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鬼伝説は渡来人
《・・・工事中・・・》

つぬがあらしと
都怒我阿羅斯等
生誕 不詳
(古代朝鮮)
死没 不詳
住居 笥飯浦(現・福井県敦賀市)
別名 于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)
活動期間 崇神天皇の時代、または垂仁天皇の時代
時代 古代
親 父:意富加羅国(大加耶/大加羅)、母:不詳
補足
地名「敦賀(つるが)」の由来の人物といわれる。

都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと、生没年不詳)は、『日本書紀』に伝わる古代朝鮮の人物。

『日本書紀』では「都怒我阿羅斯等」、他文献では「都怒賀阿羅斯止」「都怒何阿羅志止」「都奴加阿羅志等」とも表記される。また『日本書紀』では別名を「于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)」とする。
干岐とは:加羅國、この地には未だ国というものがなく、ただ我刀干、汝刀干、彼刀干、五刀干、留水干、留天干、神天干、五天干、神鬼干という九人の干(おさ)が連合し、民を治めていたのです。やがて九干がまとまって首露王42-199を共立したのです。加羅国の建国説話では亀から出たの6つの金の卵が天から降ってきたというので加羅族は「亀」をトーテムとしています。余談ですが、浦島太郎伝説では亀を助けたことになっていますが、浦島太郎は亀に助けられたのが真相です。

意富加羅国(大加耶/大加羅)の王子で、地名「敦賀(つるが)」の由来の人物といわれる。
【高霊加羅】より
…朝鮮古代の加羅諸国中の有力国。別名は大伽耶,加羅。現在の慶尚北道高霊郡を中心とし,王都は高霊邑,王都防衛の山城は西方の主山と東方の望山とにあり,池山洞を中心に高霊古墳群がある。

高霊古墳群地図
【高霊加羅】より …朝鮮古代の加羅諸国中の有力国。別名は大伽耶,加羅。現在の慶尚北道高霊郡を中心とし,王都は高霊邑,王都防衛の山城は西方の主山と東方の望山とにあり,池山洞を中心に高霊古墳群がある。 高霊古墳群→地図


『日本書紀』では垂仁天皇2年条の分注として2つの所伝が記載されている。1つ目として崇神天皇の時、額に角の生えた都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着したという。そしてこれが「角鹿(つぬが)」の語源であるとしている(角鹿からのちに敦賀に転訛)。また垂仁天皇の時の帰国の際、天皇は阿羅斯等に崇神天皇の諱(御間城<みまき>天皇)の「みまき」を国名にするよう詔した(任那(弥摩那)の語源)。その時に阿羅斯等に下賜した赤絹を新羅が奪ったといい、これが新羅と任那の争いの始まりであるとする。

2つ目の所伝では、阿羅斯等が国にある時、黄牛の代償として得た白石が美しい童女と化したため、阿羅斯等は合(まぐわい)をしようとした。すると童女は阿羅斯等のもとを去って日本に行き、難波並びに豊国の国前郡の比売語曽社の神になったという。

