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以下現代語訳:黒澤一功版
-----主格は九州及び瀬戸内地域の倭地-----
 

現代日本語として自然な読みに意訳しています。校訂版

Part1
 倭人は帯方の東南にあたる領内におり、山が多い島嶼に国邑(こくゆう)をつくっている。前漢のころ、(楽浪郡の領域に)もともと百余国あり、朝見する者があった。今は(帯方郡の領域内に)三十か国になっており、魏の伝令使が通交している。帯方郡から倭地までの間、郡から海岸をに沿って水行して、その後、韓国の陸路を、あるいは南にあるいは東に進むと倭の國邑の北岸にある狗邪韓國到着する。(直線距離で)七千余里(*8050里)である。狗邪韓國から対馬まで、(陸路を離れ)はじめて一つの海を渡り、その間は千余里1150里)である。その代官は卑狗(ひこ)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。その官がいるところは切り離れた島のうち(南の半分にあたる)下島で方四百余里*(460里四方)である。土地は山が険しく、林が深く、道は野鹿の類(たぐい)が通る獣道のようである。千余戸があるようである。良い田はなく、海産物を食用して自活し、舟に乗って南北の市場に行き食料を買い入れている。また[狗邪韓國から]一大國(壱岐)までまた南に一つの海を渡るが、(この海は)名づけて瀚海(かんかい)という。その間は千余里(*1150里)である。官をまた(対馬と同じで)卑狗(ひく)といい、副を卑奴母離(ひなもりという。(広さは)ちょうど方三百里(300里四方)で、竹木や叢林(そうりん)が多く、三千ばかりの家がある。田畑は少しあるが、田を耕しても食べる分には足りないので、また南北から食料を買い入れている。また[狗邪韓國から]末盧国まではまた一つの海を渡り、千余里(*1150里)である。(人家は)四千戸で、山と海のはざまの干潟に住んでいる。草木(茅)が繁茂しており、その草木は前の人が見えないくらい高く伸びている。深い浅いを、とわず、よく潜って魚やあわびを捕っている。末盧国から伊都国までは東南の方向で、その間の距離は五百里である。官を爾支(にき)といい、副を泄謨觚(せまこ)という。(人家は)千余戸である。三十ケ国には王がいて、みな女王国に服属している。帯方郡の使いが往来していて、つねに女王国に駐在している。

Part2
伊都国から奴国まで東南百里である。官を兕馬觚といい、副を卑奴母離という。(人家は)二万余戸である。奴国から東に直列して、不彌国があり、(距離は)百里、官は多模(たま)といい、副を卑奴母離という。(人家は)千余家である。 奴国から東に不彌國、投馬国、邪馬壹國が連なっている(直列している)。不彌國は100里ほどで、多模副、卑奴母離という二人の官がおり、千輿戸である。
不彌國の南に筑後川があり、東(上流)に3日ほど行くと、投馬国があり、彌彌副と彌彌那利という官がおり、五万戸ほどの戸数がある。
投馬国の南から(筑後川上流)に船で1日半、陸に下船して、(日田から)陸路4日半で女王の都する所までが邪馬台国である。官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮と四人の官がおり、戸数は7万余戸ちょうどである。(新訳)女王国の以て北にある国々はその戸数や道里はだいたい記載できたが、その女王国以北の国々のほかにも国々があり、それらの国々は海によって遠く隔絶されており、詳しい情報を得ることができなかった。①旁國(ぼうこく)が次にある。②斯馬國(しまこく)が次にあり、③巳百支國(しおきこく)が次にあり、④伊邪國(いやこく)が次にあり、⑤都支國(ときこく)が次にあり、⑥彌奴國(みなこく)が次あり、⑦好古都國(こことこく)が次にあり、⑧不呼國(ふここく)が次にあり、⑨姐奴國(しゃなこく)が次にあり、⑩對蘇國(たいそこく)が次にあり、⑪蘇奴國(そなこく)が次にあり、⑫呼邑國(こゆうこく)が次にあり、⑬華奴蘇奴國(かなそなこく)が次にあり、⑭鬼國(きこく)が次にあり、⑮爲吾國(いごこく)が次にあり、⑯鬼奴國(きなこく)が次にあり、⑰邪馬国(やまこく)が次にあり、⑱躬臣国(きゅうしんこく)が次にあり、⑲巴利国(はりこく)が次にあり、⑳支惟國(きいこく)が次にあり、㉑鳥奴國(おなこく)が次にある。(みな女王国に帰属しており、魏が通じる国々である。)
奴国が女王の(支配している)領域の尽きる所である。女王(女王のいる所・(倭国から)其の南には狗奴国があり、男子を王とし、狗古智卑狗が官に任じられている。女王に服属していない。帯方郡治所から女王国まで一万二千余里(*13800里)である。

*女王、女王国、伊都国、奴国、投馬国、邪馬台国は固有名詞です。それぞれロケーションが異なります。このうち女王というのが卑弥呼がいる所です。したがって、”邪馬台国の女王卑彌呼”とは、誤訳で、”倭国の女王卑彌呼”とすべきです。さて、紛らわしいのですが、女王国に卑弥呼がいるというのも間違いです。邪馬台国は女王国の属国です。女王国は曹魏の郡使が常駐し、邪馬台国を支配管轄していますが、東沃沮か挹婁付近にいた女王卑弥呼の禄菜地でもあったのです。
*旁 [páng] 傍ら,付近,わき,際,あたり

 -----主格が転じます-----会稽の倭人
Part3
中国を詣でる(会稽の倭水人の)遣使はみな大夫と自称している。夏王朝の六代目の少康の庶子(無余)が会稽の王に封じられた際、髪を切って文身した。竜蛇に噛まれる被害を防ぐために短髪にして体に入れ墨をしたという。今、会稽倭人の水人たちは潜って上手に魚や蛤を採取する。かつて入れ墨は大魚や水鳥の害を避けるためのものだったが、後に次第に装飾となっている。会稽の水人の諸国の入れ墨の施し方は国によって各々異なっており、また、左右、大小、その身分の尊卑が分かるようにおのおの差がある。会稽の倭水人たちが住んでいる所の道里は会稽の東に当たる。倭水人たちは、この会稽の東を治めている。(会稽の倭水人)の風俗は淫乱ではなく、男性は皆、(衣冠や幘〔さく〕)など)頭に何も被らないで、髷(まげ)を結ったまま露出させ、木綿(きわた)の布で頭を巻いている。(会稽の倭水人)の衣服は、幅広い一枚の布を結び束ねているだけで縫うことはない。婦人は髮を結わずに曲げて束ねる。衣服は単被(ひとえ)のように作る。会稽の倭水人たちの衣服はその中央に穴を開け、これに頭に通して着ている。稲や紵麻(ちょま=カラムシ)を栽培し、養蚕して絹織物を紡いでいる。細い紵麻(ちょま)や薄い絹織物を作っている。(会稽の)その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲(カササギ)がいない。矛、楯、木弓を用いている。木弓は下が短く上が長い、竹の矢には鉄の鏃(やじり)、あるいは骨の鏃(やじり)を付けている。その物産や習俗など、あることないこと全部が(海南島の)儋耳(たんじ)と朱崖(しゅがい)の倭人と同じである。倭の地は温暖で、冬や夏も四季を通して生野菜を食べ、皆が裸足である。家には室があり、父母・兄弟は寝転がって寝るが、子供は別の部屋に寝かせる。朱丹のおしろいを身体にも塗り、中国で白粉を用いて化粧をするように身体にも塗っている。飲食には竹や木で作った杯器に盛って、手で食べる。(会稽の)倭水人が死ねば、棺(かんおけ)を用いるが槨(かく)(外棺=そとばこ)はなく、土を盛って塚を造る。死去から十日あまりは塚をつくらず、喪に服す。その間は肉を食べず、喪主は大声で泣き、他の人々は歌い舞ったり酒を飲んだりする。埋葬が終われば、家人は皆が水中に入って禊(みそぎ)をする。中国で言っている練沐(練り絹を着ての沐浴)のようである。(会稽の倭水人が)海を渡って中国に詣でる(朝貢)ために行来(ゆきき)する時は、いつでも一人の持衰(じさい)を乗船させる。航行の最中は、髪を梳かさず、シラミをとらず、衣服は垢で汚れたままとし、肉を食わず、女性を近づけず、服喪中のようにさせる。この人間を持衰(じさい)という。もし航海が吉祥で無事に済めば、共に行く者たちが、その生口〔虜・持衰のこと〕に財物を与えその労に報いる。もし、航行中に病人が出るなり、海が荒れるような災難に会った時は、人々はその持衰を殺そうと欲する。それはその持衰の清めが足らず、その不謹慎が災いを招いたというのだ。
------主格が転じます。------九州北部の倭地
Part4
その地(九州北部)は真珠や青玉〔ヒスイ〕を産出する。その地の山には丹砂がある。楠木(クスノキ)、栃(トチ)、樟(クス)、櫪(クヌギ)、橿(カシ)、桑(クワ)、楓(カエデ)などの樹木がある。その地には竹篠(シノダケ)、桃支(メダケ)がある。生姜(ショウガ)、橘(タチバナ)、椒(サンショウ)、茗荷(ミョウガ)などがあり、食料として滋味なることこの上ない。猿や黒い雉(きじ)がいる。そこの風習は、事を起して行動に移るときには、亀の骨を焼いて吉凶を占うが、初めに占うことを告げる、その礼句は中国の亀卜法に似ている。骨に生じた裂け目の方角を観て兆(きざし)を占う。そこでは卜占を行う祭祈堂は座席の順序や男女や親子など立ち居を区別することなく、一同に会している。人々の性質は酒好きである。人々は大人(高貴な者)への敬意を表すにはもっぱら手を合わせている(合掌のこと)。それでもって、中国の跪拝(ひざまずいて礼をすること)にあたるようである。そこの人々は長生きする者が多く、百年、あるいは八、九十年生きる。そこの風俗は、国の部族長(有力者)は皆、四、五人の妻を持ち、庶民でも中には二、三人の妻を持つ者がある。その妻たちは貞節で互いに嫉妬をしない。そこの地では窃盗をしないので、訴訟は少ない。法を犯せば、軽い罪は妻子の没収、重罪はその家族あるいは一族を処罰する。身分の尊卑は階級の序列があり、互いに臣服の秩序が整っている。租賦を収める所は邸閣(高床式倉庫)で、また国々にそれぞれ市場があり、人々は出かけて行って双方物資を交易しあっているが、諸国の王は各々大倭(管轄官)を任命して交易の有無やその多寡を監理している。
女王国から北には、(女王は)特別に、ある一人の大率を置き、諸国を検察しており、他の諸国はこの大率を畏れ憚(はばか)っている。女王から派遣される大率は常に伊都国を検察しており、国の中での立場は中国における皇帝の刺史のようである。
(女王国の)王が京都(洛陽)・帯方郡と郡に属する諸韓国に使者を詣でさせるとき、ならびに(女王国に駐在する)”郡使”が倭国(女王)に遣使するとき、皆(王・大率・郡使ほか属史ら)全員で波止場に出向いて、奏上書や献上品を点検し、詣でた際に女王との間にくいちがいがないようにする。(奏上書は漢字であった。)
 衆人(庶民)が国の有力者に道で出会った際は、後ずさりして草むらに入り、道をあける。有力者に対面して話たり、何か事情を説明するときは敬意を表すため、蹲(うずくま)るか、跪(ひざまず)いて、両手を常に地面に着けておくしきたりである。返事をする声は噫(yī)と言い、これで承諾を示すようである。
その国、女王国はもともと男子が王となって七、八十年ほど経っていた。

