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...{2019/5/3以後の修正日

宋書に記された倭の五王(わのごおう)とは、5世紀に、南朝の東晋や宋に朝貢して「倭国王」と叙授された倭国の五人の王、すなわち讃、珍、済、興、武を指します。「倭の五王」の遣使(世修貢職)の記録が『古事記』、『日本書紀』に見られないことや、ヤマト王権の大王が、「倭の五王」のような讃、珍、済、興、武など一字の中国風の名を名乗ったという記録は存在しないため、「倭の五王」は近畿主体のヤマト王権の大王ではないとする説も江戸時代からありました。「讃」→履中天皇、「珍」→反正天皇、「済」→允恭天皇、「興」→安康天皇、「武」→雄略天皇・・・倭の五王の遣使は413年から477年までに少なくとも9回が確認されますが、このうち421年の倭王讃による遣使は東晋に対してですが、425年から477年までの倭王珍・倭王済・倭王興は、いずれも南宋に対するもので、479年倭王武の遣使は南斉対するものです。五王の朝貢年は中国史書からは明らかですが、記紀には(東晋南宋南斉首都・建康南京市の古称)への)朝獻記録がまったくありません。このため遣使年に在位していた天皇名を推定することで終わっています。具体的なきめてに欠けているのです。
井上光貞『日本の歴史1 神話から歴史へ』中央公論社〈中公文庫〉、1973年10月。ISBN 4-12-200041-6。
佐伯有清 編『雄略天皇とその時代』吉川弘文館、1988年2月。ISBN 978-4-642-02145-6。
安本美典『倭の五王の謎』廣済堂出版〈廣済堂文庫〉、1992年9月。ISBN 4-331-65153-3。
安本美典『大和朝廷の起源』勉誠出版、2005年7月。ISBN 978-4-585-05324-8。
直木孝次郎『直木孝次郎古代を語る6 古代国家の形成―雄略朝から継体・欽明朝へ』吉川弘文館、2009年3月。ISBN 978-4-642-07887-0。
森公章『倭の五王 5世紀の東アジアと倭王群像』山川出版社〈日本史リブレット 人 002〉、2010年4月。ISBN 978-4-634-54802-2。
上田正昭『私の日本古代史 上 天皇とは何ものか−縄文から倭の五王まで』新潮社〈新潮選書〉、2012年12月。ISBN 978-4-106-03720-7。
河内春人『倭の五王−王位継承と五世紀の東アジア』中央公論社〈中公新書〉、2018年1月。ISBN 978-4-121-02470-1。
瀧音能之『「日本書紀」と「宋書」で読み解く!謎の四世紀と倭の五王』青春出版社〈青春新書INTELLIGENCE〉、2018年8月。これらは今やみな骨董品 です。
倭王賛は貴須王だった!
日本書紀からでは讃から武までを天皇に否定できない。このため、とうとう、私は梁書と三国史記を対比して、王名とその遣使年に一致があることを遂につきとめました。
双方の資料に集中して分析してみました。
*[---]の中は日本書紀に出現する表記名。
宋書→梁書=百済の諱と王名=日本書紀の表記名
」→梁書では須=(三国史記では餘・須・第14代・近仇首王):[日本書紀では貴須王]
」→梁書では余映=(三国史記では餘映・第18代腆支王):[日本書紀では直支王]
」→梁書では餘慶=(三国史記では餘慶・第21代・蓋鹵王):[日本書紀では加須利君]
」→梁書では牟都=(三国史記では餘都・第22代・文周王):[日本書紀では汶洲王]
」→梁書では牟太=(三国史記では牟大・第24代・東城王):[日本書紀では末多王] *第二章三部後小論に(「倭の五王の後裔」・稲荷山の鉄剣などに詳述)
・梁書では倭の五王の後の二代まで書かれている。これは何を意味するのだろうか。百済王系譜、その連続性と一致する。このことは倭の五王が百済王であることは如実に語っている。もはや否定できないといえよう。
「隆」→餘隆=(第25代・武寧王・(斯摩)(「嶋君しまぎみ・嶋郎」→億計天皇に比定、その状況、父を殺されたことや、また弟が先に天皇になった経緯が近似している。嶋郎は弘計天皇と同母、母は荑媛(はえひめ・書記、これは倭王武と倭王隆が同母であること。嶋郎が先に生まれていることを示します。)
「明」明穠= (第26代・聖王)
以上で、中国史での西暦が明らかになっている年代で日本書紀を串刺しにすると日本書紀の天皇歴が明白になる。

梁書と宋書の違いがカギとなる

梁書がなぜ重要なカギをもっているのかは、倭国王が王名でなく名前(字・諱)で書き込まれているからです。
倭の五王の中国の資料および三国史記等から作成。(2018年9月~)
 「卑弥呼Xファイル」の年表を拡張、修正したものです。実績や地位のある先生方や在野の研究家むけて正確に根拠をしめす必要から資料集のようになってしまっています。難易度が高いですが、もっと一般書の平易に読めるようにできないものかと思っていますが、どうぞお付き合いをお願いします。
A:: 維基 -> 梁書 -> 検索 "牟太"
《梁書》
《卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎》←原文リンク
45 :百濟者,其先東夷有三韓國,一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓。弁韓、辰韓各十二國,馬韓有五十四國。大國萬餘家,小國數千家,總十餘萬戶,百濟即其一也。後漸彊大,兼諸小國。其國本與句驪在遼東之東,晉世句驪既略有遼東,百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣,自置百濟郡。晉太元中(376年-396年),王;義熙中(376年-396年),王餘映;宋元嘉中(424年 - 453年)王餘毘;並遣獻生口。餘毘死,立子。慶死,子牟都立。都死,立子牟太齊永明中(483年 - 493年),除太都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王。天監元年(502年),進太號征東將軍。尋為高句驪所破,衰弱者累年,遷居南韓地。普通二年(521年),王餘隆始復遣使奉表,稱「累破句驪,今始與通好」,而百濟更為彊國。其年,高祖詔曰:「行都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王餘隆,守籓海外,遠脩貢職,迺誠款到,朕有嘉焉。宜率舊章,授茲榮命。可使持節、都督百濟諸軍事、寧東大將軍、百濟王。」五年,隆死,詔復以其子為持節、督百濟諸軍事、綏東將軍、百濟王。
46:號所治城曰固麻,謂邑曰簷魯,如中國之言郡縣也。其國有二十二簷魯,皆以子弟宗族分據之。其人形長,衣服凈潔。其國近倭,頗有文身者。今言語服章略與高驪同,行不張拱、拜不申[伸]足則異。呼帽曰冠,襦曰復衫,褲曰褌。其言參諸夏,亦秦、韓之遺俗云。中大通六年(534年)、大同七年(541年),累遣使獻方物;并請《涅盤》等經義、《毛詩》博士,並工匠、畫師等,敕並給之。太清三年(539年),不知京師寇賊,猶遣使貢獻;既至,見城闕荒毀,並號慟涕泣。侯景怒,囚執之,及景平方得還國。
私訳文、以下。
45 :百済、その先には東夷の三韓国がある。一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓である。弁韓と辰韓は各12国ある。馬韓は54国である。大きな国は一万余家、小さい国は数千家で、合計すると十数万戸になる。百済は、そのうちの一国である。後に、しだいに強大となり、小国を属するようになった。その国はもと句驪という国で遼東の東にあった。晉の時代になって句驪は既に遼東を占有し、百濟はまた、遼西を占拠していた。それが晉平二郡の地だ。百濟郡と称して、自ら郡を置いていた。{太康六年(285年)、慕容廆(ぼようかい)によって全軍が撃破され、百済郡、すなわち晋平二郡は放棄、遺民を帰還させて東沃沮に復国する}晉太元中(376年-396年),王(近仇首王);義熙中(376年-396年),王餘映(腆支王);元嘉中(424年-453年)、並びに王餘毘(餘毘王)、遣使し生口を貢献してきた。餘毘が死に子の(蓋鹵王)が即位した。慶が死に子の牟都(文周王)が立った。問いただしてみると高句驪に所破され,衰弱すること積年、南韓地の地に遷都したという。都が死に子の牟太(東城王)が立った。齊永明中(483年-493年),太は都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王に叙官された。天監元年(502年)太は號征東將軍に進号された。尋為高句驪所破,衰弱者累年,遷居南韓地。普通二年(521年),王餘隆(武寧王)は復び遣使を開始し、「(高)句驪をかさねて破り,今始めて宋に通好した」と上表した。而百濟は更に彊國になった。その年、高祖は制詔して曰く、「行都督百濟諸軍事・鎮東大將軍百濟王餘隆(武寧王・斯摩=嶋しま)は籓を海外に治し,遠くから貢職を修め,迺(なんじ)の誠なること心から喜びにいたる。宜率舊章・授茲榮命。可使持節、都督百濟諸軍事、寧東大將軍、百濟王」その五年,隆(武寧王)が死にふたたびその子明(聖王・諱は明穠めいしょう)に制詔し、持節督百濟諸軍事、綏東將軍、百濟王となした。

46項からの私訳:以下
46:治城を固麻(こま)と号し、邑を簷魯(えんろ)と言っているが、中国でいう郡県に相当する。その簷魯は二十二あり、みな王の子弟や宗族が分拠している。人は背が高く、衣服は清潔である。倭に近く、文身している者がすこぶる多い。いま言語や高句麗と同じである。拱手(きょうしゅ)はせず、拝礼は足伸ばさず揃えない(片膝を着く礼式?)。帽子のことを日冠とよび、下着は復衫(ふくさん)といい、言語は夏や秦の類だとつたえる。武帝蕭衍の中大通六年(534年)、また、大同七年(541年)に遣使をして方物を累(かさね)て献上してきた。あわせて、涅盤経など經義、毛詩博士》,並びに工匠、畫師等を求めたので、命じてこれを給わった。太清三年(548年),京師(首都=建康,
呉の時代は健業:南京市の古称)が寇賊に襲われことを知らず、(侯景の乱)なお、遣使が到着した。遣使らは闕(けつ)が破壊されているのを見て、みな涙を流して嘆いた。その様子を見た(謀反人の)侯景は怒り、使者を捕え、方物を平らげて国に追い帰した。

46・・・.*534年、541年、548年の遣使とあるのは百済第26代聖王(餘明)の貢献ということになる。在位523年〜554年)
*侯景の乱(こうけいのらん548):侯景は東魏の権臣高歓の有力な武臣のひとりであり、高歓の死後に東魏から離反して南朝梁に降った。しかしほどなく梁の武帝が東魏と結んだため、孤立を恐れた侯景は548年(太清2年)に反乱を起こし、梁の都の建康を包囲した。翌年に建康を陥落させ、武帝を横死させた。簡文帝や豫章王蕭棟を相次いで擁立し、ついには自ら皇帝に即位して、国号を漢とした。
ここでは548年に侯景乱が勃発したとある。
*據:拠の旧字
*頗(は):すこぶる、かたよる
*参:まじわる。いりまじる。加わる。仲間
*拱手(きゅうしゅ):中国の敬礼で、両手の指を胸の前で組み合わせておじぎをすること。
*太清二年八月——侯景之乱:东魏降将侯景勾结京城守将萧正德,举兵谋反。
*使節が皇帝に拝謁する際は三跪九叩頭の礼(さんききゅうこうとうのれい)をとる。
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結論を先にします。梁書は讃珍済興武をなんと”百済王”の実名(諱・いみな)で書いています。
餘須:=第14代・近仇首王のいみな>倭の五王賛:[貴須王] 神功皇后紀に伝
餘映:=第18・代腆支王のいみな>倭の五王珍:[直支王] 神功皇后紀と応神紀
慶=第21代・蓋鹵王のいみな>倭の五王済:[加須利君] 雄略紀
牟都:=第22代・文周王のいみな>倭の五王興:[汶洲王] 雄略紀
牟大:=第24代・東城王のいみな>倭の五王武:[末多王] 雄略紀と武烈紀
   行末[日本書紀が記す百濟王名]の後ろは日本書紀の引用文が書かれている天皇紀年であって、天皇とは一致しません。武烈天皇だけが末多王と行状や嗣子がいないことなど部分的に似ています。


    
■岩元正昭説
賛    日子刺肩別命(ヒコキサシカタワケノミコト)
珍    孝元天皇(オオヤマトネコヒコク)
済 比古布都押之信命(コフツオシノマコトノミコト
興 味師内宿禰(甘美内宿禰ウマシウチノスクネ)
武 建内宿禰(武内宿禰)タケシウチノスクネ)
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■安本美典説
賛 応神天皇
珍 仁徳天皇
済 弁恭天皇
興 安康天皇
武 雄略天皇
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倭の五王、天皇比定説では、倭王武については雄略天皇で学説には異論がないという。したがって、倭王武が雄略でなかったら、すべては間違っており、砂上の楼閣になるということだ。

注:*餘隆:=第25代武寧王の諱(いみな)>倭王を自称しなかった。
*諱(いみな)とは、実名。
*餘は姓、余氏とも、夫餘の餘をとったものとされる。「牟」は「貞」の草書体の略体誤記?百済大姓の貞氏の可能性。百済大姓には貞氏または真氏(別記)はあるが、牟氏はない。牟とは牛のなく声という象形でなんらか貶めた語である。
牟太の牟は姓ですが、真か貞の誤筆と思われます。百濟大姓に牟氏はなく、眞氏があります
*餘映については、梁書での名を映とであると直記している。『三國史記』 《卷二十五 百濟本紀 第三》「 腆支王 或云直支 梁書名映 阿莘之元子 阿莘在位第三年 立爲太子 六年 出質於倭國」
現代語訳:腆支王はある注には直支ともいう。梁書に名は映とある。阿莘王の嫡男で、阿莘王在位三年に太子となり、六年には倭国に人質として行った。この一文は、梁書での映が三国史記が腆支王であることが確実であることを示す。

梁書によれば、倭の五王のあとも朝献はつづいていた。

 梁書で特徴をあげると、倭王武のあとに、百濟王餘隆と明の名があることです。
餘隆は第25代武寧王の諱です。明は餘隆の子と記述されています。余明は百済26代の聖王の諱です。倭の五王、武のあと、斉、梁への貢献は百済王によって継続されていることが確認できます。倭国王という称号がなくなっただけなのです。日本の天皇に比定する諸説では、倭王武を雄略天皇とする説が多いようですが、倭王武以降も梁への貢献をしている事実については言及していません。これらをも天皇に比定しなければなりません。倭王武のあとは論外としてしまうのではお話になりません。
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B:《梁書》 《卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎》←原文リンク

50 漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子卑彌呼為王。彌呼無夫婿,挾鬼道,能惑眾,故國人立之。有男弟佐治國自為王,少有見者,以婢千人自侍,唯使一男子出入傳教令。所處宮室,常有兵守衛。至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢,魏以為親魏王,假金印紫綬。正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。齊建元中(479年 - 482年),除武持節、督倭、新羅、任那、伽羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖即位,進武號征東將軍。
「漢靈帝の光和中(178年-184年)に倭國は内部紛争が起き、敵も味方もはっきりしない戦いが数年つづいて国は乱れた。こうした末に国人は一女子卑彌呼を共立して王となした。彌呼の夫はすでに亡くなり鬼道を挟んで衆をよく惑わした。故に國人は卑弥呼を尊敬し、王に立てた。一人の男弟が国の政治をとって自ら王となっていた。このため、卑弥呼を見かける者は少なく、宮室には侍婢が自ら望んで千人も仕えていた。だだ、一人の男子が教令を伝えるため使いとして出入りしていた。卑弥呼のいる宮室は常に兵卒が守衛している。曹魏の時代になった景初三年に至る前に公孫淵が誅殺されたあと、卑彌呼は始めて遣使朝貢してきた。魏は親魏王となし、金印紫綬を加与えた。正始中,卑彌呼は死に、佐治をしていた男王は王に共立されようとしたが、國中が服さず、互いに誅殺しあった。再び卑彌呼の宗女である臺與を王となした。その後、復び男王がたち、その後の男王たちはいずれも中國から爵命を受けた。晉の時代になって安帝のとき倭王贊がおり、贊が死ぬと弟の彌が立った。彌が死ぬと、子の濟が立ち、濟が死ぬと子の興が立ち、興が死ぬと弟の武が立った。齊の時代の建元中(479年-482年),武は叙武持節、督倭、新羅、任那、伽羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍に叙され。高祖が即位すると武は征東將軍に進号された。」

C:維基 -> 宋書 -> 檢索 "倭國"←原文リンク
《宋書》
《卷五本紀第五 文帝》
53 倭國,在高驪東南大海中,世修貢職。高祖永初二年(421年),詔曰:「倭贊萬里修貢,遠誠宜甄,可賜除授。」太祖元嘉二年(425年),贊又遣*司馬曹達奉表獻方物。贊死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍倭國王。求除正,詔除安東將軍倭國王。又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。二十年(444年),倭國遣使奉獻,復以為安東將軍倭國王。二十八年(452年),加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故并除所上二十三人軍、郡。濟死,世子興遣使貢獻。世祖大明六年 (462年),詔曰:「倭王世子興,奕世載忠,作籓外海,稟化寧境,恭修貢職。新嗣邊業,宜授爵號,可安東將軍倭國王。」興死,弟武立,自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍倭國王。
「倭国は高句麗の東南大海中にあり、代々貢職を修めている。高祖(武帝・劉裕)永初二年(421年)、皇帝は次のように制詔した。「倭賛は萬里の遠方から貢献を修め、その深遠な誠ははなはだ明らかであり叙授を賜うに値する。」太祖(文帝・劉義隆)元嘉二年(425年)に司馬曹達は賛を奉賀朝貢に遣わした。賛が死に、弟に珍が即位し、遣使貢献してきた。珍は「使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍倭國王」を自ら称して、上表し叙正(進号)を求めてきた。皇帝は詔して、安東將軍倭國王と叙授した。は又倭隋等十三人、平西征虜冠軍、輔國將軍などの号の叙正を求めたので、並びに聞き入れて叙正した。文帝20年(444年)倭国王済が遣使し奉賀朝獻してきた。済を安東將軍倭國王に戻した。文帝28年(452年)文帝は倭国王済を使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍と叙正し、軍、郡の二十三人の授正を以前のように併せて制詔した。が死に、太子興が遣使を出して貢獻してきた。世祖(孝武帝劉駿)大明六年 (462年)皇帝は詔をだした。「倭王太子興は、代々忠実に朝獻し,籓を外海に作り,天意に従い国境を寧(やす)んじ,うやうやしく貢職を修め。新たに辺業を継ぐ,爵号を安東將軍倭國王に叙正するのにふさわしい。」興が死んで、弟の武が即位した。「使持節都督,倭,百濟,新羅,任那,加羅,秦韓慕韓七國,諸軍事,安東大將軍倭國王」を自称して上表してきた。
倭國,在高驪東南大海中を推定する。以下。

下赤線が倭の五王

*奕世:累世,代代の意。
*司馬:中国、周の六卿の一。夏官の長で、官制・祭祀( さいし)・軍事をつかさどった。前漢には大司馬と称し、三公の一。司馬は元々軍事をつかさどる官職のことである。司馬曹達という人物は不明であるが、中国の官吏であるとみる。
        以上の三史書を対照して倭国王の実像を見極める作業を試みなければなりません。
*年号の頭で改行しています。

 倭王   百済本紀
百済王
王歴(在位年)
  《梁書》  《梁書》A
王の名称
 梁書》B  《宋書》C  百済本紀
王の諱
  日本書紀での名称  日本書紀記載紀年
 賛   近仇首王375-396年  (東晉)太元中
(376年-396年)
晉安帝時(397-418年)
    倭王贊
 
武帝永初二年(421年)安東大將軍
 余須  貴須王
(くぃすおう)
【神功皇后49・55・56・64年】
【神功皇后49年】:其王肖古及王子貴須、亦領軍來會(任那にて千熊長彥の軍に合流した意)
 珍   腆支王405-427年  (東晉)義熙中
(405年-418年)
 餘映  弟彌  弟珍
元嘉二年
(425年)
珍即位・朝献。
安東将軍(倭珍)
 余映  直支王
(ときおう)
 【神功皇后52・64・65年】
【応神8年】是以、遣王子直支于天朝、以脩先王之好也。
【神功皇后紀】六十四年、百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王(384年)。六十五年、百濟枕流王薨(385年)。王子阿花、年少。叔父辰斯、奪立爲王(385年)。六十六年。是年、晉武帝泰初二年。(266年)晉起居注云「武帝泰初二年十月(266年)、倭女王遣重譯貢獻。」
*百済第15代枕流王の死去は西暦385年(三国史記2)
*泰初2年は西晋の武帝司馬炎の治世2年西暦266年)
【応神16年】是歲、百濟阿花王薨。天皇、召直支王謂之曰「汝返於國、以嗣位。」
神功皇后紀では六十六年。是年、この年とは386年のことになるはずであるが、1年しか違わない年に、なんと史実では266年の事柄にジャンプする。120年ちかく違う矛盾はいったい何故か?倭女王遣重譯貢献とは、238年のことではないのか
?西暦に直すと年号にまったく整合性がないことについて、間違った理由を考えたほうがいいほどである。
 済    蓋鹵王428-475年
 
(南宋)元嘉20年 (443年) 安東将軍(倭済)
元嘉中(424-452年)
   
文帝20年(443年)國王済、安東将軍
 慶司  加須利君
(かすりのきし)

 【雄略2年】百濟新撰に伝はく、巳已年に蓋鹵王立つ。・・・王は夫人の女・適稽女郎(ちゃくけいえ)を献上。{池津姫のこと}

 【雄略5年】「百濟加須利君蓋鹵王也」
  *百濟の加須利君は蓋鹵王なりとはっきり明記されている。諱・慶司は中国が制詔した名前だとすると付けたとすると、加須利が実名かもしれない。

 興   文周王475-477年
(南宋)元嘉28年(451年) 451年 安東大将軍(倭済)
進号假授倭国王:(南宋)大明6年(462年)安東将軍(倭興)
(南宋)大明中
(457年 - 464年)
 牟都  世子(太子)興叙勲
 文帝28年(452年)
→済

世祖
大明六年
(462年
→興安東将軍(倭興)
 牟都  汶洲王
(もんすおう)
【雄略21年】汶洲王、蓋鹵王母弟也
 武  東城王479-501年  (南斉)永明483年 - 493年  牟太  弟武  
((南斉)建元中479年 - 482年)
479年 安東大将軍(倭武)
 牟大  末多王
(またおう)

雄略5年夏四月条 百濟紀引用文:百濟新撰云「辛丑年(461年)、蓋鹵王、遣弟昆支君向大倭侍天王、以脩兄王之好也。」 兄王とは分周王であり、日本に行った崑支とよく交流した。日本に来た百濟王子とは崑支である。崑支が日本にはじめて来たのは461年です。百濟では蓋鹵王の治世のときです。埼玉古墳の鉄剣の銘文は471年です。
【雄略14年】 日本舊記云「以久麻那利、賜末多王。」蓋是誤也。「久麻那利(くまなり)を(末多王の兄)汶洲(もんす)王に賜った。」
雄略5年夏四月条 乃告其弟軍君崑支君也曰「汝宜往日本、以事天皇。」(軍君崑支君に言った。「汝はよろしく日本に行って、天皇に仕えよ。・・・と蓋鹵王が崑支に命じた。450年ころの事件に日本という国名が挿入されるはずはないのだが、・・・日本書紀の記録者も混乱したのだろうか?想像だが、過去史に無知な中国人か朝鮮人の訳者が書いたのではという疑いをもつ。

