HOME-TOPへ

NO336_2・・・・魏志倭人伝 文法構造で解読する

卑彌呼と公孫氏と尉仇台


大率とは?
P'ブロック
自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國、於國中有如刺史、王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使>倭國皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯、下戸與大人相逢道路逡巡入草、傳辭説事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾
 
大率とは官名です。いったいどこの国がどの時代に大率という呼び名を用いていたのでしょうか?随書の百済傳に大率という官名がありました。南に新羅、北に高句麗とありますから、この国は漢城百済で、その官名です。一大率と一があるのは数詞の修飾詞で「ある一人の」と訳します。
大率が『固有名詞』です。

隋書卷八十一列傳第四十六東夷百濟
百濟之先,出自高麗國。其國王有一侍婢,忽懷孕,王欲殺之,婢云:「有物狀如雞子,來感於我,故有娠也。」王舍之。後遂生一男,棄之廁溷,久而不死,以爲神,命養之,名曰東明。及長,高麗王忌之,東明懼,逃至淹水,夫餘人共奉之。東明之後,有仇台者,篤於仁信,始立其國于帶方故地。漢遼東太守公孫度以女妻之,漸以昌盛,爲東夷強國。初以百家濟海,因號百濟。曆十餘代,代臣中國,前史載之詳矣。開皇初,其王餘昌遣使貢方物,拜昌爲上開府、帶方郡公、百濟王。其國東西四百五十里,南北九百余里,南接新羅,北拒高麗。其都曰居拔城。官有十六品:長曰左平,次大率,次恩率,次德率,次杆率,次奈率,次將德,服紫帶;次施德,皁帶;次固德,赤帶;次李德,青帶;次對德以下,皆黃帶;次文督,次武督,次佐軍,次振武,次克虞,皆用白帶。
*淹水 ソウル市内を流れる漢江。東明逃走経路詳細はここ。または、ここ
*公孫度女妻之・・・以の一字からは前文に登場する女である。侍婢(河伯神女)である。その部族、涓奴加の宗主とかんがえられる。
*開皇 隋の文帝楊堅の治世に行われた年号。 隋朝最初の年号。581年 - 600年。 元年は581年。
*餘昌 第27代昌王554-599年/別名威徳王、(使持節・侍中・車騎大将軍・帯方郡王・百済王)/三国史記正史による。
百済の前身は高句驪國から出ている。その国(稾離国)に側室をもつ王(金蛙王)がおり、あっという間に妊娠した。王は自分の子ではないと思い、この子を殺そうと思った。その側室は「わたしは鶏子のような物がわたしのなかに飛び込んできたのを感じました。それは妊娠の証のようです。」 王はこの(...河伯女郎)の産んだ子を殺さずに捨てることにした。豚小屋に捨てさせたがとうとう死ななかった。それを見た王はその子を神となし、養育するよう王は命じた。この男子の名を東明といい、長じると、稾離王(金蛙王)はこの子を忌み嫌うようになり、東明(朱蒙)は恐れて淹水まで逃げた。扶余人はこの東明を共に奉じることにした。東明のあと、仇台というものがいて仁信が篤く、初めて帯方の故地(稾離国、句驪の語源か?東沃沮)において国をつくった。漢の遼東太守公孫度は娘を妻となし、だんだん隆盛となり、東夷の強国となった。はじめて百家をもって海を渡り、それにちなんで百済と号した。十余代が中国の臣として仕え、百済の前史を詳らかに載せることができた。隋の開皇の始め(581年)餘昌(第27代百済昌王・在位554-598年)という王が貢献してきた。餘昌は上開府帯方郡公・百済王に除された。
その百済国は東西450里、南北900余理で、南に新羅に接し、北は高麗(高句麗)が拒んでいる。都は居拔城といい、十六品の官位制があり、曰く、「左平、その次に大率,次に恩率,次に德率,次に杆率,次に奈率,次に將德,以上の官服の帯は紫色である。次に施德、この官の帯の色は皁色(黒);次に固德,これは赤帶;次に李德,これは青帶;次に對德以下,皆黃帶である;次に文督,次に武督,次に佐軍,次に振武,次に克虞,これらは皆白帶を用いる。

*稾離国(こうりこく)わらという意味。通称東扶余城のこと。
 *淹水 今のソウル市を流れる漢江(ハンガン)のこと。
**朱蒙の天光受胎、日精に感じて生まれた伝説を書いているが、金蛙王は卵を犬や豚の傍に捨てさせるが、共にこれを食べなかった。路上へ捨てると牛馬がこれを避け、野原へ捨てると鳥が卵を抱いて守った。自ら割ろうとしても割れず、遂に母へ返した。母が暖め続けると卵が割れ、男の子が生まれた。それが朱蒙である。こうした伝説では鶏の卵から産まれたことになっている。この母は河伯の女と通称され、日本書紀に河伯で(仁徳天皇紀)に祟り神として登場する。古事記では沼河比売が同じ類型の主人公である。

尉仇台が高句麗の東明王、朱蒙の後だとしています。尉仇台が朱蒙と同じく稾離国=東扶余に遠祖があるということですが、わたしは混乱していると思います。総じて、百済の王の14代昌王が尉仇台の後継であることを述べていることが重要でしょう。そして、尉仇台の王統の内官制度に大率という官名があることが判明したのです。

*三国史記 卷四十 雜志 第九:職官 下 武官 「北史云,百濟官有十六品,佐平五人,一品,達率三十人,二品,恩率三品,德率四品,扞率五品,奈率六品,將德七品,施德八品,固德九品,季德十品,對德十一品,文督十二品,武督十三品,佐軍十四品,振武十五品,剋虞十六品,
北史によると第二品は達率となっているという文例。大率が達率と違いがみられるが32人いた。一大率とはその32人の一人という意味になるだろう。


 上のブロックに随書百済伝を載せています。大率に赤くマーキングしました。さて、大率とは佐平に次ぐ官名です。十六品の官制とは百済の内官制度です。ここで言えることは、女王国にいた大率とは、扶余から派遣された役人だという可能性がでてまいります。
大率が官名なら、一大率の一は単なる数詞にすぎないことになります「大率一大率」なのですが、こう書くところを文頭の大率を省略したのです。すると、女王国に遣使された大率という役人は一人であったのです。一人の大率が女王国にいて、女王国より北の諸国を監察し、みな付庸国にしているのです。そして中国の勅使のように振舞っていたと書かれていますよね。逆に言えば、~如くですから、大率が中国、曹魏の官名ではないということです。ですから、「國中有如刺史」、国の中では(中国の)勅史のようだと客観的な記述なわけです。一方、大夫というのは会稽の倭人の官名です。この大夫というのは、中国ではごくありふれた官職で中級の貴族です。東夷の使節史が大夫と名乗っていることが不思議がられただけです。

そんなことがありうるのか・・・
 前段に遼東太守公孫度が女(娘)を尉仇台に嫁がせて帯方という故地に国を作らせたとあります。帯方郡とは中国の行政区分名ですが、その地域は西暦30年ごろ楽浪国という国がありました。この地域に楽浪国という独立国を作ったは(30年)遼東の豪族王氏です。西暦37年、高句麗大武神王が侵略し高句麗が占有しましたが、44年後漢の光武帝が憐れんで、船で兵を送って奪還しました。帯方地域はこうした争乱があったのです。楽浪国は短い間でしたが、その地域は楽浪郡内の中国の植民地のような有様で、独特の風習と風俗をもっていました。楽浪塼室墓はそれを物語っています。仮に楽浪国が楽浪郡に収斂され、次に帯方郡に置き換わっただけとみることができます。帯方郡の創設は公孫淵が楽浪郡に反旗を翻したともいえます。この地域に楽浪郡の郡県制の下で70~80年王がいなかったとしましょう。卑弥呼が女王になって曹魏の冊封体制がはじめて確立し、その下に倭国が生まれたということになります。こうして後漢が公孫氏を太守に置いて倭韓を支配していました経緯が転換したとみることができます。
公孫淵が孫呉に通行したり、燕王を自称したり独立の機運をみせたため曹魏は司馬懿を送って公孫氏を討伐しました。ようするに宗主国が公孫から曹魏とってかわったにすぎません。卑弥呼が帯方の女王になったのですから必然的に倭韓の王となるわけです。
 公孫度が娘を尉仇台と結婚させたのが西暦200年のことですから、卑弥呼が結婚した年齢は26歳です。当時とすれば晩婚なのです。卑彌呼の履歴は生誕174年~没年274年です。(卑彌呼XファイルP222より)
西暦200年に尉仇台に従って帯方に渡った卑弥呼が、扶余六畜から女王に共立され、倭国の内乱が収まったと考えます。そうすると、なんと卑弥呼の後ろ盾は公孫と同盟を結んでいた尉仇台だったわけですね。知ってか知らずか明帝が卑弥呼の遣使に歓喜したのは事実です。卑弥呼が公孫の娘なら敵側になるから明帝が受け入れるはずはない。・・・こう考えるのは一つの見方にすぎません。むしろ、尉仇台扶余を公孫から寝返らせ、従臣にすることの実益は大きいのです。なにしろ扶余軍は即戦力になりますから。これが、黄幢が渡った伏線なのです。卑弥呼の背後には実質的な権力をも扶余の王(尉仇台を太祖とする王朝)がいます。

鬼神を祭る宗女
―――――――――――――――ーーーーーーーーーーーーーーー
189年 公孫度 夫餘王の尉仇台は遼東に望んで属した。
―――――――――――――――――ーーーーーーーーーーーーー
「夫餘本屬玄菟。漢末,公孫度雄張海東,威服外夷,夫餘王尉仇台更屬遼東《189年》。時句麗、鮮卑彊,度以夫餘在二虜之間,妻以宗女。尉仇台死,簡位居立。無適子,有孽子麻余。位居死,諸加共立麻余。牛加兄子名位居,為大使,輕財善施,國人附之,歲歲遣使詣京都貢獻。」
夫餘本屬玄菟→北夫餘 高句麗北1000里のこと。
雄張海東→沃沮 尉仇台さらに遼東に属した。→公孫氏の配下にはいった。小水狛あたりから、高句麗に押されしだいに遼西に移動、依羅のとき、鮮卑に全軍敗れ、自害する。次の依慮は皇帝の命の将軍に守られて沃沮に民族移動。おそらく、中国の楼船で移動。百済の名称は百家をもって渡るという意味だから。この頃、公孫度は尉仇台に宗女を妻とさせた。この宗女が卑彌呼。その根拠は、宗女とは、開祖を祭る廟を守るもの。卑彌呼は鬼神をまつっていた。鬼神を祭っていたのは高句麗である。狗奴国とは高句麗であり、その王は卑彌弓呼であり、卑彌呼と弓の一文字しか違っていないのは、遠祖が同じであることを物語る。高句麗の神廟の右側は夫餘神は河伯神女であり、左は高朱蒙である。狗奴国王と卑彌呼が同じ河伯の女に出自をもつことを暗示する。高句麗傳では、伯固が死んで、長男、抜希は弟の伊夷模(いいも)に王位を奪われ、涓奴部の加と下戸3万餘人とともに公孫氏を頼って服属した。このとき、妻子ともども公孫氏に下ったので、高句麗の純血の子女がいたとすれば、宗女であり、卑彌呼に違いない。抜希は自害したので、やむなく卑弥呼が共立されたのであろう。他方の伊夷模には嫡子がなく、灌奴部の女との間に庶子がおり、位宮といった。伊夷模のあと王位についた。これが狗奴国王卑彌弓呼である。この関係からは、卑彌弓呼は卑弥呼の仇となる。父の王位を奪った伊夷模の庶子と元より和することがないとの真意であろうか?
*三国志 魏書 東夷傳 《高句麗》 『祭鬼神,又祠靈星、社稷』→鬼神を祭っていたのは高句麗。


黄幢とは

黄幢
遼陽壁画に描かれた黃幢(こうどう)。馬車の上に取り付けられた傘は「蓋(がい)」、または形が傘に似ていることことから「傘蓋(さんがい)」とも呼ばれていました。

大白傘蓋仏母;白い傘蓋をさしています。

黄幢とは傘蓋(さんがい)のことである。黄色は五行中央の土性の色、天子の座すところは天下の中心であるので、必ず〈幡(はた)と蓋(きぬがさ)が欠くべからざるものであることを物語っている。つまり、黄幢は天子がおられることと象徴するので、軍旗といった代物とは格が違う。

タイ国王戴冠式

三重・斎王まつり

上のイラストが戦場での黄幢のイメージに一致します。


梁書/卷54
< 『梁書』
卷五十四 列傳第四十八 諸夷

百濟
 百濟者,其先東夷有三韓國,一曰馬韓,二曰辰韓,三曰弁韓。弁韓、辰韓各十二國,馬韓有五十四國。大國萬餘家,小國數千家,總十餘萬戶,百濟卽其一也。後漸強大,兼諸小國。其國本與句驪在遼東之東,晉世句驪旣略有遼東,百濟亦據有遼西、晉平二郡地矣,自置百濟郡

