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工事中ーーーー2020/04.03
高句麗神話 鄒牟王(朱蒙王)物語の一節
高句麗~魚の橋

 兄王子たちは またもや朱蒙を殺そうと計画を練り始めていました。密かにそれを知った朱蒙の母は、息子にこう告げました。

「この国の人々は、今まさにあなたを殺そうとしています。あなたならばどこへ行っても立派にやっていける。このままこの国に留まって恥辱を受けるよりは、遠くへ行って有為な仕事を成しなさい」

 朱蒙は国を出る決意をしましたが、母を連れて行くことは出来ません。恐らくは今生の別れとなるでしょう。朱蒙が辛そうにしていると、母は

「私のことは心配いりません」

と言って、五穀の種を包んで渡してくれました。新しい国で蒔まくように、というのでしょう。

 鳥伊、摩離、陜父という三人の賢い男が友となり、朱蒙の旅立ちに同行しました。四人は馬を駆って淹滞という河に至りましたが、橋も船もないので渡ることが出来ません。後ろからは兄たちの差し向けた騎兵隊が追ってきているというのに。

 朱蒙は馬鞭で天を指し、「ああ、 私はここで死ぬわけにはいかない」と嘆きながら言いました。

我は天帝の孫、河伯の外孫なり。今、難を逃れてここに至ったが、追手が迫っている。天神地祇よ、この孤子を憐れみて、今すぐにこの河を渡らせたまえ!」

 そして弓で水面を打ちますと、どうしたことでしょう、魚やスッポンが沢山浮かび出てきて、頭を並べて橋を作りました。河伯のお祖父さんが願いを聞いてくれたのでしょうか。

 朱蒙たちは魚の橋を急いで渡りました。次いで追手たちもその橋に馬を走らせましたが、橋はたちまち散り散りに消え失せて、追手たちは水の底に沈んでしまいました。

 さて、こうして東扶餘を逃れた朱蒙でしたが、別れの悲しみのあまり、母から渡された五穀の種を忘れて出てきていました。

 朱蒙が大樹の下で休みながらそんなことを思い出していると、二羽の鳩が飛んでくるのが見えました。鳩の喉が膨らんでいたので、朱蒙は(あれはきっと、忘れた五穀の種を運んできた母上の使いに違いない。)と咄嗟にひらめき、弓を引いて一矢で二羽をしとめました。そして喉を開いてみますと、果たして、五穀の種が入っています。それを取り出してから水を吹きかけますと、鳩は生き返って飛び去っていきました。
亀の橋渡りはどこの河だったのか?

好太王碑から探る1.第一部
①「高句麗」の建国神話・伝説
②高麗王」第1代「鄒牟王」(「朱蒙」〔始祖 東明聖王〕)、第2代「儒留王」(「琉璃  明王」)、第3代「大朱留王」(「大武神王」)までの治績③ 第19代「広開土王」の即位の生涯(18歳~39歳)の治績
④「広開土王」の本碑の建立(王の死2年後-415年)の経緯
 
「惟昔始祖鄒牟王之創基也出自出北不余天帝之子母河伯女郎剖卵降世生而有徳□□□□□命駕巡幸南下路由扶余奄利大水王臨聿言曰我是皇天之子母河伯女郎鄒牟王為我連葭浮亀應聲即為連葭浮亀然後造渡住沸流谷忽本西城山上而建都焉不楽世位天遣黄龍来下迎王王於本東岡履龍首昇天顧命世子儒留王以道興治大朱留王紹承基業?至十七世孫國岡上廣開土境平安好太王二九登祚号為永楽太王恩澤□于皇天威武振被四海掃除不軌庶寧其業國富民殷五穀豊熟昊天不弔卅有九宴駕棄國以甲寅年九月廿九日乙酉遷就山陵於是立碑銘記勲績以示後世焉其□曰」(第1面1行1字~6行39字)