なお2つ目の所伝の関連伝承が、『古事記』の天之日矛(天日槍)・阿加流比売神説話や、『摂津国風土記』逸文(『萬葉集註釈』所引)に見える。

名の「つぬが」については、新羅の最高官位「舒弗邯(ソブルハン、角干の別名)」を訓読みしたことに由来するとする説がある。  本伽耶の10代仇衡王(譲王、世宗)が最後の王で、562年次の金武力からは新羅王族にとりこまれて、新羅角干という官位をもつようになった。金舒玄(キム・ソヒョン)、金庾信(キム・ユシン)とも新羅角干となったのである。角干が「つぬが」が転訛して地名「敦賀」が生まれたともいわれる。また「あらしと」とは、朝鮮語の「閼智(アルチ)」に見えるように、新羅・加耶における貴人への敬称と考えられている。加羅の連合国の大加羅など諸国の王は干岐(かんき)と称していて、族長と同じ意味である。
敦賀には式内社として白城神社・信露貴彦神社といった新羅(白城/信露貴)系の神社も分布しており、「都怒我阿羅斯等」の名やその説話と合わせ、朝鮮半島南部から敦賀周辺への相次ぐ渡来人の来訪と定着が示唆される。ただしその所伝に関しては、説話の時期・内容の類似性から蘇那曷叱知(任那からの朝貢使)と同一視する説がある。
また、2つ目の所伝に見える「比売語曽社」のうち、難波の社は比売許曽神社(大阪府大阪市東成区、式内名神大社)、豊国の国前郡の社は比売語曽社(大分県東国東郡姫島村)に比定される。この2つ目の所伝は天日槍伝説と同工異曲とされ、同一の神に関する伝承と見られている。「天日槍」の名称自体、上述の「ツヌガ(角干:最高官位)アラシト(閼智:日の御子の名)」の日本名になるとする指摘もある。そしてこれらの伝説において天日槍は新羅王子、都怒我阿羅斯等は大加羅王子とされているが、これは朝鮮由来の蕃神伝承が日本側で特定の国に割り当てられたに過ぎないとされる。

注*金舒玄(キム・ソヒョン) 徐羅伐に戻ってきてからマンミョン夫人の母マノ(萬呼)太后から(天明)王女との結婚を許され、花郎(ファラン)と真骨(チンゴル)の身分を回復し、阿莫(アマク)城の戦いの功績により和白(ファベク)会議にも参加できるようなる。(564~?年)
*金庾信(キム・ユシン) 王女である母マンミョン(萬明)夫人と金官伽耶の王族だった父キム・ソヒョン(金舒玄)が王室の猛反対の中で逃走を敢行しながら生まれた子である。ファランの組長となり統率力は抜群で、金春秋とともに、三韓一統という巨大な夢を成し遂げる。
*善徳女王(ソンドクニョワン、? - 647年2月17日(旧暦1月8日))は、新羅の第27代の王(在位:632年 - 647年)。新羅初の女王。
姓は金、諱は徳曼。先代の真平王の娘であり、母は金氏の葛文王福勝の娘の摩耶夫人、王配は水月葛文王朴欽飯。
3人姉妹(善徳女王は『三国史記』では長女として記録され、『三国遺事』と『花郎世記』では次女とされている。天明公主は『三国史記』で次女、『三国遺事』では娘、『花郎世記』では長女。三女の善花公主は『三国史記』と『花郎世記』では存在が伝わっていない、男兄弟はいない。善徳女王は仏教の保護にも熱心であり、慈蔵法師を唐に派遣して仏法を修めさせた。帰国した慈蔵法師の発願で645年3月には皇龍寺の九層塔を創建したほか、女王の時代に芬皇寺や霊廟寺が完成している。
*金春秋(キム・チュンジュ)諡は武烈王(ぶれつおう、602年? - 661年)は、新羅の第29代の王(在位: 654年 - 661年)となる。王妃は角干(1等官)の金舒玄の娘の文明夫人・文姫。(三国史記・分注)唐の高宗の永徽元年(650年)からは、新羅独自の年号を廃止し、唐の元号を使用するようにした。このとき、同時に官服を唐風に改めた。孝徳天皇に、新羅の使節が唐風の官服を着てきたので、天皇はこれを嫌って追い返したという記事がある。問題の三女の善花公主(ソンファ)であるが、王から追放されたことから廃姫されたために、正史からは抹殺されたが、なんと百濟の武王の妃となっていた。この話は日本では炭焼き長者の民話として残っている。