百濟があった地は以前は東夷は三韓國といわれ、一に馬韓、二に辰韓、三に弁韓、弁韓と辰韓はそれぞれ十二か国、馬韓は五十四國あった。三韓には大きな国は万余家、小さな国は数千家で、総人口は十万余戸である。百済はその馬韓の中の一つの国(伯濟國)であったが、のちに、諸小国を合併してだんだん強大となった。その国はもとは高句麗の遼東の東にあった。晋の時代になって高句麗が遼東を侵略して、一時、百済もまた遼西を依拠し占有した。遼西の晋平二郡がの地なり。百済郡と自ら称して置いていた。

*百済は、もともと吉林省あたりにいた北夫餘の部族だった。百済の実態は、もともと夫餘だった。それは解夫婁(ヘブル)が東に分国をつくり迦葉原扶余といわれる別種の扶余をつくったからである。この国を東扶余とか阿扶余とか称する。もう一つは、朱蒙の妃・召西奴が二人の息子を率いて建國した慰礼扶余である。見逃してはならないのは百済には二系統の王統があることだ。第一のルーツは解慕漱の弟、解夫婁が東沃沮に分岐建国したに藁離國(東扶余)である。二代目は金のカエル王(金蛙王)であり、扶余の太祖である。第二のルーツは、高句麗国であり、さらに分枝したのが、ソウルに建国した慰礼扶余である。馬韓の中の一つの小国として発祥した。伯濟国という。第三のルーツは遼東に帰属し小水貊に移動、さらに遼西の晋平県、龍城の南側一帯に初めて百済という国号を名乗った、その百済の発祥は玄莬から遼東に移り遼西だった。公孫度と同盟していた。二世紀末、鮮卑に滅ぼされて故地・藁離國のあった東沃沮に戻り国を再興した。これは第一のルーツの系統であり、第二のルーツの温祚系百済ではない。百済には始祖(発祥)が異なる二系統の王統があり、開祖を冠すれば温祚系(慰礼)百済と、夫台将=尉仇台系百済の二王統となる。四世紀末に温祚系百済は尉仇台系百済に王座を奪われる形で消滅した。何が変わったのかというと、反高句麗になったことが大きい。卑彌呼とは尉仇台系の夫餘女王である。なぜ、倭女王と中国が呼んだのかは謎である。

維基 -> 周書 -> 卷四十九 列傳第四十一
《周書 卷四十九 列傳第四十一》房玄齢編 628年完
5 高麗者,其先出於夫餘。自言始祖曰朱蒙,河伯女感日影所孕也。朱蒙長而有材略,夫餘人惡而逐之。土于紇斗骨城,自號曰高句麗,仍以高為氏。其孫莫來漸盛,擊夫餘而臣之。莫來裔孫璉,始通使於後魏。
6 其地,東至新羅,西渡遼水二千里,南接百濟,北鄰靺鞨千餘里。治平壤城。其城,東西六里,南臨浿水。城內唯積倉儲器備,寇賊至日,方入固守。王則別為宅於其側,不常居之。其外有國內城及
漢城,亦別都也,復有遼東、玄菟等數十城,皆置官司,以相統攝。

「5:高句麗はその先夫餘から出ている。始祖は朱蒙であると言う。河伯の女が日の精に感じて孕んだと。朱蒙は長じて有力な人材になったが夫餘人は嫌って朱蒙を追放した。フルスンゴルの位置に城をもち高句麗と自ら号し、同時に高を氏となした。その孫の莫(無恤(ムヒュル)・第三代大武神王)になって勢いが盛んになり、先の夫餘を撃ってこれを従属させた。無恤の孫の璉(れん)になって始めて後魏と通行するようになった。
6:その地は東に新羅まで達し、西に遼水を超えて二千里であり、南に百済と接し、北に靺鞨と千余里の所で隣接する。平壤城で治め、その城は東西六里、南に浿水(鴨緑江・鴨水)に隣接している。城の中は穀物倉庫(唯積;ジョクチャン)や武器倉庫を備え、賊が襲ってきた時だけ城に入って固く守る。平時、王はその傍に住み、常に城(丸都城)にいるわけではない。外に国内城(クンネソン)と漢城(ハンソン)と、別な都を有する。また、遼東や玄菟に数十の城を官司を置いて統攝(とうせつ)している。」
*平壤城は高句麗第三次遷宮なので、国内城のことではないかとされる。
7 大官有大對盧,次有太大兄、大兄、小兄、意俟奢、烏拙、太大使者、大使者、小使者、褥奢、翳屬、仙人并褥薩凡十三等,分掌內外事焉。其大對盧,則以彊弱相陵,奪而自為之,不由王之署置也。其刑法:謀反及叛者,先以火焚爇,然後斬首,籍沒其家。盜者,十餘倍徵贓。若貧不能備,及負公私債者,皆聽評其子女為奴婢以償之。
*仙人とは高句麗の僧兵です。黒装束で袈裟をかける姿で素手で殺傷する技術をもっていました。
「統括者は大對盧(テデロ)といい、太大兄(テデヒョン)、大兄、小兄、意俟奢、烏拙、太大使者(テデサシ)、大使者、小使者、褥奢、翳屬、仙人并褥薩(ヨクサル)など、おおよそ十三等の官制をなしている。謀反や反乱を起こした者は火あぶりにしてから首を切る。その家と財をすべて没収する。盗みを働いた者は奪ったものの十倍を返済し、もし貧しくて払えないものは公私併せた負債者となり、皆が評判を裁量して、その子女は奴婢となって償う。」

8 丈夫衣同袖衫、大口褲、白韋帶、黃革履。其冠曰骨蘇,多以紫羅為之,雜以金銀為飾。其有官品者,又插二鳥羽於其上,以顯異之。婦人服裙襦,裾袖皆為袂。書籍有五經、三史、三國志、晉陽秋。兵器有甲弩弓箭戟捎矛鋋。賦稅則絹布及粟,隨其所有,量貧富差等輸之。土田塉薄,居處節儉。然尚容止。多詐偽,言辭鄙穢,不簡親疏,乃至同川而浴,共室而寢。風俗好淫,不以為愧。有遊女者,夫無。常人。婚娶之禮,略無財幣,若受財者,謂之賣婢,俗甚恥之。父母及夫喪,其服制同於華夏。兄弟則限以三月。敬信佛法,尤好淫祀。

「大夫は衣服と同じ袖衫(ひとえの袖)で、幅広のはかま、白い皮ベルト(チャミョ)、黄色の革靴を履く。その冠を骨蘇(コルソ)といい、多く紫色の薄い網で作り、金銀を混ぜて飾りとしている。その官が高い品の地位にある者は、さらに二本の鳥の羽をその上に差し込んで飾りとし、一般の人よりも目立つようにしている。婦人はチョマとはパンツですそ袖をたもとにしている。*袂(たもと: 袋のように絞っている部分。)
書籍は五経、三史、三国志、晉陽秋など。兵器には甲(よろい)、弩弓、矛などがある。
詐欺が多く、言辞は卑猥で、。賦税は絹布と粟で、その所有する量と、貧富の差を量って納める。遊女が多く、遊女には夫がない。常人の婚礼では財物を渡さない。もし財物を受け取ると、子女の売買とみなされ、はなはだ恥となるからである。父母および夫が亡くなると、中国と同じ喪服を用い、兄弟は三か月を以て喪に服する。仏法を敬い、とりわけ淫らな祭祀を好んで行う。


新羅人男性使節図 サマルカンドの壁画(7世紀)ウズベキスタン歴史博物館蔵
タートルネックの黄土色(カーキ色)上衣(うわぎ)は膝上まで達しており、その下はズボンである。上衣とズボンの袖口は袋状にしぼっている。また、ベルトをしており、環頭大刀(かんとうたち)を吊るしている。左写真ではよくは見えないが、執金具(とりかなぐ)で吊り下げられている。環頭大刀は金装飾が施された高価な刀であり、この二人はサマルカンド王;・ワルフマーンに入貢した諸外国の使節として奉献してきた。二本の鳥の羽をつけていることから高貴な身分の者であっただろう。
この使節史については高句麗の使節だという説もある。




日本で発見された環頭太刀 以下写真2点

素環頭太刀 東京国立博物館

奈良県天理市檪本町 東大寺山古墳出土 1口 鉄製 長83.0 古墳時代・4世紀 東京国立博物館


百済軍事博物館・百済時代の武器、環頭太刀 5世紀ごろか?


《周書 卷四十九 列傳第四十一》
又有神廟二所:一曰夫餘神,刻木作婦人之象;一曰登高神,云是其始祖夫餘神之子。並置官司,遣人守護。蓋河伯女與朱蒙云。9 璉五世孫成,大統十二年(546年),遣使獻其方物。成死,子湯立。建德六年,湯又遣使來貢。高祖拜湯為上開府儀同大將軍、遼東郡開國公、遼東王。10 百濟者,其先蓋馬韓之屬國,夫餘之別種。有仇台者,始國於帶方。故其地界東極新羅,北接高句麗,西南俱限大海。東西四百五十里,南北九百餘里。治固麻城。其外更有五方:中方曰古沙城,東方曰得安城,南方曰久知下城,西方曰刀先城,北方曰熊津城。11 王姓夫餘氏,號於羅瑕,民呼為鞬吉支夏言並王也。妻號於陸,夏言妃也。』

また、神廟が二か所ある。一つは夫餘神(ふよしん)といい、婦人の木像である。一つには常高神(とこしん)といい、高句麗の始祖夫餘神の子だと伝える。二神は並べて置かれて、宮司が派遣され守護している。けだし、河伯の女朱蒙だと云う。璉の五世子孫である成が大統十二年(546年)遣使を送り地方の産物を献上した。成が死に、子の湯が立った。建德六年(577年)、湯はまた遣使を送って来て貢献した。高祖は湯に上開府儀同大將軍、遼東郡開國公、遼東王と為す拝假をした。百濟はその先はけだし馬韓の属国であった。夫餘の別種であり、仇台という者が帯方に始め国を立てた。帯方の地は東の境には新羅、北には高句麗と接し、西南に臨んで大海があり、東西四百五十里、南北九百余里、固麻城で治めている。その外にはさらに五方に藩をもち、中間に古沙城、東に得安城、南に乆知下城、西に刀先城、北に熊津城がある。王の姓は夫餘氏と号し、民は鞬吉支夏言竝王と呼んでいる。妻は陸夏言妃という。
*西南に海があるということは黄海、したがって帯方だが、下段によれば、北に熊津城があるということは、武寧王(余隆・501-523年)が南扶余に遷宮したころの描写だろうか。泗沘城が王城のときは第26代聖王のとき(538年)である。仇台という者が帯方に始め国を立てたころとは尉仇台が遼西晋平郡から漢山に遷宮したときのことと考えられる。われわれのイメージの帯方とは異なり、平壌とソウルの中間地点であり、ソウルよりである。
官有十六品。左平五人,一品;達率三十人,二品;恩率三品;德率四品;扞率五品;柰率六品。六品已上,冠飾銀華。將德七品,紫帶;施德八品,皂帶;固德九品,赤帶;(李)〔季〕德十品,青帶;對德十一品,文督十二品,皆黃帶;武督十三品,佐軍十四品,振武十五品,克虞十六品,皆白帶。自恩率以下,官無常員,各有部司,分掌眾務。內官有前內部、穀部、肉部、內掠部、外掠部、馬部、刀部、功德部、藥部、木部、法部、後官部。外官有司軍部、司徒部、司空部、司寇部、點口部、客部、外舍部、綢部、日官部、都市部。都下有萬家,分為五部,曰上部、前部、中部、下部、後部,統兵五百人。五方各有方領一人,以達率為之;郡將三人,以德率為之。方統兵一千二百人以下,七百人以上。城之內外民庶及餘小城,咸分(肄)〔隸〕焉。


文献: 大率とは? 一品の達率にあたります。
随書八十一列伝第四十六東夷百済:
其國東西四百五十里,南北九百余里,南接新羅,北拒高麗。其都曰居拔城。
官有十六品:長曰左平,次大率,次恩率,次德率,次杆率,次奈率,次將德,服紫帶;次施德,皁帶;次固德,赤帶;次李德,青帶;次對德以下,皆黃帶;次文督,次武督,次佐軍,次振武,次克虞,皆用白帶。其冠制並同,唯奈率以上飾以銀花。



官は十六位ある。

《周書 卷四十九 列傳第四十一》ー上記の部分再録
又有神廟二所:一曰夫餘神,刻木作婦人之象;一曰登高神,云是其始祖夫餘神之子。竝置官司,遣人守護。蓋河伯女與朱蒙云。 璉五世孫成,大統十二年,遣使獻其方物。成死,子湯立。建德六年,湯又遣使來貢。高祖拜湯為上開府儀同大將軍、遼東郡開國公、遼東王。 百濟者,其先蓋馬韓之屬國,夫餘之別種。有仇台者,始國於帶方。故其地界東極新羅北接髙句麗西南俱限大海東西四百五十里南北九百餘里治固麻城其外更有五方中方曰古沙城東方曰得安城南方曰乆知下城西方曰刀先城北方曰熊津城王姓夫餘氏號於羅瑕民呼為鞬吉支夏言竝王也妻號於陸夏言妃也官有十六・・・。

