漢書地理志 西域伝 里数の謎を解く!
役に立つ漢書西域伝の用語
塞=サカ=スキタイ族
サカ=スキタイの先が尖ってピンと立ったキュルバシアという冠帽。
発音上この塞民族とサカ族を同一視する「塞=サカ説」が、E.J.Rapson『The Scythian and Parthian Invaders』(1922年)、W.W.Tarn『The
Greeks in Bactria and India』(1938年)、A.K.Narain『The Indo-Greeks』(1962年)、白鳥庫吉『塞民族考』などによって議論されており、広く通説となっている。
「サカイ、すなわちスキタイは、先が尖ってピンと立ったキュルバシアという帽子を頭にかぶり、ズボンをはき、自国産の弓、短剣、さらにサガリスと呼ばれる双頭の戦斧を携えていた。彼らは“アミュルギオンのスキタイ”なのであるが、ペルシア人がスキタイ人すべてをサカイと呼ぶため、彼らもサカイと呼ばれていた。」 『歴史』巻7-64
漢書地理志 罽賓国の条
「昔匈奴は大月氏を破り、
大月氏は西の大夏で君主となり、
塞王は南の罽賓で君主となった。
塞種は分散し、数国となった。
疏勒より西北では、
休循,捐毒の属(やから)
となり、皆故に塞種なり。」
イッシク古墳出土の「黄金人間」のレプリカ。カザフスタン国立中央博物館蔵。
魏志倭人伝では、罽刀(けいとう)と用語が書かれて います。[
「正始元(240)年、(帯方)太守弓遵(きゅうじゅん)は建忠校尉梯儁(ていしゅん)らを(奉賀朝献・洛陽に)奉じさせた。(魏帝曹芳は)詣でた倭国に詔書と印綬を拝假し、倭王に併せて金帛錦、罽刀、鏡、釆物などの詔賜を齎(もたら)した。よって倭王は(倭国から)使者を出し上表をもって答え、詔恩に感謝した。」...著者の現代語訳から抜粋
下地図のサカイとあるのがゾグディアナ(フェルガナ)でしょう。敦煌の月氏が匈奴に圧迫されゾグディアナに移動、サカ族を追放して大月氏国をたてました。サカは大月氏国に征服された後、南下カシミール地方に罽賓国を建てます。下の図版は大月氏がまだ無かったころの民族地勢図です。
紀元前2世紀以前~前期、まだ漢の張騫(ちょうけん)が立ち入っていない時代です。張騫は前114年~後97年まで西域を大遠征した将軍です。張騫は中国,漢代の西域開拓者。武帝の命を受け,前139年西域へ向かい,途中,匈奴(きょうど)に捕らえられたが10余年を経て目的の大月氏国(月氏参照)に至る。前126年帰国。さらに前121年烏孫(うそん)に赴いた。
金珠細工。古墳から多く出土する素環頭太刀(そかんとうたち)の元型か?)
上図版;短弓の元形。日本の竹弓と違うことに注目!
漢書西域伝の記録された時代にはサカイがあったフェルガナは大宛國に領有されていたと考えられます。
大月氏はさらに大夏を領有し、そこはカスピ海の東側にあたります。大月氏国は西に安息國と接しています。
東方との関係:『梁書』巻54列伝第48諸夷海南東夷西北諸戎扶桑國 扶桑の条 458年「罽賓国((けいひん、拼音:Jìbīn)カシミール近辺)から5人の僧が来て仏典と仏像をもたらし出家を勧めたので、風俗は変化した。」
(扶桑ふそう、拼音:Fúsāngフーサン)国は実は高句麗のことです。なぜ高句麗なのか、それはアプローチのはじめにのページで原文解説をしています。ここでは、罽賓国が5世紀には仏教国になっていたことを知っておくことのほうが大切です。仏像や仏具などが石彫から金属でつくられるようになったこと、また金箔が施されていること等と深く関係するからです。
名称は種族名:ソグディアナ(Sogdiana)は、中央アジアのアムダリヤ川とシルダリヤ川(北側)の中間に位置し、サマルカンドを中心的な都市とするザラフシャン川流域地方の古名。アラル海に注ぐ二本の大きな河のうち、北側がシルダリヤ川、南側がアムダリヤ川です。パミール高原を水源にして西に流れる大河です。この大河にそって多様な国が成立していたと考えます。
西域伝の里数の命題を解明します。
魏志倭人伝になぜ漢書西域伝が補足資料となるのか、それは里数の問題です。
松本清張は次のように述べています。「6100里とか9670里とか、里数にこまかな端数が付いているが、もとより実数ではなく、いい加減に記載したのである。こうしてみると、漢の直属国になっていない西域諸国の首都は、長安からすべて万二千里になっていることがわかる。その馬脚をあらわしているのが罽賓國(けいひんこく)と烏弋山離國(うよくさんり)が長安からともに12200里となっていることである。長安からカシミールの罽賓國と、長安からパルティア(今のイラン)の東部の烏弋山離國(アレキサンドリア)という)とが、もちろん同じ距離であるはずがない。イランの東部のほうが、カシミールよりも倍以上も長安からは遠い。
つまり、「万二千里というのは、中国の直接支配をうけていない国の王都がはるかかなたにあることをあらわす観念的な里数なのである。漢書の書例にならう陳寿が、これを「東夷伝」の鮮卑の条や倭人の条に応用したのであって、鮮卑の東西が「万二千里」というのも、帯方郡から女王国まで「万二千里」というのも、「長大な距離」という観念的里数にすぎない。・・・」それにしても魏志倭人伝には、よくわからないところが多い。それを私なりに推理してみよう。・・・と、述べています。魏志倭人伝も、あたかも西域伝の里数がいい加減だら、倭人伝もいい加減なのだ。こういう論法なのでしょうか。
ここに、なぜ漢書西域伝が魏志倭人伝に関係するのか、すでに網羅されています。漢書西域伝の里数が観念的でいい加減な里数であり、陳寿も倭人伝に応用したにすぎない。・・・・はたしてそう断じることができるのでしょうか。命題がここにあるのです。
私は漢書西域伝はいい加減ではなく、必ず里数の解が得られるはずだと信念のもとにこれから努力してみることにします。
わたしは、漢書の西域伝の里数はいい加減ではないこと。里数は、実数であり、端数がついているのはより精密に測られているからだろうと考えます。
さて、松本清張さんは亡くなられていますが、わたしがこれを読んだのはおそらく15年も前になるでしょうが、最近までこの「いい加減で誇大な数理だ」という文章がひっかかっていたのです。文筆家のレトリックはなにかトリックがあるのですね。こういう、一節であっても、若かったわたしに影響をあたえていたことを考えると、わたしもいい加減なことは書けません。
漢書地理志 西域伝の距離は決していい加減ではありません。
これから解明してみましょう!
出典 中國哲學書電子化計劃 先秦兩漢 ->
史書 ->漢書 ->
傳
->
西域傳 [西漢]
公元前109年-公元前91年 司馬遷著
先秦兩漢 -> 史書 -> 漢書 -> 傳 -> 西域傳
上記リンクの右端をクリックすると西域傳全文を読めます。
漢書 [新
-
東漢]
36年-111年
西域伝、も倭人伝もあなたは、計算づくで考えるのがすきですねえ。
そうですね、どうもプログラミングの経験から、どうしてもそうなるんです。
漢文は、プログラミング思考と相性がいいのです。論理式思考っていうんですかね。距離が書かれているとマッピングしたくなるのです。
魏志倭人伝で里数は、一里60mにしましたが、再現性があるんですか。
もちろん、グーグルアースでなんども検証しました。いわば、地図上の演習ですね。コンパスで円を描いたり、距離の線を引いたりするんです。
すると、倭人伝でもどこからどこまでは何里です、っていう書き方ですから、相互関係も含めて再現性が何回でもできます。
魏志倭人伝はすべて直線距離を使っていましたので、みごとにぴったり合ったのですね。
では、西域伝ではどうなんですか?