------主格が転じます----- 倭国Ⅰ

Part5
 倭国(の朝廷)は乱れ、敵も味方もはっきりしない紛争が一年以上も経過した。そこで、女子を共立して王とした。名付けて卑彌呼という。鬼道に習熟し、よく民衆を歓喜させた。老齢になったので、すでに夫は亡く、夫の異母弟が国の統治を補佐していた。その男弟が自ら王と為して以来、卑彌呼を見る者は少なくなった。1000人もの女卑が卑弥呼に自ら侍り、ただ、一人の男子が飲食や伝辞を伝えるなど卑彌呼の居る処に出入りしている。宮室、楼観、城作が堅牢に設けられており、兵が常時守衛している。


------主格が転じます------九州東の女王国から離れた島々

Part6
女王国から東に渡海し千余里(1150里)のところに再び国(日振島)があり、その人々は皆倭種である。また女王国から南に渡海し、女王(国)を離れること四千余里に侏儒国(屋久島)があり、その人々は身長が三、四尺であり、皆倭種である。また女王国から東南に舟行一年ばかりの(距離)のところに、ふたたび尋ね聞いたところの裸国・黒歯国が大小の島々にあり、あるい離れ、あるいは連なった島々の周囲を回ると五千余里(5750里)である。その地の人々もまた倭種である。

*女王国の東は海ですから、九州東海岸に臨接しています。大港があるのは大分でしょう。一方伊都国は佐賀県神崎郡にあります。大率が常に伊都国を治すの文言から、女王国にとって、伊都国は警戒すべき国だったかもしれません。倭国Ⅰと倭国Ⅱを対比すれば、女王国と倭国とはまったく別々な国であることが分かります。


------主格が転じます----- 倭国Ⅱ
Part7
景初二年(238年)の六月、倭の女王(卑弥呼)が大夫難升米らを郡に派遣し、天子に詣でて朝献することを求めた。よって太守劉夏は属吏”將”を派遣し、將は倭国が京都(洛陽)に詣でる許可を得た。
 その年(景初二年(238年)の十二月、魏の皇帝(明帝)は詔書を倭女王に報い、次のように語った。
 制詔!「親魏倭王卑弥呼よ!帯方太守劉夏が、汝の大夫の難升米、次使の都市牛利らを遣わし。朝賀(改元祝賀)に奉献してきた。汝の所(倭国)で獲た(公孫の)男性の虜生口(捕虜)四人、女性の虜生口(捕虜)六人、班布二匹二丈を奉献した。汝のいる所はとても遠いにもかかわらず、遣使奉貢してきたのは汝の忠孝を示すものであり、我は甚だ汝を慈しむ。
いま汝を親魏倭王に為す。詔書と金印紫綬など包装したうえ封印し、帯方太守(劉夏)に付託して仮授しよう。汝、その所の住民をいたわり安んじさせよ。また、民を勤めて孝順を尽くすよう教化せよ。汝の使者の難升米、牛利は遠路をはるばると来た労に報いて、いまを以て難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉と為し銀印青綬を仮し、引見したうえ懇(ねんご)ろに送り還えらせる。
今、絳地交龍錦、〔絳綈〕(交龍・龍が交わる絵柄の錦織)を五匹〔*〕、絳地縐粟罽(縮みの掛ける毛織物)十張、蒨絳(茜色と深紅)五十匹、紺青五十匹、これらを汝の献上品にたいする返礼とする。
また、特別に汝(卑弥呼)には紺地の句文(文様染め)錦三匹、細班華罽(細かい花模様がら絨毯)五張、白絹(無地の絹)五十匹、金八両、五尺の刀剣を二口、銅鏡を百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を賜う。いずれも包装封印して難升米、牛利に託するので、帰還したら受けとるがよい。(それらの)すべてを汝は国中の人々に顕示し、魏国が汝に熱い親愛の情をもっていることを知らしめよ。それ故に鄭重に汝によき品々を与えたのである。」〔一〕絳地交龍錦五匹の文字の内、裴松之が考えるに「地」は「綈」でなくてはならない。漢の文帝が「皂衣」と言うのは「弋綈」のことである。この字が間違っているのは魏朝の失敗ではなく、伝写した者の誤りである。〕

正始元(240)年、(帯方)太守弓遵(きゅうじゅん)および建忠校尉梯儁(ていしゅん)等は改元祝賀の儀に倭国を奉賀朝貢させた。(魏帝曹芳は)詣でた倭国に詔書と印綬を拝假し、倭王に併せて金帛錦、罽刀、鏡、釆物などの詔賜を齎(もたら)した。よって倭王は(倭国から)使者を出し上表をもって詔恩に答謝した。

正始4年(243年)、倭王は復(ふたた)び大夫伊聲耆、掖邪狗ら八名を遣わし洛陽に詣でさせ、生口(高句麗の捕虜)、を献上し、倭錦絳靑、縑緜衣帛布、丹木のゆみつかを持つ短弓と矢を壹拝(とはい)した。掖邪狗らは率善中郎將に徐され印綬を与えられた。

正始6(245)年、(後漢皇帝曹芳は)難升米に制詔し、黄幢を倭の難升米に賜い、郡に付託して假授した。

正始八(247)年、玄莬太守の王頎が帯方に着任した。倭女王卑彌呼と狗奴国王卑彌弓呼(高句麗・東川王)は敵対しており和平することはなかった。(王頎は)遣使し倭載斯・烏越等を郡治に詣させ、狗奴国(高句麗)を相攻撃する状を(王頎が)説いた。(王頎は)その攻撃状を塞曹掾史張政等らを(洛陽)に派遣し皇帝に届けた。よって(皇帝曹芳は)、難升米に黄幢を拝假する詔書をもたらし、激と告喩を為した。卑弥呼が死んだ。(すぐに)大きな塚(墓丘)を作った。円の直径は百余歩〔115歩、約23メートル〕、徇葬する者は百余人。今までいた男王(倭王)は更新して共立王として立ったが国中が服さず、さらに謀反が起きて敵の陣営を)誅殺し合い、千余人が殺された。今一度卑弥呼の宗女壹與を共立王とした。壹與は13歳であった。国中がついに定まった。
(内乱が収束したので、)張政等は再び、激をもって壹與に告喩をなし、(王頎玄莬軍・楽浪軍・帯方軍)とともに出兵する命令を出した。(高句麗を撃破、不耐濊王は洛陽に朝貢することを誓う。ここで濊および倭国は魏(帯方郡)に帰属した。そこで、)壹與は倭の大夫・率善中郎將掖邪狗ら二十人を遣わして張政らが帰還するのを護衛して送るとともに、同行した者たちは臺(洛陽)に詣でて男女生口三十人(高句麗の捕虜)を献上し、白珠五千個、靑大句珠二枚、異丈親錦二十匹を貢献した。


魏書 東夷伝序文+倭人伝 全文現代語訳 
《三國志 魏書三十》
1)烏丸鮮卑東夷傳
2)烏丸傳
3)鮮卑傳
4)軻比能傳
5)東夷傳
6)夫餘傳
7)高句麗傳
8)東沃沮傳
9)挹婁傳
10)濊傳
11)韓傳
12)辰韓傳
13)弁辰傳
14)倭人傳



<
 烏丸鮮卑東夷傳第三十 
 ->  ->  ->  -> 韓伝〔韓傳〕

桓靈之末,韓濊彊盛,郡縣不能制,民多流入韓國。建安中,公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡,遣公孫模、張敞等收集遺民,興兵伐韓濊,舊民稍出,是後倭韓遂屬帶方。景初中,明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣、越海定二郡,諸韓國臣智加賜邑君印綬,
 
「桓帝と霊帝の末(後漢末期)には韓、濊(わい)が強勢になり、郡や県は支配することができず、住民の多くが韓国に流入した。(後漢最後の献帝の)建安年間(196~219)に公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為した。公孫康(こうそんこう)は公孫模(ぼ)や張敞(ちょうしょう)等を派遣して遺民(高句麗に支配され国を失った東扶余の流民)を集めて兵を興し、韓や濊を伐ったので、元の旧民(阿残=楽浪国人)がわずかながら、少しずつ出てきた。この後、倭と韓はついに帯方郡に属した。景初中に、明帝は密かに帯方太守・劉昕(りゅうきん)と楽浪太守・鮮于嗣を派遣し、海を越え二郡を定めた。諸韓国の王には邑君の印綬を与えた。」

《地理志》《地理志下》32打開字典顯示相似段落地理志下:樂浪郡,戶六萬二千八百一十二,口四十萬六千七百四十八。縣二十五:朝鮮,俨邯,浿水,含資,黏蟬,遂成,增地,帶方,駟望,海冥列口長岑屯有,昭明,鏤方,提奚,渾彌,吞列,東傥,不而,蠶台,華麗,邪頭昧,前莫,夫租。・・・・臨屯郡・真番郡が廃止された後の大楽浪郡の25県名。
帯方・列口・南新・長岑、提奚、含資、海冥の7県は、帯方郡に分離された県名とされます。『晋書地理志』
沃沮諸県領東七県は、「東傥,不而,蠶台,華麗,邪頭昧,前莫,夫租。」は旧臨屯郡にあった県名。
その他、遼東郡の8県:襄平県・汶県・居就県・楽就県・安市県・西安平県・新昌県・力城県

屯有県は(現・黄海北道黄州)にカバーされる。


卑弥呼の時代の幽州の郡
226年
 涿郡が范陽郡に改められる。
幽州
玄菟郡
帯方郡
楽浪郡
遼東郡
遼西郡
右北平郡
漁陽郡
范陽郡
広陽郡
上谷郡
代郡

244年
 遼東属国が復活。ほどなくして昌黎郡に改められる。
玄菟郡
帯方郡
楽浪郡
遼東郡
遼西郡
右北平郡
漁陽郡
范陽郡
広陽郡
上谷郡
代郡
昌黎郡


紫は戦国時代の万里長城
緑線は秦代の万里長城
黒い線は漢代になっています。
 遼陽・瀋陽・撫順を境にしていたようです。遼東郡と玄莬郡、および楽浪郡を燕の長城が包み込むようにありましたが、卑弥呼の後漢末期には消失していたのですね。
楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為したというのですが、屯有県以南の荒地とは秦の時代では塞外だったようです。

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『三国志』 「魏書」第30巻倭人条 陳寿著 (280年ー297年頃)


