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狗奴国の真実。
狗奴国は朝鮮半島にあった。狗奴国は高句麗と百済の二か国。元名が句麗國と同一だった。
倭國は高句麗の東南、ソウルの北。東沃沮にあった。
Contents Index
一部
<第一章>
アプローチ
魏志倭自伝を読むまえに知っておくべき知識
1.倭、倭地、倭種、倭水人、女王、倭國、女王国などの初期定義
<第二章>
<第三章>
里程論
倭地の一里は中国領土内の基準の20分の3 [15%]に縮小されていた。
末盧國~伊都国~奴国~不彌國~投馬国~邪馬壹国のコース
伊都国~女王國のコースを全解
・女王と倭国と狗奴国のロケーションを暴く。
原文配列構造
プログラミング言語のような構造式!
<第四章>
倭人伝現代語全文私訳
通説と対照
<第五章>
会稽の”倭人”
<第六章>
九州の地域・女王国と奴国
<第七章>
九州外の島嶼・侏儒國・裸國・黒歯國
<第八章>
倭國・狗奴國編
1)卑弥呼の敵だった狗奴国王は高句麗王だった!
2)公孫度と卑彌呼と尉仇台の関係 卑彌弓呼(ヒミクコ)は中国名・位宮!実名 憂位居(ゆういご) 幼名 郊彘(こうてい)
第二部
小論:発見!「倭の五王」は百済王
小論:七支刀・稲荷山鉄剣・江田船山古墳の鉄刀
小論:漢書地理志 西域里の発見
小論:倭奴国と倭国の違い、金印は偽物
小論:後漢書 倭伝はお笑いの傑作
第三部
渡来人の伝承
小論:日本史を変える「倭の五王」の後裔
小論:朱蒙王物語 魚の河渡りはなんという河だったのか?
なんと好太王碑から判明する
小論:河伯女郎、好太王碑から
小論:河伯と茨田池(まむたいけ)
小論:天皇初の仏教
天皇が仏教に帰依したのはいつごろか
皇極、孝徳の秘密に帰依者。皇極天皇
小論:松浦佐用比売伝説と任那
小論:鬼伝説と日本書紀
小論:羽衣伝説は日本海が本流
小論:つぬがあらひと伝説
小論:雛の字の秘密 隋書俀國伝
小論:海彦山彦伝説と宇佐神宮
「Symbols are language that can help us understand our past.」
シンボルは言語であり、過去を理解する助けとなる。(ダビンチ・コード)
以下は本文の抜粋と要約をコラム化したです。
Topic1:
「都」の漢文訓読が誤訳だった!魏志倭人伝、あなた、「都」を「みやこ」と思い込んでいませんでしたか?それは、とんでもない誤訳で、ほんとうは、「辺境の封地」という意味です。すると、女王は邪馬壹國にはおらず、逆に、帯方に近い倭国から高官・大率を女王国に派遣して邪馬壹国を支配していたのです。みやこは中国語では周代は「京師」、三国時代は「京都(けいと)」が正しいのです。邪馬壹国の女王卑弥呼」というイディオムは的外れだったのです。こうした、つっこみどころが多い誤訳文をテキストをベースに研究論文を発表している学者および諸兄が誤訳のドロ沼にはまっているのです。誤訳のうわぬりをする邪馬壹国論は後をたちません。この国の知性にバカの壁があるといったら過言でしょうか?中国文は中国の古い辞書(説文解字)などを参照して、中国語を中国語として読む、つまり漢字の持つ論理性を壊さないことが大事です。ですから、解釈は原文からやり直すこが必要です。左のインデックスタブ、第一部アプローチの小論をぜひお読みください。
「(女王)その南狗奴国あり」と書かれています。この倭国の南の狗奴国があいまいでは倭国もはっきりさせることはできません。さらには、女王国も邪馬壹国も語ることはできません。魏志倭人伝は神業ともいえる一級の地理誌です。2000年前の正確な古代地図が描けるのです。ところで、「困った時は范曄だのみ」のという論者がいますが、後漢書を頼るととんでもない間違いを犯します。
本論は原典に戻り、魏志倭人伝を原文から徹底的にサーチします。アプローチ編では必須のキーワードとなる漢字そのもの、その漢字に秘めたロジック、また連語や構文をしっかりと定義づけします。また、方位や距離を忠実に、かつ、全文の配列構造を分析し解読します。こうして今までの邪馬壹国畿内説が多くの誤訳にもとづいていることを暴きます。原文は三国志の一部です。三国志は三国志のカテゴリーにおいて解釈すべきです。日本史からのサポートはすべて無駄なこじつけになります。卑弥呼と倭国、伊都国、奴国、女王国、邪馬壹国の関係を書き下ろします。邪馬台国、阿波徳島説、別府温泉説も、方位と距離をできるだけ忠実に再現しようと努力した跡が見られます。現代は「面白くてためになる」といった、読み物の時代ではなく、コンピューターが人間以上の思考性をもつじだいになりました。一見にしかず、地図なら長い説明はいりません。それぞれの位置関係は地図でしめし、見るだけで理解できるようにしました。魏志倭人伝の最新の訳とイノベーションをお楽しみください。
Topic2:
「女王国」は倭地の一国だった!女王国は一つの国! 女王とどこか違うのか?初公開
女王国の分析
「女王国を東に海を渡ること千余里にして、また国あり、皆倭種なり」
とある。ここでの意味は大きい。つまり、
原文[女王國東渡海千餘里復有,國皆倭種]だが、文頭に自の脱字があり、(自)女王國東渡海千餘里復有國,皆倭種と自を補足して訳すのだ。女王国から東が海だと証明できた。したがって、
女王国は海に面しており、東に千余里(69km)海を渡ると、また国があって、倭人と同種の人が住んでいると言うのである。すなわち、九州島の東北海岸に女王国がある。