はい、西域伝は倭人伝とほとんど同じに、ほとんど、「どこからどこまでは何里」だという書き方です。ただ、一里の長さを測る方法がちがいます。倭の領域には一里を表す標識が道々にありませんでしたから、道程を示すわけにはいかなかったんです。
しかし、西域には、いわゆるシルクロードがあり、そこには「亭」という宿場のような施設がありました。亭はだいたい、ラクダが一日で歩く距離ごとに置かれていました。
亭と亭の距離は、だいたい30kmごとにおかれていと言われています。そこで、前漢では西域内の里定として亭に準じることにしました。一亭を100里として、24.9kmと定めました。一里は0.24948kmです。
一里、0.249kmです。これを西域里と呼ぶことにします。
また漢では一里0.415.8kmを使います。長安の里はだいたい0.4kmとして、西域の里は0.24km、60%の比率になっています。つまり、二つの里数公式を使い分けていたのです。中国は距離について、漢の領域と西域とでなんと基準値を両用していたのです。始皇帝が度量衡を統一したにしては不思議な感じがしますが、ダブルスタンダードが好きな国民だったのでしょう。荘子(斉物論篇)には「両行」(ふたつながら行われる)という考え方があります。「二而不二」(ににふに)などの思想が中国人気質をつくっています。あれもこれも一体なのだ・・・これは唯一絶対思想と相いれない垂迹論法なのです。中国人は五行思想があり、また八卦論などは二元論よりずっと数学的でしかも複雑です。中国人は物事にはすべて二面性があることもよく知っているのです。一国二制度などはまさに両用、両立のよい例でしょうか。善悪、正邪など二元論でしか考えない西欧人よりも、ずっとふところが深いのです。漢字ひとつをとってみても、その中に哲学があるような奥深い意味があります。漢方薬を例にとっても西洋医学のようにひとつの薬効成分ではなく、多種類の薬草をブレンドしています。その知恵はすごいことなのですが、脱亜入欧論(実利主義)をつっぱしってきた日本人は考え方が縦横考慮型から徐々に功利主義(実益偏重)なってきたのが心配です。
Twit/暗記教育の弊害、アメリカ・ロシアのように考える力をつけないのが問題です。中国・韓国は科挙の伝統なのでしょうか、受験競争が過酷すぎるほど激しいのですが、学んだ知識はやがて忘れてしまいます。儒教は絶対階級を試験制度にカバーしてしたのですね。きっと、こういう点取り虫さんたちは自分がないのと同じです。疑問を持つことなく答え方を覚えるだけですからね。儒教国家からはノーベル賞がでないわけです。権力は金太郎あめのような大衆(愚民)がお好みなのです。いずれ進化型IEロボットに負けますよ。ノーベル賞をとるような人は、たいがい学校教育をはみ出しだユニークな人なのですよ。
ついでにメモしておきますが、アメリカがファーウェイをつぶしにかかりました。(2019年) ジョージオーウェル『1984年』で描かれるテレスコープじゃありませんが、監視ツールをコードの中に忍ばせたからでしょう。アメリカは自由の敵がはっきりと見抜けるのですね。/Twit
*張騫【ちょうけん】
中国,漢代の西域開拓者。武帝の命を受け,前139年西域へ向かい,途中,匈奴(きょうど)に捕らえられたが10余年を経て目的の大月氏国(月氏参照)に至る。前126年帰国。さらに前121年烏孫(うそん)に赴いた。2度の旅行で西方の事情が明らかとなり,漢の西域経営,また東西交通の発展に大きく貢献。(from
Wiki)
都は封建制下における名称です。郡県制になると行政機関としての都護という名称に変わったのです。
「遼西烏丸都督」、「鮮卑大都護校尉」、「張騫使西域、窮河源、經歴諸國、遂置都護以總領之」などは、みな、東夷伝にある表現です。
都督、都護などの用語として都は、辺境の直轄の監察機関の意味になります。辺境の封地の場合には中国と主従関係を結んだ王が食する(支配する)ところとなります。西域に都護治所をはじめて作ったのは張騫(チョウケン)というわけです。西域各国は長安からの距離と都護治所からの距離を併記する例がおおいのですから、漢書地理志西域は張騫が長安に帰還したあとに編纂されたことは間違いないでしょう。前121年に烏孫(うそん)に赴いたのが最後ですから、その後、西域伝のの完成は西漢]
公元前109年-公元前91年です。この記録が献上されるまで何年かかったのかは10年あまりと言えます。
都とは中国の行政区分でした。たいがい中国の首都からみれば辺地(田舎_いなか)にありました。その行政官を都督といい、前漢時代に直轄支配が始って以来、設置され、本来は監督、統轄の意味で、軍司令官のことを言いました。複数の州に跨る管轄領域を持った都督は長官である刺史を兼ね、都督府を置いて府官を任じ軍事だけでなく民政(租庸調)をも掌握する様になったのです。郡は州の下の行政区分であり、その長官を郡太守と称しました。
1 打開字典顯示相似段落 西域傳上: 序文
西域以孝武時始通,本三十六國,其後稍分至五十餘,皆在匈奴之西,烏孫之南。
南北有大山,中央有河,東西六千餘里,南北千餘里。東則接漢,阨以玉門、陽關,西則限以蔥嶺。
其南山,東出金城,與漢南山屬焉(焉耆國)
其河有兩原:一出蔥嶺山,一出于闐、于闐在南山下。
其河北流,與蔥嶺河合,東注蒲昌海。蒲昌海,一名鹽澤者也,去玉門、陽關三百餘里,廣袤三百里。其水亭居,冬夏不增減,皆以為潛行地下,南出於積石,為中國河云
金城:玉門・陽關を中心に西に蔥嶺、東に金城。
金城の位置を探す。
35° 1'17.92"N
104°38'13.69"E
地図1
玉門に達するには河西回廊(かせいかいろう、河西走廊、甘粛走廊)を通ります。
この街道は武威(かつての涼州)、張掖(甘州)、酒泉(粛州)、玉門関につきます。玉門の先に敦煌(瓜州)があります。」この河西回廊の南北は南山(祁連山脈(きれんさんみゃく)と阿爾金山脈)と北山(馬鬃山、合黎山および龍首山)があります。
長安から金城まで410km、金城から玉門まで1175km
原文の訳:
「西域は前漢の武帝(孝武帝、劉徹、在位 紀元前141年 - 紀元前87年)が初めて交通し始め、元は36カ国、その後は、やや分かれて50余国になっています。それらの領域は、みな匈奴の西側、烏孫の南側にあります。
西域には南山(崑崙山脈)と北山(天山山脈)があり、中央に河があります。東西6000余里、南北1000余里ほどの広さがあります。東側はやや狭くなった玉門関と陽關が中国と西域が接する国境になります。
南山を東に出発すると金城があり、そして漢南山に属する焉耆國に流れる河があります。この河は両原に水源があり、一つの河は蔥嶺(パミール高原と崑崙高原)に水源があり、蔥嶺山から出発していて、于闐(うてん/今のホータン)から流出しています。その河(現ホタン川)は北に流れていき蔥嶺河に合流します。合流したところから東に流れていき、(現タリム川)蒲昌海(ふしょうかい)に注がれています。蒲昌海は鹽澤者とも呼ばれています。(現在のLop
Nur)この湖は玉門関(ぎょくもんかん)と陽関(ようかん)の300里はど先にあり、300里(74.8km)ほどもある広大な湖です。そこには水亭(隊商宿)があります。冬と夏は水量が増えず減ってしまい姿を見せません。みな、地下水となって流れていきます。その水は中国の於積石に出て、中国の黄河の水源の一つとなります。」
現代語訳 BY 黒沢一功
上の訳の解説:蔥嶺河は直訳するとパミール河となりますが、パミール高原の水流は大宛國付近から西に流れ、アムダリア河(次の次の図)に合流します。大宛國の貴山城は長安から12250里と記される国です。大宛を境に東側に流れる河が蔥嶺河です。この下の地図は出展が不明ですがそうとうな古地図の模写のようですね。下の図のPamir