好太王碑
「昔、「始祖鄒牟王は、「高句麗」を建国した。父は北扶余の天帝、母は河伯女郎を出自とする。鄒牟王は卵を割いて生まれてきて、生まれながら徳があり聖神となった。王は御輿に乗って王城から南下した。途中、扶余の奄利大水を渡り、港に着いたとき、王は『我は天子の子で母は河伯女郎の子であり、名は「鄒牟王」である』と名乗った。(続けて)『葭(ヨシ)と亀に向って、自分のために出て、浮き橋をかけよ」と言われた。(すると、葭と亀が出てきて、浮き橋を掛け、王は無事渡ることができた。その後、王は沸流谷の忽本(卒本)にある西側山の上に都を創建した。王はしばらく国を治めたが)この世(人間としての世)を楽しまなくなったので、天の神が黄龍を遣わされ王を迎えに来られた。王は王都のある東側の山の上から黄龍の首にまたがって天に昇っていかれた。天子(始祖「鄒牟王」)の遺言に従い、世子(太子)の儒留 王(第2代「琉璃王」)が後を継ぎ、善政を行った。「大朱留王」(第3代「大武神王」は前王の政治を承継した。昔(初代)から王位が続き、十七世孫の「廣開土王」に至って、王号を永楽大王とし、王の威光は広く天下に轟(とどろ)いた。王〔廣開土王〕)は良からぬことを取り除き、庶民が安心して生業に励み、(その結果)国が富み、民衆も豊かになった。(ところが)天の神は王(廣開土王)に憐れみを持たず、王は39歳にして天に召された。長壽王〔土王〕)は414年9月29日に、王(廣開土王)の遺体を山の陵墓に置き、ここに碑を立て、王(廣開土王)功績を銘記する。ここに、王(廣開土王)の功績を後世に伝えよ。」
朱蒙の逃走経路は下図のようであった。
1)朱蒙が歩行だったのか、馬に乗ってなのか、推理するほかなかったが、好太王碑では輿にのって移動したとある。輿にのっての移動ならば、山道とは考えられず、朝鮮古街道であると判断できる。
2)東夫餘城から南は狗奴国、現ソウルになる。もし、須佐之男のいる玄菟東北部沸流水に向かったなら東になるのだが、好太王碑での逃走経路は南である。
3)扶余の奄利大水とは、夫餘とは百濟を指したもの、奄利大水とは今の漢江のことである。奄利水・阿利水・於利水(オリス))・帯水・郁利河(百済本記)・阿利那禮河(日本書紀)などの古名があるのは漢江(ハンガン)>。中世(統一新羅以後)には礼成江(イェソンガン)と呼ばれた。

以上を図式化してみる。以下。


赤い線が朱蒙の逃走経路。青い千は漢江(ハンガン)

朱蒙の逃走経路は赤線、藁離國を出て南下、ソウル市中心を流れる奄利水(漢江)を渡る。したがって、一旦はソウルに逃げ、その後卒本こと根の国、五女山へ船で北上したことになるのです。*始祖 東明聖王:在位紀元前37年」*北夫餘:(中国東北部(旧満州)の 「松花江」の北) ~19年〕「河伯女郎」は、「河伯族長の娘、河の神とはこじつけにすぎない。「女郎」は王の侍婢ということ。日本の大奥での正室(后)でない妃である。したがって、女郎とは敬称であるかどうかは微妙なところだろう。*奄利水・阿利水・於利水(オリス))・帯水・郁利河(百済本記)・阿利那禮河(日本書紀)などの古名があるのは漢江(ハンガン)>。中世(統一新羅以後)には礼成江(イェソンガン)と呼ばれた。高麗時代の王都・松嶽(ソンアク)・現在の開城(ケソン)のことで礼成江(イェソンガン)の河口の北岸、現在の北朝鮮の主要都市である。
広開土王碑と河伯女郎