「女王国より以北は、その戸数・道里、得て略載すべきも、遠絶にして詳かにできなかったその余の”旁国”が次にある」
とある。また、
「帯方郡の使いが往来していて、つねに女王国に駐在している。」
郡使が女王国まで往来しているのである。したがって、
女王国が倭地の首都であろう。往来しているという事実は重い。だからこそ里数を書くことができたのだ。しかし、その他の国々は、海で隔絶しているために書くことができなかったのだ。
1)女王国の以北にある国々はその戸数や道里はだいたい記載できた。
女王国の以北にも、その他の地にも国がある。戸数・道里が簡単に記載された国々は對馬國から邪馬壹国まで8カ国あり、当の女王国を入れると以北にある国々は合計9カ国である。
2)奴国がある。これが女王の(支配している)領域の尽きる所である。
1)2)これを2式を連立式とすると、女王国と奴国はともに女王領域の南端にある国である。したがって、
女王国と奴国を点として結んだ線が以北にあたる境界線である。女王国以北には複数の国があるので面(エリア)のプロパティであることが証明される。
3)奴国から東に直列(連続)して、不彌国があり、奴国、不彌国、投馬国、邪馬壹国、女王国の5カ国は奴国と女王国をむすぶ南限の線に並立している。したがって、
奴国、不彌国、投馬国、邪馬壹国、女王国の5カ国は境界線以北にあることが証明できた。
4)「奴國,此女王境界所盡其南有狗奴國」からは、女王を起点に奴国が境界にあるとしているので、道里の起点が郡から女王に変更されたのだ。狗奴国は女王の南であると言っている。したがって、
5)<自女王>南至投馬國、<自女王>南至,邪馬壹國,
4)と5)は連立式としてみると、狗奴国、投馬国、邪馬壹国のいずれも女王(”倭国”)から南であり、かつ、女王国以北である。
6)道里とはA点からB点までの距離を里数(例えば500里など)で示すことである。投馬国と邪馬壹国と狗奴国は里数の書式では記されていない。水行陸行なん日というのである。したがって、
投馬国と邪馬壹国と狗奴国の項は郡を起点にしておらず、女王を起点にした距離の範疇だといえる。
ここで女王国というのは、倭地の全体の国であろうか。または邪馬壹国のことであろうか?
「女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ」
となっており、女王国が決して倭地の諸国全体を示す言葉でないことを証明している。しかし、女王国以北となると面となる。
「三十ケ国には王がいて、みな女王国に服属している。帯方郡の使いが往来していて、つねに女王国に駐在している。」
したがって、
女王国は、倭地の中の一国であり、郡使が駐在しており、かつ對馬國から邪馬壹国まで8カ国は女王国に従属するのである。
また、
女王国は九州の東側の海に面しており、邪馬壹國より南にある。
「郡より女王国まで一萬二千余里である。」12000里ちょうどは伊都国であるので、余にあたる1800里は伊都国と女王国の距離である。
まとめると、
女王国は九州島の東海岸にある一国で、以北の諸国を従える。帯方郡から一萬二千余里(13800里=828km)にある。
さて、卑彌呼は邪馬壹国の女王だったのだろうか?
「奴国が女王の(支配している領域)の尽きる所である。女王の其の南には狗奴国があり、男子を王とし、狗古智卑狗が官に任じられている。女王に服属していない。」したがって、
女王の二文字は卑弥呼の居る地点であり、狗奴国は起点である女王と終点である奴国の中間にある。
「正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉,詔書印綬詣倭國拝假,倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡釆物倭王因使上表荅謝詔恩」
「正始元年、太守弓遵(きゅうじゅん)および建忠校尉梯儁(ていしゅん)等は改元朝賀の儀に倭国を奉賀朝貢させた。(魏帝曹芳は)詣でた倭国に詔書と印綬を拝假し、倭王に併せて金帛錦、罽刀、鏡、釆物などの詔賜を齎(もたら)した。よって倭王は(倭国から)使者を出し上表をもって詔恩に答謝した。」ここで倭王と倭国の二字が一致する。
(景初二年(238年)の十二月、魏の皇帝(明帝)は詔書を倭女王に報い、次のように語った。
「制詔!親魏倭王卑弥呼よ!・・・」したがって、
倭女王卑彌呼は倭国の女王だったということになり、邪馬壹国の女王ではない。この正始四年の解釈はおおかたの人が梯儁(ていしゅん)が日本に渡海してきた証拠文としています。全くの誤訳です。ほぼ、さかさまな解釈をしています。
以下、説明、ですます調になります。
魏志倭人伝全文中、邪馬壹国は一カ所、女王国は五カ所に記載されています。したがって、邪馬壹国にいきなり焦点をあわせるよりも女王国にしぼって解析したほうが作業としてはやりやすいといえます。関係式を構成するためには条件文や論理文が多いほうが断然有利です。
女王国が郡から12000余里にあるのですが、余里を15%とわたしは定義しています。そこで、12000を1.15倍にして13800里です。13800里は郡から女王国までの全距離を示しています。郡からの表示には里数が必ず付きます。方位は東南と東(奴国から転じる)の二方位しかありません。この12000里までは東南、奴国までの100里も東南。しかるに、奴国からは東に転じます。ゆえに、12000余里の行程は、奴国から折れ線の状態にあります。
