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鬼伝説より 鬼は渡来人

《・・・工事中・・・》
三毛入野命の鬼八退治「宮崎県民話」
神代、高千穂は二上山の乳ヶ岩屋に、鬼八(キハチ)という悪神が住んでいた。
鬼八はあちこちを荒らし周っては人々を苦しめ、また山を下りてはアララギの里の鬼ヶ岩屋に住み、そこで七ヶ池に住む祖母岳明神が娘の稲穂姫のその娘、鵜目姫を無理矢理に閉じ込め妻としていた。

一方、神武天皇の兄のひとり三毛入野命は、海を渡る最中風波に船ごと押し流され、ひとり東征軍からはぐれてしまったので、せむかたなしに高千穂に戻ってきていた。



ある日、命が五瀬川のほとり七ヶ池を通ると、水面に憂い顔の姫の姿が映っている。何事かと問うてみれば、「鬼八という者に無理矢理に連れてこられて悲しんでいるのです」と姫が答えるので、「それではあんまりだ」と命は鬼八を退治することにした。

命は数多の従者を連れて乳ヶ岩屋を攻めた。足の速いことで知られた鬼八は山を越え谷を駈け逃げ回ったが、二上山に戻ろうとしたところをついに斃された。しかし鬼八は魔の力が強く、そのまま遺骸を埋めると一夜にして蘇ってしまう。そこで命は鬼八の体を三つに切り分け、別々の地に埋めたところ、鬼八が蘇ることはなかった。
これは現在でも、首塚、胴塚、手足塚として高千穂の地に残っている。

ところが、その後は里に早霜が降り作物が育たなくなってしまった。困った里の人々がこれを「鬼八の祟りであろう」と言い、慰霊の祭を行うと、霜の降りるのは遅くなり五穀はよく実るようになった。高千穂神社の猪掛祭の由来である。



三毛入野命に助けられた鵜目姫は、命の妃となり、八人の御子を産んだ。そうしてこの地で十社大明神(命と姫と八人の子等を合わせて言う)として深い信仰を集めたのである。

(鵜目姫は自ら鬼八の妻となったのであり、それを三毛入野命が奪い取ったのだ、という異説も残っている)

挿絵:すの
文章:原下祈

その2)
鬼の窟古墳(おにのいわやこふん)/西都原古墳群
西都原古墳群の中の206号墳
・西都原台地のほぼ中央部に位置し、直径37m、高さ7.3m、土塁の高さ約2~2.6m・土塁の基底部幅約9mを有している円墳。・西都原古墳群で唯一の横穴式石室を持ち、墳丘の周囲には土塁(外堤)を廻らす特異な形状をもつ。


「 鬼の窟(の伝説
鬼の求婚と綿津見神)」登場人物
<鬼>
力自慢で自分の思うままに生活をしてきた。

<木花咲耶姫>
綿津見神の娘で桜の花が咲くように美しい姫。
*綿津見神は安曇連の祖、海神とも胸形の大神とも猿田彦、塩土の翁とも重なる神で、国つ神です。大山見津神は天孫瓊瓊杵尊の祖父になります。

昔々まだ天孫 邇邇芸命と木花咲耶姫が出会われる少し前、神話の時代のお話です。
日向国西都原(今の宮崎県成都市)にはたいそう力自慢の鬼が住んでいました。

鬼はその力を使って自分の思うままに暮らしていたのですがどうしても叶わぬ願いがありました。
その願いとは嫁を取ることです。

ある日、鬼は桜の花のように可憐な姫を見つけて一目惚れをしました。
その姫は木花咲耶姫といい大いなる山の神である綿津見神の娘でした。

鬼は木花咲耶姫をどうしても自分の嫁にしたい、しかし見るからに恐ろしい自分の姿を川に映しながらどうすれば、あの美しい姫を嫁に出来るかと考えていました。

色々と考えたもののいい考えが浮かばず、
姫の父である綿津見神を訪ねて姫を嫁にもらえるようにお願いする事にしました。

鬼は
「どうぞ、木花咲耶姫様を私の嫁に下さい。」
っと懇願しました。

綿津見神は恐ろしい鬼の姿を見て困り果てました。
何しろ、恐ろしい鬼に可愛い娘をやりたくない、しかし相手は力自慢の恐ろしい鬼・・・

綿津見神は鬼に言います。
「よしわかった。明朝までに立派な窟(いわや)を建てよ。さすれば、木花咲耶姫を嫁にやろう。」

それを聞いた鬼は喜び勇んで窟を作り始めました。

力自慢の鬼は難なく一晩掛からずに立派な岩屋を建ててしまいました。
ほっと安心した鬼はうつらうつらと眠ってしまいました。
鬼の窟01
そこに心配になって様子を見に来た綿津見神が現れました。