 広開土王碑の「百残」とは百済の百(ぺく)であり、中国人は阿夫餘と呼んだ。したがって、「百残」と「阿残」と同義であり、広開土王が「海を渡って百残」を攻めたのは、漢口流域の夫餘人を攻めたということであり、日本列島の倭人が攻めてきたということではない。大同江を出発して船で漢江に軍を進めたに過ぎなず、西海の海を渡って列島の倭国を攻撃した事実はない。広開土王碑では「倭」と書くが「倭国」とは書かない。
① 百残・新羅、旧是属民、由来朝貢、而倭以辛卯年来渡海破百残□□新羅、以為臣民。ここでの倭は異端の夫餘、尉仇台系の鷹百済である。
西暦年を60で割って31が余る年が辛卯の年となる。271年・331年・391年・451年・511年が該当する。
したがって、倭(阿夫餘 近九首王のころ、)が侵攻してきたのは391年からということになろうか。ちょうど、七支刀が送られてきときにあたる。
訳 百済・新羅は旧(もと)、わが高句麗の属民であり昔から朝貢してきていた。ところが倭国が辛卯年(391年)に高句麗を攻めて来たので、わが高句麗は海を渡って(倭国の友好国となっていた)百済・□□・新羅を撃破し、これらを我が臣民とした。近仇首王が倭国の王とされるのは、卑弥呼の宗であって、尉仇台より続く男系王だからだ。

② 永楽九年己亥(399年)、百残違誓、与倭和通、王巡下平穣、而新羅遣使白王云、「倭・人満其国境、潰破城池、以奴客為民、帰王請命・・・・

訳 399年、百済は好太王への誓いを破り倭国と好(よしみ)を通じた。そこで好太王は平穣に巡下した。そこへ新羅の使いが来て云うには、「倭人が国境に満ちており、城池を壊し破り、わが奴客(傭兵か)を彼らの民としてしまいました。私どもは好太王に帰し、その命令に従いたいと思います」・・・

③ 永楽十年庚子(400年)、従男居城、至新羅城、倭満其中官兵方至、倭賊退□□□訳400年、(高句麗の兵が)男居城より新羅城に到着した。倭軍が城の中に満ちたとき我が軍がまさに襲いかかったので、倭国の賊軍は退却した云々。

④  一四年甲辰(404年)、□倭不軌、侵入帯方界、・・・・・・・

訳404年、倭国が決まりを守らず(国境を無視して)帯方界に侵入してきた・・・

⑤ 倭寇潰敗、斬殺無数。

訳倭国軍は潰滅し、斬殺するところ無数であった。


三国史記・百済本紀では王談德(タムドク=広開土王)は4万の軍で7月漢水の北の部落(石硯城ソッキョンソンほか十余城)、10月に関彌城(カンミソン)を攻略した。防戦すべき百済の辰斯王は談德は兵を巧みにつかうと恐れて出撃しなかった。11月には狗原で狩りに出たまま帰ってこなかった。次に王となった阿莘王に謀殺された。(402頃)遠征先の軍営(行宮)で裳(もがり)をしたと書かれる。阿莘王の父王、枕流王を馬から射落として、その場で土をかぶせて埋めてしまったのが阿莘王の叔父である辰斯王だった。そこで、阿莘王は王になるや父の遺骨を探し求めた。卑人の中に知っているものが居て、ようやく父王の遺骨を得て、御陵を作った。その恨みは深く、辰斯王の墓を暴くよう命じた。命じられた部下は、「王の墓を暴く」ことに恐れ入って墓の土を少しだけ掘っただけだった。仮に、時系列で追ってみると関彌城(カンミソン)を攻略した後、倭軍が来るのを予想してか、阿莘王を膝まづかせて降伏させ、忠誠を誓わせると高句麗軍はあっさりと引き上げた。新羅からの倭軍の攻撃に救援を要請に応じて出撃したが、倭軍などいなかったので、阿莘王に倭と通行することを禁じたぐらいで終結したのだ。関彌城(カンミソン)を落とす間、新羅に行って倭軍を叩いたというのは偽の情報であろうか。
 その後、広開土王は405年11月には後燕のを攻撃している。亡くなったのは413年とされる。関彌城は阿残(倭人)の有力な造船港であったらしい。そこに、倭兵が集結していたのだろう。
 広開土王は永楽大王と言われ広開土王は「国丘上広開土境平安好太王」の諡号の略称である。百済の阿莘王は倭の蘇我氏の傀儡だったのだろう。「倭ではなく高句麗に忠誠を誓えば許す。」、こうして阿莘王は斬首されず、あっさりと兵を引き上げていることから、倭の排除が済めば、戦の目的が達せられたのであろう。百済や新羅を占有するのが戦の大義ではなかったということだ。