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渡邊義浩『魏志倭人伝の謎を解く』 訳注 現代語訳より転載  ⇔ 黒澤一功の現代語訳 書き起こしオリジナル(更新は随時)


1) 帯方~九州編
倭人在帶方東南大海之中,依山㠀爲國邑,舊百餘國,漢時有朝見者,今使譯所通三十國.
倭人は帯方郡の東南にあたる大海の中におり、山や島によって国や邑をつくっている。もともと百余国あり、漢の時に朝見してきた国もあった。いま使者や通訳の往来があるのは三十国である。 倭人は帯方の東南にあたる境界の内側におり、山が多い島々に国邑(こくゆう)をつくっている。前漢のころ、もともと百余国あり、朝見する者があった。今、伝令使が通交する所は三十カ国である。
  *山島は一単語とみて、山が多い島と訳す。山や島と別々に訳してはならない。
*海内:(文語文[昔の書き言葉])) 国内.(昔は中国の周りは海に囲まれていると考えられていたため国境の内側を‘海内’と称した.)↔海外。また国を州という別称を用いていた。つまり、もと百余国あったときは漢の楽浪郡の領土だった。
 海の中という表現が、リアルな海であれば海中になってしまう。訳文の注:境界:土地のさかい目。
後漢書では驛所になっています。使譯(訳)とは、命令を伝達するという意味で伝令使(官)と訳しました。郵驛という語彙は漢書地理誌に出ています。*國邑(こくゆう)国邑は小さい国で宗廟がない。倭の100カ国は300年の間に攻伐ながら30カ国に収れんしたということで、倭地の領域が縮小したわけではありません。
子ブロック_A
從郡至倭
帯方郡から倭に行くには、 帯方郡から倭地までの間は、次のようである。
   
この一節は主格をなす独立句です。〔従~至~〕を前置詞構文で、~から~までと訳します。~は場所。「從郡至倭」は、この子ブロック_Aのローカル主格となります。従至構文は間の状態や様子を表現します。至の前に距離など状態が置かれます。
從郡と至倭の間に、「循海岸」から、末尾「自郡至女王國萬二千餘里」までが入れ子のようになる構文です。

;<從郡>循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國,七千餘里<至倭>
;海岸に沿って海を行き、韓国を経て、あるいは南にあるいは東にすすみ、倭の北方の対岸にある狗邪韓國(くやかんこく)に到着する。この間は七千余里である。 ;帯方郡から倭地までの間、郡から海岸をに沿って水行して、その後、韓国の陸路を、あるいは南にあるいは東に進むと倭の國邑の北岸にある狗邪韓國到着する。(直線距離で)七千余里(*8050里)である。
   
省略された主格を正確につかまえると、冒頭の;從郡至倭となります。到は至の構文の入れ子になります。
余里の余を15%に換算します。7000余里は8050里と実数に調整します。
この距離は直線です。「あるいは南にあるいは東に海岸に沿って韓国の陸路(街道)を通過する」は、この間の状態や様子を述語的に表現したもので、;乍南乍東という表現には実態のある路程、コースではありません。従って、倭人伝の距離はすべてまがりくねった道行き(例えば道路地図)、または航路ではなく、路線図のように地点と地点を結ぶ直線となります。到の文字によって至よりも強い区切りがあります。邪馬壹國は至ですから、倭地の最終地点ではなく、途中の国になります。
;乍南乍東によって7000余里が直角三角形の斜辺であることを示しています。
従+A+・・《状態》・・・至+B。が前置詞構文。したがって7000余里は構文の入れ子として状態を平叙文で記したもの。よって、到は到着するという動詞で訳すことが可能です。

到着するところの、其の北岸とは、倭人のすむ島嶼の北岸です。。陸を経由して到着する所は陸上です。従って倭の北側に狗邪韓があるということで、狗邪韓は倭地には含まれません。


;<從狗邪韓國>始度一海千餘里至對馬國,其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶㠀,方可四百餘里,土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴
;
そこから初めて一つの海を渡り、千余里で対馬國に至る。その代官を卑狗(ひこ)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。住んでいるところは絶島(四面を海で囲まれた孤島)で、(広さは)方四百余里ばかりである。土地は山が険しく、深林が多く、道路は獣道のようである。(人家は)千余戸ばかりであるが、良田はなく、海産物を食料として自活し、船に乗って南北から米穀を買い入れている。 ;[狗邪韓國から]対馬までは、はじめて一つの海を渡り、その間は千余里(*1150里)である。その代官は卑狗(ひこ)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。その官がいるところは切り離れた島のうち下島で方四百余里(460里四方)に一致する。土地は山が険しく、林が深く、道路は野鹿の類(たぐい)が通る道のようである。千余戸があるようである。良い田はなく、海産物を食用して自活し、舟に乗って南北の市場に行き食料を買い入れている。
; *断絶した島のうち、方四百余里は代官所のあった下島だけに適用されます。断絶したというのは、海でしきられているということです。対馬は一部繋がっていて、完全には二島ではありませんでしたが、古来二つの島からなるという認識だったようです。

;又;南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國,官亦曰卑狗副曰卑奴母離,方可三百里,多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴
;
また南に一つの海を渡り千余里すすむが、(この海は)名づけて瀚海(かんかい)といい、一支国(いちきこく)に至る。官をまた卑狗(ひく)といい、副を卑奴母離(ひなもりという。(広さは)方三百里ばかりで、竹木や叢林(そうりん)が多く、三千ばかりの家がある。田畑は少しあるが、田を耕しても食べる分には足りないので、また南北から米穀を買い入れている。 また[狗邪韓國の南(波止場)から]一大國(壱岐)まで一つの海を渡るが、(この海は)名づけて瀚海(かんかい)という。その間は千余里(1150里)である。官をまた(対馬の所領なので)卑狗(ひく)といい、副を卑奴母離(ひなもりという。(広さは)ちょうど方三百里(300里四方)に合い、竹木や叢林(そうりん)が多く、三千ばかりの家がある。田畑は少しあるが、田を耕しても食べる分には足りないので、また南北から食料を買い入れている。

*ここ以下、又が二回つづきます。狗邪韓國を基点に放射状に二方向に分岐されます。

;又;渡一海千餘里至末盧國,,有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之
また一つの海を渡り、千余里すすむと末盧国(まつらこく)に至る。(人家は)四千戸であり、(人々は)山裾(やますそ)や海浜(かいひん)に沿って居住している。草木が茂盛(もせい)していて、(道を)行っても海に行く人の姿は見えない。魚やあわびを捕らえることを得意とし、水が深い浅いをとわず、みな潜ってこれを取る。  また[狗邪韓國から]末盧国まではまた一つの海を渡り、*千余里(1150里)である。(人家は)四千戸で、山裾と海のはざまの干潟に住んでいる。草木(茅)が繁茂しており、その草木は前の人が見えないくらい高く伸びている。深い浅いを、とわず、好んで潜って魚やあわびを捕っている。
   *論点:又又構文では距離は通算されます。狗邪韓國からは3450里。余を15%の実数として計算しますと、末盧國まで11500里になります。

<從末盧国東南>陸行五百里到伊都國,官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸
東南に陸を行くこと五百里で、伊都国に到着する。官を爾支(にき)といい、副を泄謨觚(せまこ)という。(人家は)千余戸である。  末盧国の東南から伊都国までは陸を進み、その間は五百里である。官を爾支(にき)といい、副を泄謨觚(せまこ)という。(人家は)千余戸である。
   *この間の距離は500里で、余里がついていないことに注目します。この500をプラスすると郡から伊都国まで12000里ちょうどになります。
従至のブロックの終点すなわち伊都国まで12000里になり、かつ「自郡至女王國萬二千餘里」、自至のブロックの東南の終点女王国が12000里と同じなります。到の文字によって目的地である意味での区切りがあります。つまり、伊都国と女王国は重なります。伊都国は地名として、女王国は屯治(為政地)としての名称となります。



子ブロック_B

王,皆統屬女王國,郡使往來常所駐
(この国には)代々王がおり、みな女王国に統属している。(ここは帯方)郡からの使者が(倭国と)往来するときに、常に駐(とど)まるところである。 三十ケ国には王がいて、みな(残らず)女王国に服属している。帯方郡の使いが往来していて、つねに女王国に駐在している。
 ここでは郡使がとどまるところが伊都国のように読めてしまうが、
 *論点1:代々の王の訳はミスです。皆とは、複数国の王ですから、代々(世世)の王は一国の時系列ですから、つじつまがあいません。有は、存在することを示し)ある,いる.(〔主語(上位概念を示す名詞)+‘有’+目的語(下位概念を示す名詞)〕の形で用い;〔…には…がある〕と訳します。所有することを示すときは、(〔主語(人・組織・団体を示す名詞)+‘有’+目的語(多く具体的事物)〕の形で用います。)
S+V+Oの構文ですから、丗の一文字が主語になります。丗は今、魏が譯所通じる所三十か国の代替詞と解釈することができます。諸国に王がいて三十の国の王は皆、帯方太守が派遣した郡使がいる女王国に支配されています。論点2:左の訳(倭国)と往来するとは、倭国と女王国を混同してます。誤訳です。正しくは郡と女王国の間を往来するということです。倭国と女王国はおよそ750kmほど遠く離れています。倭国と女王国はまったく別な地域にあります。(里程論で詳細。)
論点3:属すの構文について。「・・・皆并屬車師後部王」『魏略西戎傳』の引用 ・・・の国々は車師後部王に並属していると訳します。属の最後尾に支配者の国が置かれます。A+属+BはAがBに属しているという構文です。論点3:對馬と一大國の王は同名です。王の数と国の数は厳密に一致しません。
*皆:中国語の皆の概念の説明 副詞的用法の意味
日本語での説明 挙って[コゾッテ]:全部残らず

>
<自伊都国>東南至奴國百里,官曰兕馬觚副曰卑奴母離有二萬戸

東南にすすんで奴国に至るまで百里。官を兕馬觚(しまこ)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。(人家は)二万余戸である。

伊都国の東南から奴国まで百里である。官を兕馬觚といい、副を卑奴母離という。(人家は)二万余戸である。
   *東南100里は女王国=伊都国からわずか6km東南です。郡からの東南と方向は同じですが、伊都国から再スタートしています。

<自奴国>東行至
 東にすすんで、  奴国から東に列して
   *東行=東に直列する、用例は西域伝に多い表現です。東に列する、または並んでいる国々なので複数國になることが必須条件になります。

不彌國百里,官曰多模副曰卑奴母離,有千餘家
不弥國にいたるまで百里。官を多模(たま)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。(人家は)千余家である。 不彌国があり、(距離は)百里、官は多模(たま)といい、副を卑奴母離という。(人家は)千余家である。
   *〔奴国から東に直列して〕 奴国から不彌国まで東に百里(6km)


<自不彌國>東行至投馬国>南至投馬國,水行二十日,官曰彌彌副曰彌彌那利,可五萬餘戸
南にすすんで投馬国(とうまこく)に至る、水を行くこと二十日である。官を弥弥(みみ)といい、副を弥弥那利(みみなり)という。(人家は)五万戸ばかりである。

