山郡説ともいわれ、現在では最有力地になっています。
平壌から南へ50km、黄海北道鳳山郡沙里院にある唐土城を帯方郡治に比定する説(那珂通世、白鳥庫吉、榎一雄、今西竜、井上光貞、井上秀雄、鳥越憲三郎など)。楽浪郡址と同時代の瓦・塼(煉瓦)・銭などが出土しているほか、1912年に付近の古墳群からは「帯方太守 張撫夷塼」と刻まれた塼槨墓が見つかるなど考古学的な発見は多い。

 さて、12000里ちょうどのポイントが伊都国です。これとは別に、女王の境界は奴国で尽きます。奴国が行き止まりで、それは、12100里のところです。
伊都国から再出発(リスタート)して奴国は東南100里と書かれていますから、東南線の上にあります。奴国は女王の極南の境界であるとされます。



乍南乍東の南北の要素です。直角三角形辺Bの垂直線が南北の距離となります。
角ABは90度、直角三角形、挟角は37度です。詳しくは後節に。




至と到の文字の使い分けで区分できます。

第一の区間=郡から狗邪韓国まで
第二の区間=狗邪韓国から末盧国まで
第三の区間=末盧国から伊都国まで(東南500里) 通説はどうしてか東に曲げてしまいますが何故?
中間の区間=伊都国から奴国まで(東南100里)
第四の区間=奴国から邪馬台国まで (東方向)
以下、比定地を書きますが、これはあくまでもシミレーションの結果として得られたものです。
   伊都国=吉野ケ里遺跡
   奴国=久留米市城島町浮島~みやき町
   不彌国=久留米市市内
   投馬国=日田市小迫辻原遣跡
   邪馬台国=大分市
 魏志倭人伝東南1200余里
<從郡>循海岸水行歷韓國乍南乍東到、到の文字は上記のように金海市で区切らせます。



第二区間は狗邪韓国から放射状に三か所を指示しています。倭人伝には又又構文で表現され、結果、對海、一支国、末盧国が放射状になります。
狗邪韓国を弁辰瀆盧国の別称とみなすと、瀆盧国と末盧国が直結します。末盧国は瀆盧国に準じた名づけとなるでしょう。
<從末盧国>
東南陸行五百里到伊都國 二番目の到は伊都国で、到着地になります。そこで伊都国を新たな起点を変更して地勢を測定しなおすということです。榎説のように、伊都国からの放射説は取りません。が、その先の奴国から東に転じます。東行とあり、行は一列に並んでいるという条件式を取ります。第三の区間は東の緯線にそって、不彌國、投馬国、邪馬壹國があることになります。
狗邪韓国から対馬を通過した東南線は末盧国に到達します。初めに日本列島に到達する地点となります。下の地図の赤のラインは第二区間の途中で海と陸の接点に当たります。下図のように糸島前原に当たります。
末盧国と加也山


末盧国は糸島、筑前前原だった!
九州北海岸に接した場所です。なぜなら、濱と山と海という情景から、陸に入ったことが分かるからです。
末盧国はちょうど筑前前原駅の周辺です。郡から約690km。
「 又<從對馬國>渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之」
*鰒=ふぐ=中国語での説明「河豚」
「濱潟が山と海の間にあり、人の背の高さより高い草木があって、前の人が見えないほどである。人々は海が浅かろうと深かろうと、潜って魚やあわびを好んで採っている。」
この国の状態が書かれているわけですが、会稽の倭水人とよく似ています。「今の倭の水人は潜って上手に魚や蛤(はまぐり)を採取する」・・・会稽の倭人との違いは「ふぐ」と「はまぐり」だけです。あわびは中国では豪華な珍味で、ふかひれ、つばめの巣と共に三大珍味の一つですが、長崎県が漁獲量は全国6位です。佐賀県は20位。
こうして軽視できないのが、「皆沈没」です。これは素潜りであることを示しています。ゴボウラ貝やイモガイは沖縄の水深30メートルに生息します。高価な交易品ですが、素潜りなら一般に5メートルが常識的限界ですから、沖縄の海女が命がけで潜水したのでしょうか。

末盧国の蘆
「末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之」
魏志倭人伝では、末盧国に前の人が見えないほどの草木が茂っている、という表現があります。末盧國ではその草木を彷彿とさせるのが蘆です。葦の類、ヨシまたはアシ(葦、芦、蘆、葭)でしょう。アシは河川及び湖沼の水際に群落し、茎は2m~6メートルまで成長します。 屋根材としても最適で茅葺民家の葺き替えに使われていますが、現在でも糸島産が全国各地に供給されています。

糸島は現在では半島ですが、古代は島であり、船越湾から博多湾まで船が通行していたといわれ、前原王墓の遺物などから交易で栄えた証拠が見つかっています。この水路の途中の志登には大港があったのです。
写真はアシで茎の長さは最大3メートルともいわれ、人の背の高さより上です。湿地帯で育つことが、大麻やカラムシなどと選別できる根拠です。
末盧國の名称について探ってみます。弁韓の12国のなかに弁辰瀆盧(とくろ)國という国名があります。・・・・瀆盧國と末盧國が対になる可能性はないでしょうか?、瀆盧國は現在の釜山と考えられますから、釜山ー糸島航路を連想させます。
弁韓の12国、以下
1.弁辰接塗國 2.勤耆國3.弁辰古資彌凍國(古嵯国)、4.弁辰古淳是國(乞飡国)、5.弁辰半路國(卓淳国)、6.弁辰樂奴國、7.弁辰彌烏邪馬國(大伽耶国)、8.弁辰甘路國、9.弁辰狗邪國(金官加羅国)、10.弁辰走漕馬國(卒麻国)、11. 弁辰瀆盧國(金海)、12.弁辰安邪国(安羅国)
いわゆる任那の領土となります。安羅国のやや南に日本府を置いていました。
弁辰瀆盧國(とくろこく)とはいったいどういうイメージなのかというと、瀆は「水注川為谿,注谿曰谷,注谷曰溝,注溝曰澮,注澮曰瀆。」—《湧幢小品》卷十八」という例文から瀆は、谿、渓と類語で「たに」という意味になります。



釜山の中心より西に洛東江支流が二本流れています。この一番西にある河の周囲にたくさんの鉄の炉がありました。それらの炉からは白い煙が立ち上がっていました。海に注ぐところは渡り鳥がたくさんやってくる湿地があります。ここでは、立ち上る窯からのけむりと、舞うカモメなどの渡り鳥が飛ぶという光景がみられました。陳寿の書く地名は音ではなく字義によって判読していくべきでしょう。
末盧の盧は爐が元字か?!瀆盧は”炉の谷”ということになります。
瀆盧國は釜山に近い金海市となるでしょう。小生の小論「六芒星と伊勢」に金海市の歴史が詳しく書かれています。
伽耶六国 
・①金官伽耶国
・②阿戸羅伽耶<安羅伽耶>
・③大伽耶
・④小伽耶
・⑤星山伽耶
・⑥古寧伽耶洛国
鉄を独占的に生産し交易して栄えていたのは①の金官伽耶国です。瀆盧国の別名と見ることができます。


さて、末盧国は瀆盧國の末であり、瀆盧國の衛星都市だった可能性がでてまいります。瀆盧国のほうが、鉄器生産の本場ですし、鉄を貨幣につかっていたという意味では、おかしな言い方ですがずっと先進国だったのです。糸島には可也山(標高は365m。)がありますが、伽耶の変体だと考えられます。
末盧国の地勢を見てみましょう。この国は、歩く前の人が見えないほど草木が群集していたそうです。濱と山と海の三文字からは、糸島を連想させます。それは蘆(あし)でしょう。蘆・踋・趾・趺・足・蘆・葭・葦・芦・脚など、あしを宛がう音写としてすべて互換性があります。ヨシまたはアシ(葦、芦、蘆、葭、学名: Phragmites australis)は、イネ科ヨシ属の多年草。河川及び湖沼の水際に背の高い群落を形成します。群生するのは淡水なのですね。
末盧国は干潟、(海に面した)湿地帯だったのですよ。すると、末盧はまつろと読み、末蘆だった可能性もあると思えるのです。蘆(あし)は葦(あし)と同じですからね。本字が草書体だったら盧と蘆は見間違える可能性があります。
末盧の盧が、炉なのか葦なのか、どちらが信ぴょう性が高いか? どちらも捨てがたいほどです。

さて、里程論にもどります。
第三の区間は12000里の15%の距離、1800里を残りの距離と考えます。邪馬台国が自至で書かれる終点です。邪馬台国はを奴国を起点に東に描くことができます。1800里=108kmの間隔です。ただし、邪馬壹國に到が使われていませんから、邪馬壹國のさらに東方面に、すなわち四国や瀬戸内海に面した所に餘旁の諸国があります。

邪馬台国は別府あたり!


BブロックはAブロックと起点が異なっています。Aブロックは郡に起点をおきますが、Bブロックは伊都国に起点をおくという、重要な転換がされているのです。くどいようですが、言い換えると、初めは方位磁石を朝鮮の帯方郡において測定し、次に九州の伊都国(吉野ヶ里)に磁石をおいて測定しているということなのですよ。立ち位置のロケーションが違うのです。至と到の文字をたがえている理由ですが、どのようにこれを読み取るのか、こうして図式化することで分かります。到の文字配列を構造的にとらえるのです。到の文字が、目的地ついたという完了を示したものだという説は当たっています。


伊都国を始点に東南100里のところに奴国があります。その奴国を起点に東に転じて、不彌国、投馬国、邪馬台国が東方向に並びます。これは、だいたいの状態を表したものです。

Bブロックの初めの奴国は、それでも、12000里より100里先になりますが、東南線上であることに変わりはありません。
奴国は伊都国から100里ほど延長したところにあるのです。そこで、東南線上100里、わずか6kmの所ですから、奴国と伊都国はきわめて近いところにあります。そして奴国がその最南端に位置するのです。あとで触れることになるのですが伊都国の津(波止場)は久留米の筑後川の沿岸にありそうです。


12000里の始点は帯方郡で、大同江の南支流の傍、沙里院付近、終点の女王国は九州の吉野ヶ里です。つぎに、伊都国を始点にして、奴国を東南線上に、次に奴国を起点にしてからは東方向に変わり不彌国、投馬国、邪馬台国と東の線上に描くことができます。


さらに、この鉄則を紐解くには、けっこう精妙でトリッキーな表記が潜んでいることを知らねばなりません。~余里という「余」ですが、付けているところと、付けていないところがあるのです。
女王国から邪馬台国までの二点間の距離は1800里

区分距離の合計は、総距離に一致する。自郡至女王國萬二千餘里での総距離は、12100里。地域ごとの距離は、12100里を案分した値です。


  Aブロックには、東南に並ぶ国々は帯方郡治所ー狗邪韓国ー對馬國ー末盧国ー伊都国の5ポイントだけでした。それぞれに、7000余里、1000余里、1000余里、1000余里、500里の5つの距離が書かれています。合計10000余里+500里になります。それぞれ、10000里までは余里が付属しています。そこで余によって切り捨られた距離の数値を足してみましょう。余を15%に換算しますと、その総距離は、11500里になります。最後の500里には余がついていません。そのまま、500を足しこんでみます。11500里に500里を足せば、ちょうど12000里になります。

~余里の余は15%に相当する実数。


餘(余)を文章のレトリックでは、「あまりである」とか、「ほどである」と訓読しますが、プログラムには馴染みません。余を「~より少し多い数」のように解して計数化するわけです。余の相当分は15%増しにしてみます。

こうして、12000里の終点は伊都国【吉野ヶ里】だとしますと、Bブロックは、【吉野ヶ里】よりも北側にあり、かつ、東南のラインからは東側にまとまっている国々です。ところで12000にも余里がついています。
区分距離の総和は、12000里に一致しました。12000は固定値で、結果値と定義します。
余がつくのは、なんらかの別な意図があってつけたのです。それは、その先の延長された距離と考えます。
12000余里の余里が切り捨てた数値は、15%の1800里です。 Bブロックの最終地は【邪馬壹國】ですので、【女王国】と【邪馬壹國】の距離は1800里となります。
 すでに計算済みの値ですので、ここでは詳しく述べませんが、一里はメートルの長さに換算しますと、ちょうど60mになります。郡ー女王國まで12000里、そのGPS上の距離は723kmでした。一里60.25mです。郡からから狗邪韓国(釜山)まで、8050里、486kmです。やはり、60.37mです。誤差が一メートル以下です。(8050里は7000余里の値)、狗邪韓国から末盧國までは、11500-8050で3450里になります。これは海上ですよ。GPSでの距離は206kmです。演算結果は、59.71mです。海上の区間での距離も、60mから1m以内の差しかありません。

12000余里の余里が切り捨てた数値は、15%の1800里でしたね。1800里は一里60mでしたから約108kmになります。【奴国】から方位90度、すなわち東108kmは、大分県大分市になります。結論としては【邪馬壹國】は、九州の東北海岸に臨む所になります。ここは、よくよく吟味すると郡の領域の最遠地になります。

一里60mのリザルトは東夷伝の中で適用できる、有効な距離です!

 すべてGPSでの距離測定によって得られた実際の距離数を区間の里数で割れば、一里の仮数が得られます。この数値は一里60mです。誤差は小数点以下です。この方位は東南で方位角は143度です。
磁方位が3世紀半ばには磁方位東偏8度と仮定して、東南135度に8度をプラスしてあります。もし、コンパスを使用していたとのであれば、143度の方角が正しいということになります。シミレーションの結果は「あまりにもできすぎ」と唖然とするほどです。このラインがソウル、金海(キメ)、対馬北島、糸島前原、吉野ヶ里公園の上をぴったり通過するのです。下の画像は、中心点を【沙里院のやや北の街道】に、143度の方向に直線をGOOGLE MAPが描画したものです。
魏志倭人伝東南1200余里





では、上の表が出来上がるまでのプロセスをご覧ください。論より証拠ということですよね。
GPSでのMAPは再現性があります。ご自分でシミレートされる場合、
https://user.numazu-ct.ac.jp/~tsato/webmap/sphere/concentric/で試してください。これよりも、もっと精度の高い地図システムを使えるプロバージョンがあるのでしたら、吉野ヶ里から方位を322.6°距離720kmで実行してください。
グーグルの方位測定WEBでは3桁までなので、帯方郡治所の正確な位置はだせません。
323°では緯度38.24経度125.26
322°では緯度38.19経度125.1
GoogleEarth で緯度経度を入力して周辺サーチをしてみるのも良いでしょうが、なんであれ北朝鮮の地理ですので、そこに何があるのかよく分かりません。
帯方郡治所はこの間にあります。私は現在【沙里院】に比定しています。沙里院が港であることに気付いている人はあまり多くありませんが、50m幅の用水路が2kmほぼ直線にあり、南大同江に大型船が出入りできます。

スライドでお見せすることができませんが、PDFファイルにして格納しています。下のロゴをクリックしてください。ブラウザでPDFファイルが見られるように設定しておいてください。
開始するには、下の画像の上をクリックしてください。



 上記の大ロゴをクリックして、ご覧になりましたか?せっかく得た結果ですが、この里数の計算値は、倭人伝の親ブロックの中でしか使えません。この関数内だけに有効な変数ですから、ローカル定義です。このブロックの外にでれば、値はリセットされてしまいます。 しかし、Aのブロックの中は、里数はすべて直線距離だったということは、演算の結果からも証明されたのです。では、韓伝ではどうでしょうか。同じような数値が適用できるのでしょうか。まだ、未確認です。しばらくしたらトライしてみます。 さて、三国志の全般は長里で書かれています。中国の領域は絶対里数、公里で書くのが大方のルールだったのですが、中国の領域外は里数を図るすべがありません。西域では、だいたいラクダの商隊が一日で進む距離が30kmでしたので、ほぼ30kmごとに隊商宿(キャラバン・サライ)が置かれていました。 いずれにしても、公里(絶対値)を使って測ることはできません。それでも、里数で距離を示すのが正史のルールだったら、どうしたらいいのでしょうか? ここでは詳述しませんが、西域伝では、このキャラバンサライの間を100里として里数長安の里数の3分の2と定めました。いわゆる短里は使われていません。
後漢書の范曄は西域伝や魏志倭人伝のローカルな里数がよくわからなかったに違いありません。ですから、後漢書をサブテキストにするととんでもないことになります。後漢書の史料批判はあとでたっぷりいたします。後漢書とその後の正史を信用して魏志倭人伝の里程解釈にあてこむのは愚の骨頂というものです。まあ、范曄という人は、まさに、いい加減な人物だったのです。

一里60mの検証してみた!

