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羽衣伝説が日本海側が本流なわけ

[打吹羽衣伝説](うつぶきはごろもでんせつ) →赤いバルーンは鳥取県倉吉市打吹地区、白壁土蔵のまちとして名高い、ここ倉吉の町に打吹山(うつぶきやま)があります。
倉吉のシンボル「打吹山」には古来「天女伝説」があります。天女とされていますが、実際に朝鮮半島から漂流してきた女と考えられます。羽衣伝説は太平洋側の三島のほうが有名ですが、わたしは日本海側に必ず類似の伝説があるはずだとおもっていました。

《打吹羽衣伝説》
 昔むかし、倉吉に住む若いきこりが、玉の仕事を終えて帰る途中、きれいな衣が木の枝にかかっているのを見つけた。「いったい誰の着物だろう…」と言いながら手に取ったところ、 「その衣は私のものです。どうぞ返して下さい。」と若い女の人の声がした。その女の人は、近くの湧き水で水浴びをしていたのだった。女の人は何度も頼んだが、とても立派な衣なのできこりは返さず、とうとう家に持ち帰ってしまった。

衣を返してもらえない女の人は、妻となり、きこりの家で暮らすしか仕方がなかった。

そして、何年か経つと二人の子供が生まれ、元気に育ったが、いつも春になると、お母さんは寂しい顔をするばかり…。

夏も近くなったある日、お母さんは二人の子供に「あなたたち、お父さんが私に何か隠しているのを知らないかい」と聞いたところ、子供たちは、お父さんに日頃行ってはいけないと言われていた屋根裏から箱をみつけてきた。 開けてみると、それは目も醒めるような、きれいな衣が入っていた。

お母さんは喜んでその衣を着ると、井戸の傍の夕顔のつるを伝って、スーッと空に舞い上がってしまった。そう、お母さんは天女だった。 「お母さーん」「おかあさーん」子供たちは泣きながら追いかけたが、どうすることもできない。「そうだ!お母さんは鼓や笛が好きだった。それで呼び返そう!」と山にかけ登り、二人は力いっぱい鼓を打ち、笛を吹いた。

母を慕って子供たちの打つ鼓と笛の音は、いつまでも、どこまでも響いていた。しかしお母さんは二度と帰ってくることはなかった。

二人の子供たちが鼓を打ち、笛を吹いたこの山を、その時から人々は『打吹山』と呼ぶようになったという。

遠い昔の悲哀に満ちたお話だが、今もこの地方では「打吹天女伝説」と言われて、広く語り継がれている。

別伝の2
《天女の羽衣伝説》
昔むかし、舎人(とねり)という狩人が
水浴びをしている天女の羽衣を見つけ、
その美しい天女を妻にしようと羽衣を隠してしまいました。

天女は、浅津(あそづ)という名前を付けられ
泣く泣く舎人の妻となり、やがて月日が流れ
二人の可愛い娘『お倉とお吉』ができました。
天女はどうしても天の事が忘れられません。
とうとう娘達から羽衣の隠し場所を聞き出し、天女は空高く天へと帰ってしまいました。
残されたお倉お吉は、くる日もくる日も母を呼び戻そうと近くの山へ登り
笛や太鼓を鳴らしましたが、ついに母を呼び戻す事はできませんでした。

この事から、その地名を二人の名前の
『倉吉(くらよし)』
「太鼓を打つ・笛を吹く」から、近くの山を
『打吹山(うつぶきやま)』
と呼ぶようになりました。


この伝説にそってお倉とお吉をイメージし
等身大で銅像化したものが
・河北小学校前SS
・倉吉駅前SS
・打吹公園SS
に設置されているお倉とお吉像なのです。

打吹童子ばやし 2019/05/22→ 鳥取県文化振興財団
テンポが早く、はげしい動きは、ほぼ二拍子。このテンポは半島の巫女の入神のときの楽舞曲に似ている。

参照文献_2
羽衣伝説「丹後国風土記:奈具社」

丹後国(現在の京都府北部付近)風土記が伝え記すには丹後国の丹波郡、その西北の方角の隅に比治の里という場所があった。この里の比治山の頂上に眞奈井(まない)という泉があった。今はもう沼となっているが、まだ泉であった頃、ここへ八人の天女が舞い降り水浴びを行っていた。