<自不彌國>東行至投馬国、が略されている。
不彌國から東に直列して〕投馬国があり、南側にある(筑後川)を水行すること20日(3日)、長官は彌彌、副長官は彌彌那利といい、五万余戸に合致する。投馬国と邪馬壹國は東に並行していますから、どちらも筑後川の上流あって、東方向になります。

   *投馬国は不彌国の東に列していて、筑後川を3日ほど上流にいくとある。ここではじめて里数でなく、旅程で表現されるので、手段の記述であるので、ほんらい至投馬国は、末尾に配列されるべきで従至構文が適当で、もっとも難解なところ。、文字配列を校訂すると、水は河の呼称であるので、南水という河の固有名詞であるとも考えられる。これは筑後川のことである。したがって、上流に川を上ると、東に向かうことになる。
一、『魏志倭人伝』:   「(自女王)南至投馬國,水行二十日,
二、 『魏志』(逸文):  「南水行二十日至投馬国
南水をナムスと読み、筑後川の古名と改訂する。


,<従投馬國南>,水行十日陸行一月女王之所都,至,邪馬壹國,官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮,可七萬餘
南にすすんで邪馬台国(やまたいこく)に至る。女王が都を置いているところである。水を行くこと十日、陸を行くこと一月である。官に伊支馬(いきま)があり、次を彌馬升(みましょう)といい、次を彌馬獲支(みまかくき)といい、次を奴佳鞮(なかてい)といい、(人家は)七万戸ばかりである。 投馬国の南から(筑後川上流)に船で1日半、陸に下船して、(日田から)陸路4日半で女王の都する所までが邪馬台国になる。
奴国から東に直列して〕投馬国の南に流れる筑後川を上ること10日で下船
下船して陸行一月(4.5日の距離である。投馬国から東にある大国で、官に伊支馬、次に彌馬升、次に彌馬獲支、次に奴佳鞮という長官がいて、ちょうど7万余戸である。女王卑弥呼が総督府をおいて支配管轄しています。卑弥呼の居る土城は朝鮮半島にあります。邪馬壹國にはいません。
 …南には邪馬台国があり、そこは女王が都をおいているところ)」。つまり、邪馬台国は倭国の主都(みやこ)の所在地であり、倭国王卑弥呼の宮殿が置かれた国と解釈するところです。
「女王之所都」の都は”みやこ”とは違います。女王は邪馬台国を支配管轄しています。都とは、統属は「統制下におく」です。*都尉は地方に派遣される地方の長官の官名です。日本でいえば国司。*女王の二文字は卑彌呼であり、同時に卑弥呼がいたところは倭国を指し、邪馬壹國ではありません。ここで留意しておくのは、倭国の南に狗奴国、女王の南に狗奴国があるのです。大率は夫餘の官名(随書)
*Topics
Q:宮崎康平が邪馬台国を島原に比定したが、南至邪馬台国なら、方位通り解釈するなら女王国から南と考えなければならんだろう。であれば当然島原や天草諸島が射程にはいるが、なぜ、君は否定するのか?

はい、投馬国と邪馬台国は戸数や官の名称が記されており、それらの諸国は8カ国ありますよ。みな女王国より以て北になければならないという条件があります。すると、島原は女王国および奴国より南になりますから、郡には属していない、つまり、郡使が管轄していない国になります。

Q:では、其余の国々には入らんのかね?
その余の国々は女王国の東ですから、九州の東北海岸を越して四国や中国、近畿地方になります。これらの地域は魏の郡使が管轄しています。精査すると女王国より北に位置します。

Q:邪馬台国は南至邪馬壹國水行十日陸行一月。この水行十日、陸行一か月はどう考えるのか?

どこから、どこまでの、どこからが省略されています。女王が省略されています。自郡至の構文は女王国で切れます。新たに平叙文が続きますので主語は女王と代わります。女王は親魏倭王ですから、女王の二字は倭国です。「女王のいる所とは東沃沮です。水行十日、陸行一か月は、女王のいる東沃沮から邪馬台国までの距離と考えます。旅程のような所要日数ではありません。水行一日、陸行一月は距離の単位です。

では、投馬国も邪馬台国も同じ南なのはなぜか?
そうですね、倭地は郡からは東南でしたから、それと違えることは女王は帯方郡にはいないことをを示すためでしょうか?投馬国も邪馬台国は奴国から(東行)東のラインに直列しているので、両国とも緯度はほぼ同じです。郡からの道里はすべて里数をもって書かれています。したがって、郡から南ではなく、女王から南なのでしょう。これは狗奴国が其南とするのと同じで、女王の南と解するべきです。
通例、南至とか東至とだけ書かれて、里数がないばあい、河や海とクロスすることが多い。海に達した先は路程がないので里数がかけないからです。海上に道里はかけません。

 自女王國以北,其戸數道里可得略載
女王国より北(にある国々について)は、その戸数や(そこに行く)道里はだいたい記載できるが、 女王国の以北にある国々はその戸数や道里は一致する里数を記載できたが、
   女王国以て北側の国々が次の其の主格になります。自ですが、自のみで「~から」と訳し、前置詞です。奴国が最南ですから、論理的には女王国と奴国の緯度は重なることになります。

孫ブロック

餘,旁國遠絶不可得詳次;斯馬國次;巳百支國次;伊邪國次;都支國次;彌奴國次;好古都國次;不呼國次;姐奴國次有對蘇國次;蘇奴國次;呼邑國次;華奴蘇奴國次; 鬼國次;爲吾國次;鬼奴國次;邪馬国次;躬臣国次;巴利国次;支惟國次;鳥奴國次;
その他の旁国(ぼうこく)は遠く絶(へだ)たっており、(戸数や道里を)詳細にすることができない。つぎに斯馬國(しまこく)があり、つぎに巳百支國(しおきこく)があり、つぎに伊邪國(いやこく)があり、つぎに都支國(ときこく)があり、つぎに弥奴國(みなこく)があり、つぎに好古都國(こことこく)があり、つぎに不呼國(ふここく)があり、つぎに姐奴國(しゃなこく)があり、つぎに對蘇國(たいそこく)があり、つぎに蘇奴國(そなこく)があり、つぎに呼邑國(こゆうこく)があり、つぎに華奴蘇奴國(かなそなこく)があり、つぎに鬼國(きこく)があり、つぎに爲吾國(いごこく)があり、つぎに鬼奴國(きなこく)があり、つぎに邪馬国(やまこく)があり、つぎに躬臣国(きゅうしんこく)があり、つぎに巴利国(はりこく)があり、つぎに支惟國(きいこく)があり、つぎに鳥奴國(おなこく)があり、↓ その女王国の以北の国々のほかに国々(余)があり、遠く(海によって)隔絶されており、詳しいことを得ることができなかった。①旁國(ほうこく)が次にある。②斯馬國(しまこく)が次にあり、③巳百支國(しおきこく)が次にあり、④伊邪國(いやこく)が次にあり、⑤都支國(ときこく)が次にあり、⑥彌奴國(みなこく)が次あり、⑦好古都國(こことこく)が次にあり、⑧不呼國(ふここく)が次にあり、⑨姐奴國(しゃなこく)が次にあり、⑩對蘇國(たいそこく)が次にあり、⑪蘇奴國(そなこく)が次にあり、⑫呼邑國(こゆうこく)が次にあり、⑬華奴蘇奴國(かなそなこく)が次にあり、⑭鬼國(きこく)が次にあり、⑮爲吾國(いごこく)が次にあり、⑯鬼奴國(きなこく)が次にあり、⑰邪馬国(やまこく)が次にあり、⑱躬臣国(きゅうしんこく)が次にあり、⑲巴利国(はりこく)が次にあり、⑳支惟國(きいこく)が次にあり、㉑鳥奴國(おなこく)が次にある。
  遠絶=絶は断と同意で、倭地は大小の島々でなりたっていますから、海が隔てていると解釈します。
北部九州からみて、関門海峡と豊後水道が切断線です。遠いという文字からは長い距離が切断されますから、二十一国は中国地方、四国地方の主に瀬戸内海沿岸にあります。
旁國は固有名詞、つまり一つの国名です。したがって、九州を除いた西日本に二十一カ国があるのです。
@2020年8月5日、2020年12月9日第二次更新
 
奴國,此女王境界所盡南有狗奴國男子爲王,其官有狗古智卑狗不屬女王
次に奴国がある。これが女王の(支配している)領域の尽きる所である。その南には狗奴国があり、男子を王とする。その官には狗古智卑狗がある。(この国は)女王に服属していない。  奴国が女王の(支配している)領域の尽きる所である。女王其の南には狗奴国があり、男子を王とし、狗古智卑狗が官に任じられている。女王に服属していない。
 *補注(一)狗奴国は大和説では熊野とされることが多い。九州説では熊襲に比定する。 ここでの奴国はすでに戸数など詳細が書かれている国に含まれています。①狗邪韓国②對馬③一大國(壱岐)④末盧國⑤伊都国⑥奴国⑦不彌国⑧投馬国⑨邪馬台国の9か国。この奴国が領域の尽きるところです。郡から東南方向の行き止まりです。
其南の其の主格は女王です。狗奴国は倭国の南にあり、倭国に服属していません。女王卑彌呼が邪馬台国にいるという古典的な論者には、ここは解読できません。女王=倭国ということになります。

@2020/06/04

自郡至女王國萬二千餘里
 帯方郡より女王国にいたるまで一万二千里である。  帯方郡治所より女王国まで一万二千余里である。
   *伊都国まで12000里でした。余の距離は1800里、伊都国より先の距離です。すなわち女王国は伊都国よりも余の分1800里郡から遠い。*自~至構文に方向がない。この12000余里が折れ線だから。一言でいえば、L(英語のエル)字型になります。伊都国まで東南12000里ちょうど、その先奴国100里、ここから東に転じるので真っすぐな線の距離ではない。

2)会稽編 (ロケーションはすべて中国 紹興市禹廟のあるところ)
   男子無大小皆黥面丈身自古以來
(倭人の)男子は大人と子供の別なく、みな顔面と身体に入れ墨をしている。  会稽の倭水人は、昔からずっと大きかろうが小さかろうが、みな顔や体に入れ墨をしている。
   *倭人の定義=入れ墨をしている輩。倭人は倭種とは同義だが、倭国と定義が異なり、また倭、倭地だけに限定されない。*原文「丈」は「文」の誤記。