Mountainが蔥嶺山です。タジキスタンから東に流れているKaxgar(カシガル)という河が見えますが、Aksuの南でホータン河と合流してタリム川になって蒲昌海に注いでいます。下図のShacheは莎車國、莎車の傍らにYarkant(莎車河)という河も見えています。
主な座標:座標検索しても正しい位置に戻らない場合は手動でピンを動かしてください。
鄯善國
ロブ=ノール南辺のオアシス国家。旧名は楼蘭。 嘗てはロブ=ノールの遷移によって楼蘭都城が移設された後の呼称とされた。1世紀頃には西方の莎車に接する西域屈指の領域国家で、東漢勢力が後退した後も版図を保ち、4世紀には河西政権に入貢していたが、河西を失った沮渠氏に制圧された。 この時、住民の過半は王を奉じて且末(チェルチェン)に移住し、楼蘭故城は445年に北魏に征服されて傀儡化された。630年頃にはロブ=ノールの遷移によって住民は伊州に移住し、644年に玄奘が通過した際には廃墟となっていたという。
楼蘭都城はクロライナのLA遺跡に比定されるが、これは3世紀の遺構であるため、それ以前の都城の位置については結論が決していない。*伊州 (新疆ウイグル自治区) - 現在の新疆ウイグル自治区クムル市一帯にかつて存在した州。
新疆(シンチャン)ウイグル自治区ーローランの住民の移動先
鄯善国は婼羌と200里しか離れていないのですから、楼蘭故城跡よりもずっと南にあったと推定できます。
蒲昌海は鹽澤者とも呼ばれていることは、次の于闐國(ホータン)の条にも出てまいります。」
「于闐國,王治西城,去長安九千六百七十里。戶三千三百,口萬九千三百,勝兵二千四百人。輔國侯、左右將、左右騎君、東西城長、譯長各一人。東北至都護治所三千九百四十七里,南與婼羌接,北與姑墨接。于闐之西,水皆西流,注西海;其東,水東流,注鹽澤,河原出焉。多玉石。西通皮山三百八十里。」
訳:
「于闐國(現在のホータン和田)は西城に治す。長安を出て9670里です。戸数3300、人口19300、兵は2400です。官は、輔國侯、左右將、左右騎君、東西城長、譯長各一人です。東北の方向に都護治所があり,3947里です。南には婼羌と国境を接し、また、北は姑墨と接しています。、于闐(ホータン)から西はみな西に流れて行き、西海(アラビア海)に流入します。東に流れた河は鹽澤(Lop Nur)に流入しています。川原では玉石が多く出て、皮山の西389里のところを通過しています。
《隋唐》
《通典》
[唐] 801年 杜佑著
《邊防八》
《于闐》
于闐:ホータンは「于闐」(ウテン、üdün)と称される。
其地多水潦砂石。氣候溫,土良沃,宜稻麥,多蒲萄。有水出玉,曰玉河。國人善鑄銅器。其居曰西山城,有屋室市井蓏蔬,與中國同。蓏,力果反。王所居加以朱畫。其人恭敬,相見則跪,其跪一膝至地。書則以木為筆札,以玉為印。國人得書,先戴於首,而後開封。自高昌以西,諸國人多深目高鼻,惟此一國,貌不甚胡,頗類華夏。
「高唱から西の諸国人は深目、高鼻にして、ただこの一国のみ、顔ははなはだ胡ならず、すこぶる華夏に類する。」
ホータンの住民は中華人のような風貌だったという驚くべき記事を載せている。高昌から西は深目、高鼻、コーカソイド系の住民だがホータンだけは中国人だったというのである。これには理由があって、良質の玉石(角閃石)が採れたので中国人が入植し、採取や売買に従事、商人も往来して、いつの間にか中国人であふれたらしい。玉門関で玉石を取引したので地名となったものといわれる。
ホータンは白玉の産地だったがゆえに、東西交易の利益で栄えた。ほんらい住民はコーカソイドに属し、サカ語の方言を使い、ゾロアスター教が流行し、仏教とともに信仰されていたとされる。
ホータンは中国語で和田と音訳されている。また、テュルク語ではイリチ(伊里済)の別名がある。現在、人口17万人。
西海はペルシャ湾、アラビア海などインドの西側の海です。ホータンから西に流れる水流はインダス川に合流していると書いているのです。
「インダス川はパキスタン中央を流れアラビア海に注いでいます。(上記Photo世界史の窓よりママ流用しています)
上記の図でゴドウィン・オースティン峰とあるのは、一時期の名称で、現代ではK2と呼ばれています。
K2(ケーツー)は、カラコルム山脈にある山。標高は8,611mで、エベレストに次ぐ世界第2位の高さがあります。パキスタンのギルギット・バルティスタン州(インドの主張によればインドカシミールのパキスタン占領地)と、中華人民共和国のウイグル自治区との国境に位置しています。」
漢書地理志ではホータンから西に流れる水といっています。その水源はK2にあったゴドウィン・オースティン氷河だと推測します。
k2はカラコルム山脈系、北東部でチベット高原に接し、北にはアフガニスタンとタジキスタンの国境がある。他にパミール高原にも囲まれている。北西部はヒンドゥークシュ山脈につながっている。南部は、インダス川・ギルギット川(英語版)・ショーク川(英語版)といった川によってヒマラヤ山脈との境界が作られている。
北側にもうひとつ河が見えています。シルダリア川といい、やはり北アラル海に注いでいます。延長は2,212 km。河口の標高は42m。この両川の間をソグディアナといい、サマルカンドを中心にソグド地方(粟特)ともいいました。ソグド人はシルクロードの交易の中心的種族でした。
ソグド人の歴史は、ここでは省略します。
西域の里数は特殊な値です。
実数距離km=中国里数×0.6×0.4158=0.24948km
西域一里=0.24948km
漢の時代は、一里は、1里=300歩=1800尺=415.8mでした。(資料:中国の度量衡)
漢書地理志・西域伝に書かれる里数のうち、長安から~里は中国の領域を含みますが、使われいるのは西域里です。中国の里数を三分の二にすると西域里になります。
*(東夷里)は西域里をさらに四分の一にします。
*中国の度量衡=http://www.allchinainfo.com/trivia-of-china/4841
西域に使われる里は陽關から西側にのみ適用されます。では、長安から陽關までの距離を固定値として知らねばなりません。
幸いなことに一か所長安からの距離と陽關からの距離が併記されている国がありました。
;24)烏秅國,王治烏秅城,去長安九千九百五十里。戶四百九十,口二千七百三十三,勝兵七百四十人。東北至都護治所四千八百九十二里,北與子合、蒲犁,西與難兜接。山居,田石間。有白草。累石為室。民接手飲。出小步馬,有驢無牛。其西則有縣度,去陽關五千八百八十八里,去都護治所五千二百里。縣度者,石山也,谿谷不通,以繩索相引而度云。
上記の原文では、西側に縣度というところがあるが、石の山の渓谷で通れないので縄を引いて距離をはかったと伝えるとあります。難兜の有縣度は烏秅城の西側ですが、都護治所からの距離の差は308里になります。
陽關から有縣度が5888里ですから、烏秅國はそれより短いことになります。
上の計算では烏秅城は縣度より340里ほど少なく、東側になっています。
烏秅國には上記の辺aを引けば陽關からの距離になります。5888-340=5548里です。
9950-5548=-x 長安から陽關までの固定値です。4402里
その他の要素
難兜國から罽賓國まで西南330里
罽賓國から烏秅國まで東2250里
烏秅國から皮山まで東北1340里
長安から陽關まで4062里
陽關から都護治所2738里北西
陽關から烏秅國まで5548里
1394.8km
都護治所から烏秅國まで4892里
1220.5km
都護治所・烏壘城は陽關から2738里(北西)
683.1km
西域の里数は西域の亭を利用した!