また、神廟が二か所ある。一つは夫餘神(ふよしん)といい、婦人の木像である。一つには常高神(とこしん)といい、高句麗の始祖夫餘神の子だと伝える。二神は並べて置かれて、宮司が派遣され守護している。けだし、河伯の女と朱蒙だと云う。璉の五世子孫である成が大統十二年(546年)遣使を送り地方の産物を献上した。成が死に、子の湯が立った。建德六年(577年)、湯はまた遣使を送って来て貢献した。高祖は湯に上開府儀同大將軍、遼東郡開國公、遼東王と為す拝假をした。百濟はその先はけだし馬韓の属国であった。夫餘の別種であり、仇台という者が帯方に始め国を立てた。帯方の地は東の境には新羅、北には高句麗と接し、西南に臨んで大海があり、東西四百五十里、南北九百余里、固麻城で治めている。その外にはさらに五方に藩をもち、中間に古沙城、東に得安城、南に乆知下城、西に刀先城、北に熊津城がある。王の姓は夫餘氏と号し、民は鞬吉支夏言竝王と呼んでいる。妻は陸夏言妃といい、官は十六位ある。

河伯の女・・・・朱蒙の母。高句麗の神廟で扶余神として祀られた。

大統(だいとう)は、南北朝時代の西魏において、文帝の治世に使用された元号。535年正月 - 551年12月。大統十二年は546年。
*建徳(572年-578年):北周の元号:建徳十二年は577年。鮮卑の氏族の王朝。
* 成とは、高句麗の24代王、陽原王 545-559;姓名は高平成。安原王の長男。陽崗上好王、陽崗王とも言う。
*湯とは:高句麗の25代平原王 559-590; 姓名は高陽成。陽原王の長男。平崗上好王とも言う。
*蓋(けだし)=確信をもって思うに
*鞬吉支夏言竝王;第27代百濟王・晶王(余昌・554-598)に対して民が呼ぶ尊称の音読み
*陸夏言妃;晶王の妃の尊称


晋書に卑弥呼が公孫氏だと書いているところがあります。
晉書 卷九十七 列傳第六十七 四夷傳 倭人
 倭人在帶方東南大海中,依山島爲國,地多山林,無良田,食海物。舊有百餘小國相接,至魏時,有三十國通好。戶有七萬。男子無大小,悉黥面文身。自謂太伯之後,又言上古使詣中國,皆自稱大夫。昔夏少康之子封於會稽,繼發文身以避蛟龍之害,今倭人好沈沒取魚,亦文身以厭水禽。計其道里,當會稽東冶之東。其男子衣以橫幅,但結束相連,略無縫綴。婦人衣如單被,穿其中央以貫頭,而皆被髮徒跣。其地溫暖,俗種禾稻糸甯麻而蠶桑織績。土無牛馬,有刀楯弓箭,以鐵爲鏃。有屋宇,父母兄弟臥息異處。食飲用俎豆。嫁娶不持錢帛,以衣迎之。死有棺無槨,封土爲塚。初喪,哭泣,不食肉。已葬,舉家入水澡浴自潔,以除不祥。其舉大事,輒灼骨以占吉凶。不知正歲四節,但計秋收之時以爲年紀。人多壽百年,或八九十。國多婦女,不淫不妒。無爭訟,犯輕罪者沒其妻孥,重者族滅其家。舊以男子爲主。
漢末,倭人亂,攻伐不定,乃立女子爲王,
名曰卑彌呼,宣帝之平公孫氏也,其女王遣使至帶方朝見,其後貢聘不絕。及文帝作相,又數至。泰始初,遣使重譯入貢。

「卑彌呼は 宣帝(司馬懿、司馬仲達のこと)が討ち取った公孫氏なり。その女王が使者を帯方郡に派遣し、その使者は朝見に至った。その後も朝貢が絶えなかった。文帝(司馬昭のこと)が相国に就任すると(西暦263年)、またしばしば朝貢にやってきた。泰始(西暦265年〜西暦274年)の初めごろ、使者を決まったように繰り返し入貢してきた。」
卑彌呼,宣帝之平公孫氏也,其女王遣使至帶方朝見,其後貢聘(こうへい)不絕。及文帝作相,又數至。泰始初,遣使重譯入貢。」(晉書 卷九十七 列傳第六十七 四夷傳 倭人)(卑弥呼は帯方に遣使をおくり、さらに洛陽に遣わしたのですから、帯方郡の支配領域にいたと考えられます。正始6年には健在だったのです。卑弥呼のいた土城は可能性が高いのは領東の華麗です。不耐濊王とおなじく、正始6年、帯方に遣使をし、その後貢聘不絕とされています。
文帝は司馬昭(しばしょう)のこと。司馬懿仲達の次男で、(生没年は211年~265年)。司馬昭の子司馬炎が初代の晋の皇帝武帝であり、魏の元帝の禅譲により西晋を建国した。泰始年号がその最初の年号で泰始 : 265年 - 274年である。このころの夫餘王は壹與のあとの男王で依慮王であり、依羅王が継ぎ、近肖古王(346-375が継いだのだろうか?依慮王は在位(286年~346年)したがって、壹與は247年のとき13歳で倭女王になり、285年、51歳まで倭女王だったことになるだろう。壹與の生年は(235年~285年)倭女王在位年は(247年~285年)となる。



倭国の女王卑彌呼ーー正しい表記ーー
漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 魏書四 -> 齊王紀
齊王紀:
三年春正月,東平王徽薨。三月,太尉滿寵薨。秋七月甲申,南安郡地震。乙酉,以領軍將軍蔣濟為太尉。冬十二月,魏郡地震。
10 打開字典顯示相似段落 齊王紀:
四年春正月,帝加元服,賜羣臣各有差。夏四月乙卯,立皇后甄氏,大赦。五月朔,日有蝕之,旣。秋七月,詔祀故大司馬曹真、曹休、征南大將軍夏侯尚、太常桓階、司空陳羣、太傅鍾繇、車騎將軍張郃、左將軍徐晃、前將軍張遼、右將軍樂進、太尉華歆、司徒王朗、驃騎將軍曹洪、征西將軍夏侯淵、後將軍朱靈、文聘、執金吾臧霸、破虜將軍李典、立義將軍龐德、武猛校尉典韋於太祖廟庭。
冬十二月,倭國女王俾彌呼遣使奉獻
11 打開字典顯示相似段落 齊王紀:
五年春二月,詔大將軍曹爽率衆征蜀。夏四月朔,日有蝕之。五月癸巳,講尚書經通,使太常以太牢祠孔子於辟雍,以顏淵配;賜太傳、大將軍及侍講者各有差。丙午,大將軍曹爽引軍還。秋八月,秦王詢薨。九月,鮮卑內附,置遼東屬國,立昌黎縣以居之。冬十一月癸卯,詔祀故尚書令荀攸於太祖廟庭。臣松之以為故魏氏配饗不及荀彧,蓋以其末年異議,又位非魏臣故也。至於升程昱而遺郭嘉,先鍾繇而後荀攸,則未詳厥趣也。徐佗謀逆而許褚心動,忠誠之至遠同於日磾,且潼關之危,非褚不濟,褚之功烈有過典韋,今祀韋而不及褚,文所未達也。己酉,復秦國為京兆郡。十二月,司空崔林薨。
12 打開字典 齊王紀:
六年春二月丁卯,南安郡地震。丙子,以驃騎將軍趙儼為司空;夏六月,儼薨。八月丁卯,以太常高柔為司空。癸巳,以左光祿大夫劉放為驃騎將軍,右光祿大夫孫資為衞將軍。冬十一月,祫祭太祖廟,始祀前所論佐命臣二十一人。十二月辛亥,詔故司徒王朗所作易傳,令學者得以課試。乙亥,詔曰:「明日大會羣臣,其令太傅乘輿上殿。」
13 打開字典 齊王紀:
七年春二月,幽州刺史毌丘儉討高句驪,夏五月,討濊貊,皆破之。韓那奚等數十國各率種落降。秋八月戊申,詔曰:「屬到巿觀見所斥賣官奴婢,年皆七十,或𤸇疾殘病,所謂天民之窮者也。且官以其力竭而復鬻之,進退無謂,其悉遣為良民。若有不能自存者,郡縣振給之。」臣松之案:帝初即位,有詔「官奴婢六十以上免為良人」。旣有此詔,則宜遂為永制。七八年間,而復貨年七十者,且七十奴婢及𤸇疾殘病,並非可售之物,而鬻之於巿,此皆事之難解。


齊王紀には年号がありません。冬十二月,倭國女王俾彌呼遣使奉獻。は四年とあるだけですが、正始四年であることは間違いありません。それを確かめるために、七年の条まであえて転載しています。七年の事件は「毌丘儉討高句驪」ですから、正始七年だということは明瞭です。ちょっとくどいようですが正始四年の冬一二月だということを共有してください。ある解説本は、この「冬十二月から奉献」までを抜き書きして(景初三年)冬十二月などとウソの記述をしていました。こうした切り取りに騙されてはいけません。改訂してほしいものです。
さて、正始四年冬一二月に卑彌呼が遣使したとありますが奉献したともあります。魏志倭人伝では次のように単に貢献したとされます。卑弥呼は正始八年に「以て死す」とありますから、正始四年に卑弥呼が倭国女王であり、卑彌呼自身が曹魏に遣使したとしても可笑しなことにはなりません。
魏志倭人伝では、「正始4年(243年)、倭王は復(ふたた)び大夫伊聲耆、掖邪狗ら八名を遣わし洛陽に詣でさせ、生口(高句麗の捕虜)、を献上し、倭錦絳靑、縑緜衣帛布、丹木のゆみつかを持つ短弓と矢を壹拝(とはい)した。掖邪狗らは率善中郎將に徐され印綬を与えられた。」と記します。ここでは女王とも卑彌呼ともなく、倭王としてます。主体が倭王だけなのですが、いっぽう、齊王紀では「倭国女王俾彌呼と」書かれるのです。卑の文字がとなり、なぜかニンベンがついていますが、齊王紀では、卑弥呼は倭国の女王であることがはっきりします。このことが重要です。わたしは「邪馬台国の女王卑彌呼」という間違ったコピーが多いことに警鐘をならしたいのです。卑弥呼は倭国の女王ですから邪馬台国にいたことにならないのです。それは倭国と邪馬台国が遠く離れていることに、気づいておらず、また、倭国、女王国、および邪馬台国のロケーションがいまだにあいまいのまま、区別できない人々が多いということにほかなりません。


■扶余は北燕に敗れる。
後に、太康六年(285年)、慕容廆(ぼようかい)によって扶余は全軍が撃破され、王の依慮(イロ)は海に入水自殺し、子弟は逃れて沃沮に保護された。このとき、子弟は沃沮(オクチョ・朝鮮半島東海)に逃れている。主力は沃沮に戻ったのではないだろうか。比流王(304-344)、次の近肖古王(346-375)は、百家百済=涓奴部系の扶余王であろうと推定できる。
(出典:《隋唐》
《通典》 [唐] 801年 杜佑著
《兵十四》
《邊防一》
《夫餘》
3 :至太康六年(285年),為慕容廆所襲破。廆,呼罪反。其王依慮自殺子弟走保沃沮。武帝以何龕(かがん)為護東夷校尉。明年,夫餘後王依羅遣使詣龕(がん),求率見(国)人還復舊國。龕(がん)遣督郵賈沈(かじゅう)以兵送之。爾後每為廆(かい)掠其種人,賣於中國,帝又以官物贖還,禁市夫餘之口。自後無聞。
上とほぼ同文の資料の2
《宋明》《太平御覽》
[北宋] 977年-984年
《四夷部二·東夷二》
《夫餘》
3 打開字典 夫餘:
《晉書》曰:夫餘國,至太康六年為慕容廆所襲破,其王依慮自殺,子弟走保沃沮。武帝以何龕為護東夷校尉。明年,夫餘后王依羅遣使詣龕,求率見人還復舊國,遣督郵賈沈以送之,爾后每為廆掠。其種人賣於中國,帝又以官物贖還。禁市夫餘之口。自后無聞。

訳:太康六年(武帝司馬炎285年)、慕容廆(ぼようかい)によって扶余は全軍が撃破され、夫餘王の依慮(いろ)は自殺し、子弟は遁走して沃沮(よくそ)を保った。武帝は何龕(かがん)を護東夷校尉に任命した。翌年、286年夏、夫余王依慮の後の王である依羅は国人を旧国に帰還し復興するため西晋の東夷校尉何龕(かがん)に救援を要請した。何龕(かがん)はこれに応じて督護賈沈(かじゅう)を差し向け、依羅を保護して旧国(故地沃沮)へ率いて送った。これを察知した慕容廆は配下の将軍孫丁(そんてい)に騎兵を与え、行軍路を阻ませて賈沈(かじゅう)を攻撃させたが、孫丁(そんてい)は返り討ちに遭って斬り殺された。こうして夫余は(旧国に)復興されたものの、慕容廆(ぼようかい)はその後もたびたび(遼西に)侵入してはその民衆を捕らえ、中国に売りさばいた。その為、西晋の武帝司馬炎(しばえん)は国の資産で夫余の奴隷を買い戻し、さらに司州・冀州では夫余人の売買を禁止した。それから、この国のことを聞くことがなくなった。(わたしは、晋平郡の夫餘は消滅し、沃沮に拠点を移したと解釈します。)