郡からのルートには里数で書かれている。それと違う表記の仕方があるということに気づけば、これが分岐条件になり、起点が異なると考えられます。
女王を起点にするばあいは里数という形式ではありません。女王から南と書かれる国々は、狗奴国、投馬国、邪馬壹国の3カ国です。かつ女王からの表記には日数で書かれています。南でかつ日数で書かれているグループは郡からの里数表記の国々とは(起点が)異なると考えられるわけです。また、別に狗奴国、投馬国、邪馬壹国の3加国は女王国の以北にあるという条件が重複してあります。
*(狗奴国は自至構文ではなく有構文ですので例外です)(*女王の二文字は卑弥呼の土城がある地点のことで、朝鮮半島東海岸に在ります。すなわち倭国の京都ということです。)
わたしは、長い間、伊都国が女王国だと思い込んでいました。これが間違っていることに気づいたのは、伊都国が奴国の以て北にあるべきことです。奴国は伊都国の東南百里ですから、南限になるのです。加えるに、「自女王國以北,其戸數道里可得略載」の条件からは伊都国は女王国より北にあるのですから、伊都国は女王国ではないことは明確です。したがって、女王国も奴国と並んで南限です。この奴国と女王国を結んだラインがいわゆる魏の支配の及ぶ境界線です。女王国以北に末盧國、伊都国、奴国、不彌國、投馬国、邪馬壹国などすべてが女王国以北になるのです。この以北の条件文はいつも大きな争点なのですが、倭人伝は9カ国が以て北に矛盾なくすっぽりと収まるように論理構築がなされているのです。このことは中国語の原文の構文と構成を見ないとわかりません。また、後漢書の「倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也」の一節では倭奴国が倭国の極南界にあるとします。後漢書は倭奴国と倭国を峻別していることについては間違っていません。
投馬国をよく宮崎県西都原に比定するとか、狗奴国を熊本県菊池川流域にあてる説は、女王国以北という条件に外れますので、地域考証する必要がありません。したがって、まっこう論じあう必要がありません。
「女王國東渡海千里復有國皆倭種」について、女王国のロケーションをみるのに重要です。女王国は九州の東海岸、海浜に臨んでいます。大詰めはなんといっても邪馬壹国でしょう。邪馬壹国は女王国より北にあります。したがって、国東半島の両付け根にある可能性が高いのです。
邪馬壹国宇佐説、邪馬壹国別府温泉説は今後有力な邪馬壹国比定地になるでしょう。私が考える邪馬壹国比定地は赤い丸の地域です。もっと地域考証が必要となるでしょう。道程を下図のように描いてみました。
Cが水行と陸行の変わり目 日田市 邪馬壹國=E 宇佐
黄色の内円で届くのは宇佐だけ。奴国ー日田の間隔を日田ー宇佐に適用した図。
邪馬壹國>宇佐
投馬国>朝倉市東部 恵蘇八幡宮 朝倉市山田166 地図:http://goo.gl/maps/BqJAO
上の図はGoogle方位測定を使っています。左にリンクしていますので、どなたでも再現できます。お試しください。
手順:バルーン1(起点)を奴国の位置にドラッグします。次に、右の入力ウィンドウに方位を98度、距離を108kmに設定して、表示コマンドをクリックします。
実行の結果、バルーン2、女王国が表示されます。女王国のバルーンをzoomできます。拡大すると等高線のある詳細な地図がご覧になれます。(女王国のバルーン2は予断を以て手動で描画したものではありません。)
*区間距離の合計は総距離に一致する。一里は0.06km
Topic3:
里程論の結論 予断なく推測すると、女王国は大分市だった!邪馬壹国はその北にあり、別府周辺!
区間距離、総距離ともに方向、および一里定数0.06kmに矛盾がありません。
余里の余は15%の実数にする。
邪馬壹国は女王国以北で、奴国からは東に位置します。区間距離、総距離ともに方向および一里定数0.06kmに矛盾がありません。
ーここまで郡からの道里ー
【重要】下の地図は全体をマイナス8度回転させて、当時の方磁石の北が真上に来るように修正しています。陳寿の地図が東夷の国々を方磁石をつかって道里を計っていたことの証拠になります。
これがほんとうの陳寿の地図だ。
郡からのルートは里数をもって書かれるのは不彌國までです。その東に並ぶ投馬国、邪馬壹国は日数で書かれています。ここにメスを入れる必要があるでしょう。日数で書かれるということは里数が明確でないからです。里数が書けない場合は、日数を以て記すのです。したがって、投馬国、邪馬壹国は、郡からの道里ではないことを示唆します。投馬国、邪馬壹国は南至だけです。起点である”どこから”が省略されています。女王南とは狗奴国のあるところですが、投馬国、邪馬壹は南というところが共通です。したがって、郡からの道里でないとすれば、いったい何処なのでしょうか。里数では示すことができなかった理由が重要なことです。そこで、この二か国は郡からではなく女王からの距離となると考えるのが自然です。不彌國と女王國の間にある投馬国、邪馬台国は郡からの道里ならば容易に里数で表記できたはずだからです。さて、女王とは、重要な地点で、女王が居る所すなわち倭国です。倭国からの道里は陳寿にとっても里数で書くことがことが難しかったわけです。上の図の方の一辺10483里の仮想距離が水行10日陸行1か月となるでしょう。投馬国、邪馬壹国とはっきり区別できるのは女王国です。自郡至女王國萬二千餘里。とあるように12,000余里とあり、郡からの里数で示しています。女王国は郡からの距離だということがはっきりしています。おそらく郡使が常に逗留する所だったからでしょう。
