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ー2020/04.03~2021/01/03工事中
■広開土王碑と河伯女郎
好太王碑 在中華人民共和国吉林省通化市集安市
河伯女郎は二か所、赤が込み。朝鮮語ではハベクと呼びます。
原文のオレンジのマークは城という字、高句麗語では城とは言わずボルであるので、これは純漢文であり、何々城という固有名詞となります。城の文字は116文字になります。当時の総力戦では城を落とすことが地域を占有することになり、このことから、城の戦略的な重要度によって争奪戦が繰り広げられていた。下の図の新城、南蘇城(なむそそん)、白巌城(ぺがむそん)は攻防が繰り広げられた拠点である。
広開土王は朝鮮、高句麗(こうくり)第19代の王(在位391~412)。正式な王号は国岡上広開土境平安好太王(こくこうじょうこうかいどきょうへいあんこうたいおう)、略して諡号を広開土王という。諱(いみな)は談徳あるいは安、号は永楽大王。談徳(タムドク)が諱、中国式呼び名は安。
【第一面】 惟昔始祖鄒牟王之創基也。出自北夫餘、天帝之子母河伯女郎剖卵降出生子有。聖□□① 「高句麗」の建国神話・伝説
② 高麗王」第1代「鄒牟王」(「朱蒙」〔始祖 東明聖王〕)、
第2代「儒留王」(「琉璃明王」字名・類利(ゆり)、
第3代「大朱留王」「大武神王」字名は無恤(むひゅる)までの治績、
③ 第19代「広開土王」の即位の生涯(18歳~39歳)の治績
④「広開土王」の本碑の建立(王の死2年後-415年)の経緯
神武天皇が朱蒙の説話に似ているというのは、おそらくともに初代だからそう推定したのだろう。じつは全く似ていない。似ているということでは、実は三代の「大武神王」である。なぜなら、キーワードである二人の兄弟の説話がある。記紀の神武紀では二人の兄弟王、『書記』兄猾・『古事記』兄宇迦斯、えうかし)と、『書記』弟猾・『古事記』弟宇迦斯(おとうかし)、神武はこの兄弟を征討する。これに当たるのが夫餘の帶素と曷思の二人の兄弟のことだ。初代と二代では成し遂げられなかった夫餘を征服する大業は三代目の無恤になって実現した。無恤が帶素王と殺し、末子曷思を逃亡させて扶余城を落とした。よって、神武天皇に似ているのは三代目の「大武神王」である。神代の巻では、二人の兄弟は『三貴子』の中に入り、八十神として描かれている。すなわち、大八島国の正当な継承者であった。
「惟昔始祖鄒牟王之創基也出自出北不余天帝之子母河伯女郎剖卵降世生而有徳□□□□□命駕巡幸南下路由扶余奄利大水王臨聿言曰我是皇天之子母河伯女郎鄒牟王為我連葭浮亀應聲即為連葭浮亀然後造渡住沸流谷忽本西城山上而建都焉不楽世位天遣黄龍来下迎王王於本東岡履龍首昇天顧命世子儒留王以道興治大朱留王紹承基業?至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王二九登祚号為永楽太王恩澤□于皇天威武振被四海掃除不軌庶寧其業國富民殷五穀豊熟昊天不弔卅有九宴駕棄國以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵於是立碑銘記勲績以示後世焉其□曰」(第1面1行1字~6行39字)