雄略5年秋七月条「軍君入京、既而有五子。」軍君崑支が日本に入京(桜井忍坂)したときには5人の子がすでにいた。男大迹天皇(おおどの)は継体天皇の別称であるので、軍君崑支が継体天皇の可能性が濃厚だ。
雄略23年4月百濟文斤王、薨。天王、以昆支王五子中第二末多王・幼年聰明、勅喚內裏、親撫頭面、誡勅慇懃、使王其國、仍賜兵器、幷遣筑紫國軍士五百人、衞送於國、是爲東城王。以下意訳:
【雄略23年4月】百濟の文斤王が暗殺され、天王は因って昆支王の五人の子供のなかの二子である末多王(中略)を兵器を賜うとともに500人の筑紫國軍の兵を伴って百濟に遣わし王となした。ここでは稀ですが、天皇でなく、「天王」と書いているので琨支の可能性があるのです。武烈を立太子し、後継としたのは仁賢天皇と書記は書きますが、止まって考えれば男大迹こと継体天皇でなければおかしいのです。長男より先に王になった。東城王でした。ここで、「天王」という二文字はいったい誰?困って選んだのは二子の末多王とは牟大こと倭国王武に当たる。第一子はその後、百済25代武寧王(501-523)となる。

日本書記【武烈4年】百濟新撰云「末多王無道、暴虐百姓、國人共叙。武寧王立、諱斯麻王、是琨支王子之子、則末多王異母兄也。(百済で王になったのはいいのですが、はなはだ悪い行状のため暗殺されてしまいました。次の斯麻王は25代武寧王のことですが、崑支の養子で日本から送り出されています。真相は蓋鹵王の庶子だったのです。)
*世子興、世子(せじゃ)とは朝鮮語で立太子した世継ぎのこと。

15代枕流王と16代辰斯王は兄弟であり、兄の枕流王を暗殺して弟の辰斯王が王位を奪ったのです。中国史では讃と珍が兄弟とあるので、讃が枕流王とはじめは考えたが、枕流王の諱は余暉・384-385)であり、須ではない。もし、讃と珍が兄弟という中国史が正しいとすると、辰斯王と阿莘王は後世に追号した架空の王となります。中国史からは枕流王と腆支王が兄弟となるはずです。ぎゃくに百濟王系図に問題があるということになります。日本書紀は阿花王を明記していますからまちがった百済王統紀をそのまま書いていることになり、百濟紀をパクっていることになります。済から武までなぜか雄略紀に書かれているのでしょうか。賛と珍が神功皇后紀と応神天皇紀にかかれたあと、16代仁徳(にんとく)から20代安康(あんこう)までがすっぽ抜けて21代の雄略(ゆうりゃく)にとんでしまい、また、22代清寧、23代顕宗、24代仁賢がすっぽぬけて25代武烈紀に末多王が書かれます。わたしは雄略が日本にいたときの崑支の二子の事績、武烈が百済王になったあとの事績だと思えます。雄略と武烈はどちらも、「大悪天皇」(はなはだあしきすめらみこと)だったからです。そうすると書記の史人(文官)の造作の意図がわかってきます。なんであれ西暦年表のように事の順列に整合性がありません。ランダムだといえばさしさわりがありませんが、でたらめです。日本書紀から倭の五王が表出できないのが道理といえるでしょう。


1.太元(たいげん)は、東晋孝武帝司馬曜の治世に行われた2番目の元号。376年 - 396年。
2.義熙(ぎき)は、東晋安帝司馬徳宗の治世に使用された元号。405年 - 418年。
3.元嘉(げんか)とは424年に即位した宋(劉宋)の第3代皇帝文帝が452年まで採用した元号である。424年-452年
4.永初(えいしょ)は、中国の南北朝時代、南朝宋の武帝(劉裕)の治世に使われた元号。永初元年から三年まで、420年-424年
5.永明(えいめい)は、南北朝時代、南斉の武帝蕭賾の治世に行われた年号。483年 - 493年。
普通(ふつう)は、南北朝時代、梁の武帝蕭衍の治世に行われた2番目の元号。520年 - 527年。普通8年は3月に改元されて大通元年となった。
6.東晋の安帝(あんてい)第10代皇帝の元号=隆安:397年-401年 元興:402年-404年 大亨:402年 義熙:405年-418年
7.元嘉二年 425年にあたる。南宋の第3代皇帝安帝劉義隆 の元号元嘉424年施行 424–453年6)天監元年 502年)
8.天監元年 502年
9.大明(だいめい)は、南北朝時代、南宋の孝武帝劉駿の治世に行われた2番目の元号。457年 - 464年。
西晋の皇帝
司馬懿は、司馬炎によって、高祖宣帝と追号された。
司馬師は、司馬炎によって、世宗景帝と追号された。
司馬昭は、司馬炎によって、太祖文帝と追号された。
1.世祖武帝(司馬炎、在位265年 - 290年) 司馬昭の長男
2.孝恵帝(司馬衷、在位290年 - 306年) 先代の次男
3.建始帝(司馬倫、在位(僭称)301年) 司馬懿の九男
4孝懐帝(司馬熾、在位306年 - 311年) 先代の異母弟
5孝愍帝(司馬鄴、在位313年 - 316年) 先代の甥
東晋の皇帝
1.元帝317年 - 322年
2.明帝322年 - 325年
3.成帝325年 - 342年
4.康帝342年 - 344年
5.穆帝344年 - 361年
6.哀帝361年 - 365年
7.廃帝365年 - 371年
8.簡文帝371年 - 372年
9.孝武帝372年 - 396年 太元中:倭王讃=須 貴須王 七支刀(379年)
10.安帝396年 - 418年 義熙:405年-418年:倭王珍 余映 直支王
宋(南朝宋)
1.武帝420年 - 422年 /
2.少帝 422年 - 424年/
3.文帝424年 - 453年 /
4.孝武帝453年 - 464年 /
5.前廃帝464年 - 465年 /
6.明帝465年 - 472年 /
7.後廃帝472年 - 477年 /
8.順帝477年 - 479年.


高帝・ 蕭道成 (479年 - 482年) / 武帝 (482 - 493年)/ 廃帝鬱林王(493年 - 494年) / 廃帝海陵王(494年) / 明帝(494年 - 498年) / 廃帝東昏侯(498年 - 501年) / 和帝(501年 - 502年)/滅亡

高祖武帝(蕭衍、在位:502年 - 549年)
太宗簡文帝(蕭綱、在位:549年 - 551年)
廃帝豫章王(蕭棟、在位:551年)
世祖元帝(蕭繹、在位:552年 - 554年)
蕭紀(僭称皇帝、在位︰552年 - 553年)
敬帝(蕭方智、在位:554年 - 555年)
閔帝・貞陽侯(蕭淵明、在位:555年)
敬帝(蕭方智、在位:555年 - 557年、復位)

南梁
永嘉王(蕭荘、在位:557年 - 560年)(王琳ら・北斉によって擁立)
後梁
中宗宣帝(蕭詧、在位:554年 - 562年)
世祖明帝(蕭巋、在位:562年 - 585年)
後主(蕭琮、在位:585年 - 587年)

北朝 北魏 拓跋珪 386年 - 534年 前身は鮮卑拓跋部 
1.太祖道武帝(拓跋珪、在位:386年 - 409年/2.太宗明元帝(拓跋嗣、在位:409年 - 423年)/3.世祖太武帝(拓跋燾、在位:423年 - 452年)/4.南安隠王(拓跋余、在位:452年)/5.高宗文成帝(拓跋濬、在位:452年 - 465年)/6.顕祖献文帝(拓跋弘、在位:465年 - 471年)/7.高祖孝文帝(元宏、在位:471年 - 499年)/8.世宗宣武帝(元恪、在位:499年 - 515年)/文景帝(京兆王元愉、在位508年)︰僭称皇帝。/9.粛宗孝明帝(元詡、在位:515年 - 528年)/元法僧(在位︰525年)︰/10.孝荘帝(元子攸、在位:528年 - 530年)/*.北海王(元顥、在位︰529年)僭称皇帝。南朝梁によって魏帝と称せられる。/11.東海王(元曄、在位:530年 - 531年)/12.節閔帝・前廃帝(元恭、在位:531年 - 532年)/13.安定王・後廃帝(元朗、在位:531年 - 532年)/14.孝武帝・出帝(元脩、在位:532年 - 534年)︰534年7月に洛陽を脱出して長安に入り(西魏)、10月に洛陽で高歓が孝静帝(元善見)を即位させたため(東魏)、北魏はふたつに分裂した。
東魏 元善見 534年 - 550年
西魏 元宝炬 535年 - 556年
北周 宇文覚 556年 - 581年
北斉 高洋 550年 - 577年


中国皇帝と倭の五王対比
東晋の第9代孝武帝・太元376-396年 ①須。→賛
東晋の第10代皇帝安帝・義熙405-418年  ②餘映。→珍
東晋の第10代皇帝安帝・元嘉中424-452年 ③ →済 
南朝宋の第5代孝武帝劉駿。大明中457年 - 464年 ④牟都。→興
南斉の第3代武帝・永明482年 - 493年  ⑤牟太。 叙太都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王。→武

*珍は東晋の安帝、済興は宋の安帝で、同じ安帝でも違いがある。済と興は462年同時に倭国王に叙されている。



①梁書での 「須」とは、日本書紀では貴須王(くぃすおう)【神功皇后摂政52年】、朝鮮史では余須、第14代/近九首王(在位375-384)
②梁書での「餘映」とは、朝鮮史では余映、第18代/腆支王(在位405-427?)日本書紀では直支王(ときおう)【応神8年王子直支で現れる】
 資料:『三国史記』 腆支王(分注。直支ともいう。)は、『梁書』には名を映とある。阿莘王の嫡男で、阿莘王の在位三年(397年)に太子となり、六年(397年)倭国に人質として行った。以下略。
〇餘毘(よび)とは、「日本書記-不詳」、朝鮮正史では余毗(よび) 第20代/毗(ひ)在位427?-455年)、《梁書》宋の文帝、元嘉中(424年 - 453年)に王餘毘の朝貢記録とみなすと実在した王と見るべきか?
③梁書での「慶」とは、日本書紀では「加須利君(かすりのきみ)【雄略5年】、朝鮮史では余慶 第21代/蓋鹵王(在位455-475年)
④梁書での「牟都」とは、日本書紀では「汶洲王」【雄略21年】、「文斤王」【雄略23年】。朝鮮史では牟都 第22代/文周王 (在位475-477)
⑤梁書での「牟太」とは、倭王武・日本書紀では「末多王」【雄略23年】、朝鮮史では「徐牟大」第24代/東城王(在位479年-501年)日本書紀本編では、武烈天皇として記述されている。

ーーー上記の①~⑤が中国から倭國王と認められた人物、いわゆる「倭の五王」ーーー
②は『三国史記』は梁書を引用して、映が腆支王であることを明記している。

①梁書での 「須」とは、倭国王讃=近九首王(在位375-384)
②梁書での「餘映」とは倭国王珍=余映、第18代/典支王(在位405-427?)①と②は兄弟(中国史に依拠)
 梁書での「餘毘」とは、倭国王ではありません。「日本書記には書かれないので在位していない王ではないか?」、朝鮮史では余毗 第20代/毗有王在位427?-455年)この在位年は蓋鹵王の在位期間に挿入したか、まったく朝貢しなかったかどちらかです。(中国史に依拠)
③梁書での「慶」とは、倭国王済=蓋鹵王(在位455-475年)
④梁書での「牟都」とは、倭国王興=牟都 第22代/文周王 (在位475-477)③の王后の弟
⑤梁書での「牟太」とは、倭王武==「徐牟大」第24代/東城王(在位479年-501年)④の弟の昆伎の第二子

宋書 倭国伝・南史本紀文帝記・倭王武の上表書など、「讃死弟珍立」 讃死して弟珍立つが真実であれば、これは須と映の関係が兄弟になる。

*梁書での「餘隆」とは、日本書紀では嶋君」【雄略天皇紀5年】、朝鮮史では「余隆」第25/代武寧王(ムリョンワン)(在位501-523年) ------倭の五王の後:余隆=武寧王
普通520年 - 527年 521年 王餘隆始復遣使奉表・・・。
             525年 王餘隆死す。

尉仇台の後扶余の系譜と、百済の王系図を重ねてみる!(第何代の代数は三国史記による)
慰礼系伯済系のうち5代6代がはめ込み。13代からは、尉仇台系百済。
 歴代  王名  尉仇台系王系譜    歴代  温祚系王系譜  中国の皇帝と年号
         1  温祚王(18-28) 《国祖》  
         2  多婁王(28-77)  
         3  己婁王(77-128)  
         4  蓋婁王(128-166)  
 5  尉仇台  (仇台・166- 214) 《国祖》  =>[5]代 肖古王
公孫氏海東を制覇、このとき、尉仇台は遼東に属することを願った。沃沮のほかに、遼西晋平県に国を作った。
     
 6  简位居  (位居・ 214-238?)  =>[6]代 仇首王   太和三年秋七月(229年)高句驪王宮は孫權の使者・胡衞等の首を曹魏に送る。 
   麻余王  (麻余・238-239) 更立男王・国中服さず。  7 沙伴王(234)(沙沸王、沙伊王の別名?)  
   依慮王  (依慮・235-285) 壹與13歳、依慮16歳。 
《隋唐》
《通典》 [唐] 801年 杜佑著
《兵十四》
《邊防一》
《夫餘》
3 打開字典 夫餘:
至太康六年,為慕容廆所襲破。廆,呼罪反。其王依慮自殺,子弟走保沃沮。
太康六年(285年)、慕容廆(ぼようかい)によって扶余は全軍が撃破され、王の依慮(イロ)は自殺し、子弟は逃れて沃沮に保護された。慕容廆(ぼようかい):鮮卑慕容部の大人(部族長)(在位:285年 - 333年)
 8  古爾王(234-286) 景初二年(238年)司馬宣王圍公孫淵於襄平,大破之,傳淵首于京都
景初三年春正月丁亥,太尉宣王還至河內,帝驛馬召到,引入卧內,執其手謂曰:「吾疾甚,以後事屬君,君其與爽輔少子。吾得見君,無所恨!」宣王頓首流涕。
正始(せいし)は、三国時代、魏の斉王曹芳の治世に行われた最初の元号。240年 - 249年
嘉平(かへい)は、三国時代、魏の斉王曹芳の治世に行われた2番目の元号。249年 - 254年。
   依羅王  (依羅・286-346)  臺與・依慮のあとの男王。以降並びに
中国に朝貢。
 9  責稽王(286-298)  太康(たいこう)は、西晋の武帝司馬炎の治世に使われた元号。280年 - 289年。
   玄王  (不伝)    10  汾西王(298-304)  
   余蔚王  (不伝)    11  比流王(304-344)  
   孱王  (不伝)    12  契王(344-346)?
*王朝断絶
 
 13  近肖古王  (余句・346-375 )      王妃族・真氏に転。  
 14  近仇首王  (余須・375-384)  倭国王讃(王須)
   漢山遷宮  太元(たいげん)中376年 - 396年。東晋孝武帝司馬曜の治世の2番目の元号。
 15 枕流王  (余暉・384-385)      近仇首王の嫡男。祖父の近肖古王にかわいがられていた。  
 16  辰斯王  (不伝・385-392)      近仇首王の中子です、枕流王の弟にあたります。兄の枕流王を殺害して王位についた。  
 17  阿莘王  (余蔚・392-405)      枕流王の嫡男。  
 18  腆支王  (余映・405-420)  倭国王珍(餘映)
元嘉二年425年、賛死、珍即位。遣使朝献。
(中国史)
  阿莘王の嫡男。阿莘王三年に太子となり、日本に人質として送られる。日本に10年ほど在留。  義熙405-418年
 19  久爾辛  (不伝・420-427)  不在王。追号王?      
 20  毗有王  (余毗・427-455)  不在王。追号王?
《梁書》での宋元嘉中(424年 - 453年)王餘毘
にあたるが史実上は不在
   牟大の上表にもとずいた遡及記録。並遣獻生口とある。
北魏と戦闘を交えたか?
 
 21  蓋鹵王  (余慶・455-475)  倭国王済(慶)
元嘉二年445年の奉賀朝獻(中国史)
   蓋鹵王の弟・軍君の子・昆支日本に来る。  元嘉中424-452年
 22  文周王  (牟都・475-477)  倭国王興(餘都)   昆支の兄:この頃、嶋王( 武寧王)日本で生まれる。
熊津遷宮
 元嘉中424-452年
済と同時に太子の時に叙正。
 23  三斤王  (不伝:477-479)  13歳で即位15歳で死亡      
 24  東城王  (牟太・479-501)  倭王武(牟大)    南斉の建武二年(495年)、牟大は来寇した北魏の鮮卑の騎兵と戦い勝利。功臣への加行褒賞を求めて南斉の明帝蕭鸞に遣使朝貢する。『周書』卷四十九 ) 建元(けんげん)南齊 太祖 高帝 蕭道成 479年 - 482年
永明(えいめい)は、南北朝時代、南斉の武帝蕭賾の治世に行われた年号。483年 - 493年。北魏の捕虜を貢献し、南斉を喜ばせる。
 25  武寧王  (余隆・501-523)  日本より帰還、百済王に即位    梁の高祖に朝貢
行都督百済諸軍事鎮東大将軍百済王を使持節都督百済諸軍事寧東大将軍の爵号に進号。
天監(てんかん)502年 - 519年。=は、南北朝時代、梁の武帝蕭衍の治世に行われた最初の元号。  
普通(ふつう)は、南北朝時代、梁の武帝蕭衍の治世に行われた2番目の元号。520年 - 527年
 26  聖王  (余明・523-554)  《欽明天皇 元年夏四月》聖明王曰「昔我先祖速古王貴首王之世、安羅・加羅・卓淳旱岐等、初遣使相通厚結親好、以爲子弟冀可恆隆。」    南扶余遷宮 泗沘城
梁が滅亡。
 
 27  晶王  (余昌・554-598)  威徳王とも、    斉、隋の高祖に朝貢  
 28  恵王  (余恵・598-599)  随書では晶の子とする。      
 29  法王  (余宣・599-600)  在位1年      
 30  武王  (余璋・600-641)  薯童謠、大分の炭焼長者の主人公    隋の煬帝から唐の第2代皇帝太宗(在位626–649年)まで朝貢  孝徳天皇の父
 31  義慈王  (義慈・641-660)  羅唐軍に敗戦、中国の京都に連行される。      
赤色が倭の五王


以下①~⑤の人物歴の各論(頭の数字は百済王統譜による歴代数)、小囲みは日本書紀に書かれている変名の部分引用。

~各論~

 倭王讃
13.近仇首(きんきゅうしゅ)王==倭国王讃 諱は余須 第13代百済王(375-384-396年)
梁書』では須の名で記され、『日本書紀』では貴須王(くゐすおう)、神功皇后摂政56年。欽明天皇2年では「貴首王」と書かれる。
『日本書紀』

①神功皇后摂政49年《王肖古及王子貴須》、
②神功皇后摂政56年《百濟王子貴須、立爲王》
③神功皇后摂政64年《百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王》

④欽明2年夏4月 《聖明王曰「昔我先祖速古王・貴首王之世、安羅・加羅・卓淳旱岐等、初遣使相通厚結親好・・・《継体天皇》6年冬12月条「大伴大連金村、四県割譲。》


『梁書』梁書 -> 卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎 百済条 「晋の太元年間(376年 - 396年)に王の須が・・・中略・・・生口を献上してきた。」という記事があります。
372年にはまだ太子だったが高句麗の平壌城まで進撃し故国原王を戦死させています。生口=捕虜)はこの戦で高句麗から捕獲したものです。その後、漢山に王都を移します。375年11月に王位を継いだ後も高句麗とは交戦を続け、先代の近肖古王の東晋と結んで高句麗と当たる外交態勢を保った。
 百済との戦闘に続いて敗れていた高句麗は余須が王位つくと、「ここぞとばかりに百済を攻撃し、平壌城南東50㎞の水谷(すごく)城(そん)を陥落させた。これを契機に百済と高句麗は、攻守を繰り返す泥沼戦に入る。
391年、檀君王儉(わんごむ)が建てた古朝鮮の領土を取り戻すことを夢とした高句麗史上最強の征服王である広開土(くぁんげど)王の波状攻撃で10余個の城を征服され、百済の勢力は急速に弱体化する。392年、百済は漢江流域を喪失し、伽耶地域に伸びていた勢力圏も新羅に奪われた。

*神功皇后55年、日本書紀では肖古王が亡くなったあと、王子貴須が立つ」とあるので、日本書紀の肖古王は百濟史では第13代近肖古王のこと。貴須は近九首王。近九首王の諱は三国史記によれば須である。梁書での「須」に一致する。
*百済は史書を記録するようなことはできなかったが、近肖古王(346-375)が博士高興を得てはじめて事を記すようになった。したがって日本書紀にある百済引用も4世紀後半から始まった記録であることを頭の片隅に置いておこう。



14 枕流王(とむるおう) (余暉・384-385 日本書紀神功皇后摂政52年では枕流(とむる)在位2年で死去、枕流王(とむるおう)の子が阿莘王。

『日本書紀』

神功皇后52年秋九月丁卯朔丙子 《孫枕流王》
神功皇后64年、百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王
神功皇后65年、《百濟枕流王薨。王子阿花、年少。叔父辰斯、奪立爲王。》

15 辰斯王(385-392)(しんしわん)が第16代の王位を継ぐ。枕流王の弟、辰斯王が日本に対して失礼な振る舞いがあったために倭国は紀角宿禰(きのつの-のすくね)などを遣わせて譴責(けんせき)したところ、百済の側で辰斯王を殺して詫びたので、紀角宿禰らは阿花(阿莘王(392-405))を百済王に立てた。応神天皇3年に記事
『日本書紀』(別伝:雄略天皇として真相が書かれる)

応神天皇三年冬十月辛未朔癸酉、東蝦夷悉朝貢。卽役蝦夷而作厩坂道。十一月、處々海人、訕哤之不從命。訕哤、此云佐麼賣玖。則遣阿曇連祖大濱宿禰、平其訕哤、因爲海人之宰、故俗人諺曰佐麼阿摩者、其是緑也。是歲、百濟辰斯王立之、失禮於貴國天皇。故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰、嘖讓其无禮狀。由是、百濟國殺辰斯王以謝之、紀角宿禰等、便立阿花爲王而歸。

応神天皇三年冬十月辛未朔癸酉、東の蝦夷がことごとく朝貢してきた。蝦夷たちに坂道に馬屋を作る役をただちにあたえた。十一月にところどころの海人訕哤が命令に従わなかった。この訕哤は佐麼賣玖という。天皇は阿曇連祖大濱宿禰を派して平らげ、大濱宿禰を海人の宰相とした。俗人は佐麼阿摩とはこの所縁でいわれるのだとことわざに伝える。この年、百濟の辰斯王が立った。天皇に礼を失した。そのため紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰、を派遣して、その禮状がないことを大声で追求した。百済国は辰斯王王を殺して詫びたので紀角宿禰らは阿花を略式で王となして帰還した。(以上私意訳)