A’
使詣中國皆自穪大夫夏后少康之子封於會稽斷髪丈身以避蛟龍之害,今倭水人好沉没捕魚蛤丈身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾諸國丈身各異或左或右或大或小尊卑有差
古くから、倭の使者は中国に至ると、みな自ら大夫と称する。(中国の最初の王朝である)夏の(王)小康の庶子〔妾の子>(の無余)は、会稽に封建されると、髪を切り身体に入れ墨をして(龍の子に似せ)、それにより蛟龍の害を避けた。今倭人の水人〔あま〕は、水中に潜って魚や蛤(はまぐり)を捕らえることを得意とする。入れ墨をすることはもともと大魚や水鳥を抑えようとするためであった。後にようやくそれを飾りとした。諸国の入れ墨はそれぞれ異なり、あるいは左にあるいは右に、あるいは大きくあるいは小さく、(身分)の尊卑によって差があった。 中国を詣でる(会稽の倭水人の)遣使はみな大夫と自称している。
夏王朝の六代目の少康の庶子(無余)が会稽の王に封じられた際、髪を切って文身した。竜蛇に噛まれる被害を防ぐために短髪にして体に入れ墨をしたという。 今の倭の水人たちは潜って上手に魚や蛤を採取する。
かつて入れ墨は大魚や水鳥の害を避けるためのものだったが、後に次第に装飾となっている。水人の諸国の入れ墨の施し方は国によって各々異なっており、また、左右、大小、その身分の尊卑が分かるようにおのおの差がある。
   *文身している倭水人は倭人の定義に一致します。以後、水人を倭人と表記します。
B’
計其道里當在會稽東,治之東
(帯方からの)その道程の里数を計算すると、倭国の都のある邪馬台国は)会稽郡の東冶県の東方にあるのだろう。 会稽の倭水人たちが住んでいる所の道里は計ってみると会稽の東に当たる。倭水人たちは、この会稽の東を治めている。
 *上記紹興本・紹煕本の原文は東治なのだが、渡邊義浩は陳寿が東冶ととしている。これは、典籍に忠実ではないので論じることもできない。   *論点:紹興市から東、船山群島一帯を指している。船山市までは街道が通じています。『三国志』の【會稽東治之東】を、『後漢書』は【會稽東冶之東】としています。『後漢書』の改編部分にあたります。「東冶(とうや)の東」は後漢書の范曄独自の新解釈であって、きっぱりと否定します。范曄は地理に知識がない人でした。ですから、里程に関する記述がされていません。自己分析ができないところを省いたのです。
*道里とは、「彼里数若干之謂也」、道里とはここからかの地まで、どのくらいの里数なのかをいう。(アプローチに詳細。自至の構文が道里を表現する書式そのものです。したがって、「自郡至女王國萬二千餘里」は「自此至彼里数若干之謂也」と同じ形式で書かれています。よって、道里が書かれているのだと言えます。重要なことは、道里とは路の長さをいい、人が通行するところの二地点の間の里数のことです。
自至構文は、二点間の距離ですから直線距離しか言い表せません。これは漢書地理志ほか全中国史書にあてはまる原則です。
*若干=いくらか;どのくらいか;どれほど;
C’
風俗不淫男子皆露紒以木緜招頭
倭人の風俗は乱れていない。男性はみな冠や頭巾をつけず、木綿(の布)を頭に巻いて(はちまきをして)いる。  (会稽の倭水人)の風俗は淫乱ではなく、男性は皆、(衣冠や幘〔さく〕)など)頭に何も被らないで、髷(まげ)を結ったまま露出させ、木綿(きわた)の布で頭を巻いている。
D’
衣横幅但結束相連略無縫,婦人被髪屈紒作衣如單被穿
倭人の衣服は広い幅の布を、ただ結び束ねているだけで、ほとんど縫うことはない。女性は総髪をさげ鬢(びん)を曲げ後ろにたらし、衣服をつくること単衣のようであり、  (会稽の倭水人)の衣服は、幅広い一枚の布を結び束ねているだけで縫うことはない。婦人は髮を結わずに曲げて束ねる。衣服は単被(ひとえ)のように作る。
E’
中央貫頭衣之種禾稻紵麻蠺桑緝績出細紵縑緜
衣の中央に穴を開け、頭を通してこれを着る(貫頭衣である)。(人々は)稲や紵麻(ちょま)を植え、桑を栽培し蚕を飼って糸をつむぎ、麻糸、きぬ、綿を産出する。 > 会稽の倭水人たちの衣服はその中央に穴を開け、これに頭に通して着ている。稲や紵麻(ちょま=カラムシ)を栽培し、養蚕して絹織物を紡いでいる。細い紵麻(ちょま)や薄い絹織物を作っている。
   *論点:衣服は儋耳(たんじ)と朱崖(しゅがい)の倭人と同じ。いわゆる貫頭衣は中国南部海岸沿いに住む倭人の風俗で、弥生時代の日本(九州地域)の衣服ではありません。
F’
地無牛馬虎豹羊鵲兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃,所有無與擔耳朱崖同,倭地温暖冬夏食生菜,皆徒跣有屋室父母兄弟臥息異處以朱丹塗,其身體如中國用粉也食飲用籩豆手食
倭人の地には牛・馬・虎・豹・羊・鵲(かささぎ)はいない。武器は矛・楯・木弓を用いる。木弓は下を短く上を長くし、竹の矢には鉄のやじりもあり、骨のやじりもある。(倭国の土産文物の)有無の状況は、(ともに海南島にある)儋耳郡(たんじ)と朱崖郡(しゅがい)と同じである。|倭の地は温暖で、冬でも夏でも生野菜を食べ、皆ははだしである。家屋があり、父母兄弟は、寝るときにはそれぞれ場所を別にする。朱や丹をその身体に塗ることは、中国で白粉(おしろい)を用いるようなものである。飲食には高杯(たかつき)を用いて、手でたべる。 > (会稽の)その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲(カササギ)がいない。矛、楯、木弓を用いている。木弓は下が短く上が長い、竹の矢には鉄の鏃(やじり)、あるいは骨の鏃(やじり)を付けている。その物産や習俗など、あることないこと全部が(海南島の)儋耳(たんじ)と朱崖(しゅがい)の倭人と同じである。倭の地は温暖で、冬や夏も四季を通して生野菜を食べ、皆が裸足である。家には室があり、父母・兄弟は寝転がって寝るが、子供は別の部屋に寝かせる。朱丹のおしろいを身体にも塗り、中国で白粉を用いて化粧をするように身体にも塗っている。飲食には竹や木で作った杯器に盛って、手で食べる。
  すべて浙江省海岸地方の風俗。日本列島ではありません。
G’
死有棺無槨封土作冢始死停喪十餘日當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒已葬擧家詣水中澡浴以如練沐
その遺体には、棺はあるが槨(かく)はなく、盛り土をして塚をつくる。人が死ぬとはじめ遺体を家に停(とど)め喪すること十日間あまり、この時には肉食をせず、喪主は哭泣(こっきゅう)し、その他の人々は歌舞し飲食する。すでに埋葬しおわると、一家をあげて水中に入り澡浴するさまは、(中国における)練浴のようである。 (会稽の)倭水人が死ねば、棺(かんおけ)を用いるが槨(かく)(外棺=そとばこ)はなく、土を盛って塚をつくる。死去から十日あまりは塚をつくらず、喪に服す。その間は肉を食べず、喪主は大声で泣き、他の人々は歌い舞ったり酒を飲んだりする。埋葬が終われば、家人は皆が水中に入って禊(みそぎ)をする。中国で言っている練沐(練り絹を着ての沐浴)のようである。
H’
行來渡海詣中國恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人名之爲持衰若行者吉善共顧生口財物若有疾病遭暴害便欲殺之謂持衰不謹
倭人たちが往来のため、海を渡って中国に至るときには、つねにある者に、頭髪を梳(と)かず、虱(しらみ)をとらず、衣服は垢がつき汚れ、肉を食わず、婦人を近づけず、服喪中のようにさせる。これを名づけて持衰(じさい)という。もし航行が順調であれば、(人々)は、ともに生口(奴隷)と財物で(その功に)報いる。もし病人が出たり、暴風雨の被害に遭えば、すぐさま持衰をころそうとする。その持衰が禁忌を守らなかったためと思うからである。 (会稽の倭水人が)海を渡って中国に詣でる(朝貢)ために行来(ゆきき)する時は、いつでも一人の持衰(じさい)を乗船させる。航行の最中は、髪を梳かさず、シラミをとらず、衣服は垢で汚れたままとし、肉を食わず、女性を近づけず、服喪中のようにさせる。この人間を持衰(じさい)という。もし航海が吉祥で無事に済めば、共に行く者たちが、その生口〔虜・持衰のこと〕に財物を与えその労に報いる。もし、航行中に病人が出るなり、海が荒れるような災難に会った時は、人々はその持衰を殺そうと欲する。それはその持衰の清めが足らず、その不謹慎が災いを招いたというのだ。

    *論点:生口は捕虜と訳します。持衰は会稽倭人およ越人の供犠の風習です。日本でも五穀豊穣、豊漁、繁栄、健康を祈って童女を海に入水させる習慣がありました。古事記では弟橘姫(おとたちばなひめ)が海に身を投じるとたちまち海が静まった話が載っています。海との共生という奉斎なのでしょうか?、このH’ブロックで、二番目と三番目にある”其”はH'の中の直前の名詞を引いています。述部の修飾が何に向けられているか判断するのが基本です。