その水浴びを一組の老夫婦が見ていた。老夫婦は和奈佐(わなさ)の翁、嫗といった。老夫婦は泉のほとりにあった天女たちの羽衣の一つを密かに隠してしまった。水浴びを終えた天女たちは羽衣を纏い天へと戻って行ったが、隠された一人は天に戻ることもできず恥ずかしさからか水へ体を隠した。そこへ翁は近づき、声をかけた。「私たち夫婦には子供がいません。天女よ、どうか私たちの子になったもらえないでしょうか」

天女は「私一人だけ仲間から離れ、地上に残ってしまいました。どうしてそのお言葉に従わないわけがありましょうか。(あなたたちの子になりますので)どうか羽衣を返してもらえないでしょうか」と答えた。

翁は「天女ともあろう方は衣を返してほしいがために、私たちだまそうとするのですか」と問いただした。天女は翁へ「天の者の言葉は信実の心が根元にあります。どうしてこの心を疑って羽衣を返してもらえないのですか」と訴えた。

翁は「猜疑が多く、信がないのが地上の人の世なのです。そのためあなたの言葉もその心から疑ったのです」と言い、天女へ羽衣を返して夫婦の家へ帰り、そのまま一緒に十数年一緒に暮らすこととなった。

天女は酒を造るのが大変上手く、一杯呑めばあらゆる病気が治った。その一杯を得るために荷車に財宝が積まれ送られてくるほどであった。老夫婦の家は豊かになり、土地も豊かとなりいつしか土形(ひぢかた)の里と呼ばれた。これが現在比治というようになったのである。

十数年暮らしたのち、老夫婦は天女へ「お前は私たちの本当の子ではない。少しの間だけ住まわせただけだ。早くこの家から出て行きなさい」と伝えた。天女は天上を見上げて嘆き悲しみ、床にうつ伏せて「私は私自身が望んでこの家に居たわけではありません。

あなたたちが願ったことではありませんか。

どうして今になって嫌い出て行けと悲しいことを言われるのですか」と老夫婦へ訴えれど、翁はますます怒り、早く出て行くように天女へ求めた。少しして天女は涙を流しつつ老夫婦の家から出て、郷の者に「長く地上の人の世に残っていたために、天へ還ることもできません。また親しい間柄の者もいないのでこの郷に留まることもできません。どうすればよいのでしょう…どうすればよいのしょうか……」と言い残し、涙を拭って嘆き天を見上げて歌を詠むには、

天の原 ふり放(さ)け見れば 霞立ち 家路まどひて 行方知らずも

そうして里を離れ荒塩の村に着き、「老夫婦の心を思えば私の心は荒塩と何も変わりはありません」と村人に言った。このことから荒塩の村というようになる。また丹波の里の哭木(なきき)の村に着いては槻(つき、ケヤキ)の木に凭れ泣いた。そのため哭木の村という。また竹野郡船木の里奈具の村に到り、村人へ「この村に着いて私の心は落ち着き平和になりました(※1)」と言い、この村に住むようになった。
これはすなわち竹野の郡奈具の社に奉られている豊宇賀能賣命(とようけのひめのみこと)のことである。

※1 本文は「古事に平善(たひらけ)きをば奈具志と云ふ」の記載が見受けられる

挿絵:蓮むい
文章:香夜(こうや) @マーク引用先



莞㠀 (グワンド) の奥に巨大なリアス式入江がある。耽津は三国時代に使われた古代名。8世紀中頃まで日中韓貿易のハブ港として栄えた。

百済の南道の図解 随書で言う竹島は莞㠀 (グワンド)!






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