16 阿莘王 アシンワン(余蔚、392-420)、)。『三国史記』百済本紀・阿莘王紀の分注には別名の阿芳王が伝えられ、『日本書紀』では阿花王(あくえおう)とされる。紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰は蘇我氏の分家、別け族の武将である。
『日本書紀』(別伝:顕宗天皇は父王を雄略天皇に殺される実話が書かれる。つまり、阿莘王が顕宗天皇、辰斯王が雄略天皇、枕流王が安康天皇に模すと役回りがぴったりとなる。)
①応神天皇三年冬十月辛未朔癸酉、「東蝦夷悉朝貢。卽役蝦夷而作厩坂道。十一月、處々海人、訕哤之不從命。訕哤、此云佐麼賣玖。則遣阿曇連祖大濱宿禰、平其訕哤、因爲海人之宰、故俗人諺曰佐麼阿摩者、其是緑也。是歲、百濟辰斯王立之、失禮於貴國天皇。故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰、嘖讓其无禮狀。由是、百濟國殺辰斯王以謝之、紀角宿禰等、便立阿花爲王而歸。」
「東のえみしがことごとく朝貢してきた。すぐにえみしに厩(うまや)の坂道を造る労務につかせた。十一月ところどころ海賊の訕哤(せんもう)が従わなかった。訕哤は佐麼賣玖(さまめく)ともいう。天皇は阿曇連(あずみのむらじ)の祖である大濱宿禰を派遣してこの海賊訕哤を平定した。よって、大濱宿禰を海人の宰相とした。ゆえに衆人が佐麼阿摩者(さまあま)というのはそのゆかりである。応神天皇三年、この年、百濟の辰斯王が即位した。天皇にたいして礼を失していたので(天皇は)紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰を派してその礼がないことを一歩も引くことなく激しく責めたてた。そうこうしているうちに百済國は辰斯王を殺して、もって謝罪してきた。すぐに紀角宿禰らは阿花を王にすると帰国した。」

②応神天皇 八年春三月、「百濟人來朝。百濟記云「阿花王立旡禮於貴國、故奪我枕彌多禮・及峴南・支侵・谷那・東韓之地。是以、遣王子直支于天朝、以脩先王之好也。」
《百済人来朝(もうけ)り。百済記に伝える。「阿花王は(王に)立ったが貴国に礼無し、故に、我が枕彌多禮(とむたれ)、峴南(けんなむ)、支侵(ししむ),谷那(こくな)、東韓(とうかん)の地を奪はれてしまった。是を以て、王子直支を天朝に遣(まだ)して、先王の好(よしみ)を修む。」と云へり。<広開土王の襲来で領土を奪われてしまい日本に礼を失してしまった。それ故に、王子直支を人質に送り、先王からの友好を変わらず修めます。」・・・史実年は酉年(397年)のことになる。
*「支侵」;忠清南道北部、古の牙山?三国史記の「居斯勿県」とする。牙山、益山、光州あたり一帯が広開土王に蹂躙された。
*谷那の鉄山のあった場所。弾琴台土城(だんきんだいどじょう・忠清北道忠州市)
*枕彌多禮 全羅北道の南部。

③応神天皇十六年春二月、「王仁來之。則太子菟道稚郎子、師之、習諸典籍於王仁、莫不通達。所謂王仁者、是書首等之始祖也。是歲、百濟阿花王薨。天皇、召直支王謂之曰「汝返於國、以嗣位。」
[王仁来たる。太子の菟道稚郎子にもろもろの典籍(儒教六経か?)を教え習わせる師とした。王仁はなんにでも通じている達人で、いわゆる王仁者が書首たち(文学者の意か?)の始祖である。この年、百濟の阿花王が薨(こう)じた。(応神)天皇は直支王をおよびになって、「汝は国に帰り、王統を嗣(つ)ぎなさい」とおっしゃった。
*薨(こう)=亡くなった。


阿莘王の諱・諡は『三国史記』には伝わらない。第15代の枕流王の長男であり、枕流王が385年11月にその弟である辰斯王に暗殺されたと信じ、阿莘王が伯父の辰斯王を39211月に狩りに遊行したの際に謀殺し、第17代の王位についた。阿莘王が即位の直前(391年10月)に高句麗に奪われた関彌城を百済北辺海の要衝の地であるとして奪回を企てた。勇将であった真武(王妃の父?)を左将に据えて、393年8月には一万の兵を率いて高句麗の南辺を討伐しようとしたが、高句麗兵の籠城戦の前に兵站が途切れ、撤退した。翌年には好太王(広開土王)に漢山城(京畿道広州市)まで攻め入られて大敗し396年、漢江以北の領土を失う。阿莘王は高句麗への服属誓わされ、王弟や大臣が高句麗へ連行される。
 以下、梁書の年号歴を重ねると須と映は兄弟であるように書かれます。宋書の記録では、「讃死弟珍立。」といずれにもそう書かれます。上の14代から16代の王で余句の嫡男と中子が兄弟の関係ですが、晉太元と義熙中は376年ー418年、二人が王位についた期間は42年の間になりますよね。42年間、これを基準に兄弟の在位年を対比させてみます。兄弟が二代をつなぐ可能性は残されていますが、太元ー義熙の間に枕流王:辰斯王;阿莘王の三代が百濟本紀では入ってくることになります。

①晉太元中376年ー396年,王須; 倭王讃  (余須・375-384)
                             >22年間>枕流王:辰斯王:阿莘王
②義熙中405年ー418年,王餘映; 倭王珍  (余映・405-420)
宋元嘉中423年ー452年, 餘毘(架空王)
近肖古(余句・346-375 )の在位年数は30年、この間に兄弟が生まれたとします。兄は10年しか在位期間がありません。兄没後、21年後に弟が王位に就くというのが不自然です。しかし、なぜか太元元年と義熙末年の中にほぼ収まっています。余須から余映までが全部余句の子で兄弟であったとすればすっきりするのですが?


 倭王珍
17 腆支王==倭國王 珍 (諱は余(よ)映(えい) 在位四〇五年―四二七年)

*『三國史記』卷二十五 百濟本紀 第三 阿莘王 「直支 梁書名映 阿莘之元子(長子)] 
直支は王子のとき倭国に人質として送られ、17年後父阿莘王の死去にともない帰国。
梁書から引用で名は映であることを記しているが、三国史記での生まれてからの名前は不明。

『日本書紀』
①応神天皇八年春三月、百濟人來朝。百濟記云「阿花王立旡禮於貴國、故奪我枕彌多禮・及峴南・支侵・谷那・東韓之地。是以、遣王子直支于天朝、以脩先王之好也。」
②応神天皇十六年春二月、「王仁來之。則太子菟道稚郎子、師之、習諸典籍於王仁、莫不通達。所謂王仁者、是書首等之始祖也。是歲、百濟阿花王薨。天皇、召直支王謂之曰「汝返於國、以嗣位。」
③応神天皇廿五年、「百濟直支王薨、卽子久爾辛立爲王。王年幼、木滿致執國政、」
④応神天皇卅九年春二月、「百濟直支王、遣其妹新齊都媛以令仕。」


梁書 -> 卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎
45 百濟者,其先東夷有三韓國,一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓。弁韓、辰韓各十二國,馬韓有五十四國。大國萬餘家,小國數千家,總十餘萬戶,百濟即其一也。後漸彊大,兼諸小國。其國本與句驪在遼東之東,晉世句驪既略有遼東,百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣,自置百濟郡。


晉太元中376年ー396年,王須;義熙中405年ー418年,王餘映;宋元嘉424年ー452年中,王餘毘;並遣獻生口。餘毘死,立子慶。慶死,子牟都立。都死,立子牟太。

宋書 倭国伝・南史本紀文帝記・倭王武の上表書など、「讃死弟珍立」 、これを正しいとみると近仇首(貴須王 くぃすおう)の弟になります。しかし、三国史記王暦によれば、近仇首の中子は辰斯王になります。嫡男が枕流王ですから、辰斯王の弟にあたるのが枕流王となります。枕流王の嫡男が阿莘王です。

《漢代之後》
《隋唐》
《通典》[唐] 801年 杜佑著
《邊防一》
《百濟》
1 打開字典 百濟:
百濟,即後漢末夫餘王尉仇台之後,後魏時百濟王上表云:「臣與高麗先出夫餘。」初以百家濟海,因號百濟。晉時句麗既略有遼東,百濟亦據有遼西、晉平二郡。今柳城、北平之間。自晉以後,吞并諸國,據有馬韓故地。其國東西四百里,南北九百里,南接新羅,北拒高麗千餘里,西限大海,處小海之南。國西南海中有三島,出黃漆樹,似小榎樹而大。六月取汁,漆器物若黃金,其光奪目。自晉代受蕃爵,自置百濟郡。義熙中,以百濟王夫餘腆佗典反為使持節、都督百濟諸軍事。宋、齊並遣使朝貢,授官,

 百濟とは後漢末の扶余王のあとである。後魏のとき、百済王は上表して曰く、「臣(尉仇台)は高句麗の先の夫餘が出自である。はじめ百家をもって海を渡ったので百済と号する。晋の時代に高句麗は遼東を寇略したが百済はまた遼西の晉平二郡を拠有した。今の柳城と北平の間である。晋から以後、諸国を併呑し、馬韓の故地を拠有した。その国は東西四百里、南北九百里で、南に新羅と接し、北千里で高句麗を防いている。西は大海で限られ、小海の南にある。国は西南海に三島を持ち、小は黄漆の木、大は榎木があり、六月に樹液を取る。漆器は黄金のごとく、その輝きは目を奪うばかりである。晋朝の代から蕃爵を授かり、自ら百済郡(中国から見た郡に擬して)を置いた。義熙(ぎき)中(405年 - 418年)、以て百済王、夫餘・腆佗・典反を使特節・都督百済初軍事。宗朝と斉朝にわたり遣使を朝貢させ官を授かった。

*義熙(ぎき)中(405年 - 418年)の百済王は第18代・腆支王 (余映・405-420)著者は倭国王珍(梁書では餘映)に比定しています。


三八九年 『三國史記』卷二十五 百濟本紀 第三 阿莘王 「六年 夏五月王は倭国と友好を結ぶため、太子の腆支を人質となした。」「十一年 夏 大干ばつで穀物が枯れたので王は橫岳で雨乞いの祭りをおこなったところすぐに雨が降った。五月に倭国にヒスイの勾玉を求め使いを送った。」「大旱 禾苗焦枯 王親祭橫岳 乃雨 五月 遣使倭國求大珠」
十二年 春二月 「倭国の使者がやってきて、王は特別にその労をねぎらって歓迎した。「倭國使者至 王迎勞之特厚」

四〇五年 倭国の兵士に伴われて帰国した。国人(大臣)は碟礼(阿莘王の弟・ソルレ)を殺して直支を迎え入れ、即位が叶った。

四〇七年 直支王、妹の新斉都(しせつ)媛と7人の宮女を遣わす。(応神天皇39年記事)

四一三年=「安帝の義熙9年、是の歳、高句麗、倭国および西南の夷の銅頭大師、並びに方物を献ず」(倭国、東晋・安帝に貢物を献ずる)。(晋書安帝紀、太平御覧)


四一五年=「三国史記百済本記 「阿莘王6年(398年)夏5月に王は倭国と友好を結び太子直支を人質として送った。 太子直支は415年父王阿莘王が死ぬと帰国した。日本滞留期間は17年になる。」

四一六年=義熙十二年〔416〕、以二百済王余映一為二使持節都督百済諸軍事鎮東将軍百済王。(『宋書』夷番伝)

四二〇年=高祖践阼〔420〕 百済王に「鎮東大将軍」を進号した。(『宋書』夷番伝)

四二一年=讃死して弟珍立つ。使いを遣わして貢献し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、表して叙正せられんことを求む。詔して安東将軍倭国王に叙す。(『南史』宋本記 421年)

四二一年= 「高祖永初二年(421年)、倭讃萬里修貢、遠誠宜甄、可賜叙授」)(南史列伝東夷伝倭国条)。

四二一年=「永初2年2月己丑、倭国が使臣を遣わし朝貢す」(「永初二年二月己丑、倭国遣使朝貢」)(南史本紀武帝記)。

四二一年=「倭国在、高麗東南大海中、世修貢職。高祖永初二年、倭讃万里修貢、遠誠宜甄、可賜除授」(宋書列伝倭国伝)。
 珍また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に叙正せんことを求む。詔して並びに聴す。

四二八年 妹の新斉都(しせつ)媛と7人の宮女を倭国に遣わす

四三〇年=1月、宋に使いを遣わし、貢物を献ずる。(宋書文帝紀)(宋書倭国伝)

四二五年=司馬の曹達を遣わし、宋の文帝に貢物を献ずる。(宋書倭国伝)「太祖の元嘉2年、讃、又、司馬曹達を遣わし、表を奉りて方物を献ず」(「太祖元嘉二年、讃、又遣司馬曹達、奉表、献万物」)〔宋書列伝-倭国伝〕。

四二五年=「是の歳、又、倭国が使臣を遣わし、朝貢す」(「是歳、又倭国遣使朝貢」)〔南史列伝〕。)

四三〇年 「元嘉7年春正月、是の月、倭国王、使いを遣わして方物を献ず」(〔「元嘉七年、春正月、是月、倭国王遣使献万物」)〔宋書本紀-文帝記〕。

四三〇年 「是の歳、倭国・百済が使臣を遣わし、朝貢す」(「是歳、倭国・百済遣使朝貢」)〔南史本紀-文帝記〕。

四三八年=元嘉15年使特節・都督倭・百済・新羅・任那・辰韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王を上表して爵位を乞うも、安東将軍倭国王に叙爵。(『宋書』文帝紀)4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される(宋書文帝紀)。



17.腆支王(生年不詳 - 427年)は、百済の第18代の王(在位:405年 - 427年)であり、阿莘王の長男。『梁書』では余映(徐映)、『日本書紀』応神天皇8年春に王子直支、および25年に直支王(ときおう)と書かれ、『三国遺事』王暦では眞攴王と記される。諱は『三国史記』には伝わらない。
— 『三国史記』「百済本紀」辰斯王 391年
八年 夏五月丁卯朔 日有食之 秋七月 <高句麗>王<談德> 帥兵四萬 來攻北鄙 陷<石峴>等十餘城 王聞<談德>能用兵 不得出拒 <漢水>北諸部落 多沒焉 冬十月 <高句麗>攻拔<關彌城> 王田於<狗原> 經旬不返 十一月 薨於<狗原>行宮

 『三国史記』「百済本紀」辰斯王 八年、(391年)夏五月一日に日食あり。秋七月、高句麗の王、談德(タムドク・好太王)が4万を兵で北の国境を攻め、石峴城など10余りの城を落とされた。王は談德が用兵に長けてると聞き出兵を拒否、漢水の北の国邑の城が多数落とされた。冬十月、高句麗に關彌城(カンミソン)を落とされた。辰斯王が狗原に狩りに出て十日が過ぎても帰って来なかった。十一月、狗原の行宮にて死去した。
辰斯王が狩に出たきり返ってこなかった。殺したのは阿莘王(アシンおう、父の仇として復讐を企んでた。
「阿莘王は高句麗に奪われた関彌城を百済北辺海の要衝の地であるとして奪回を企てた。勇将であった真武(王妃の父・真氏は百濟八大姓の一つ)を左将に据えて、393年8月には一万の兵を率いて高句麗の南辺を討伐しようとしたが、高句麗兵の籠城戦の前に兵站が途切れ、撤退した。翌年には好太王(広開土王)に漢山城(京畿道広州市)まで攻め入られて大敗し396年漢江以北の領土を失う。阿莘王は高句麗への服属誓わされ、王弟や大臣が高句麗へ連行されることなった。阿莘王は奴客(ノゲク)になることを誓わされる。しかし広開土王が百濟を全滅することを思いとどまり撤収すると、再び倭国の援軍を待って高句麗に対抗しようと、倭国にわびて太子の余映を(後の腆支王)を倭国へ人質として送った。」
応神8年に百済記の引用では、阿莘王の王子として直支王が現れる。以下原文:
八年春三月、百濟人來朝。百濟記云「阿花王立旡禮於貴國、故奪我枕彌多禮・及峴南・支侵・谷那・東韓之地。是以、遣王子直支于天朝、以脩先王之好也。」
枕彌多禮・及峴南・支侵・谷那・東韓之地を広開土王に寇略された。もともと倭国から割譲された地なので、礼を欠いたということだろうか。そのため王子直支を日本に人質に送り、先王以来の修好を保ちたいと奏上したということだろう。

*『三国史記百済本記』 「阿莘王6年(397年)夏5月に王は倭国と友好を結び太子直支を人質として送った。 三国史記にも人質として送ったということが書かれている。太子直支は日本滞留8年目の405年父王阿莘王が死ぬと帰国した。」

*『三國史記』卷二十五 百濟本紀 第三 辰斯王
六年 夏五月 王與倭國結好 以太子腆支爲質 秋七月 大閱於漢水之南
{王は倭国と友好を結ぶため、太子の腆支を人質となした。秋7月には漢江の南で軍を閲兵した。」
*〔周礼、夏官、大司馬〕「大閱」の〔注〕に「軍實を𥳑(かぞ)ふるなり」とあるのと、同じ意である。(字通)

なぜか日本に人質として来た王には名前が不明となる例が多い。
倭国へ人質として送られていた直支は、倭国で阿莘王の死を聞き、哭泣するとともに帰国することを請願し、倭国の兵士に伴われて帰国した。国人(大臣)は碟礼(阿莘王の弟・ソルレ)を殺して直支を迎え入れ、即位が叶った。417年7月には東北辺で沙口城を築くなどして、再び高句麗への侵攻の態勢を整えていった。
428年、百済直支王、妹の新斉都(しせつ)媛と7人の宮女を遣わす。(応神天皇39年記事)


 河内(丹比郡)の式内社/大津神社由緒略記によれば、
※由緒「応神天皇の頃(4末~5世紀初か)、この地方には、百済貴須王(近仇首王)の子孫といわれる“葛井氏・船氏・津氏”の3氏が勢力を張っていた。この3氏のうち津氏一族がこの地を卜して“大宮山”と称し、自分たちの守護神を奉斎したことが大津神社の発祥だろうというのが古来からの定説である」
葛井・船・津氏とは、応神朝に来朝したと伝えられる百済辰孫王の後裔氏族で、続日本紀・桓武天皇延歴9年(790)7月17日条に記す、津連真道らの上表文に
 「真道らの本来の系統は百済王・貴須王(キス・近仇首王ともいう)より出ている。・・・・応神天皇のとき、貴須王が天皇からの有識者招聘をうけて、孫の辰孫王(シンソン)を入朝させた。天皇はこれを喜び、皇太子の師とされた。仁徳天皇は長男・太阿郎王(タアラ)を近侍とされた。・・・その孫・午定君の3人の子・味沙・辰爾・麻呂のとき別れて3姓となり、各々その所職に因りて氏をなした。葛井・船・津等即ち是なり。・・・」(大意)

始祖・都慕王(ツモ)・・・貴須王-辰孫王(知宗王)-太阿郎王-玄陽君-|-塩君(午定君)
|-味散(味沙君)-膽津(白猪史)→葛井氏
|-王辰爾(智仁君)→船史→船氏
|-麻呂(牛)→津史→津氏→菅野氏
となるが、3姓に別れたのは6世紀後半とされ、その後、それぞれが史部(フヒトベ-書記官)として朝廷に仕えたという。

河内(丹比郡)の式内社/大津神社 (大阪府羽曳野市高鷲8丁目)
大津神社由緒略記によれば、
 「応神天皇の頃(4末~5世紀初か)、この地方には、百済貴須王(近仇首王)の子孫といわれる“葛井氏・船氏・津氏”の3氏が勢力を張っていた。この3氏のうち津氏一族がこの地を「卜」して“大宮山”と称し、自分たちの守護神を奉斎したことが大津神社の発祥だろうというのが古来からの定説である」

貴須王は近九首王で14代、辰孫王はその後になります。

*始祖・都慕王(ツモ)とは高句麗開祖の高朱蒙
*河内(丹比郡)の式内社/大津神社 (大阪府羽曳野市高鷲8丁目)
*右、古爾王から契王まで5代が、左、肖古王から近肖古王までの5代と並立しているのだが、王系を一系にする造作がなされている。近肖古王(346-375)から以後は代数を5代差し引くと実態にちかくなる。


18.久尓王(非実在王・梁書にあるも朝貢記録なし))
応神天皇廿五年、「百濟直支王薨、卽子久爾辛立爲王。王年幼、木滿致執國政、」


応神天皇二十五年、百済の直支王が薨(こう)じる。すぐ子の久爾辛が立太子し王になった。王は年が幼く、木滿致が国政を摂った。

久爾辛の在位は(420-427年)、蘇我満智全盛のころだ。『古語拾遺』によれば、雄略天皇代、増大する諸国からの貢物に対応すべく、新たに大蔵が興され、麻智が三蔵(斎蔵・内蔵・大蔵)を管理したという(三蔵検校)
天皇号による紀年があやしい?