《伝承》

角鹿神社(福井県敦賀市)
氣比神宮(福井県敦賀市)の社伝では、都怒我阿羅斯等は敦賀の統治を任じられたとする。また、氣比神宮境内摂社の角鹿神社(式内社)はその政所跡であるとし、現在は都怒我阿羅斯等が祭神とされている。
于斯岐阿利叱智干岐(うしきありしちかんき)とも。日本の神話伝承、日本書紀の垂仁天皇の箇所(垂仁紀)にでてくる。額に角のある者が、 崇神天皇の時代に 越の国の笱飯の浦、けびうら(福井県の敦賀)ついた。それで角鹿(つぬが)という地名になったという。
大加羅(おおから)国の王の子、都怒我阿羅斯等だという。日本に聖王がいるというので来たが穴門(あなと 長門)の王に 他の国にいってはいけないといわれたが人となりから王ではないと退出したが道が分からずやってきたという。
天皇の崩御があり、垂仁天皇に三年仕え、国に帰りたいかと天皇に聞かれ、帰りたいと答えたので、 もし、道に迷わず来たなら先皇に会えただろうから御間城(みまき)天皇の名をとって国の名とせよ、というので みまな(任那)の国になったという、と日本書紀では伝える。日本と朝鮮双方でこのような人の行き来した神話伝承がある。

また都怒我阿羅斯等が自分の国にいたとき黄牛(あめうし)を飼っていた云々という物語もある。

能登では朝鮮・新羅の王子がに上陸しこの地方を平定して守護神と祀られ、熊甲神社では、 久麻加夫都阿良加志比古(くまかぶとあらかしひこ)・あらかしひこ神、と、つぬがあらしと神の二神を祀っている。 地元で朝鮮神様と呼んでいる。
二本の角が生えていた人物像
この二本の角が生えていたという伝承は、イメージとして復元すると次のような画像になるだろう。

サマルカンドの壁画 7c ウズベキスタン歴史博物館蔵
新羅人男性使節図(描き起こし図)
この壁画はL.L.アリバウムが発掘し、壁画復元の担当者でもあった。
出典:『古代サマルカンドの壁画』L.I.アリバウム (著), 加藤 九祚 (翻訳) 文化出版局 1980年6月

「この壁画は、ソグドおよび中央アジア、内陸アジアの多くの地域の文化史、美術、民族起源、民俗学のもっとも貴重な資料である」
辺11メートルの長さの壁画(西側、高2.7m)には、サマルカンド王;・ワルフマーンに入貢した諸外国の使節が描かれている。ワルマーンが658年春から「康居都督(こうきょととく))に任命されたこと・・・到着しつつある外国人使節が描かれている。・・・それと並んで右側に2人の人物が6色の色で描かれている。顔容はあきらかに現代人とかわらない。同じ東アジア人である。頭部には鳥のをそれぞれ二本さしている。
タートルネックの黄土色(カーキ色)上衣(うわぎ)は膝上まで達しており、その下はズボンである。この当時の東アジアで上衣が合わせ着ではなく、タートルネックなのは異国風であり、・・・;両の手首は袖に隠して供手(敬礼)の姿勢を取っている。(L.I.アリバウム)



さて、その彩色は色あせているが6色で、上衣はカーキ色である。これには新羅が山と白を尊ぶとしているが、白ではなく、染色されていることが注目される。
また、ベルトをしており、環頭大刀(かんとうたち)を吊るしている。
左写真ではよくは見えないが、執金具(とりかなぐ)で吊り下げられている。環頭大刀は金装飾が施された高価な刀であり、写真の二人は高貴な身分の者であっただろう。











さて、環頭大刀は出雲地方の安木市かわらけ谷横穴墓出土の双龍環頭大刀を連想させる。双龍環頭大刀は7cの古墳と島根県教育委員会が認定している。宝物に等しい装飾刀であるが、鉄の刃があり実戦でも使っていたことをうかがわせる。この刀が出雲で作られたのか、新羅で作られ、献上され出雲に持ち込まれたと推察する。あまりにも装飾技術が高く、質の高さからはいわゆる本場ものであろうと推察する。