「昔、「始祖鄒牟(スム)王は、「高句麗」を建国した。父は北扶余の天帝、母は河伯(はべく)女郎を出自とする。鄒牟王は卵を割いて生まれてきて、生まれながら徳があり神となった。王は御輿に乗って王城から南下した。途中、扶余の奄利大水(漢江)を渡り、港に着いたとき、王は初めて接する人々に『我は天子の子で母は河伯(河の神の娘)であり、名は「鄒牟王」である』と名乗った。(続けて)『葭(葦)と亀に向って、自分のために出て、浮き橋をかけよ」と言われた。(すると、葭(葦)と亀が出てきて、 浮き橋を掛け、王は無事渡ることができた。王は沸流谷(渾江中流)の忽本(卒本・チョルボン)にある西側山(五女山、在現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県)の上に都を創建した。その後、王はしばらく国を治めたが)この世(人間としての世)を楽しまなくなったので、天の神が黄龍を遣わされ、王を迎えに来られた。王は王都のある東側の山の上から黄龍の首にまたがって天に昇っていかれた。天子(始祖「鄒牟王」)の遺言に従い、世子(太子)の儒留 王(第2代「琉璃王」)が後を継ぎ、善政を行った。「大朱留王」(第3代「大武神王」は前王の政治を承継した。昔(初代)から王位が続き、十七世孫の「廣開土王」に至って、王号を永楽大王とし、王の威光は広く天下に轟(とどろ)いた。王〔廣開土王〕)は良からぬことを取り除き、庶民が安心して生業に励み、(その結果)国が富み、民衆も豊かになった。(ところが)天の神は王(廣開土王)に憐れみを持たず、王は39歳にして天に召された。長壽王〔土王〕)は414年9月29日に、王(廣開土王)の遺体を山の陵墓に置き、ここに碑を立て、王(廣開土王)功績を銘記する。ここに、王(廣開土王)の功績を後世に伝えよ。」
*始祖 東明聖王:紀元前19年 黄龍に乗って天に上った。このことは、遺体を残さなかったということ。当然、墳墓は空室となるだろう。
」*北夫餘:(中国東北部(旧満州)の 「松花江」の北) ~19年〕
「河伯女郎」は、「河伯族長の娘であり、朱蒙を産んだ母であり、高句麗の国祖母、高句麗の神廟で夫餘神として祭られた女性である(随書から)。天孫、日月神と対比してこの河伯を「水神」と神格化するのは古朝鮮史を知らない井の中の蛙の学者(奥田 尚)のこじつけにすぎない。河伯は河童のような神獣ではない。高句麗と対照的に扶余では、王の側室にすぎなかった彼女を蔑んで、祭ることなどしなかった。「女郎」は王の侍婢ということ。したがって、女郎は敬称ではないが、それは若い時のことであろう。朝鮮史では柳花(ゆふぁ)夫人と称される。八千矛神が惚れた女であり、王宮に入れた。代々続く高句麗の王は、みな河伯が産んだ卵から産まれた朱蒙の子孫になるわけだ。これを河孫という。高句麗が夫餘を滅亡させた後に河伯神女と神の敬称がつく。古事記では『御祖(みおや)の命』、別名伊邪那美命、またの別名、沼河比賣として登場する。
*漢江(ハンガン)は>奄利水・阿利水・於利水(オリス))・帯水・郁利河(百済本記)・阿利那禮河(日本書紀)などの古名がある。中世(統一新羅以後)には礼成江(イェソンガン)と呼ばれた。高麗時代の王都・松嶽(ソンアク)・現在の開城(ケソン)は貿易港でもあったが、礼成江(イェソンガン)の河口の北にある。
史書の相違・とどちらが正しいのか?