19. 毗有王 (諱は余毗 在位四二七年―四五五年)(非実在王・梁書にあるも朝貢記録なし)

蓋鹵王の御代を割って追号された架空王と思われる。第19代と第20代は実際に即位していたかどうか不明な点が多い。実在したとしても追号王と考えられる。追号王とは死後に王として復権ないし、王の称号を追記すること。


毗有王(ピユワン、生年不詳 - 455年)は百済の第20代の王(在位:427年 - 455年)であり、先代王の長男、または『三国史記』百済本紀・毗有王紀の分注では第18代の腆支王の庶子とされる。『三国史記』には諱・諡は伝わらず、『宋書』には百済王余毗として現れる。諱・諡が伝わらないのは日本で人質として育ったせいだろうか。若くして王になった。『宋書』には百済王余毗(徐毗)(余・徐)が百済王の姓)として現れる。427年12月に先王の死去により王位についた。王位に就くと、433年新羅の訥衹王と同盟を結ぶ。

百済の直支王(余映・腆支王405-470)罷りぬ。即ち子久(く)爾(に)辛(しん)、王となる、年若し。木満致(木刕満致=蘇我満智)国(百済)の政(まつりごと)を執る。王の母(いろは)と相淫(あいたわけ)けて、多(さは)に無礼(ゐやなきわざ)す。天皇、聞しめして召す。(応神天皇25年)
毗有王の前王、久爾辛という名の王は百済の王統譜に19代王久尓王と記録される。久爾辛・・・とは、三国史記には諱・諡とも伝わらない。また、治績記事は残っていないことから、久尓王は余毗の母ではないかとの説もあるぐらいよく分からない王である。毗有王は腆支王の庶子であるとの注と腆支王(直支王)が倭国に人質として来ていることから、日本で生まれた庶子なのだろう。在位年数で7年間、王位が空白だったのが真相ではないかと思う。なにやら不明なことが多い。空白期間に、久爾辛を満智が日本から連れてきたこと以外は何ら素性が分からない。いずれにしても毗有王は蘇我満智の傀儡だっただろう。満智は百済と大和を往復して権勢を振るっていた。百済には意のままになる王を、日本では大伽耶の顔を立てて王にしていた可能性がある。
元嘉15年は438年で、この年使特節・都督倭・百済・新羅・任那・辰韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭国王を上表して、安東将軍倭国王に叙爵。(『宋書』文帝紀)4月、宋文帝、珍を安東将軍倭国王とする。珍はまた、倭隋ら13人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍にされんことを求め、許される(宋書文帝紀)。では、元嘉15年438年4月に珍こと腆支王が朝見していることからすると、毗有王の在位年には実体がない。19代と20代は朝鮮史に追号で挿入された架空王のようです。即位が247年が中国史から照らすとありえず、11年もずれている。朝鮮正史もいろいろと細工されていることは確かだ。21代蓋鹵王の在位期間が毗有王の在位期間を埋めるとちょうど合うことになるだろう。
*元嘉(げんか)は、南北朝時代、宋の文帝劉義隆の治世に行われた年号。424年 - 453年。18.久爾辛19.毗有王は架空王とみなすことが可能です。


 倭王済
21. 蓋鹵王==倭国王済 (諱は余慶 正史による*在位四五五年―四七五年)
  『三国史記』によれば諱は慶司。また、近蓋婁(きんかいる)王とも記され、『日本書紀』には加須利君(かすりのきこし)(雄略五年に記事)、『宋書』には余慶(徐慶)の名で現れる。455年9月に先王の死去に伴い、王位についたという。蓋鹵王の読みは、「かいる」か、「げる」であろう。

『日本書紀』
雄略天皇夏四月、百濟加須利君蓋鹵王也、飛聞池津媛之所燔殺適稽女郎也而籌議曰「昔貢女人爲采女而既無禮、失我國名。自今以後、不合貢女。」乃告其弟軍君崑支君也曰「汝宜往日本、以事天皇。」軍君對曰「上君之命、不可奉違。願賜君婦而後奉遺。」加須利君、則以孕婦嫁與軍君曰「我之孕婦、既當産月。若於路産、冀載一船、隨至何處、速令送國。」遂與辭訣、奉遣於朝。六月丙戌朔、孕婦果如加須利君言、於筑紫各羅嶋産兒、仍名此兒曰嶋君。於是軍君、卽以一船送嶋君於國、是爲武寧王。百濟人、呼此嶋曰主嶋也。秋七月、軍君入京、既而有五子。百濟新撰云「辛丑年、蓋鹵王、遣弟昆支君向大倭侍天王、以脩兄王之好也。」
「百濟の加須利君が蓋鹵王である。蓋鹵王は池津姫が火あぶりの刑で焼き殺されたが、適稽女郎だったことを聞いて飛び上がらんばかりに驚いた。しかして、籌議(ちゅうぎ)で「むかし采女(うぬめ)をもって女人を貢ぎ物としていたが、すでにわが国の禮がなく、国の名誉を失った。今から以後、貢女(こんにょ)はやめようと思う。こうして、軍君崑支君に言った。「汝はよろしく日本に行って、天皇に仕えよ。・・・」
*適稽女郎(ちゃくけいえはしと)とは蓋鹵王の慕尼夫人(后)の女(むすめ)であった。蓋鹵王が即位したとき、倭の使者が奉賀にきたので、返礼に夫人の采女を倭に貢進した。池津姫のことである。采女とは一般に後宮の女官のこと。


百濟加須利君蓋鹵王也では、王ではなく君である。この王が廃位されたわけではないが、高句麗に襲撃され殺害されたからだろうか?
しかし、443年には余慶として貢献しているので、前の2代は架空王となろうか。
この王の初出の中国朝貢は443年=「元嘉20年、倭国王済が宋に遣使して奉献す。宋・文帝に朝献して、安東将軍倭国王とされる。復(また)以て、安東将軍・倭国王と為す」(「元嘉二十年、倭国王済遣使奉献。復以為安東将軍倭国王」(宋書列伝倭国条、宋書倭国伝)です。443年には王位についていたのです。また、475年9月高句麗・長寿王襲来で蓋鹵王は処刑されたため、蓋鹵王の在位期間は433-475年になるわけです。20代毗有王の在位:(427年 - 455年)は消滅し、20代毗有王が追号された架空王であることがあきらかになりました。三国史記もしょせん王の意向で変えられる王統紀なのですね。朝鮮正史ってこんなもんです。ばれてますよ。ただ、中国正史も「宋元嘉中,王餘毘;並遣獻生口。餘毘死」と書いているので、中国も騙されていたんです。倭国王の称号だって上奏してきたから、帝が認めたにすぎないのでしょう。百済王は一体何をたくらんでいたのでしょう?


四四三年=「元嘉20年、倭国王済が宋に遣使して奉献す。宋・文帝に朝献して、安東将軍倭国王とされる。復(また)以て、安東将軍・倭国王と為す」(「元嘉二十年、倭国王済遣使奉献。復以為安東将軍倭国王」(宋書列伝倭国条、宋書倭国伝)
遣使が奉じて貢献、再び安東将軍倭国王とする。(『宋書』夷番伝)
 「二十年、倭國王濟、遣使奉獻、復以爲安東將軍・倭國王」(宋書倭国伝)

四五一年=宋朝・文帝から「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」を加号される。「二十八年、加使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六國諸軍事、安東將軍如故、并除所上二十三人軍郡。(『宋書』倭国伝)
「七月、元嘉28年、倭国王「済」を、使持節、都督、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加えた。安東将軍は前のままとする。並びに二三人を軍・郡(将軍号・郡太守号)に授爵した」((『宋書』文帝紀)

四五七年=大明元年春正月 甲辰,以百濟(・・)王(・)余慶為鎮東大將軍(宋書本紀 孝武帝記)

四六〇年=大明四年春辛巳、倭國遣使獻方物(宋書本紀 孝武帝記)
四六〇年=12月、孝武帝へ遣使して貢物を献ずる。(『宋書』孝武帝紀)「大明4年12月丁未、倭国が使臣を遣わし、使いを遣わして方物を献ず」(「大明四年十二月丁未、倭国遣使献万物」)〔宋書本紀 孝武帝記〕。「大明四年12月丁未、倭国遣使朝貢」(南史本紀文帝記)。)
*孝武帝(こうぶてい)は、南朝宋の第4代皇帝。姓は劉、名は駿。字は休龍、小字は道民。(在位:453年 - 464年)

四六二年 大明六年三月壬寅、以倭国王世子為安東将軍」(宋書本紀 孝武帝記)=(大明六年)宋・孝武帝が、済の世子の興を安東将軍倭国王とする。
     「大明六年、詔曰、倭王世子興、奕嗣辺業。宜授爵号、可安東将軍倭国王」〔宋書列伝 倭国条〕=大明6年、詔を発して、倭王の世子興が忠義を大きく(奕)新たに辺境の地の業を継ぎ、よく治めたので、安東将軍倭国王を授爵した」。「大明6年3月壬寅、倭国王の太子「興」を安東将軍と倭国王に授爵した」(「大明六年三月壬寅、以倭国王世子為安東将軍倭国王」)(南史列伝倭国条)。
     
世祖の大明六年、詔して曰く、「倭王世子興、奕世戴ち忠、蕃を外海に作し、化を稟けを寧んじ、恭しく貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく、安東将軍倭国王とすべし」『宋書倭国伝』

四七一年 世子興は稲荷山の鉄剣と、江田船山の鉄刀、倭王・旨に贈る。

四七二年(蓋鹵王十八年))三国史記によれば、使者を遣わして北魏に上表し、高句麗征伐のため援軍の派兵を願い出たが、孝武帝の返答は出兵拒否で、芳しいものではなかった。
 (これが高句麗僧・道林に欺かれ、高句麗の襲来を招いた。この時、文周は蓋鹵王の子で王子だった書く。)
*武帝(ぶてい)は、南朝斉(南斉)の第2代皇帝。姓は蕭、諱は賾(さく)。在位(482年- 493年)
四七五年九月、蓋鹵王、高句麗長寿王の派兵に屈し漢山を襲撃され、処刑され没す。(三国史記の年紀)=済死す。

日本書紀では雄略5年夏「百済の加須利君(かすりのきし)、蓋鹵王(かふろわう)なり。」と明記しています。また、稲荷山の鉄剣の銘文にある、「獲加多支鹵大王」(わかたきろだいおう)の名が蓋鹵王の諱(いみな)の百濟における文字です。わかたきろと発音するのは日本語流です。後節、「稲荷山古墳から出土した鉄の剣は百濟製」に詳細。雄略元年は458年とされます。雄略5年夏とは463年にあたりますね。いずれも蓋鹵王の在位年数に合っています。以下、小著「卑彌呼Xファイル」より改訂のうえ抜粋。

維基 -> 宋書 -> 卷九十七列傳第五十七 夷蠻
《卷九十七列傳第五十七 夷蠻》
《百済伝》
50 百濟所治,謂之晉平郡晉平縣。義熙十二年,以百濟王餘映(珍)為使持節、都督百濟諸軍事、鎮東將軍、百濟王。高祖踐阼,進號鎮東大將軍。少帝景平二年,映遣長史張威詣闕貢獻。元嘉二年,太祖詔之曰:「皇帝問使持節、都督百濟諸軍事、鎮東大將軍、百濟王。累葉忠順,越海效誠,遠王纂戎,聿修先業,慕義既彰,厥懷赤款,浮桴驪水,獻騕執贄,故嗣位方任,以籓東服,勉勖所蒞,無墜前蹤。今遣兼謁者閭丘恩子、兼副謁者丁敬子等宣旨慰勞稱朕意。」其後,每歲遣使奉表,獻方物。七年,百濟王餘毗復修貢職,以映爵號授之。二十七年,毗上書獻方物,私假臺使馮野夫西河太守,表求《易林》、《式占》、腰弩,太祖並與之。
51 毗死,子慶(済)代立。世祖大明元年,遣使求除授,詔許。二年,慶遣使上表曰:「臣國累葉,偏受殊恩,文武良輔,世蒙朝爵。行冠軍將軍右賢王餘紀等十一人,忠勤宜在顯進,伏願垂愍,並聽賜除。」仍以行冠軍將軍右賢王餘紀為冠軍將軍。
52 以行征虜將軍左賢王餘昆行征虜將軍餘暈並為征虜將軍。以行輔國將軍餘都(興)、餘乂並為輔國將軍。以行龍驤將軍沐衿餘爵並為龍驤將軍。以行寧朔將軍餘流麋貴並為寧朔將軍。以行建武將軍于西餘婁並為建武將軍。太宗泰始七年,又遣使貢獻

晉平郡晉平縣の位置夫餘・貊の移動、北夫餘ー東沃沮ー公孫氏により高句麗の属国から離脱)ー(尉仇台さらに遼東に属す、ここより二国時代へ)沃沮+遼東小水貊→遼西晋平郡→鮮卑に壊滅されて→再び沃沮の故地に戻る。韓国の慰礼城(漢江)に南下漢城百濟を建国、近仇首王のころ帯方の南部、馬韓の中南部まで領土を拡張する。卑彌呼の宗族王統は一貫して反高句麗の立場は変わらなかった。

世祖大明2年(458年),慶遣使上表曰:「(略)行冠軍將軍右賢王餘紀等十一人,忠勤宜在顯進,伏願垂愍,並聽賜除。」
458年、百済王餘慶が上表して曰く、「行冠軍將軍右賢王餘紀等十一人を昇進させて下さい」
【ここに下の11名を昇進させた=進号といいます。】
(1)餘紀=冠軍將軍右賢王→冠軍將軍。
(2)餘昆=征虜將軍左賢王→征虜將軍。
(3)餘暈=征虜將軍左賢王→征虜將軍。
(4)餘都=輔國將軍
(5)餘乂=輔國將軍。
(6)沐衿=龍驤將軍→龍驤將軍。
(7)餘爵=龍驤將軍。
(8)餘流、寧朔將軍
(9)麋貴=寧朔將軍→寧朔將軍。
(10)于西=建武將軍。
(11)餘婁=建武將軍。
蓋鹵王は即位後早い時期に宋に遣いを送り、自身の身内や高官十一人への爵号授与を願い出ました。十一人の内訳は余紀、余昆(昆支)、余暈、余都、余乂、沐衿、余爵、余流、麋貴、于西、余婁。475年9月、高句麗・長寿王襲来し、漢山城は落城、蓋鹵王、王子ほか王族が処刑されてしまいます。このうち生き残ったのは余都、余昆(昆支)のみで、ほかは殺されたか、生死不明です。蓋鹵王は籠城して固守し、文周に新羅の救援を求めさせました。文周は一万の兵を率いて戻りましたが高句麗軍は引き上げていて間に合いませんでした。余昆(昆支)は日本に逃れて461年、 河内で倭の援軍を得て、南漢城に自ら進軍しましたが、すでに高句麗に攻略された後でした。余昆(昆支)は蓋鹵王の弟の軍君崑攴君の子供とされています。が、わたしは蓋鹵王の皇后の弟であると思います。余都は崑支を弟とし、東城王は崑支の子になります。餘都を梁書などは牟都と記します。餘という文字を牟と略字にしたのでしょう。
武烈天皇四年夏四月の百濟新撰の引用記事
百濟新撰云 「末多王無道、暴虐百姓、國人共除。武寧王立、諱斯麻王、是琨支王子之子、則末多王異母兄也。琨支向倭時至筑紫嶋、生斯麻王。自嶋還送、不至於京、産於嶋、故因名焉。今各羅海中有主嶋、王所産嶋、故百濟人號爲主嶋。」今案、嶋王是蓋鹵王之子也、末多王是琨支王之子也。此曰異母兄、未詳也。」
琨支は倭に向かい筑紫嶋に至るとき、斯麻王が生まれた。百濟新撰では、はっきりと琨支が日本に入国したこと、その第ニ子の末多王(東城王)が斯麻王(武寧王)の異母兄であると書いています。かつ、斯麻王は蓋鹵王の子であり、琨支は養父となります。琨支は百済の王族であり、日本に来たという事実が重要です。

軍君崑攴は日本書紀の雄略5年に書かれています。
その物語とは。「蓋鹵王は 嘆いてこう言った。「娘(池津姫)を倭(やまとの)王(こしき)に嫁がせたが、しかし無礼にも我が国の名を失えり。倭王は百済のことをすっかり忘れてしまった。もう女を倭王に貢(たてまつ)るのはこりごりだ。(この娘は日本書紀で焼き殺された池津姫のこと)いま、軍君よ、日本に行って天皇(すめらみこと)に仕えまつれ、わが孕める婦(側室)で妊娠している女を琨支よ、お前にに嫁せるから、その女と一緒に日本に行ってくれ」、これは倭王との政略結婚が効を失っているので、しっかり百済を支えるようにとの密命をあたえたのだろう。妊娠している婦の名前は分からないが、産み月に当たっていたので、もし子供が産まれたら、その子を「速やかに国に送らしめよ」と命じた。筑紫の 各羅嶋(かからのしま)で子供が産まれたので「嶋君」と云う。いよいよ、王族を送りこむことにしたのだが、その時、妊娠している妃の一人を妻として嫁がせたうえで同行させてきたのだ。軍君は王の前で名誉を賜ったとして涙を流して忠誠をつくすことを誓ったという。
嶋君(軍君の子とされるのだが、実は蓋鹵王の子だということが分かりますよね。軍君崑攴は百済に戻って数年後に百濟本紀では死んだとされていますが、それは建前で、日本に戻って王になったと考えられます。継体天皇の即位のなりゆきなど実在性が裏付けられます。各羅嶋で生まれてから25年後、嶋君は船に乗せて本国に送り返えされます。なんと武寧王に即位します。武寧王は故に 書記では「斯麻王」と書かかれます。嶋君は実に40歳まで日本で暮らしていたのちに、即位し武寧王となったのです。」
武寧王の即位は501年です。各羅嶋(かからのしま)で誕生したのが460年~461年頃ですから、およそ40年間は日本暮らしをしていたというわけです。武寧王陵は王妃と一緒に葬られているという異例の王墓ですが、王妃が日本で結婚した女性であることは確かなことでしょう。
*各羅嶋(かからのしま) 現在の東松浦半島の沖合にある加唐島とされています。
* 江田船山古墳出土大刀の銀象嵌銘の主体者は百済の蓋鹵王と解釈し、九州が百濟の領土であったと主張している。ところが古来一般的には大刀銘の主体者は獲加多支鹵大王は雄略天皇とする説が主流となっていますが、中国・朝鮮史がすっぽぬけています。おかしいですね。

三国史記 百濟本紀では漢城が高句麗に攻め込まれ、渦中に分周(王)と木劦滿致、祖彌桀取の三人を城外に出し、南に落ち延びた経緯が書かれています。この二人の逃亡先は日本です。
【昆支王】と羽曳野市。⇒日本史では蘇我氏?
 7世紀後半まで朝鮮半島にあった百済の第21代国王・蓋鹵(がいろ)王の弟で、第24代国王・東城王と第25代国王・武寧王の父と考えられる人物。西暦461年ごろ、人質として当時の日本に送られた。羽曳野市飛鳥には、昆支王を祭神とする飛鳥戸(あすか(べ)神社がある。柏原市高井田の高井田山古墳は、百済の影響を強く受けており、昆支王の墓の可能性が示唆されている。羽曳野市の飛鳥戸神社。書紀の雄略紀に載ってる百済から渡来した昆支王を祀ってある神社で、昆支王の子供は、百済の東城王、武寧王となり、子孫はその地を守ってきて、飛鳥千塚古墳群だったそうです。鉢伏山西峰古墳(はちぶせやまにしみねこふん)所在地 大阪府羽曳野市駒ヶ谷917参考: 『新撰姓氏録』巻二四右京諸蕃、『新撰姓氏録』巻二八河内国諸藩にその名がみえる「飛鳥戸造。百済の国主、比有王の男、昆伎王自り出づ」

大阪府羽曳野市、鉢伏山から西に派生する大阪平野を見渡す尾根上、標高135mに築かれた古墳が、鉢伏山西峰古墳。一辺12mの方墳で、7世紀中葉に築かれた終末期古墳。西方向に開口する見事な横口式石槨(よこぐちしきせっかく)を備えています。石英安山岩の岩盤をくり抜いて築いた石槨部(棺が安置する埋葬施設)は、長さ2.7m、幅0.8m、高さ0.7m。「
天井部分は別の石材で、接合部に漆喰(しっくい)が用いられています。

石槨部の前方に前室を設け(前室部は露出)、さらに石組の通路である羨道(せんどう)を備え、前室の床には凝灰岩の切石が敷かれていました。
羽曳野市には終末期古墳が数多くありますが、鉢伏山西峰古墳は、整備され見学することが可能。
周辺にはオーコ8号墳、観音塚古墳など8基の横口式石槨を有した古墳が築かれています(築造年代では観音塚古墳→オーコ8号墳→鉢伏山西峰古墳の順)。

古墳に近い『延喜式神名帳』記載の古社・飛鳥戸神社(あすかべじんじゃ)は、もともと百済王族・昆支王(こんきおう)を祀った神社で(江戸時代に神仏習合の牛頭天王が祭神に)、一帯にはその子孫である飛鳥戸造(あすかべのみやつこ)が居住していました。
難波と飛鳥の京(みやこ)を結んだ本最古の官道・竹内街道沿いに位置することからも、この地に眠る被葬者が当時の権力者と密接な関係にある人物だと推測できるのです。

7世紀になっても新たな墳墓の造営が許された集団が、この地を拠点としていたことがわかる、貴重な遺構にもなっています。
三國史記 卷第二十五 百済本紀第三  蓋鹵王 二十一年条

二十一年(475年) 秋九月 麗王巨璉 帥兵三萬 來圍王都漢城 王閉城門 不能出戰 麗人分兵爲四道夾攻・・・ 又乘風縱火 焚燒城門 人心危懼 或有欲出降者王窘不知所圖 領數十騎 出門西走 麗人追而害之 先是 高句麗長壽王 陰謀百濟 求可以間諜於彼者 時 浮屠道琳應募曰 愚僧旣不能知道思有以報國恩 願大王不以臣不肖 指使之 期不辱命 王悅 密使譎百濟 於是道琳佯逃罪 奔入百濟 時 百濟王近蓋婁 好博弈道琳詣王門 告曰 臣少而學碁 頗入妙 願有聞於左右 王召入對碁 果國手也 遂尊之爲上客 甚親昵之 恨相見之晩 道琳一日侍坐 從容曰 臣異國人也 上不我疎外 恩私甚渥 而惟一技之是效 未嘗有分毫之益 今願獻一言 不知上意如何耳 王曰 第言之 若有利於國 此所望於師也 道琳曰 大王之國 四方皆山丘河海 是天設之險 非人爲之形也 是以四鄰之國 莫敢有覦心 但願奉事之不暇 則王當以崇高之勢 富有之業 竦人之視聽而城郭不葺 宮室不修  先王之骸骨 權攢於露地 百姓之屋廬 屢壞於河流 臣竊爲大王不取也 王曰 諾 吾將爲之 於是 盡發國人 烝土築城卽於其內作宮樓閣臺榭 無不壯麗 又取大石於郁里河 作槨以葬父骨 緣河樹堰 自蛇城之東 至崇山之北 是以倉庾虛竭 人民窮困邦之陧杌 甚於累卵 於是 道琳逃還以告之 長壽王喜 將伐之 乃授兵於帥臣 近蓋婁聞之 謂子文周曰 予愚而不明 信用姦人之言 以至於此民殘而兵弱 雖有危事 誰肯爲我力戰 ・・・・吾當死於社稷 汝在此俱死 無益也 盍避難以續國系焉 文周乃與木劦滿致·祖彌桀取 木劦·祖彌皆複姓隋書以木劦爲二姓 未知孰是 南行焉 至是高句麗對盧齊于·再曾桀婁·古尒萬年再曾·古尒皆複姓等帥兵 來攻北城 七日而拔之 移攻南城 城中危恐王出逃 麗將桀婁等見王 下馬拜已 向王面三唾之 乃數其罪 縛送於阿且城下戕之 桀婁·萬年本國人也 獲罪逃竄高句麗。