談德王(タムドク)の墳墓は「将軍塚・太王陵」と比定されているが、この陵墓は13代故国原王(コググォンワン)の墓と考えられている。
陵墓と見られる将軍塚・大王陵がある。清朝末期にここから発見された大量の蓮花紋の瓦当や磚(せん)の中に、「願太王陵 安如山 固如岳」という文字が彫られた磚があった。さらに、2003年の5月にこの広開土王陵説を補強する新しい発見があった。南側墳丘の裾近くから小型の青銅製の鈴が見つかり、それに「辛卯年 好太王 所造鈴 九十六」と銘が刻まれていた。

こうした磚や銅鈴の出土、好太王碑の存在、さらには墓の作られた年代から、中国や韓国ではこの大王陵を広開土王陵に比定している。
しかし、談德(タムドク)の即位を辛卯年(391年)、18歳で即位した王を好太王と呼び、同じ辛卯年に次の第20代長寿王が同じく18歳で即位した。長寿王が造営したとするのはどうしても可笑しい。一般に辛卯年とだけ書くときは辛卯元年のことだからである。だから、根拠にならないのである。高句麗最大の石積王陵をどうしても広開土王にしたいのだろう。そのまえに、遺体がなかったばあい、大墳丘を作ったかどうかを問題にすべきだろう。広開土王碑だけが造られて王陵墓は作られなかったと考えたほうが至当だろう。つまり、遺体がなかったのだ。なんであれ、広開土王は戦場で死んだが、それを隠したのだろう。広開土王はやはり、遠征先の軍営(行宮)で裳(もがり)をしたというのが真実だろう。

■百済は倭国と同盟していたというより、百済は倭国の支えで成り立っていた。

高句麗・永楽大王(広開土王)(391-413)が百済の阿莘王(アシンワン392-420)と応神天皇が同時代で、広開土王の攻撃を受けた同じころに緊張関係にあった。

応神3年、辰斯王(385-392)が立ったが、貴国に礼がないという理由で紀角宿祢・羽田矢代宿祢・石川宿祢・木莬宿祢野を送って、激しく責めののしった。辰斯王を殺して百済は謝罪した。阿莘王(アシンワン392-420)を王にして、紀角宿祢は帰った。

『三国史記』新羅本紀 「(奈勿王九年=394年)夏四月、倭兵大いに至る。王、之を聞き、敵すべからざるを恐れ、草の偶人(人形)数千を造り、衣衣(衣を衣(き)て)兵(兵器)を持たしめ、吐含山の下に列立せしむ。勇士一千人を斧[山見]の東原に伏す。倭人、衆を恃(たの)んで直進す。」

八年 夏五月丁卯朔 日有食之 秋七月 <高句麗>王<談德> 帥兵四萬 來攻北鄙 陷<石峴>等十餘城 王聞<談德>能用兵 不得出拒 <漢水>北諸部落 多沒焉 冬十月 <高句麗>攻拔<關彌城> 王田於<狗原> 經旬不返 十一月 薨於<狗原>行宮
— 『三国史記』「百済本紀」391年
八年、夏五月一日に日食あり。秋七月、高句麗の王、談德(好太王)が4万を兵で北の国境を攻め、石峴など10余りの城を落とされた。王は談德が用兵に長けてると聞き出兵を拒否、漢水の北の部落が多数落とされた。冬十月、高句麗に關彌城を落とされた。王が狗原に狩りに出て十日が過ぎても帰って来なかった。十一月、狗原の行宮にて死去した。
韓国史では枕流王の弟であった辰斯王が枕流王を殺して王座についたので、子である阿莘王が狩りに出た辰斯王を殺したように記録している。日本書紀から見ると、辰斯王は蘇我満智が送った刺客にまんまと殺されたか、国人に謀殺させたというのが著者の見方である。

すると、河南伯済の辰斯王は滅亡の危機に瀕して、高句麗と密約を交わして広開土王に出撃を促したのであろう。辰斯王は高句麗軍が迫ってきても3度も出撃をしなかったという。密約とは倭国を追っ払ってくれたら、未来永劫高句麗の属国になります、という事だろう。