注:*このとき、扶余王は遼西晋平県にいたのですが、子弟は沃沮(オクチョ・朝鮮半島東海)に逃れた経緯(けいい)が記録されています。
*依羅は扶余の人々、民を旧国に戻るように求めた、この旧国とは沃沮。扶余は遼西晋平県と沃沮に二つの城をもっていたことになる。

夫餘はどこに復興されらのか、これには諸説あって特定できない。フリー百科Wikiによれば、「永寧元年(120年)、夫余王は嫡子の尉仇台を遣わして印闕貢献してきたので、安帝は尉仇台に印綬金綵を賜った。翌121年(建光元年)、高句麗が1万の兵を率いて漢の玄菟城を囲むと、夫余王は嫡子の尉仇台に2万の兵を率いさせて援軍に遣り、高句麗軍を壊滅させた。翌122年(延光元年)、また高句麗が馬韓・濊貊と共に遼東へ侵攻したので、兵を派遣して打ち破り救った。

順帝の永和元年(136年)、夫余王は京師(洛陽)に来朝した。

桓帝の延熹4年(161年)、夫余の遣使が朝賀貢献。永康元年(167年)、夫余王の夫台は2万余人を率いて玄菟郡を侵略したが、玄菟太守の公孫琙によって撃破され、千余名が斬首された[14]。

霊帝の熹平3年(174年)、夫余は再び冊封国として貢ぎ物を献じた[15]。

夫余はもともと玄菟郡に属していたが、献帝(在位:189年 - 220年)の時代に夫余王の尉仇台が遼東郡に属したいと申し出たため、遼東郡に属した。この時期は玄菟郡にしろ遼東郡にしろ公孫氏の支配下になっており、東夷諸国は公孫氏に附属した。時に高句麗と鮮卑が強盛だったので、公孫度はその二虜の間に在る夫余と同盟を組み、公孫氏の宗女(公孫度の娘とも妹ともいう)をもって尉仇台の妃とした。このときの場所は小水から西、遼西晋平県と思われる。

三国時代
魏の黄初元年(220年)、夫余が魏に朝貢した際、その君主は「夫余単于」と呼ばれた。

尉仇台が死ぬと、簡位居が立った。簡位居には適子がいなかったが、孽子(妾の子)の麻余という者がいた。位居が死ぬと、諸加(諸大臣)は共に麻余を立てた。牛加(ぎゅうか:官名)の兄の子である位居は大使(たいし:官名)となり、善政をしいたため、国人はこれに附き、年々中国に遣使を送って朝貢した。

正始年間(240年 - 249年)、幽州刺史の毌丘倹は高句麗を討伐し、玄菟太守の王頎を夫余に遣わした。大使の位居は大加(たいか:官名)を遣わして王頎らを郊外で出迎えさせるとともに、軍糧を供えた。時に、季父(位居の一番若い叔父おじ)に二心(反逆心)があったため、位居は叔父の父子を殺して財産を没収して帳簿に記録し、使者を派遣してその帳簿を官に送った。麻余が死ぬと、まだ6歳である子の依慮が立って王になった


夫余王の王印には「濊王之印」と刻まれており、国内には「濊城という名の故城」があることから、もともとは夫餘の地であったことがわかる。

西晋時代
武帝(在位:265年 - 290年)の時代、夫余国は頻繁に西晋へ朝貢した。太康6年(285年)、鮮卑慕容部の慕容廆に襲撃され、王の依慮が自殺、子弟は沃沮に亡命した。そこで武帝は夫余を救援する詔を出したが、護東夷校尉の鮮于嬰が従わなかったため、彼を罷免して何龕をこれに代えた。明年(286年)、夫余後王の依羅が遣使を送って何龕に救援を求めてきたので、何龕は督郵の賈沈を遣わして兵を送り、現在の遼寧省鉄嶺市開原市に夫余国を再建させた。賈沈は慕容廆と戦い、これを大敗させると、夫余の地から慕容部を追い出すことに成功し、依羅を復国させることができた。しかしその後も慕容廆は夫余に侵入してはその民衆を捕まえて中国に売りさばいた。そのため武帝は夫余人奴隷を買い戻させ、司州・冀州では夫余人奴隷の売買を禁止させた] しかし、私には遼寧省鉄嶺市開原は高句麗の領土内なので考えにくいところではある。。むしろ「濊王の印」の残されていた沃沮の濊城の周辺だろう。慕容廆は夫余に侵入してはその民衆を捕まえていたのは、晋平県に留まっていた住民だろう。公孫康が帯方郡で「国を失った遺民」を集めて軍を起こし、韓倭を討ったという遺民とは夫餘としか考えられない。


扶余の発祥の地は鹿山だと伝えられる。
遼寧省鉄嶺市開原ここは避難して建国するような場所ではない。si
東晋時代
初め夫余は鹿山に住んでいたが、百済の侵入に遭って部落が衰え散ったので、西の前燕の近くに移住した。東晋の永和2年(346年)正月、前燕の慕容皝は嫡男の慕容儁と慕容恪ら7千騎に夫余を襲撃させた。夫余王の玄王と部落5万人余りが捕虜として連行されたが、夫余王の玄王は鎮軍将軍を拝命し、慕容皝の娘を娶ることができたまた慕容に属した経緯は百済にはない。問題は壹與の後、倭の五王につながる関連もない。

滅亡
夫余国は北魏の時代まで存在し、太和18年(494年)に勿吉に滅ぼされた。

夫余族の苗裔(北夫余)は豆莫婁国と称して唐代まで続いた。



*相国(しょうこく)は漢代に於ける廷臣の最高職。後漢の末に董卓が相国に就任。文帝は晋王。次の司馬炎(しば えん)は、咸熙2年(265年)8月に司馬昭が没すると、晋王・相国の位を継ぎ、12月には、元帝に禅譲を迫って初代皇帝に即位、新王朝を「晋」と名付け、元号を泰始と改めた。諡号は武帝。
沃沮に戻った夫餘王依羅は、そこに壹與がおり、王位を譲位によって得たと考えられます。正始8年、247年に13歳で即位したのですから、285年まで女王だったとすれば、51歳です。その後、壹與がいつ没したのは不明ですが、壹與はおそらく長生きしたと思われます。238年から帯方郡下に保護されています。他方、東沃沮の南の濊は高句麗に属していました。

《魏書三十》《濊傳》:
正始六年,樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵以領東濊屬句麗,興師伐之,不耐侯等舉邑降。其八年,詣闕朝貢,詔更拜不耐濊王。居處雜在民間,四時詣郡朝謁。二郡有軍征賦調,供給役使,遇之如民。

正始6年(245年)樂浪太守劉茂と帶方太守弓遵は嶺東濊が句麗に属しているので興師(毌丘倹)を以てこれを征討した。不耐王らは邑をあげて投降した。正始8年、不耐王は洛陽に朝貢し、詔を受け、不耐濊王に序された。城壁はなく、不耐濊王は邑の民の間に雑居している。一年に4回季節ごとに洛陽に詣でて謁見する。楽浪郡と帯方郡は領東と濊において軍を整え、税や物産を徴収し、役人を供して民のように優遇した。

濊王之印について

《魏書三十》
《夫餘傳》
3 打開字典顯示相似段落 夫餘傳:
夫餘本屬玄菟。漢末,公孫度雄張海東,威服外夷,夫餘王尉仇台更屬遼東。時句麗、鮮卑彊,度以夫餘在二虜之間,妻以宗女。尉仇台死,簡位居立。無適子(王位を継ぐ適当な子供がいなかった),有孽子(孽子(げっし) 妾の子・庶子)麻余。位居死,諸加(六部族)共立麻余。牛加(最強部族)兄子(兄)名位居,為大使,輕財善施,國人附之,歲歲遣使詣京都貢獻。(位居が実権をもっていた)正始中,幽州刺史毌丘儉討句麗,遣玄菟太守王頎詣夫餘,位居遣大加郊迎,供軍糧。季父牛加有二心,位居殺季父(一番若い叔父)父子,籍沒財物,遣使簿斂送官。舊夫餘俗,水旱不調,五糓不熟,輙歸咎於王,或言當易,或言當殺。麻余死,其子依慮年六歲,立以為王。漢時,夫餘王葬用玉匣,常豫以付玄菟郡,王死則迎取以葬。公孫淵伏誅,玄菟庫猶有玉匣一具。今夫餘庫有玉璧、珪、瓚數代之物,傳世以為寶,耆老言先代之所賜也。魏畧曰:其國殷富,自先世以來,未甞破壞也。其印文言「濊王之印」,國有故城名濊城,蓋本濊貊之地,而夫餘王其中,自謂「亡人」,抑有似也。魏畧曰:舊志又言,昔北方有高離之國者,其王者侍婢有身,王欲殺之,婢云:「有氣如鷄子來下,我故有身。」後生子,王捐之於溷中,猪以喙噓之,徙至馬閑,馬以氣噓之,不死。王疑以為天子也,乃令其母收畜之,名曰東明,常令牧馬。東明善射,王恐奪其國也,欲殺之。東明走,南至施掩水,以弓擊水,魚鼈浮為橋,東明得渡,魚鼈乃解散,追兵不得渡。東明因都王夫餘之地。
もとの夫餘は玄菟郡に属していた。(第一次玄菟郡治は沃沮の華麗城にあった。)漢末,公孫度は海東に雄を張り外夷を威服させた。夫餘王尉仇台は更に遼東に属した。時に高句麗国と鮮卑が強勢だった。公孫度は夫餘在が二虜の間にあったので、尉仇台に宗女を以て妻(卑弥呼に推定する)にした。尉仇台が死に,嫡子簡位居が王位についた。简位居に後継者にふさわしい子がなく,無知な子であった麻余がいた。简位居が死んで、諸加は麻余を共立した。しかし、諸加のうち牛加の兄子で位居を大使にしていた。位居は自分の輕財を民に施し善政をなしたので、國人はみな位居に慕って附いた。毎年、欠かすことなく京都洛陽に貢献した。正始中、幽州刺史毌丘儉が高句驪を攻撃した。母丘儉は玄菟太守王頎を遣わし夫餘に行った。位居は詣でて、大加を郊外まで迎え,軍糧をさしだした。
牛加の部族で一番後に生まれた叔父である謀反の企みがあり、位居はこの叔父と子らを誅殺し、財物と門戸を没した。(千人が誅殺しあった原因)遣使簿斂送官。古くから夫餘には習慣があり、干ばつで五穀が実らず、不作のときは王に徳がないためだと王をすぐに咎め、或いは王を変えるべきだ、或いは殺すべきだいうのが常だった。(不徳な王が殺された原因)麻余が死んでその子依慮が年六歲で王となった。(壹與が共立されるの直前の男王)前漢の時,夫餘王は葬儀には木棺に玉匣を入れる。常に玄菟郡都尉に前もって付託している。王が死ぬとすぐに葬式を執り行う。公孫淵が伏誅されたとき、玄菟郡の倉庫にはなお玉匣が一そろいあった。今、夫餘の庫には玉璧や珪、瓉(玉製品)なそ数代の物が残っており、代々伝えて寶となしていたのだろう。耆老が言ことには先代から賜ったものだという。魏略が曰く、其國は豊かで富んでおり、先の世からもってこのかた、かつて破られ壞されたことがなかったようだ。其の印には「濊王之印」との文言が記されていた。その国には故城があり、濊城という名だった。思うに、そこはもと濊貊の地だったのだろう。かくして城のなかに入ってみると夫餘王が城のなかにおり、自ら「亡命人」だと言っているのには理由があるに違いない。魏略がいうことには「舊志又言,昔北方にあった高離之國の者で,其王には侍婢(小后)があり、王がこの女を殺そうとしたとき、この婢は「鷄子(ひよこ)のような光りが私の体に入って来ました。そうして私は妊娠したのです。」その後生まれた子供を溷(厠)の中に捨てておいた。厠の豚が口で息を吹きかけ、馬小屋まで移し、馬は氣を吹いて子供を助けたので死ぬことがなかった。王はこの子は天子ではないかと疑った。そこで、王は令其母にその子を養うよう命じた。この子がのちに東明王といわれるようになり、この子は常に馬飼いをし、よく弓を射るのが得意だった。王は自分の国が奪われるかもしれないと恐れて、この子ども、東明を殺そうと思った。東明は走り、城を抜け出すと南の施掩水のほとりまで逃げた。弓で川面を撃つと魚鼈(スッポン)が浮き出てきて橋をつくった。東明はこの河を渡ると、スッポンはたちまち川の中に潜ったので、追ってきた兵たちは渡ることができなかった。東明王はよって夫餘之地を統べる王になったのである。