二十一年九月、高句麗の王巨璉(きょれん)は師兵三万人を率いて王都・漢城を包囲した。王は城門を閉じ、城外に出て戦うことができなかった。高句麗は兵を四道に分けて、四つの街道を通って城を挟み撃ちにした。また、風に乗じて火を放ち、城門を焼いたので、場内の人たちはあやぶみ懼れ、あるものは城をでて投降しようとした。王は追いつめられてどうしてよいかわからず、ついに数十騎を率いて城門をでて西方に逃走した。高句麗軍が追撃して逃走を妨害した。
 これより先、高句麗の長寿王は密かに百済を滅ぼそうと謀り、かの地に間諜に入り込む者を求めた。この時、浮屠(ふと・僧侶)道琳が応募して言った。「愚僧はもはや道をきわめることはできませんが、國恩には報いたいと思っています。どうか、大王が臣を不肖な者とせず、指して使ってくだされば必ず王命を辱めることはないでしょう。」王は悦んで、ひそかに百済に密使をおくりあざむかせた。道琳は罪をかぶって百濟に逃れてきたと偽って百済に逃げ込んだ。このとき、百済王の近蓋鹵王は博弈(ばくえき)を好んでいた。道琳は王門に詣でて、「臣は幼少より囲碁を学んでとても妙技をえました。どうか王の側近の方に申し上げてください。」と告げた。王は彼を宮中に召し入れて、碁の相手をさせたが、言うとおりに名人であった。ついに王は彼を尊んで上客と為し、たいへん昵懇になり互いに会うことが遅かったことを恨むほどであった。道琳がある日、王に侍っていたときに、ゆったりとして「臣は異国人です。それであるのに、王はわたしを疎外せず、私をはなはだ手厚くもてなしてくださったことをありがたく思っております。そしてこれは一芸に秀でているためですが、いまだ少しも利益になることをしていません。いま一言申し上げたいと思いますが王のお気持ちがどのようであるかわかりません。」と言った。王は、順序良く話しなさい。もし國に利益があるならば、これは師の望むところでしょう。」と言った。
道琳は、「大王の國は四方がすべて山や丘、河や海に囲まれており、これこそ天が作った要害の地で、人の作った形ではありません。これこそが四隣の国々があえて伺い見ようとしないところです。ひたすら王に仕えることを願い、他のことを考える暇(いとま)もありません。王はまさに崇高の勢いと、富貴の業をもっているのに、人の耳目を恐れて、城郭は造らず、宮殿は修理せず、先王の骸骨(むくろ)は露地に仮埋葬したままです。百姓の屋根もしばしば河に流され壊されています。このようなことは大王がとるべきではないと密かに考えています。」王はそれを聞いて、承知した。私はそれをやろうと思う。」と言った。
そこで、國人(部長)をすべて動員して、土を盛り上げ、城を築いて、その中に、宮殿、楼閣、高殿などを作ったが、いずれも壮大で華麗でないものはなかった。また、大石を郁里河(漢江)から取り、それで郭をつくって父王の遺骨を葬った。また、河にそって樹堤を築いたがそれは蛇城の東から崇山の北まで及んだ。その結果、米の倉庫はすっかり空になり、人民は窮乏して国家の危急は累卵(るいらん)よりはなはだしかった。ここで道琳は高句麗に逃げ帰って報告した。高句麗の長寿王は悦んでいよいよ百濟を討伐しようとし、軍を将軍たちに委ねた。近蓋鹵王が高句麗の出兵を聞いて、子の分周に、「予は愚かで人を見る目がなく、姦人の言葉を信用して、このような状態になった。今となっては民は傷つき、軍は弱体で、危機になっても誰がすすんで私のために戦ってくれるだろう。吾は社稷(しゃしょく)のために死ぬのは当然だが、汝がここに在りて倶(とも)に死ぬのは無益である。難を避けて国系を継いでほしい。そこで文周王は木劦滿致(もくらまち)・祖彌桀取(そみけっしゅ)等と供に南に行った。高句麗の對盧(てろ)の齊于(さいう)・再曾桀婁(さいそうけつる)・古尒萬年(こにまんねん)等の師兵は北城を七日間で抜き、南城に攻撃を移した。城中は畏れ脅えて王は城を捨てて逃げ出したが、高句麗の将軍・桀婁(けつる)等が王を見つけ馬から下り、王を拝して王の顔に唾を三度吐きかけ、王の罪を数え上げ、阿且城下(アチャソン)に縛って送り、そこで殺害した。

*社稷(しゃしょく):宗廟のこと。(建国時に創建された開祖の祭壇で、宗主がのちのち代表して祭る。)
*阿且山城(アチャサンソン):ソウル特別市 広津区 広壮洞:百済・蓋鹵王は、高句麗・長壽王が送った大軍によって陥落した後ここで弑逆され、また高句麗・温達将軍は590年、新羅軍と戦う中戦死した所として歴史的な意義が大きいとされています。現在は自然公園として造成されている観光名所です。
*蓋鹵王というおくり名は文字をみると不吉です。ウクライナ戦争でのニュースでは「ロシアの戦車を鹵獲(ろかく)する」という単語が散見されました。蓋は「ふた」のことですが、蓋をされれば出ることができくなります。そういう意味で、この王のおくり名には、やはりその死にざまが投射されていると思われます。

阿且山城(アチャサンソン) - - ソウル、跡地。
詳細は「稲荷山の鉄剣銘文・江田船山古墳出土の鉄刀」を参照
 ここで、注意しなければならない。この462年の詔書は、倭王興(分周)はまだ王に即位する前の叙勲です。

*蓋鹵王は百済王余慶と書かれ、その世子=太子・興は牟都です。はやくから、牟都が政治を佐治していたことが判明します。日本流に言えば摂政であったのです。世子(せじゃ)とは王の宣言した正式の継承者のことです。日本流に云うと立太子した王子。世継となります。

*興=牟都が王に即位するのは四七五年九月以後のことなので、一三年前(大明六年)に中国・孝武帝が興を安東将軍倭国王にしていたこととなり、興の王の即位年より遡及しています。斉が百濟王・鎮東大將軍に叙され、そして、太子のまま世子・興が安東将軍倭国王になっていたことになります。一国としては、王と世子が重複して叙綬を受けていたのです。太子なのに倭国王とされていた事実を日本書紀からはどうやって説明できますか?

*宋書倭国伝では、「濟死、世子興遣使貢獻。世祖(孝武帝)大明六年(四六二年)、詔曰、倭王世子興、奕世載忠、作蕃外海、禀化寧境、恭修貢職、新嗣邊業、宜授爵號、可安東將軍・倭國王。」(宋書倭国伝)=「濟死、世子興遣使貢獻」、中国史ではこの年は大明六年(462年)です。三国史記は、蓋鹵王の死去を475年とします。

 倭王興
22. 文周王==倭国王興 (諱は牟都 在位四七五年―四七七年)
  日本書紀では文洲王。三国遺事王歴では文明王。
『日本書紀』
雄略天皇』廿一年春三月、「天皇、聞百濟爲高麗所破、以久麻那利賜汶洲王、救興其國。」
応神天皇廿三年夏四月、「百濟文斤王、薨。天王、以昆支王五子中第二末多王」

四六二年 大明六年三月壬寅、以倭国王世子為安東将軍」(宋書本紀 孝武帝記)=(大明六年)宋・孝武帝が、済の世子の興を安東将軍倭国王とする。
宋書 《卷六本紀第六 孝武帝》
37 五月庚辰,・・・中略・・・壬寅,以倭國王世子興為安東將軍。乙巳,改豫州南梁郡為淮南郡,舊淮南郡并宣城。丁未,輔國將軍、征虜長。・・・壬寅の年は462年にあたります。(西暦年を60で割って42が余る年が壬寅の年となります。)
 
「大明六年、詔曰、倭王世子興、奕嗣辺業。宜授爵号、可安東将軍倭国王」〔宋書列伝 倭国条〕=大明6年、詔を発して、倭王の世子興が忠義を大きく(奕)新たに辺境の地の業を継ぎ、よく治めたので、安東将軍倭国王を授爵した」。

「大明6年3月壬寅、倭国王の太子「興」を安東将軍と倭国王に授爵した」(「大明六年三月壬寅、以倭国王世子為安東将軍倭国王」)(南史列伝倭国条)。
     
世祖の大明六年、詔して曰く、「倭王世子興、奕世戴ち忠、蕃を外海に作し、化を稟け境を寧んじ、恭しく貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく、安東将軍倭国王とすべし」(宋書倭国伝)


 *蓋鹵王の世子、つまり、太子牟都の時に倭国王を叙綬しました。まだ太子だったのに倭国王の称号を得ていました。ここは、即位後でないところが重要ポイントで、専門家でも太子のときに倭国王に叙されていることに、ありえないなどとして、混乱しています。
(四七六年春三月、濟死、世子興遣使貢獻。世子興、使を遣わして貢献す。・・・この時に、遡って倭国王に追号したのかもわかりません。王として追認することです。蓋鹵王の死が突然だったため、喪に服しており、この年は王に即位することを認めてもらうために朝見したのでしょうか。使者を宋に派遣したが、高句麗が道を塞いでいるのですぐに行くことができなかった。(三国史記)朝鮮史では高句麗が邪魔をして朝貢できなかったといっています。倭王武の奏上書と同じで、朝貢が遅れた言い訳をしています。すでに遼江を経て北魏・孝文帝のいる洛陽に朝貢する北道は塞がれていたのですね。

 四七五年九月、首都、漢城で蓋鹵王の命で、牟都は新羅に救援を求めて王城を出ました。昆支もまた、日本に救援をもとめて南方に逃れ、浪速で兵を募りました。(三国史記)都は以前から摂政として蓋鹵王を佐治していました。十月に新羅の兵一万を率いて漢城に戻りましたが、漢城はすでに落ち、蓋鹵王が処刑された後でした。牟都はただちに王位について、大豆山城(忠清北道清州市)を増強しました。文周は兵官佐平に解仇を、弟の昆支を内官佐平にし、長男三斤を太子としました。漢城は疲弊甚だしく、熊津(うんじん・忠清南道公州市)に遷都しました。この年は、476年と言われています。昆支がまもなく亡くなったので、解仇は朝廷を支配するようになり、ついに477年9月に解仇の放った刺客が文周王を暗殺してしまいます。父王がなくなったので、三斤はわずか13歳で即位しました。解仇の前王暗殺が発覚しなかったこともあって解仇は全権を握りつづけました。478年、大豆山城を占拠して謀反を起こしましたが失敗に終わり解仇は殺害されました。ただ、三斤は王になった後、3年目に亡くなっています。文周が3年、三斤も3年、蓋鹵王が惨死したあとも、内外ともに不安定な時期が続いていたのです。(日本書紀では雄略ニ十年三月に百済汶洲王に久麻那利(こむなり)を与え、国を復興させたと記しています。)

23.三斤王
 文周王は弟の昆支を内官佐平にし、長男三斤を太子としました。

『日本書紀』

雄略天皇』廿一年春三月、「天皇、聞百濟爲高麗所破、以久麻那利賜汶洲王、救興其國。」
応神天皇廿三年夏四月、「百濟文斤王、薨。天王、以昆支王五子中第二末多王」


倭王武
24. 東城王==倭国王武 (諱は牟太または牟大 在位479年―501年)
日本書紀では末多王(またおう)。


『日本書紀』
①応神天皇廿一年春三月、天皇、聞百濟爲高麗所破、以久麻那利賜汶洲王、救興其國。時人皆云「百濟國、雖屬既亡、聚夏倉下、實頼於天皇、更造其國。」汶洲王、蓋鹵王母弟也。日本舊記云「以久麻那利、賜末多王。」蓋是誤也。久麻那利者、任那國下哆呼唎縣之別邑也。
②応神天皇廿三年夏四月、百濟文斤王、薨。天王、以昆支王五子中第二末多王・幼年聰明


末多王は琨支の五王子の二番目の王子。東城王(末多王)は武寧王(嶋王)の異母兄ととして記される。(雄略天皇5年、雄略天皇23年、武烈天皇4年)

四七七年=「これより先、興没し(三国史記・四四七年九月)興死、弟武立。自称使持節、都督、百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国、諸軍事、安東大将軍、倭国王(宋書倭国伝、宋書列伝倭国条)=[興が死に、弟の武立つ。武は自ら「使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事安東大将軍倭国王」と称する」。

日本書紀では、雄略天皇 廿三年夏四月、百濟文斤王、薨。天王、以昆支王五子中第二末多王・幼年聰明、勅喚內裏、親撫頭面、誡勅慇懃、使王其國、仍賜兵器、幷遣筑紫國軍士五百人、衞送於國、是爲東城王。是歲、百濟調賦、益於常例。筑紫安致臣・馬飼臣等、率船師以擊高麗。「百済の文周王が死んだ。*天王は崑支の五人の子のなかで二番目の末多王を内裏によび、頭をなでて、丁寧に礼儀をもって百済の王になるよう命じた。なお、兵器や筑紫の軍士500人、護衛して百済の王となした。これが東城王である。この年に百済は貢ぎ物を治めにやってきた。それから調賦は常例となった。筑紫の安致臣と馬飼臣等が水軍の将軍を率いて高句麗を攻撃した。」・・・東城王を送り届けたついでに、高句麗を攻撃したのでしょうか。兵500では全面戦争にはなりませんが・・・広開土王への仕返しにしては、嫌がらせていどのような感じがします。一船40人が乗ったとして、12.3艘の船団です。
(別伝:市辺押磐皇子(書記)を弟・雄略天皇が暗殺する。いうところの兄王殺しのモチーフである。「穴穂天皇(安康)の三年の十月に、天皇(弘計=顕宗)の父市辺押磐皇子および帳内佐伯仲子、蚊屋野にして大伯瀬天皇(雄略)のために殺されぬ(=射られぬ)」・・・「天皇(弘計)、(兄の)皇太子億計に謂りて曰はく、「わが父先王罪無し。しかるを大泊瀬天皇(雄略)射殺し、骨を郊野に棄て、今に至るまでに未だ獲ず。」(日本書紀) 億計=仁賢天皇は顕宗の実兄(同母)である。「穴穂天皇の崩じられるに及んで、難を丹波国の余社郡に避りたまふ。」、「億計天皇(仁賢天皇)のあざなは嶋郎(しまのいらつこ)、弘計天皇の同母兄なり。」・・・天皇のあざなを嶋郎とする。嶋君とは、あの蓋鹵王の種子であり、母の侍妃は軍君崑支の后になった。)

四七七年十一月 11月、遣使して貢物を献ずる。(宋書順帝紀)「昇明元年冬11月己酉、倭国が使いを遣わして方物を献ず」(「昇明年元月冬十一月己酉、倭国遣使献万物」)〔宋書本紀-順帝記〕。
(三国史記では、四七七年九月に文周王が暗殺された。一一月遣使なら倭王興は三斤王となるが、宋書では三斤王に当る王は記されていない。このとき三斤王八歳だった。三国史記は王として追号した可能性がある。追号とは亡くなった後に、王位についたことにすること。その結果、王統史が再編される。このことは、年数が調整されるため、中国史と三国史記の年数がずれているばあい中国史の年数を正しいと判断する。)

四七八年=遣使が倭王武の上表を奉じる。自ら開府儀同三司と称し、叙正を求める。「順帝、武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」とする。(『宋書』順帝紀)(「武」と初めて明記した・武使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東大将軍倭王。)

四七九年=「建元元年、倭国王「武」を進めて新たに、使持節、都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭国王に徐し、号は鎮東大将軍となす」(「建元元年、進新徐、使持節、都督、倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍、倭王武、号為鎮東大将軍」)(南斉書列伝東夷・倭国条)。

「斉の建元に(中)、倭国王「武」を使持節、都督、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国、諸軍事、鎮東大将軍に授爵した」(「斉建元中、倭国王武、除使持節、都督、新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、鎮東大将軍」)(梁書列伝倭国条)。

「建元中、倭国王「武」を鎮東大将軍に授爵した」(「建元中、倭国王武、除安東大将軍」)(南史列伝倭国条)。南斉の高帝、王朝樹立に伴い、倭王武を鎮東大将軍に進号。(『南斉書』倭国伝)

五〇二年=4月、梁の武帝、王朝樹立に伴い、倭王武を征東大将軍に進号する。(梁書武帝紀)「天藍元年四月戊辰、倭国王「武」を鎮東大将軍から征東将軍に進号した」(「天藍元年四月戊辰、鎮東将軍倭王武進号征東将軍」)(梁書本紀武帝記)
「高祖即位、倭国王「武」を征東将軍に進号した」(「高祖即位、進武号安東征東将軍」)〔梁書列伝-倭国条〕。
「倭国王「武」を(鎮東大将軍から)征東大将軍に進号した」(「進安東将軍倭王武為征東大将軍」)(南史本紀 武帝記)。


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『周書』 卷四十九 列傳第四十一異域上 唐 令狐德棻著 
15 ・・・建武三年(496年),此下缺文報功勞勤,實存名烈。假行寧朔將軍臣姐瑾等四人,振竭忠效,攘除國難,志勇果毅,等威名將,可謂扞城,固蕃社稷,論功料勤,宜在甄顯。今依例輒假行職。伏願恩愍,聽除所假。寧朔將軍、面中王姐瑾,歷贊時務,武功并列,今假行冠軍將軍、都將軍、都漢王。建威將軍、八中侯,餘古,弱冠輔佐,忠效夙著,今假行寧朔將軍、阿錯王。建威將軍,餘歷,忠款有素,文武烈顯,今假行龍驤將軍、邁盧王。廣武將軍餘固,忠效時務,光宣國政,今假行建威將軍、弗斯侯。
16 牟大又表曰:「臣所遣行建威將軍、廣陽太守、兼長史臣高達,行建威將軍、朝鮮太守、兼司馬,臣楊茂,行宣威將軍、兼參軍,臣會邁等三人,志行清亮,忠款夙著。往泰始中,比使宋朝,今任臣使,冒涉波險,尋其至效,宜在進爵,謹依先例,各假行職。且玄澤靈休,萬里所企,況親趾天庭,乃不蒙賴。伏願天監特愍除正。
17 達邊效夙著,勤勞公務,今假行龍驤將軍、帶方太守茂志,行清壹,公務不廢,今假行建威將軍、廣陵太守,執志周密,屢致勤效,今假行廣武將軍、清河太守。」
18 詔可,並賜軍號,除太守。為使持節、都督百濟諸軍事、鎮東大將軍。使兼竭者僕射孫副策命大襲亡祖父牟都為百濟王。曰:「於戲!惟爾世襲忠勤,誠著遐表,滄路肅澄,要貢無替。式循彞典,用纂顯命。往欽哉!其敬膺休業,可不慎歟!制詔行都督百濟諸軍事、鎮東大將軍百濟王牟大今以大襲祖父牟都為百濟王,即位章綬等玉銅虎竹符四。王其拜受,不亦休乎!」
15;の加行
【人名】姐瑾→冠軍將軍、都將軍、都漢王。建威將軍
【人名】餘古寧朔將軍、阿錯王。建威將軍
【人名】餘歷→龍驤將軍、邁盧王
【人名】餘固→假行建威將軍、弗斯侯
16;の加行
【人名】高達→行建威將軍、朝鮮太守、兼司馬
【人名】楊茂→威將軍、兼參軍
【人名】會邁等三人→天監特愍の叙正願う
【人名】茂志→建威將軍、廣陵太守
【人名】邁→廣武將軍、清河太守
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■倭王武(牟大)、鮮卑の騎馬軍を撃退し、南斉に朝獻。

19 是歲,魏虜又發騎數十萬攻百濟,入其界,牟大遣將沙法名贊首流解禮昆木干那率眾(衆)襲擊虜軍,大破之。建武二年(495年),牟大遣使上表曰:「臣自昔受封,世被朝榮,忝荷節鉞,剋攘列辟。往姐瑾等並蒙光除,臣庶咸泰。去庚午年,獫狁弗悛,舉兵深逼。臣遣沙法名等領軍逆討,宵襲霆擊,匈梨張惶,崩若海蕩。乘奔追斬,僵尸丹野。由是摧其銳氣,鯨暴韜兇。今邦宇謐靜,實名等之略;尋其功勳,宜在褒顯。今假沙法名行征虜將軍、邁羅王,贊首流為行安國將軍、辟中王,解禮昆為行武威將軍、弗中侯,木干那前有軍功,又拔臺舫,為行廣威將軍、面中侯。伏願天恩特愍聽除。」又表曰:「臣所遣行龍驤將軍、樂浪太守兼長史臣慕遺,行建武將軍、城陽太守兼司馬臣王茂,兼參軍、行振武將軍、朝鮮太守臣張塞,行揚武將軍陳明,在官忘私,唯公是務,見危授命,蹈難弗顧。今任臣使,冒涉波險,盡其至誠。實宜進爵,各假行署。伏願聖朝特賜除正。」詔可,並賜軍號。
*建武(けんぶ)は、南北朝時代、南斉の明帝蕭鸞の治世に行われた最初の元号。494年 - 498年

訳:
この年、建武は南斉の年号 建武(494年-498年)。建武三年は496年。北魏はまた数十万騎の騎兵をもって百濟を攻めた。その境に入り牟大は将軍、沙法名・贊首流・解禮昆・木干那率らを遣わせ北魏軍を襲撃し、これを太破した。建武二年(495年)牟大は遣使し上表して曰く「臣自ら封を受け、世々朝が栄える恩を被り、・・・・・・と上申する」
☆牟大が戦功に対して褒賞を得るために朝見し、加行(昇格)を求めた官名を連ねる。
19;右矢印に加行(昇格)
【人名】沙法名→征虜將軍、邁羅王
【人名】贊首流→安國將軍、辟中王
【人名】解禮昆→武威將軍、弗中侯
【人名】木干那・拔臺舫→廣威將軍、面中侯
【人名】慕遺→建武將軍、城陽太守兼司馬
【人名】王茂→振武將軍、朝鮮太守
【人名】張塞→行揚武將軍
【人名】陳明?→無記
【人名】帶方太守茂志→建威將軍

*北魏(ほくぎ、拼音: Běi Wèi、386年 - 534年)は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国。南に南斉と接す。百濟は北魏と戦い、南斉に褒賞を求めた朝見とみなせます。ここにおいて倭王武(牟大)は鮮卑の騎兵と戦ったという事実からは、倭王武は雄略天皇(於学会通説)ではないことが明らかです。夫餘は鮮卑を蛮族とみなし、而して北魏を下にみて、もっぱら漢系統の王朝に貢献しています。これを学説ではいわゆる小中華思想といいます。百済の言語はやや南方の書式というか文法に通じており、北方の中国語とは異なります。したがって、日本書紀の文法書式は半分以上が百済式の中国南方言語になっています。また、百済の音を当てただけの表音文字、”弖”という百濟で作られた固有の文字があります。”て”と読みます。稲荷山の鉄剣に2文字、江田船山古墳の鉄刀に1文字ありますが、その中国人も知らない文字が、万葉集に弖豆久利(てづくり)というような用例が現れています。〔後節〕
*孝文帝(こうぶんてい)北朝北魏の第6代皇帝(在位:471年9月20日 - 499年4月26日)。諱は宏。孝文帝の時代に北魏宗室の姓は拓跋から元に改められた。
*斉(せい、479年 - 502年)は、中国の南北朝時代に江南に存在した国。南朝の一つ。北朝の北斉や春秋戦国時代の斉などと区別するために南斉(なんせい)あるいは蕭斉(しょうせい)とも呼ばれる。武帝(482年 - 493年ー廃帝鬱林王(493年 - 494年)


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『周書』 卷四十九 列傳第四十一異域上
21 倭國,在帶方東南大海島中,漢末以來,立女王。土俗已見前史。建元元年,進新除使持節、都督倭·新羅·任那·加羅·秦韓·慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王武號為鎮東大將軍。

訳:
 倭国、帯方東南海中にあり、漢の末以来、女王を立て、土俗はすでに前史に見えている。建元元年(479年)、使持節、都督倭·新羅·任那·加羅·秦韓·慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王武に鎮東大將軍の号を新たに叙す。(進号のこと)
*建元;南北朝時代、南斉の高帝蕭道成の治世に行われた元号。(479年 - 482年)
*北周(ほくしゅう、拼音: Bĕizhōu、556年 - 581年)は、中国の南北朝時代に鮮卑系の宇文氏によって建てられた国。

『周書』 卷四十九 列傳第四十一異域上
19 「是歲,魏虜又發騎數十萬攻百濟,入其界,牟大遣將沙法名贊首流解禮昆木干那率眾(衆)襲擊虜軍,大破之。」

 周書はすごくストレートですね。牟大こと倭王武が百濟に侵入した北魏の騎馬兵を撃破したと書かれています。倭王武とは雄略天皇だと考える人は、『周書』のこの記述に対して疑義を唱えるか、無視するほかないのでしょう。倭国条でも都督倭·新羅·任那·加羅·秦韓·慕韓六國諸軍事、安東大將軍、倭王武と記されています。間違っているのは、倭國,在帶方東南大海島中だけです。これは、典籍を引くという伝統のせいでしょう。*帯方東南はちょうどソウルと仁川の間であり、百済を指している。すなわち百済の建国地であり、大海島中ではない。しかし、倭王武が卑弥呼の宗族であり、卑弥呼が倭国と号した始めであるような書き方です。壹與のあとの男王は代々中華への貢献を踏襲したことが明らかです。
*5世紀後半は百済王が倭国王を中国にたいして名乗っています。南斉が倭国王を自称した百濟王に騙されたとしか考えられません。しかし、この百済王が東城王です。昆支の二番目の子として日本に在住したことがあるという由来があります。