島根県安来市かわらけ谷横穴古墳出土7c 「双龍環頭大刀」(そうりゅうかんとうたち)」
この環頭大刀には金メッキがほどこされており、そうとうな身分の高い人物が所持していただろう。
562年には大加羅(高霊)が新羅に滅ぼされ、残る加羅諸国は新羅に併合された。天之日矛(天日槍)がはたし何処から来たのだろう。
金官国に代わって台頭してきた伴跛(慶尚北道高霊郡)が、一般的には大加羅を指すものと考えられている。大加羅は智異山(ちいさん)の南西部に位置し新羅の星州と対立し、百済と軍事的に同盟して、しばしば戦争をしている。百済が554年に管山城の戦いで新羅に敗れて聖王が戦死したのが大きい。管山城は公州市と大邱市の街道の中間にある重要地であった。公州市と大邱市がいまでも仲が悪いのはこのためという。都怒我阿羅斯等が角のある武人、つまり頭に二本の鳥の羽をつけた貴人だったとすれば、それは、新羅の官服を着ていたことになる。だが、新羅人だといいきれないところがある。継体欽明などが任那復興を夢見ていたことは日本書紀に明らかだ。都怒我阿羅斯等は出身が伽耶であるが、いでたちは新羅風だった。と、解釈すべきだろう。ということは都怒我阿羅斯等は大伽耶(高霊)ではなく、現在の韓国慶尚南道金海市にあった駕洛国・金官加羅・任那加羅だと推察する。



第2節
気比神宮摂社「角鹿神社」の祭神
「天日槍」と同一の神とする説もある。

『日本書紀』に伝わる古代朝鮮の人物。
『日本書紀』では「都怒我阿羅斯等」、他文献では「都怒賀阿羅斯止」「都怒何阿羅志止」「都奴加阿羅志等」とも表記される。また『日本書紀』では別名を「于斯岐阿利叱智于岐(うしきありしちかんき)」とする。
意富加羅国(大加耶/大加羅)の王子で、地名「敦賀(つるが)」の由来の人物といわれる。

氣比神宮(福井県敦賀市)の社伝では、都怒我阿羅斯等は敦賀の統治を任じられたとする。また、氣比神宮境内摂社の角鹿神社(式内社)はその政所跡であるとし、現在は都怒我阿羅斯等が祭神とされている。

『日本書紀』では垂仁天皇2年条の分注として2つの所伝が記載されている。1つ目として崇神天皇の時、額に角の生えた都怒我阿羅斯等が船で穴門から出雲国を経て笥飯浦に来着したという。そしてこれが「角鹿(つぬが)」の語源であるとしている(角鹿からのちに敦賀に転訛)。また垂仁天皇の時の帰国の際、天皇は阿羅斯等に崇神天皇の諱(御間城<みまき>天皇)の「みまき」を国名にするよう詔した(任那(弥摩那)の語源)。その時に阿羅斯等に下賜した赤絹を新羅が奪ったといい、これが新羅と任那の争いの始まりであるとする。

2つ目の所伝では、都怒我阿羅斯等は自分の牛に荷物を背負わせて田舎へ行ったが、牛が急にいなくなってしまった。足跡を追って村の中に入ると、その村の役人が、「この荷の内容からすると、この牛の持ち主はこの牛を食べようとしているのだろう」と言って食べてしまったという。都怒我阿羅斯等は牛の代償として、その村で神として祀られている白い石を譲り受けた。石を持ち帰って寝床に置くと、石は美しい娘になった。
都怒我阿羅斯等が喜んで娘と性交しようとしたが、目を離したすきに娘はいなくなってしまった。都怒我阿羅斯等の妻によれば、娘は東の方へ行ったという。娘は難波に至って比売語曾社の神となり、また、豊国の国前郡へ至って比売語曾社の神となり、二箇所で祀られているという。

なお2つ目の所伝の関連伝承が、『古事記』の天之日矛(天日槍)・阿加流比売神説話や、『摂津国風土記』逸文(『萬葉集註釈』所引)に見える。

Wikiに載っている考証は以下の様である。
名の「つぬが」については、新羅や加耶の最高官位「角干(スプルカン)」を訓読みしたことに由来するとする説が有力であり、またこの「つぬが」が転訛して地名「敦賀」が生まれたともいわれる。また「あらしと」とは、朝鮮語の「閼智(アルチ/アッチ)」に見えるように、新羅・加耶における貴人への敬称と考えられている。敦賀には式内社として白城神社・信露貴彦神社といった新羅(白城/信露貴)系の神社も分布しており、「都怒我阿羅斯等」の名やその説話と合わせ、朝鮮半島南部から敦賀周辺への相次ぐ渡来人の来訪と定着が示唆される。ただしその所伝に関しては、説話の時期・内容の類似性から蘇那曷叱知(任那からの朝貢使)と同一視する説がある。