前段は正始年間の夫餘で3世紀半ば、母丘儉が高句麗を討伐したころの物語です。後段は、時代がずっと古い紀元前1世紀ごろ、王は金蛙王(クムワワン)と(小后)は河伯(ハベク)の女と朝鮮神話では呼びます。河伯神女が生んだ子が朱蒙で、高句麗の始祖となります。ここでは夫餘王が濊城にいた、つまり嶺東にいたということが重要なのです。
尉仇台の妻が卑弥呼だと仮定すると子简位居は黄幢を受け取る前後に死に、無知な子麻余は牛加の謀反中に死んだ。尉仇台と卑弥呼の直系男子は一代後に断絶した。卑弥呼を補佐していた男弟は麻余王が無能なため牛加の位居が替りに政務をとり補佐とはいえ、実質王だったのだろうか。壹與は卑弥呼の孫の代にとしか考えられないので、简位居か麻余に女児があったとしか考えられないが、位居は正始年に倭王制詔(せいしょう)されている。よって、王が庇護する宗女とは牛加の宗女だろう。
東扶余の成立物語
ある日、天から不思議な一行が降りてきた。白鳥に乗って羽衣を翻した百人余の天人が、天空を駆ける五龍車につき従い、清らかな楽の音を高らかに響かせ、艶やかな雲の間をかきわけて熊心山に降り、そこで十日余りを過ごした後、地上の訖升骨(きっしょうこつ)という城に降臨した。五龍車に乗っていたのは、天帝の太子の解慕漱(へ・モス)と言い、鳥羽冠をかぶり、腰には龍光の剣を差していた。解慕漱は、そこを都に定めて王となり、国の名前を北扶余(卒本扶余)と号した。
やがて解慕漱に夫婁という王子が生まれ、彼が成長すると王位を継がせた。
 夫婁が王として北扶余を治めていたとき、大臣の阿蘭弗(あらふつ)は奇妙な夢をみた。「天帝が夢枕に現れ、この地は私の子孫が国を建てるべき場所であるから、汝らは遠慮して立ち退くのじゃ。東海の沿岸に迦葉原(かはばる)という肥沃な地がある。そこに遷都するがよい」と命じたというのだ。謎めいた神話だが、夫婁王(へ・ブル)は神の御託宣に従って東に遷り、王都を迦葉原に築いて国号を東扶余に改めた。(中国史書では藁離國(こうりこく)という古名をつけます。)

東夫餘城のあった所は迦葉原とも岔陵とも別名。ここは古の稾離国とも言われている。稾離国は遼河と鴨緑江中流に挟まれた遼東の東北部から、図們江河口付近まで最大領域があったと推定されていたが、なんと嶺東にあったのです。これは大発見ですね。あっぱれ!濊貊という語は、地域的に55,60kmしかはなれていませんが、貊が夫餘人、濊が濊人と別な民族に領有されていたと考えるべきです。






《隋唐》 
《藝文類聚》
[唐] 624年
《卷四十三》
《樂部三》
《夫餘》
1 打開字典 夫餘:
夫餘國,後漢通焉。初,北夷橐離國王後漢、魏二史皆云:夫餘國在高句麗北。又案:後魏及隋史,高句麗在夫餘國南。而隋史云百濟出於夫餘,夫餘出於高句麗國王子東明之後也。又謂橐離國即高麗國,乃夫餘國當在句麗之南矣。若詳考諸家所說,疑橐離在夫餘之北,別是一國。然未詳孰是。有子曰東明,長而善射,王忌其猛而欲殺之。東明奔走,南渡掩箫水,因至夫餘而王之。順帝永和初(136年),其王始來朝。帝作黃門鼓吹、角抵戲以遣之。夫餘本屬玄菟,至漢末公孫度雄張海東,威服外夷,其王死,子尉仇台立,更屬遼東。時句麗、鮮卑強,以夫餘在二虜之間,妻以宗女。至孫位居嗣立。正始中,幽州刺史毋丘儉將兵討句麗,遣玄菟太守王頎音其詣夫餘。位居遣大加郊迎,供軍糧。自後漢時夫餘王葬用玉匣,常先以付玄菟郡,王死則迎取以葬。及公孫淵伏誅(238年),玄菟庫猶得玉匣一具。晉時夫餘庫有玉璧珪瓚,數代之物,傳以為寶,耆老言「先代之所賜也」。其印文言「濊王之印」。國有故城,名濊城,蓋本濊貊之地。
尉仇台の父は夫餘王、名を始としている。師升は始の異体文字であろう。尉仇台と公孫氏宗女が結婚し、度の孫、つまり仇台と宗女卑弥呼の二人の間に男子、名を简位居が生まれたと解すことができます。尉仇台の父は師升、中国史からは都頭王です。東沃沮で干台になり、高句麗に服属していました。
夫餘國は後漢にずっと属している。初め北夷の橐離國王”按”は後漢に属した。魏の二史はみな伝えている。扶余国は高句麗の北にあった。(松花江・吉林省)また、案ずるに、後魏及隋史では高句麗は夫餘國の南にあるとする。而して隋史は百濟は夫餘から出たと伝える。夫餘は高句麗から出て、王子東明の後にできた国である。又橐離國は高麗國に則(接)していて,夫餘國は句麗之南にあたるところにあるともいう。もし諸家所說を詳しく勘案すれば,橐離は夫餘の北にある別な一國であろうと疑う。しかし依然としてつまびらかではない。東明という子(朱蒙)があり、長じて弓をよく使う名手であった。王(金蛙王)はその猛々しさを忌み嫌いこれを殺そうと欲した。東明は王城を奔走し掩箫水(ソウルの漢江)の南を渡った。東明が夫餘の王であるというのはこれに因んでいる。順帝永和初(136年),扶余王が初めて來朝した。順帝は宮中で黃門鼓吹や角抵戲などの演舞を催し歓迎した。夫餘はもと玄菟郡の属国だった。後漢末になって公孫度は海東に勢力を張り、〚200年-204年年,外夷を威圧し服属させた。夫餘王の始が死に子の尉仇台立が王になった。更新して遼東郡に属した。時に句麗や鮮卑が強勢で、公孫度はこの二つの強国の間にある夫餘に宗女をもって妻となした。その孫である位居を嗣子とした。正始になって幽州刺史毋丘儉の將兵(楽浪太守劉茂と帯方太守弓遵)が高句麗を討伐した。玄菟太守である王頎が夫餘を詣でさせ位居は大加を派遣して郊迎し、軍糧を提供した。それ以後漢の時代は夫餘王は葬儀には玉匣を用い,玄莬郡をつねに先に参列させて葬儀に迎え入れた。公孫淵が伏誅されるに及び、玄菟の庫(不耐城)にはなお玉匣一具が残っていた。晉時夫餘の庫には玉璧珪瓚があった。数代にわたる宝として継承されていた。そこの長老が言うのには「先代の王が賜ったものです」。其印には「濊王之印」と刻まれていた。故城があって、その名は濊城であり、おそらく、もと濊貊の地であったのだろう。不耐城の旧名で、城はそれまで略奪などに遭わないで濊王は生き残っていたのです。そのご、魏に頻繁に朝貢するようになります。

*ここでは尉仇台の嗣子が位居としていることが初出文献になります。
尉仇台と公孫度の宗女とのあいだに生まれた嫡子に違いありません。位居とはフルでは简位居のことでしょう。大加とは牛加の王(族長)でしょうか、のちに卑弥呼の死後、男王が立ったが国中服さず相誅殺しあった謀反を犯したのがこの大加です。
《魏書三十》《濊傳》:
正始六年,樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵以嶺東濊屬句麗,興師伐之,不耐侯等舉邑降。其八年,詣闕朝貢,詔更拜不耐濊王。居處雜在民間,四時詣郡朝謁。二郡有軍征賦調,供給役使,遇之如民。

正始6年(245年)樂浪太守劉茂と帶方太守弓遵は領東と濊が句麗に属しているので興師(毌丘倹)を以てこれを征討した。不耐王らは邑をあげて投降した。正始8年、不耐王は洛陽に朝貢し、詔を受け、不耐濊王に序された。城壁はなく、不耐濊王は邑の民の間に雑居している。一年に4回季節ごとに洛陽に詣でて謁見する。楽浪郡と帯方郡は領東と濊において軍を整え、税や物産を徴収し、役人を供して民のように優遇した。

 正始6年(245年)、楽浪太守劉茂と帯方太守弓遵は領東7県と濊を支配していた句麗を興氏(毌丘倹)を以て討伐した。不耐侯らは邑をあげて降った。その後、朝貢を季節ごとに行った。
さて、領東7県と濊は高句麗から魏に貢献するように変わったのですが、これが正始6年です。このとき、卑弥呼は高齢ですが生きていました。
聘:へい・する【×聘する】 の解説
[動サ変][文]へい・す[サ変]礼を厚くして人を招く。
朝見は朝謁と同じで、天子に拝謁(はいえつ)すること。

 ->  ->  ->  -> 夫餘傳( 中国電子化計画)

『三国志』魏書 三十 扶余傳

夫餘本屬玄菟。漢末,公孫度雄張海東,威服外夷,夫餘王尉仇台更屬遼東。時句麗、鮮卑彊,度以夫餘在二虜之間,妻以宗女。尉仇台死,簡位居立。無適子,有孽子麻余位居死,諸加共立麻余。牛加兄子名位居,為大使,輕財善施,國人附之,歲歲遣使詣京都貢獻。正始中,幽州刺史毌丘儉討句麗,遣玄菟太守王頎,詣夫餘位居遣大加郊迎,供軍糧。季父牛加有二心,位居殺季父父子,籍沒財物,遣使簿斂送官。舊夫餘俗,水旱不調,五糓不熟,輙歸咎於王,或言當易,或言當殺。麻余死,其子依慮年六歲,立以為王。漢時,夫餘王葬用玉匣,常豫以付玄菟郡,王死則迎取以葬。公孫淵伏誅

ここは重要です。公孫氏が海東に雄をはり、・・・ここの海東です。東の外夷は、日本海側にある地域と考えられます。それは東沃沮でしょう。公孫が高句麗から奪いかえしたのでしょう。そこに扶余王尉仇台がいたものをおもわれます。そこから尉仇台は更に遼東に属すことを願い、遼西晋平県に異動しました。公孫氏が司馬懿に滅ぼされると、高句麗は隙をついて再び領東7県の地域を寇攻します。楽浪太守劉茂と帯方太守弓遵は高句麗を追い出すために出撃したのです。

扶余はもともと玄莬に属していた。漢の末、公孫度は海東(沃沮、濊貊)に雄を張り、外夷を征服し、扶余王の尉仇台はさらに遼東に属した。その時、句麗(高句麗)・鮮卑が強勢で公孫度は扶余が二虜の間にあるので、宗女をもって妻となした。尉仇台死に、嫡子の简位居が立った、景初二年に大夫として朝獻を果たす。简位居に嫡子がなく、麻余という庶子がいた。简位居が死ぬと、諸加(六畜部族)は麻余を共立して王となした干害で五穀が凶作となり、自称男王麻余は誅殺され、換わりに壹與が共立された。宗女こそ倭女王卑弥呼、その人であろう。

扶余はもともと玄莬に属していた。:魏志東沃沮傳で、「不耐、華麗、沃沮諸県皆為侯国」は光武帝の建武6年(30年)のできごとである。漢の武帝の頃、領東七県は、東傥,不而,蠶台,華麗,邪頭昧,前莫,夫租。
不而とあるのは不耐のこと。夫租とあるのが夫餘のこと。迦葉原夫餘のあったところ。高句麗に併属された。
*玄菟郡治は華麗城にあった。夫餘は濊城。


《隋唐》《通典》[唐]801年 杜佑著
《邊防一》
《百濟》
1打開字典百濟:
百濟,即後漢末夫餘王尉仇台之後,後魏時百濟王上表云:「臣與高麗先出夫餘。」初以百家濟海,因號百濟。晉時句麗既略有遼東,百濟亦據有遼西、晉平二郡。今柳城、北平之間。自晉以後,吞并諸國,據有馬韓故地。其國東西四百里,南北九百里,南接新羅,北拒高麗千餘里,西限大海,處小海之南。國西南海中有三島,出黃漆樹,似小榎樹而大。六月取汁,漆器物若黃金,其光奪目。自晉代受蕃爵,自置百濟郡。義熙中,以百濟王夫餘腆佗典反為使持節、都督百濟諸軍事。宋、齊並遣使朝貢,授官,

百濟とは後漢末の扶余王のあとである。後魏のとき、百済王は上表して曰く、「臣(尉仇台)は高句麗の先の夫餘が出自である。はじめ百家をもって海を渡ったので百済と号する。晋の時代に高句麗は遼東を寇略したが百済はまた遼西の晉平二郡を拠有した。今の柳城と北平の間である。晋から以後、諸国を併呑し、馬韓の故地を拠有した。その国は東西四百里、南北九百里で、南に新羅と接し、北千里で高句麗を防いている。西は大海で限られ、小海の南にある。国は西南海に三島を持ち、小は黄漆の木、大は榎木があり、六月に樹液を取る。漆器は黄金のごとく、その輝きは目を奪うばかりである。晋朝の代から蕃爵を授かり、自ら百済郡(中国から見た郡に擬して)を置いた。義熙(ぎき)中(405年-418年)、以て百済王、夫餘・腆佗・典反を使特節・都督百済初軍事。宋朝と斉朝にわたり遣使を朝貢させ官を授かった。