『日本書紀』 
武烈天皇 四年夏四月、拔人頭髮、使昇樹巓、斮倒樹本、落死昇者、爲快。是歲、百濟末多王無道、暴虐百姓。國人遂除而立嶋王、是爲武寧王。百濟新撰云「末多王無道、暴虐百姓、國人共除。武寧王立、諱斯麻王、是琨支王子之子、則末多王異母兄也。琨支、向倭時至筑紫嶋、生斯麻王。自嶋還送、不至於京、産於嶋、故因名焉。今各羅海中有主嶋、王所産嶋、故百濟人號爲主嶋。」今案、嶋王是蓋鹵王之子也、末多王是琨支王之子也。此曰異母兄、未詳也。
(斯麻王=武寧王の異母兄とする。)


武烈天皇は残酷な奇行が目立ちます。従者の頭の毛を抜いたり、木に登らせてその木を切り倒して従者を殺して喜んでいたというのです。
武烈天皇の暴虐ぶりは目を覆うばかりです。
二年の秋九月に、孕婦の腹を割きて其の胎を観す。
三年の冬十月に、人の爪を解きて、芋を掘らしめたまう。
四年の夏四月に、人の頭髪を抜きて、梢に登らしめ、樹の本を切り倒し、昇れる者を落死するのを見て快としたまふ。
五年の夏六月に、人を塘(堤つつみ)の樋に伏せ入らしめ、外に流出づるを、三刃の矛を持ちて、刺殺すことを快としたまふ。
七年の春二月に、人(従者)を樹に昇らしめ、弓を以ちて射墜として咲いたまふ。
八年の春三月に、女を裸にして、平板の上に坐ゑ、馬を牽きて前に就して遊牝せしむ。女の不浄を観るときに、湿へる者は殺し、湿はざる者は没めて官やつことし、此を以ちて楽としたまふ。

原文:ご覧になれます。⇒:リンク
二年秋九月、刳孕婦之腹而觀其胎。
三年冬十月、解人指甲、使掘暑預。
四年夏四月、拔人頭髮、使昇樹巓、斮倒樹本、落死昇者、爲快。
五年夏六月、使人伏入塘楲、流出於外、持三刃矛刺殺、爲快。
七年春二月、使人昇樹、以弓射墜而咲。
八年春三月、使女躶形坐平板上、牽馬就前遊牝。觀女不淨、沾濕者殺、不濕者沒爲官婢、以此爲樂。

これは日本の皇統史としては隠しておきたい事実ですよね。日本書紀で、天皇の行状として書かれていることこそ、びっくりしてしまいます。ほんとうに天皇としてというより、人として正気ではありませんからね。書記官が上梓しても削叙されなかったということは、実は日本の天皇じゃなく、百済の東城王のことではないかと疑います。

一方書紀の武烈天皇紀の引用では末多王は百姓に無道な暴虐を働いて、国人が王を廃したとあります。
三国史記では、東城王も刺客にあって死ぬことが書かれています。以下、
「三国史記 東城王21年(499年)夏、非常な日照りで民が餓えた。互いに食い合うほどであった。盗賊が各地に起きたので、群臣たちは国庫(米倉)を開いて、民を救うことを請うたが、王はこれをきかなかった。漢山の住民たち二千人が高句麗に逃げた。冬10月に疫病が大いにはやった。・・・王は諫臣の上表に返事をせず、門を閉じた。・・・

23年(501年)春正月、王都の一人の老婆が狐に化けて逃げ、二匹の虎が南山でその狐を捕らえることができなかった。3月、霜が降りて麦を害した。夏五月から秋まで雨が降らなかった。七月、炭峴城(たんけんそん)に柵を設けて新羅に備えた。8月、加林城を築いて、衛士佐平の苩加(苗加)に鎮守させた。冬10月、王は泗沘の東の原で狩をした。11月には熊川の北の原で猟をしているうちにまた大雪に妨げられてが馬浦村にまた宿を取った。はじめ王は苩加に鎮守させようとしたが苗加は加林城に行くことを望まず、病気だといって王命を辞退した。王はこれを許さず、それ以来苩加は王を怨んで、狩の機会に刺客を送り、王を刺した。12月になって王は死去し、おくりなは東城王とされた。
原文:「二十三年 春正月 王都老嫗化狐而去 二虎鬪於南山 捕之不得 三月 降霜害麥 夏五月 不雨至秋 七月 設柵於炭峴 以備新羅 八月 築加林城 以衛士佐平苩加鎭之 冬十月 王獵於泗沘東原 十一月 獵於熊川北原 又田於泗沘西原 阻大雪 宿於馬浦村 初王以苩加鎭加林城 加不欲往 辭以疾 王不許 是以怨王 至是使人刺王 至十二月乃薨 諡曰東城王。

注:
1)狩に出かけることは、王宮を離れます。刺客を伏せておくには絶好の機会です。
2)衛士佐平とは従二品にあたる宮廷護衛官です。王直属の護衛長官ですね。王を殺したのは兵官佐平に格下げしたことが理由だろうか?王宮から辺地の守備に行くわけですから、左遷に不満だったのかわかりませんが、殺すほどの恨みなのでしょうか?

出典:『韓国 歴史地図』平凡社刊
3)三国志魏書 扶余傳 「舊夫餘俗、水旱不調、五穀不熟、輒歸咎於王、或言當易、或言當殺。」、「昔の扶余の風習では、水害、干害のため五穀が実らないとき、そのたびに王に罪を着せて、王を替えるのが適当だとか、王を殺すのがいいとか言う。」王とは天人地を縦棒で結んだ象形です。そこから、儒教では天災などは王の不徳がもたらすのだという考え方をします。

第25代 武烈天皇 八年春三月、使女躶形坐平板上、牽馬就前遊牝。觀女不淨、沾濕者殺、不濕者沒爲官婢、以此爲樂。及是時、穿池起苑、以盛禽獸而好田獵、走狗試馬、出入不時、不避大風甚雨。衣温而忘百姓之寒、食美而忘天下之飢。大進侏儒倡優、爲爛漫之樂、設奇偉之戲、縱靡々之聲。日夜常與宮人沈湎于酒、以錦繡爲席、衣以綾紈者衆。冬十二月壬辰朔己亥、天皇崩于列城宮。

婢を平らな板に裸で座らせ、牡馬を前に引いてその前で遊ばせ、その陰部が濡れている女は不浄だといって殺し、濡れていない者を官婢とした。これを楽しみとしてしていた。その時、池をほって苑をつくり、禽獣をたくさん満たし、そこで、犬を走らせ、馬に試乗したりしていた。そこに入り浸っていた。大風や大雨があろうとも、王の衣服は温かいが、百姓が寒さに震えていることは忘れている。食べるもは美食で天下の人々が餓えていることには目もむけない。
小人の芸人や役者にみだらな遊戯をさせて、卑猥であやしい声を立てさせて、やりたい放題の享楽をに耽っている。日夜、内官と酒に酔いしれ、酒座の席は錦織の布で飾り、そこにはあや織りの白いねり絹の衣服を着たものが多かった。冬12月天皇は壬辰朔己亥、于列城で崩じた。(超訳)
*百済の内官;十二部 外官十部:
官と酒に酔いしれ、酒座の席は錦織の布で飾り、そこにはあや織りの白いねり絹の衣服を着たものが多かった。これは武烈天皇春三月にある記事ですが、王宮に芸人を入れるというのはどういうことなのか、そのイメージをもつことも必要です。
1)朝鮮における芸人とは広大寺堂(サダン)と呼ばれ、身分としては最下層の白丁(ぺくちょん)だといわれています。奴婢よりも下層とされ、いわゆる良民からも蔑まれる差別民でした。各地を放浪して投げ銭を稼いでいた、いわゆる大道芸人の集団で、「昼は広場で曲芸や面劇(トッポギ)、プンムル・ノリと総称される農楽舞や人形劇を興行し、夜は売春を行った」...『妓生(キーセン)「もの言う花」の文化誌』
韓国ドラマ「推奴~チュノ~」チャン・ヒョク、映画「王の男」イ・ギュンギ/カム・ウソンなどに登場する芸人がリアルとは限りませんが、사당패(さだんぺ)に属しています。男寺党(ナムサダン)は男性のみで、単に「寺党」といったばあい、「女寺党」、(ヨサダン)の別称らしく、李朝後期、「男寺党(ナムサダン)」に女性が加わるようになっという説もあります。「推奴~チュノ~」は朝鮮王朝の後期と思われます。「王の男」ではイ・ギュンギの役どころが女装稚児(ピリ삐리)であることを暗示させます。お勧めリンク=三橋順子 続々・たそがれ日記「男寺党について
王が侏儒倡優を楽しんだということがいかに、はめをはずした行為だったか知るうえで、あえて男寺堂という芸能集団のことをここに記載しました。なお、朝鮮が奴隷制国家だったことは確かです。戦での捕虜は連れ帰り奴婢として私用していました。両班が労働をしないのは奴婢が行う仕事を自らが行うことを恥じとしたからです。国が奴婢を持つ権利を保護していましたから、奴婢の買い付け書は人身売買の証券でした。逃げれば兵卒が捕まえ、処罰します。そういえば、殉死は奴婢が物として扱われていたことを示しています。卑弥呼の墓は「徇葬する奴婢は百余人」とありますから、卑彌呼は奴隷制のある国の女王です。また、中国に生口(虜)や短弓(西域からモンゴルで使われる弓)を貢献しています。ですから、倭国は、高句麗や鮮卑としばしば交戦している国ということになります。日本の弥生後期の国家形態とは一線を引いておくべきだと考えます。
武烈天皇は「朕(われ)継嗣(ひつぎ)なし。」という。窺い知れない悩みもあったのでしょうか?
武烈天皇の行状は百済の東城王(末多王)とよく似ています。

雄略天皇の御代には百済の二代の王を日本から送り出しています。一人は武寧王で、雄略五年六月「ここに軍君(昆支)、すなわち一つの船を以て、嶋君を国に送る。これを武寧王とす。」
武寧王の即位は501年ですが、なぜか雄略5年に記され、末多王=東城王の即位は479年ですが、末多王のことは雄略23年に書かかれています。
末多王のほうが先に即位しているのですから、雄略紀での紀年が後先がさかさまです。下の引用を照らし合わせると、書紀の年号はおかしいことがわかります。

雄略天皇二三年夏四月に百済の文斤王、薨せぬ。天王、昆支(こんき)の五の子の中に、第二にあたる末多王の幼年くして聡明きを以て、勅して内裏にめす。親(みずから)の頭面(こうべ)を撫でて、誠勅ねんごろにして、其の国の王とならしむ。よりて兵器を賜ひ、併せて筑紫の国の軍士五百人を遣わして、国に衛り送らしむ。これを東城王となす。」
実は日本書紀にはほんらい朝鮮で呼称された東城王の諡(おくりな)がそのまま記載されたところがあります。
日本書紀 巻第十四 雄略天皇紀
「廿三年夏四月、百濟文斤王、薨。天王、以昆支王五子中第二末多王・幼年聰明、勅喚內裏、親撫頭面、誡勅慇懃、使王其國、仍賜兵器、幷遣筑紫國軍士五百人、衞送於國、是爲東城王。是歲、百濟調賦、益於常例。筑紫安致臣・馬飼臣等、率船師以擊高麗。秋七月辛丑朔、天皇寢疾不預、詔、賞罰支度、事無巨細並付皇太子。」
ここにはっきりと、昆支の五人の王子の二番目の王子を百済の東城王としたことが明らかです。雄略紀にある記事ですが、末多王を雄略天皇が百濟に送り返したということですが、はたして史実なのでしょうか?末多王が崑支の第ニ子だということは、軍君昆支はオオド王、継体天皇により近い実像になるはずです。なぜ、雄略23年に書かれるのか、歴史年代が、でたらめにもほどがあります。


そもそも雄略天皇=大泊瀬幼武天皇(おおはつせわかたけのすめらみこと)は顕宗天皇(けんぞう)の父、忍歯王(実は安康天皇・雄略の実の兄)を狩場で殺しているのですが、 顕宗天皇は天皇になられてから父の遺体がどこにあるのか分かりません。これをお探しになり、ようやくお骨をもちかえりになり、父の恨みをはらすべく雄略天皇の墓を暴こうとします。安康天皇の三年に起きた謀反の大事件ですが、古事記では安康天皇が目弱王に殺されたとあります。この暗殺事件を掘り起こすと15代.枕流王と16代.辰斯王(しんし)17代.阿莘王の関係に似ています。辰斯王が兄の枕流王を殺害、王位につきます。阿莘王は父を殺した辰斯王を親の仇として狩場で誅殺します。この仇討の伝承に似ています。阿莘王の父・枕流王が弟の辰斯王に殺されて王位を簒奪され、仇(かたき)として深く憎んでいたと伝えられています。
ここは主なるテーマではありませんんが、倭の五王の倭王武が雄略天皇だということに学会が疑問をもっていない・・・つまり定説だということから、疑問を呈するのですから、その前に伏線として触れてみました。雄略天皇は悪徳天皇とよ揶揄され、暴虐だったことも書かれています。


小人の芸人や役者にみだらな遊戯をさせて、卑猥であやしい声を立てさせて、やりたい放題の享楽をに耽っている。日夜、内



『梁書』 百済伝

治する所の城を号して固麻という。邑を謂いて檐魯(タムロ)という。中国の言の郡県なり。その国に22檐魯ありて、皆子弟・・・この宗族を以て分かちてこれに拠らしむ。

百済語では、王城を固麻(こま)といい、檐魯はその区分行政地(郡の下に県)のことで、一種の経営・政治制度です。

檐魯(タムロ・えんろ)という言葉は、結構重要ですよ。檐魯は中国語の「都」と同じです。百済は、王族子弟をもって領有地を分割支配する体制でした。それが、22カ所あったと、中国が記しているのです。中国では「固麻」の二文字だけですが、日本書紀では、久麻那利、百済語では固麻那羅(コマナル・고마나루)、錦江の中流にあった熊津城のことです。このように、日中韓の固有名詞が異なるのは、通例のことです。地名に関しては、朝鮮の三国時代、さらに、高句麗、百濟、新羅で、それぞれの国での名称が異なっています。このあたりは、日本人の研究家にとって、史料がなく多くの努力が無駄骨になってしまう原因にもなります。

雄略天皇が、文周王に久麻那利を与えたと書いて言います。雄略天皇二十一年(477年)春三月条に「天皇聞。百済為高麗所破、以久麻那利賜汶洲王、救興其国」と記されています。
『宋書』卷97・列傳第57(百済国条)百濟國,本與高驪倶在遼東之東千餘里,其後高驪略有遼東,百濟略有遼西。百濟所治,謂之晉平郡晉平縣

百済国もとは高句麗と揃って遼東の東千里にあった。その後、高句麗が遼東を征服したとき百済は遼西を占有した。百済が治める所を晋平郡晋平県という。
『唐会要』百済伝

 百濟者。本扶餘之別種。當馬韓之故地。其後有仇台者為高麗所破、以百家濟海。因號百濟焉。大海之北。小海之南。東北至新羅。西至越州。南渡海至倭國。北渡至高麗。其王所居有東西兩城。
 
日本書紀では末多王(またおう)。
琨支の子。武寧王の異母兄ととして記される。(雄略天皇5年、雄略天皇23年、武烈天皇4年)百済の者、元は扶余の別種。後の今、馬韓の故地にいる。後に仇台の後継王は高句麗を連破し、百家で海を済(渡)る。ゆえに百済と号する。大海の北、小海の南にあり、新羅から東北、越州から西、南の海を渡れば倭国に至る。北には高句麗。王の居城は東西に両城あり。

*渤海の北、幽州のほぼ中央、晋平郡晋平県に元百済(異端の扶余)がありました。公孫度に忠誠し高句麗と果敢に戦ったのが尉仇台です。元百済の太祖です。公孫康は馬韓の故地、屯有県を分けて帯方郡を作り(204)、尉仇台を帯方の地に封じて王にしました。東西に二城があったというのは晋平郡晋平県と、馬韓の故地の帯方県二つの王城のことでしょう。尉仇台が初めて百済と国号を自称した国は晋平郡晋平県でだったのです。
 さらに、140年後、河南慰礼城の伯濟國を略有して、はじめて国号を百済と定めたのは近肖古王(346-375)です。中国史書では、これを馬韓の故地に遷都したと書きます。。
そして、文周王は高句麗・長寿王に抗しきれず、錦江(クムガン)の中河口の熊津に遷都しました。476年、書紀では雄略20年に久麻那利と記しています。中国は固麻と書いています。朝鮮正史では国号を「南扶余」と改めたとします。

*中国の歴史書をみると、渤海を大海と呼ぶのに対して楽浪海を小海としていた。
*この文は中国語の南方方言で書かれています。おそらく、宋の文法に倣ったものでしょう。中国南朝の六朝文化で流行した四六駢儷体だそうです。修飾詞が一部、逆行構文になっているところがあります。

*錦江(クムガン)は白村江、白馬河とも言われていました。日本側では『白村江の戦い』、「はくすきのえ」と言います。


 倭王武の上表書が決めて!

倭王武の上表書

倭国在高麗東南大海中、世修貢職
 高祖永初二年、詔曰、「倭讃萬里修貢。遠誠宜甄可賜除授」
 太祖元嘉二年、讃又遣司馬曹達奉表献方物。
 讃死弟珍立。遣使貢献、自称使持節都督倭百済新羅任那秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭国王、表求除正。詔除安東将軍倭国王。珍又求除正倭隋等十三人平西征虜冠軍輔国将軍号。詔並聴。
 二十年、倭国王済、遣使奉献。復以為安東将軍倭国王。
 二十八年、加使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事、安東将軍如故、并除所上二十三人軍郡。
 済死。世子興、遣使貢献。
 世祖大明六年、詔曰、「倭王世子興、奕世戴忠、作蕃外海、稟化寧境、恭修貢職、新嗣辺業。宜授爵号、可安東将軍倭国王。」興死弟武立、自称使持節都督倭百済新羅任那加羅秦韓慕韓七国諸軍事、安東大将軍、倭国王
 順帝昇明二年、遣使上表。曰、
「封国偏遠、作蕃于外。自昔祖禰、躬カン甲冑、山川跋渉、不遑寧処。東征毛人五十五国、西服衆夷六十六国、渡平海北九十五国、王道融泰、廓土遐畿。累葉朝宗、不愆于歳。臣雖下愚、忝胤先緒、駆率所統、帰崇天極、道遙百済、装治船舫。而句麗無道、図欲見呑、掠抄辺隷、虔劉不已。毎致稽滞、以失良風、雖曰進路、或通或不。臣亡考済、実忿寇讐壅塞天路、控弦百万、義声感激、方欲大挙、奄喪父兄、使垂成之功不獲一簣。居在諒闇、不動兵甲。是以偃息未捷。至今欲練甲治兵申父兄之志。義士虎賁文武効功、白刃交前、亦所不顧。若以帝徳覆戴、摧此彊敵、克靖方難、無替前功。窃自仮開府儀同三司、其余咸仮授以勧忠節。」
詔除武、使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王

倭国在高麗東南大海中 訳:倭國は高句麗の領土の東南にある。此れをもとにした倭國の推定図。
『宋書倭国伝』 478年

 倭国は高句麗の東南、大海の中にあり、世々萬里の貢職をなす。 高祖の永初二年、詔して曰く、
「倭讃、万里貢を修む。深い誠宜しく甄すべく、叙授を賜うべし」と。太祖の元嘉二年、讃また司馬曹達を遣わして表を奉り方物を献ず。 讃死して弟珍立つ。使いを遣わして貢献し、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭国王と称し、表して叙正せられんことを求む。詔して安東将軍倭国王に叙す。珍また倭隋等十三人を平西・征虜・冠軍・輔国将軍の号に叙正せんことを求む。詔して並びに聴す。二十年、倭国王済、使いを遣わして奉献す。また以て安東将軍倭国王となす。 二十八年、使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事を加ふ。安東将軍は故の如し。ならびに上る所の二十三人を軍郡に叙す。  済死す。世子興、使を遣わして貢献す。世祖の大明六年、詔して曰く、「倭王世子興、奕世戴ち忠、蕃を外海に作し、化を稟け境を寧んじ、恭しく貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ。宜しく爵号を授くべく、安東将軍倭国王とすべし」。
 興死して弟武立ち、自ら使持節都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事、安東大将軍倭国王と称す。

 順帝の昇明二年、使を遣わして上表して曰く、
「封国は偏遠にして、蕃を外に作す。昔より祖禰(そねい)躬ら甲冑をツラヌき、山川を跋渉し寧処に遑あらず。東は毛人を征すること五十五国、西は衆夷を服すること六十六国、渡りて海北(渤海)を平ぐること九十五国、王道融泰にして、土を廓き、畿を遐にす。累葉朝宗して歳に愆ず。、下愚なりといえども、忝なくも先緒を胤ぎ、統ぶる所を駆率し、天極に帰崇し、道百済を遙て、船舫を装治す。しかるに句麗無道にして、図りて見呑を欲し、辺隷を掠抄し、虔劉して已まず。毎に稽滞を致し、以て良風を失い、路に進むというといえども、あるいは通じあるいは不らず。臣が亡考、実に寇讐の天路を壅塞するを忿り、控弦百万、義声に感激し、方に大挙せんと欲せしも、奄に父兄を喪い、垂成の功をして一簣を獲ざらしむ。居しく諒闇にあり兵甲を動かさず。これを以て、偃息して未だ捷たざりき。今に至りて、甲を練り兵を治め、父兄の志を申べんと欲す。義士虎賁文武功を効し、白刃前に交わるともまた顧みざる所なり。もし帝徳の覆戴を以て、この彊敵を摧き克く方難を靖んぜば、前功を替えることなけん。窃かに自ら開府儀同三司を仮し、その余は咸な仮授して以て忠節を勧む」と。詔して武を使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事、安東大将軍倭王に叙す。」

*祖《説文解字》《巻二》《示部》:祖 始廟也 従示且聲。「始めの廟なり。(音はショ)
*禰=祢《説文解字》《巻二》《示部》:禰 親廟也。従示爾聲。[親の廟なり。」(音はジ・ニ)《説文新附》には「親の廟なり」とある。〔春秋公羊伝・隱公元年〕の註に「生きて父と稱し、死して考と稱し、廟に入りて禰と稱す」。カタカナのネの字の字源。
*廟(びょう) 祖先、先人の霊を祭る建物。宗廟、神社、やしろ、祠、御霊屋(みたまや)または祖霊舎(それいしゃ)などがあるが、廟は王朝ないし元首が護持するもの。 
*祖禰(そねい):自分の祖先を祭る始めの廟の鬼神。開祖・国祖。(そでいの読みは口音)。=尉仇台を指す。
*封國 中国が封ずる国。
*天極 皇帝のこと。(太一)
*蕃國 檐魯國のこと。百済が海外に封ずる国。
*毛人 烏丸・鮮卑族のこと。
*衆夷 匈奴・慕容・靺鞨(女真族)のこと。
*句麗 高句麗のこと。
*臣  蛮夷の王は中国の下臣。主従の関係にあります。漢の封じた王。
*父  武の父にあたる、済のこと。前々王余慶。
*兄  倭国王興のこと。前王牟都。
*祖禰(そねい) ここでは 尉仇台を指す。⇒王朝が異なれば祖禰は異なる。百濟には登高神(高句麗系)と尉仇台(夫餘系)の二系の宗廟があり、王朝の交代があった。倭の五王は尉仇台系。天照系は登高神系。