綿津見神は驚きました。
既に立派な窟が完成しているのですから・・・

綿津見神は娘を鬼などにやりたくないという気持ちからある考えが浮かびました。

夜が明ける頃、鬼は目を覚まして驚きました。
しっかりとこしらえたはずの窟の岩が一枚抜けてしまっていたのです。

鬼が驚いていると綿津見神がやって来ました。
「岩の抜けた窟では木花咲耶姫を嫁にやることはできぬ」
っと求婚を断ってしましました。



実は鬼が寝ている間に綿津見神が一枚の岩を抜き取り遠くへ放り投げてしまったのです。
その窟は鬼の窟古墳として現在も残っており綿津見神が放り投げてしまって抜けた部分も残っているそうです。

放り投げた岩は宮崎県成都市にある石貫神社に落ちて参道の入口にはその石が据えられています。


西都原に伝わる下水流臼太鼓踊(しもずるうすだいこおどり)

このまつりは、文禄・慶長の役(1592年~1598年)において、加藤清正軍が敵を油断させようと背中に3本の槍に飾りをつけたものを背負い、臼太鼓を胸に抱え、踊りながら敵陣に近づき、臼太鼓の中に隠し持った小刀を取り出し攻め込んで勝利したことに由来します。そのため、着用する陣笠や陣羽織の背中には加藤家の家紋が入っています。特徴は、4組に分かれて縦陣、円陣など隊形を変化させながら躍動的に踊るところといわれています。毎年、旧暦の8月1日に行われ、南方神社・一ツ瀬川原・下水流公民館で奉納されます。
1928年(昭和3年)には全国舞踊大会で1位となり、同年ロンドンでも一般に公開されて好評を博しました。宮崎県の臼太鼓踊りの代表格といえます。
○編成:24人{鉦方(かねがた)4人、踊り手(太鼓方)16人、歌い手4人}
・『鉦 方』:鉦を強く勇壮にたたきながら激しいステップで踊ります。
・『踊り手』:前結びの白鉢巻きに、大袖の白襦袢と山袴、手甲、脚袴に草履をはき、約3.35m、15㎏の幟(のぼり)を背負い、胸に臼太鼓を抱く形で踊ります。