《後漢書》
[南北朝] 420年-445年 提到《後漢書》
《列傳》
《東夷列傳》
8 打開字典顯示相似段落 東夷列傳:
(光武帝劉秀)建武中(25年 - 56年),東夷諸國來獻見。(建武)二十五年(49年),夫餘王遣使奉貢,光武厚荅報之,於是使命歲通。至安帝永初五年(111年),夫餘王始將步騎七八千人寇鈔樂浪,殺傷吏民,後復歸附。(安帝劉祜)永寧元年(120年),乃遣嗣子尉仇台印闕貢獻,天子賜尉仇台印綬金綵。順帝永和元年(136年),其王來朝京師,帝作黃門鼓吹、角抵戲以遣之。桓帝延熹四年(161年),遣使朝賀貢獻。永康元年(167年),王夫台將二萬餘人寇玄菟,玄菟太守公孫琙(ユ)擊破之,斬首千餘級。至靈帝熹平三年(174年),復奉章貢獻。夫餘本屬玄菟,獻帝時,其王求屬遼東云。

《光武帝紀下》
電子圖書館
243 打開字典 光武帝紀... :「東夷倭奴國王遣使奉獻」

「建武中元二年(57年)倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬。」(後漢書原文)
光武帝紀下では奉献と記しています。また、後漢書では朝賀と記しています。
建武中元(けんぶちゅうげん)は、後漢の光武帝劉秀の治世に行われた2番目の元号。56年 - 57年で、劉秀が建武中元元年:2月、泰山で封禅の儀をおこないました。4月、改元して建武32年を建武中元元年としたのです。光武帝の晩年の62歳になってやっと封禅の儀を行ったことになります。ところが光武帝は建武中元2年2月5日に63歳で没しています。
倭(奴?)国が朝賀に参加したのはこの泰山での封禅の儀をおこなったことを契機とした改元祝賀奉献のために雒陽に詣でたのです。西域、および東夷だけで一百数十余国以上が参列したものと推測できます。よって、光武帝から金印や銀印が与えられたのは百国以上となり、倭奴國に特別に与えられたものではありません。


長安に集まった遣使たち
*東夷諸國皆來獻見;劉秀が建武中元元年:2月、泰山で封禅の儀をおこないました。4月、改元して建武32年を建武中元元年としました。光武帝の晩年の62歳になってやっと封禅の儀を行ったことになります。光武帝は建武中元2年2月5日に63歳で没しています。東夷諸國が皆來獻見したのは奉朝賀であったのです。数ある東夷諸国の中に倭奴国があって、(後漢書によれば)倭奴国が金印を徐授したということになります。
---------------------------
現代語訳;「建武中、(25年 - 56年)東夷の諸国はみな雒陽に来て獻見した。(建武)二十五年(49年)に夫餘王は使いを派遣して朝貢してきた。光武帝はこれに厚く答えそれに報いた。ここにおいて毎年朝貢するようになった。安帝永初五年(111年)にいたって扶余王始將は步騎七八千人で楽浪郡を略取した。郡の官僚や衆人を殺傷したのち、再び後漢に帰属した。永寧元年(120年),扶余王はの嗣子尉仇台を乃遣嗣子尉仇台が雒陽の印闕(楼閣)に貢獻してきた。天子は尉仇台に印綬金綵を与えた。順帝永和元年(136年)、尉仇台は夫餘王として雒陽に来朝した。順帝は舞踊の宴を開かせた。{*黃門鼓吹《舞踊劇》、角抵戲《秦の東海黃公》を主題とした古典舞踊)
桓帝劉志の代、延熹四年(161年),使者を派し朝賀貢獻した。永康元年(167年),王夫台將は二萬餘人をもって玄菟郡を寇鈔(略奪)した。玄菟太守公孫琙(ユ)はこれを擊破し、斬首千餘級という戦果をあげた。靈帝熹平三年(174年)にいたり、ふたたび奉章貢獻をした。夫餘はもともと玄菟郡に属していた。獻帝時(189年-220年),其王は遼東郡に属することを願い出た。(夫餘が遼東に移動したのは200年頃となる。これは公孫度が遼東郡を分割し、遼西中遼郡を置いたことと期を同じくする。まず、公孫度に服属したこと、その場所は遼東晋平県(遼西中遼郡)に移動し尉仇台はそこで倭国王と号したことになろう。尉仇台が強勢となった契機である。)

楽師たち。

*黃門鼓吹《舞踊劇》



『黃門鼓吹』と題する宮中舞踊(大きな祝賀の時だけ宮中で催されたと言う。)
*金印、倭奴国が朝貢したのは光武帝劉秀が元年:2月、泰山で封禅の儀をおこない、4月、改元。

《後漢書》 
[南北朝] 420年-445年 提到《後漢書》的書籍 電子圖書館
《列傳》
巻85 東夷列伝 夫餘・挹婁・高句驪・東沃沮・濊・三韓・倭
《東夷列傳》
13 打開字典顯示相似段落 東夷列傳:
《 高句驪》
後句驪王宮生而開目能視,國人懷之,及長勇壯,數犯邊境。和帝元興元年(105年)春,復入遼東,寇略六縣,太守耿夔擊破之,斬其渠帥。安帝永初五年(111年),宮遣使貢獻,求屬玄菟。元初五年(118年),復與濊貊寇玄菟,攻華麗城。建光元年(121年)春,幽州刺史馮煥、玄菟太守姚光、遼東太守蔡諷等將兵出塞擊之,捕斬濊貊渠帥,獲兵馬財物。宮乃遣嗣子(伯固)遂成將二千餘人逆光等,遣使詐降;光等信之,遂成因據險阨以遮大軍,而潛遣三千人攻玄菟、遼東,焚城郭,殺傷二千餘人。於是發廣陽、漁陽、右北平、涿郡屬國三千餘騎同救之,而貊人已去。夏,復與遼東鮮卑八千餘人攻遼隊,殺略吏人。蔡諷等追擊於新昌,戰歿,功曹耿耗、兵曹掾龍端、兵馬掾公孫酺以身扞諷,俱沒於陳,死者百餘人。秋,宮遂率馬韓、濊貊數千騎圍玄菟。(167年)夫餘王遣子尉仇台將二萬餘人,與州郡并力討破之,斬首五百餘級。
高句麗の王、宮は生まれるとすぐに目を開いて周囲を見ることができた。国人はこれを懐かしみ、長じて勇壮となり、中国の辺境を数々犯した。105年の春に遼東に侵入し、六県を略奪し、遼東太守耿夔はこれを撃退した。111年には宮は遣使を送って中国に貢献し玄莬郡に属すことを求めた。118年には再び濊貊は玄菟の華麗城(東沃沮)を攻めた。安帝の121年春、幽州勅使の馮煥と玄菟郡太守の姚光および遼東太守の蔡諷は将兵を長城の外に出撃させ、濊貊の渠帥(在地王)を捕虜としたり斬首した。宮の嗣子(延優(伯固また位宮:山上王、在位:197年-227年)が将となり逆光ら2000人の兵は平安平を攻撃した。公孫氏は投降するよう使者をおくったところ光らはこれを信じて投降した。遂に成(位宮)は大軍を遮るには狭くて険しいことに気づいて、三千人の兵を潜入させて玄菟郡、遼東郡を攻め城郭を炎上させ、二千人を殺傷した。ここにおいて、廣陽、漁陽、右北平、涿郡の屬國は三千余騎を出撃してこれを救った。(247年)高麗兵はおのずと退却した。夏に遼東の鮮卑八千人が遼東を攻め役人を殺した。蔡諷らが追撃したが*新昌で戦没した。兵曹掾の龍端および兵馬掾である公孫酺は体を張っていさめたが、陳(地名)において全滅した。死者は百餘人だった。秋、宮は馬韓、濊、高麗を率いて千の騎馬兵団で玄莬郡を攻めた。このとき、(注:熹平三年(174年)、扶余王の嗣子尉仇台は二万余人の将兵と、幽州および遼東軍あわせて高句麗を撃破し、五百の首を切った。

*{注:永康元年(167年)
後漢書 列伝 東夷列伝では「永康元年(167年),王夫台將二萬餘人寇玄菟,玄菟太守公孫琙(ユ)擊破之,斬首千餘級。至靈帝熹平三年(174年),復奉章貢獻。夫餘本屬玄菟,獻帝時,其王求屬遼東云」
永康元年(167年),王夫台將は二萬餘人をもって玄菟郡を寇鈔(略奪)した。玄菟太守公孫琙(ユ)はこれを擊破し、斬首千餘級という戦果をあげた。靈帝熹平三年(174年)にいたり、ふたたび奉章貢獻をした。夫餘はもともと玄菟郡に属していた。獻帝時(189年-220年),其王は遼東郡に属することを願い出た。
尉仇台は・・・167年には公孫に反逆していたが、174年に公孫に従属したことを示しています。
遼東部の8県:襄平県・汶県・居就県・楽就県・安市県・西安平県・新昌県・力城県
*據 介詞 ~に基もとづいて
*險 けわしい。 險阻、險固、天險 あやうい。あぶない。
險些、隘險、危險、脱險 よこしま。はらぐろい。 險惡、陰險、凶險 むずかしい。苦しい
*阨:せま-い、ふさが-る、せま-る


《太平御覽》
[北宋] 977年-984年
《四夷部二·東夷二》
《百濟》
1 打開字典顯示相似段落 百濟:
《北史》曰:百濟之國者,其先蓋馬韓之屬也,出自夫餘王東明之後有仇臺,篤於仁信,始立國于帶方故地漢遼東太守公孫度以女妻之,遂為東夷強國。初以百家濟,因號「百濟」。其國東極新羅,北接高句麗,西、南俱限大海,東西四百五十里,南北九百里。其都曰居拔城,亦曰固麻城。其外更有五方:中方曰古沙城,東方曰得安城,南方曰久知下城,西方曰刀先城,北方曰熊津城。

百済の国王は、その前身は盖馬馬韓に属していた。扶余王の出自は東明王(高句麗初代王)の後裔で尉仇台というものがいた。仁信に篤があり、はじめ帯方の故地に国于(王)に立った。漢の遼東太守の公孫度は子女を尉仇台の妻となし、とうとう東夷の強国となった。はじめ百家をもって海を渡ったので百済と号するようになった。その国は東の端てに新羅と接し、北に高句麗と接し、西は大海に臨んでいる。東西四百五十里、南北九百里であり、その都城は居拔城といい、またの名を固麻という。その他に五方に城をもち、中ほどに古沙城、東方に得安城、南方に久知下城、西方に刀先城、北方に熊津城を持っている。
*盖馬馬韓 盖馬は蓋馬大山のことで藁離國、通称東夫餘はその南にあった。後に辰国の馬韓を占有した。盖馬馬韓の意味としては句驪別種の夫餘百濟のこと。
*ここで百濟といっているのは、武寧王(余隆・501-523年)が南扶余に遷宮したころの描写が含まれています。北方に熊津城があるということから判明しますよね。《太平御覽》は[北宋] 977年-984年になって成立した書ですから、ここでいう百済の都城・居拔城は泗沘城(さびそん)にあたるでしょう。もう後期の百濟ということになります。



《三國志》
[西晉] 265年-300年
《魏書三十》
《鮮卑傳》
2 打開字典顯示相似段落 鮮卑傳:
魏書曰:鮮卑亦東胡之餘也,別保鮮卑山,因號焉。其言語習俗與烏丸同。其地東接遼水,西當西城。・・・・檀石槐拒不肯受,寇鈔滋甚。乃分其地為中東西三部。從右北平以東至遼,東接夫餘、濊貊為東部,二十餘邑,其大人曰彌加、闕機、素利、槐頭。從右北平以西至上谷為中部,十餘邑,其大人曰柯最、闕居、慕容等,為大帥。從上谷以西至燉煌,西接烏孫為西部,二十餘邑,其大人曰置鞬落羅、曰律推演、宴荔游等,皆為大帥,而制屬檀石槐。

鮮卑は東胡の余種なり。鮮卑山に篭り因って別に焉と号している。その言語は習俗は烏丸と同じである。その地は東に遼江に接し、西は西域に当たる。・・・檀石槐は服属することを拒み、強奪することをはなはだ好んだ。その地は東西に三部あり、右北平から東は遼まであり、東に夫餘に接する。濊貊(高句麗五部)は東部をなす。二十余の邑に邑長がおり、彌加、闕機、素利、槐頭という。右北平から西に上谷までが中部をなす。十余邑あり、部族長は柯最、闕居、慕容等で大師となしている。上谷から西に敦煌、西に烏孫に接して西部と為す。二十余邑あり、その部族長は置鞬落羅、曰律推演、宴荔游等で皆大師となっている。しかして檀石槐に制属している。

解説;夫餘が鮮卑の東部に接していたことの文証となる。これが、「、句麗(高句麗)・鮮卑が強勢で公孫度は扶余が二虜の間にあるので、宗女をもって妻とした。」を読むとき、夫餘が遼西を占有し、鮮卑と濊貊(わいはく)に挟まれていたことを表している。

遼西 晋平二郡の尉仇台の拠点は龍城か?