全長12000里 総距離723kmのリザルト値は一里60.25mでした。この距離は後漢での一里415mの14.518%になります。アバウトには、14.5%。

では、韓伝ではどうでしょうか。同じような一里60mの数値が適用できるのでしょうか。韓伝に書かれた里程には倭人伝で導き出された距離比定値を論理的には適用できませんよね。烏丸鮮卑東夷傳の内容は、以下のような構成となっています。1)夫餘、2)高句麗、3)東沃沮、4)挹婁、5)濊、6)韓7)、倭、
 上記の配列では韓伝は倭伝より先に書かれています。ただ、東夷伝の流れでは後続の倭人伝が、前に書かれる韓伝の里数にも用いられているとしたら、これはかなり変則です。倭伝で詳細を得た結果を、韓伝に適用できるのかは実際に検証するしかありません。だた、倭人伝のカテゴリーの12000余里、その中に韓土も含んでいます。下の定義が上の定義を決めるのですから。ここで止まって、よく、考えてみると、ひとつ大きな見落としがあったのですよ。小さいところは見えても、大きなところは見えないのです。韓伝とか倭人伝とかのインデックスは、後世の学者が便宜的につけたもので、原文にはないということです。そこで気づくことは、韓伝と倭人伝と区別したのは間違いで、最初から一つのロケーションのカテゴリーで書かれていたのです。もし、改めて編成し直すと、倭韓伝と一括りにすべきだったのです。
烏丸鮮卑東夷傳第三十に、「是後倭韓遂屬帶方」とありました。その後、倭韓はついに帯方に属したと言っています。倭韓という、もう一つの大大ブロックが仕掛けられていたのです。
すると、韓伝と倭人伝を、一つのまとまりとして読まなければならないのです。


東夷傳に相当する序文------330字



倭韓遂属帯方  
韓伝------1521字
+  
倭人伝------1984字
 
   
上の大大ブロックのイメージですが、もともと韓伝と倭人伝は一つの倭韓伝として読むべきだったのです。

『魏志東夷伝』 韓伝
「韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里有 三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓 辰韓者古之辰國也」

「韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。辰韓はいにしえの辰国である。」
上記の、方可四千里にはわたしが割り出した定数である一里60mは適用できるでしょうか。まずは、朝鮮半島の東西の海の間を試しに測定してみることにします。一里60mですと、4000里は、240kmになります。
です。下の図を見ると、結果がでました。一里60mは倭韓の両エリアで適用できるのです。

辰国というのは、今の牙山市あたりにあった月支国を王都にして三韓を統べる国でした。この大王は中国西域から渡来した王・準氏でした。その辰国の後が辰韓だというのです。辰韓は弁辰と弁韓を合わせた領域ですから、24か国に分かれていました。弁辰は12か国、後に新羅となります。辰国の王族が新羅の先祖というわけです。どういうわけか慶州に遷宮したということですね。「辰韓者古之辰國也」からは、こうした韓半島の古代国家の由来もつかんでおいた方がよいのですよ。新羅が辰国の末裔なら、新羅が三韓を統一した動機はいにしえの辰国の復興だったとも思えます。
一里60mで検証してみたパート1


一里60mで検証してみた
<從末盧国>東南陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸
東南に末盧國から500里ジャスト、500x0.06という式で30kmです。30キロメートルを描画する!
伊都国を測定する。吉野ヶ里に。


築肥線「美咲が丘駅」から30kmは吉野ヶ里に到達する。

通説の概略図はどこが間違っているのか、もう一目瞭然です。
末盧國の東南に伊都国がありません。なんと原文を無視して東にしているのです。



一里60mで検証してみたパート3
対馬を測定する。方400余里
対馬方400余里
赤い線は27.6km。(余を15%増しにします。400余里は460里とします。(400x1.15x0.06=27.6km)
「大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶㠀方可四百餘里」、対馬は北部を上島(かみじま)、南部を下島(しもじま)と言います(現在名)。方四百余里は、余がついていますから余の公式で絶対値、460里として計算します。一里60mとして、27.6kmです。下島にぴったり当てはまりますが、対馬全体の天地幅にはとどきません。原文をよく読むと、ヒクという大官とヒナモリという副大官が居る所の絶島(切り離れた島)が方四百余里、と書いているのですね。下島だけの距離だったわけです。魏志倭人伝では、大官が下島に居たことが記録されているのです。対馬が上島と下島とがあり、代官は下島におり、下島の大きさが方400余里です・・・というのです。さすがは陳寿さん、神技っていう感じですね。あっぱれ!
(江戸時代ですが下島の東海岸の厳原(いづはら)が対馬藩の城下でした。)魏志倭人伝は、どこも混乱していないですね。
対馬、方4千餘里が下島だけだった・・・みなさん拡散お願いします。

壱岐を測定する。方300里
壱岐方300里黒い実線が一辺18kmの正四角形。
一支国、壱岐島、「方可三百里」、300里ちょうどです。(~余がありません。)一里60mで300倍は、18kmです。バルーンとバルーンの線は、18km、南北でとった一辺の線。一里60mだと、ぴったりですよ。あっぱれ!壱岐國の王都は”前の原遺跡”に違いないでしょう。方形とは「全ての角が直角の四角形」で、方可三百里とは一辺を300里の正方形と文字通りに解釈するのが自然です。とりわけ、300余里とは記されていないので300を実数として計算できます。壱岐島での里数が何メートルに相当するのか測るにはもっとも適当な材料です。壱岐島は南北18km、東西は16kmです。壱岐島は山あり谷ありですから、歩行距離を測ったものではありません。峡谷のような地形で距離を計測するには古代中国でも長いロープで測るという原始的な方法しかありません。方里は直線距離であって、道程ではないのです。
壱岐島は南北18km、東西は16kmです。信用されない方もおられるので、下に2枚のMAPで証明しておきます。
さて、壱岐島を例にとると、南北のほうが長いわけです。自然の島に真四角な島があるわけはありません。では、方300里といった書式は、正四角形の一辺を長い方の値をとっていると言えます。これは一つの法則だと考えられます。

上、南北18km。

下段、東西16km。
一里60mで検証してみたパート4
韓国、方四千里を地図で描画する。
『三国志魏書』馬韓伝
【 韓在帶方之南 東西以海為限 南與倭接 方可四千里
一里0.06kmで方4000里、240kmを描画してみます。餘里とは書かれていません。
狗邪韓国を起点に方4000里、ちょうど240kmを円で描画。ソウルの南、水原(スウォン)まで。ソウルは韓の領域に含まれていません。つまり、ソウルには伯濟国があり、韓には入っていません。韓地は水原(スウォン)より南側あたりになります。
韓を測定する。方4000里
韓国東西400里
インチョンを始点に方位98度、方4000里、即ち240kmの線を引いてみます。
左右方向(四方の一辺)は、黄海(西海)と日本海(東海)との間の距離は240kmと、
ちょうどぴったりです。

韓国方四千里

一里60mで検証してみたパート5
帯方郡治所を測定する。
金海(キメ)市には大駕洛國太祖王妃普州太后許氏維船之地(대가락국태조앙비 보주태후허씨유주지지)と刻まれてい祠があります。また、金官伽耶国王系図での太祖のスロワンヌン)があります。7000余里は1.15をかけて実数の値=8050里とします。8050x0.06km=483kmです。金海(キメ)市から半径483kmを円を描画します。
郡治所の位置を狗邪韓国から逆描画してみるという作業です。この円周が沙里院あたりをさしています。一里60mが正しい証明ができたことになります。また、同時にピョンヤンの南の赤い丸、ここが沙里院を指しています。すなわち、沙里院周辺が帯方郡の郡治所跡なのです。関連して言えることは、郡がソウルだと考える人には里数の解明が不足しています。また、谷本茂氏が発表した一寸千里の法の公里[短里](76m~77m)を用いることはとうていできないからです。ここにおいて、多くの過去の邪馬台国論が郡をソウルとしている説は破綻します。郡はスタートの起点ですから、ソウルを起点にした邪馬台国里程論は成立しないことは明らかです。
帯方郡治
平壌は●です。平壌の南100kmぐらい(赤い丸)が帯方郡治所になります。このシミレーションの意味は大きいです。東夷傳全体が一里60mで適合するということです。
一里60mで検証してみたパート6
帯方郡と韓国(馬韓)との境を測定する。


つぎに、方4000里の対角線の距離を見て、帯方郡と馬韓の国境を測定します。
上の図の方4000里の対角線の長さを出す式は(対角線)=(1辺)×√2です。√2の値は1.414、式のリザルトは5656.85里です。郡ー狗邪韓国の距離7000余里=8050里を引数にしてリザルトをだします。
実数8050-5657=2393の結果値は、郡と韓国の国境までの距離となります。2393里はkmに直すと、2393に0.06を乗じて143.6kmです。483km-143.6=339.4km 金海から339kmが韓国と帯方郡の国境です。下の図のピンクの円周の下が韓国の国境です。意外にも、ソウルの西北30kmぐらいに帯方郡の国境が迫っていたのですね。
以上、一里の単位値が0.06kmであることを証明した。

帯方郡治所の検証
沙里院

帯方郡郡治所は【沙里院】でいいでしょう。=初めて見る帯方郡の起点ですかね。魏志倭人伝の郡より12000余里のスタート地点です。

黄海道地域に分布する楽浪・帯方郡の塼室墓(せんしつぼ)が分布する地域と一致すると思われます。すなわち、黄海北道燕灘郡(よんだんぐん)金鳳里,黄海南道信川郡セナル里,黄海南道三泉郡楸陵里,黄海南道殷栗郡雲城里など、このエリアは中国貴人の墳墓が700基もあると云われています。

黄海南道(上)

帯方郡は《晋書》の地理志に拠ると,帯方,列口,南新,長岑(ちようしん),提奚(ていけい),含資,海冥(かいめい)の7県を統轄したことになっていますが,この7県が現在のどこに比定されるかについては列口、帯方県以外はほとんど不明です。






帯方県については,現在の黄海道鳳山郡沙里院面にある唐土城が旧帯方郡治所址と推定され,そこからは多くの瓦,塼,泉(銭)などが発見されており,それらは旧楽浪郡時代の出土品と同種である。特筆すべきことは,その付近の墳墓群に,1912年〈帯方太守,張撫夷塼(ちょうぶいせん〉という銘のある塼室墓(せんしつぼ)が発見されたことで,その結果,在来不明であった帯方郡の位置を推定する重要な手がかりを得ました。人口は帯方県に多く、帯方県が一番繁栄していました。イ・ビョンドはまた1911年、日本人学者らが黄海道,鳳山郡で発掘した ‘帯方太守 張撫夷の墓’ を根拠に帯方郡の治所である帯方県が鳳山郡だと規定しました。

楽浪郡、帯方郡の地里は楽浪塼室墓の研究が参考になります。楽浪塼室墓の集中している場所が郡治所のあった場所として有力です。知っておくとためになる帯方郡の知識です。高久健二氏の研究論文 PDF転載 下の大きなロゴをクリックしてでPDFを参照してください。
楽浪・帯方郡塼室墓の再検討 [論文要旨] 朝鮮民主主義人民共和国の平壌・黄海道地域に分布する楽浪・帯方郡の塼室墓について,型式分 類と編年を行い,関連墓制との関係,系譜,および出現・消滅の背景について考察した。 【キーワード】楽浪郡,帯方郡,塼室墓,横穴式石室 はじめに ❶塼室墓の分類と編年 ❷塼併用木槨墓と塼室墓の関係について ❸塼室墓・石材天井塼室墓・横穴式石室墓の関係について ❹塼室墓の系譜 ❺塼室墓の出現と消滅の背景 おわりに 高久健二 TAKAKU Kenji
「黄海南道安岳郡路岩里古墳では「建武八年西邑太守」「西邑太守張君塼」銘塼が発見されており,被葬者が西邑太守の張氏であったことがわかる。官職の西邑太守については判断材料がないが,後趙の建武八年(342年)という楽浪・帯方郡滅亡後の年号をもっているので,遼東韓玄菟太守領佟利と同様に虚号の可能性もあるだろう。かつて安岳郡は銀川郡を含んでおり大同江に面していた。漢四郡の帯方郡を安岳に比する場合もある。東に遂安郡・延山郡、南に瑞興郡・鳳山郡、西に沙里院市・黄州郡、北に祥原郡と接する。」
オレンジ色のエリアの北側が銀川郡で、分割前は安岳郡(Anak)だった。

上の地図はMAP上に主要な地域をバルーンで示しています。線はソウル方向です。
「1949年に黄海道が南北に分割されて黄海南道(ファンヘナムどう、朝鮮語チョソングル表記:황해남도〔ファンヘナムド〕)となり現在に至っています。
安岳郡 - 안악군【安岳郡】Anak-gun (アナク=クン)は平野の農産物の中心地で米、麦類、トウモロコシなどを産出し、付近は鉄産地で赤鉄鉱を産出し鉄鉱石は黄海製鉄所(松林市)へ送っていました。郡内には高句麗(こうくり)時代の壁画古墳の安岳1号、2号、3号墳があり。2004年、世界文化遺産に登録されました。

黄海南道、道部地域。
安岳3号墳 1949年朝鮮民主主義人民共和国の黄海南道安岳郡安岳面兪雪里で発見された高句麗時代の壁画古墳。複雑な石室構造をもつ。石室には被葬者夫妻の座像,舞楽図,騎馬行列,文人・武人像,牛舎・馬厩や装飾文様が描かれ,壁面には,357年の墓碑銘ものこる。被葬者は高句麗に亡命した燕の武将冬寿とする説が有力である」(百科事典マイペディアの解説)

楽浪土城は楽浪郡治所(楽浪太守のいた所)ですが、帯方太守がいた帯方郡治所はどこでしょうか。
上の図を見る限り、智塔里土城が有力です。智塔里遺跡(ちとうりいせき)
朝鮮民主主義人民共和国,黄海北道鳳山郡智塔里にあり,主として櫛目文土器(新石器)時代から原三国時代にわたる遺跡。瑞興川右岸の沖積地にあって,そこに残る古唐城もしくは唐土城を帯方郡治所跡とする説が早くからあった。この土城は現在,智塔里土城と呼ばれているが,1954年にその付近に原始の遺物が散布することが知られ,57年に発掘調査された。土城内の第I地区では,櫛目文土器時代の平面方形の竪穴式住居跡1基が検出され,そこから櫛目文土器や各種の石器が出土している。(世界大百科事典 第2版の解説)
一方、公孫氏の総都督はどこでしょうか?
さて、公孫の襄平城、いまの遼陽市です。公孫氏が帯方に総督府をおいていたとしたらそれは公孫流の城跡となるでしょう。ある築城形式、それをみつけることは容易ではありませんが、私なりの推定地はオレンジ色のバルーンの所です。後漢の帯方郡治所とは15kmほど離れています。帯方郡は7県に分かれ、帯方県 列口県、南新県 長岑県、提奚県 含資県、海冥県でした。また、大同江はかつて列水とも言われていましたが、大同江河口の南河岸に列口という地名がありますが、現在に残った地名と思われます。鉄の産地でしたから、とうぜん積み出す港が必須ということになります。南大同江に隣接していて水路がなければなりません。
環濠の形が人工的な感じを与えます。単なる川が合流してできた蛇行でしょうか?
吉野ヶ里の北郭の外観によく似ています。

この環濠は未調査のため遺跡調査がなされていません。ただ、安岳郡の真ん中平野部にあることが重要でしょう。



邪馬台国の位置は「東行」で決まり!
投馬国と邪馬台国を測定してみた
 邪馬台国のロケーションは、其南という方位だけで決め手を欠いて未解決問題でした。今回、下の子ブロックの中に、孫ブロックをつけて、もう一つ、決め手となる条件があることを示してみます。
それは、「行」の文字です。東行至不彌国の行ですが、「東に行きて不彌国に至る百里」と、訓読するから分からなくなるのです。行は、東に並んで・・・とか、東に列している・・・とか「行列」しているという意味で捉えます。そうしますと、「東に不彌国、投馬国、邪馬台国が列をなしている」という条件ブロックだと見ることができます。
方向を見る立ち位置は奴国で、そこから東にABCと並んでいるという状態なのです。
東至不彌国ではなく、東行至不彌国と、行の一字を挿入していることに着目します。
「行」は、日本語では「行く」、英語では[Go]と訳しています。中国語では「Go]の意味は「去」です。
魏志倭人伝では、去が一か所使われています。
「又有侏儒國有其南人長三四尺女王四千餘里」
「また侏儒国があり、その南に位置する。人の身長は三、四尺で、女王国から離れること四千里である。」というのが通訳です。去を離れると訳しています。うまく訳していますねえ。離れているなら、「離」でしょう。去は「行くこと女王國四千里」と訳すのがいいのです。
つまり、去が日本語の行くにあたるので、その他の魏志倭人伝の「行」は行くと訳してはいけませんね。では、どういう意味に訳したらよいのでしょうか。

行は静的述語です。形容動詞ともいうのでしょう。西域伝に少なからず使われていますので用例をもって説明したいと思います。『魏略西戎傳』から行の用例として二行抜粋してみました。これは、行という意味が「行列している」というのが本来の意味だということ教えてくれます。