3)九州編
  
   ⇒出真珠靑玉
真珠と青玉(せいぎょく)〔ヒスイ〕を産出する。 その地は真珠や青玉〔ヒスイ〕を産出する。
   *九州編ブロックの主格をなす文字列です。会稽の倭人から、女王国の地に主格が換わります。日本でヒスイ(翡翠)といえば硬玉(ジェダイト)をさしますが、中国では産出しません。中国でヒスイといえば軟玉(ネフライト)をさし、宝石としての価値はありません。ヒスイの硬さは、宝石の硬度をあらわすモース硬度で硬玉が6.5~7、軟玉が6~6.5と、硬度7の水晶よりも低いですがどちらも靭性(じんせい)が大変に強く、ダイヤモンドより靭性の強いサファイアを上回り、宝石の中では一番割れにくい石です。
ちなみに、靭性(じんせい)の靭という字は、「強靭な肉体」などと使われるように粘り強さのことでたとえば、ダイヤモンドは硬度は10で一番硬くてキズは付きにくいですが、靭性が弱いために衝撃をあたえれば意外と簡単に割れることがあります。
反対にヒスイは硬度は低いので表面にキズが付くことはありますが、靭性が高いので衝撃に強く簡単には割れません。
J'
山有丹
倭の山には丹(丹砂、水銀と硫黄の化合物)がある。 その地の山には丹砂がある。
   *(日本の)水銀朱鉱山は中央構造線上にあり、徳島県阿南市の若杉山遺跡では縄文後期から採掘がおこなわれていました。九州西部では佐世保周辺・東部では別府周辺にまとまってあります。
K'
木有枏杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香
倭の木には枏(だん)〔くすのき〕・杼(ちょ)〔くぬき〕・豫樟(よしょう)〔くすのきの一種〕・楺(じゅう)〔ぼけ〕・投橿(とうきょう)〔かし〕・烏號(うごう)〔くわ〕・楓香(ふうこう)〔かえで〕がある。 楠(クスノキ科タブノキ)・杼(トチノキ・どんぐり)・豫樟(クスノキ科クロモジ)、楺櫪(クヌギ)、投橿(モチノキ科のカシ)、烏號(クワ)、楓香(カツラ)などの樹木がある。
いずれもわが国の照葉樹林、落葉広葉樹林に一般的に植生する植物である。
枏=
杼(ヒ)=どんぐり
烏號=優れた弓の材料=クワの木
楓香(ふうこうじゅ)=カツラ科のカツラ:安本美典)
L'
竹蓧簳桃支有薑橘椒蘘荷不知以爲滋味有獮猴黒雉
倭の竹には蓧(しょう)〔しの〕・簳(かん)〔やたけ〕・桃支(とうし)〔かずら〕がある。薑(きょう)〔しょうが〕・橘(きつ)〔こうじ〕・椒(しょう)〔さんしょう〕・蘘荷(じょうか)〔みょうが〕があるが、滋味(ある食べ物)とすることを知らない。獮猴(みこう)〔さる〕・黒雉(こくち)〔くろきじ〕がいる。  その地には竹篠(シノダケ)、桃支(とうたけ)がある。生姜(ショウガ)、橘(みかん・タチバナ)、椒(サンショウ)、茗荷(ミョウガ)などがあり、食料として滋味なることこの上ない。猿や黒雉(くろきじ)がいる。
M'
俗擧事行來有所云爲輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜其辭如令龜法視火坼占兆
倭の習俗は、行事や旅行、何かしようとするときには、そのたびに骨を灼(や)いて卜(うらな)い、それにより吉凶を占う。先に占うことを告げ、その卜辞は(中国の)亀卜のようであり、火による(骨の)さけめを見て(吉凶の)兆(きざし)を占う。 そこの風習は、事を起して行動に移るときには、亀の骨を焼いて吉凶を占うが、初めに占うことを告げる、その礼句は中国の亀卜法に似ている。骨に生じた裂け目の方角を観て兆(きざし)を占う。
 N'
會同坐起父子男女無別人性嗜酒【注:魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀】見大人所敬但摶手以當跪拝
<
倭の会合での座席や起居(の順序)には、父子や男女の区別はない。人は生来(せいらい)酒を嗜(たしな)む。大人(だいじん)が(身分の高い人)が尊敬される所作を見ると、ただ手を打つことで(中国の)跪拝に相当させている。 そこでは卜占を行う祭祈堂は座席の順序や男女や親子など立ち居を区別することなく、一同に会している。人々の性質は酒好きである。人々は大人(高貴な者)への敬意を表すにはもっぱら手を合わせている(合掌のこと)。それでもって、中国の跪拝(ひざまずいて礼をすること)にあたるようである。
   摶 タン;セン; まるめる。まるい形にする。まるめる。まるくする。また、散ったものをひとつにまとめる。あつめる。摶手とはかしわ手ではない。両手をにぎった形での合掌だろう
 O'
人壽考或百年或八九十年   
倭の人は寿命が長く、あるいは百年、あるいは八、九十年である。 そこの人々は長生きする者が多く、百年、あるいは八、九十年生きる。

P'
俗國大人皆四五婦下戸或二三婦婦人不淫不妬忌不盗竊少諍訟
>倭の習俗では、国の大人(だいじん)はみな四、五人の妻(を持ち)、下戸でも二、三人の妻(を持っている)。婦人は乱れず、嫉妬しない。盗みはせず、訴訟は少ない。  そこの風俗は、国の部族長(有力者)は皆、四、五人の妻を持ち、庶民でも中には二、三人の妻を持つ者がある。その妻たちは貞節で互いに嫉妬をしない。そこの地では窃盗をしないので、訴訟は少ない。
Q'
犯法輕者没其妻子重者滅
門戸及宗族尊卑各有差序足相臣服,
収租賦有邸閣國國,有市交易有無使大倭監之,自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國,於國中有如刺史,
王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯,下戸與大人相逢道路逡巡入草,傳辭説事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾

倭の法を犯せば、軽いものはその妻子を取り上げ、重いものはその家族および一族を滅ぼす。尊卑(の間)にはそれぞれ差異と秩序があり、臣服するに十分である。租と賦を収納するために、邸閣〔倉庫〕があり、有無を交易し、大倭がこれを監督させている。女王国〔邪馬台国>より北には特別に一人の大率をおき、諸国は大率を畏れ憚っている。(大率)は常に伊都国を治所とし、倭国の内で(の権限は中国の)勅史のようである。)
女王が使者を派遣して京都(洛陽)・帯方郡・諸韓国に至らせるとき、および帯方郡が倭国に使者を送るときにも、みな(大率が)津(しん)で臨検して確認し、伝送する文書と、下賜された品物を、女王に届ける際に、間違えることのないようにさせる。
下戸が大人と道で逢えば、(下戸は)後ずさりして、(道端の)草むらに入る。言葉を伝え物事を説明する際には、蹲ったり跪いたりして、両手は地面につけ、恭敬の意をあらわす。受け応えの声を「あい」という。(中国に)比べると然詫(ぜんたく)のようなものである。
法を犯せば、軽い罪は妻子の没収、重罪はその家族あるいは一族を処罰する。身分の尊卑は階級の序列があり、互いに臣服(官服)には差があり、上下の秩序が整っている。租賦を収める所は邸閣(高床式倉庫)で、また国々にそれぞれ市場があり、人々は出かけて行って双方物資を交易しあっているが、諸国の王は各々大倭(役人)を任命して交易の有無やその多寡を監理している。
女王国から北には、(女王は)特別に、ある一人の大率を置き、諸国を検察しており、他の諸国はこの大率を畏れ憚(はばか)っている。大率は常に伊都国を治め(伊都国は従属国)、国の中での立場は中国における中国皇帝の刺史のようである。
(女王国の)王が京都(洛陽)・帯方郡と郡に属する諸韓国に使者を詣でさせるとき、ならびに(女王国に駐在する)郡使が倭国(女王)に遣使するとき、皆(王・大率・郡使ほか属史ら)全員で波止場に出向いて、奏上書や献上品を点検し、詣でた際に女王との間にくいちがいがないようにする。
 庶民が国の有力者に道で出会った際は、後ずさりして草むらに入り、道をあける。有力者に対面して話たり、何か事情を説明するときは敬意を表すため、蹲(うずくま)るか、跪(ひざまず)いて、両手を常に地面に着けておくしきたりである。返事をする声は噫(yī)と言い、これで承諾を示すようである。
  *王の字は女がつかないかぎり男王と見ます。
一大率の一は日本語にすれば、ある大率と訳す。一は、ひとりのと直訳するが、特定しない人物をある人、特定しない日をある日なとというように意味づけできる(アジア言語の特徴)。大率は卑弥呼が派遣しています。魏の属使ではありません。魏は帯方郡郡使を派遣しています。
*女王国には大きな港があったことが重要です。女王国を東に出航し、半島や大陸に向かいました。 
  *租賦の「租」は穀物などを収めること、「賦」は労働力の提供と考えられています。
*(景初二年8月まで伊都国は公孫康の都督府が置かれていたが卑弥呼が統括するようになったと解します。大率の下に大倭という官僚がいたと考えます。臣服(官服)には差は、大率は紫色の帯(二品)、大倭は白帯(十品以下)だったと推定します。(大率解明に詳述:隋書卷八十一列傳第四十六東夷百濟および三国史記 卷四十 雜志 第九:職官 下 武官より)
R'
國本亦以男子爲王住七八十年,
倭国はもと男子を王としていた。(男王のもと)七、八十年すると、  女王国はもともと男子が王となって七、八十年ほど経っていた。
    論点:ここまで其の主格は女王国ですここは女王国の男王が七,八十年続いていたと訳します。其のかかりは女王国で、倭国ではありません。倭国大乱は誤訳から派生した虚偽。

4)倭国編〔Ⅰ〕
倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲王,名曰卑彌呼事鬼道能惑衆,年已長大無夫婿有男弟佐治國自爲王,以來少有見者,以婢千人自侍唯有男子一人給飲食傳辭出入居處宮室,樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞
倭国は乱れて、(国々)が互いに攻撃しあうことが何年も続き、そこで一人の女王を共に立てて王とした。名を卑彌呼という。鬼道(巫術・妖術)を行い、よく人を幻惑した。歳はすでに年配であるが、夫を持たず、男の弟がおり、国の統治を助けている。王になって以来(卑彌呼)を見たことのある者は少ない。婢千人を侍らせ、ただ一人だけ飲食を給仕し、言辞を伝えるために出入りしている。卑彌呼の居る宮室は、楼観(見張り櫓)と城柵を厳しく設け、常に人々がおり武器を持って守衛している。 倭国(の朝廷)は乱れ、敵も味方もはっきりしない紛争が一年余も経過した。そこで、女子を共立して王とした。名付けて卑彌呼という。鬼道に習熟し、よく民衆を歓喜させた。老齢になったので、すでに夫は亡く、夫の異母弟が国の統治を補佐していた。その男弟が自ら王と為して以来、卑彌呼を見る者は少なくなった。1000人もの女卑が卑弥呼に自ら侍り、ただ、一人の男子が飲食や伝辞を伝えるなど卑彌呼の居る処に出入りしている。宮室、楼観、城作が堅牢に設けられており、兵が常時守衛している。
  *主格が女王国から倭国に変わります。文節として主語が転換しています。 
*鬼道は始祖を祭る儀式。

5)九州外(山島)

女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
有侏儒國有,其南人長三四尺去女王四千餘里
有裸國黒齒國復在,<従女王国>其東南船行一年可至參問倭地,絶在海中洲㠀之上或絶或連,周旋可五千餘里
女王国の東、海を渡ること千余里に、また国がある。いずれも倭の種(族の国)である。また侏儒国(こびと)国があり、その南に位置する。人の身長は三、四尺で、女王國からは離れること四千里である。また、裸国・黒歯国があり、さらに其の東南である。船で行くこと一年で至ることができる。倭の地を訪ねると、遠く離れた海中の州㠀の上に(国が)あり、あるいは海に隔てられあるいは陸続きで、周囲五千余里ばかりである。 女王国の東に当たる波止場から①渡海し千余里(1150里)のところに再び国(日振島)があり、その人々は皆倭種である。また女王国の東に当たる波止場から②南に渡海し、女王(国)を離れること四千余里に侏儒国(屋久島)があり、その人々は身長が三、四尺であり、皆倭種である。また女王国の東に当たる波止場から③東南に舟行一年の(距離)のところに、ふたたび尋ね聞いたところの裸国・黒歯国が大小の島々にあり、あるい海で切り離れ、あるいは連なった島々の周囲を回ると五千余里(5750里)になう。その地の人々もまた倭種である。
①②③は女王国の東に当たる波止場から、放射状。

  前のブロックでは倭国が主題でしたが、ここから九州を渡海して行きつく島嶼に主題が変わります。ここは一ブロックに分割しています。 
*又は冒頭の主格を引き継ぐので、侏儒國、裸国・黒國も倭種です。結果、九州東海岸から渡海した外界の倭種の国々が放射状に書かれています。その島国の人々もまた倭種です。裸國はテニアン島、黒歯國はサイパン島です。倭種=黥面文身している人々。
*海中洲島の四文字を一単語として島嶼(トウショ)と訳します。平たく言えば”大小の島々”となります。
注:『康熙字典』《嶼》:海中洲
嶼の文字の説明として海中洲とあります。嶼は島の旧字か、あるいは小さい島の意味。嶼は”しま”と読んで問題はないでしょう。
「其珠崖、儋耳二郡在海洲上,東西千里,南北五百里」・・・ここから海洲は島ということです。具体的には海南島です。
2020/03/15 九州の外縁の地のtabで詳述。
*去女王四千餘里、女王は女王國の誤りとみなします