 百済倭軍は396年に広開土王に蹴散らされて、漢江以北58城を口奪われた。その後、長寿王(広開土王の次413-491)は475年に百済の首都漢城を陥落させて蓋鹵王(余慶)を殺害、次の、文周は南の錦江の熊津に遷都した。直後、高句麗は国内城から平壌城に王城を移す。こうして、後漢の公孫氏以中国の直轄支配を排除し帯方郡は高句麗のものとなった。

*蓋鹵王(- 475年)は、百済の第21代の王(在位:455年 - 475年)。先代の毗有王の長子であり、『三国史記』によれば諱は慶司。また、近蓋婁王とも記され、『日本書紀』には加須利君(かすりのきみ)、『梁書倭国伝』には余慶(徐慶)の名で現れるので、宋書倭国伝でいう倭王斉とは、蓋鹵王のことである。

応神天皇8年春三月百済人が来朝した。王子直支を天朝に送り先王の修好の願いを叶えた」
全く同一の内容が三国史記百済本記に次のように載っている。

三国史記百済本記
「阿莘王6年(397年)夏5月に王は倭国と友好を結び太子直支を人質として送った。 太子直支は日本滞留8年目の405年父王阿莘王が死ぬと帰国した。」

仁徳11年(402年)新羅からの朝貢があったと記録されている。これは、新羅本紀の「402年、倭国と国交を結び、奈勿王の王子・未斯欣を人質として送ってきた。」という記事に対応する。

 仁徳12年(402年)高麗国が鉄の盾・鉄の的を奉った。
 高句麗は燕との戦いで国力を消耗している時であり、倭国に背後を突かれるのを恐れたのであろう。倭国と和平交渉をしたのである。これで、暫らくは平和が訪れたのである。

 仁徳13年、14年(403年)にかけて土木工事の記事が多くなる。難波堀江、茨田堤築造(仁徳11)、山城に大溝掘る(仁徳12))。和爾池、横野堤を築く(仁徳13)小橋、大道を作る。石河の水を引く(仁徳14)などである。
 高麗・新羅・百済からやってきた人々を使って土木工事をしたのである。
日本書紀
応神天皇16年(405年)この年百済の阿莘王が死亡した。天皇は直支王を呼び「あなたは本国へ帰り王位を継ぎなさい。」と言った。また、トンハン(地域は不明)の地を贈った。


三国史記にはさらに、書く。本国に帰って即位した直支(=腆支王405-420チョンジワン)は今度は自分の妹を日本に送った。

日本書紀では
応神天皇39年(428年)春2月百済の腆支王がその妹シンジェトウォン(新斉都媛)を人質として送り仕えるようにしたとある。

*百済本記と日本書記が一致する、この腆支王は420年に亡くなっているので、応神39年は428年ではなく、407頃になるだろう。広開土王の南征は396年であるから、年代は符合するが、応神天皇が実在した証明にはならない。


広開土王が戦闘に入ると倭兵が先陣を担っていて、兵力があまりにも多いのに驚いた。百済と新羅が高句麗の属国なのに、倭人がどうしてこんなに出てくるのか怪しんだ。「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡海破百殘連侵新羅以為臣民」・・・この広開土王碑の解釈は『百残が倭を連れ込み新羅に攻め入って、臣民とした。』が正解であろう。連侵のところは欠け文字で、「加羅」と置き換えるか、「招倭」と置き換えるかによって解釈が異なっているのである。この二文字が欠けていなかったら論争は起きなかったのだが。。。百残、もともと倭人が母系制社会だったので百済王が倭王を自称しても、さほど国威を傷つけられたとは感じず、それを理由に戦争を起こすほど国論が沸騰することはなかったのだ。

■新羅も倭軍の多さにびっくり

ここには、百済が侵入したことは書かれず、倭兵がたくさん来て、「これじゃ負けちゃうよ」、と兵の模擬人形を並べて、倭兵を誘引して伏兵を配す奇策を取ったというのである。この時、倭人はまんまと誘引策に引っかかった。百済兵がいれば鎧と旗ですぐわかるので、百済兵はいなかったのである。百済の将軍でもいれば、伏兵がいることはすぐに見破っただろう。そこで、百残と倭軍はおなじ阿人の兵だったのだ。兵の数は倭国から渡海してきた兵だけでは新羅を脅かすほどの大軍には至らず、倭兵は半島にもともと満ち満ちていたのである。その兵は日本列島から来た倭軍だけではなく、馬韓人でもなく、阿人という倭人だったのである。