「女王南」が定型熟語(イディオム)として成り立っていところをもう少し詳しくみます。
奴國此女王境界所盡
①其南有狗奴國男子爲王②其官有狗古智卑狗不屬女王
ここでの其の字の係り受けが重要です。
*①の其は女王、②の其は狗奴国を主格にしています。女王と狗奴国の地理的な関係を示す重要な文節です。女王は女王のいる所で、すなわち倭国です。
訳すと、「奴国が女王の(支配している)領域の尽きる所である。女王の南には狗奴国があり、男子を王とし、狗古智卑狗が官に任じられている。女王に服属していない。」
磁方位東偏8度分左回転補正 邪馬壹國推定値の二か所 杵築市のエリアか宇佐神宮のエリア
オレンジの線はまひがし90度に修正されています。目の錯覚が生じるかもしれません。
Topic4:
魏志倭人傳の一里を数式で解く!はじめに「余」の字を実数化する。地域固有の一里の単位実数を計算します。(東夷里)
Stip1>魏志倭人伝の里はすべて点と点を結んだ直線距離です。(自~至~構文の法則)
Stip2>魏志倭人伝の里数についている「余」の字を数式化します。
【定義】
α=”余”(プロパティ数値)
x=”郡から末盧國まで”==10000(余を除いた合計値)
b="末盧國から伊都国まで"=500
y==12000
上記の定義より次の数式を立て、α=余の割合を求めます。
【一次関数】 @IkkoKurosawa2020/05/13
α=(y-b)/x
【余の乗数】
α=1.15
αの値が分かれば魏志倭人伝の区間とその合計の値を数式で割り出すことができます。
郡から加羅韓国(金海)まで483km(Googleでの測定値) 里数は7000α=8050
483÷8050=0.06
一里は0.06kmとなります。この値は「東夷里」と呼ぶことにします。検証は次章の「里程論」で詳しく説明します。東夷里は倭韓、楽浪郡、帯方郡の領域で適用でき、いつなんどき地図上でシミレーションしても再現性をもつ定数です。
倭里論-以下論理式
1.~余里の余をαと定義します。"余"=α
2.α=1.15
3.("帯方":"狗邪韓国","余里")=7000*αと式にします。
4.a=("帯方":"狗邪韓国","余里")=7000*α=〔7000x1.15〕=8050
5.b=("狗邪韓国":"末盧國","余里")=3000*α=3450
6.a+b=("帯方":"狗邪韓国","余里")+("狗邪韓国":"末盧國",余里")=8050+3450=11500
7.c=("末盧國":"伊都国","里")=500
8.("帯方":"伊都国","里")=a+b+c=12000
9.("帯方":"女王国","里")=("帯方:伊都国","里")=12000
10.x=("帯方":"狗邪韓国")〔,GPSの距離〕≒483km
11.x/a=0.06km
*()内の式中に,里だけとあり余なしの場合はそのまま実数値となります。
*9.総距離は区間距離の合計と一致するという定義が成立します。
*10. xの値は一里のメートル換算値です。倭人伝では一里60メートルとなります。
前提となるαの規定値はタグ「狗奴国を暴く」で地図上で検証しています。
Topic5:卑弥呼の墓は直径23m!魏尺では一歩は六尺で144.72cm、卑弥呼の塚は、100歩+余歩で直径約144mと考えられています。ですが、西域には西域の、東夷には東夷の、それぞれ地域ごとに異なった長さの単位が用いられています。卑弥呼の墓は中国本土にはないのですよ。みなさん、こうして中国の度(長さ)をメートル数値で換算するのは間違いだと気づきませんか。倭人伝の一里は60m(既説)で、一里は300歩、300で逆算すると一歩は20cm、100余歩は余を15%として、115歩です「徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」、径とは円の直系ということです。なんと卑弥呼の塚は円墳でさしわたし23mにすぎないことになります。@2019/11/18 公開
Topic6:
狗奴国の王が明らかになった!狗奴国は句麗國の別称です。
狗奴国には南北に二か国ありました魏志倭人伝に2か所書かれている狗奴国(くなこく)が句麗國(くれこく)であると分かったら、邪馬壹国についての数々の学説が、根本的に違っていたということになります。あなた、倭国が戦っていた相手が高句麗なのですよ。敵国の正体が露呈したら、さあ、たいへん!歴史がひっくりかえります。
しかも、狗奴国は二か国ありました。
北の狗奴国
卑彌弓呼が東川王
南の狗奴国
狗古智卑狗が古爾王
二か国のうち、第一の狗奴国は高句麗で、卑彌弓呼こと時の王は第11代の東川王です。第二の狗奴国は伯濟国(百済)で王は狗古智卑狗こと第8代古爾王です。玄菟太守の王頎に参軍して卑弥呼が戦ったのは高句麗の東川王でした。後漢書では句驪國と書かれています。
「狗奴国が二か国ある」ということ、そして史上の人物名まで完全解明したのは、わたしが初めてです。また倭の五王は日本の天皇ではありません。倭王を名のって東晋に朝貢していたのは百済王でした。「倭の五王は百済王」のタグの章に詳述しています。小著、『卑弥呼Xファイル』は、日本の『ダビンチ・コード』になるはずなんですが・・・?
Topic7:
幻の倭国がとうとう姿を現した!倭国は現在の北朝鮮の日本海側、
咸鏡南道(ハムギョンナムド)だった!