三国史記では淹淲水,と書き記し、〈一名盖斯水,在今鴨綠東北。鴨緑江>・・・・・・三国史記
広開土王碑では扶余奄利大水・・・南下路由扶余奄利大水・・・・広開土王碑 小生は漢江だと考える。
参考までに類書での川の名称では、奄利水・阿利水・於利水(オリス))・帯水・郁利河(百済本記)・阿利那禮河(日本書紀)などの古名があるのは漢江である。
碑文冒頭から鄒牟王のことが書かれる。いわゆる朱蒙王物語であり、出自、北夫餘の天帝の子であり母は河伯女郎が鄒牟を王に為した。
さて、広開土王碑では北夫餘の天帝を父とする。この天帝とは解慕漱である。では、柳花夫人の主人、金蛙王は朱蒙の養親となる。生まれた子は解慕漱の子だというのである。シリーズドラマ『朱蒙』もこのシナリオで描かれている。
広開土王碑の「百残」とは[百濟」と同義であり、広開土王が「海を渡って百残」を攻めたのは、漢口流域の倭人を攻めたということであり、大同江を出発して漢江を渡河した。西海の海を渡って列島の倭国を攻撃した事実はない。広開土王碑では「倭」と書くが「倭国」とは書かない。
① 百残・新羅、旧是属民、由来朝貢、而倭以辛卯年来渡海破百残□□新羅、以為臣民。
西暦年を60で割って31が余る年が辛卯の年となる。271年・331年・391年・451年・511年が該当する。
したがって、倭が侵攻してきたのは391年からということになろうか。
訳 百済・新羅は旧(もと)、わが高句麗の属民であり昔から朝貢してきていた。ところが倭国が辛卯年(391年)に高句麗を攻めて来たので、わが高句麗は海を渡って(倭国の友好国となっていた)百済・□□・新羅を撃破し、これらを我が臣民とした。
② 永楽九年己亥(399年)、百残違誓、与倭和通、王巡下平穣、而新羅遣使白王云、「倭人満其国境、潰破城池、以奴客為民、帰王請命・・・・
訳 399年、百済は好太王への誓いを破り倭国と好(よしみ)を通じた。そこで好太王は平穣に巡下した。そこへ新羅の使いが来て云うには、「倭人が国境に満ちており、城池を壊し破り、わが民を奴客としてしまいました。私どもは好太王に帰し、その命令に従いたいと思います」・・・
③ 永楽十年庚子(400年)、従男居城、至新羅城、倭満其中官兵方至、倭賊退□□□訳400年、(高句麗の兵が)男居城より新羅城に到着した。倭軍が城の中に満ちたとき我が軍がまさに襲いかかったので、倭国の賊軍は退却した云々。
④ 一四年甲辰(404年)、□倭不軌、侵入帯方界、・・・・・・・
訳404年、倭国が決まりを守らず(国境を無視して)帯方界に侵入してきた・・・
⑤ 倭寇潰敗、斬殺無数。
訳倭国軍は潰滅し、斬殺するところ無数であった。
王名は死後につけられた諡(おくりな)ですが、時代がさかのぼっていても、そのまま使っています。例えば広開土王の諱(いみな)は談德(タムドク)です。
三国史記・百済本紀では王談德(タムドク=広開土王)は4万の軍で7月漢水の北の部落(石硯城ソッキョンソンほか十余城)、10月に関彌城(カンミソン)を攻略した。防戦すべき百済の辰斯王は談德は兵を巧みにつかうと恐れて出撃しなかった。11月には狗原で狩りに出たまま帰ってこなかった。次に王となった阿莘王に謀殺された。(402頃)遠征先の軍営(行宮)で裳(もがり)をしたと書かれる。阿莘王の父王、枕流王を馬から射落として、その場で土をかぶせて埋めてしまった。犯人は阿莘王の叔父である辰斯王だった。そこで、阿莘王は王になるや父の遺骨を探し求めた。卑人の中に知っているものが居て、ようやく父王の遺骨を得て、御陵を作った。その恨みは深く、辰斯王の墓を暴くよう命じた。命じられた部下は、「王の墓を暴く」ことに恐れ入って墓の土を少しだけ掘っただけだった。仮に、これを物語としてパックにすると、雄略(大悪天皇)と顕宗天皇の物語にそっくりである。