 ▼日本書紀巻第二十四 皇極天皇紀
元年(642年)
秋七月甲寅朔壬戌(25日?)のとき客星が月に入った。皇極天皇は大佐平(だいさへい・てさぴょん)智積(ちしゃく)を朝廷で饗宴した。ある本に伝える、百済使人、大佐平・智積(ちしゃく)と子の達率(三品の官)、その子の名は欠けていて知らず。恩率の軍善の命・健兒(けんあ)が翹岐の前で相撲をとったことがあると伝える。智積らは宴がことごとく終わると退出して、翹岐の家の門を拝礼をした。丙子の日、蘇我臣の入鹿という賢い者が白い雀の子を獲た。この日、ある人が蘇我の大臣に白いすずめを籠にいれて上納した。戊寅の日、群臣がくちぐちに言う、村々の祝部所が教える牛あるいは馬を殺し、社神に供犠の祭り、あるいは、しきりに市を移す、あるいは河伯(神女)を祈祷するなど旧来の雨乞いはことごとく験(しるし)がなかった。蘇我大臣が報告した。寺々で大乗経典を読経させ、仏教の所説によってざんげし降雨を祈願した。大きな寺の南の庭で、嚴佛菩薩像と四天王像を壇においてもろもろの僧に府座させ大雲経を読経させた。蘇我大臣は香鑪を手に取って焼香をし発願(ほつがん)した。辛巳の日微かに雨が降った。壬午の日、祈雨は不能になり讀經は中止となった。
八月一日、南淵の川上に行幸してに跪いて拝むみ、天を迎えて而して祈ると、たちまち雷が鳴って大雨が降ってきた。天はとうとう五日間も降り続け、天下を広く潤した。この五日続いた雨で九種の穀類はみな熟し実った。これで天下の百姓たちはともども”至德天皇”と万歳をした。
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*皇極が行った跪拜四方とはおそらく仏教の儀式だろうか。至德天皇の徳の字が、意味するところは孝徳天皇と同じ。

兒翹岐(アギョンギ)が百済から筑紫に着いたという日本書紀の記述
▼日本書紀巻第二十四 皇極天皇紀
二年(644年),夏四月庚辰朔丙戌、大風而雨。丁亥、風起天寒。己亥、西風而雹。天寒、人著綿袍三領。庚子、筑紫大宰、馳驛奏曰、百濟國主兒翹岐・弟王子、共調使來。丁未、自權宮移幸飛鳥板蓋新宮。甲辰、近江國言、雹下、其大徑一寸。
二年夏四月の庚辰朔丙戌日に大風雨となり、寒風が吹き、己亥(8日)に西風となりあられが降った。天候が寒冷となった。人々は綿の上着を三枚重ねて被った。庚子(21日)、筑紫大宰(みこともちのつかさ)、驛馬をはせて奏上して曰く、「百濟國主の弟王子・兒翹岐(アギョンギ)が調(みつぎ)の使いとともに来られました」。丁未(28日)に仮宮から飛鳥の板蓋新宮に遷宮した。甲辰(25日)、近江國が言うには、あられが降り、其大きさは徑一寸もあった。
二年(644年),秋七月・・・是月、茨田池水大臭、小蟲覆水、其蟲口黑而身白。
八月戊申朔壬戌、茨田池水、變如藍汁、死蟲覆水。溝瀆之流、亦復凝結、厚三四寸。大小魚臭、如夏爛死。由是、不中喫焉。
二年秋七月、この月、茨田池の水があふれ、腐臭が起こった。小さい虫が水面を覆った。その虫は口が黒く、体は白かった。
八月には池の水は藍色(あいいろ)の汁のように変わった。死んだ虫が水を覆って、厚さ三四寸の塊となって水溝を塞いで、大小の魚も夏のときに朽ちて死んだように腐乱した。これではとうてい腹の中に入れることができない。
茨田池(まむたいけ)と河伯