★「倭国は高句麗の東南大海中にあり。代々貢職を修める。・・・」南宋は倭国を日本の地にあるとは思っていなかったのです。
ここで東南の大海とは日本海のことに違いありません。”高驪”の二字は”高句麗”、さらに、これを”北の狗奴国Ⅰ”に置き換えることができます。こうして「倭国は高句麗の東南大海中にあり。」の意味がやっと納得ができます。意外にも倭国は朝鮮半島の日本海側、すわわち東沃沮、今の咸鏡南道(ハムギョンナムド)にあったのです。<下の地図>
上は、現代のマップでの方位線。これで皆、混乱のつぼにはまる。
下の地図に修正すると、陳寿が構築した全体像がいい加減でないことがわかる。
西暦250年の磁方位にすると、倭国のちょうど「ま南」が狗奴国になる。
緑の方位線は現代の八方位です。この地図は方位を-8度にしたものです。魏志倭人伝の地図は全体を8度左回転させるのです。
どうでしょうか?ちょうど倭国のジャスト南に狗奴國がありますよね。
漢の時代嶺東七県の中の華麗侯国。麗の文字がさまざまな推理を呼び起こす!《宋書》
《卷五本紀第五 文帝》
53倭國在高驪東南大海中,世修貢職。高祖永初二年(421年),詔曰:「倭贊萬里修貢,遠誠宜甄,可賜除授。」太祖元嘉二年(425年),贊又遣司馬曹達奉表獻方物。贊死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍倭國王。表求除正,詔除安東將軍倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。二十年(444年),倭國王濟遣使奉獻,復以為安東將軍倭國王。二十八年(452年),加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故并除所上二十三人軍、郡。濟死,世子興遣使貢獻。世祖大明六年(462年),詔曰:「倭王世子興,奕世載忠,作籓外海,稟化寧境,恭修貢職。新嗣邊業,宜授爵號,可安東將軍倭國王。」興死,弟武立,自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍倭國王。
以下、私訳。
「倭国は高句麗の東南大海中にあり、代々貢職を修めている。高祖(武帝・劉裕)永初二年(421年)、皇帝は次のように詔した。「倭賛は萬里(長城)の修貢をなし(燕長城の貢職)その深遠な誠はよろしく、よって、徐授を賜うべし。」 太祖(文帝・劉義隆)元嘉二年(425年)に司馬曹達は賛を奉賀朝貢に遣わした。賛が死に、弟に珍が即位し、遣使貢献してきた。珍は「使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍倭國王」を自称して、上表し徐正(進号)を求めてきた。皇帝は詔して、安東將軍倭國王と徐授した。珍は又倭隋等十三人、平西征虜冠軍、輔國將軍などの号の除正を求めたので、並びに聞き入れて除正した。文帝20年(444年)倭国王済が遣使し奉賀朝獻してきた。済を安東將軍倭國王に戻した。文帝28年(452年)文帝は倭国王済を使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍と徐正し、軍、郡の二十三人の授正を以前のように併せて詔した。濟が死に、太子興が遣使を出して貢獻してきた。世祖(孝武帝劉駿)大明六年(462年)皇帝は詔をだした。「倭王太子興は、代々忠実に朝獻し,籓を外海に作り,天意に従い国境を寧(やす)んじ,うやうやしく貢職を修め。新たに辺業を継ぐ,爵号を安東將軍倭國王に授正するのにふさわしい。」興が死んで、弟の武が即位した。「使持節都督,倭,百濟,新羅,任那,加羅,秦韓慕韓七國,諸軍事,安東大將軍倭國王」を自称して上表してきた。
*奕世=累世,代々の意。倭国は初代王からずっと漢に貢献を絶やさなかったのです。したがって、倭国は(元)日本ではなかったのです。中国がこのことに気づいたのは隋書以降です。旧唐書では日本国を倭国の別種と表現しています。元史・日本伝「日本国は東海の東に位置し昔は倭奴国と称した。」、いずれも日本という国号を定めた以降に倭国とは違うことを表現するようになったのだと言えます。
*司馬:中国、周の六卿の一。夏官の長で、官制・祭祀(さいし)・軍事をつかさどった。前漢には大司馬と称し、三公の一。司馬は元々軍事をつかさどる官職のことである。曹達という人物は不明であるが、帯方郡?太守に次ぐ高官であるとみる。
*元嘉元年8月:(424年)宋の文帝こと劉義隆が即位、元嘉と改元。元嘉二年に改元奉賀朝貢が行われたもの。奉賀朝貢は太守が推薦仲介する。
*南朝宋の何承天が元嘉20(443)年に作成した暦法。定朔望の採用を主張したが,反対にあって実行されなかった。しかし同22年以後梁初までの暦はこれによって計算された。
*世祖:430年8月、文帝(劉義隆)の三男として生まれた。436年9月、武陵王に封じられた。439年、都督湘州諸軍事・征虜将軍・湘州刺史となった。440年、使持節・都督南豫豫司雍并五州諸軍事・南豫州刺史に転じた。444年、撫軍将軍の号を受けた。445年、寧蛮校尉・雍州刺史に転じた。448年、安北将軍・徐州刺史に任じられ、彭城に駐屯した。450年、汝陽の敗戦の罪に連座して鎮軍将軍に降格された。451年2月、北魏の侵入を許した罪で、北中郎将に降格された。3月、南兗州刺史となり、山陽に駐屯した。6月、南中郎将・江州刺史に転じた。
30年2月:皇太子劉劭、文帝を殺害し即位。太初と改元。453年1月、長兄にあたる皇太子劉劭が文帝を殺害すると、劉駿は兄を討つべく江州で起兵した。4月、新亭に進軍して、皇帝に即位した。元号は(454年)初め孝建。孝建(454年-456年)/大明(457年-464年)孝建三年後太明に改元。諡号は南朝宋の第4代皇帝・光武帝:
@2020/07/13公開
(左のメニュータグ・里程論の後半に詳述)