その1、「南道西,且志國、小宛國、精絕國、樓蘭國皆並屬鄯善也。」
「南道を西に行列している且志國、小宛國、精絕國、樓蘭國はみな鄯善(ローラン)に並属している」 このように、訳すのが適切なのです。

その2、「中道西尉梨國、危須國、山王國皆並屬焉耆,姑墨國、溫宿國、尉頭國皆並屬龜茲也。」
中道を西に沿って並んでいる尉梨國、危須國、山王國は皆、焉耆(えんぎ)に並屬している。姑墨國、溫宿國、尉頭國は皆、龜茲(クチャ)に並属している」
*焉耆國(えんぎ、漢音:えんき、拼音:Yānqí)西域都護治所の北東400里、中央アジア・タリム盆地の北東縁にある淡水湖、ボステン湖(中国語: 博斯腾湖)の周辺にある。焉耆国は匈奴や烏孫のような(遊牧民族)ではなく、城郭に住む魚農民族であった。

その1では、行列していると訳し、その2では、沿って並んでいると訳しましたが、どちらも同じです。どちらも、「西行」でもって、国々が東から西に並んでいる状態を示す静的述語となります。

魏志倭人伝の「東行」という二文字は次のBブロックの、孫ブロックにあります。
東に列をなす・・・、東に沿って並んでいる、東に行列している・・・とか訳すのが正しいのです。並ぶのならば、当然、複数国でなければなりませんよね。
ここがすごく重要で、この説の醍醐味なのでが、つぎの原文によくよく目を通してください。東に在るのは不彌國だけじゃないんです。複数国にする必要があるのですから、投馬國と邪馬台国も含めなければなりません。そこで、はじめて行の条件がなりたつのです。くどいようですが、行の一字を条件式として見たうえで、図式化するということです。

子ブロック_B

<自伊都国>東南至|奴國百里□官曰兕馬觚副曰卑奴母離;二萬戸
孫ブロック

<自奴国>東至不彌國百里|官曰多模副曰卑奴母離;千餘家

<自郡>南至投馬國水行二十日|官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸

<自郡>南至邪馬壹國|女王之所都水行十日陸行一月/官伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸

 自女王國以北其戸數道里可得略載
 
 Bブロックを現代語訳する!
「伊都国から東南にある奴国まで100里あります。兕馬觚という長官と卑奴母離という副長官がいて、二万戸持っています

奴国から不彌国と投馬国と邪馬台国が東に列をなしています。(始めに列する)不彌国は百里で、長官は多模、副長官は卑奴母離で、千余家の戸数を持っています。(次に列する) 投馬国は、帯方郡から南に水行20日ほどの距離で、長官は彌彌、副長官は彌彌那利といい、五万戸以上持っています。 (次に列する)邪馬台国は、女王が封地として支配している国で、帯方郡から水行10日陸行一か月で、伊支馬、次に、彌馬升、次に彌馬獲支、次に奴佳鞮という長官がいて、およそ7万戸以上持っていると言えます。

女王國から以北はその戸数と道里を得ることができたので、略して載せました。
(自女王國以北其戸數道里可得略載)

① 女王国=伊都国の等式が成り立ちます。また、奴国から東に転ずる方位と別に女王国東というフレーズは100里ははなれた平行線となります。
②帯方郡(曹魏)の総督府が伊都国になります。

図A:
また、有は人称が主語になっていますので、「持っている」と訳しました。これは、存在の有ではなく、所有の有構文なのです。可は可能の可で、~といえる、という可能の表現の調子で訳しました。
 訳には表現されていませんが、
1、郡から東南のライン
2、奴国から東のライン=女王国以て北のライン
3、郡から南水行10日陸行一月のライン
3、郡から南水行20日のライン

方位の要素が3つあるのです。1-3でに比定地は九州の中にあって、畿内にまでとどかないのです。

奴国を起点に方位を東に取り直すのです。新規に方位をとるということは一番重要ことです。Bブロックを読み直してください。ここにAブロックとは違った分岐があるというです。
 奴国の東南6km 起点として、方位93度、108kmのラインを引いてます。Bブロックのリザルトでは、奴国から方位ポイントに取り直すのです。
こうして、上の図のようなラインが引けます。この到達点は、大分市西市街周辺になります!

上のBブロックを補注しながら訳すと次のようになります。
「伊都国から東南、奴国まで100里あります。兕馬觚という長官と卑奴母離という副長官がいて、二万戸持っています

<奴国から>東に、不彌国と投馬国と邪馬台国が列をなしています。不彌国は100里で、長官は多模、副長官は卑奴母離で、千余家を持っています。 投馬国は、帯方郡から南に水行20日ほどの距離で、長官は彌彌、副長官は彌彌那利といい、五万戸以上持っています。 邪馬台国は、女王が封地として支配している国で、帯方郡から水行10日陸行一か月離れていて、伊支馬、次に、彌馬升、次に彌馬獲支、次に奴佳鞮という長官がいて、およそ7万戸以上持っていると言えます。

女王國から以北はその戸数と道里を得ることができたので、略して載せました。

奴国から東に国が並ぶのか検証してみます。

ブロック内は女王国を起点にしていますが、この線を図式するために帯方郡からの起点にした二線が交わる所というように、三角形の計算式がシステムとして組み込まれています。
はじめに、南至投馬國水行二十日の水行20日は距離に換算することができます。水行十日陸行一月も表現を変えた距離です。a+B+108kmで計

方位素語とは、方位を示す最小の語ということで、分析します。
南という単語は、12カ所
東は10カ所
北 5カ所
南北 が2カ所
西 はゼロ
東北 ゼロ

方位線の数は合計6種類になります。
魏志倭人伝の全文は方位線は8方位以上必要ありません。
整理すると以下のようになります。
南=8
東=6
北=3(北岸=1・以北=2)
東南=4
南北=2
乍南乍東1
西=0
東北=0

南が圧倒的に多い方位素だということは、北方のある地点から観察していることが明らかです。西と東北がありません。北が3カ所ありますが、北岸、以北の複合語用例になっています。
以て北は、緯線のような水平線です。南北は経線のような垂直線です。従って、『乍南乍東』は経線と緯線の組み合わせです。ここで気づくことは、内角90度の直角三角形の図形が描けます。底辺、高さ、斜辺の一辺が分かれば、『三角関数』を使って長さを計算できます。乍南乍東の総距離を求めるには、高さと底辺がわかればいいわけです。下に図解しています。





奴国を起点に不彌国・投馬国・邪馬台国のラインを表記していると見ます。もともと奴国はi帯方郡から東南のライン上にあります。では、南水行10日陸行一月のラインはどう関係するのでしょうか。邪馬台国と投馬国は奴国から列しているますが、水行10日陸行一月のライン、水行20日のラインがオーバーラップしていると考えます。
水行10日陸行一月も距離に置き換えます。


東の方向の方位をきめる!




1、郡から東南のライン=C
2、女王国から東のライン=A
3、郡から奴国までの南北距離=B
4、歷韓國乍南乍東の乍南の乍南の通算合計が辺B、乍東の通算合計が辺Aとなります。

こうして、女王国東のライン(A)が描けます。【伊都国=吉野ヶ里遺跡】より東に延長すると、久留米市ー日田市ーを通過し、杵築に到達します。久留米市ー日田市ー大分、このラインが女王國以て北のラインになると考えられます。

<自郡>南至投馬國水行二十日、<自郡>南至邪馬壹國水行十日陸行一月は、ラインBになります。ローカルな倭地固有の里数を日数を以て表記したことになるのです。船行一日=Xという距離の単位とみるわけです。


水行一日37.8km陸行一日14.4kmの算出方法


 


Bの距離は高さh=9663里になります。下の図は帯方から投馬国までの距離を求めるための参考図です。この不等辺三角形の高さhは9663里となります。右の斜辺Bは12100里、角度cは127度、これを代入して左の斜辺Cを求めます。投馬国は南水行20日ですから、水行一日の里数が出すことができます。


邪馬台国を大分、投馬国を日田という前提で計算します。
①辺a右、邪馬台国まで、12000X0.15(12000余里の余の値)=1800里
➁辺b左、奴国ー日田の距離は上の1800の45%、811里とします。(投馬国=日田を前提とします。)

 投馬国
 邪馬台国
帯方奴国間すなわち斜辺Bが12100里になっていなくてはなりません。(伊都国まで12000里)
辺Bは帯方ー奴国間、12000里+100里、12100にたいして、12099になっていますのでOKとします。
結果:
右図、辺Cが帯方ー投馬国間の結果値です。12604里です。
まず、12604里が水行20日の里数とし、水行一日は630里、小生の定理一里0.06kmで換算すると水行一里は37.8kmとなります。

邪馬台国は水行10日分、6300里を左の辺C13260里から引きます。結果値は6960里です。この値を陸行一か月、29日で割ります。陸行一日は240里、kmでは14,4kmです。



底辺aは郡から奴国までの南北距離にます。
水行~日 =水上のA点とB点を結んだ(直線)距離を表す単位//水行一日は37.8km(帯方ー投馬国まで全長756km)
陸行~日=陸上のA点とB点を結んだ距離単位//陸行一日は14,4km(帯方ー邪馬台国まで全長796km)
*29=陰暦の朔望月
*馬行一日=馬に乗ってA点からB点まで到達する距離単位=164.12km*はじめにの章に詳述




倭奴国は倭国から遠く離れたの極南の境にある。

 親ブロックは、はじめから「郡至女王國至萬二千余里」と条件をはめているのですから、女王國は終点でした。ですから、孫ブロック内の国々は、みな女王國=奴国よりもより北にあるのです。 わたしは、奴国を久留米市の筑紫川の東岸付近と比定します。


この孫ブロックには、さらに、子の上位ブロックの条件が重なります。「女王国よりも北にある」というのです。 奴国も投馬国も邪馬台国も戸数を書いていますよね。ですから、「女王國以北」に当てはまるのです。 方向の分岐式として、奴国より東で、投馬国と邪馬台国は帯方郡から南で、女王國より北の領域にあるのです。
具体的に言えば、久留米市ー国東半島南部のラインよりも北にあるということです。下の図図をご覧ください。


東のラインは国東半島の南側の海岸で、東に海が開けているところです。邪馬台国は、間違いなくこの周辺にあります。


奴国を起点に方位を東に取り直すことは一番重要ことです。Bブロックを読み直してください。ここにAブロックとは違った分岐があるというです。
 奴国を起点として、方位90度のラインを引いてます。Bブロックのリザルトでは、奴国から方位ポイントに取り直すのです。108kmは12000余里の余の分で15%の値です。

「女王国以て北」がこのラインです。
j「女王国以て北」という表現は魏志倭人伝には2カ所でてまいります。
一、「自女王國以北特置一大率檢察」
二、「自女王國以北其戸數道里可得略載」
女王国の北にはとくに大率を置いて諸国を監察しています。では、その大率がいる諸国とはどこでしょうか。
二、には女王国から北の諸国の戸数や道里を略して記載することができたといっていますから、記載された国は、①對馬國➁一支国③末盧國④伊都国⑤奴国⑥不彌国⑦投馬国⑧邪馬台国と8カ国になります。さて、このうち伊都国には加えて郡使が常駐するのでしたね。以上の8か国が女王国以て北にある国々です。まあ、大率が戸数などの調査が行い、租庸調など税を課していたでしょうから、略して記載したんですから、もっと詳細な情報がすでに作られていたと考えられます。「都鄙の八則や都督の役割などを参考にすると、みな税や労役の政治もしていますよ。、

この赤い線が「女王国以て北」の区分ラインです。投馬国も邪馬壹國も、そしてまた狗奴国もみなこの線より上、北側になければならないのです。
こうしたことから、やっぱり邪馬台国は豊国の首都ともいえる宇佐に比定したいのですが、シミレーションの結果では大分になりました邪馬台国が7万戸ほどの人口を抱えるとなりますと、大分になります。やはり大分が地域学的にも有力になるのでしょう。国東半島、別府、大分は九州の中で文化や言語、早い話筑紫とは文化が違うと言われています。差別じゃないですが、九州じゃ公然の知られた事実なのですよ。秦氏が渡来し定住した最初の場所が豊国、大分県です。7世紀には播磨、奈良、京都に移動し、やがて平安京を築きました。さらに関東方面にも移動しています。いずれも養蚕で栄えた地は秦氏の末裔の可能性が高いのです。
九州から移動したのですから、九州が先に栄えていて畿内はその後になります。当時、丹の採掘でもっとも繁栄していたのは阿波徳島、伊予國だった可能性があります。わたしは伊都国の文字に伊の字があるのが気になってしかたありません。姫島は阿波や畿内へ向かう瀬戸内海航路の出発地であるばかりか、豊後水道を南に向かう航路の出発点でもあり、海路の経由地でした。


邪馬台国は大分市にあった!!上原館跡あたりに到達しています。
方位を90、真東にとると別府市ですが、108㎞の終点は別府湾の海上に抜けてしまいます。地域学的にも港が河に置けることも加味しないといけませんから、別府よりは大分の方に地の利があります。別府は水銀鉱山がありましたから、最有力地でしたが、大分にもあったようです。

図A
図B

図Bの緑の線は、奴国を起点にしたまひがしの方位線です。大分市を東西に通過しています。図Aと対比すると地域学とも一致点があります。ただし、距離は120kmとなります。
地域学からは、邪馬台国大分説が圧倒的に有利です。縄文から弥生にかけての遺跡が多いことが挙げられます。また、交易での良港があったと想定できます。



奴国が女王の支配領域の南端


女王国の定義とその特殊的性格について。

1)丗有王皆統屬女王國郡使往來常所駐;倭には三十人の王がおり、みな女王国に服属している。帯方郡の使いが往来していて、つねに女王国に駐在している。
2)自女王國以北其戸數道里可得略載;女王国の以て北にある国々はその戸数や道里はだいたい記載できた。
3)奴國此女王境界所盡; 奴国が女王の(支配している)領域の尽きる所である。
4)女王國東渡海千餘里復有國皆倭種;女王国の東(の地)から渡海し千余里ほどのところに再び国(日振島)があり、その人々は皆倭種である。
5)自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國;女王国から北には、(女王は)特別に大率を置き、諸国を検察しており、他の諸国はこの大率を畏れ憚(はばか)っている。大率は常に伊都国で治め、国の中での立場は中国における皇帝の刺史のようである。
6)王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯;伊都国の王が使いを出して京都(洛陽)・帯方郡・諸韓国に使者を送るとき、および、(伊都国に駐在する)郡使が倭国(帯方郡)に使いをだすとき、皆(王・大率・郡使ほか)全員で波止場に出向いて、奏上書や献上品を点検し、詣でた際に女王との間にくいちがいがないようにする。

1)上の6項の訳をお読みください。「伊都国の王が使いを出して京都(洛陽)・帯方郡・諸韓国に使者を送るとき、および、(伊都国に駐在する)郡使が倭国(帯方郡)に使いをだすとき、皆(王・大率・郡使ほか)全員で波止場に出向いて、奏上書や献上品を点検し、詣でた際に女王との間にくいちがいがないようにする。」
5項では女王国が(以て北の)諸国の王を服属させており、郡の使いが常駐していることから上位にある格別な国である。伊都国が遣使をだすとき、郡使も波止場に同行しているので、曹魏の官である郡使も伊都国に駐在していると考えられます。ただ、女王国とは伊都国の別称と館得ます。伊都国は女王国のエリアにある中心的な一国と見ることができ、また重要なのは女王国と伊都国の関係性です。女王国と伊都国をパラレルに見ることはできず、伊都国は女王国のエリアの中にあるということです。
2)以北という表現からは境界を意識できます。
3)女王国の境界が尽きるという表現では女王国の国境の南端として判断でき、つまり、国境を前提にする以上はエリアとして規定できます。
4)以て北の国々に大率を置いていると解釈すると、やはり女王は諸国を含む広域のエリアとしての属性をもつ国を支配していた。
里程論の骨組み
初めに考えなければならないことは国の字はエリアなのか、地点なのか?ということです。
第一に、国境線が描かれた白地図だけでは距離を測ることができません。
隣接した国は国境は隣り合わせで一本の線で描かれますからその距離はゼロになってしまいます。末盧国、伊都国、奴国、不彌国など、それぞれ国境を接していると考えられます。あなた、隣接していますから、領域の大きさとも必要になってきます。かつ、そのエリアのどの地点と地点を結ぶ線なのかが決定しなければなりません。しかし、倭人伝の文脈によって国境線を引くことができません。もちろんそれは不可能です。つまり、エリアの中に特定の地点を定めないとなりません。みなさんは伊都国といったばあいでも土地名・怡土などに比定するわけですから、地点に置き換えて距離をなんとなく取っているのです。国という固有名詞で表現していてもをその中の緯度経度のある地点をもって里呈論を組み立てていることになります。
第二に倭人伝では「どこからどこまで何里」という前置詞をつかった距離の書き方をしています。では、地点から地点を結ばなくてはならないことになります。地図の手法としては国境線だけの白地図に目(測定地点)を入れるとになります。そこで、所説百家争鳴になっているわけです。考古学をはじめとして地域学、記紀などを総動員して説得力を競っているような感じがします。
ところが、『漢書地理志』西域でははこの辺では明快です。
「大宛國,王治貴山城,去長安萬二千二百五十里。戶六萬,口三十萬,勝兵六萬人。・・・略・・・」、このように大宛國の貴山城を基点にします。大宛國はエリアとして、その中の城のある場所を基点にして里数をかいています。
大宛國の貴山城は      
       陽関から4301里(2048km)
       陽関ー都護治所間 2748里(683km)
       都護治所から4301里(1733km)
上記のように貴山城が地点であるので測定が可能なのです。西域では全部の国の城郭名を記して距離を書いていますので解析ができます。貴山城を三角法で地点を地図上に割り出すことが可能なのです。
では、倭人伝はこうした書き方を略して、概略を書くといったかたちになっています。デフォルメしているのです。逆に考えると魏志倭人伝は漢書地理志に近い底本があったはずだと考えるられるのです。