寝屋川市の太古には茨田池があり、洪水に苦しんだ土地。水流は草香江に流れ出ていた。




書記によれば、仁徳天皇11年(342年)に茨田堤が築かれたという。日本最初の治水工事といわれる。仁徳13年に茨田屯倉がおかれ、この大工事は天皇の直轄事業になり、茨田連が秦人(はたびと)を使って工事をしたという。宣化天皇の元年5月には「河内国の茨田の郡の屯倉の穀を運ばしむ」とあり、ここが穀倉地帯に変貌していることが分かります。茨田は「萬牟田」とも記されるが、茨田連は呉の孫晧(そんこう)の末裔で、堤根神社(つつみねじんじゃ)で「彦八井耳命」という祖神を祀っている。寝屋川市はかつて茨田郡とも呼ばれ、秦村、太秦(うずまさ)村という古地名があった。秦氏の(役)えだちを得て完成させたのは周辺地名や秦氏関連史跡から、ほぼ事実だろうと思われます。寝屋川市太秦高塚町には高塚古墳がありますが、うずまさという地名は京都のほかに、ここにしかなく、驚くことに川勝町という町があり秦河勝にちなむのです。なぜなら、ここに秦河勝の史跡(寝屋川市史跡文化財)があり、秦河勝の墓と伝えています。秦の河勝は、推古天皇の御代、聖徳太子に仕えた人物です。皇極天皇3年(644年)に駿河国富士川周辺で、大生部多を中心とした常世神(とこよかみ)を崇める集団(邪教)を討伐しています。茨田の堤が作られたのは仁徳天皇紀に書かれていますが、じつは640年代末ごろの工事だったとわたしは思います。秦氏が豊国から京都に移住、朝廷で活躍するのはどうみても推古天皇のころだからです。書記は、皇紀を紀元前660年にまで引き延ばす必要があったのでしょう。同じストーリーを時代を超越してくりかえして、似たような話を重複させているのです。

▼日本書紀 巻第十一 仁徳天皇紀
大鷦鷯天皇 仁德天皇十一年冬十月、掘宮北之郊原、引南水以入西海、因以號其水曰堀江。又將防北河之澇、以築茨田堤、是時、有兩處之築而乃壞之難塞、時天皇夢、有神誨之曰「武藏人强頸・河內人茨田連衫子、衫子、此云莒呂母能古二人、以祭於河伯、必獲塞。」則覓二人而得之、因以、禱于河神。爰强頸、泣悲之沒水而死、乃其堤成焉。唯衫子、取全匏兩箇、臨于難塞水、乃取兩箇匏、投於水中、請之曰「河神、崇之以吾爲幣。是以、今吾來也。必欲得我者、沈是匏而不令泛。則吾知眞神、親入水中。若不得沈匏者、自知偽神。何徒亡吾身。」於是、飄風忽起、引匏沒水、匏轉浪上而不沈、則潝々汎以遠流。是以衫子、雖不死而其堤且成也。是、因衫子之幹、其身非亡耳。故時人、號其兩處曰强頸斷間・衫子斷間也。是歲、新羅人朝貢、則勞於是役。→
宮(旧難波宮)の北の郊原に濠を掘って、そこに南の水(川)を引いて、西海(大阪湾))に出入りできるようにした。よって、その水溝を名づけて堀江(旧大和川)という。また、茨田堤(まむたのつつみ)を築く。また、二カ所に築いていたが、とうとう難波の塞(つつみのこと)が崩れてしまった。時に、天皇が夢をご覧になられた。神が現れて教えさとし、こう伝えた。「武蔵の人、强頸(こはくび)と、河内の人、茨田連衫子、强頸と衫子(音:莒呂母能古ころものこ)の二人をもって河伯神女を祭れ、そうすれば必ず塞ぐことができるだろう」、と伝えた。天皇は夢から覚めると、すぐに、この二人をさがし、召された。よって、河伯神女に祈祷を始めると、その場で强頸(こわくび)は泣いて悲しみ入水して死んだ。そこで、その難波の堤は塞がれた。ただ衫子(ころものこ)のみは二つのひょうたんを取って、難波の水際に立った。そして両個のひょうたんを投げ入れると、うけひして言った。「河神よ、わたしは自ら”ぬさ”(捧げもの)となって、ここにやって来ました。どうか祟りて、今、私を得ようとするならこのひょうたんを沈めて、浮かばないようにしてください。ひょうたんが浮かばなかったら、真の神と知りましょう。そうしたら、わたしはすぐに水の中に入り死にましょう。もしひょうたんが沈まなかったら、偽りの神と知りましょう。どうしていたずらにわが身を亡ぼせるでしょうか。」
すると、つむじかぜが起こり、ひょうたんを引いて水の中に沈んでしまった。ところが、ひょうたんは波の上に転がって沈まなかった。たちまち潝々(シーシー)と音をたてながら遠くに流れていった。こうして、衫子(ころものこ)は死ぬことなく、その堤はまた塞がれた。これは衫子(ころものこ)の気転によってこそ身を滅ぼさなかったのだろう。この二つの堤の壊れた所をひとびとは名づけて、强頸の断間、衫子の断間と云うようになった。
*仁徳天皇に記事があるということで、書記の紀年が西暦の年代に整合しているわけではありません。