その後は高句麗の勢力伸張にともない、遼東郡以外の地域は失陥し、残った遼東郡も慕容部の統治下に置かれた。北魏により営州と改称された。

西晋期の平州
昌黎郡 遼東郡 楽浪郡 玄菟郡 帯方郡
戸数 900 5400 3700 3200 4900
昌黎県
賓徒県
襄平県 汶県
居就県 楽就県
安市県 西安平県
新昌県 力城県
朝鮮県 屯有県
渾弥県 遂城県
鏤方県 駟望県
高顕県 望平県
高句麗県
帯方県 列口県
南新県 長岑県
提奚県 含資県
海冥県


《漢代之後》
《隋唐》
《通典》[唐] 801年 杜佑著
《邊防一》
《百濟》
1 打開字典 百濟:
百濟,即後漢末夫餘王尉仇台之後,後魏時百濟王上表云:「臣與高麗先出夫餘。」初以百家濟海,因號百濟。晉時句麗既略有遼東,百濟亦據有遼西、晉平二郡。今柳城、北平之間。自晉以後,吞并諸國,據有馬韓故地。其國東西四百里,南北九百里,南接新羅,北拒(大)高麗千餘里,西限大海,處小海之南。國西南海中有三島,出黃漆樹,似小榎樹而大。六月取汁,漆器物若黃金,其光奪目。自晉代受蕃爵,自置百濟郡。義熙中,以百濟王夫餘腆佗典反為使持節、都督百濟諸軍事。宋、齊並遣使朝貢,授官


 百濟とは後漢末の扶余王のあとである。後魏のとき、百済王は上表して曰く、「臣(尉仇台)は高句麗の先の夫餘が出自である。はじめ百家をもって海を渡ったので百済と号する。晋の時代に高句麗は遼東を寇略したが百済はまた遼西の晉平二郡を拠有した。今の柳城と北平の間である。晋から以後、諸国を併呑し、馬韓の故地を拠有した。その国は東西四百里、南北九百里で、南に新羅と接し、北千里で高句麗を防いている。西は大海で限られ、小海の南にある。国は西南海に三島を持ち、小は黄漆の木、大は榎木があり、六月に樹液を取る。漆器は黄金のごとく、その輝きは目を奪うばかりである。晋朝の代から蕃爵を授かり、自ら百済郡(中国から見た郡に擬して)を置いた。義熙(ぎき)中(405年 - 418年)、以て百済王、夫餘・腆佗・典反を使特節・都督百済初軍事。宗朝と斉朝にわたり遣使を朝貢させ官を授かった。

*義熙(ぎき)中(405年 - 418年)の百済王腆佗は第18代・腆支王 (余映・405-420)著者は倭国王珍(梁書では餘映)に比定しています。日本書紀では直支王(とき)、これらは皆同一の人物名で、倭国王珍の別名です。



《後漢書》《東夷列傳》
19 打開字典顯示相似段落 東夷列傳:
濊北與高句驪、沃沮,南與辰韓接,東窮大海,西至樂浪。濊及沃沮、句驪,本皆朝鮮之地也。昔武王封箕子於朝鮮,箕子教以禮義田蠶,又制八條之教。其人終不相盜,無門戶之閉。婦人貞信。飲食以籩豆。其後四十餘世,至朝鮮侯準,自稱王。漢初大亂,燕、齊、趙人往避地者數萬口,而燕人衛滿擊破準而自王朝鮮,傳國至孫右渠。元朔元年,濊君南閭等畔右渠,率二十八萬口詣遼東內屬,武帝以其地為蒼海郡,數年乃罷。至元封三年,滅朝鮮,分置樂浪、臨屯、玄菟、真番四部。至昭帝始元五年,罷臨屯、真番,以并樂浪、玄菟。玄菟復徙居句驪。自單單大領已東,沃沮、濊貊悉屬樂浪。後以境土廣遠,復分領東七縣,置樂浪東部都尉。自內屬已後,風俗稍薄,法禁亦浸多,至有六十餘條。建武六年,省都尉官,遂棄領東地,悉封其渠帥為縣侯,皆歲時朝賀。

昭帝始元五年(前82年)、臨屯、真番を廃止し、樂浪、玄菟に併合した。玄菟は復び高句麗に占有され、單單大領の以東の沃沮、濊貊はことごとく楽浪に属した。後に、楽浪郡の郡域が広遠なので、再び嶺東七県に分けて楽浪東部都尉を置いた。楽浪に属してからは風俗が薄くなり、禁を侵すものが多く、法は六十余条にまであった。建武六年(西暦 30年)、都尉の官を省き、ついに領東の地を放棄した。渠帥らをことごとく県侯となし、みな歳時朝賀するようになった。
1)單單大領とは下の地図で、高句麗と沃沮の間に南北に伸びている。現在名は狼林山脈(ランニムさんみゃく)。1000m級の連山。さて、重要なのはこの山脈の影響である。街道が東西にはなく、一度南下して、開城あたりから北上して楽浪郡治にいたるという道筋しかない。楽浪帯方から軍を進めるには、この狼林山脈を南側から迂回しなくてはならない。東北方言と西北方言の境界線は、ナンリム山脈だという。地政学的にきわめて重要なのだ。

ナンリム山脈(赤強調)/これが單單大領だろう。

2)昭帝始元五年とは前82年。高句麗が強勢となった時期にあたり、玄菟が高句麗に押されて、郡治を西北部に移動し、玄莬郡に属していた沃沮を楽浪郡に移した。楽浪東部都尉は楽浪郡の駐留軍兼民生管理の基地(関)だったが、後漢の光武帝劉秀建武六年(西暦 30年)に、これも廃して封建制に移行した。
下の地図の單單大領はかなりアバウトで上のナンリム山脈に合せるべきだろう。参考図扱い:l

小水貊の位置、参照図 尉仇台が遼東に属したという所。出典?
狼林山脈(ランニムさんみゃく)の南には馬息嶺(マシンニョン)山脈が続いている。
單單大領が狼林山脈(ランニムさんみゃく)と馬息嶺(マシンニョン)山脈の両方を一つの名称とみる。蓋馬大山は蓋馬高原(ケマこうげん)、威鏡山脈(ハムギョンさんみゃく)になる。



さて、話は寄り道するが、山海経(せんがいきょう)には「蓋国在鉅燕南,倭北倭属燕。」とあります。 大燕国(えん)は秦始皇帝に前222に滅ぼされるまで続いた春秋時代の国。 蓋国(がい)は大燕国の南、倭国の北にある。倭国は燕に属す。・・・蓋国の蓋は蓋馬大山の一字をとった略体だとすると北夫餘の発祥地。倭国は蓋馬大山の南、すなわち、現在の威鏡山脈(ハムギョンさんみゃく)の南にあることになろう。宋書 ま巻五本紀第五文帝紀の「倭国は高句麗の東南大海中にあり。」、これは倭国が威鏡南道(ハムギョンナムド)にあることと矛盾していません。(元山市(ウォンサンし)の北60km)



《三國志》[西晉] 265年-300年
《魏書三十》
《高句麗傳》
4 打開字典顯示相似段落 高句麗傳:
・・・其馬皆小,便登山。國人有氣力,習戰鬪,沃沮、東濊皆屬焉。又有小水貊。句麗作國,依大水而居,西安平縣北有小水,南流入海,句麗別種依小水作國,因名之為小水貊,出好弓,所謂貊弓是也。
宮死,子伯固立。順、桓之間,復犯遼東,寇新安、居鄉,又攻西安平,於道上殺帶方令,略得樂浪太守妻子。靈帝建寧二年,玄菟太守耿臨討之,斬首虜數百級,伯固降,屬遼東。熹平中,伯固乞屬玄菟。公孫度之雄海東也,伯固遣大加優居、主簿然人等助度擊富山賊,破之。
6 打開字典顯示相似段落 高句麗傳:
伊夷模無子,淫灌奴部,生子名位宮。伊夷模死,立以為王,今句麗王宮是也。其曾祖名宮,生能開目視,其國人惡之,及長大,果凶虐,數寇鈔,國見殘破。今王生墯地,亦能開目視人。句麗呼相似為位,似其祖,故名之為位宮。位宮有力勇,便鞌馬,善獵射。景初二年,太尉司馬宣王率衆討公孫淵,宮遣主簿大加將數千人助軍。正始三年,宮寇西安平,其五年,為幽州刺吏毌丘儉所破。語在儉傳。

高句麗の馬は小さく、よく山を登る。国人は勇猛で戦闘を習う。沃沮、東濊は皆、高句麗に屬している。{焉は読まない捨て文字}又小水貊(丹東市北)に句麗は國をつくり、大水(遼河)に依り居をかまえ,小水は西安平縣の北にあり、南に流れ入海する。句麗の別種(夫餘)は小水に国を作っている。因りて小水貊と名を為す。弓を好み、これがいわゆる貊弓(ペクファル・短弓の一種)である。{句驪の別種とは尉仇台夫餘。公孫に属して高句驪とは敵対する関係}
宮が死んで子の伯固が立った。順帝と桓帝之間(125年~168年)、遼東をふたたび冠掠(かんりゃく)した。新安、居鄉を侵し,又西安平を攻撃した。道すがら帶方令(太守)を殺し,樂浪太守妻子を拉致した。靈帝建寧二年(169年) ,玄菟太守耿臨(こうりん)が討伐した。斬首した者および捕虜にした者は數百級だった。伯固は降伏して遼東に服属するこになった。熹平中(172年 - 178年),伯固は玄菟に属することを願った。公孫度は海東の雄であった。伯固は大加(部族長)である優居に命じて主簿然人らを派遣し、公孫度が富山賊を攻撃するとこれを助けて打ち破った。
(伯固の死後、長兄の抜奇は王に為れなかった恨みから公孫度の子の公孫康(こうそんこう)に消奴部を率いて降伏して兵を借り、伊夷模を苦しめる)伊夷模(いいも10代山上王サンサンワン)に子がなく、灌奴部の女と交わって子を生みその子の名を位宮(11代東川王)と謂った。伊夷模が死に位宮が王に為った。今の句麗王の宮((11代東川王))である。是は其曾祖の名の宮と同じである。よく目を凝らしてみると、其國人は惡人で、尊大で、はなはだ凶虐である。寇掠(こうりゃく)すること数知れず國はぼろぼろに見える。今の王はその性状は地に墯ちている。亦よく観察してみると句麗は祖王に似ている。故に名を位宮と為している。位宮は勇猛で力があり、よく馬の鞍にのり弓で狩りをする。景初二年(238年),太尉司馬宣王(司馬懿仲達)は率衆を率いて公孫淵を討伐した。宮は主簿大加の将軍數千人を遣して公孫討伐に助軍した。正始三年(245年),宮は西安平を寇椋した。其五年(247年),幽州刺吏の毌丘儉が宮を征伐し、打ち破った。これは毌丘儉傳が伝えるところである。
------その子の名を位宮(11代東川王)と謂った。この位宮こそが卑彌弓呼(男)の別名であった!---
*漢代の安平縣は現在の丹東k市の北岸にあった。現在の寛甸満族自治県(かんてん-まんぞく-じちけん)で丹東市に位置する自治県。鴨緑江の下流の北岸となろう。遼東、新安、西安平からみて、ここでの小水とは鴨緑江を意味する。*大水は大梁水、渾河(コンヘ)と太子河(タイズヘ)の支流が合流して下流河口では大遼河と呼ばれる河のことだろう。後に百濟と称した句驪の別種である夫餘は国城は丹東北、国邑は遼河の西だというのだろう。
*寇掠(こうりゃく):他国に攻め入って略奪すること。
建寧二年:169年、後漢の霊帝劉宏の治世に行われた最初の元号。 
*遼東部の八県:襄平県・汶県・居就県・楽就県・安市県・西安平県・新昌県・力城県。
*東川王は、高句麗の第11代の王。姓は高、諱は憂位居、幼名は郊彘。東壌王ともいう。先代の山上王の子。灌奴部は南部、前部とも言う。)灌奴部(くぁんの)の女とは夫餘族からみると異民族の女で、荇人(へにん・「黄龍国」と同じ民・テュルク=トルコ系)/盖馬(けま)/狗茶国(くじゃ)/沃沮(おくちょ))の濊族、被征服部族の人。丸都城から妻子を連れて逃亡した先が東沃沮だった理由がうなずける。后の実家の不耐王を頼ったのだろう。
*主簿とは:其置官、有相加、對盧、沛者、古鄒大加、主簿、優台、使者、帛衣先人。(『後漢書』高句麗伝)
*貊弓(ぱくきゅう/ペクファル) 高句麗で使う短弓のこと;

図版出典:『三国史記』 歴史ドラマ・イントロより。
「位宮は勇猛で力があり、よく馬の鞍にのり弓で狩りをする。」これが卑彌弓呼の正体です。卑弥呼に弓の一文字を加えただけですが、ともに河孫であることと、弓が達者であったことの両義が含まれています。わたしはですから、ひみこと読もうがひみくこと読もうが、声音で固有名詞を探るのは無意味なのではと思います。よく日巫女などと宛がい、シャーマンだったなどと言う学者がいるのは困ったことです。鬼道と結びつけてのことでしょうが、卑弥呼のイメージが至る所で暴走しています。

①尉仇台は扶余王の末裔である。
②玄菟に属していたが、公孫が制圧した領東から、やがて遼西を占有し後漢の遼東郡(公孫)に属した。(遼西、晉平二郡)
②次にはじめて帯方に国をつくり、干(王)となった。
③公孫度の子女(宗女)を娶り次第に強国となった。
④尉仇台の死後、简位居が王に立った。简位居は嫡子で宗女との子供。
⑤简位居が死ぬと嗣子なく、尉仇台の庶子麻余(简位居の弟=男弟)が立った。
⑥百家をもって渡海し固麻(漢城)に百済を建国した。
⑦東西27km、南北54kmで五方向に城をもっている。