第三に、こうして国の中に地点を推定しなければならないのです。これを比定地と称するようですが、これが百家争鳴の状態なのです。


其餘旁國も女王国の北側

「自女王國以北其戸數道里可得略載」の下の孫ブロックのは、其餘旁國を除いて、固有名詞が20カ国、初出します。これは、陳寿の魏志倭人伝だけに書かれています。ほかの正史にはありません。

自女王國以北其戸數道里可得略載
其餘旁國遠絶不可得詳次
1:斯馬國次有|2:巳百支國次有|3:;伊邪國次有|4:;都支國次有|5:;彌奴國次|;6:好古都國次有|;7:不呼國次|8:姐奴國次有|9:對蘇國次有|;10:蘇奴國次有|11:;呼邑國次|12:華奴蘇奴國次|13:鬼國次有|;14:爲吾國次;|15:鬼奴國次有|16:;邪馬国次|17:躬臣国次;|18:巴利国次;|19:支惟國次|20:鳥奴國次

奴國此女王境界所盡

以下に、新訓読を試みてみますのでお読みください。

女王國から以北はその戸数と道里を得ることができましたので、略して載せました。
其(女王国以て以北の国々)のほかに周辺国が次にあるが、海に分断されて遠く隔てられており、(戸数や道里を)詳細にすることができなかった。①斯馬國(しまこく)が次にあり、②巳百支國(しおきこく)が次にあり、③伊邪國(いやこく)が次にあり、④都支國(ときこく)が次にあり、⑤彌奴國(みなこく)が次あり、⑥好古都國(こことこく)が次にあり、⑦不呼國(ふここく)が次にあり、⑧姐奴國(しゃなこく)が次にあり、⑨對蘇國(たいそこく)が次にあり、⑩蘇奴國(そなこく)が次にあり、⑪呼邑國(こゆうこく)が次にあり、⑫華奴蘇奴國(かなそなこく)が次にあり、⑬鬼國(きこく)が次にあり、⑭爲吾國(いごこく)が次にあり、⑮鬼奴國(きなこく)が次にあり、⑯邪馬国(やまこく)が次にあり、、⑰躬臣国(きゅうしんこく)が次にあり、⑱巴利国(はりこく)が次にあり⑲支惟國(きいこく)が次にあり⑳鳥奴國(おなこく)が次にある。
奴國は此の女王の境界が盡る所です。

*”絶”は断と同意ですが、海によって断ち切られたという意味となり、これら20カ国は九州島ではなく、関門海峡と豊後水道を越えたところ、つまり四国および中国地方にある諸国となります。海と、どこにも書かれていないじゃないかとつっこみを入れる方はアプローチ編の「絶嶋」の研究をご覧ください。
弥生時代の瀬戸内から近畿地方に見られる集落。黒い丸点は高地性集落。下図はその他の国々のイメージマップです。図版出典:「決定版 邪馬台国の全解決」より参考資料。いわゆる余傍國は西から東に次々と列しています。

餘傍國は九州を除いた瀬戸内海の周辺にあった!



高地性集落とは軍事的な防御機能をもった集落といい、一般的な山住みの集落は付随して形成されていたと考えられます。軍事的な性格があるということは、必ず水軍をもち、かつ河川の流域に津(港湾)をもっているという環境を想定しなければならないのです。そこで、上記の図の高地性集落に河川をの有無を加えて考察する必要があります。
瀬戸内海を航行したであろう準構造船の発達について若干の考察:
1.弥生時代中期 丸木舟にまじり船首船尾に船材を付加したゴンドラ形の準構造船(波切りといい船首が反りあがった形))
2.弥生後期 ゴンドラ形に貫型の準構造船
3.古墳時代 固板・貫併用型二股船の準構造船
4.古墳時代後期 帆掛けの大型準構造船
船着き場は条件があった。
準構造船は丸木舟と同様に平底です。満潮時に入港し、干潮時に出航したといわれています。満潮時、河川では逆流現象があります。水量の多い川では河口付近で海水と押し合いへし合いしている様子がみられます。海水が流れ込み、川の淡水と海の海水が交じり合うところを汽水域といいます。古代船が船着き場を作るのはこの汽水域です。わたしは、古代の港(津)は必ず川の河口から数キロメートル上流にあったと信じています。小さく海に真っすぐに直面している川は激しい逆流があるのです。有明海の干満の水位差はとくに大きかったといいます。キール(竜骨)のない古代船では海上の桟橋に横づけすることは困難です。このように汽水域は川によって位置が異なります。入り江のさらに奥に流入する川や、古代の紀ノ川のように河口の手前で大きく蛇行している川、尺型に曲がっている赤穂の千種川(ちくさ)などが汽水域が穏やかだったと思われます。九州編の部で取り上げた壱岐國の”前の原遺跡”の船着き場がよい例で、河口から離れています。そこで河川流域の研究が重要になりますが、1800年前の河川の流れは治水工事などがなかった時代で、しかも海面もいまより1から2m高かったのです。ですから、現在の川の流れとは違っていたことに注意しなければなりません。また、川からさらに水溝をつくって船着き場にしている例が多くありますので、則溝などにも目を向けることが必要です。


御領遺跡(ごりょう)は中世の芦田川下流域にあり、大きな船(交易船)が着く港があったと考えられます。御領遺跡は広島県福山市神辺町下御領(かんなべちょうしもごりょう)から上御領にかけての南北1. 4km, 東西1.6kmに広がる縄文時代後期~中期の集落遺跡です。
この地図は下辺は女王国以て北のラインでカットしています。魏が通じる30か国のあるエリアが全貌できるというわけです。



船首と船尾が反り上がったゴンドラ形で、弥生後期の準構造船を描いた線刻土器と認定してほぼ間違いがないでしょう。瀬戸内海をこうした大型準構造船が往来していたことが分かったことになります。魏志倭人伝が余傍國として20カ国を記しましたが、わたしは、この御領遺跡を20か国の一つの國に比定したいと思います。



瀬戸内海の歴史 上図のリンク先

 この訳文から、初出の国名は20カ国で、奴国は重複しています。奴国は女王国の東南100里ですから、奴国が女王国の以北にはないことになります。奴国から東行のラインと女王国から東のラインは二本ではなく、一本のラインが存在することになります。奴国が此の女王の領域が尽きる境界です。と、ありますから、奴国が女王の支配する領域の行き止まりであることはあきらかです。すると、女王国以て北は奴国以て北と考えれば整合性がとれます。
「自郡至女王國萬二千里」のように郡から女王国まで一万二千余里と余を入れています。伊都国はちょうど12000里ですから余の字に含みがあると考えなければならなくなります。きっかり12000千里にある国は伊都国でした。女王国は伊都国よりもさらに東南にあってもおかしくないのです。女王国=伊都国ではなく、むしろ女王国=奴国のほうが正しいのです。

以上の新出20カ国は女王国の以て北のラインのにある国々に入りません。女王国より北のラインは下の図をご覧ください。

①の女王国以て北に入る国名は、①狗邪韓国ー②對馬國ー③ー大国(壱岐)ー④末盧国ー⑤伊都国ー⑥奴国ー⑦不彌国ー⑧投馬国ー⑨邪馬台国の9カ国。この中には女王国がありません。
女王国以て北というのですからを一カ国としてポイントだと判断できます。すると、九カ国+二十一か国で30か国が国の数の合計値です。
女王国1カ国,+は9カ国,+20カ国,となる。


 魏の通じるところ、使驛が通じるところが30か国でしたから、この20カ国はそれぞれ魏に服属する王がいました。次、次と書かれるということは、団子のようにひと塊にはなっていません。それぞれの地点を次々に並んでいるのですから、一本のロープに20のこぶをつけて、それを図上に広げたような状態であると言えます。それ以外の相関関係は分かりません。そのロープが曲がりくねっているのか、真っすぐなのか、円周のように丸いのかは不明です。これは、客観的には判定できないというこです。ただ、女王国の領域、奴国より北側、すなわち吉野ヶ里南100里ー大分のラインより北にあること、また基点が神崎郡南部、最終地は大分ですから西から東に向かっいます。九州の東北海岸から豊後水道があり、海を渡ると四国があり、その他の国20カ国は四国にあることはまちがいありません。余傍の国々は九州本島にはないのです。
しかし、豊後水道だけで分割されているだけでなく、瀬戸内海でも断たれているのです。倭人伝では遠絶とあり、遠いという意味だけではないのです。


随書俀国伝では、大業四年(六〇八年)、上文林郎(鴻臚寺・外交部)・裴世清は九州に到着してから、次のように書き記しるしています。「又至竹斯國 又東至秦王國」、筑紫の東を行くと秦王国にいたる。「又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀」、また、東に十余国を経ると海岸に達する、そして竹斯(筑紫)国の東は俀国が属国としている。

随書俀國伝で、「東に十余国を経ると海岸に達する」の所が妙に気にかかります。
俀國は筑紫の東、十余国を経由するのですね。
これをルートとみると、筑紫に秦王国ー東に俀国です。これは筑紫中央部から九州の東北海岸に達する道程ですね。このルートに十余国あり、みな俀國が従えていることになります。俀国とは、その勢力からして「豊国」ですよ。
東に十余国とは女王国以て北に収まるじゃありませんか。

さて、論を進めると、古の豊国の領地で図Aのラインを西から東に向かって20カ国を探せば行き当たるのですね。しかし、ご当地の遺跡や古墳などの分布、あるいは、古い神社などの伝承など、それこそ日本側の資料で裏をとらなければなりませんよね。ここには九州地方の郷土研究の出番がありますよね。1カ国だけでも有力な比定地があれば、まっすぐなひも状ですからね、数珠繋ぎに問題が解けていく可能性があるのですよ。女王国の以北に入りますからね。

狗奴国も女王国以て北にある!

倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
「女王國から東南奴国まで100里あります。兕馬觚という長官と卑奴母離という副長官がいて、二万戸持っています
孫ブロックを省略。
女王國から以北はその戸数と道里を得ることができたので、略して載せました。
孫ブロックを省略。
奴国が此の女王の領域が尽きる境界です
南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王
自郡至女王國萬二千餘里

さて、本題とも言っていい狗奴国について説明することにします。
倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
A:從郡至倭
・・・・・・中略・・・・・・
B其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王

C:自郡至女王國萬二千餘里

   


[其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王]が書かれている場所は、ABブロックと孤立させていますが、親ブロックに中に書かれています。狗奴国は「其南有狗奴國」と書かれていますが、その狗奴国の所在ですが、これも親ブロックの定義どおり、【沙里院】と【吉野ヶ里】の中間にあることになります。くどくなりますが、大方の説が、女王国の南であると断定していますので、ここははっきりと、女王国の北であるとダメ押ししておきます。
では、其のは何を受けているのでしょうか。出発点である帯方郡すなわち【沙里院】です。「□□其南有狗奴國」の□□の空白に何かを埋めるとすれば、□□=自郡です。「郡から其の南に拘奴國がある」と訳します。
この用例は、有の構文に求めることができます。□□は場所なのです。存在の有は場所が先頭にきて、目的は有の後ろにきます。(所有の有は人称が先に、目的が有の後になります。)
其が女国であると、魏略や太平御覧に書いてあるじゃないか・・・という対照論法に対して、其のが郡にあるというのは、其の其の構文の法則では、段落の冒頭に主格があります。わたしの説が、どれだけ論理的であっても、コンセンサスを得られるかどうかは分かりませんが、類書対比説よりも陳寿によって書かれた魏志倭人伝に重きをおきます。陳寿の数学的素養に軍配をあげることにします。
 仮に、女王国の南であるとします。ところが、女王国の極南の地点は奴国になるはずですよ。では、魏略や太平御覧は女国を領域として考えているのです。あなたも、女國を領域として考えていませんでしたか。もう一度、おさらいしますが、「郡至女王國萬二千里」の女王國は地点なのです。これは、親ブロックの全体の定義です。


 あなた、親ブロックの大シバリを忘れてはならないのですよ。狗奴国も143度のラインの間に在るのです。かつ、女王に従属していないのです。九州の9カ国をはじめとして、30か国はみな女王に従属していましたから、この2条件で、奴国ー邪馬台国96度ラインより北に存在しなければなりません。
ですから、□□は、出発地点が入るのです。よって、女王國ではなく、郡が入るのです。帯方郡の南になるのです。

それは、ソウル周辺にあった、慰礼城百済、すなわち伯濟國(ペクチェ)のことだと考えられます。伯濟國は(後漢書・馬韓伝では)馬韓の一国でしたが、しだいに周囲を攻略して、卑彌呼のころはかつては楽浪郡に従属していた諸国も手中にしていました。
 




楽浪太守劉茂が『三国史記』に現れるのは古爾王13年です。西暦246年、魏の第二次高句麗征討の年に当たります。

『三国史記』 「百濟本紀第二 古尓王」 古尒王 十三年 夏大旱 無麥 秋八月
魏幽州刺史毌丘儉與樂浪太守劉茂,朔方太守王遵,伐高句麗 王乘虛遣左將眞忠襲取樂浪邊民 茂聞之怒 王恐見侵討 還其民口

魏の幽州刺史母丘儉と楽浪太守劉茂並びに朔方太守王遵は高句麗を討伐した。王はそのすきを突いて佐将眞忠を派遣隣接する楽浪郡の遺民を襲って捕虜とした。劉茂がそれを聞いて怒ったので、王は報復を恐れて、連行した捕虜を元に還した。
*方太守王遵は帯方太守の間違い。



女王国と女王の違いを理解するためにグループ化してみます。

魏書倭人伝:女王国(5カ所)
1_1:世有王,皆統屬女王國
2_1:自女王國以北,其戶數道里可得略載,
3_1:自郡至女王國萬二千餘里
4_1:自女王國以北,特置一大率檢察
5_1:女王國東渡海千餘里,復有國


魏書倭人伝:女王,および倭女王(6カ所),
1_2:南至邪馬壹國,女王之所都,
2_2:其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王
3_2:常治伊都國,於國中有如刺史。王遣使詣京都、帶方郡、諸韓國,及郡使倭國,皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物詣女王,不得差錯。
4_2:倭女王遣大夫難升米等詣郡
5_2:詔書報倭女王曰:
6_2:倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼


まとめ
3_2:の用語の定義
帯方郡の郡使=魏の官吏、(理由:郡とは漢の行政区分です。)
伊都国=女王国、郡使が派遣される対象国(後漢の封国)
王=伊都国王、(神崎地方の共立王)
女王=①倭女王=卑彌呼 ②女王のいる所、すなわち倭国
倭国=(女王卑弥呼の土城=北朝鮮・咸鏡南道(ハムギョンナムド)
京都=大きな都(ど)=皇帝の居るところ=雒陽(らくよう)


★伊都国は渡来人の要塞!鎮の中心地であり、行政地であり、今日でいう首都でした。
さて、古代の港は河の淵に船着き場をおかず、引き込みの水路(水溝)をつくって、その奥に波止場を作っていました。川が洪水になっても船が転覆したり流されないようにしていました。また、波止場が海に面していると満潮・干潮の影響がありますから、船を係留しておくことが難しいのです。満潮じゃないと出航できないなんていうことになったらとても不便です。そこで、古代人は海から川の数キロ奥に波止場を作っていました。また、川からは引き込み側溝か、天然の入り江を利用して船を係留しています。川の岸壁に船を置くと、氾濫したときに船が転覆、あるいは流されてしまいます。そうした津であれば潮の干満に関わらず凪ぎであれば、いつでも出航できたからです。3世紀のアジアの船は、構造船ではありましたが、丸木舟から発展したので、波切はありましたが、船が平底でした。あまり安定性がなかったのです。