大阪の5世紀の図版:草香江と堀江、淀川との関係図;
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日本書紀で佛教という字は3件ヒットする。


▼日本書紀 巻第二十二 推古天皇紀
百濟僧慧聰來之。此兩僧、弘演佛教並爲三寶之棟梁。秋七月、將軍等至自筑紫。四年冬十一月、法興寺造竟、則以大臣男善德臣拜寺司。是日、慧慈・慧聰二僧始住於法興寺。五年夏四月丁丑朔、百濟王遣王子阿佐、朝貢。冬十一月癸酉朔甲子、遣吉士磐金於....→ このページで合計1件ヒット
▼日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇紀
皇造丈六繡像・丈六銅像、顯揚佛教、恭敬僧尼。朕、更復思崇正教光啓大猷。故、以沙門狛大法師・福亮・惠雲・常安・靈雲・惠至・寺主僧旻・道登・惠隣・惠妙、而爲十師。別、以惠妙法師爲百濟寺々主。此十師等、宜能教導衆僧修行釋教、要使如法。凡....→ このページで合計1件ヒット
▼日本書紀 巻第三十 持統天皇紀
「宜遣沙門於大隅與阿多、可傳佛教。復、上送大唐大使郭務悰爲御近江大津宮天皇所造阿彌陀像。」六月甲子朔壬申、勅郡國長吏、各禱名山岳瀆。甲戌、遣大夫謁者、詣四畿內、請雨。甲申、賜直丁八人官位、美其造大內陵時勤而不懈。癸巳、天皇觀藤原宮....→ このページで合計1件ヒット


遣唐使と遣隋使の年表

初の遣隋使が派遣される。しかし、派遣された人物は不明で、文帝との面会は叶わなかった。第二回遣隋使として、小野妹子が派遣され、日本と隋による国交が樹立。第三回遣隋使として小野妹子、高向玄理、僧旻、南淵請安ら8人、隋へ留学する。第四回遣隋使として犬上御田鋤が派遣される。しかし、618年に隋が滅んでしまい、これが最後の遣隋使となった。第一回遣唐使として、犬上御田鋤が派遣される。第二回遣唐使が派遣される。第三回遣唐使として、高向玄理が派遣される。第四回遣唐使が派遣される。第五回遣唐使が派遣される。第六回遣唐使が派遣される。第七回遣唐使として、粟田真人、山上憶良が派遣される。第八回遣唐使として、阿倍仲麻呂、吉備真備、玄昉、井真成が派遣される。第九回遣唐使が派遣される。第十回遣唐使、派遣中止。第十一回遣唐使として、藤原清河、吉備真備が派遣される。第十二回遣唐使が派遣される。第十三回遣唐使が派遣される。第十四回遣唐使が派遣される。第十五回遣唐使、派遣中止。第十六回遣唐使、派遣中止。第十七回遣唐使として、最澄、空海、橘逸勢、霊仙が派遣される。第十八回遣唐使として、円仁が派遣される。第十九回遣唐使、菅原道真の建議により、派遣中止。
西暦 王朝   遣隋使・遣唐使履歴
600年  
607年  
608年  
614年  
630年  
653年  
654年  
659年  
665年  
669年  
702年  
717年  
733年  
746年  
752年  
759年  
761年  
762年  
777年  
779年  
804年  
838年  
894年  


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