その3

<鬼八(きはち)>の鬼伝説
走健(はしりたける)とも呼ばれる悪神。阿蘇地方にも伝説を残している。
<鵜目姫(うのめひめ)>
名と系図以外不明。

大江山の鬼伝説
 丹波と丹後がまだ分立せず「大丹波時代」といわれた古代、この地方は大陸の文化をうけ入れ、独自のすぐれた古代文化をもっていた。
 しかし、平安京が政治の中心となってから、この地方は、都に近い山国として、日本の歴史の中で、王城の影の地域としての性格を色濃くにじませるようになる。
隠田集落であると伝承する山里が散在することは、そのことを如実に物語っている。また、王朝時代、大きな役割を果たした陰陽道で、乾(北西)は忌むべき方角とされたが、当地は都の乾の方角に当たっていた。
 酒呑童子や羅生門の鬼に代表されるように、京の都に出没する鬼は、王権を脅かす政治的な色合いの強い鬼である。天皇が勅命を下し、武将に鬼を退治させる物語―それは、王権が自らの権力を誇示し、その物語を通して王権を称掲する手段にしようとして、つくり出したものではなかったのか。あるいは、中世に入り、地に堕ちた王権を支えようとした人々の願望としての王権神話ではなかったのか。
 丹波山地の中で、もっとも著名な山であり高山でもある大江山連峰―時代によって与謝の大山、三上ヶ嶽、御嶽、大江山と名をかえつつも、丹波と丹後を扼する要地にそばだってきた大江山―ここに鬼退治伝説が三つ残されていることは偶然ではないのかもしれない。
 大江山の鬼伝説(その一)
「陸耳御笠」
-日子坐王伝説―
大江山に遺る鬼伝説のうち、最も古いものが、「丹後風土記残欠」に記された陸耳御笠の伝説である。青葉山中にすむ陸耳御笠が、日子坐王の軍勢と由良川筋ではげしく戦い、最後、与謝の大山(現在の大江山へ逃げこんだ、というものである。
 「丹後風土記残欠」とは、8世紀に、国の命令で丹後国が提出した地誌書ともいうべき「丹後風土記」の一部が、京都北白川家に伝わっていたものを、15世紀に、僧智海が筆写したものといわれる。
 この陸耳御笠のことは、「古事記」の崇神天皇の条に、「日子坐王を旦波国へ遣わし玖賀耳之御笠を討った」と記されている。
 土蜘蛛というのは穴居民だとか、先住民であるとかいわれるが、土蜘蛛というのは、大和国家の側が、征服した人々を異族視してつけた賎称である。
 陸耳御笠について、興味ある仮説を提示しているのが谷川健一氏で、「神と青銅の間」の中で、「ミとかミミは先住の南方系の人々につけられた名であり、華中から華南にいた海人族で、大きな耳輪をつける風習をもち、日本に農耕文化や金属器を伝えた南方系の渡来人ではないか」として、福井県から鳥取県の日本海岸に美浜、久美浜、香住、岩美などミのつく海村が多いこと、但馬一帯にも、日子坐王が陸耳御笠を討った伝説が残っていると指摘されている。

 一方の日子坐王は、記紀系譜によれば、第九代開化天皇の子で崇神天皇の弟とされ、近江を中心に東は甲斐(山梨)から西は吉備(岡山)までの広い範囲に伝承が残り、「新撰姓氏録」によれば古代十九氏族の祖となっており、大和からみて、北方世界とよぶべき地域をその系譜圏としているといわれる。
「日子」の名が示すとおり、大和国家サイドの存在であることはまちがいない。「日本書紀」に記述のある四道将軍「丹波道主命」の伝承は、大江町をはじめ丹後一円に広く残っているが、記紀系譜の上からみると日子坐王の子である。
この陸耳御笠の伝説には、在地勢力対大和国家の対立の構図がその背後にひそんでいるように思える。   
大江山の鬼伝説(その二)
「英胡・軽足・土熊」
―麻呂子親王伝説―
 用明天皇の時代というから六世紀の末ごろのこと、河守荘三上ヶ嶽(三上山)に英胡・軽足・土熊に率いられた悪鬼があつまり、人々を苦しめたので、勅命をうけた麻呂子親王が、神仏の加護をうけ悪鬼を討ち、世は平穏にもどったというものである。
 大江町の如来院や清園寺をはじめ、寺社の縁起として、あるいは地名由来として、両丹における麻呂子親王伝説の関連地は70カ所に及ぶといわれている。麻呂子親王は用明天皇の皇子で、聖徳太子の異母弟にあたる。文献によっては、金丸親王、神守親王、竹野守親王などとも表記されているが、麻呂子親王伝説を書きとめた文献として、最古のものと考えられる「清園寺古縁起」には、麻呂子親王は、十七才のとき二丹の大王の嗣子となったとある。
 この伝説について、麻呂子親王は、「以和為貴」とした聖徳太子の分身として武にまつわる活動をうけもち、仏教信仰とかかわり、三上ヶ嶽の鬼退治伝説という古代の異賊征服伝説に登場したものであろうといわれているが、実は疫病や飢餓の原因となった怨霊=三上ヶ嶽の鬼神の崇りを鎮圧した仏の投影でもあり、仏教と日本固有の信仰とが、農耕を通じて麻呂子親王伝説を育て上げたものであるともいわれる。
 この麻呂子親王伝説は、酒呑童子伝説との類似点も多く、混同も多い。酒呑童子伝説成立に、かなりの影響を与えていることがうかがえる。
 大江山の鬼伝説(その三)
「酒呑童子」
―源頼光の鬼退治―
 酒呑童子は、日本の妖怪変化史のうえで最強の妖怪=鬼として、今日までその名をとどろかせている。
 平安京の繁栄―それはひとにぎりの摂関貴族たちの繁栄であり、その影に非常に多くの人々の暗黒の生活があった。そのくらしに耐え、生きぬき抵抗した人々の象徴が鬼=酒呑童子であった。
酒呑童子という人物は史実に登場しないから、この話はフィクションの世界のできごとである。
 酒呑童子物語の成立は、南北朝時代(14世紀)ごろまでに、一つの定型化されたものがあったと考えられており、のち、これをもとにして、いろいろな物語がつくられ、絵巻にかかれ、あるいは能の素材となり、歌舞伎や人形浄瑠璃にもとり入れられ、民衆に語り伝えられていった。
酒呑童子は、フィクションの中の妖怪=鬼ではあるけれども、日本の文化史の中で果たした役割は、きわめて大きいものがある。
そしてその物語の背景となった、破滅しながら、しぶとくあくどく生きた、底辺の人々の怨念が見えかくれする。
 酒呑童子という名が出る最古のものは、重要文化財となっている「大江山酒天童子絵巻」(逸翁美術館蔵)であるが、この内容は現在私たちが考えている酒呑童子のイメージとはかなりちがっている。