『《三國志》[西晉] 265年-300年
《魏書三十》
《倭人傳》
倭人傳:の後ろに付け足された西域伝 に、次のように書かれています。
「郵驛亭置如中國。從安息繞海北到其國,人民相屬,十里一亭,三十里一置」
訳:補足付き
「安息から繞海北まで、それらの国の人民はみな相互に属していて、中国が郵驛亭を置いているように、十里ごとに亭を、30里ごとに置を設置いている。」
「十里一亭,三十里一置」、これをどう解釈したらいいのでしょう。中国で、三十里ごとにおかれていたのは置ですが、中国でいう驛伝のことでしょう。西域ではキャラバンンサライという宿場ですから、中国にはないので置という単語に置き換えられのです。「置」をキャラバンサライとちゃ直訳します。
駅伝制(えきでんせい)とは、国の中央から辺境にのびる道路に沿って適切な間隔で人・馬・(馬)車などを常備した施設を置き、施設から施設へと行き来することで逓送(リレー)し情報を伝え、また使者が旅行する交通・通信の制度を指す。伝馬制ともいう。この施設のことを、古代中国で「駅」と「伝」と呼んだ。駅は主要な街道に沿って30里(約12キロメートル)ごとに設けられ、馬を備えた。
また集落ごとに郵や亭が置かれ、治安の維持を図るとともに、公文書の逓送にあたったのです。
*繞海(じょうかい)=ここではまだ分かりません。亭のおかれていた範囲を示しますから重要なのですが・・・。予測するにアラル海の感じがします。
亭は一般的に開放的な作りをしており、屋根と柱があるだけで、周囲を閉ざす壁はなく、屋内は外の空間に開かれている。屋根は宝形造(攢尖頂)や入母屋造(歇山頂)などの形状で、攢尖頂の場合は亭の平面は六角形、八角形、円形など多様な形状があり、朝鮮では八柱が好まれたようである。亭は、唐代には華美になり、庭園内の休憩所のような建物になった。
駅伝制(えきでんせい)とは、世界史上、広大な地域を支配する中央集権国家が成立すると、支配維持のために中央と地方とを常時かつ迅速に連絡する手段が必要となり、さまざまな形態の駅伝が制度として定められるのが一般的であった。広大な国家では、外敵の侵入や国内の(中央政権から離れた辺境部の)反乱にもすみやかに対処しなければならず、広域通信の仕組みである駅伝制が不可欠だったのです。国の中央から辺境にのびる道路に沿って適切な間隔で人・馬・(馬)車などを常備した施設を置き、施設から施設へと行き来することで逓送(リレー)し情報を伝え、また使者が旅行する交通・通信の制度を指す。伝馬制ともいう。この施設のことを、古代中国で「駅」と「伝」と呼んだ。こうした驛が12kmごとにあったのです。馬は駅伝ごとに乗り替えて行きます。馬はリレーされていきますから、駅伝ごとに5頭〜20頭の馬が飼育されていました。
驛には、馬の世話をしている駅子がいて、その馬と一緒に利用客を次の駅まで案内して進みます。また、駅鈴えきれいという名の「鈴」が、切符のような許可証明するアイテムです。馬が、しゃんしゃんと鈴を鳴らして進んでいたのはもう、二千年の昔からだったようです。彼ら駅子は赤色の官帽(幘・せき)をかぶっていたと伝わります。
西域には我が国の郵驛亭・・・と同じような距離を示す目印があると聞いたが、30里ごとに亭(キャラバンサライ)がおかれているそうな。それでは西域の里数は亭を使って決めることにしよう。初めに一亭を100里と決めよう。わが中国の一里とは長さが同じじゃないようだが、調べてみよう。
そうすれば西域の距離を簡単に定めることができそうだが、・・・。
閣下、それは名案ですね。
我が国の100里とどのくらいの差があるのか。
6:10の差になります。
そうか、では、西域の里数の長さは我が国の里数の長さの6割にすればよいではないか。
その当時、前漢の時代は、中国の領域では統一された公里が決められていました。戦国時代、秦、漢まで時代の度量衡では、一尺が23.1cmでした。一歩を6尺とし、一里は300歩と決められていましたので、1里=1800尺です。一公里は415.8cm、0.4158kmです。一方西域の里数は公里10分の6になり、一里が249.48mになったのです。私はこれを西域里と名付けることにします。
もう何世紀もこれに気付く人はいませんでした。松本清張さんのように、西域伝の距離はいい加減なのだと、匙をなげてはいけません。これから、実証していきます。「漢書 西域伝をGoogle Mapで再現するプロジェクト」と名付けたらいいでしょうか。
さて、西域には亭という、中国とは違った道程制度がありました。
西域の一亭は、隊商隊が一日で歩く距離ごとに置かれていました。亭は隊商宿のことですが、キャラバンサライと言われています。このキャラバンサライで、隊商たちは一日の疲れをいやし、ラクダさんは、このキャラバンサライの中庭で、ぐっすりと寝たのです。だいたい120kg~150kgの荷物を背中に乗せて、普通、一日に30~50km歩いた......ので、もうへとへです。ラクダの歩く時速は3~5kmです。そこから、推測して、亭はおよそ、30km間隔でつくられていたと推測されています。中国人はラクダに乗りません。馬が主です。漢の将軍はキャラバンサライの間隔を西域の里数を中国の60%に決めたのですから、それも仕方ありません。
馬行も距離に換算する。
尉頭国で馬行2日が「1314里」と書かれています。西域里は0.24948kmでした。一日当たり、657里、164.1kmです。一日馬行=164km(西域里換算)です。
「千里の道もひとっ飛び」というのは、講談のフレーズですが、馬の時速は60km~77kmですから、馬行一日は164kmはちょうど3時間です。走りっぱなしで3時間弱ですから、馬行は一日8時間馬が働くとして、5時間は休んでいた計算になります。走っているのはほんのわずかでほとんどの時間は歩いていのが実情でしょう。
*木曽馬など小型の馬は時速40kmぐらいだろうです。
iまあ、千里はお馬さんのお尻を鞭打って疾走すれば、1000里は415km(長安里)ですから7時間で着くことになります。「千里の道も馬でひとっ飛び・・・」とは唐突無形な話ではなかったのです。朝から晩まで走り通したんだぜ。と、いうのが、いつの間にか、ひとっ飛びになったのですね。ところで、ちょっと考えてみると、馬が全力で走ったら、1~2kmしが持ちませんから、やっぱり荒唐無稽なお話しなんでしょうね。1000里は普通の旅なら馬では何日かかるのでしょう。415÷181=2.29日ですから、普通なら、3日、無理して2日というところです。ですが、結局、実際の馬の進行度合は考える必要はありません。そう決められたから、そうなっているとしかいいようがありません。
「亭」という字の初出は春秋戦国時代に遡る。漢代には亭は主に見張り塔や地方政庁の建物として利用されていた。高さは数階建てだったが、少なくとも一階分は壁がなく、周囲を見張ることができるようになっていた。東屋のように、柱と屋根だけの物見やぐらのような作りであったようである。中国の駅伝の「駅」は馬を指し、「伝」は「車を乗り継ぐ場所」という意味、とのことであり、驛は、ふつう三四頭を置いて、馬の中継所となっていました。駅家といい、「鏢局」は、中国の駅伝・護衛・運送保険業である。朝鮮では距離測定に通常より短い「周尺」と呼ばれる20cmほどの短い尺を基本にして、周尺6尺を1歩、360歩を1里、30里を1息とした。
都護治所が領域なのか烏壘城という地点として考えていいのかは疑問があります。ここでは地点だという前提で進んでいきます。
上図で隠れている婼羌(しゃくきょう)の婼羌国王は「去胡来王」と号す。陽関を去ること1800里、長安を去ること6300里の距離にあり、西は且末国と接し、西北には鄯善国がある。婼羌は鄯善国の東南から于闐国の南までの地域にわたって分布していた。
戸数:450、人口:1750、兵数:500。 婼羌は遊牧民であり、農耕をしないため、鄯善国と且末国の穀物にたよっていた。山からは鉄が産出する。武器には弓,矛,服刀,剣,甲がある。西羌とも呼ばれる。現在も中国の少数民族(チャン族)として存在する。婼の文字は「シャク