広開土王の行動を時系列で追ってみると関彌城(カンミソン)を攻略した後、倭軍が来るのを予想してか、阿莘王を膝まづかせて降伏させ、忠誠を誓わせると高句麗軍はあっさりと引き上げた。新羅からの倭軍の攻撃に救援を要請に応じて出撃したが、倭軍などいなかったので、阿莘王に倭と通行することを禁じたぐらいで終結したのだ。関彌城(カンミソン)を落とす間、新羅に行って倭軍を叩いたというのは偽の情報であろうか。
その後、広開土王は405年11月には後燕のを攻撃している。亡くなったのは413年とされる。関彌城は阿残(倭人)の有力な造船港であったらしい。そこに、倭兵が集結していたのだろう。
広開土王は永楽大王と言われ広開土王は「国丘上広開土境平安好太王」の諡号の略称である。百済の阿莘王は倭の蘇我氏の傀儡だったのだろう。「倭ではなく高句麗に忠誠を誓えば許す。」、こうして阿莘王は斬首されず、あっさりと兵を引き上げていることから、倭の排除が済めば、戦の目的が達せられたのであろう。百済や新羅を占有するのが戦の大義ではなかったということだ。
談德王(タムドク)の墳墓は「将軍塚・太王陵」と比定されているが、この陵墓は13代故国原王(コググォンワン)の墓と考えられている。
陵墓と見られる将軍塚・大王陵がある。清朝末期にここから発見された大量の蓮花紋の瓦当や磚(せん)の中に、「願太王陵 安如山 固如岳」という文字が彫られた磚があった。さらに、2003年の5月にこの広開土王陵説を補強する新しい発見があった。南側墳丘の裾近くから小型の青銅製の鈴が見つかり、それに「辛卯年 好太王 所造鈴 九十六」と銘が刻まれていた。
こうした磚や銅鈴の出土、好太王碑の存在、さらには墓の作られた年代から、中国や韓国ではこの大王陵を広開土王陵に比定している。
しかし、談德(タムドク)の即位を辛卯年(391年)、18歳で即位した王を好太王と呼び、同じ辛卯年に次の第20代長寿王が同じく18歳で即位した。長寿王が造営したとするのはどうしても可笑しい。一般に辛卯年とだけ書くときは辛卯元年のことだからである。だから、根拠にならないのである。高句麗最大の石積王陵をどうしても広開土王にしたいのだろう。そのまえに、遺体がなかったばあい、大墳丘を作ったかどうかを問題にすべきだろう。広開土王碑だけが造られて王陵墓は作られなかったと考えたほうが至当だろう。つまり、遺体がなかったのだ。なんであれ、広開土王は戦場で死んだが、それを隠したのだろう。広開土王はやはり、遠征先の軍営(行宮)で裳(もがり)をしたというのが真実だろう。
■百済は倭国と同盟していたというより、百済は倭国の支えで成り立っていた。
高句麗・永楽大王(広開土王)(391-413)が百済の阿莘王(アシンワン392-420)と応神天皇が同時代で、広開土王の攻撃を受けた同じころに緊張関係にあった。
応神3年、辰斯王(385-392)が立ったが、貴国(倭)に礼がないという理由で紀角宿祢・羽田矢代宿祢・石川宿祢・木莬宿祢野を送って、激しく責めののしった。辰斯王を殺して百済は謝罪した。阿莘王(アシンワン392-420)を王にして、紀角宿祢は帰った。
『三国史記』新羅本紀 「(奈勿王九年=394年)夏四月、倭兵大いに至る。王、之を聞き、敵すべからざるを恐れ、草の偶人(人形)数千を造り、衣衣(衣を衣(き)て)兵(兵器)を持たしめ、吐含山の下に列立せしむ。勇士一千人を斧[山見]の東原に伏す。倭人、衆を恃(たの)んで直進す。」
八年 夏五月丁卯朔 日有食之 秋七月 <高句麗>王<談德> 帥兵四萬 來攻北鄙 陷<石峴>等十餘城 王聞<談德>能用兵 不得出拒 <漢水>北諸部落 多沒焉 冬十月 <高句麗>攻拔<關彌城> 王田於<狗原> 經旬不返 十一月 薨於<狗原>行宮
— 『三国史記』「百済本紀」391年