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倭国(女王)、狗奴国Ⅱ、帯方郡治、楽浪郡治の関係図*北は方位角+8度(当時の磁方位偏角)ほんとうの北と、磁石針のN極が指す方向がずれているということです。50年ぐらいの間隔で、磁方位はほんとうの北より西に傾いたり、東に傾いたりしているのです。このことは磁気考古学で証明されています。そこで、上の現代の地図を8度左回転に補正してみます。
わかりやすくしますと、地図全体を8度左回転させるということです。すると、現代の地図をみているのと変わらず、南北は垂直にぴったり合うことになります。上の地図を中心あたりから左回転させたイメージで見てください。倭国ー狗奴国Ⅱのラインが垂直線になるはずです。)
魏志倭人伝:「其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」
其の字の主格は女王です。そこで狗奴国Ⅱと女王倭国は北の線上にあるということになります。こうして狗奴国が分かれば女王のいる倭国もわかるのです。倭国が公孫氏、および高句麗と交戦したことは地理的にも可能であったのです。
『三國史記』卷十七高句麗本紀第十五 第六代太祖大王 「四年(56年)秋七月、東沃沮を討伐して、その旧領を接収して、城邑とした。(直轄地とした)これによって高句麗の領土が拡大し、東は蒼海(日本海)、南は薩水(清川江)にまでおよんだ。西暦55年には玄莬郡を制圧し、高句麗は東沃沮を自国の領土とした。
漢代之後->魏晉南北朝->三國志->魏書三十->東沃沮傳
《東沃沮傳》「国は小さく、大国の間に押し詰まっているので、ついに高句麗に臣属した。高句麗はその中に大人を置き、使者(高句麗の下級官名)となして統治させた。また大加(高句麗の貴族・部族長)に租税を取り立てさせ、貊布、魚、塩、海産物は千里をかついで高句麗に届けられた。また沃沮の美女を送って召使いにしたが、奴隷のように扱っていた。」「里程論」のタグから抜粋
高句麗が東沃沮を占有していたのは、西暦56年〜西暦189年頃までの間、約一世紀強間となります。(189年は公孫度が海東に進出し尉仇台に宗女を与えたときまですが、濊城の濊王はで高句麗にそのまま従属していたようです。正始7年から魏に朝貢を開始しています。)
*古代朝鮮人は貊族、濊族、韓族の三大部族で形成されていたと考えられていました。東沃沮は貊(ペク)族だったことが貊布の文字から分かります。貊族は北扶余、東扶余、卒本扶余に分裂していましたが、おおむね新興の高句麗に服属されていったのです。ここで高句麗の朱蒙が育った東扶余が東沃沮にあったということはあまり理解されていません。また、玄菟郡太守は華麗城におり、118年のころ太守は姚光(ようこう)だったと《後漢書》列伝巻85東夷列伝高句麗に記されています。東扶余と第一次玄菟郡は近い距離だったと思われ、玄菟郡は嶺東の華麗県にあったようです。
*服属とは統一と違い、王はそのまま安堵されますが、属国としての礼や貢納をしなければなりません。当時、貢女といわれていますが、女性を献上することがありました。これらの女性は身分もあり、教養が高い女性たちで公的に選別されます。したがって、婢と違うところがあります。でなければ句驪王がすぐに後宮に入れることなどできません。貢女に引き立てられると親元を離れなくてはなりませんし、世間からは蔑まれるため、わざわざ汚い恰好をしたり、美貌を隠したりして貢女狩りを逃れようとしました。奇皇后は貢女であったと言われていますが、元朝最後の皇帝順帝トゴン・テムルの皇后に昇り詰めました。奇皇后(きこうごう、1315年頃
- 1369年もしくは1370年)は、漢字表記は完者忽都。諡号は普顕淑聖皇后。高麗出身で、北元皇帝アユルシリダラを生みました。本貫は幸州奇氏。
『三國史記』「東川王十九年(245年) 「春三月 東海人獻美女 王納之後宮 冬十月 出師侵新羅北邊」*美女を献上していたことは魏書でも書かれています。
東海人が美女を献じてきた。王は後宮にいれた。軍師を出し、新羅の北の国境に侵攻した。
出自を華々しくするために河孫であると称することがありますが、河伯女郎の子孫だということです。意味は雞彌と同じでしょう。
東明聖王(とうめいせいおう、トンミョンソンワン、朝鮮語:동명성왕)は、高句麗の初代とされる王(在位:紀元前37年-紀元前19年、生年紀元前58年~紀元前19年)であり、東明王、都慕王(つぼ→転化→日向國一之宮都農神社)、姓は高、諱は朱蒙(しゅもう、朝鮮語주몽チュモン)または鄒牟(すうむ転化→水無・飛騨一宮水無神社)、チュモ、朝鮮語:추모)、衆解(しゅうかい、チュンゲー、朝鮮語:중해)とされる。』広開土王碑には鄒牟(チュム)高句麗本紀では東明聖王、姓は高氏、名は朱蒙、別称 鄒牟、象解新撰姓氏録では=>鄒牟(すむ)、須牟祁(すむき)王の後なりとある。須牟祁王が第一番目の須佐之男となります。=初代東明聖王、須世理比売の父。須牟祁(すむき)王の実名は高无胥(北扶余六世)。須佐之男は代名詞で二人となる。二人目はもちろん朱蒙。朱蒙は高无胥の婿となり、王位を譲位されたので解氏を改め高氏となり、国名を句麗國に高をつけて高句麗とした。
新撰姓氏録=須牟祁(すむき)王、第一番目の須佐之男、須世理比売の父。第一の須佐之男こと一人目の東明王。新撰姓氏録=>鄒牟(すむ)、都慕王(つぼおう)==高朱蒙のこと。
続日本紀=>>仲牟王、都慕王=高朱蒙のこと。
広開土王碑 碑文抜粋
「椎昔始祖鄒牟王之創基也 出自北夫餘天帝之子 母河伯女郎 剖卵隆世而有聖・・・」
鄒牟(スム)は朱蒙
天帝は解慕漱(ヘモス)
河伯女郎は柳花(ユファ)
朝鮮史では朱蒙は天帝・日月の子、河伯(王)の外孫。
朝鮮高句麗壁画古墳に見える三足烏
平安南道南浦市 古墳壁画6C
集安市 五盔墳四号墓の三足烏
桓仁省満族自治県 五女山
なんと!!冠帽石に三足烏が刻まれている!