6)倭国編〔Ⅱ〕

景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏送詣京都
景初三年(239)年の六月、倭の女王(卑彌呼)は、大夫の難升米たちを派遣し帯方郡に至らせ、天子に拝謁して朝見することを求めた。帯方郡太守の劉夏は、属史を派遣し(難升米たちを)京都(洛陽)に至らせた。 景初二年(238年)の六月、倭の女王(卑弥呼)が大夫難升米らを郡に派遣し、天子に詣でて朝獻することを求めた。よって太守劉夏は属吏”將”を派遣し、(將は応諾の答えを求めに)京都(洛陽)に詣でさせた。
 *冒頭の「景初二年」が景初三年の誤りである以外は、事実の記載である。・・・・公孫氏滅亡の直前である景初二年六月と記述されることは、伝写の間違いであり、日本書紀の注に引用されるように、景初三年が正しい。『三国志事典』渡邊義浩2017年刊行より。 *倭国の朝貢について年号を冒頭において年度ごとに書かれるブロックに転じます。
洛陽の魏の大殿での朝貢記録がもとになっていると考えます。
*「景初二年」がそのまま正しい。
*「將」は姓(固有名詞)で、洛陽に詣でたのは将という姓の官吏。遣~送詣京都は、洛陽に某を遣わすという構文。ここでは遣使でなく、史となっている。「将」は中国に少なからずある姓です。史は太守の属官の意味に取る。この六月は難升米らは帯方太守に詣でただけであり、難升米らが洛陽に赴くのは12月になる。6月、このとき司馬懿が公孫の襄平城を攻撃している最中であり、倭国が魏軍に援軍を出すことを申し出たと考えられる。公孫康が斬首されたのは8月である。


年十二月詔書報倭女王曰制詔親魏倭王卑彌呼,帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利奉,汝所獻男生口四人女生口六人班布二匹二丈以到,汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝,今以汝爲親魏倭王假金印紫綬装封付帶方太守假授汝其綏撫種人勉爲孝順汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞今以難升米爲率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印靑綬引見勞賜遣還今以絳地交龍錦五匹,〔*〕絳地縐粟罽十張,蒨絳五十匹,紺青五十匹,荅汝所獻貢,直又特賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鈆丹各五十斤皆裝封付難升米牛利還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也
〔一〕臣松之以為地應為綈,漢文帝著皁衣謂之弋綈是也。此字不體,非魏朝之失,則傳寫者誤也。
その年、景初三年(239)年の十二月、(皇帝の曹芳は)詔書を下して倭の女王に報じて次のように言った。親魏倭王」の卑彌呼に制詔する。帯方太守の劉夏が、使者を派遣して汝の大夫である難升米と次使である都市の牛利を送り、汝の献じた男性の生口(奴隷)四人、女性の生口六人と班布(かすりの織物)二匹二丈を奉じて、到着した。汝のいる処ははるかに遠くにも拘わらず、こうして使者を派遣し貢献してきたことは、汝の忠考(の現れ)であり、我はたいへん汝を慈しむ。いま汝を親魏倭王となし、金印紫綬を仮(あた)え、包装のうえ封印して帯方太守に託し、汝に仮授させよう。それ、種族の民を綏撫し、勤めて考順をいたせ。汝の使者である難升米と牛利は遠きをわたり、道中で苦労をした。いま難升米を率善中郎将となし、牛利を率善校尉となし、銀印青綬を仮え、引見して労を労い賜与して送りかえらせる。
いま絳地交龍(濃い赤地に交龍を描いた)の錦を五匹〔一〕、絳地縐粟(濃い赤い地に細い縮み織)の罽(けおりもの)を十張、蒨絳(茜染めの布)十張、紺青(濃い藍色の布)五十匹により、汝が献上した朝貢の品物に答える。
また、汝に紺地句文(紺地の布地に句連雷門<じぐざくの文様>のある錦を三匹、細斑(細かい花模様を斑に出した)華罽(毛織物)を五張、白絹を五十匹、金を八両、五尺の刀を二振り、銅鏡を百枚、真珠・鉛丹それぞれ五十斤を賜与し、みな包装のうえ封印して難升米と牛利に託す。(彼らが)帰り着いたら記録を受け取り、すべてを汝の国中の人々に示し、国家が汝を慈しんでいることを知らしめよ。このために鄭重に汝の好の品物を賜与するものである。と。

〔一〕臣(わたくし)松之が考えるに、地(の字)は綈(の字)につくるべきである。漢の文帝が皁衣(そうい)〔黒い絹の服〕を着た、これを弋綈(よくてい)という、とある。(綈)がこれである。この(地)字は意味をなさない。魏朝の(下した詔に)間違いがなければ、伝写した者のあやまりである。
 その年(景初二年(238年)の十二月、魏の皇帝(明帝)は詔書を倭女王に報い、次のように語った。
 制詔!親魏倭王卑弥呼よ!帯方太守劉夏が、汝の大夫の難升米、次使の都市牛利らを遣わし。朝賀(改元祝賀)に奉献してきた。汝の所(倭国)で獲た(公孫の)男性虜生口(捕虜)四人女性虜生口(捕虜)六人班布二匹二丈を奉献した。汝のいる所はとても遠いにも拘わらず、遣使奉貢してきたのは汝の忠孝を示すものであり、我は甚だ汝を慈しむ。
いま汝を親魏倭王に為す。詔書と金印紫綬など包装したうえ封印し、帯方太守(劉夏)に付託して仮授しよう。汝、その所の住民をいたわり安んじさせよ。また、民を勤めて孝順を尽くすよう教化せよ。汝の使者の難升米、牛利は遠路をはるばると来た労に報いて、いまを以て難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉と為し銀印青綬を仮し、引見したうえ懇(ねんご)ろに送り還えらせる。
今、絳地交龍錦、〔絳綈〕(交龍・龍が交わる絵柄の錦織)を五匹〔*〕、絳地縐粟罽(縮みの掛ける毛織物)十張、蒨絳(茜色と深紅)五十匹、紺青五十匹、これらを汝の献上品にたいする返礼とする。
また、特別に汝(卑弥呼)には紺地の句文(文様染め)錦三匹、細班華罽(細かい花模様がら絨毯)五張、白絹(無地の絹)五十匹、金八両、五尺の刀剣を二口、銅鏡を百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を賜う。いずれも包装封印した。難升米、牛利にそれら品々と悉く一致した目録を受け取らせたので、帰還したら汝は国中の人々にその目録を顕示し、魏国が汝に熱い親愛の情をもっていることを知らしめよ。それ故に鄭重に汝によき品々を与えたのである。

〔一〕絳地交龍錦五匹の文字の内、裴松之が考えるに「地」は「綈」でなくてはならない。漢の文帝が「皂衣」と言うのは「弋綈」のことである。この字が間違っているのは魏朝の失敗ではなく、伝写した者の誤りである。〕
 *景初2年でなく景初3年が正しいとしています。 *「かっこの中」の全文が明帝が曰くの内容。 *生口は捕虜のこと。捕虜と読むと倭国の地政学が大きく変貌します。ここでの捕虜は公孫軍の捕虜です。倭国はこの後も正始4年と8年にも高句麗の捕虜を献上しています。
*卑彌呼は「親魏倭王」に進号されたのであって卑彌呼が重複して帯方太守に任じられることはなく、この時点で帯方太守は劉夏で次の帯方太守は弓遵(きゅうじゅん)。景初二年12月の奉が朝賀奉獻であることの文献的証拠。
《三國志》[西晉] 265年-300年《魏書四》《齊王紀》:冬十二月,倭國女王俾彌呼遣使奉獻。奉献と貢献は違います。通例、改元祝賀式典など朝賀に出席することを奉じるといいます。


正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等,詔書印綬倭國拝假,倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡釆物倭王因使上表荅謝詔恩
 正始元年、太守の弓遵、建忠校尉梯儁(ていしゅん)らを遣はし、詔書・印綬を奉じて倭国に詣らしめ、倭王に拝仮す。ならびに詔を齎(もたら)し、金・帛・錦・罽・刀・鏡・采物を賜う。倭王、使に因りて上表し、恩詔に答謝す。 太守弓遵(きゅうじゅん)は建校尉梯儁(ていしゅん)等を改元朝賀の儀に倭国を奉賀朝貢させた。(魏帝曹芳は)詣でた倭国に詔書と印綬を拝假し、倭王に併せて金帛錦、罽刀、鏡、釆物などの詔賜を齎(もたら)した。よって倭王は(倭国から)使者を出し上表をもって詔恩に答謝した。 
注:
奉=”奉賀朝貢”の他動詞。奉一文字に略されています。
詣=動名詞として”詣でたこと”と訳すか、形容動詞として”詣でた倭国と訳します。

【一功の注;解説】ここでは、曹魏から使者が倭国に派遣されたとします。渡邊義浩は典型的な誤った通説を踏襲しています。説というより誤訳です。『倭人伝によれば、景初三(二三九)年から正最初の遣使は、年代に疑義もある景初三年の朝貢であり、これに対して、曹魏は、正始元(二四〇)年に、梯儁を派遣して、卑弥呼に親魏倭王を仮授している。正始元年、帯方太守の弓遵は、建忠校尉の梯儁たちを派遣して、詔書と印綬を奉じて倭国に至らせ、(卑弥呼を親魏)倭王に拝仮した。』渡邊義弘「魏志倭人伝の謎を解く」、この中に誤訳が三カ所もあります。1.『年代に疑義もある景初三年の朝貢であり』、・・・景初二年が正しい。『疑義もある景初三年』にはまさしく疑義があるのです。2.曹魏➡倭国への遣使の回数に加えています。3.金・帛・錦・罽・刀・鏡・采物と中黒で一語ずつ分けていますが、金帛錦、罽刀とすべきです。
  *論点:倭国の倭王に詔書と印綬を与えたのは魏帝曹芳となります。拝假とは皇帝の特権です。直接渡すという儀式を伴った行為ですから、倭国が朝貢(上洛)したと考えられます。この朝貢は魏帝曹芳の改元奉賀朝貢になります。改元の奉賀に西域・東夷から属国が多数洛陽に赴いています。文脈から察するに梯儁が倭国の代理人となっているのです。倭王に除された後に(倭王として)上表で謝意を表したことになります。曹魏が倭国に使者を送ったのではありません。したがって、倭国 が 曹魏 に 使者 を 派遣 し た回数に加えます。
ここでの倭王を卑弥呼と見る大方の説にたいして、私は男王とみる。卑弥呼にはすでに先帝が定めた親魏倭女王であり、曹芳が追号するなら倭女王となっているはずである。