吉野ヶ里遺跡の磁北線
出典:邪馬台国時代のクニの都 吉野ヶ里遺跡
七田忠昭著 新泉社 2017年

上記の図版では、墳丘墓と祭壇を結んだ線が地図上の北と6度ほど偏っています。
そこで、吉野ヶ里での方位偏差が6度と推定されます。
(注):この吉野ヶ里の構造物ラインの傾きが古代磁方位の偏差と一致します。下図の黄色のラインはGoogle Earthをつかって磁極から引いたラインです。距離は7472kmです。交差する中央斜線は沙里院から引いてきています。
吉野ヶ里遺跡のリアルな磁北

この【吉野ヶ里】当地の偏角はこの吉野ヶ里建設時の方位角だということをシミレーション画像をご覧ください。この方位線は磁極点から引いてきた線です。
はじめに比較画像です。

aは北の磁方位です。先はグリーンランドの東の小島になります。
bは奴国=みやき町の左護岸6kmの地点を指します。
Cは郡=帯方郡=サリウォンの東南の周辺地域を通過します。

奴国は佐賀県三養基郡みやき町大字白壁あたり?。

 親ブロックは、はじめから「郡至女王國至萬二千余里」と条件をはめているのですから、女王國は終点でした。ですから、女王国の30国はみな奴国から東のラインより北側にあります。そのラインが図Aです。 わたしは、奴国を久留米市の筑紫川の東岸、切通川の付近と比定します。ここは奴国ですが、女王国(在伊都国)の津(波止場)に近かっただろうと推定します。津は波止場ということです。そして、女王の大率(官名)は、この波止場を利用していたのです。伊都国領内に扶余の常備軍が駐留していたのだろうと私は考えています。そして郡使とは漢人です。なぜなら、北内郭は中国式の城郭を模倣していますが、見たことがない人間では絶対に作れないと考えられています。1000戸と魏志倭人伝に書かれています。そういう人口からは兵力は最大300人ぐらいしかなかったのでしょう。弥生後期までの生活していた人々はいったいどこに消えてしまったのでしょう?わたしは外来種の襲撃があったものと考えています。男性はことごとく殺され、女子供は奴隷にされたのでしょう。場外に甕棺は移され、200年間続いた甕棺墓制は突然途絶えたのです。その後、現れた石棺は征服者の墓です。それから、100年後、前方後円墳が現れはじめ、古墳時代になったのです。あなた、古墳の主(埋葬者)が弥生人でないことが分かりますか。5世紀中ごろには九州から、東に延びて近畿までもが外来種に制圧されていました。日本人とは90%混血種なのですよ。
 
わたしは、伊都国とは吉野ヶ里にあったと思っています。その、兵器は本国から持ち込んだものが多いのですが、食糧や道具などの生産物は支配地から調達していたに違いありません。とくに有明海の海産物ですね。ほかの都護府と同様、吉野ヶ里は軍事、民生(租庸調)を兼ね備えた渡来人たちの為政地だったと考えられます。伊都国が治所であることは明らかです。伊都国という特別な領域(国)があったということです。「此の女王の境界の尽きる所」は奴国でした。女王の領域の最南端が奴国であるというのは、領域というカテゴリーではなんら矛盾しません。伊都国は、今日でいえば中国風基地で、それは吉野ヶ里です。「卑弥呼Xファイル」では、もっとリアルに書いていますので、ここでは詳述しません。が、松本清張説のように、吉野ヶ里が邪馬台国だ、ということは100%ありません。伊都国、すなわち行政地名としては女王国なのです。



距離方位だけで女王国の津をさぐりました。さて、さらに吉野ヶ里の水運をさぐってみます。吉野ヶ里には東側面に田手川が流れていますが、反対側西側にもかつてもう一本の水流がありました。現在は消失していますが、西側に流れていた田手川の本流だったと伝わります。吉野ヶ里の倉庫のあるエリアは、田手川の本流の川岸に接していたことになります。田手川の下流には、荒堅目遺跡があり、ここに津があったと考えられます。縄文時代晩期~弥生時代後期から人々の生活が営まれ、漁労と交易が行われていました。千代田町額田、下坂、渡瀬、神崎町倉戸、荒堅目地区一帯は文献記録や発掘調査の成果と地形等より、蔵戸と荒堅目一帯に神埼荘の「津」が置かれていたと考えれています。
この荒堅目遺跡は、縄文時代晩期~弥生時代前期より人々の生活が行われており、海を舞台にした漁撈と交易が営まれた集落と言えます。
ほ場整備事業施工前までは、非常に大規模な堀があり、戦前頃までは田手川・馬場川を利用した船による物資の運搬が行われていたそうです。
昭和57年から始まる県営ほ場整備事業に伴い発掘調査が行われ、非常に重要な成果がえられています。この遺跡は、貝塚を伴う集落跡であり、通常では残存しない木製品や骨などの有機質の遺物が多量に出土しています。祭祀用に用いられたと考えられる鳥形木製品・木剣・木戈や銅鐸を模した鐸形土製品などが見つかっています。
また、甕棺墓・土壙墓に埋葬された弥生人の墓地も調査されています。貝塚を伴うため、非常に良好な状態で多数の人骨が確認されてました。この人骨の人類学的な研究により、詫田西分遺跡の弥生人のほとんどは、渡来系形質を持つ人たちであったことが分かってきています。
有明海を介して、この地に新たな技術や文化と共に大陸から多くの人たちが訪れ、在来の人たちと生活をしていた様子を知ることができる遺跡です。

神埼市の南部地区に分布しています弥生時代の遺跡は、その多くに貝塚を伴っています。また、当時の最先端の文化と技術が、多くの渡来人と共に流入し定着した地であり、その後の吉野ヶ里を中心とする「クニ」が成立していったと考えられています。

私の考えでは、古代であっても大きな物資は船で港から港にダイレクトに輸送します。そのほうが輸送の人力がいらないのですから、コストもかかりません。吉野ヶ里倉庫から川船に乗せ、田手川を下って荒堅目に運び、外洋船に積み替えるのです。すると、吉野ヶ里は帯方や京都洛陽にも直行できる航路があったのです。魏の郡使は陸行1か月など地上を歩くことはなかったのです。


 ちょうど、切通川が中州をつくり、巾着のようになっていますが、3世紀のころは切通川の間は入江のようになっていたと思われます。朝鮮の沙里院(サリウォン)も南大同江から奥1000mぐらいの幅50mもある大溝をつくっていますし、漢江、昔は慰礼河とよんでいた河から1kmほど引き込みの水路がありました。その奥にある夢村土城も船着き場であったと考えられます。どちらも似たような形式をもっています。夢村土城遺跡は、現在のソウル市、オリンピック公園にあります。
さて、切通川は現在では巾着川のようになって、筑後川に注いでいますが、2世紀ごろは入江のようになっていたでしょう。この切通川の付近から西北6kmに伊都国=【吉野ヶ里】があったのです。この切通川はみやき町の南部になりますが、そこから東に6kmに不彌国があります。そこは佐賀県三養基郡みやき町となってますが、この切通川の巾着の中だけはなぜか福岡県久留米市城島町芦塚となっています。久留米市の飛び地なんですね。ところで、久留米市中央、御塚・権現塚古墳あたりが、とてもあやしいのです。久留米市の皆さん、筑後川の西部に首都があったのですから、東岸はあまり栄えていなかったのですね。わたしが不彌国に比定してもがっかりしないでください。奴国と不彌国も久留米市なのですから、これらを合計すると5万戸以上の大国だったのです。人口としては、なんと2~30万人に相当するのですよ。


これが、奴国だ!拡大図 青バルーンが奴国!

箱式石棺の分布図(弥生時代前期・中期の箱式石棺を除く。)佐賀市(21)、吉野ヶ里(17)神埼市(12)みやき町(25)朝倉市(54)日田市(8)大分市(4)宇佐・中津平野にはなく、行橋市(20)、北九州市(47)、福岡市(36)八女市(13)、阿蘇市(2)、小郡市(31)、
佐賀県みやき町では25の箱式石棺が出土している。分布図は人口の多かった地域の尺度になることは間違いないだろう。わたしが奴国だと押しているみやき町は遺跡学からみて落第とはならない。

箱式石棺は弥生前期・中期・後期・古墳時代にわたって作られた。


Photo出典:邪馬台国時代のクニの都 吉野ヶ里遺跡 七田忠昭著より
赤い星は著者が追加=奴国の位置
魏志倭人伝の夢 吉野ヶ里遺跡 七田忠昭 WEBリンク




吉野ヶ里から東南100里の終点・青いバルーン

不彌国は久留米市内

図1、不彌国の位置の拡大図です。青バルーンが不彌国!


ちょっとズームアウト下図を出します。


不彌国!実は、現在遺跡らしい遺跡が何にもないところです。もっとも、千余家しかないのですから、久留米市のような大人口の地域を想定する必要もないのですが、そうなんですか?と、自問自答してしまいます。ところで当地の評価は二の次というわけです。方位と距離を優先するのです。東岸は久留米市の北部で、ちょうどJR久留米駅と、西鉄久留米駅の間を東の北緯82.6°の線が通過します。この辺りには、日輪寺古墳があります。久留米市の大善寺まで南側、広川を渡る手前、下の◎のところ。御塚・権現塚古墳(おんつか・ごんげんづかこふん)があります。Wikipediaで調べてみると、御塚古墳と権現塚古墳は別々な古墳だったそうです。御塚古墳は3重の巨大な環濠で囲み直径が130メートル程あったとされています。権現塚には2重の濠を巡らせた円墳で、外堤の直径は約150メートル、墳丘は径55メートルだったそうです。こんな大きな古墳遺跡が2つもあったなんて、知らなかったのが恥ずかしい感じですね。どうも古墳時代と思われますが、

有明海こそ九州女王国への玄関だった。


吉野ヶ里の北には脊振山や金立山などがあり、九州北岸から上陸すると1000m級の連山を越えるか博多方向へ迂回しなくてはなりません。しかし、南西方向に有明海はわずか10kmで望めます。船で運ぶ大量の物資は、経済的な効率からみて目的地までぎりぎり船で運ぶのが通例です。有明海こそ大陸や韓半島との往来の玄関であったのです。

弥生時代中期は現在より、1~2メートル海面が高く、場所によっては5~10km海進していました。筑後川河口は大きな巾着型の湖(入り江)になっていたと思われます。だいたい、弥生時代後期になって現在の地勢になっているようです。
有明海の干満差は60cm~90cmと非常に大きいのです。筑後川も川面が高く、両岸にはそうとう湿地帯が広がっていたと想像されます。
余談ですが縄文時代からご先祖は有明海のムツゴロウを食べていたのです。ムツゴロウは熊本県と鹿児島県にまたがる八代海(やつしろかい)でのみ生息していました。
吉野ヶ里がいっしゅの砦だとします。いったいどちらの方向に防衛する構造をもっているのでしょうか。それは北郭にある物見やぐらが二つとも、南西に向いているので、南西方向つまり有明海から遡上して攻めてくる敵、軍船を見張るためにあると考えられます。

有明海からの攻撃に備えていたとしか考えられません。

TWIT_ブレイク:  

伊都の~とは、輸入品のこと?
 秦の始皇帝の兵馬俑抗(へいばようこう)から発掘された弓(弩機)は、木の弓で張力を増すために、弓鞘に革ひもを捲き、その上に赤漆がかけてありました。中国では弩機という。伊都之尾羽張(いとのおはばり)と言うと、中国製の刀剣のことです。伊都之竹鞆と伊都尾羽張で、矢と剣がセットになります。この伊都は伊都国の伊都。帯方郡から、魏の使者が往来していたのが伊都国。伊都国で中国物品の揚陸していのでしょう。とうぜん伊都国に、この外来の弓や剣は集中していました。伊都の~・・・といえば中国から運ばれた製品という意味です。伊都之竹鞆(いとのたけとも)は、紀では稜威之高鞆(いつのたかとも)と記され、稜威(いつ)は伊都(いつ)と同じです。また、伊都は、伊斗、怡土など、いくつかの文字があります。
秦の剣は、隕鉄を用いて鋳造されていました。コバルトやクロームの含有率が高く、腐食しません。すべての兵の剣がそうであったとは思えませんが、秦の鉄剣だけは特別優れていました。
*短い弓であれば胡弓、馬上から振り向いて敵を撃つため短弓ともいわれる。中国の戦国時代に趙國が強くなったのは胡服・胡弓を用いる馬兵戦法にしたからだといわれています。矢じりはすでに鉄でした。
一方、秦の弩機は今でいえばアーチェリーのような形の弓で、60m以上の射程があったと言われています。足を弓に添えて腰をつかって弦を弾いているのが弩機で、弓隊がもつのが怒弓でしょう。(*推測)

*吉野ヶ里では、鉄の鏃(やじり)は見つかっておらず、木鏃のみ。また、弓は木製の短弓が出土していますが、中国、または朝鮮からの渡来品かどうか判別がつきません。甕棺の埋葬者に矢じりが刺さった跡がある人骨が見つかっています。あえて言うなら、銅剣をはじめ武器類、伊都之竹鞆と伊都尾羽張はすべて地方豪族に持ち出されたのでしょう。さらに、おそらく盗掘にあったのですよ。ただ、注意しておかなければならないのは、魏志倭人伝では「正始4年(243年)、倭王は復(ふたた)び大夫伊聲耆、掖邪狗ら八名を遣わし洛陽に詣でさせ、生口(高句麗の捕虜)、倭錦絳靑、縑緜衣帛布、丹木のゆみつかを持つ短弓と矢を献上した。」とあります。短弓は主に北方の”騎馬民族”が使っていた武器です。小型の銅鐸が吉野ヶ里北方で出土し、吉野ヶ里公園で展示されていますが、江戸時代に作られた偽造物だとわたしは判断しました。はじめから鐘(かね)として造られていたからです。
南の狗奴国を検証してみた
狗奴国の文字列B:は、従郡至倭=A:と自郡至女王国萬二千餘里=Cの間にあります。
上のように配列構造シンプルにして読みとると、狗奴国はAとCにサンドウィッチされていますよ。以上を、図式にしてみましょう。


つぎに、Bのエリアをクローズアップしてみます。

狗奴国の実相
photo出典:平凡社刊:『韓国歴史地図』韓国教員大学歴史教育科著

上部の赤い大きな囲みは、百済が後漢の時代に楽浪郡から奪い取った地域です。

『三国志魏書』 東夷 韓伝
景初中,明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡,諸韓國臣智加賜邑君印綬,其次與邑長。其俗好衣幘,下戶詣郡朝謁,皆假衣幘,自服印綬衣幘千有餘人。部從事吳林以樂浪本統韓國,分割辰韓八國以與樂浪,吏譯轉有異同,臣智激韓忿,攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之,遵戰死,二郡遂滅韓。

「部従事の五林、楽浪もと韓国を統べるを以て、辰韓八国を分割し以て楽浪に与う。使訳が異同があることをを伝達すると、臣智激し、諸韓国は怒り、帯方郡の崎離営を攻める。時の太守弓遵、楽浪太守劉茂、兵を起こしこれを撃ち、(帯方)太守弓遵は戦死したが、二郡ついに韓を滅ぼす。」・・・と、魏志韓伝にあります。
さて、帶方郡崎離營とはどこでしょう?
*太守劉昕は『三国史記』「百濟本紀第二 古尓王」では王遵、倭人伝の難升米目を派遣した太守劉夏とも文字が異なるが、同一人物だろう。
臣智とあるのが、倭人伝での狗奴国男王、狗古智卑狗(くこちひく)、すなわち古爾王です。当時は馬韓の一国、伯濟國と言っていました。参照;「其官有狗古智卑狗,不屬女王。自郡至女王國萬二千餘里」

 この事件の韓八国がもと楽浪郡の所領ですので、赤い丸囲いでのなかの爆弾マーク(戦地)がまとまってある地帯だと思われます。
帶方郡崎離營の場所についてはつぎのような説があります。
今日の学会では帯方郡をソウル付近とするが、如何なものか。楽浪郡を今の平壌に比定し、帯方郡をソウル付近とすれば、帯方郡治所の位置は平壌からの距離よりも韓地からのほうがはるかに近いことになる。正始七年(246年)に太守弓遵が「崎の離営」で戦死する。馬韓に攻められたのである。
狗古智卑狗は三国史記によれば、第8代百済王の古爾王(古尓王)在位234年-286年)に該当します。前王仇首王の同母弟とされ、諱(いみな)は伝わりません。この王がなぜ南の狗奴国の王なのかは、つぎのような記録でわかります。古尓王十三年(246年)の条「毌丘倹(ぶきゅうけん)が高句麗を討伐している隙(すき)をついて楽浪の辺境地を寇掠(こうりょう)しました。楽浪太守の劉茂が怒ったので、討伐を恐れて奪った人々を還した。と、いうのです。」これは三国史記に記事されています。また、『魏書』 韓傳で記されている「臣智激韓忿,攻帶方郡崎離營。時太守弓遵,樂浪太守劉茂興兵伐之,遵戰死,二郡遂滅韓」と対応しています。帯方太守弓遵(きゅうじゅん)が戦死んでしまったのですから、楽浪太守の劉茂が怒るのも当然です。この臣智(朝鮮での呼称で王のこと)が古尓王なのです。
この樂浪太守劉茂、帶方太守の軍事行動は毌丘倹の命令によって東沃沮を攻略するためでした。