 まず「酒天童子」であり、童子は明らかに「鬼王」であり「鬼神」である。
また大江山は「鬼かくしの里」であり、「鬼王の城」がある。
あるいは、「唐人たちが捕らえられている風景」、「鬼たちが田楽おどりを披露する」など興味深い内容がある。
そして頼光との酒宴の席での童子の語りの中に、「比叡山を先祖代々の所領としていたが、伝教大師に追い出され大江山にやってきた」とある。
また「仁明天皇の嘉祥2年(849)から大江山にすみつき、王威も民力も神仏の加護もうすれる時代の来るのを待っていた」とあるから、神仙思想の影響もうかがえる。
 ところで、童子といえば童形の稚児のことで、神の化身でもある。したがって、酒呑童子は、山の神の化身とも考えられるわけだが、酒呑童子は仏教によって、もとすんでいた山を追われる。
それは山の神が仏教に制圧されていく過程であり、酒呑童子を迎えてくれる山は、仏教化されていない山―もっと古い時代から鬼のすんだ山―土着の神々が支配する山である大江山しかなかったのである。
 酒呑童子は、中世に入り、能の発達と共に謡曲「大江山」の主人公として、あるいは日本最初の庶民むけ説話集である「御伽草子」の出現により、
広く民衆の心の中に入り込んでいった。
 中世的怪物退治物語の代表作としての酒呑童子物語には、源氏を標榜した足利将軍家の意向をうけた「頼光=源氏の功名譚」としての要素、地におちた王権を支えようとする人々の願望としての「王権説話」、あるいは「神仏の加護」など多様な内容をもりこんでいるがもう一つ、この大江山に伝わっていた「大江山の鬼伝説」が大きな要因となっていることを見落としてはならない。
 酒呑童子は頼光に欺し殺される。頼光たちは、鬼の仲間だといって近づき、毒酒をのませて自由を奪い、酒呑童子一党を殺したのだ。
このとき酒呑童子は「鬼に横道はない」と頼光を激しくののしった。

 酒呑童子は都の人々にとっては悪者であり、仏教や陰陽道などの信仰にとっても敵であり、妖怪であったが、退治される側の酒呑童子にとってみれば、自分たちが昔からすんでいた土地を奪った武将や陰陽師たち、その中心にいる帝こそが極悪人であった。
 「鬼に横道はない」酒呑童子の最後の叫びは、土着の神や人々の、更には自然そのものが征服されていくことへの哀しい叫び声であったのかもしれない。

出展、大江町鬼の交流博物館から


大江山鬼退治-大江山-
源頼光一行は、翁に案内されるままに峠をこえ、谷をこえ洞窟に入って行きます。その洞窟の中は非常に険しいのですが、翁の足が止まる事は無く源頼光たちは引き離されないようについて行きました。

やがて明るい所に出ると、翁は姿を消していました。一行がそれでも先へ進んでいくと、少し歩いた所で老婆が血のべっとりと付いた布を洗っているのを見つけました。源頼光は「鬼の配下が変化したか」と疑います。しかし、老婆は一行を見つけるなり「ここは鬼の里です。早く御逃げなさい!」と忠告をしてきました。