公孫氏を平定したのは宣帝です。宣帝とは西晋が建国したあとに司馬懿仲達にあたえられた追号です。さて、「卑彌呼は司馬懿が平らげた公孫氏なり。」・・・こうもストレートに書いてあるので、解説をしたくても、その余地がありません。これはもう尉仇台の妻が公孫氏であると言っているに等しいのですが・・・。公孫度が尉仇台に娘(嫡女)を与えましたが、わたしは、尉仇台を夫に嫁いだのが卑彌呼だと考えます。これはなんの証拠がありません。公孫氏は中国人ですから、蛮族の王に実の娘を与えるわけがありません。卑弥呼は高句麗から投稿してきた

公孫度は204年に78歳で亡くなりました。生年は126年になります。娘を尉仇台に与えた年は174年ごろ、公孫度が52歳となります。尉仇台と公孫氏の間に生まれたのが卑彌呼だとすると、卑彌呼の生年はちょうど174年です。では、卑彌呼が死亡したのが247年ですから、73歳で亡くなったことになります。
父の公孫度は卑彌呼が30歳のとき、夫尉仇台をなくしたのが40歳です。(214年)
卑彌呼に宗女と冠したばあい、公孫氏の宗廟を守護していたということになりますが、公孫度は亡くなる10年ぐらい前、190年頃漢の二祖(高祖と光武帝)の廟を建立してみずから天子の儀礼を踏襲していました。したがって卑彌呼が祀るのは前漢と後漢の太祖だったとも考えられます。

 卑彌呼が河伯の真骨だという可能性。
1)敵である卑彌弓呼と一字違いである。2)高句麗から投降した



文帝:司馬 昭(しば しょう)は、三国時代の魏の晋王・相国・政治家。晋の武帝司馬炎の父。晋代に文帝の諡号と太祖の廟号を追贈された。泰始(たいし)は、西晋の武帝司馬炎の治世に使われた元号。265年 - 274年。卑彌呼は公孫康と恭と姉弟となります。


 尉仇台が高句麗・鮮卑の間に挟まれている地勢が見えます。これは、遼西晋平県のことです。幽州の東、中ほどのところです。
したがって、海東とは渤海のことです。そして、要点は公孫度の宗女といっていることです。宗女とは家門を守る、宗廟を継ぐものですから親族であることを意味するでしょう。一歩譲っても、養女となります。尉仇台に嫁いだわけですが、尉仇台は214年に亡くなります。この年は景初元年よりも前ですから、景初2年に朝貢した遣使者の難升米は尉仇台の庶子の麻余になります。なぜなら、尉仇台の嫡男が简位居、その弟が麻余となりますが、卑彌呼を佐治していたのが弟とかかれています。卑彌呼との関係では简位居が実の子供、麻余は別な女が生んだ子です。
 卑弥呼を佐治していた弟とは、卑彌呼の実の弟(公孫康)ではなく、尉仇台の子、简位居の異母弟となります。さて、壹與は13歳で即位したのですが、同じく宗女でした。卑弥呼がなくなったのは73歳ですから、13歳の壹與は孫にあたるでしょう。では、尉仇台には嫡子がないというのは世継になる男子がなかっただけで女子がいたということでしょうか。壹與も宗女ですから、卑彌呼と同じ宗廟を守護する者です。そうすると、壹與は扶余の太祖である尉仇台を始祖にした宗廟に仕えていたと考えられます。


メインのページに書いたことを採録します。
随書 俀國傳 俀王姓阿每,字多利思北孤,號阿輩雞彌、随書俀國傳の有名なアメノ.タリシヒコの姓名です。王名は阿輩・雞彌ですが、この雞は家禽(家鸡)、ニワトリという意味です。彌は「あまねし」、どうしたことか卑彌呼にかさなってきます。転ずれば、文型から、鳥から生まれた一族のということになります。これは日精に感じて生まれた河伯女郎(好太王碑)の伝承のことです。)いろいろと候補はあるでしょうが、雞彌の雛(ひなzhī)と、卑の文字は同意とみることができます。鹎(ひなどり)の省略文字が卑なのです。卑弥呼は阿扶余、尉仇台系ですから厳密には河伯の子孫ではありませんが、句麗国を使い分けていない中国史書ではどちらも河伯の子孫としたでしょう。河伯女郎は扶余神として高句麗の神廟で祀られていましたから、疑いをもたなかったのかも知れませんね。


卑弥呼→鹎祢呼

 部首:⽰(⺬、⺭):しめす、しめすへん(示偏)の原文の写本誤記とみなせる。

 鹎祢呼= 鹎禰呼     「禰/祢」かたしろ・みたまや

 


鹎〔bēi〕ひなどり、と訳します。しかし、どういう意味でしょう?随書 百済伝で、「婢云:「有物狀如雞子,來感於我,故有娠也。」王舍之。」とあります。これは、河伯の女の言葉です。「雞子(ひよこ)のような形をしたものが入ってきました。それに感じてわたしは妊娠したのです。」、王に伝えます。これが受胎の原因ということですが、雞子とは直訳すればニワトリの子です。この短い神話は高句麗建国開祖の朱蒙の誕生神話で、いわゆる天光受胎神話と呼ばれています。卵生神話の一つです。日本でも平安時代までは常識的な物語でした。続日本紀には和氏の上奏文、「それ百済の遠祖、都慕王は河伯の女日精に感じて生めるところなり。皇太后(高野朝臣新笠)はその後なり」・・・日精に感じて生まれたのは都慕王、高句麗の太祖です。都慕王とは別名、東明聖王、古事記では大国主、またの名を葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)と言います。これらは高朱蒙の別称です。なんと、記紀・神代の物語の主役中の主役です。
さて、随書の続きですが、「棄之廁溷,久而不死,以爲神」、豚小屋に捨てたが死ななかったので、王は以て神となした。」、八千矛神が日神の子だと認めたのですね。実は、日精または日神が三本足の烏(カラス)なのです。 鹎〔bēi〕は中国辞書では、黒褐色の羽と白い腹をもつ鳥です。

どうやら、卑彌呼と卑彌弓呼の奉じる遠祖(太祖)が共に都慕王(東明聖王)すなわち高朱蒙だったということになります。これだと、卑彌呼に敵対する男王が卑彌弓呼と、一字しか違わなくても納得のゆく説明がつくのです。百済も高句麗も扶余から派生した国です。卑彌呼が扶余女王、卑彌弓呼が高句麗王です。遼西扶余は公孫氏の配下で高句麗と果敢に戦いました。高句麗とは敵同士です。そして、タラシヒコも、雞彌です。だいたい330年ほど卑彌呼より後の時代ですが、朱蒙を太祖とする末裔だったという驚くべきことが暗示されます。
鹎彌は雞彌と同じで2文字2音ですが、「呼」は「居」の変体で、末尾語。あえて訳せば「自任する」と直訳できますが、転じて自称王と訳します。
あなた、「鹎彌居」が元字だったのです。発音ではベミさんだったのですが、私たちがヒミコと通称してもまったく問題はありません。
「鹎彌居」の末尾の「居」とは、次のような意味です。
三国志魏書《夫餘傳》に4カ所、高句麗傳に一カ所、位居という語があります。高句麗傳の例:「今古雛加駮位居是也」、いま古雛加の駮(ハク)が位居なり。また、卑彌弓呼は東川王ですが、姓は高、諱は憂位居でした。居という文字は、こうして外せない一文字です。位居は王を指す人称代名詞です。三国史記でのおくりなは東川王ですが、中国側からは高句麗の憂王となりますが、王と書かず位居と書いた理由は、中国朝廷の敵になったのですから、王の称号は剥奪していたからです。かってに自分で王といっているやつだということです。
辞書では:
居:付属形態素 (身を)置く,任じる.【거・コ】
用例
身居要职=要職に身を置く.
以功臣自居=功臣をもって自任する.

位居:位する【”위거イゴ】
ある地位につく
英語での説明:
"grade to assume a particular social position"

位居:自称王と訳したほうが適切です。


--------------------------------------

楽浪人=(卑弥呼Xファイル54p) 旧民がだんだん出てきた、旧民とは楽浪人、 阿残のことです。
メインドメイン 幻の楽浪国と倭国のタブで解説しています。
「魏志」韓伝 建安中、公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡、遣公孫模、張敞等收集遺民、興兵伐韓濊、舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。

 建安年間(196年~220年)、公孫康は屯有県(とんゆうけん)以南の荒野を分けて帯方郡とし、公孫摸や張敞などを派遣して(後漢の)遺民を収集するため、兵を挙げて韓と濊を討伐したが、旧民はだんだんでてきた。この後、倭と韓を帯方郡に属させた。
倭韓を征服したのは公孫模、張敞ら、武将です。兵は集めた元楽浪郡の旧民です。皮肉なことに倭国が文身國(日本)を滅ぼしたことになるのです。

この旧民は阿人、遺民は扶余人。また、抜奇とともに高句麗に投降した牛加(消奴部)の300家が卑彌呼に味方し、忠誠を誓ったのでしょう。抜奇が自害した後、彼らが擁立したのが卑彌呼だったと思われます。それが、宗女と言われる根拠です。卑彌呼は200年ごろからはじめから、自身の兵力をもっていたのです。

牛加はもともと涓奴加ともいい、王を出す沸流国の部族だったが、だんだん王を出せなくなっていた、しかし、宗女壹與を擁立したのは彼らだ。



《魏書三十》
《辰韓傳》
1 打開字典顯示相似段落 辰韓傳:
辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同,名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴。相呼皆為徒,有似秦人,非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為,謂樂浪人本其殘餘人。今有名之為秦韓者。始有六國,稍分為十二國。

辰韓は馬韓の東にあり、その耆老が昔から代々伝えることによると、秦の苦役を避けて亡人が韓国にやって来た。馬韓は東の界を割いて土地を与えた。城柵があり、言語は馬韓と同じではなかった。國を邦といい、弓を弧といい、族を寇、行酒を行觴と言っていた。集団でともに呼び合うのに徒といい、秦人のようであり、燕人ではない。齊の名をもつものなり。齊の名をもつ秦人とは徐福から分枝した氏族だろうか?名を楽浪人を阿残とし、東方人の名は我を阿とし、いわゆる楽浪人をその残余の人だという。公孫が尉仇台に国を作らせたとき、旧民が出てきたというが阿人、とも秦人とも言っていた民なのであろう。今、秦韓者といい、初め六國、枝分かれして12国になっている。初め六国から始まった国は後の新羅であり、馬韓の東とは大邱から東の慶尚道であろう。
(故に応神紀に来島した秦氏は百済ではなく、新羅から来たと考えらる。広隆寺の由緒では秦氏が百済から来訪とあるのは疑問。)


1)阿人(阿残)は燕や斉ではなく、楽浪にいた。
2)阿人も馬韓人も入れ墨をしていた。
3)阿人の男子は髪が長く、馬韓人は坊主頭が多かった。
4)阿人と馬韓人とは言葉が違っていた。
5)阿人と違って馬韓人は頭が皆扁平だった。「兒生、便以石厭其頭、欲其褊。今辰韓人皆褊頭」『三国志魏書』弁辰伝
6)阿人には城郭があり、馬韓人は城郭がなかった。
7)阿人は馬韓人よりも礼節があった


1)楽浪郡の阿人が馬韓に侵入した。馬韓はこれを嫌って東に土地を割譲した。弁辰と辰韓と別れた。
4)馬韓人はみな扁平な頭をしていた。これは人為的な習慣でつくられる扁平頭蓋で、日本には広田遺跡以外あまり例がない。
5)馬韓人は中国人のように城郭の中で生活していなかった。


阿残について、楽浪国の旧民です。阿人とは倭種でもちょっと違います。中国系渡来人、それが新羅を建国したということです。初め6国、別れて12国になった国は、当初は「斯蘆国(、さろ)、後の新羅(しるら)です。日本においては、秦氏や鴨氏の租なのだろうと思われます。ただ2)を見ると刺青をしていたということが重要です。阿人にも馬韓人と同じように入れ墨をしていたようです。
入れ墨をしていれば倭人です。わたしの倭人の定義は、刺青をした輩でしたね。でも、楽浪人はみやびやかな風流を好む、気品のある中華系の人々でしたが、刺青をしていたのです。別に不思議なことではありません。かの呉の太伯も夏の小康も中華人でありながら入れ墨をしたのですから。
伽耶が新羅に降って新羅で一応王族の仲間になっています。ひとつには馬韓人や扶余人のような礼節を知らないところの国、つまり百済には投降せず、新羅や日本にみな逃亡したのです。逃亡先は九州の志賀島です。それが安曇氏=阿曇氏です。阿曇氏は海神、辰国の大王です。船をたくさん主有していました。海に接していない長野県の諏訪神社の祭りでも、船が神輿がわりなのは阿人だからです。近江から東山道沿いに開拓して、日本に拡散していきました。日本馬の東遷を研究すればわかります。


 HOME-TOPへ