 倭王武の上表書では、父と兄が高句麗に無道にも殺された。喪に服しているので、兵を鍛錬しているところで、喪が明けたら必ず命をかけて報復するといっているのです。この事件は、475年9月高句麗好太王の長子・長寿王が襲来し、蓋鹵王が処刑された事件のことです。武の父が蓋鹵王に当たり、兄が文周王にあたります。蓋鹵王まで中国側は余氏としていましたが、文周王は牟氏でした。弟は倭王武=牟太です。
 ここで、倭王武に続いて倭王興が兄の文周王だというのは、日本書紀にも書かれています。「文洲王は蓋鹵王の母の弟なり」(雄略21年)とあります。『梁書』諸夷伝の「興死して弟武立ち」、「興」死して弟の「武」立つ、とあります。兄と弟であることは日中ともに一致します。牟氏というのは、おそらく蓋鹵王の正妃の実家の姓だと思われます。
*牟都と牟太(牟大)の牟字について
牟の字はピンインmóu ⇒ [異読音] mù(モウ・ム)と発音されます。『説文解字』では「牟:牛鳴也。从牛。象其聲气从口出」とあり、牛の鳴く声で口から出る息であるとしています。气氣気は同じ変体文字です。牟太とは牛の太い鳴き声という直訳になりますが、この名からは牛加の王と意味どりできなくもありません。牟を一字姓とすると、余氏ではないとみることができます。牟を一字姓ととるのは羋(ミ)の例と同じだからです。羋は羊鳴也とあり羊の鳴く声です。羋は楚王族の姓でした。羋屈原もそうでした。嬴政(始皇帝)の高祖母は羋八子、秦の昭襄王の治世において権勢を得て王太后になり宣太后(せんたいごう、? - 紀元前265年)に上り詰めた女傑です。若き頃は楚国の公子(王女)でした。羋は中国において姓であったので、牟も姓であってもおかしくないのです。牟都は蓋鹵王の后の弟だったいう説がありますので、王に為る前は后の姓である牟氏ということが考えられます。ただし、牟という氏姓は百済には記録がありません。言えることは中国側が作った姓であることは確かです。あるいは貞氏か真氏の借字と思われます。

1)倭国は高句麗の東南、大海の中にあり。平壌の東南は、漢江の河口である。大海は黄海で、中にありとは、~に当たるという意味で、黄海に面していると読むべきである。高句麗の国内城から見て東南が帯方に当る。

2)「道逕百濟 裝治船舫」 百済という遠いところに、造船所をもっている。(遼西晋平郡)

3)東は毛人(鮮卑・烏丸)を征すること五十五国 西は衆夷(突厥・女真)を服すること六十六国。日本は鮮卑・烏丸・突厥と交戦したことがないので、倭王武の祖祢は日本列島にいる王ではないことが明瞭だろう。

4)渡りて海北を平ぐること九十五国を制している。海北は渤海のことである。日本が渤海周辺まで船で攻略したことはない。海北とは渤海である。

5)句麗無道にして・・・句麗は高句麗。高句麗の侵略を指す。475年9月高句麗好太王の長子・長寿王襲来・蓋鹵王処刑され、漢城が滅亡した。倭王武の奏上で、父と兄を失って喪に服している言っている裏付けとなる事件である。 従って、倭国とは、東南の黄海に面していた河南百済のことである。 『梁書』諸夷伝 「晋の安帝の時、倭王讃あり。讃死して弟の「弥」立つ。「弥」死して子の「済」立つ。「済」死して子の「興」立つ。「興」死して弟の「武」立つ。(倭王讃からの系譜である。)倭王武が百済東城王と諱が一致する

つづいて、もっとも重要なのが次の記録です。都と牟太という実名があり、牟太が倭国王武であることがはっきり書かれています。
『武帝紀』武帝蕭衍(463~502~549) 天監元年(502年)
 「死子立牟太、齊永明中、除太都督百濟諸軍事鎭東大將軍百濟王・・・鎭東大將軍倭國王

 倭王武の諱(いみな)は牟太でした。そして牟都が先代となることは、ここでも明確ですね。
『梁書』帝紀の牟太は、『三国史記』 百濟本紀で書かれてる「東城王」です。東城王の諱(いみな)は、なんと「牟大」です。牟大は東城王(501年歿)です。三国史記に書かれているではありませんか。
これは、似ているどころの話でも、そんな感じがするといった話でもないのですよ。あなた、牟太の先代王は都であり、文周王の諱(いみな)、牟都(475-477)なのですよ。さらに、都も完全に一致するのですよ。中朝史を紐解けば、倭国王興と武は、百済王だったことが判明したというわけです。では、倭王武=牟大(東城王))は、日本書紀歴代天皇のうち武烈天皇(497年後半12月~501年後半12月)に年代が重なりますから、倭王武は武烈天皇に投影されるべきです。それで、雄略に比定する説は、とんちんかんで、落第だったと断定できるのですよ。
大学の史学科教授であろうと、倭王武が雄略に比定する説にたいして、心からお悔やみ申し上げます。あくまでも、”説”にたいしてですよ。


 倭王武の上表文(宋書倭国伝後半502叙授)では、「臣の亡き済は、仇敵が天路を塞ぐことを実に憤り、百万の弦を鳴らして訴え、正義の声に感激し、まさに大挙せんと欲するも、突然に父兄が亡くなり、垂成の功をして一簣(モッコ一杯分)も獲れず。諒闇(一年の服喪)に在り、軍装の兵を動かさず、ここに休息するを以て未だ戦勝を得られず。今に至り、甲を練り、兵を治め、父兄の志を述べんと欲し、義士と勇士、文武に功を尽くし、白刃を前に交えるも、また顧みることなし。 もし帝德の覆戴を以てこの強敵を挫き、勝って方難を鎮めるも、前功に替えることなし。密かに開府儀同三司を自ら仮称し、その余も皆、各々に仮授(して頂ければ)、以て忠節を勧める」 ・・・・臣は蓋鹵王で、武の父、兄は文周王として読むと、すっきり判読できます。

漢代之後 -> 隋唐 -> 通典 -> 邊防一
《邊防一》
《邊防序》
《倭》
3 打開字典 倭:
宋武帝永初二年,倭王讚修貢職,至曾孫武,順帝昇明二年,遣使上表曰:「封國偏遠,作蕃於外,自昔祖禰,躬擐甲冑,跋涉山川,不遑寧處,東征毛人五十五國,西服眾夷六十六國,渡平海北九十五國。臣雖下愚,忝胤先緒,驅率所統,歸崇天極,道遙百濟,裝船理舫。而句麗無道,圖欲見吞,虔劉不已每致稽滯。臣欲練甲理兵,摧此強敵,剋靖方難,無替前功。竊自假開府儀同三司,其餘咸各假授。」詔除武使持節、安東大將軍、倭王。

宋武帝永初2年、倭王讃、祖孫武にいたるまで貢職を修める。順帝昇明2年、使いを送り上表して曰く「封国は遠く偏地にあり、海外に属国をつくっている。祖禰(始祖)の昔から自ら甲冑を身にまとい、山川を踏破して休む暇ももなく、東に毛人55か国を征伐し、西に衆夷66か国を服属し、海を渡って海北95か国を平定した。臣(倭王武)は愚鈍といえども先の上祖を胤を継ぎ、馬をかけてそれらの国々を統率している。天極(天子)に帰崇し、はるか百濟(遼西)に装舫を装治す。しかるに句驪(高句麗)は無道で、計りて見呑を欲し、無理に奪い取ったり、殺したりするのでいつも通交が滞ることになった。臣は兵を訓練してこの強敵を挫き、前になした功を変えることなく、難を晴らすべく打ち勝つことを欲し、開府儀同三司、その他のことごとく假授を賜うように・・・」
・・・・中国の皇帝は武を使持節、安東大將軍、倭王となす制詔を出した。

*開府儀同三司(かい ふぎどう さんし)①中国で、三公以外で開府を許された者。
②准大臣の別名。
③従一位の唐名。
さて、讃から武まで祖孫武にいたるまで貢職を修める。代々の王が朝見したことを示している。はたして倭國はどこにあった、どういう國だったのだろうか。

『晋書』安帝紀の義照九(413)「高句麗・倭国・・・・・並びに方物を献ず」

『晋書』 安帝紀(413) 「倭国、東晋安帝に貢物を献ずる」
   義熙(ぎき)中(405年 - 418年)の百済王は第18代・腆支王 (余映・405-420)著者は倭国王珍(梁書では餘映)に比定しています。倭国王珍、いったい、何を献上したのでしょうかね。
『晋書 義照起居注』(太平御覧に引用)「倭国、貂の皮、人参等を献ず。詔して細笙・麝香を賜う」とあります。
 さて、みなさん、貂(チョウ・てん)の毛皮が日本の献上品でしょうか?また、人参は朝鮮の特産物ですよ。

*笙(しょう)

*麝=じゃこうじか。麝香. ジャコウ. ジャコウジカの雄の下腹部から出る分泌物を乾燥させた香料。ムスク(英: musk)とも呼ばれる。.




貂とは音読みは、チョウ、訓読みは、てん。イタチ科テンのことです。 倭国の献上したてんの毛皮とは???これは、日本の産物ではありませんね。中国との間で朝鮮人参・毛皮を貿易していたのは女真族です。[元来女真にはいまさら窮乏するほど、経済らしい経済はなかった。「貂参(ちょうじん)の利」という言葉があった。女真族は古来、広大な女真地区に住み、山野から食料を採取した。山で採るものは人参である。森林で採るものは貂であった。いずれも漢人に売って高価な代価を得、それによって衣料のための絹、食物としての麦や粟を得ていた。」:韃靼疾風録 上 司馬遼太郎より引用。
貂参(ちょうじん)の利に依存して、自らは畑仕事をしないで、食料を中国から買い付けていたので、交易を遮断されればたちまち飢餓状態になりました。思うに貂と人参は交易で欠かせない商品だったのですね。献上したのが貂と人参だったとしたら、献上した国はいわゆる日本を意味する倭国ではありませんね。とんだ間違いなのです。「倭国、東晋安帝に貢物を献ずる」の記録は倭国であっても、日本列島の倭ではないのです。
貂は毛皮のために乱獲されていまではだいぶ数がへっています。日本でもツシマテンやホンドテンなどいますが、ツシマテンは天然記念物になっています。狐とテンのばかしあい?狐とタヌキのばかしあいなら聞いたことありますけど?〔軽い冗談ですが、忍者の里、伊賀では「狐七化け、狸八化け、貂九化け」という言葉があったと云われ、狐より狸が人を化かすのがうまいが、貂はさらに人を化かすのがうまいといった意味だそうです。伊賀の忍者たちが貂を妖術使いとして崇めていたのかもしれませんね。その真意は、毛皮にされるものか、と、一番逃げ隠れがうまかったのが貂だということでしょうか。

さて、 この倭国王、なりすました百済王のことではないかなあ、・・・と感じますよね。
『日本書紀』応神天皇8年春に王子直支、および25年に直支王(ときおう)とかかれる直支王(ときおう)が倭国王珍です。倭国になりすました百済はどこにあったのでしょう。倭王讃がおさめた世萬里修貢は貢職(世祖の大明六年)とも書かれています。貢献とはことなります。万里を副詞的に、「万里はるか朝貢を修める」と、通例、訳しています。疑問があります。万里を、遠いという比喩に使うことは、文例が多いのですが万里は、あの万里の長城の通称で、広く定着した言葉(固有名詞)でもありました。
そこで、「貢職を修め、新たに辺業を嗣ぐ」(武の上表)と重ねると、辺業とは辺地の仕事です。貢職とは(貢献とは違い)、何らかの労役の提供のことだと思われます。類例を上げてみましょう。貢女(こんにょ)とは女性奴隷を献上することです。貢献とは特産物や財物を献上(属国としての儀礼)することです。生口を貢献するのは戦争捕虜を差し出すことです。比較すれば、貢職と貢献は区別するべきです。そこで、ここでの貢職とは「万里長城の労役」のことと考えます。尉仇台は遼東郡に属し、幽州の遼西にいました。万里の長城の100kmほど東北です。百済は尉仇台から代々、万里の長城の労役に貢献してきたと読むのです。北魏、鮮卑族の王朝が中国北方を占有していましたから、南宋漢王朝は万里の長城の管理ができません。このため、百済が代々萬里の貢職を継いでいることを南宋」の高祖が賞賛したものと思われます。仇台系百済が万里の長城に労役を供した下地は十分にあるのです。
江戸時代の学者は百済がどこで勢力を伸ばしたのか、イメージできないので、ピントこないのです。ここに、図版を載せます。地図も信ぴょう性をドライブする証拠になるのです。

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《梁書》
《卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎》
52 文身國,在倭國東北七千餘里。人體有文如獸,其額上有三文,文直者貴,文小者賤。土俗歡樂,物豊而賤,行客不齎糧。有屋宇,無城郭。其王所居,飾以金銀珍麗。繞屋為緌,廣一丈,實以水銀,雨則流于水銀之上。市用珍寶。犯輕罪者則鞭杖;犯死罪則置猛獸食之,有枉則猛獸避而不食,經宿則赦之。

訳:「文身国は倭国の東北7000余里にあります。体は獣のように入れ墨していて、ひたいには三つの文様があります。その入れ墨がまっすぐな者は貴人で、小さいものは卑賤な者たちです。風俗はおおらかで、物は豊かですが、流浪者に食事を与えることはしません。家屋はあっても城郭はありません。その王の住まいは金銀や宝飾で華麗に飾られています。幅一丈もある溝に本当の水銀を貯め、雨水は水銀の上の流れます。市にはめずらしい宝飾を使った物品並べています。犯罪を犯した者は鞭打ちの刑に処し、死罪になったものは猛獣がいる檻に入れて食わせます。冤罪であれば、獣は避けて食べないので、一晩すぎると赦免します。」
文身国と倭国を使い分けしていますね。文身国は倭奴国の東北7000里です。そこで朝鮮東北部にあったという前提で読むことにします。女真族などが臭いますが、物が豊かで、市にめずらしい宝飾をならべていたとか、王の住まいが金銀や宝飾で飾られ、濠には水銀を流していたなど、貧困な女真族では考えられませんね。もし女真なら全部略奪品、または中国からの輸入品だったいうことでしょうか。
マルコポーロが黄金の国ジパングと書いたわけも、こんな王の住まいが金銀で飾られているなんていう、まるで神話のような話を耳にしたのかもしれませんね。
梁書は502年~557年の思簾が伝聞資料で書いたものですが、裏をとっていない瓦版(かわらばん)といった感じがします。今でいえばタブロイド判の夕刊紙です。ちょっと考えると、唐代に木版にするときに改ざんというか新規挿入などがありそうですね。
*宿=量詞 (夜を数える)泊,夜,晩
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南史は倭国の時々の朝貢記録と魏志倭人伝の倭の固定的記録を混雑しています。データソースがばらばらなのです。あるところは朝廷の文書庫に保存された暦的なデータ、あるところは典籍を引く尚古主義なデータといった塩梅です。
倭国を邪馬台国と思考した史書で、日本の文献資料学者を混乱させた元凶になっています。☟

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《南史》 650年~683年 李延寿撰
《卷一》
永初元年夏六月丁卯,皇帝即位於南郊・・・・・* 後漢の皇帝安帝(あんてい)即位(107年)
5 二年(108年)春正月辛酉祀南郊大赦丙寅斷金銀塗以揚州刺史廬陵王義真為司徒以尚書僕射徐羡之為尚書令揚州刺史己卯禁喪事用銅釘罷會稽郡府,二月己丑䇿試州郡秀孝于延賢堂倭國遣使朝貢{*倭王讚の遣使朝貢ならば永初(えいしょ)は、中国の南北朝時代、南朝宋の武帝(劉裕)の治世に使われた元号であり、永初二年は421年に当たる。)三月乙丑初限荊州府置將不得過二千人吏不得過一萬人州置將不得過五百人吏不得過五千人兵士不在此限夏四月己卯初禁淫祀除諸房廟其先賢以勲徳立祠者不在此例戊辰聽訟於華林園五月己酉置東宮屯騎歩兵翊軍二校尉官秋七月己巳地震九月己丑零陵王殂宋志也車駕率百僚臨于朝堂三日如魏眀帝服山陽公故事使兼太尉持節護喪事葬以晉禮冬十月己亥以涼州胡帥大且渠蒙遜為鎮軍大將軍開府儀同三司涼州刺史十一月辛亥葬晉恭皇帝于沖平陵車駕率百官瞻送
《卷二》
元嘉元年宋の文帝劉義隆の即位(424年)
20 {元嘉}十九年(442年)夏四月甲戌上以久疾愈始奉初祠大赦五月庚寅梁秦二州刺史劉真道龍驤將軍裴方眀破楊難當仇池平閏月都下水遣使巡行賑恤六月以大且渠無諱為征西大將軍涼州刺史封西河王秋七月甲戌晦日有蝕之九月丙辰有客星在北斗因為彗入文昌貫五車埽畢拂天節經天苑季冬乃滅冬十二月丙申詔奉聖之𦙍速議承襲及令脩廟四時饗祀并命蠲近墓五家供洒埽栽松柏六百株是歲蠕蠕河南扶南婆皇國並遣使朝貢西涼武昭王孫李寶始歸于魏,二十年春正月辛亥祀南郊二月甲申閲武於白下魏軍剋仇池夏四月甲午立皇子誕為廣陵王秋七月癸丑以楊文徳為征西將軍北秦州刺史封武都王,冬十月雷十二月壬午置藉田是歲河西高麗百濟倭國並遣使朝貢自去歲至是諸州郡水旱傷稼人大饑遣使開倉賑恤
32 大明 :中国南北朝時代、南朝宋、劉宋の孝武帝の年号(457年-464年)・・・四年(460年)春正月辛未祀南郊甲戌宕昌國遣使朝貢乙亥親耕藉田大赦庚寅立皇子子勛為晉安王子房為尋陽王子頊為歴陽王子鸞為襄陽王三月甲申皇后親桑于西郊夏四月丙午詔四時供限詳減大半辛亥太宰江夏王義恭等表請封岱宗詔不從辛丑詔以都下疾疫遣使存問并給醫藥其亡者隨宜賑恤五月丙戌尚書左僕射褚湛之卒秋七月甲戌光祿大夫開府儀同三司何尚之薨八月雍州大水甲寅遣加賑恤九月丁亥改封襄陽王子鸞為新安王冬十月庚寅遣新除司空沈慶之討緣江蠻十一月戊辰改細作署令為左右御府令丙戌復置大司農官十二月辛丑幸廷尉寺宥繫囚魏遣使通和丁未幸建康縣原放獄囚倭國遣使朝貢是歲魏和平元年 北魏の文成帝即位(460年)
34 六年春正月辛卯祀南郊是日又宗祀文皇帝于眀堂以配上帝大赦乙未置五官中郎將左右中郎將官二月乙卯復百官祿三月庚寅立皇子子元為邵陵王壬寅以世子興為安東將軍國王夏四月庚申新作大航門五月丙戌置凌室于覆舟山脩藏氷之禮六月辛酉尚書左僕射劉延孫卒秋七月甲申地震有聲如雷兖州尤甚於是魯郡山搖者二乙未立皇子子雲為晉陵王八月乙丑置清臺令官九月制沙門致敬人主乙未以尚書右僕射劉遵考為左僕射以丹陽尹王僧朗為右僕射冬十月丁卯詔上林苑內士庶丘墓欲還合葬者勿禁十一月己卯陳留王曹䖍秀薨七年春正月癸未詔剋日於𤣥武湖大閲水師并巡江右講武校獵丁亥以右衛將軍顔師伯為尚書左僕射二月甲寅車駕巡南豫南兗二州丁巳校獵烏江己未登烏江縣六合山壬戌大赦行幸所經無出今年租布賜人爵一級女子百戸牛酒郡守邑宰及人夫從蒐者普加霑賚又詔蠲歴陽郡租輸三年遣使巡慰問人疾苦癸亥行幸尉氏觀溫泉壬申車駕至都拜二廟乃還宮夏四月甲子詔自今非臨軍戰陣一不得專殺其罪人重辟者皆依舊先上須報有司嚴加聽察犯者以殺人罪論五月丙子詔自今刺史守宰動人興軍皆須守詔施行惟邊隅外警及姦釁內發變起倉卒者不從此例六月戊申蠕蠕高麗等國並遣使朝貢秋七月乙亥進高麗王高璉位車騎大將軍開府儀同三司八月乙丑立皇子子孟為淮南王子産為臨賀王車駕幸建康秣陵縣訊獄囚九月庚寅以南徐州刺史新安王子鸞為兼司徒乙未幸廷尉訊獄囚丙申立皇子子嗣為東平王冬十月壬寅皇太子冠賜王公以下帛各有差戊申車駕巡南豫州奉太后以行癸丑行幸江寧縣訊縣囚加車騎將軍揚州刺史豫章王子尚開府儀同三司癸亥以開府儀同三司東海王禕為司空加中軍將軍義陽王昶開府儀同三司己巳校獵於姑熟十一月丙子曲赦南豫州殊死以下巡幸所經詳減今歲田租乙酉詔祭晉大司馬桓溫征西將軍毛璩墓上於行所訊溧陽永世丹陽縣囚癸巳祀梁山大閲水師於中江有白雀二集華蓋有司奏改元為神雀詔不許乙未原放行獄徒繫浙江東諸郡大旱十二月壬寅遣使開倉賑恤聽受雜物當租丙午行幸歴陽甲寅大赦賜歴陽郡女子百戶牛酒蠲郡租十年己未加太宰江夏王義恭尚書令於博望梁山立雙闕癸未至自歴陽八年春正月辛巳祀南郊是日還宗祀文帝于眀堂甲戌詔曰東境去歲不稔宜廣商貨遠近販鬻米粟者可停道中雜稅其以仗自防悉勿禁夏閏五月壬寅以太宰江夏王義恭領太尉庚申帝崩於玉燭殿時年三十五七月丙午葬于丹陽秣陵縣巖山景寧陵帝末年為長夜之飲毎旦寢興盥嗽畢仍復命飲俄頃數斗憑几惛睡若大醉者或外有奏事便肅然整容無復酒色外內服其神眀莫敢弛惰
《卷三》
13{ 昇眀元年 宋の順帝劉準即位(477年)・・・・・}二年(478年)春正月丁卯沈攸之敗己巳華容縣人斬攸之首送之辛未雍州刺史張敬兒剋江陵荊州平丙子解嚴以柳世隆為尚書右僕射蕭道成旋鎮東府二月庚辰以王僧䖍為尚書令王延之為左僕射癸未蕭道成加授太尉以褚彥回為中書監司空丙戌撫軍將軍揚州刺史晉熙王夑進號中軍將軍三月己酉朔日有蝕之夏四月南兗州刺史黃回貳于執政賜死五月戊午以國王武為安東大將軍六月丁酉以輔國將軍楊文𢎞為北秦州刺史封武都王秋九月乙巳朔日有蝕之丙午加太尉蕭道成黃鉞都督中外諸軍事太傅領揚州牧賜殊禮以揚州刺史晉熙王夑為司徒冬十月壬寅立皇后謝氏十一月立故武昌太守劉琨息頒為南豐縣王癸亥誅臨澧侯劉晃甲子改封南陽王翽為隨郡王十二月丙戌皇后見于太廟
《卷七十九》
10 倭國其先所出及所在事詳北史,其官有伊支馬次曰彌馬獲支次曰奴往鞮{*,注:邪馬壹國・・・官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮},人種禾稻紵麻蠶桑織績有薑桂橘椒蘇出黑雉真珠青玉,有獸如牛名山鼠,又有大虵吞此獸,虵皮堅不可斫其上有孔乍開乍閉時或有光射中{*大蛇の皮で行灯を作っている}而虵則死矣物産略{*虵則死という物産名},與儋耳朱崖同地氣溫暖風俗不淫男女皆露䯰富貴者以錦繡雜采為帽似中國胡公頭食飲用籩豆,其死有棺無槨封土作冢人性皆嗜酒俗不知正歳多夀考或至八九十或至百歳,其俗女多男少貴者至四五妻賤者猶至両三,妻婦人不婬妬無盜竊少諍訟若犯法輕者沒其妻子重則滅其宗族,晉安帝時有倭王讚遣使朝貢{晋の安帝時とは、在位396年ー404年)の期間です。晋の安帝とは後漢の安帝とも違います。晋が建国されたのは265年ですから、晋の安帝とは、後漢の安帝(107年)ではありえません。かつ、宗の武帝永初二年(421年)とも整合しません。『晋書』安帝本紀の「義熈(ぎく)九年(413)是の歳、高句麗・倭国及び西南夷銅頭大師並びに方物を献ず」とある義熙(ぎき)は、東晋、安帝司馬徳宗の治世に使用された元号で405年 - 418年になります。この巻二にある宋の文帝劉義隆の年号元嘉十九年(442年)十二月壬午置藉田是歲河西高麗百濟倭國並遣使朝貢は倭王讃の朝貢とは一致しません。}