大国主の正体。五人の実像
古事記神代=五柱いる大国主命の正体大国主神=①~⑤>>>
①八千矛神=伊邪那岐大御神==金蛙王、随書では嘗(ショウ)
②二人目の須佐之男=葦原色許男=大穴牟遅神==朱蒙=第二の東明王=東明聖王。
③大歳神=八十神=兄宇迦斯==帶素王
④胸形の奥津宮に坐す神=胸形大神==阿曇氏=三女伸系
⑤少名毘古那神=日子番迩々芸命=八幡神《リンク>別編 『スサノオは誰?』よりまとめ》
大国主命が日本の神話では出雲の神としか教えられていないのは残念です。記紀を深読みすると物語の原型が見えてきます。東扶余と阿扶余の系統と沸流・温祚の百済系統、記紀はこの三つの王統をつなげているのです。つなげるのはいいのですが、神武・崇神・応神を縦系列にしていますが、それぞれの建国は100年の差もありません。神武と応神はほぼ同世代の人物なのですが、王統史には王統史なりの書式に則ったのでしょうか?
天照大神の別名神産巣日祖命=高御産巣日神=若きころの名は★八上比米==朝鮮での別の名を召西奴(ソソノ)。★河伯の女=古事記では沼河比賣(ぬなかはひめ)のお名前で歌を一首詠っています。(このグループは紀元前70年~30年ごろまでの史実にもとづく物語です。)沼河比売=河伯(ハベク)の女、名を柳花(ゆふぁ유화)という。朱蒙の母。天照大神の姑(しゅうとめ)になるのです。
卑弥呼は西暦175年~248年で、天照大神の活躍した期間紀元前60年~とはおよそ230年の時代差があります。天照大神が卑彌呼だなんて、どんな統計学?マジックで年代のつじつまを合わせてもうそに変わりはありません。まやかしです。と、言っても天照大神が卑彌呼だとする説はいっこうに絶えないのはなぜでしょう?
語注*位居について、;简位居(かんいご)=简は姓、位居は”王”。すなわち、简王です。(尉仇台の嫡子。魏志倭人伝・景初2年の難升米の実名。居:付属形態素(身を)置く,任じる.【거・コ】用例身居要职=要職に身を置く.以功臣自居=功臣をもって自任する.位居:位する【”위거イゴ】ある地位につく=王
*廁溷(しこん)について=廁所(人糞を豚に食わせていたので厠と豚小屋は同じ構造物になっていた。)=便所のこと。
中国出土、八咫烏(ヤタガラス)の元祖か。
河南省唐河県針織歴墓出土した日月星宿画像石{後漢後期}
Topic10:
東夷傳全体は方位磁石で測定していた!
魏志倭人傳は東偏角8度だった!
したがって、当時の南北を現在の地図に当てはめるには地図全体を8度左回転させる!
魏志倭人伝は方位をどうやって計っていたのか?それは磁石です。方位磁石ですが、コンパスともいいますよね。アジアの船で代表的なのはジャンク船です。ジャンク船は櫂船(かいせん)ではありません。櫂船の能力ももっていますが、れっきとした帆船(はんせん)です。なによりも漕ぎ手が基本的には不要です。この漕ぎ手がいらないということは、その人数分を戦闘員を乗り込ませることができます。漕ぎ手は一本の櫂に三交代、三人の奴隷が必要です。櫂が左右6本、計12本あれば36人の奴隷が必要です。帆船ならば水夫兼戦闘要員の奴隷のかわりに本格的な水兵軍団を乗せることができるようになっていたのです。三国志の赤壁の戦いでは、軍船対軍船の戦いでした。
仮にある郡使が船で日本にやってきます。彼はまず上陸するやいなや、すぐに方向を知ろうとするでしょう。さて、問題です。彼はどうやって方位を知るのでしょうか。船の羅針盤を陸に上げて使えばいいのです。方位の計測につかうことは容易なことです。北の方位は常にわかります。それと自分の進んでいる方位を同時に教えてくれるのですから、便利このうえありません。3世紀の卑弥呼のころ、羅針盤があったのでしょうか?また、当時の磁石は正しく真北を指していたのでしょうか?新たな謎に挑戦します。
佐渡上島町佐島八幡神社の天井に吊るされている。1640年 - 1740年頃 東西の表示が逆の航海用の羅針盤。子が北、午が南で目盛りは12方位、30度単位である。方位盤の東西が逆になっているので逆針羅針盤と呼ばれる。方位盤は船に子の中心を船の舳先に合わせて固定しておく。磁針が指すところが進行方向となる。図2のクリノメーターには水準器または水平器がついている。古代の原始的水平器の写真を載せておく。古代でも水平を原理的には計測できた。
ぱふう家のホームページ「チバニアンは一番新しい地磁気逆転の記録」より抜粋
3世紀にあった方位磁石「指南魚」 右の写真は「指南魚」と呼ばれ、一種の羅針盤でした。なんと2500年前、最初に磁石にN極とS極があることに気づいたのは中国人だったのです。
戦国時代にはすでに、実用化されていたのです。3世紀頃より中国で使われた、コンパスの元祖とも言える道具が「指南魚」(しなんぎょ)です。魚をかたどって彫られた木片に磁石を埋め込み、水に浮かべると魚の頭が常に南を向く仕組みになっています。南の方角を指す魚なので、指南魚と呼ばれました。
こうしたことで、中国の後漢、それに次ぐ魏・晋の官吏は、今日でいうコンパスのような「指南魚」で方位を測っていたのです。 「指南魚」が使われていたのは三世紀。これは卑彌呼(174-249)の時代ではありませんか。あなた、古代中国の科学知識をあまり馬鹿にしてはいけませんよ。わたしは谷あり山ありの地上では磁石で方位を取っていたと思います。