源頼光はその鬼を退治に来たことを話すと老婆は自分は元は貴族の妻であったが鬼の神通力で死ぬことも許されずに下働きをさせられているのだと涙を流して身の上を語り出しました。源頼光は老婆に鬼の根城を聞くと、老婆の元を後にします。

鬼たちの根城に着くと頼光は「道に迷って困っているから一晩泊めてくれないか?」と鬼たちに問いかけました。すると鬼たちは一行を山伏と思い込み根城へと通しました。
その夜の宴の席で鬼たちは、源頼光一行に女の血を絞った酒やら女の肉やらを進めます。一行は鬼に怪しまれぬようにと進められるままそれらを口にしました。

酒呑童子

そうしていると稚児の姿をした酒呑童子が現れました。傍らには茨木童子、その周りに酒呑童子の四天王である熊童子、虎熊童子、星熊童子、金熊童子がいます。

源頼光はすかさず翁から貰った神便鬼毒酒(神通力をなくす酒)を注ぎに向かいました。酒呑童子は酌をする源頼光をじっと見つめて「お前は何処かで見たことがある」と疑いましたが、源頼光の注ぐ酒を口にする度にそのような事はどうでも良くなってしまいました。



気分をよくした酒呑童子は自分が鬼になってからの身の上を語りはじめました。
「最初は比叡山に住んでいたのだが、伝教大師が延暦寺を建てて結界を張ってしまったので居れなくなって九州の英彦山に移った。その後伯耆大山・白山・立山・富士山と移り、最後はこの山に移ってきたのだ。最近は伝教大師のような強力な術者がいないので都に繰り出して楽しんでいる」



酒が回った酒呑童子は、寝室へと向かいました。他の鬼たちも酒に酔い潰れています。
源頼光は頼光四天王たちに鬼を皆殺しにすることを命じると酒呑童子の寝室へ忍び込みました。酒呑童子は神通力を失い稚児の姿から巨大な鬼の姿になっていました。

頼光は源氏の宝刀髭切を抜き放つと酒呑童子の首をはねます。しかし、首だけになっても童子は源頼光の頭に喰らいつきました。しばらく喰いついて離さなかった童子でしたが、翁から貰った星兜を噛み砕く事が出来ず最後には「鬼は横道などせぬものを(鬼はだまし討ちなどしないものを)」と悲痛の叫びをあげて力尽きました。



酔いつぶれた鬼を殺すのは容易く、鬼たちは次々と退治されていきました。その中でも茨木童子は手強く、酒呑童子が死んでのちも渡辺綱と戦い続けていました。しかしそんな茨木童子も酒呑童子の首を持った源頼光の姿を見るやいないや逃げ出します。そうして茨木童子を除き全ての鬼は源頼光一行の手によって殺されました。

鬼どもを退治した後は坂田公時が酒呑童子の首を担ぎ、他の鬼を手早く火葬するとさらわれた姫たちを救出して山を下りました。途中老婆がいた川に差し掛かると血の付いた布をもった人骨が転がっていました。
帰路につく一行が老ノ坂に差し掛かった時、「このような不浄なものを都に持ち込むでない」と地蔵尊に忠告されました。そのため酒呑童子の首はその場で埋葬されました。



その後酒呑童子は自らの過ちを悔い改めて神通力を正しく使い、首から上の病を治す大明神となって人々を救ったということです。

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挿絵:七左 有
文章:和術師
「大江山鬼退治-大江山-」登場人物
<源頼光>
初代摂津源氏で藤原道長の側近であり酒呑童子や鬼蜘蛛などを退治した人物
<酒呑童子>
大江山に巣食う鬼の大将
<渡辺綱>
頼光四天王の一人。四天王の中で最も若いが筆頭
<碓井貞光>
頼光四天王の一人。四天王の中で最年長
<坂田金時>
頼光四天王の一人。幼少期は金太郎というなで足立山に住んでいた
<卜部季武>
頼光四天王の一人。糸で下げた針をも射ることができる弓の名人





百済の南道の図解 随書で言う竹島は莞㠀 (グワンド)!





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