及宋武帝永初二年(421年)詔曰倭讚逺誠宜甄可賜除授,{即位の奉賀朝貢す。}文帝元嘉二年(425年)讚又遣司馬曹達奉表獻方物.死弟立遣使貢獻自稱使持節都督百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍倭國王表求除正詔除安東將軍倭國王珍又求除正洧等十三人平西征虜冠軍輔國將軍等號詔並聽之二十年國王濟遣使奉獻復以為安東將軍倭國王二十八年加使持節都督新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍如故并除所上二十三人職死世子遣使貢獻孝武大明六年詔授安東將軍倭國王興死弟立自稱使持節都督百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事安東大將軍倭國王順帝昇明二年遣使上表言自昔祖禰躬擐甲胄跋涉山川不遑寧處東征毛人五十五國西服衆夷六十六國陵平海北九十五國王道融泰廓土遐畿累葉朝宗不愆于歳道逕百濟裝飾船舫而句麗無道圖欲見吞臣亡考濟方欲大舉奄喪父兄使垂成之功不獲一簣今欲練兵申父兄之志竊自假開府儀同三司其餘咸各假授以勸忠節詔除武使持節都督新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事安東大將軍王齊建元中除武持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事鎮東大將軍梁武帝即位進號征東大將軍,其南有侏儒國人長四尺又南有黑齒國裸國去四千餘里船行可一年至又西南萬里有海人身黒眼白裸而醜其肉羙行者或射而食之,文身國在東北七千餘里人體有文如獸其頟上有三文文直者貴文小者賤土俗歡樂物豐而賤行客不齎糧有屋宇無城郭國王所居飾以金銀珍麗繞屋為壍廣一丈實以水銀雨則流于水銀之上市用珍寳犯輕罪者則鞭杖犯死罪則置猛獸食之有枉則獸避而不食經宿則赦之大漢國在文身國東五千餘里無兵戈不攻戰風俗並與文身國同而言語異
《卷七十九考證》
2 倭國傳安東大將軍建元中除武持節都督新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事鎮東大將軍○鎮東大將軍上閣本脫去三十字今從監本豫州蠻傳西陽有巴水蘄水希水赤亭水西歸水謂之五水○蘄監本訛斬今從閣本。
訳文工事中


いいですか、世修貢職とあるように代々継承していた献上だということを重く解釈してください。日本の歴代の天皇が代々貢職を継承したという記述はひとつもありません。少なくとも、「倭の五王」を日本書紀の紀年体をもとに比定することは詰みました。了!

結章
Under Construction
   尉仇台百済王系譜  天照大神系
温祚慰礼百済王系譜
 日本書紀 人物対比  事件・考古学の実年での対比
     1.温祚王(18-28) 《国祖》    
     2.多婁王(28-77)    
     3.己婁王(77-128)    
     4.蓋婁王(128-166)    
   尉仇台
166- 214) 《国祖》
[5]代 肖古王
     
   简位居
(位居・ 214-238?)
>[6]代 仇首王
     
   麻余王
(麻余・248-249?)
7.沙伴王(234)(沙沸王、沙伊王の別名?)     
   依慮王
(依慮・235-285)
 8.古爾王(234-286)  
   依羅王
(依羅・286-346)
臺與のあと
 9.責稽王(286-298)    
   玄王  10汾西王(298-304)    
   余蔚王 11. 比流王(304-344)    
   孱王  12.契王(344-346)?*王朝断絶    
 13  近肖古王
(余句・346-375 )
肖古王
   ①神功皇后摂政36年春三月乙亥朔、遣斯摩宿禰、于卓淳國。斯麻宿禰者、不知何姓人也。・・・・然猶今付使者、尋貢獻耳。」於是爾波移、奉事而還告志摩宿禰。便自卓淳還之也。
②39年春三月、以荒田別・鹿我別爲將軍、則與久氐等・・・
於是、其王肖古及王子貴須、亦領軍來會、時比利・辟中・布彌支・半古四邑自然降服。
③七枝刀送られる。/五十二年秋九月丁卯朔丙子、久氐等從千熊長彥詣之、則獻七枝刀一口・七子鏡一面・及種々重寶、仍啓曰「臣國以西有水、源出自谷那鐵山、其邈七日行之不及、當飲是水、便取是山鐵、以永奉聖朝。」乃謂孫枕流王曰「今我所通、海東貴國、是天所啓。是以、垂天恩割海西而賜我、由是、國基永固。汝當善脩和好、聚歛土物、奉貢不絶、雖死何恨。」自是後、毎年相續朝貢焉。

五十五年、百濟肖古王薨。
神功皇后52年9月肖古王から七枝刀送られる。 (369年)
木羅斤資=武内宿禰
(蘇我氏の祖)
 14  近仇首王
(余須・375-384)
倭国王讃(王須)
 漢山遷宮  ①神功皇后摂政49年《王肖古及王子貴須》、
55年、百濟肖古王薨。
②神功皇后摂政56年《百濟王子貴須、立爲王》
③神功皇后摂政64年《百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王》


 15  枕流王
(余暉・384-385)
  ①神功皇后52年秋九月丁卯朔丙子 《孫枕流王》
神功皇后64年、百濟國貴須王薨。王子枕流王立爲王
②神功皇后65年、《百濟枕流王薨。王子阿花、年少。叔父辰斯、奪立爲王。》
 20安康天皇
 16  辰斯王
(不伝・385-392)
     21.雄略天皇
 17  阿莘王
 (余蔚・392-405)
阿花王
  ①応神天皇三年冬十月辛未朔癸酉、「東蝦夷悉朝貢。卽役蝦夷而作厩坂道。十一月、處々海人、訕哤之不從命。訕哤、此云佐麼賣玖。則遣阿曇連祖大濱宿禰、平其訕哤、因爲海人之宰、故俗人諺曰佐麼阿摩者、其是緑也。是歲、百濟辰斯王立之、失禮於貴國天皇。故遣紀角宿禰・羽田矢代宿禰・石川宿禰・木菟宿禰、嘖讓其无禮狀。由是、百濟國殺辰斯王以謝之、紀角宿禰等、便立阿花爲王而歸。」

②応神天皇八年春三月、「百濟人來朝。百濟記云「阿花王立旡禮於貴國、故奪我枕彌多禮・及峴南・支侵・谷那・東韓之地。是以、遣王子直支于天朝、以脩先王之好也。」
③応神天皇八年春三月、百濟人來朝。百濟記云「阿花王立旡禮於貴國、故奪我枕彌多禮・及峴南・支侵・谷那・東韓之地。是以、遣王子直支于天朝、以脩先王之好也。」
④応神天皇十六年春二月、「王仁來之。則太子菟道稚郎子、師之、習諸典籍於王仁、莫不通達。所謂王仁者、是書首等之始祖也。是歲、百濟阿花王薨。天皇、召直支王謂之曰「汝返於國、以嗣位。」
 23.顕宗天皇

『日本書紀』(別伝:顕宗天皇は父を雄略天皇に殺される話が書かれる。つまり、阿莘王が顕宗天皇、辰斯王が雄略天皇、枕流王が安康天皇の役回りになる。)
 18  腆支王
 (余映・405-420)
倭国王珍(餘映)直支
 義熙405-418年 ①応神天皇卅九年春二月、「百濟直支王、遣其妹新齊都媛以令仕。」
②応神天皇廿五年、「百濟直支王薨、卽子久爾辛立爲王。王年幼、木滿致執國政、」
 応神39年 新斉都姫遣わす
 19  久爾辛
(不伝・420-427)
     
 20  毗有王
(余毗・427-455)
     
 21  蓋鹵王
(余慶・455-475)
倭国王済(慶)
 元嘉中424-452年 ①雄略天皇二年秋七月 百濟新撰云「己巳年、蓋鹵王立。天皇、遣阿禮奴跪、來索女郎。百濟、莊飾慕尼夫人女、曰適稽女郎、貢進於天皇。 
②雄略天皇五年夏四月、百濟加須利君蓋鹵王也、飛聞池津媛之所燔殺適稽女郎也而籌議曰「昔貢女人爲采女而既無禮、失我國名。自今以後、不合貢女。」乃告其弟軍君崑支君也曰「汝宜往日本、以事天皇。」軍君對曰「上君之命、不可奉違。願賜君婦而後奉遺。」加須利君、則以孕婦嫁與軍君曰「我之孕婦、既當産月。若於路産、冀載一船、隨至何處、速令送國。」遂與辭訣、奉遣於朝。②六月丙戌朔、孕婦果如加須利君言、於筑紫各羅嶋産兒、仍名此兒曰嶋君。於是軍君、卽以一船送嶋君於國、是爲武寧王。百濟人、呼此嶋曰主嶋也。秋七月、軍君入京、既而有五子。百濟新撰云

③廿年冬、高麗王、大發軍兵、伐盡百濟。爰有小許遺衆、聚居倉下、兵糧既盡、憂泣茲深。於是、高麗諸將、言於王曰「百濟、心許非常、臣毎見之、不覺自失、恐更蔓生。請遂除之。」王曰「不可矣。寡人聞、百濟國者爲日本國之官家、所由來遠久矣。又其王入仕天皇、四隣之所共識也。」遂止之。百濟記云「蓋鹵王乙卯年冬、狛大軍來、攻大城七日七夜、王城降陷、遂失尉禮、國王及大后、王子等、皆沒敵手。
 471年 埼玉稲荷山鉄剣
     江田船山古墳
 22  文周王
(牟都・475-477)
倭国王興(牟都)
熊津遷宮
 

元嘉中424-452年
『日本書紀』
 ①応神天皇廿一年春三月、天皇、聞百濟爲高麗所破、以久麻那利賜汶洲王、救興其國。時人皆云「百濟國、雖屬既亡、聚夏倉下、實頼於天皇、更造其國。」汶洲王、蓋鹵王母弟也。日本舊記云「以久麻那利、賜末多王。」蓋是誤也。久麻那利者、任那國下哆呼唎縣之別邑也。
応神天皇廿三年夏四月、「百濟文斤王、薨。天王、以昆支王五子中第二末多王」
 
 23  三斤王
(不伝:477-479)
   ①応神天皇廿三年夏四月、百濟文斤王、薨。天王、以昆支王五子中第二末多王・幼年聰明  
 24  東城王
(牟太・479-501)
倭王武
 
建元(けんげん)南齊 太祖 高帝 蕭道成 479年 - 482年
永明(えいめい)は、南北朝時代、南斉の武帝蕭賾の治世に行われた年号。483年 - 493年。永明2年、北魏の鮮卑賊を撃退して朝獻する。
①武烈天皇 四年夏四月、拔人頭髮、使昇樹巓、斮倒樹本、落死昇者、爲快。是歲、百濟末多王無道、暴虐百姓。國人遂除而立嶋王、是爲武寧王。百濟新撰云「末多王無道、暴虐百姓、國人共除。武寧王立、諱斯麻王、是琨支王子之子、則末多王異母兄也。琨支、向倭時至筑紫嶋、生斯麻王。自嶋還送、不至於京、産於嶋、故因名焉。今各羅海中有主嶋、王所産嶋、故百濟人號爲主嶋。」今案、嶋王是蓋鹵王之子也、末多王是琨支王之子也。此曰異母兄、未詳也。
(斯麻王=武寧王の異母兄とする。)
25.武烈天皇(軍君昆支の二男
 25  武寧王
(余隆・501-523)
南扶余遷宮

天監(てんかん)502年 - 519年。=は、南北朝時代、梁の武帝蕭衍の治世に行われた最初の元号。  
普通(ふつう)は、南北朝時代、梁の武帝蕭衍の治世に行われた2番目の元号。520年 - 527年
 
 26  聖王
(余明・523-554)
   ①欽明2年夏4月 《聖明王曰「昔我先祖速古王・貴首王之世、安羅・加羅・卓淳旱岐等、初遣使相通厚結親好・・ 29.欽明天皇 
527年(継体21)磐井の乱(いわいのらん); 八女の遺跡群
 27  晶王
(余昌・554-598)
     
 28  恵王
(余恵・598-599)
威徳王とも、
   
 29  法王
(余宣・599-600)
     
 30  武王
(余璋・600-641)
     
 31  義慈王
(義慈・641-660)
羅唐軍に敗戦
   ①齊明天皇元年 ・・・既以義慈王・王后・太子、爲虜而去。
②齊明天皇 六年冬十月 ・・・百濟王義慈・其妻恩古・其子隆等・其臣佐平千福・國辨成・孫登等凡五十餘
 皇極天皇・孝徳天皇。
皇極重祚(ちょうそ)齊明天皇。
寶女王(たからのひめみこ)こと皇極元年は641年、643年に蘇我の入鹿が殺される。王后・太子とは、母、善花、太子は皇極の実弟643年に孝徳天皇即位。
書記:斉明元年は間違い。
*書記のルビ=嶋君(せまきし・)武寧王(むねいおう)・義慈(ぎし)

歴代天皇 漢風諡と和風諡
ウィキペディア 天皇の一覧

上の系図:出典:宮内庁:
 図表13   5世紀の修正年表    ◯印は即位年の翌年が元年
                    他は即位年が元年
 
天皇 修正
在位
年数
     即位年   ~  死亡年
              または退位年
 
17  仁徳 23.0  410年後半 1月~433年前半 1月  
18  履中 3.0  433年後半 2月~436年前半 3月  
19  反正 2.5  436年後半 1月~438年後半 1月  
20  允恭 21.0  439年前半12月~459年後半 1月  
20  安康 ◯ 459年12月 ~ 462年 8月  
22  雄略 23
◯ 462年11月 ~ 485年 8月  
23  清寧   486年 1月 ~ 490年 1月  ?
24  顕宗 1.5  491年前半 1月~492年前半 4月  
25  仁賢 5.5  492年後半 1月~497年後半 8月  
26  武烈 4.0 ◯497年後半12月~501年後半12月  
http://www7b.biglobe.ne.jp/~iichirou/sub13b.html

  図表11  中国暦採用の時期

  │ 修正後の紀年 │          │ 修正前の紀年 │
  │        │  半 年 暦   │        │
  ├────────┤          │        │
  │439  允恭 │    ┌─────┼────────┤
  │        │    │     │449  安康 │
  │        │    │     ├────────┤
  │        │    │     │452  雄略 │
  ├────────┤───┘     │        │
  │460  安康 │          │        │
  ├────────┤   中 国 暦  │        │
  │463  雄略 │          ├────────┤
  │        │          │475  清寧 │
  │        │      ┌───┼────────┤
  │        │      │   │480  顕宗 │
  ├────────┤      │   ├────────┤
  │486  清寧 │      │   │483  仁賢 │
  ├────────┤─────┘   │        │
  │491  顕宗 │          │        │
  ├────────┤          ├────────┤
  │492  仁賢 │   半 年 暦  │493  武烈 │
  ├────────┤          │        │
  │498  武烈 │          │        │
  ├────────┤─────────┼────────┤
  │502  継体 │          │502  継体 │
  │        │   中 国  暦 │        │
  │        │          │        │

紀年の半年暦を修正しても実年にはならない。

『日本書紀』によれば、推古天皇の28年(620年)に、聖徳太子と嶋大臣(蘇我馬子)が国史を編修したといいます。

   是歳(ことし)、皇太子(ひつぎのみこ)・嶋大臣(しまのおほおみ)、共(とも)に議(はか)りて、天皇記(すめらみことのふみ)(およ)び国記(くにつふみ)、臣(おみのこ)(むらじ)伴造(とものみやつこ)国造(くにのみやつこ)百八十部(ももあまりやそとものを)(あわせ)て公民等(おほみたからども)の本記(もとつふみ)を録(しる)す。

卑弥呼の卑は鹎だった!ひよこがキーワード・ベミといいます。
随書 俀國傳 俀王姓阿每,字多利思北孤,號阿輩雞彌、随書俀國傳の有名なアメノ.タリシヒコの姓名です。王名は阿輩・彌ですが、この雞は家禽(家鸡)、ニワトリという意味です。彌は「あまねし」、どうしたことか卑彌呼にかさなってきます。転ずれば、文型から、鳥から生まれた一族のということになります。いろいろと候補はあるでしょうが、雞彌の雛(ひなzhī)と、卑の文字は同意とみることができます。鹎(ひなどり)の省略文字が卑なのです。
卑弥呼→鹎彌句
bēi〕ひなどり、と訳します。しかし、どういう意味でしょう?随書 百済伝で、「婢云:「有物狀如雞子,來感於我,故有娠也。」王舍之。」とあります。これは、河伯の女の言葉です。「雞子(ひよこ)のような形をしたものが入ってきました。それに感じてわたしは妊娠したのです。」、王に伝えます。これが受胎の原因ということですが、雞子とは直訳すればニワトリの子です。この短い神話は高句麗建国開祖の朱蒙の誕生神話で、いわゆる天光受胎神話と呼ばれています。卵生神話の一つです。日本でも平安時代までは常識的な物語でした。続日本紀には和氏の上奏文、「それ百済の遠祖、都慕王は河伯の女日精に感じて生めるところなり。皇太后(高野朝臣新笠)はその後なり」・・・日精に感じて生まれたのは都慕王、高句麗の太祖です。都慕王とは別名、東明聖王、古事記では大国主、またの名を葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)と言います。これらは高朱蒙の別称です。なんと、記紀・神代の物語の主役中の主役です。
さて、随書の続きですが、「棄之*廁溷,久而不死,以爲神」、豚小屋に捨てたが死ななかったので、王は以て神となした。」、八千矛神が日神の子だと認めたのですね。実は、日精または日神が三本足の烏(カラス)なのです。 鹎bēi〕は中国辞書では、黒褐色の羽と白い腹をもつ鳥です。

どうやら、卑彌呼と卑彌弓呼の奉じる遠祖(太祖)が共に都慕王(東明聖王)すなわち高朱蒙だったということになります。これだと、卑彌呼に敵対する男王が卑彌弓呼と、弓の一字しか違わなくても納得のゆく説明がつくのです。卑彌呼も卑彌弓呼も河孫(河伯の女から生まれた子孫)だったのです。卑彌呼が扶余女王、卑彌弓呼が高句麗王です。元扶余は公孫氏の配下で高句麗と果敢に戦いました。高句麗とは昔から敵同士です。そして、タラシヒコも、雞彌です。だいたい330年ほど卑彌呼より後の時代ですが、朱蒙を太祖とする末裔だったという驚くべきことが暗示されます。

鹎彌は雞彌と同じで2文字2音ですが、「呼」は「句」の変体文字です。
あなた、「鹎彌句」が元字だったのです。
私たちがヒミコと通称してもまったく問題はありませんが元字は意味を取らねばなりません。
百済も高句麗も扶余から派生した国です。狗古智卑狗の卑も同じです。南の狗奴国も句麗國から分離した国だったのです。変換すると「句臣智鹎句」とすると意味が通ります。



の本字は

bēiの漢字は雛(ひな)で、日本の辞書にはありません。
新華辞典 鹎(鹎)bēi
1.主に黒褐色の羽と白い腹、短くて細い脚を持ち、果物や昆虫を食べる鳥の属。
(鳥類的一屬,羽毛大部為黑褐色,腹白,腿短而細弱,食果實和昆蟲
ーーーーー

東明聖王(とうめいせいおう、トンミョンソンワン、朝鮮語: 동명성왕)は、高句麗の初代とされる王(在位:紀元前37年 - 紀元前19年)であり、東明王、都慕王とも呼ばれる。姓は高、諱は朱蒙(しゅもう、朝鮮語주몽チュモン)または鄒牟(すうむ、チュモ、朝鮮語: 추모)、衆解(しゅうかい、チュンゲー、朝鮮語: 중해)とされる。
『ウィキペディア(Wikipedia)』

広開土王碑=鄒牟(チュム)

高句麗本紀=東明聖王、姓は高氏名は朱蒙、別称 鄒牟、象解

新撰姓氏録=鄒牟(すむ)、須牟祁(すむき)王の後なり。須牟祁王が第一番目の須佐之男=初代東明聖王

新撰姓氏録=都慕王(つぼおう)

続日本紀=仲牟王、都慕王
古事記神代=五人いる大国主命の一人
古事記神代=葦原色許男

河伯(ハベク)の女、名を柳花(ゆふぁ유화)という。(三国史記)河伯族の王の娘。

河伯の女=古事記では沼河比賣(ぬなかはひめ)のお名前で歌を一首詠っています。


简位居(かんいご)=简は姓、位居は”王”。すなわち、简王です。(尉仇台の嫡子。魏志倭人伝・景初2年の難升米の実名?
居:付属形態素 (身を)置く,任じる.【거・コ】
用例
身居要职=要職に身を置く.
以功臣自居=功臣をもって自任する.

位居:位する【”위거イゴ】
ある地位につく

*廁溷(しこん)=廁所
(人糞を豚に食わせていたので厠と豚小屋は同じ構造物になっていた。)=便所のこと

八咫烏は日本のオリジナルではありませんでした。
このカラスには足が三本あるのが特徴です。朝鮮では、三足烏(サムジョゴ)と言われています。紀元前60年ごろから高句麗の朱蒙のトーテムだったのです。中国の桓仁満族自治県の五女山にある高句麗始祖碑の冠帽に描かれている三足烏。日神のシンボルだったのですね。JAFは八咫烏に本家があることを知らなかったようです。
東明王、都慕王とも呼ばれ、姓は高、諱は朱蒙。卒本(朝鮮語版)(チョルボン、現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県)に亡命して高句麗を建国しました。
Photo中:
「三足烏」形象(中国前漢時代の壁画) ⇒⇒⇒



Photo下:
熊野本宮大社 八咫烏 ⇒⇒⇒

足が三本、足の指も三本!黒褐色の羽と白い腹、短くて細い脚を持つ・・・これが特徴です。




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