/ ジ / ニ / ジャ / ニャ」などがあります。さからう。従わない。従順でないの意味があるといいます。
得られた結果値:緯度経度を記録します。
・烏壘城は緯度経度:41.212028,85.405664
西域を地球的に眺めると、東西6000余里、南北1000余里のイメージMAPです。
これだけ広大なエリアを中国の軍兵が馬で走破したことは、すごいことです。
以下はカード内容のサンプルです。データベースの基礎データになります。
こうしたカードを照らし合わせて近い距離での相関図をつることができます。
「大宛國,王治貴山城,去長安萬二千二百五十里。戶六萬,口三十萬,勝兵六萬人。副王,輔國王各一人。東至都護治所四千三十一里,北至康居卑闐城千五百一十里,西南至大月氏六百九十里。北與康居、南與大月氏接,土地風氣物類民俗與大月氏、安息同。大宛左右以蒲陶為酒,富人藏酒至萬餘石,久者至數十歲不敗。俗耆酒,馬耆目宿。」
且末國の条に、「有蒲陶諸果。西通精絕二千里」とあるのは、且末國もブドウや様々な果物を栽培している。」と読み下すべきでしょう。
フェルガナに大宛國の貴山城があったのか?!?
大宛國は2000数百年前から今日に至るまでブドウを栽培し、葡萄酒を作る産業地だったというわけで、地勢がピッタリあいました。
フェルガナはフェルガナ州の首都です。フェルガナ州はごらんのように大きな盆地になっています。GoogleEarthでもフェルガナ盆地の輪郭がはっきり見えています。東西で230km、南北で最長80kmもある非常に大きな大きな盆地ですね。
以下、Wikipediaより。
フェルガナ州(ウズベク語:Farg‘ona viloyati、ロシア語:Ферганская область)は、ウズベキスタンの地方行政区画。ウズベキスタン東部の南部に位置し、ナマンガン州、アンディジャン州のほか、キルギス、タジキスタンに隣接する。
概要
フェルガナ州は15の地区に分けられる。州都のフェルガナ(人口21.4万人)のほか、主要都市としてベシャリク、ハムザ、コーカンド、クヴァ、マルギラン、リシュタンがある。
気候は典型的な大陸性気候である。主要な農業生産物は、灌漑農業による綿花、園芸植物、ブドウであり、このほか、養蚕や畜産も盛んである。
石油、粘土などの天然資源を産出する。工業部門では、主に石油精製、肥料、化学製品のほか、絹糸や織物などの生産も盛んである。このほか、伝統的な手工業製品として陶器の生産も行われている。
次に康居國を探ります。
康居國は大宛國の北1510里、376,7kmです。
康居國は都護に向けて5776里、陽関には7998里です。先ほどの大宛國から北5110里の三つ要素が揃いました。
都護の位置は不動点とみなせません。浮動点ですので、アバウトに設定します。したがって陽関からのコンパスで引いた線と大宛國からコンパスで引いた線の交点を康居國とします。
大宛國から376kmの円周と陽関からの円周2002kmの交点に康居國の蘇筹城を特定します。
右上にあるのはバルハシ湖です。バルハシ湖から西南300km余に康居國があります。
バルハシ湖からアラル海までのベルト状に康居國はあり、南に安息國と接しています。
赤い線は陽関を中心に引いた円周2002kmの線です。
結論じみた話は早いかもしれませんが、2002kmは8025里を定数0.24948で乗じた数値です。つまり、一里=0.24948km (公里)がほぼ確定したのではないかと思われます。
康居國;一曰蘇筹王の王城=蘇筹城 の比定地は以下。
ウシャラル
Usharal(カザフ:Үшарал ;
ロシア語:Ушаралは)町でAlakol地区のアルマトイ州南東でカザフスタン。それは地区の首都です。
ウシャラル
ウシャラルの場所
|
|
座標:43°524658N 70°3009 E座標:46°10'11” N 80°56'22” E | |
国 | カザフスタン |
---|---|
領域 | アルマトイ地方 |
地区 | アラコル地区 |
PDFの史料です。国別の相関図をご覧になれます。下の表題をクリックするとご覧になれます。
漢書西域伝では大宛國西南690里とありますが、距離が小さすぎます。タシケントにも届きませんので疑問があります。
大月氏國に関するデータは後漢書卷八十八·西域傳第七十八に多く出てまいります。補足資料として、後漢書の記載を参考にします。
後漢書西域では、「国学大月氏在大宛西可二三千里,居妫水北。其南则大夏,西则安息,北则康居。行国也」
とあり、大宛國の西2-3000里となっています。(妫=媯)
妫水とは、[安息國(パルティア王国)最大國也。臨媯水」とあり、妫水とはカスピ海です。パルティア王国の初期の都はヘカントピュロス、カスピ海の南岸に接するところでした。
大月氏国はソクディアナとみなすことができます。サマルカンドを中心にした100kmの円周内にあると予測できます。
大宛國はフェルガナです。東のパルハシ湖からアラル海までの間とみることができます。
Ayder Lakeはサマルカンドの北、約100数十キロにあります。
「アイダール湖 (英語: Aydar Lake、ウズベク語: Aydar Ko‘l、ラテン文字:Lake Aydarkul, Lake Aidarkul)
はウズベキスタン・ナヴォイ州とジザフ州に存在する湖である。ウズベク語ではクル (Ko‘l) は湖の意であるが、「クル」を湖の名称に含めた「アイダルクル湖」と呼ぶことも多い。アイダール湖と元のアルナサイ低地を合わせた全面積は4,000km2である。この地域にはアイダール湖、アルナサイ、トゥズカン湖の3つの汽水湖があり、現在はウズベキスタンとカザフスタンにまたがって存在するキジルクム砂漠の南東部に位置する。アイダール湖はソビエト連邦の灌漑計画の際に副産物として意図せず出来上がったものである。
所在地 ウズベキスタンの旗 ジザフ州
ウズベキスタンの旗 ナヴォイ州
位置 北緯40度55分00秒 東経66度48分00秒座標: 北緯40度55分00秒東経66度48分00秒 ウィキペディア参照。
大月氏國をサマルカンドに比定できるのは、大宛國の南西690里にあることです。大宛國と大月氏の西には安息國が重接しています。
烏弋山離國は安息小君長が行きかっていましたので、安息國の藩國です。烏弋山離國は安息國の領域内とすると、安息国は罽賓国の西と南で国境をもっていることになるでしょう。松本清張が烏弋山離國がイランの東部といっているのは間違っています。むしろ、パキスタン北部といったほうがいいのです。
中国の度量衡=http://www.allchinainfo.com/trivia-of-china/4841
では、三国(魏・蜀・呉)・西晋時代での一尺は=24.2cmです。1800倍すれば一里ですから、一里=43.46kmです。2~3000里は87120km以上にもなります。
上の地図では大宛國ーサマルカンドは485.5kmと計測できます。西域里では2000里は498.96kmです。3000里は748.44kmです。
北方に大きな湖があるということでは、サマルカンド以上に適する場所はありません。
幻の大月氏国はサマルカンドにほぼ間違いないでしょう。
康居國は大宛國の北、同様に大月氏国の北にある大国で、馬行7日で5つの小国に分かれています。馬行7日は約1267km(馬行一日181kmとして)です。東西に長いはずです。南に大夏とも接しているので、大月氏国より多きく西に延びていることになります。
依耐國・大夏・康居は長安からの里数が書かれていません。
地図左の安息國はパルティア王国、今のペルシャです。ヘカントピュロスが都だったのですが、廃墟になっており今の都市に比定するのが難しいのです。カスピ海の南側沿岸にあったと思われます。イランの首都テヘランに近いことは近いですが?