岩元説:
「埼の離営」とは帯方郡の徼(国境)であるから帯方郡より南に位置したと考えられる。帯方郡がソウルの位置(1900年初頭の通説)であれば「埼の離営」は韓地内につくられた砦ということになる。これはありえない想定である。恐らく「埼の離営」こそソウル付近にあっただろう。或は今の仁川(インチョン)辺りであろう。帯方郡は仁川より北にあり、平壌の南にあり、海に面している。やはり海州市は帯方郡治所に比定されるべきである。引用:岩元正昭・邪馬台国への道P202)
上記の臣智激韓忿,の徼について補足:
:(げき、ぎょう、きょう、よう)
国境、めぐる、小道、砦、窺う、求める、掠める、向かう、微妙な、(繳と通じて)もつれる。
(邀と通じて)遮る、招く、迎える→①国境「徼外」国境の外、 ②もとめる。「徼幸・徼倖」幸せを求めること。
〔説文解字・巻二〕には「循(めぐ)るなり」とある。〔玉篇〕に「要なり、求なり」「邊徼なり」とある。
埼離營が帯方郡と馬韓の国境にあったはずであるというのは肯けます。したがって平壌とソウルの中間にあることも肯定できます。ただ、海に面しているかどうかは確定できません。したがって仁川付近であり、海州市に比定されるべきであるというのはやや飛躍した想定に思えます。ただ、埼離營がどこであるかは帯方郡と狗奴国(馬韓)の国境付近であるということです。しかし、埼離營が帯方郡治所であるという断定はできません。わたしは、帯方郡治所は沙里院と見ています。下の地図↓。




ソウルから海州市・仁川・平壌の位置関係。

北の狗奴国を検証してみた
正始7年の攻防
高句麗の丸都城が母丘儉(ぶきゅうけん)に攻め落とされて、東川王は逃亡し、東沃沮の不而王も降伏しました。楽浪・帯方郡の優勢な力を見せつけられ、魏に従属しようとした日和見な国が生まれたのです。部従事とは百済の朝廷に列していた官位をもつ豪族のこと。臣智とは百済第8代の古爾王です。古爾王が怒って、なんと帯方郡に攻撃をしかけたのです。この王が南の狗奴国の狗古智卑狗なのです。
 帯方郡との境にある崎離営に攻撃をしかけたのですから、狗奴国とは強大な軍事力をもっていたのです。これは正始7年(246年)の戦闘です。帯方太守の弓遵が戦死したと書かれています。崎離営とは図では上の方にある小さい丸囲みのところと推定されています。
 正始7年には南の伯済国に弓遵が殺されました。翌年の八年に玄菟郡太守だった王頎が帯方郡に異動してきました。卑彌呼は王頎に使者を送って、高句麗に対して相攻撃することを申し出たのです。
 
魏志倭人伝には元年、四年、六年、八年のことしか書かれていませんので、正始年間の弓遵が殺されたなどの東北アジアの大事件は記されていません。正始5年には楽浪・帯方郡の太守は、母丘儉の高句麗攻撃の別動隊として南沃沮のほうに出撃しています。王頎は逃亡した東川王を捕らえるため挹婁の近くまで追撃しました。正始八年、帯方に到着した王頎に卑彌呼は戦う意思を表示したのです。東夷伝の烏丸鮮卑東夷伝、高句麗伝、扶余伝、韓伝など、東北アジアの歴史にまで視野を広げないと、あなた、何もわからないのですよ。王頎が帯方に到官した経緯は、日本書記にはまったく記載がありません。また、女王國もかすりもしないのです。卑弥呼の行動範囲としては、帯方しかないのですよ。

 倭人伝には、正始8年に王頎が帯方太守に着任したことが書かれています。
246年、弓遵が戦死してしまったので、急を要する人事だったのでしょう。洛陽から勅使(太守)を送るには一か月はかかるでしょうが、玄菟郡太守だった王頎なら一週間もあれば到着できます。あなた、嫌味な言い方ですが、邪馬台国に女王がいたとする皆さん、到官まもない王頎に日本から使者を送れるのでしょうか。そんなことできるはずがないでしょう。水行10日、陸行一か月なんですよ、邪馬台国のあるところは。使者が来て、王頎到官の知らせを聞いてから、相攻撃の作戦を知らせるのに、往復で2か月以上かかるのですよ。

「正始八年(247年)、「太守王頎到官、倭女王卑弥呼と狗奴国男王卑彌弓呼とはもともと不和であった。卑彌呼は載斯、鳥越らを王頎に詣でさせて、相呼応して攻撃する書簡(相攻撃状)を届けた。」・・・よくよく読むと、帯方太守王頎とは書いていなかったのです。「正始八年、帯方太守の王頎が官に到着した」という通説の訳は、めちゃくちゃおかしいのです。「玄菟郡太守の王頎が帯方郡の官に着いた」、と訳すのが自然なのです。

 この時に、相攻撃しようとした敵国は、王頎が数年の間、母丘儉とともに戦ってきた高句麗のことです。
つぎに続く章では狗奴国が二か所にあり、それをなぜ狗奴国と倭人伝が記したのかを説明することにします。建国の経緯から語ることになりますので、次の章に譲ります。

 この章では、官に(中国から)任じられている侯王である「狗古智卑狗」の狗奴国と、卑彌呼が王頎に参軍を承諾したところの敵国である狗奴国と、二つの国があったということを簡単に記しておきました。

高句麗と百済は習俗みな同じ、兄弟国だった。

両国の王名が違うのですから、二つの国が異なるのは当然ともいえるのですが、狗奴国は句麗國という元名です。句麗國は高句麗と名称を替え、、その高句麗から派生した国が伯濟國だったのです。狗奴国が二か所に同時存在していたとするわたしの説は、妄想ではありません。北の句麗国は現在の集安市、南の句麗國は現ソウル市にありました。『魏書』百済伝では、「夫餘之別種」、百済は扶余の別種であり、「其衣服飲食與高句麗同」、その衣服や飲食は高句麗と同じであると書いています。百済と高句麗は同じ扶余からでていますが、高句麗は非常に乱暴な国(高麗不義、逆詐非一)で、内部がばらばらだったと書かれています。狗奴国とは句麗國の変体文字だったのです。句麗とはクリョと発音されていたと思います。母丘儉が戦った相手は、高句麗の東川王ですが、母丘儉の征討は245年に始まりました。卑弥呼が死んだのは247年冬か、248年春です。もう歴史上はっきりしているのですよ。倭国が狗奴国と戦ったということはですねぇ、朝鮮東北部の戦いだったのです。倭国が大和だという内向きな考えだけでは、語れないことが少しは分かっていただきたいと思います。
倭国は咸鏡南道(ハムギョンナムド) 金野郡 - 금야군【金野郡】Kŭmya-gun (クミャ=グン)にあった。かつては永興郡(えいこうぐん/ヨンフンぐん)と呼ばれた。
卑弥呼のいた華麗城は漢式土城


A列魏略 女王之南又有狗奴國女男子為王
(*後ろから五列目の女字は以字が正しい。写本の転写ミス)
B列御覧魏志 女王之南又有狗奴國男子為王
----------- ---------------------------------------------------
C列:魏志 其南有狗奴國男子王為其官有狗古智卑狗不属女王
この三行をなんども読むうちにC列の其のとは女王が代入できるのではないかと思いつきました。「奴國,此女王境界所盡其南有狗奴國男子爲王,其官有狗古智卑狗不屬女王」から女王の二字が其のかかりとなるということです。ですから女王国ではいけないのす。地理的表現ですから人称代名詞の女王を「女王の居るところ」と定義しなくてはなりません。そこで、狗奴国が分かれば、卑弥呼の居る所(土城)が計測できます。「狗奴国がわかれば倭国もわかるはずだ。」・・・こうして興奮のボルテージが高まったのです。

奴國此女王境界所盡
其南有狗奴國男子爲王,其官有狗古智卑狗不屬女王
自郡至女王國萬二千餘里
上記の三行で、其のが女王をかかり受けしているとみるのですね。すると、二行目は卑彌呼のいるところから、一行目、三行目は郡治所からの方位と分離します。郡からの方位は奴国まで一直線、「乍南乍東」で東南になり、卑彌呼からの方位は南となり、この差こそが卑弥呼の居場所を決定づけるのです。
魏略逸文との対照
魏略輯本
作者:魚豢(ぎょかん) 三國 巻二一 引用は魏略逸文(翰苑、唐、雍公叡注)

女王之南又有狗奴国女男子為王其官曰拘右智卑狗不属女王也

「女王の居る所から南、また狗奴国があり、男子を以て王としている。その官は拘右智卑狗、女王には属さない。」

女王之南が女王国之南とは書かれていません。女王の南は要素として《場所》+《方位》です。「誰々さんの南」というのでは意味が成立しません。よって、上記の訳では、女王の南とは、女王の居る所の南と解釈します。三国志魏志の郡と近い位置とみると、女王の居る土城は帯方にありますね。郡=帯方=卑弥呼の居る所で間違いないことになります。

2_2「其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」というように、魏志では其南となりますから、対照すると其のは魏略の”女王”と同じになるでしょう。女王は場所が属性(要素)です。したがって、女王という文字は人称代名詞でなく、「女王の居る所」と訳さねばなりません。
わたしは、女王の居る所は邪馬台国ではないことを明らかにしています。また、女王国は伊都国としています。
奴国は伊都国南6km、至近距離にあります。以上まとめると下の二項に落ち着きます。
1)女王が倭国および郡とマッチングしますが、女王国とはアンマッチです。
2)”其の”を奴国とする定説は完全なミスリードです。帯方か、郡にしないと誤訳になります。これによって狗奴国が熊本菊池川とか宮崎日向にされているのでしょう。

*(「女男子」の女は「」の転写間違い。
*女王之南を安易に女王国の南とするとその後の帰結がすり替えられてしまいます。
*魚豢(ぎょかん)作の魏略は、魏志より成立が早く、魏志倭人伝の種本とする説があります。残念ながら、失われてしまったため、他の書物に「魏略曰く」と引用される形の逸文の編集体しか残っていません。逸文の大半は翰苑(唐代、張楚金著)に付された雍公叡の注によるものです。三国志魏志の東夷の倭国伝のあとに西域伝がありますが、これも亡失したあと、北史などから復元したもので、原本の姿はまったく違うものと思われます。

奴國此女王境界所盡
其南有狗奴國男子爲王,其官有狗古智卑狗不屬女王
自郡至女王國萬二千餘里
上記の三行で、其のが女王をかかり受けしているとみるのですね。

狗奴国は①郡治所からは東南(143度)
狗奴国は②女王の居るところから南(方位188度)

狗奴国は②女王の居るところから南(方位188度)にあります。共通の定点狗奴国は今のソウルです。ですから卑弥呼の居るところへはソウルから方位8度北方に卑弥呼はいたことになります。


ただし、なんと方位しかわかりません。その南狗奴国あり、これを計測するには一本のライン上に、それらしき遺跡がなければ無駄になります。緊張してどきどきでしたね。いよいよ最終ステージです。

狗奴国は北に高句麗、南は漢城百濟ですから、漢城百濟の位置、今のソウル市を起点に北の方位に卑弥呼の里があることになります。
いままでの実習で、当時の磁方位が東偏8度でシミレートすることがわかってきましたので、方位8度でソウルから一本のラインを引きます。

距離がわかりませんから、線上におぼしき土壌遺跡をさがしました。なにしろ卑弥呼は厳重に守られた城郭にいたことは間違いありませんから。
さあ、どうでしょうか?ありましたね。下図。

卑弥呼のいた華麗城はソウル北方,東の海
三国志魏書東夷伝 扶余。
夫餘はもと玄菟に属す。漢末、公孫度海東に雄を張り、外夷威服し、夫餘王尉仇台さらに遼東に属す。句麗・鮮卑強なる時、夫餘二慮の間にあるを以って、度、宗女を以って妻となす。

扶余は昔玄菟郡に居たが、公孫度が濊と韓を討伐して東の海に進出すると、扶余は遼東、公孫に属した。さらに領地を遼東の西部に広げた。高麗や鮮卑が強力な時、高句麗と鳥桓(鮮卑)の間に位置して不安なため、公孫度は宗女を尉仇台に与えて婿とした。ひとつ、「阿扶余」という新国家が誕生した。「阿」という冠をつけた扶余である。異端の夫餘とも扶余の別種とも云われる。

夫餘がもともと玄莬郡にいたというのは、扶余の始めが天孫解慕漱にはじまり、吉林の北にあった扶余の古地にできた国名(BC86年)北夫餘で、その後、解夫婁が東海の沿岸に迦葉原(カソヴォル)に遷都した。第一次玄菟郡の夫餘県および華麗県になる。郡は沃沮城に府を置いていた。後漢書は東部都尉とした。東扶余とも阿夫餘ともいわれ、藁離國とも伝わるが、東倭の文字も見える。。245年頃には不耐城と呼ぶようになった。中国は地名を時代時代に名称をかえる。たとえば夫餘はもとは夫祖、濊はもとは薉など文字が変わる。沃沮の沃は「こ(肥)える。地味がこえている。」の意味。*(東海の沿岸のよく肥えた地とは日本海沿岸、沃沮)沃=肥えた地、沮は沢。)
もともとの夫餘が発祥したのは高句麗の北にあたり、松花江の中流域であった。
松花江はアムール川最大の支流で、長白山系の最高峰、長白山(朝鮮語名:白頭山)の山頂火口のカルデラ湖(天池)から発し、原始林地帯を貫き吉林省を北西に流れ、吉林省長春の北で伊通河が合流する飲馬河をあわせて松嫩平原に入り、白城市(大安市)で嫩江をあわせて北東に流れを変える。
延長 1,927 km
平均流量 2,470 m³/s
流域面積 212,000 km²
水源 長白山(白頭山)
水源の標高 2,744 m
河口・合流先 アムール川

東海の沿岸に迦葉原カソヴォル②こ(肥)える。地味がこえている。「沃野」

1922年5月に咸鏡南道(ハムギョンナムド)永興(ヨンフン)の所羅里(ソラリ)で土城を発見 漢四郡時代 BC1世紀頃の楽浪遺跡 土城内で漢式瓦 初期鉄器時代 包含層 土城+木槨墓+遺物 嶺東七縣の一つである華麗縣と推定される遺物がでてきました。この楽浪時代の漢式土城がいかなるものかは、さらに研究しなければなりませんが、とりあえず、ソウル方位8度のライン上にあることだけははっきりしています。いままでの陳寿の地図をグーグルアースで再構築できるという信ぴょう性はすでに証明できているはずですから、計測結果で比定するのが第一で、諸条件は二の次です。


咸鏡南道(ハムギョンナムド)永興(ヨンフン)の所羅里(ソラリ)土城をまずは見学してみよう。楽浪漢式土城は朝鮮の山城の形式とは異なります。卑弥呼は公孫氏の宗女でしたから当然漢式なのです。上記の地図、オレンジ色の地域が現在の咸鏡南道(ハムギョンナムド) 金野郡 - 금야군【金野郡】Kŭmya-gun (クミャ=グン)

狗奴国は②女王の居るところから南(方位188度)のラインを描画
逆にすると拘奴國の北方、方位角8度のライン上に女王卑彌呼がいたことになります。

↩卑弥呼の墓を探してみようツール

拡大図⇒永興 所羅里遺跡 所羅里土城

黒い土器の由来は?
豆とは、中国古代に用いられた脚付き,ふた付きの食器。黒灰色の土器で,竜山文化以降盛んにつくられ,のちに青銅製もつくられた。日本の高坏 (たかつき) にあたり,中国では礼器として使用された。

公孫淵が誅伐されたとき、玄菟郡治の庫には、なお玉匣一具が保管されていた。今の阿扶余の庫には玉璧・珪・瓚など先祖伝来の遺物があり、伝家の家宝である。古老は、先祖が下賜された印璽には「濊王之印」と彫られているという。故城あり、名を濊城という。濊貊の故地で、扶余王は濊城にいて、まるで亡命者のようだと言った。

所羅里土城は華麗県にあり、華麗城が別称だろう。
魏志東夷傳 東沃沮 「東沃沮在高句麗蓋馬大山之東,濵大海而居。其地形東北狹,西南長,可千里,北與挹婁、夫餘,南與濊貊接。戶五千,無大君王,世世邑落,各有長帥。其言語與句麗大同,時時小異。漢初,燕亡人衞滿王朝鮮,時沃沮皆屬焉。漢武帝元封二年(前109年),伐朝鮮,殺滿孫右渠,分其地為四郡,以沃沮城為玄菟郡。後為夷貊所侵,徙郡句麗西北,今所謂玄菟故府是也。沃沮還屬樂浪。漢以土地廣遠,在單單大領之東,分置東部都尉,不耐城,別主領東七縣,時沃沮亦皆為縣。漢光武六年,省邊郡都尉,由此罷(ユシヒ)。其後皆以其縣中渠帥為縣侯,不耐、華麗、沃沮諸縣皆為侯國。夷狄更相攻伐,」
*玄莬郡の領東七県は、「東傥,不而,蠶台,華麗,邪頭昧,前莫,夫租。」
「東沃沮は高句麗の蓋馬大山の東にあり、濵大海(永興湾<日本海)にある。その地は東北が狭く、西南に長く、千里(60km)ほどあるだろうか。北には挹婁、扶余、南は濊貊と接する。五千戸で大君王はいない」以下、後節。