八年、夏五月一日に日食あり。秋七月、高句麗の王、談德(好太王)が4万を兵で北の国境を攻め、石峴など10余りの城を落とされた。王は談德が用兵に長けてると聞き出兵を拒否、漢水の北の部落が多数落とされた。冬十月、高句麗に關彌城を落とされた。王が狗原に狩りに出て十日が過ぎても帰って来なかった。十一月、狗原の行宮にて死去した。
韓国史では枕流王の弟であった辰斯王が枕流王を殺して王座についたので、子である阿莘王が狩りに出た辰斯王を殺したように記録している。日本書紀から見ると、辰斯王は蘇我満智が送った刺客にまんまと殺されたか、国人に謀殺させたというのが著者の見方である。
すると、河南伯済の辰斯王は滅亡の危機に瀕して、高句麗と密約を交わして広開土王に出撃を促したのであろう。辰斯王は高句麗軍が迫ってきても3度も出撃をしなかったという。密約とは倭を追っ払ってくれたら、未来永劫高句麗の属国になります、という事だろうか。
百済倭軍は396年に広開土王に蹴散らされて、漢江以北58城を口奪われた。その後、長寿王(広開土王の次413-491)は475年に百済の首都漢城を陥落させて蓋鹵王(余慶)を殺害、次の、文周は南の錦江の熊津に遷都した。直後、高句麗は国内城から平壌城に王城を移す。こうして、後漢の公孫氏以中国の支配を排除し帯方郡は高句麗のものとなった。
*蓋鹵王(- 475年)は、百済の第21代の王(在位:455年 - 475年)。先代の毗有王の長子であり、『三国史記』によれば諱は慶司。また、近蓋婁王とも記され、『日本書紀』には加須利君(かすりのきみ)、『梁書倭国伝』には余慶(徐慶)の名で現れるので、宋書倭国伝でいう倭王斉とは、蓋鹵王のことである。
応神天皇8年春三月百済人が来朝した。王子直支を天朝に送り先王の修好の願いを叶えた」
全く同一の内容が三国史記百済本記に次のように載っている。
三国史記百済本記
「阿莘王6年(397年)夏5月に王は倭国と友好を結び太子直支を人質として送った。 太子直支は日本滞留8年目の405年父王阿莘王が死ぬと帰国した。」
仁徳11年(402年)新羅からの朝貢があったと記録されている。これは、新羅本紀の「402年、倭国と国交を結び、奈勿王の王子・未斯欣を人質として送ってきた。」という記事に対応する。
仁徳12年(402年)高麗国が鉄の盾・鉄の的を奉った。
高句麗は燕との戦いで国力を消耗している時であり、倭国に背後を突かれるのを恐れたのであろう。倭国と和平交渉をしたのである。これで、暫らくは平和が訪れたのである。
仁徳13年、14年(403年)にかけて土木工事の記事が多くなる。難波堀江、茨田堤築造(仁徳11)、山城に大溝掘る(仁徳12))。和爾池、横野堤を築く(仁徳13)小橋、大道を作る。石河の水を引く(仁徳14)などである。
高麗・新羅・百済からやってきた人々、多くは奴隷を使って土木工事をしたのである。
日本書紀
応神天皇16年(405年)この年百済の阿莘王が死亡した。天皇は直支王を呼び「あなたは本国へ帰り王位を継ぎなさい。」と言った。また、トンハン(地域は不明)の地を贈った。
三国史記にはさらに、書く。本国に帰って即位した直支(=腆支王405-420チョンジワン)は今度は自分の妹を日本に送った。
日本書紀では
応神天皇39年(通史による428年?)春2月百済の腆支王がその妹・シンジェトウォン(新斉都媛)を人質として送り、仕えるようにしたとある。
*百済本記と日本書記が一致する、この腆支王は420年に亡くなっているので、対比させてみると応神39年は428年に比定できない。腆支王の生前である407頃になるだろう。広開土王の南征は396年であるから、だいたいの年代は符合する。さて、応神天皇に公主(妹王女)を嫁がせたとしても応神天皇が実在したかどうかはわからない。しかし、王の妹となると、ことは重大である。百済の実権をもつ主君は倭にいる王であったことは間違いないだろう。