大月氏国,其南则大夏,西则安息,北则康居。以上から、大月氏を囲むように、南に大夏、西に安息、北に康居國との位置関係が分かります。
大月氏国とクシャーナ朝(世界史の窓より転載)https://www.y-history.net/appendix/wh0201-051.html)
クシャーナ朝(クシャーン朝とも表記する)は中央アジアの大月氏国の支配を脱した同じイラン系民族のクシャーナ族が、西北インドに侵入してつくった国家であり、中国の史書(漢書)にも貴霜として現れる。
月氏ははじめ中国のすぐ西にいたが、前2世紀後半に匈奴に敗れて西方のバクトリア(現在のアフガニスタン)に大移動し、大月氏国を建てた。漢の武帝が同盟しようとして張騫を派遣したあの大月氏国である。大月氏国は国土を有力な5諸侯に分けて統治させていたが、この5諸侯については、大月氏の一族と見る説と、土着のイラン系有力者と見る説とがある。そのうちの一つであるクシャーナ族の首長クジューラ=カドフィセスが1世紀の中ごろ、他の4諸侯を制圧して王を名乗り、西方のパルティアと戦った。続いて北インドのインダス川流域にも進出し、ガンダーラ地方のプルシャプラ(現在のペシャワール)を都として支配した。大月氏はイラン系の遊牧民であったが、ガンジス川流域に支配を及ぼすことによって、次第にインド化し、仏教も取り入れるようになった。<世界各国史(新版)『南アジア史』2004 山川出版社 p.86 などによる>
依耐國 皮山城 10150
安息國 番兜城 11600
大月氏國 監氏城 11600
休循國 鳥飛谷 12,010
烏弋山離國 属安息 12,200
罽賓國 循鮮城 12200
大宛國 貴山城 12,250
大夏 ---------
康居 治蘇筹城 ----------
康居・卑闐城 去長安・12300里
康居・窳匿城 陽關7525里 都護5266里
康居・蘇筹城 陽關8025里 都護5776里
康居・附墨城 陽關8250里 都護5767里
康居・罽城 陽關8555里 都護6296里
康居・奧鞬城 陽關8355里 都護6906里
大夏・和墨城 去陽關7802里 都護2841里
大夏・雙靡城 去陽關7782里 都護3741里
大夏・護澡城 去陽關7982里 護5940里
大夏・薄茅城 去陽關8202里 都護5962里
大夏・高附城 去陽關9283里 都護6041里
謎の多い烏弋山離國(うよくさんり)はどこか?
松本清張は次のように述べています。「6100里とか9670里とか、里数にこまかな端数が付いているが、もとより実数ではなく、いい加減に記載したのである。こうしてみると、漢の直属国になっていない西域諸国の首都は、長安からすべて万に千里になっていることがわかる。その馬脚をあらわしているのが罽賓國(けいひんこく)と烏弋山離國(うよくさんり)が長安からともに12200里となっていることである。長安からカシミールの罽賓國と、長安からパルティア(今のイラン)の東部の烏弋山離國(アレキサンドリア)という)とが、もちろん同じ距離であるはずがない。イランの東部のほうが、カシミールよりも倍以上も長安からは遠い。
つまり、「万に千里というのは、中国の直接支配をうけていない国の王都がはるかかなたにあることをあらわす観念的な里数なのである。
冒頭にも書いた松本清張の疑問は、罽賓國と烏弋山離國がともに12200里なのはおかしいということでした。
そこで、まったくおかしくないことを証明します。
その前に、松本清張が烏弋山離國をアレキサンドリアと比定していますが、烏弋山離國(アレキサンドリア)、これは元は内藤湖南の説です。もう少し詳しくしらべてみます。
アレキサンドリアの由来は次のようになります。アレクサンドロス3世の東方遠征;紀元前326年4月~5月ヒュダスペス川(現:ジェルム川)畔でパウラヴァ族を中心としたインド諸侯軍に勝利したとき、戦勝記念に作った町です。
*アレクサンドロス3世;Vergina sun.svgクラテロス;アーンビ(英語版)
*パウラヴァ族はアーリア民族の大移動の前からいたインド・ドラヴィダ族、タミール語(நடன)・アッサム語(পি৮)などドラヴィダ系諸言語族のこと。
以下wiki引用・・・「ヒュダスペス河畔の戦いを記念してアレクサンドロスは2つの町を作った。1つはアレクサンドロスの軍馬で、この戦いで死亡したブーケファラスに因んで、「アレキサンドリア・ブーケファリア」(en)、もう1つは勝利の女神ニケに因んで「アレキサンドリア・ニカイア」(en)と命名した。アレクサンドロスはヒュダスペス河畔での勝利に続いて、更なる進軍を目指したものの、先のインド軍が「騎兵80,000、歩兵200,000、戦車8,000台、戦象6,000頭」を用意して待ち構えていると伝えられたことや、アレクサンドロス軍の損害が大きかったこと、兵士が望郷の念に駆られたこと等の理由によって、マケドニアおよびギリシア出身の兵士はそれ以上進軍しないよう懇願した。アレクサンドロスは兵士らを説得したが、結局は兵士らの意見を汲んで、バビロンへの帰路に着くこととなった。」
Alexandria Bucephalous
「アレキサンドリア・ブーケファリア」座標 32° 55′ 52″ N, 73° 43′ 51″ E
『ヒュダスペス河畔の戦い』=出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(En)Battle of the Hydaspes River Images
画像クリックすると拡大して見ることができます。アレクサンドロス3世の東方遠征の図
烏弋山離國,王去長安萬二千二百里。不屬都護。戶口勝兵,大國也。東北至都護治所六十日行,東與罽賓、北與撲挑、西與犁靬、條支接。
36 打開字典顯示相似段落 西域傳上:
行可百餘日,乃至條支。國臨西海,暑溼(湿),田稻。有大鳥,卵如甕。人眾(衆)甚多,往往有小君長,安息役屬之,以為外國。善眩。安息長老傳聞條支有弱水、西王母。亦未嘗見也。自條支乘水西行,可百餘日,近日所入云。
37 打開字典顯示相似段落 西域傳上:
烏弋地暑熱莽平【莽(広々としている)】,其草木、畜產、五穀、果菜、食飲、宮室、市列、錢貨、兵器、金珠之屬皆與罽賓同,而有桃拔、師子、犀牛。俗重妄殺。其錢獨文為人頭。幕為騎馬。以金銀飾杖。絕遠,漢使希至。自玉門、陽關出南道,歷鄯善而南行,至烏弋山離,南道極矣。
烏弋山離國は2つの距離のパラメータがあります。
都護からの里数は、一日行を24.948km、60日行は、1496.88km。
長安からの里数は、一里0,24948km、12200X0.24048=3043.656km。
以上の距離の交点をお見せいたします。誤差がありますが、3000km以上の二点間の距離ですから許容範囲かどうかはご自身で判断してください。
長安からの距離(大外の空色の線)と都護治所からの距離(内側の青色の線)の円周交点は、A;測定ポイント=烏弋山離國です。
B;実際の烏弋山離國=アレキサンドリア(Alexamdoria Bucephalous)AとBの距離の差は直線で約257kmです。
長安からの距離との誤差は175kmオーバーになりました。誤差率は5.7%でした。
東與罽賓、罽賓国は東ではなく、北になります。これは方向違いになります。東だったら、ともに12200里にはなりません。罽賓国は北462kmにありました。
あらまし、罽賓国と烏弋山離國が12200里と同じであることの疑問は解けました。松本清張さんは、こう書いています。「6100里とか9670里とか、里数にこまかな端数が付いているが、もとより実数ではなく、いい加減に記載したのである。こうしてみると、漢の直属国になっていない西域諸国の首都は、長安からすべて万に千里になっていることがわかる。その馬脚をあらわしているのが罽賓國(けいひんこく)と烏弋山離國(うよくさんり)が長安からともに12200里となっていることである。長安からカシミールの罽賓國と、長安からパルティア(今のイラン)の東部の烏弋山離國(アレキサンドリア)という)とが、もちろん同じ距離であるはずがない。イランの東部のほうが、カシミールよりも倍以上も長安からは遠い。」・・・・・松本清張さんの勘違いだったのですね。・・・まあ、いい加減だといういう言葉は松本清張さんにブーメランしたほうがいいですね。罽賓国と烏弋山離國がともに12200里は正しかったのです。あっぱれ、すっきり!
罽賓国はサカ族、スキタイ族の王の国であったことは冒頭に述べました。
條支国ー最後の難所
その前に、犁靬(リカン)というのはローマ帝国のことです。
先秦兩漢 -> 史書 -> 後漢書 -> 列傳 -> 西域傳
後漢書《西域傳》の大秦國に「大秦國一名犁鞬,以在海西,亦云海西國」とあり、「西與犁靬、條支接」
漢書西域伝の犁靬は大秦國のことです。大秦國はローマ帝国のことです。
西海とはローマに通じる海ですから地中海のことになります。
條支を探るには後漢書は信用できないのですが、ちょっと後漢書をあんちょこにします。
「條支國城在山上,周回四十餘里。臨西海,海水曲環其南及東北,三面路絕,唯西北隅通陸道。土地暑溼,出師子、犀牛、封牛、孔雀、大雀。大雀其卵如甕。」
條支国の城は山の上にあり、地中海に隣接し、南、および東北は海が取り囲んでいる。三面は道なく西北の角に陸に通じる道がある。土地は暑く、湿っており(蒸し暑く)、ライオン、サイ、ウシ、クジャクがいる。また大きな鳥がいて、その卵は甕(かめ)のように大きい。」
いわば、陸と一本の道でつながっている半島の山の上の出城といえます。このような地形は海岸はリアス式海岸に違いありません。陸との回廊は西北につながっていますから、この半島は(海に向かって)東南に突き出ています。
條支に到達した初の中国人は甘英(かんえい)です。甘英の西方見聞が史書に記録されたのです。
「永元9年(97年)、西域都護の班超は遥か西方にあるという大秦国(ローマ帝国)と国交を結ぶため、掾(えん:副官)の甘英を西方へ派遣しました。甘英は安息国(パルティア)を経て條支国(シリア)に到着し、中国人で初めて西海(地中海)沿岸へ到達したのです。甘英はそのまま海を渡って大秦国(ローマ)へ行きたかったのですが、地元の船乗りに危険だと言われて取りやめました。」
これはウィキでの一般通説です。甘英は條支国で折り返したように読めます。が、わたしは條支国が地中海には接していないと思っています。これから検証します。
甘英は班超の命令でローマに向かったのですが、條支国で踏み留まり、引き返しました。これが、西暦97年です。この時の在位していたのは後漢の3代、章帝です。班超は明帝崩御のあと西域平定に尽力し、西域都護に任じられたのが91年です。
1 世祖 光武帝 劉秀 23年 - 57年 建武 25年-56年・建武中元 56年-57年
2 顕宗 明帝 劉荘 57年 - 75年 永平 58年-75年
3 粛宗 章帝 劉炟 75年 - 88年 建初 76年-84年・元和 84年-87年・章和 87年-89年
4 穆宗 和帝 劉肇 88年 - 105年 永元 89年-105年
まあ、漢書西域伝は前漢の武帝(7 武帝(漢) 劉徹 紀元前141年 紀元前87年)から始まっていますから、なんと、
後漢の中期、230年間に及ぶ史書です。三十年を一代とすると、11代になりますよね。おそろしい大著です。
甘英が97年に條支國に到達したその年、ウェスウェイスス火山が大噴火を起こしポンペイが埋没しました。また、ローマ帝国の領域はトルコ、シリア、エジプトまで拡大していました。甘英が訪問したと云われている?條支國はすでにローマ帝国の一地方だったことになります。
パルティアはチグリス河の西側は実効支配していたようです。メソポタミアの歴史はそこそこにして、條支國はどこなのか?探求してみましょう。
「烏弋山離國,王去長安萬二千二百里。不屬都護。戶口勝兵,大國也。東北至都護治所六十日行,東與罽賓、北與撲挑、西與犁靬、條支接。行可百餘日,乃至條支。國臨西海,暑溼,田稻。有大鳥,卵如甕。人眾甚多,往往有小君長,安息役屬之,以為外國。善眩安息長老傳聞條支有弱水、西王母。亦未嘗見也。自條支乘水西行,可百餘日,近日所入云。」
・・・漢書地理志西域ではこれだけです。
100日行でようやく條支につく。西海に接している。100日行は烏弋山離國から2494.8kmと置換します。一日行は一亭×西域里数)下の白線。さて、西海とはどこでしょう?
西海はアラビア海だった!