移動式コンパスは紀元前にすでに軍用に使われていました。中国の戦国末期、「指南車」という「移動式の方位測定器」がありました。指南針を埋め込んだ人形の手がいつも南を指し示すのです。2600年前、紀元前500年ごろから軍事的に使用されていました。王充の論衡には、「司南之杓,投之於地,其柢南指。」と書かれ、指南針の使用がそうとうに普及していたことを伺わせます。
因みに、「指南する」という日本語表現は、この指南針からきているのです。諸葛亮は兵器にいろいろと工夫をした人物ですが、諸葛亮が好きそうな軍事品ですね。
▽日本書紀に「指南車」の記述があります。
「天智天皇即位5年 起癸亥年(663年)至于三歲、並賜官食。倭漢沙門智由、獻指南車」
大和の漢人(あやびと)の僧侶智由がが指南車を献上したといいます。東国に2000人の百済亡命人を移したことへのお礼でしょうか?天智天皇即位5年とは癸亥年(みずのとい) 白雉14年とされ663年です。
卑弥呼の時代、東北アジアでは磁方位は東に傾いていました。磁石の指す方向は、N極が北をさすということは知っていても、真北を指していないということを知ってましたか? 真北というのは、「しんぼく」と読み、地球の地軸の先にある北極星の方向のことです。磁石の方位は真北から西に傾いています。現在東京では平均、約7度ほど西に傾いています。これを、西偏しているといいます。方位偏差というのですが、7度も違うのですから、あなた、磁石だけを頼りに遠くへ行くほど、地図の目的地からはどんどん離れてしまいます。
卑弥呼の時代は、方位偏差が東偏だった事実が磁気考古学で判明しています。現代は西偏ですが、AD250年ごろは、東に10度近く東偏していました。魏志倭人伝の頃の帯方郡の磁方位は、方位偏差を加えて修正しなくてはなりません。仮に3世紀初頭のGPSの地図を想定しますと、東南135度の方位角に、8度ぐらい足して、143度が当時の磁方位・東南になります。方位143度というのが陳寿の描いていた東南なのです。そこで、143度にチューニングしてGPSシミレーションしなくてはならないのです。やってみてください。
驚くべき結果が得られました。方位角143度ラインに、帯方郡・ソウル・釜山(金海)・対馬(上島)・糸島(筑前前原)・吉野ヶ里が一直線上に並ぶのです。郡ー狗邪韓国ー對馬―末盧国ー伊都国とは、この143度ラインに並んでいたのです。これはGoogleMap距離測定で再現できるという意味で科学的証明なのですよ。
永年変化モデル>過去2000年の磁気方位角推移グラフ
下の図、250年のポイントとNの円周まで直線を引き、伏角40度ぐらいのポイントが卑彌呼のいたところの偏角です。
磁方位の偏角は東偏8度になります。確認してください。
地磁気の方向が水平面となす角度。水平から下向きを正、上向きを負にとる。水平面内の方向は偏角という。伏角が0度、つまり地磁気の方向が水平である場所を磁気赤道という。伏角は赤道付近で0度に近く、高緯度になるにしたがい北半球では正の大きな値に、南半球では負の大きな値になる。伏角がプラス90度、またはマイナス90度になるところは北磁極、南磁極とよばれ、現在はそれぞれカナダのバフィン島の北および南極アデリー・ランドの北の海中にある。250年のポイント:日本は伏角が58度ぐらいにある。北朝鮮の伏角は40度~。
方位偏差を知らなくては、あなたの頭は鎖国時代と同じですよ。あなた、郡より倭まで、そして、郡から女王国まで東南12000余里と魏志倭人伝に書かれているのですよ。郡は出発点で、伊都国を終点とする直線距離が12000里ジャストなのです。出発地である郡とはどこでしょうか?
帯方郡です。著名な邪馬台国論者は、帯方郡がソウル周辺だというんですが、ソウルには、伯濟国という国が西暦55年からあったのです。卑彌呼と同年代の王は古爾王です。なんと、あなた、この王は正始7年に魏の帯方太守弓遵(きゅうじゅん)を戦死させてしまったのですよ。
ゆえに、女王に服属していない国が現ソウル一帯にあったのです。その国の名は5世紀から百済と呼ばれるようになりました。
したがって、帯方郡は大同江の南支流・沙里院市にありました。GPS_時代になっても鎖国時代の説を鵜呑みにしますか?そうですね。江戸時代の新井白石先生がどんなに知識がある人でも、やっぱり鎖国時代に生涯を過ごした人なので、世界観には限界がありますよね。
わたしは、[GoogleMap]で地名を総当たりしました。[Google Map]という武器を使わない手はありません。とくに、末盧国、伊都国、奴国までは学会に異論がないというけれど、発端が名前が似ているということが優先してますから、方位や距離については、つじつまがを合わなくなるのはあたりまえです。また、歩いた道程を距離とするので、背振山山系を歩いて越えることは不可能です。登山道を郡使が歩いたとは考えられないのです。輿にのって越えられるのは鈴鹿ぐらいです。ですから、東南を東に変えたのですね。新井白石は、手紙のなかで、「魏志は実録に候、日本紀などは、はるか後にこしらえたて候事ゆえに、おおかた一事も尤もらしき事はなき事に候」と、書いています。日本紀には、真実らしいことは一つもないと言い放っているのですから、魏志は魏志、日本紀は日本紀とべつべつの学問領域としなければなりませんね。