広開土王が戦闘に入ると倭兵が先陣を担っていて、兵力があまりにも多いのに驚いた。百済と新羅が高句麗の属国なのに、倭人がどうしてこんなに出てくるのか怪しんだ。「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘連侵新羅以為臣民」・・・この広開土王碑の解釈は『百残が倭を連れ込み新羅に攻め入って、臣民とした。』が正解であろう。連侵のところは欠け文字で、「加羅」と置き換えるか、「招倭」と置き換えるかによって解釈が異なっているのである。この二文字が欠けていなかったら論争は起きなかったのだが。百残、もともと倭人が母系制社会だったので百済王が倭王を自称しても、さほど国威を傷つけられたとは感じず、それを理由に戦争を起こすほど国論が沸騰することはなかったのだ。
■新羅も倭軍の多さにびっくり
ここには、百済が侵入したことは書かれず、倭兵がたくさん来て、「これじゃ負けちゃうよ」、と兵の模擬人形を並べて、倭兵を誘引して伏兵を配す奇策を取ったというのである。この時、倭人はまんまと誘引策に引っかかった。百済兵がいれば鎧と旗ですぐわかるので、百済兵はいなかったのである。百済の将軍でもいれば、伏兵がいることはすぐに見破っただろう。そこで、百残と倭軍はおなじ阿人の兵だったのだ。兵の数は倭国から渡海してきた兵だけでは新羅を脅かすほどの大軍には至らず、倭兵は半島にもともと満ち満ちていたのである。その兵は日本列島から来た倭軍だけではなく、馬韓人でもなく、阿人という倭人だったのである。
『日本書紀』欽明天皇23年*562年)には「狭手彦は高句麗を討ち、多くの財宝をうばって天皇と蘇我稲目(そがの-いなめ)に奪った財宝を献じた。数万の兵を率いて高句麗(こうくり)を討ち、勝ちにのって王宮の母入り、種々の珍宝を得て天皇に七織帳を奉献し、鎧や刀もろもろのほか美女二人を蘇我稲目(そがのいなめ)に献上している」とあり、二つの点で重要なのは高句麗の宮を寇掠したこと、また、この時、蘇我稲目が中央朝廷に君臨していたという二点です。
この時の高句麗王は陽原王(ようげんおう、生年不詳 - 559年)は、高句麗の第24代の王(在位:545年 - 559年)*(15年間)。姓は高、諱は平成。陽崗上好王(『三国史記』高句麗本紀・陽原王紀の分注)、陽崗王(『三国遺事』王暦)ともいう。先代の安原王の長子であり、『魏書』には「成」の名で現れる。533年に太子に立てられ、545年3月に先王が亡くなると王位に就いた。
好太王碑によれば倭が高句麗に攻め込んできたのは399年であり、欽明継体天皇23年条が、スポットとすれば、本当は391年なのかもしれないのである応神紀と欽明紀が重複するとは言えないだろうか?
奴客とはいったい何だろうか?
奴客:朝鮮語では「ノゲク」と発音します。中国の史書で奴客という単語が使われている用例文は3,4箇所あります。以下その一つを紹介します。
《漢書》
[新 - 東漢] 36年-111年
《志》
《五行志》《五行志中之上》
25 打開字典顯示相似段落 五行志中... :
「帝鸿嘉、永始之間,好為微行出游,選從期門郎有材力者,及私奴客,多至十餘,少五六人,皆白衣袒幘,帶持刀劍。或乘小車,御者在茵上,或皆騎,出入市里郊野,遠至旁縣。」
訳:成帝鸿嘉は永始年間、ひそかに城外に行幸することを好んだ。有力な宗門から選んだ者、および私奴客を多い時は十四人、少ない時で五六人、みな白い装束に頭巾をかぶり刀剣を帯に持っている。(成帝は)敷物の上に御者がいる小さな車にのり、あるいは馬にのって、市郊外や県外まで遠地を出入りしていた。
中国史書にも奴客という単語は数例あるが、ここでは私奴客とあり、帯刀しており状況から皇帝を護衛している兵で、武装した従者といえそうである。そこで、奴客とは正規兵でない傭兵とみることが可能だろうか?