図は、烏弋山離國から2494.8kmの外周です。白い線ですが、シリアには届きません。ちょうど、クウェートの上、カタールのやや右を通過しています。
通説では條支国はシリアだといいます。西海を地中海だと解釈するからです。自條支乘水西行,可百餘日、條支国から西船行100余日ですから、ローマまで通じる海は地中海と解釈するのは当然ですです。しかし、條支国はシリアではありません。また、西海が地中海だというのも間違えていますね。
「善眩安息長老傳聞條支有弱水、西王母。」
「烏弋山離國にいる安息の長老善眩が聞いた話によると、條支には西王母のいる弱水がある。」
ここには、「弱水」という海の名称が出てきます。西王母とは神名のようですが、地名に転じています。つまり、西王母信仰のメッカは弱水の海港にある・・・ですから、弱水こそが地中海となりますね。
このシミレーションでは、西海はペルシャ湾/アラビア海になります。
「往往有小君長,安息役屬之,以為外國」、安息の役職に属する小君長は之を以て外国となす・・・と読み下すと、「烏弋山離國をしばしば見かける安息國の小君長が條支国は安息國ではなく、外国だ。」と、言っていたのです。烏弋山離國は安息國に属し、條支は外国、すなわちローマ帝国に属していた。こういうことでしょ。これは伝聞記事、つまり烏弋山離國で得た條支国についての情報なのです。私たちはすでにこの地域がローマ帝国と安息國の境界あたりになることを知っています。條支国はローマ帝国の領域だと言っているのですね。
さて、西王母には西海沿岸から出向するのではなく、弱水でした。條支に有る弱水は安息の長老善眩が伝え聞いた事柄ですから、甘英は弱水の沿岸まで行っていないのですね。西海までなのです。速い話、條支国には行っていないのです。こう読むのが正解です。また、條支国は、チグリス河からシリアまでの領域があるローマ帝国の支配地だと想定できます。
甘英がようやくついた場所はペルシャ湾の沿岸だったといえます。
つぎに、好みではありませんが、後漢書を見てみましょう。
自皮山西南經烏秅,涉懸度,歷罽賓,六十餘日行至烏弋山離國,地方數千里,時改名排持。
18 打開字典 西域傳:
復西南馬行百餘日至條支。
19 打開字典顯示相似段落 西域傳:
條支國城在山上,周回四十餘里。臨西海,海水曲環其南及東北,三面路絕,唯西北隅通陸道。土地暑溼,出師子、犀牛、封牛、孔雀、大雀。大雀其卵如甕。
20 打開字典 西域傳:
轉北而東復馬行六十餘日至安息。後役屬條支,為置大將,監領諸小城焉。
烏弋山離國から馬行100余日・・・後漢書の范曄がもう100日行を馬行に変えています。馬行だと、一日行の約6倍ですから、スペインを通り越して大西洋まで行ってしまいます。范曄の加える新解釈とはこんなものです。後漢書は、いい加減な史書ですから扱い要注意です。後漢書を解釈の拠り所にするととんでもないことになるという一例です。後の章「後漢書倭伝はお笑いの傑作ですよ」で、後漢書の間違いを批判しています。是非お読みください。
つぎに後漢書は條支国についてソース(出典)が怪しいのですが、つぎのような見聞記事を書いています。
「條支国の城は山の上にあり、西海に臨んで周囲を回ること40余里、その南と東北は海で、三面に道は途絶え、ただ、西北の隅に陸地に通じる道がある。土地は蒸し暑く、ライオンやサイ、封牛、クジャク、大スズメがいて大スズメの卵は甕のようだった。」
この岬の上にあるような條支国の城とはいったいどんな資料をもとにしているのでしょうか。そういうことです。甘英が到達していないのですから條支国の見聞録は存在していないはずです。范曄の空想だということがバレたのではないでしょうか。
そうはいっても、西域人から聞いた別の情報だとして一応検証してみます。西海を臨む、その国は現在のクウェートでしょう。その近くに、それらしき城跡はあるのでしょうか。
南と東北は海で、三面に道は途絶え、ただ、西北の隅に陸地に通じる道がある。・・・そんな岬のような場所はペルシャ湾にありません。
あえて、2か所ばかりGoogle Earthで探してみました。一つは、提起すると、クウェート湾の東にAI-ZAWARという島があります。南と東北が海ですが、西北に陸に通じる道ははありません。、陸に西北方向直近距離は13KMあり、途中に島が一つあります。2000年前に天橋立みたいにつながっていたかどうか、この推理、ちょっとリスクが大ありですね。13kmの間、この一帯が古代そうとう隆起していたと考えないと成り立ちません。
つぎの、Qeshm Islandのほうがまだましかもしれません。
山の上に城があったでしょうか?なんか、展望台ぐらいのイメージですが、
2つ目は、ホルムズ海峡の中ほどにあります。ここは日本のオイルタンカーが通過するところです。
Qeshm Island ホルムズ海峡にあります。三面海で西北部が陸に近い島です。陸との間は2.7kmぐらいです。
アラブ首長国連邦、ドバイの東北180kmにあります。
120mぐらいの標高がある山があります。
なにせ、范曄さんに付き合うと碌な結果になりませんが、まあ、探索ということでやっています。宝探しのようなノリですかね。
海岸まで岩礁がとびとびにあります。橋を掛けられそうです。西北の隅に陸地に通じる道がある。
はたして、古代、ここに自然道があったかどうか、新たな謎を出してしまいました。
甘英が97年、どこまで踏破したのか、條支国へは行っていないとすると范曄はいったいどこを見ているのでしょう?
條支国の旅みたいなテーマになってしまいましたが、東北から突き出た半島がたくさんあるのはエーゲ海のギリシャ海岸です。
まさかとは思いますが・・・。范曄の加えた初出の部分はほんとうに怪しいのです。
長安から條支国まで、およそ里数をもって探索するのが鉄則だといういう結論で締めたいと思います。
そこでひとまず休憩といたします。
みなさま、お休みなさい!
日本書紀と大廈
斉明天皇の三年(668年)書記には「覩貨邏国(トカラ)の男二人、女四人、筑紫に漂い泊れり」とあり、トカラ国の人間が日本に入国したことが書かれています。トカラ国は紀元前1世紀ごろの西域諸国の一つ。安息国(パルティア)の東側にありました。現在のトルクメスタン南部とアフガニスタン北部の周辺地域にあたります。
*吐火羅(トカラ)国はトハーリスターン=大夏国のことのようです。中国史書でも吐呼羅国,吐火羅国,覩貨邏国<などと表記され、大夏をトハラと音訳したようです。武帝(在位:前141~87年)は張騫を使者とした使節団を西域に派遣し、張騫は匈奴に捕われるなどして10年以上かけ、西域の大宛・康居を経て、ようやく大月氏国にたどり着きました。張騫によると、この大月氏国の都は媯水(カスピ海)の北に王庭が在り、その南にある大夏を役属させていたといいます。大夏とはおそらくトハラの音写で、トハラ人もしくはトハーリスターン(トハラ人の土地)であると思われます。その大夏の都は藍市城といい、これがバクトラにあたるといわれますが、漢書地理志によれば藍市城は大月氏国の首都でした。これには経緯が加えないといけないのです。大廈は敦煌から移動入植してきた大月氏国によって滅亡しました。大月氏国はまた、大月氏の傍系の一国であったクシャーナ朝になり、その後エフタル、ササン朝ペルシャに支配されました。その後、バスラの戦い(656年)でイスラム・アラブ支配に移っています。
斉明天皇は皇極天皇が重祚したのですが、その3年、西暦668年にはアラブに制圧された後ですから、大月氏国もとうに滅んでいた時代です。「覩貨邏国はなかったのですね。すると、トカラ人という旧民が渡来したとかんがえるべきなのでしょうか?
<工事中:続く>
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