自由のための不定期便」より転載


東沃沮は第一次玄菟郡となり、BC107年から30年間、沃沮県だった。沃沮城に郡治をおいていた。「分置東部都尉,治不耐城,」とあるので、所羅里(ソラリ)土城のある所は玄菟郡内に属していた。
BC75年、濊貊から暴動を受けて玄菟城は遼東方面に撤退する。初期の玄菟城のあとが不耐城だろうと伝えられる。三国史記高句麗本紀 大武神王ではの記述では68年8月に曷思王のいとこである都頭王が高句麗に降伏し、東扶余侯に封じられた。都頭を名づけて干台とし、椽那(ヨンナ)部の王とし、背に絡文が有るので姓を絡氏とした。これが濊城、すなわち高句麗の属国になったのであり、この期間は王頎が不耐城を滅ぼす247年まで存続していた。元山市は朝鮮半島東海岸中部の元山湾に面し、西には馬息嶺(マシンリョン)の山並みが連なり首都平壌へ200km、金剛山へ120kmの地点にあります。蓋馬大山が現在の馬息嶺(マシンリョン)にあたり、下の地図では狼林山脈。

東アジアの古代史年表 参考資料
漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 魏書三十 -> 夫餘傳
《夫餘傳》「夫餘本屬玄菟。漢末,公孫度雄張海東,威服外夷,夫餘王尉仇台更屬遼東。時句麗、鮮卑彊,度以夫餘在二虜之間,妻以宗女」
夫餘はもと玄菟に属す。漢末、公孫度海東に雄を張り、外夷威服し、夫餘王尉仇台さらに遼東に属す。句麗・鮮卑強なる時、夫餘二慮の間にあるを以って、度、宗女を以って妻となす。
夫餘はもと玄莬に属する、・・・まず下のBC108年の図を参照してみると、第一次玄莬郡は、今問題にしている咸鏡南道(ハムギョンナムド)永興(ヨンフン)を含んでいたのです。夫餘がこの地にあるのは解夫婁が本夫餘から独立して迦葉原に遷宮したとき以来のことなのでしょう。歴史では通常この国を東扶余といいますが、別名藁離國とも迦葉原夫餘ともいいます。高句麗の三代大武神王こと高無恤に滅ぼされ帶素王が殺され滅亡します。
ポスト藁離國については三国史記を参考にします。
『三国史記』高句麗本紀 大武神王扶餘王帶素弟、至曷思水濱、立國稱王。是扶餘王金蛙季子、史失其名。初、帶素之見殺也。知國之將亡、與從者百餘人、至鴨綠谷。見海頭王出獵、遂殺之。取其百姓、至此始都。是爲曷思王
西暦22年・夏四月、扶余王帯素の弟、曷思水の濱に至って、国を立てて王を自称した。これは扶余王金蛙の季子((末っ子)だが、史籍には、その名は消失している。彼は初め、帯素を見殺しにした。国のまさに滅亡を知り、従者百余人と鴨緑谷に至る。海頭王が出会い、狩りに出て、遂にこれを殺す。その百姓を奪い取り、ここに至って都を始めた。これを曷思王となす。
秋七月、扶餘王從弟謂國人曰「我先王身亡國滅。民無所依、王弟逃竄、都於曷思。吾亦不肖、無以興復。」乃與萬餘人來投。王封爲王、安置掾那部、以其背有絡文。賜姓絡氏。
都頭王(曷思のいとこ)、「我が先王(帯素)は身を亡ぼし、国を亡ぼす(22年)。民は依るべきところをなくし、王弟(曷思王)は逃げ回り、曷思にみやこを置いた。私も不肖ながら、扶余を復興することができない」、と言って、国を挙げて高句麗に降り、東夫餘候に封じられる。都頭を名付けて于台とする。椽那(ヨンナ)部の王とし、背に絡文が有るので姓を絡氏とする。その後、高句麗六代王のとき、西暦68年に曷思王の従弟の都頭王が高句麗に投降して夫餘の故地に高句麗の属国として存続したのであり、高句麗に貊布、魚、塩、海産物は千里をかついで高句麗に貢献し、また沃沮の美女を送っていたのはこの時以来と考えられます。ところが、公孫が海東に覇権を拡張します。帯方に国を興し、濊と韓を討ったのです。韓傳では(後漢最後の献帝の)建安年間(196~219)に公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為した。公孫康(こうそんこう)は公孫模(ぼ)や張敞(ちょうしょう)等を派遣して遺民を集めて兵を興し、韓や濊を伐ったので、元の旧民(阿残=楽浪国人)がわずかながら、少しずつ出てきた。・・・帶素王亡き後、民は依るべきところなし・・・・これが遺民です。公孫康の兵の実態は東夫餘人だったのです。こうして東沃沮の地は公孫に服属することになりました。この東沃沮に尉仇台という一大の英傑が、東沃沮のほかにさらに遼東にも国を作ったのです。そこは高句麗と鮮卑に挟まれていました。それを憂いた公孫度は宗女を尉仇台に娶らせたというのです。尉仇台夫餘の勢力は、、遼東の西にあった後の百濟、および東沃沮の迦葉原夫餘の故地との二カ所に国をもっていたことになります。わたしは、公孫の子女が東沃沮にいたと確信するようになりました。なぜなら、その女こそが卑彌呼に違いないからです。







漢の武帝が置いた四郡のうち、『臨屯郡』(りんとんぐん)は紀元前108年、臨屯国の故地に置かれた郡。臨屯郡は南に日本海に面し、十五県が帰属していたとされる。臨屯郡は濊貊族の支配が直接の目的とされ、その統治区域は江原道(北朝鮮)全域で、郡の南境は江陵以南、三陟(江原道)以北に推定されている。有名地は現在の元山市。
『山海経』海内北経に、「蓋国在鉅燕南倭北倭属燕」という一節がある。
蓋国は大燕国の南にあり、倭は北にある。倭は燕に属する。わたしには未だに謎である。
『三国志』「 魏志東夷伝」(東沃沮伝)では「東沃沮在高句麗蓋馬大山之東、東濱大海」とあり、蓋という文字が共通する。蓋馬大山が千山山脈を指すか、狼林山脈なのか不明だが、かりに千山山脈の南にあるとすれば楽浪郡であり、国に置き換えれば楽浪国となろうか。
蓋をけだしと訓読すると、「おもうに大燕の南に倭があり、北倭は燕に属する。とも、読めないこともない。」
魏志東沃沮傳で、「不耐、華麗、沃沮諸県皆為侯国」は光武帝が建武6年(30年)に王莽の儒教的政策を緩和した事例です。沃沮諸県皆為侯国の領東七県は、「東傥,不而,蠶台,華麗,邪頭昧,前莫,夫租。」

漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 魏書三十 -> 東沃沮傳
《東沃沮傳》
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1 打開字典顯示相似段落 東沃沮傳:
東沃沮在高句麗蓋馬大山之東,濵大海而居。其地形東北狹,西南長,可千里,北與挹婁、夫餘,南與濊貊接。戶五千,無大君王,世世邑落,各有長帥。其言語與句麗大同,時時小異。漢初,燕亡人衞滿王朝鮮,時沃沮皆屬焉。漢武帝元封二年(前109年),伐朝鮮,殺滿孫右渠,分其地為四郡,以沃沮城為玄菟郡。後為夷貊所侵,徙郡句麗西北,今所謂玄菟故府是也。沃沮還屬樂浪。漢以土地廣遠,在單單大領之東,分置東部都尉,治不耐城,別主領東七縣,時沃沮亦皆為縣。漢光武六年(建武6年西暦30年)省邊郡都尉由此罷(ユシヒ)。其後皆以其縣中渠帥為縣侯,不耐、華麗、沃沮諸縣皆為侯國。夷狄更相攻伐,唯不耐濊侯至今猶置功曹、主簿諸曹,皆濊民作之。沃沮諸邑落渠帥,皆自稱三老,則故縣國之制也。國小,迫於大國之間,遂臣屬句麗。句麗復置其中大人為使者,使相主領,又使大加統責其租稅,貊布、魚、鹽、海中食物,千里擔負致之,又送其美女以為婢妾,遇之如奴僕。
2 打開字典顯示相似段落 東沃沮傳:
其土地肥美,背山向海,宜五糓,善田種。人性質直彊勇,少牛馬,便持矛步戰。食飲居處,衣服禮節,有似句麗。

3 打開字典顯示相似段落 東沃沮傳:
魏畧曰:其嫁娶之法,女年十歲,已相設許。壻家迎之,長養以為婦。至成人,更還女家。女家責錢,錢畢,乃復還壻。其葬作大木槨,長十餘丈,開一頭作戶。新死者皆假埋之,才使覆形,皮肉盡,乃取骨置槨中。舉家皆共一槨,刻木如生形,隨死者為數。又有瓦䥶,置米其中,編縣之於槨戶邊。
4 打開字典顯示相似段落 東沃沮傳:
毌丘儉討句麗,句麗王宮奔沃沮,遂進師擊之。沃沮邑落皆破之,斬獲首虜三千餘級,宮奔北沃沮。北沃沮一名置溝婁,去南沃沮八百餘里,其俗南北皆同,與挹婁接。挹婁喜乘船寇鈔,北沃沮畏之,夏月恒在山巖深穴中為守備,冬月氷凍,船道不通,乃下居村落。王頎別遣追討宮,盡其東界。問其耆老「海東復有人不」?耆老言國人嘗乘船捕魚,遭風見吹數十日,東得一島,上有人,言語不相曉,其俗常以七月取童女沈海。又言有一國亦在海中,純女無男。又說得一布衣,從海中浮出,其身如中國人衣,其兩袖長三丈。又得一破船得一破船随波出在海岸邊 有一人項中復有面 生得之與語不相通 不食而死 其域皆在沃沮東大海中
訳:
「東沃沮は高句麗の蓋馬大山(狼林山脈か?)の東にあり、濱大海のすぐそばに住んでいる。地形は東北が狭く、西南は長い。およそ千里。北は挹婁、夫余と、南は濊貊と接している。戸数は五千(人口約2万数千人)。大君王はおらず、代々、集落それぞれに統率者がいる。その言語は高句麗とだいたい同じで、ところどころ小さな違いがある。漢の初期、燕の逃亡者である衛満が朝鮮で王になった時、沃沮はみな衛満朝鮮に属した。漢の武帝の元封二年(前109年)、朝鮮を攻撃し、(衛)満の子孫の右渠を殺して、その地を分けて四郡となしたとき、沃沮城がある処を玄菟郡にした。後、周辺の民族(夷貊)が侵入して荒らしたため、玄莬郡は高句麗西北に移った。今、玄菟故府というのがこれである。
沃沮は(中国の帰属に)戻って、樂浪郡に属した。漢は樂浪の土地が広く遠いため、単単大領の東は分けて東部都尉を置き、不耐城で統治して、領東の七県を別に治めさせた。その時、沃沮もまた、みな県になったのである。(後)漢の光武帝六年(西暦30年)、省邊郡とし、都尉に由此罷(ユシヒ)を任命した。その後、都尉は廃止され、みな、その県中の渠帥(邑の統率者)を県侯となした。不耐、華麗、沃沮の諸県はみな侯国になった。周辺の夷狄はその後もたがいに攻撃しあって、ただ、不耐濊侯だけが今に至っているが、以前のように功曹、主簿や諸曹の官を置き、みな濊の住民がこれになっている。沃沮の諸集落の統率者は、みな三老を自称するが、これも昔の県国の制度なのである。国は小さく、大国の間に押し詰まっているので、ついに高句麗に臣属した。高句麗はその中に大人(高句麗の官名)を置き、使者となして統治させた。また大加(高句麗の貴族)に租税を取り立てさせ、貊布、魚、塩、海産物は千里をかついで高句麗に届けられた。また沃沮の美女を送って召使いにしたが、奴隷のように扱っていた。
土地はよく肥えている。山を背に海に向かう。五穀に適していて上手に耕し種播いている。人々の性質は素直で強く勇敢だ。牛、馬は少ない。矛を持って歩いて戦う。食物、飲み物、住まい、衣服、礼節は高句麗に似たところがある。
魏略には次のようにある。 「その嫁を取る方式は、女が十歳になって互いに結婚を決めれば、婿の家が女を迎え入れ、一人前の女性になるまで長く養う。成人すればあらためて女の家に還す。女の家では金銭を負担し、払い終わればまた婿のもとにもどす」と。
その葬儀は、長さ十余丈(24mほど)の大木槨を作り、一方の端を開いて戸を作る。新たな死者はみな仮に埋めて、わずかにその形を覆わせるだけである。皮や肉が腐ってなくなってから骨を取り、槨の中に置く。一家はみな一つの槨を共にする。木を刻んで生きている時のような形にし、死者にみあうだけの数がある。また、土器があり、米をその中に置いて紐で槨の戸のあたりにつるす。
(幽州刺史の)毋丘倹は高句麗を討ち、高句麗王の宮(人名)は沃沮に逃亡した。ついに軍を進めて宮を攻撃した。沃沮の集落はみな破って、首を切ったり、虜にした者が三千人あまりいた。宮は北沃沮に逃亡した。北沃沮は置溝婁(チコウロウ)ともいう。南沃沮を去ること八百余里。風俗は南北とも同じである。北沃沮は挹婁と接している。挹婁は船に乗り略奪することを喜びとしており、北沃沮はこれを畏れている。夏の間は常に山の嶮しく深い穴の中にいて守り備えている。冬は船の通り道が氷結し、航海が不可能になるので、山を下り村落に住む。(玄菟太守だった)王頎は別れて派遣され宮を追討した。北沃沮の東の果てへ行き着き、そこの古老に『海の東にまた人がいるだろうか。』とたずねると、古老は言った。『以前、この国の人で、船に乗って魚取りにでて、風のために数十日吹き流され、東の一島に着いたものがいる。そこには人がいて、言葉は通じなかった。その風俗では、常に七月に童女を取りあげて海に沈める。』また言う、『一国がまた海の中にある。女ばかりで男はいない。』また告げた、『海の中から浮き上がった一枚の布の服を手に入れた。その体の部分は中国人の服のようだったが、両袖の長さが三丈もあった。』『また一艘の難破船を得たこともある。波に打ち上げられて海岸のほとりあったが、一人の人がいて、うなじの中にまた顔があった。生きていたが、言葉は通じず、食べることができずに死んだ。』その地域はみな沃沮の東の大海中にある。」


・・・漢の東部都尉治があったのは不而県であるが、高句麗時代には柵城府が置かれ、濊支配の拠点だった。高句麗に支配されていた間、大加(高句麗の大官)に租(税)を取り立てさせ、貊布、魚、塩、海産物は千里(60km)をかついで高句麗に届けられた。また沃沮の美女を送って召使いにしたが、奴隷のように扱っていた。卑弥呼が高句麗の支配を脱して曹魏に服属した経緯から、卑彌呼が高句麗と不仲であるのは当然のこと見える。中国が言うところの東倭が高句麗に貢女を送っていたということは驚きです。これを裏付ける記録が三国史記にあります。
三國史記卷十五 高句麗本紀 第三 第六代 太祖大王(在位53-146年)
四年(56年)秋七月、東沃沮を討伐して、その旧領を接収して、城邑(直轄地)とした。[これによって高句麗の領土が拡大し、東は滄海(日本海)、南は薩州(清川江)までおよんだ。

三國史記卷十七 高句麗本紀 第五 東川王十九年(245年) 春三月 東海人獻美女 王納之後宮 冬十月 出師侵新羅北邊
東川王19年(245年)春三月に東海(日本海)の地方の人が美女を献上したので王はこれを後宮に入れた。245年は正始6年です。毌丘倹の第一次侵攻は正始5年ですが、東海人とは沃沮のことだとすれば、沃沮はまだ高句麗に属していたことになります。第二次高句麗攻撃は翌年正始7年に楽浪。帯方郡が沃沮を征圧し、以後不耐王らが魏に朝貢したということになるでしょう。
漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 魏書三十 -> 《高句麗傳》「國人有氣力,習戰鬪,沃沮、東濊皆屬焉。」
訳:国人気力あり戦闘を習う。沃沮、東濊みな属すなり。
沃沮や東濊は高句麗の属国だったと記されています。
続けて、高句麗傳の重要箇所を置いておきます。
「景初二年,太尉司馬宣王率衆討公孫淵,宮遣主簿大加將數千人助軍。正始三年,宮寇西安平,其五年,為幽州刺吏毌丘儉所破。語在儉傳(毋丘儉傳)。」
景初二年に大司馬宣王、衆を率いて公孫淵を討伐した。宮は主簿の大加数千人を魏軍に助軍した。正始三年、宮(東川王)は西安平(遼東の県)を侵犯した。正始5年、幽州勅使毌丘倹は高句麗を破った。(第一次高句麗征討)