また、2つ目の所伝に見える「比売語曽社」のうち、難波の社は比売許曽神社(大阪府大阪市東成区、式内名神大社)、豊国国前郡の社は比売語曽社(大分県東国東郡姫島村)に比定される。この2つ目の所伝は天日槍伝説と同工異曲とされ、同一の神に関する伝承と見られている。『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」、他文献では「日桙(ひぼこ)」のほか「天日槍命」・「天日桙命」・「海檜槍(あまのひぼこ)」とも表記される。「天日槍」の名称自体、上述の「ツヌガ(角干:最高官位)アラシト(閼智:日の御子の名)」の日本名になるとする指摘もある。そしてこれらの伝説において天日槍は新羅王子、都怒我阿羅斯等は大加羅王子とされているが、これは朝鮮由来の蕃神伝承が日本側で特定の国に割り当てられたに過ぎないとされる。
そもそも、新羅に吸収併合されるのは562年であり、都怒我阿羅斯等は大加羅(高霊)が新羅に滅ぼされる以前に敦賀にやってきたこと言えるだろう。こうして、天日槍が新羅王子と見立てることは早とちりだろう。このときの百済王は武寧王(在位501-523年)、新羅との同盟を願ったが新羅は却って任那加羅諸国への侵攻を繰り返し、昌王(在位523-554年)の代、532年に任那の金官国が新羅に降伏した。この為、任那加羅諸国は百済に救援を求め、百済は安羅に駐屯して新羅に備えるとともに、聖王が主宰して任那加羅諸国の首長と倭の使臣との間による復興会議(いわゆる任那復興会議)を開いたが、百済は単に任那加羅諸国を新羅から守ろうとしたのではなく、百済自身が任那加羅諸国への勢力拡大を狙っていた。こうして任那加羅地域は新羅・百済の争奪戦に巻き込まれることとなったが、百済が554年に管山城の戦いで新羅に敗れて聖王が戦死すると新羅の優勢は決定的となり、562年には大加羅(高霊)が新羅に滅ぼされ、残る加羅諸国は新羅に併合された。

谷川健一氏が『青銅の神の足跡』において、ツヌガアラシトについてどう書いているかを紹介しておく。
「垂仁紀」の記事によると、ツヌガノアラシトという渡来人が、日本国に聖皇がいますと聞いて帰化しようとしてやってきたとき、穴門の国、つまり長門国の西南部で、そこの国の王と称する伊都都比古と呼ばれる人間から、とどまることをすすめられた。しかしそれをことわって、島や浦をつたい、北海をめぐり笥飯(けひ)の浦まできた。北海というのは出雲の国以北の海岸一帯を指す。
ここにいう「額に角有ひたる人」という奇怪な表現をどのように理解すればよいのだろうか。
例えば本居宣長は、「実の角には非じ、頭に冠りたりし物の角と見えたるなるべし」としている。
谷川健一氏は、額に角の生えた人間というのは、銅や鉄の精錬技術をもたらした大陸系の渡来人にほかならぬ。そう推測するのは、兵器の生産神として古代中国の神話に登場する蚩尤(しゆう)は、銅頭鉄額にして、鉄石を食うとあり、またその耳ぎわの毛は剣戟のようにするどく、頭に角があって、それでたたかうとされているからである。
同様の根拠は、『今昔物語』巻十七、 『宇治拾遺物語』 にみられるとしている。

敦賀駅前に立つ、「都怒我阿羅斯等」の像


百済の南道の図解 随書で言う竹島は莞㠀 (グワンド)!






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