①百残・新羅、旧是属民、由来朝貢、而倭以辛卯年来渡海破百残□□新羅、以為臣民。
訳 百済・新羅は旧(もと)、わが高句麗の属民であり昔から朝貢してきていた。ところが倭国が辛卯年(391年)に高句麗を攻めて来たので、わが高句麗は海を渡って(倭人が満ち満ちている)百済・□□・新羅を撃破し、これらを我が臣民とした。
② 永楽九年己亥(399年)、百残違誓、与倭和通、王巡下平穣、而新羅遣使白王云、「倭・人満其国境、潰破城池、以奴客為民、帰王請命・・・・
訳 西暦399年、百済は好太王への誓いを破り倭国と好(よしみ)を通じた。そこで好太王は平穣に巡下した。そこへ新羅の使いが来て云うには、「倭人が国境に満ちており、城や池を壊し破り、わが民を奴客(傭兵)にしています。私どもは好太王に帰し、その命令に従いたいと思います」・・・
③ 永楽十年庚子(400年)、従男居城、至新羅城倭満其中官兵方至、倭賊退□□□
訳西暦400年のこと、男居城より新羅城まで倭軍が城の中に満ちていた。そのとき我が軍がまさに襲いかかったので、倭国の賊軍は退却した。
④ 一四年甲辰(404年)、□倭不軌、侵入帯方界、・・・・・・・
訳404年、倭国が決まりを守らず(国境を無視して)帯方界に侵入してきた・・・
応神天皇三年冬十月辛未朔癸酉、東蝦夷悉朝貢。卽役蝦夷而作厩坂道。十一月、處々海人、訕哤之不從命。訕哤、此云佐麼賣玖。則遣阿曇連祖大濱宿禰、平其訕哤、因爲海人之宰、故俗人諺曰佐麼阿摩者、其是緑也。是歲、百濟辰斯王立之、失禮於貴國天皇。故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰、嘖讓其无禮狀。由是、百濟國殺辰斯王以謝之、紀角宿禰等、便立阿花爲王而歸。
「東のえみしがことごとく朝貢してきた。すぐにえみしに厩(うまや)の坂道を造る労務につかせた。十一月ところどころ海賊の訕哤(せんもう)が従わなかった。訕哤は佐麼賣玖(さまめく)ともいう。天皇は阿曇連(あずみのむらじ)の祖である大濱宿禰を派遣してこの海賊訕哤を平定した。よって、大濱宿禰を海人の宰相とした。ゆえに衆人が佐麼阿摩者(さまあま)というのはそのゆかりである。応神天皇三年、この年、百濟の辰斯王が即位した。天皇にたいして礼を失していたので(天皇は)紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰を派してその礼がないことを一歩も引くことなく激しく責めたてた。そうこうしているうちに百済国人らは辰斯王を殺して、もって謝罪してきた。すぐに紀角宿禰らは阿花を王にすると帰国した。」
紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰らは使節史ではなく、軍の派遣であったのだろう。百濟の臣がおびえて辰斯王を殺したわけは、かなりの圧力で逼ったからだろう。
『日本書紀』欽明天皇23年*562年)には狭手彦は高句麗を討ち、多くの財宝をうばって天皇と蘇我稲目(そがの-いなめ)に奪った財宝を献じた。数万の兵を率いて高句麗(こうくり)を討ち、勝ちにのって王宮の母入り、種々の珍宝を得て天皇に七織帳を奉献し、鎧や刀もろもろのほか美女二人を蘇我稲目(そがのいなめ)に献上しているとあり、二つの点で重要なのは高句麗の宮を寇掠したこと、また、この時、蘇我稲目が中央朝廷に君臨していたという二点です。
この時の高句麗王は陽原王(ようげんおう、生年不詳 - 559年)は、高句麗の第24代の王(在位:545年 - 559年)*(15年間)。姓は高、諱は平成。陽崗上好王(『三国史記』高句麗本紀・陽原王紀の分注)、陽崗王(『三国遺事』王暦)ともいう。先代の安原王の長子であり、『魏書』には「成」の名で現れる。533年に太子に立てられ、545年3月に先王が亡くなると王位に就いた。
好太王碑によれば倭が攻め込んできたのは399年であり、継体天皇23年条が、本当は391年なのかもしれない。ようするに神功皇后紀か応神紀に書かれるべきことが、なぜか欽明紀にかかれたと疑うわけである。
⑤ 倭寇潰敗、斬殺無数。
訳倭国軍は潰滅し、斬殺するところ無数であった。
*永楽 (高句麗) - 高句麗の元号(391年 – 412年?)