景初二年、高句麗は公孫淵に対して、魏の味方をして助軍したと考えます。景初元年、高句麗は改元奉賀に朝貢してます。「太尉司馬宣王率衆討公孫淵,宮遣主簿大加將數千人助軍」、この一節には高句麗が淵を助けたと解読する人も多いのです。例えば、『真説 その後の三国志』坂口和澄では、「この時、位宮は淵の援軍として数千の兵を派遣した」と、解釈し、「淵が敗れてもなお、位宮は遼東部の西安平に侵入して略奪を働き、魏を挑発した(242年)。」と、します。
わたしは、高句麗が一貫して反魏だったとは見ていません。236年、呉の孫権が使者胡衛を送り高句麗と国交を結ぼうとしましが、宮は使者の首を斬り、魏に送っています。また、三國志 -> 魏書八二 -> 公孫度傳:景初元年(237年),「乃遣幽州刺史毌丘儉等齎璽書徵淵。淵遂發兵,逆於遼隧,與儉等戰。儉等不利而還。淵遂自立為燕王」
(明帝は)(237年)公孫淵を懲罰する璽書をもたらし、幽州勅史毌丘儉等を派遣した。公孫淵は遼隧で兵を発して毌丘儉と戦った。儉らは不利とみて帰還した。淵はついに自ら燕王となした。
*璽書(じしょ)封じて御印を押した天子の詔書
同年、237年景初元年には高句麗は朝賀の使者をおくり、魏の年号が改まったことを祝賀しています。(三国史記より)その翌年238年に淵の討伐軍4万が襄平城に動いたのです。おそらく、宮は、戦況をみて魏軍優勢の機を見計い、魏に表向き忠誠のふりをみせ褒賞を期待したのだろうと思います。主語が太尉司馬懿とすれば、淵に援軍したなら、賊軍扱いにするはずですから、賊軍から助軍という用語はありえないのです。淵に援軍したなら、鮮卑と同じ扱いとし、攻撃したとか、寇入したとかの語を使うでしょう。高句麗が西安平に侵入略奪したのは司馬懿が淵を誅殺した景初二年(238年)から、4,5年後の正始3年なのです。わたしは正始3年に高句麗は突然遼東に侵入したのだと思います。魏に戦いを挑んだというより、寇掠(こうりゃく)だったとみます。背景には干ばつによる国難があり、思うに魏に対しては瀬戸際作戦だったのではないかと推察します。家臣の徳来(とくらい)がしばしば諌言(かんげん)したが王は聞き入れなかった。徳来は嘆息して「まもなくこの地によもぎの草むらをみることになろう」といい、食事をとらずに死んでしまった。」と、いう逸話が残っています。
*寇掠(こうりゃく):他国に攻め入って、財貨などを奪い取ること
この文証では、朝鮮語では東海は[トンへ]と発音し今でも韓国側の日本海の呼称ですから、東沃沮が高句麗に美女を献上したことはほぼ間違いないでしょう。245年は正始6年で、魏志倭人伝では難升米に黄幢を郡に付託して假授をした年です。したがって、魏が東海の東沃沮を征圧したのは正始7年と見なければなりません。征圧したのは楽浪・帯方の南方軍です。

《魏書三十》《濊傳》:
正始六年,樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵以領東濊屬句麗,興師伐之,不耐侯等舉邑降。其八年,詣闕朝貢,詔更拜不耐濊王。居處雜在民間,四時詣郡朝謁。二郡有軍征賦調,供給役使,遇之如民。

正始6年(245年)樂浪太守劉茂と帶方太守弓遵は領東と濊が句麗に属しているので興師(毌丘倹)を以てこれを征討した。不耐王らは邑をあげて投降した。正始8年、不耐王は洛陽に朝貢し、詔を受け、不耐濊王に序された。城壁はなく、不耐濊王は邑の民の間に雑居している。一年に4回季節ごとに洛陽に詣でて謁見する。楽浪郡と帯方郡は軍を整え、税や物産を徴収し、役人を供して民のように優遇した。

 正始6年(245年)、楽浪太守劉茂と帯方太守弓遵は領東7県と濊を支配していた句麗を興氏(毌丘倹)を以て討伐した。不耐侯らは邑をあげて降った。その後、朝貢を季節ごとに行った。
さて、領東7県と濊は高句麗から魏に貢献するように変わったのですが、これが正始6年です。このとき、卑弥呼は高齢ですが生きていました。倭国が領東7県の華麗にあったのであれば、上記の濊王と同じような運命だったのでしょう。
《宋書》 《卷五本紀第五 文帝》
「倭國在高驪東南大海中世修貢職,高祖永初二年(421年)詔曰「倭贊萬里修貢,遠誠宜甄,可賜除授。太祖元嘉二年(425年),贊又遣司馬曹達奉表獻方物。贊死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍倭國王。表求除正,詔除安東將軍倭國王。」

注:高祖永初二年以下は、倭の五王のカテゴリーで論じますので、ここでは省略します。ここでは、卑彌呼がいたところの倭国という定義で論じます。「倭」の一字では、九州、および、四国、中国など瀬戸内海区域を指し、倭種の住むところと、定義します。
「倭国は高句麗の東南大海中にあり。世世貢職を修める。」 ここで東南の大海とは日本海のことに違いありません。倭国は濱大海、すなわち日本海側の東沃沮にあったことになります。もし、楽浪海(黄海)に面した帯方にあるなら、西南になるはずですが、しかし、倭国が高句麗東南という指示どおり、地図で視覚化してみます。狗奴国と倭国の位置関係は下の地図のようになります。高句麗から代わり、魏に属してからは、世世、これは代々貢献をしていたことになり、壹與のあとの尉仇台系の男王になってからも中国への朝貢がずっと続いたと解釈できます。
倭国は高句麗の東南大海中にあり。・・・を描いてみる。

黒い四角は、高句麗の方二千里。倭国のシミレーションポイントは右下のバルーン。
上の図の設定値。起点を決めたら、下のダイアログに値を入れるのが先で、上の描画は結果です。
よくあることですが、目的地をあらかじめ想定して描いたものではありません。あまりにもぴったりすぎるので、できすぎだと私も驚いています。バルーンが海の中という結果でなかっただけでも嬉しいですよ。
方位線の起点の設定はを高句麗の丸都城(国内城)、現在の集安市においています。集安市から方位を東南+8度、方位143度に、距離を204kmに取っています。これは3400里に相当します。高句麗は方二千里(魏書 高句麗傳より)ですが、四方形の対角線は、2828里、その半分は1414里になります。沃沮から1000里先まで献上物を担いで運んだのでが、どこまで運んだのかというと高句麗との国境までだということがわかります。((魏書 沃沮伝より))そこで、総距離は1414+1000で3414里になります。わたしはこれを東夷に適用できる一里の単位を0.06kmと解析済みです。それでは、この値を適用してみましょう。3414里は204.8kmとなります。

《地理志》
《地理志下》
32 打開字典顯示相似段落 地理志下:
樂浪郡,戶六萬二千八百一十二,口四十萬六千七百四十八。縣二十五:朝鮮,俨邯,浿水,含資,黏蟬,遂成,增地,帶方,駟望,海冥,列口,長岑,屯有,昭明,鏤方,提奚,渾彌,吞列,東傥,不而,蠶台,華麗,邪頭昧,前莫,夫租。・・・・大楽浪郡の25県名。領東七県を含んでいます。また、帯方・列口・南新・長岑、提奚、含資、海冥の7県『晋書地理志』は、帯方郡にあった県名とされます。
遼東部の8県:襄平県・汶県・居就県・楽就県・安市県・西安平県・新昌県・力城県
沃沮諸県領東七県は、「東傥,不而,蠶台,華麗,邪頭昧,前莫,夫租。」


倭国と郡治所の往来の道、古代街道図より
倭国から郡治所まで直線175.6km
倭国からソウルまで直線260km
倭国から平壌まで直線142km
ソウルから郡治所まで直線156km
赤い線のルートは480kmぐらい。車で60km走行でノンストップで8時間
山間道を経由するばあい、176kmとして東京静岡間を徒歩で行くのと同じぐらいの時間か?高速利用で3時間。



倭国が朝鮮半島の日本海側にあった。宋書に文証があった。
《宋書》
《卷五本紀第五 文帝》
53倭國高驪東南大海中世修貢職(238~240年以降)。高祖永初二年(421年),詔曰:「倭贊萬里修貢,遠誠宜甄,可賜除授。」太祖元嘉二年(425年),贊又遣司馬曹達奉表獻方物。贊死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍倭國王。表求除正,詔除安東將軍倭國王。
「倭国は高句麗の東南大海中にあり。」 ここで東南の大海とは日本海のことに違いありません。だとしたら、やっと納得ができます。倭国は日本海側の東沃沮にあったのです。もし、楽浪海に面した帯方にあるなら、西南になるはずです。西暦238年、景初二年には卑弥呼が親魏倭王に除されています。この時の帯方太守は劉夏でしたが、240年、正始元年には弓遵に代わっています。弓遵が太守の頃、卑弥呼が領東にいたことは確かです。
また、世世貢職とは、壹與のあとの男王も後漢、西晋への朝獻をきちんと果たしていたのです。この状態は、3世紀中の間の状態となります。
倭贊萬里修貢,遠誠宜甄,可賜除授。倭王讃が万里の貢を修めた、この年は、倭王賛が、武帝永初二年(421年)に安東大將軍に除されたときです。ここを無理なく解釈できるでしょうか?倭王讃は、このとき東沃沮にいません。倭王賛は漢山城にいました。万里の長城の貢職ができたでしょうか。ところが、南の帯方を経由すれば楽浪郡内に入ることができます。しかし、313年楽浪郡を壊滅させた高句麗に帯方を通過することを阻まれていたのではできません。倭王賛は372年にはまだ太子でした高句麗の平壌城まで進撃し故国原王を戦死させています。その後、漢山に王都を移します。375年11月に近仇首王として王位を継いだ後も高句麗とは交戦を続け、先代の近肖古王いらい東晋と結んで高句麗と当たる外交態勢を保っていました。この間、帯方は倭王賛が一時的とはいえ占拠していました。ですから、万里長城の貢職が可能だったのです。しかし、391年、広開土(くぁんげど)王の襲来で終わりをつげます。次の長寿王の時427年、都城を丸都城から平壌城に移しました。7世紀初頭、倭王武が上表書で高句麗が通行を妨害しているので朝貢がままならないと訴えています。上図のように燕長城が楽浪郡と玄菟郡を囲んでいました。前漢、後漢の時代には朝鮮半島の西北部に長城があったことはあんがい見過ごされています。現在の長城は山海関からはじまる明代の長城しか見ることができません。万里の長城の変遷を知ることは出会いのように突然くるものです。
以下は、万里の長城の中国版の図表です。


banri-choujyou_koushoku5.jpg↩拡大図



魏書三十東沃沮傳: 「東沃沮在高句麗蓋馬大山之東,濵大海而居。」
東沃沮は高句麗蓋馬大山の東にあり、濵大海に居る。
東に濱大海[日本海]がある。高句麗の東という方向にあるのは日本海にほかなりません。
さて、元山港の北西には海水浴場や遊園地のある松涛園(ソンドウォン)遊園地が続き、元山港の東の葛麻半島西岸には明沙十里(ミョンサシプリ)という長い砂浜があり、夏季の休養地、景勝地となっています。鮮半島東海岸にある東朝鮮湾の奥には、南の葛麻(カルマ)半島と北の虎島(ホド)半島に囲まれた永興湾があり、朝鮮東海の荒波から守られた天然の良港になっています。
葛麻半島の内側が元山港のある元山湾(徳源湾)で、葛麻半島の外の永興湾には薪島・大島・小島・熊島・麗島など20余りの離島が点在しています。
元山港の北西には海水浴場や遊園地のある松涛園(ソンドウォン)遊園地が続き、元山港の東の葛麻半島西岸には明沙十里(ミョンサシプリ)という長い砂浜があり、夏季の休養地、景勝地となっています。

明沙十里(ミョンサシプリ)という長い砂浜
一方の馬息嶺一帯は冬季の総合レジャータウンとして開発が進められています。




邪馬壹国は阿波・徳島」説は方位と距離に誤りがある。

Google Earthという最新テクニックを使っています。先端技術をつかっていますが、阿波・徳島」説は周髀算経・谷本茂氏の一寸千里の法一里76m~77mを正しい里の単位として採用しています。魏志倭人伝に書かれた方向・距離は正しいとして、修正したりしないという前提も、わたしの手法と同じですが、ただ、わたしの説とは方位と距離の取り方が違います。
12000里に短里76mでは、912kmになります。912kmでは、たしかに徳島に特定するしかないんです。ただし、郡からの方位がアバウトです。方位4分法の東南の方向とは14度ほど違います。14度の差は許容範囲なのでしょうか。また、いわゆる短里76m~77mで、どこもかしこもぴったりですと断言していますが、あえて疑問を呈してみます。


方向や距離は正しいという前提で最新兵器GoogleEarthを使ってシミレートし、邪馬台国=阿波徳島だと証明されたというのですが、一里76mの短里を用いたばあい、912kmですから確かに阿波徳島以外に候補地はありませんね。ただ、真東南より、-14.25度という少なくないずれがあります。東南の八方位の許容範囲でいいのでしょうか。方向がやや甘いように感じます。逆にいえば一里の距離が短里76mでなければ、阿波徳島にはならないのです。先行きがあっての後付け論と思われます。また、論者は「東南の方向にぴったりです」・・・と言っていますがぴったり合致しません。誘導してますよね。「東南の方向にぴったりです」・・・そこが一番疑わしいのです。一寸千里の法一里76m~77mを採用したら、北九州説も大和畿内説も否定されてしまうのです。また、会稽東治の東との交点だというのはなんですかね。項羽の城跡が会稽の本地だとは思えません。


項羽の出身地である会稽の下相城=江蘇省宿遷市宿城区【座標:33.564985,118.125252】を起点に真東の線を引いてみました。白い線です。しかし、徳島の上山町で交差しないのですが、なにか私のリトレースした方法に間違いがあるのでしょうか方向や距離を違えないで考えるということでしたが、「まひがし」というのは、方位90度ですが、なんと阿波徳島と遠く離れています。真東には当たりません。いったん疑問を呈しておきますが、一方的情報といわれても困ります。ここは、みなさんの判断にお任せします。多々ある説の中で、最新のテクニークを使って解決するといった場合、方向や距離を絶対に変えないという前提と矛盾していたら、はたして解決したと言えるのでしょうか?
。*浙江省紹興市の会稽の禹廟から真東(しんとう)も引いてみました。後漢書では、【稽東治之東】を【會稽東冶之東】に書き換えてしまいました。この新解釈で会稽の東に邪馬台国があるという勘違いもさることながら、会稽の東をシミレートした結果は、ご覧のように日本本島に接しないのです。奄美大島を北の海上をかすめるのですが、・・・いままでの解釈がいかに方位におおざっぱだったのか知ることができます。


項羽の出身地である会稽の下相城=江蘇省宿遷市宿城区【座標:33.564985,118.125252】を起点に真東の線を引いてみました。その2図。
*赤い円周は半径1000km。

 ->  ->  -> 序

周髀算經 [漢] 公元前50年-100年での計測法は、夏至の日の南中点を利用したもので、南北方向の距離は取れますが、東西はとれません。また、夏至の日とは一年に一日しかありません。例えば、外国にある遠い地、漢書地理志西域のように50か所もの観測ができたでしょうか。夏至の一時に同時に計測結果を取れたでしょうか。そんなことはできません。あらかじめ、それぞれの場所で夏至の南中点の角度を観測データとして持っていないとならないわけです。
渾天儀による天文観測での二点間の距離は北極星を軸に、度数を観測するわけですから、遠くはなれていても二点間の距離は出せたものと思われます。ただ、移動式の渾天儀では精密な計測ができたかどうか疑問です。精度といえば小数点3桁ぐらいまでの角度が計測できないとピタゴラスの法則で距離をだすのは難しいのです。十二支方位盤程度の分割比例ではできません。



Ke!+San =直角二等辺三角形・直角三角形・二等辺三角形・不等辺三角形の各種計算が可能なWEBプログラム。
もう、朝日が昇りかけていますので、もう寝ることにします。ひとまず、おやすみなさい。



卑弥呼の里を計測する
 魏志倭人伝の一里とその方位偏差を探っているうちに、狗奴国が分かれば卑弥呼の土城もわかるのではないかと思っていました。

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