*建中校尉は建校尉の誤字です。校尉は、都督、都尉にならぶ後漢の称号で、蛮夷の地の治安を監視する武官。
*奉=①(奉賀朝貢を一語で示しています。年長・上級機関の人に)ささげる,献上する。②(年長・上級機関の人から)頂く,受け取る。
*(属国である倭国)に奉じる、詣でるという語を使うことは絶対にありえないのです。
*罽刀を固有名詞一語とみます(西域の罽賓國の刀)。
*
荅:こたえる。
このとき、自ら王となしていた自称王(弟麻余)が新皇帝から王に叙されていると考えられます。⇒ここでは倭王は男王です。卑彌呼はすでに明帝から親魏倭王に除されているので卑弥呼への進号とは考えられません。
著者の意見:通説は梯儁が倭国に来たような解釈をでっちあげています。邪馬台国の女王卑弥呼論者は梯儁が日本来たことにしないと論理破綻します。卑弥呼は九州説であれ、大和説であれ日本にいるという前提があるからです。さらに梯儁の報告をもとに陳寿が倭人伝を書いたという不毛な説を唱えます。
   正始元年に朝賀が行われたことは晋書に書かれています。
『晋書』 卷一 帝紀第一 高祖宣帝 懿 >正始元年 
 正始元年春正月,東倭重譯納貢,焉耆,危須諸國,弱水以南,鮮卑名王,皆遣使來獻,天子歸美宰輔 又增帝封邑
,

正始元年[240年]春正月、東倭が訳(上奏文)を重(かさ)ねて朝貢してきた。焉耆(えんき)・危須(きす)等の諸国、弱水(じゃくすい)以南の諸国、鮮卑(せんぴ)の諸部族王(大人)が、みな使者を遣わして来献した。皇帝はこの威風を宰相(さいしょう)の功によるものとし、司馬懿(しばい)仲達に邑(ゆう)(領地)を増封した。
解説
東倭:倭国を含む東夷諸国の王。
弱水:今のアラビア海、西域およびパルティア諸国の名だたる鮮卑大人(王)。


四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口倭錦絳靑 縑緜衣帛布丹木𤝔{短弓矢掖邪狗等壹拝率善中郎將印
正始4(243)年、倭王は、また使者である大夫の伊聲耆(いせいき)と掖邪狗(えきやく)たち八人を派遣して、生口・倭錦・絳靑縑・緜衣・帛布・丹木𤝔短弓・矢を上献した。掖邪狗たちは、みな率善中郎将の印綬を拝受した。 正始4年(243年)、[魏帝曹芳が元服した。]倭王は復(ふたた)び大夫伊聲耆、掖邪狗ら八名を遣わし洛陽に詣でさせ、生口(高句麗の捕虜)、を献上し、倭錦絳靑、縑緜衣帛布、丹木のゆみつかを持つ短弓と矢を壹拝(とはい)した。掖邪狗らは率善中郎將に徐され印綬を与えられた
 
  *論点:1:魏帝曹芳元服奉賀朝貢であった。文献証拠: 三國志 -> 魏書四 -> 齊王紀
四年春正月,帝加元服,賜羣臣各有差。・・・中略・・・冬十二月,倭國女王俾彌呼遣使奉獻。
*ここでの生口は高句麗軍との戦闘で奪った虜(捕虜)です。口はもともと羊を数える量詞。
〔ユヅカ・ゆみつか〕の誤字。⇒左手で弓を握る部分で通常、皮などを巻く。
短弓は匈奴・鮮卑など戎狄(じゅうてき)が使う武器です。短弓は西域、モンゴル、女真・扶余が使うΣ型をした弓で、主に馬上から放ちます。倭人が使う弓ではありません。よって短弓は対高句麗戦での戦利品とみる視点が重要で、倭国は高句麗と戦える距離にあった国です。

[𤝔]はタブレットのブラウザでは文字化けしている場合があります。
[𤝔]=

*論点:2:壹拝は一拝と訳すのは誤訳。
壹拝(とはい)とは高坏(たかつき)に供え物を載せて献上すること。[アプローチ編に詳細]
ここでは、なんらかの容器に体裁を整えて献じたということ。


六年詔賜倭難升米黄幢付郡假授
正始六(245)年、詔して倭の難升米に黄幢を賜与し、帯方郡に託して假授させた。
(黄幢;黄色の旌旗/5色の羽毛を先につけた古代の旗の一種)
 正始6(245)年、(後漢皇帝曹芳は)難升米に制詔し、黄幢を倭の難升米に賜い、郡に付託して假授した。

    *(黄幢;皇帝の権威を示す「錦の御旗」、「威信財」、魏の曹操のシンボル、中央を意味する土星の色、すなわち黄色に染めた指揮旗。)正始7年の母丘儉の軍事行動は正始6年から始まっていたことを示している。


八年太守王頎到官倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状,遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拝假難升米爲檄告喩之卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與年十三爲王國中遂定政等以檄告喩壹與壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔 靑大句珠二枚異丈親錦二十匹
正始八(247)年、帯方太守の王頎が官に到着した。倭の女王である卑弥呼は、狗奴國の男王である卑弥弓呼(ひみきゅうこ)とまえから不和であった。(そこで卑弥呼は)倭の載斯(さいし)と烏越(うえつ)たちを派遣して帯方郡に至り、(狗奴国と互いに攻撃し合っている様子を報告させた。(これに答えて帯方太守の王頎は)塞曹掾史の張政たちを派遣して、それにより、(先に帯方郡まで届いていたが送られていなかった)詔書と黄幢をもたらし、(狗奴国との戦いの軍事的指導者である)難升米に拝仮し、檄文をつくって難升米に告喩した。卑彌呼が死去したため、大いに塚を作った。径は百余歩〔約百四十四メートル〕、徇葬する者は百余人であった。あらためて男王を立てたが、国中は服せず、相互に殺し合い、この時にあたり千人を殺した。また、卑弥呼の同宗の女性である壹與という、十三歳(の子)を立てて王となし、国中はようやく定まった。(それを見た)張政たちは檄文により壹與に告喩した。壹與は倭の大夫である率善中郎将の掖邪狗たち二十人を派遣して、張政たちの(帰国を)送らせた。それにより(掖邪狗たちは洛陽の)尚書台に至り、男女の奴隷三十人を献上し、白珠を五千孔(穴を開けた白珠五千)・靑大句珠(青玉〔ヒスイで作った勾玉〕を二枚・)異文雑錦(中国と模様の異なるいろいろな錦を二十匹朝貢した。  正始八(247)年、玄莬太守の王頎が帯方に到着した。倭女王卑彌呼と狗奴国王卑彌弓呼(高句麗・東川王)は敵対しており和平することはなかった。(王頎は)遣使し倭載斯・烏越等を(皇帝曹芳は)に詣させ、狗奴国(高句麗)を同盟して(相)攻撃する状を上表した。(王頎は)その攻撃状を塞曹掾史張政等らを(洛陽)に派遣し皇帝に届けた。よって(皇帝曹芳は)、難升米に黄幢を拝假する詔書をもたらし、以て(張政)は激と告喩を為した。その直前に卑弥呼が死んだ。(すぐに)大きな塚(墓丘)を作った。円の直径は百余歩〔115歩、約23メートル〕、徇葬する者は百余人。今までいた男王(倭王)は更新して共立王として立ったが国中が服さず、さらに謀反が起きて敵の陣営を)誅殺し合い、千余人が殺された。今一度卑弥呼の宗女壹與を共立王とした。壹與は13歳であった。国中がついに定まった。

張政等は再び、激をもって内紛を終息させ、壹與を女王にする告喩をなした。(内乱が収束し、濊城も降伏し、沃沮の制圧が終了した。壹與は倭の大夫率善中郎將,掖邪狗ら二十人を遣わして張政らが帰還するのを護衛して送った。同行した者たちは臺(洛陽の高楼)に詣でて男女生口三十人(高句麗の捕虜)を献上し、白珠五千個、靑大句珠二枚、異丈親錦二十匹を貢献した。

 
*正始八年(247年)、玄莬太守の王頎が帯方に到着し官についた。これは人事異動です。倭女王卑彌呼と狗奴国王卑彌弓呼(高句麗・東川王)はもとより敵対しており和平することはなかった。(王頎は)倭載斯・烏越等に使者を送り、郡治に詣でさせて狗奴国(高句麗)を共に攻撃する状を(王頎が)説得した。(倭国は参戦に同意したので王頎は)その攻撃状を塞曹掾史張政等らを(洛陽)を派遣し皇帝に届けた。よって(皇帝曹芳は)、難升米に黄幢を拝假する詔書を出し、激の告喩を為した。(魏志倭人伝)・・・卑彌呼の居る場所は帯方郡の領域の中だと想像させる訳です。つまり、王頎が使いを送って郡に来るように命じてから、どのくらいの日数で到着できるだろうか。もし倭国があった場所が郡から水行10日陸行1か月だったら、いったい郡治に詣でるのにどのぐらいの所要日数とになろうか。使者が到着して、それから出発するのですから、2か月と20日後に倭国の倭載斯・烏越等が帯方郡治に詣でたということになりますよ。誤訳をなくして整理すると倭国のロケーションは帯方郡治(太守の居る所)とは馬で1日ぐらいしか離れていないと解釈したほうが自然なのです。
*「卑彌呼以死」の訳:以て死すの訳;卑弥呼はすでに死んでいるが黄幢が渡った時に、死んだことにされたということ。テンスではこうなるだけで、死の原因とは関係がありません。「卑弥呼が死んだことで塚を作った。以て死」が非業の死を意味する定型句ではありません。「

檄によって、難升米が高句麗戦に出撃したとみることができます。
*男女生口三十人(高句麗の捕虜)を献上したことは高句麗との戦いに勝利したということです。
*王頎の素性と戦歴を知ることが重要です。王頎は正始7年に玄菟太守として毌丘倹の高句麗討伐に従軍していました。*ここでの生口・捕虜は正始七年の毌丘倹の丸都城攻撃で得た高句麗軍の捕虜です。
 *論点:卑弥呼の墓は直径23m!
*魏尺では一歩は六尺で145.2cm、ここだけ中国の度をつかうのは間違いでしょう。倭人伝の一里は60mで、一里は300歩、300で逆算すると一歩は20cm、100余歩は20m、余を15%としてプラスして23mにすぎないことになるのです。およそ、中国の魏の度の13.77%の縮尺率になります。

*正始8年の一年間の出来事の時系列。
(起文)其八年、太守王頎到官。
①倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼、素不和。
②遣倭載斯烏越等、詣郡、説相攻撃状。
③遣塞曹掾史張政等、因齎詔書黄幢、拜假難升米、爲A;檄告喩之。
④卑彌呼以死、大作冢、徑百餘歩、徇葬者奴婢百餘人。
⑤更立男王、國中不服、更相誅殺、當時殺千餘人。
⑥復立卑彌呼宗女壹與、年十三爲王、國中遂定。
⑦政等以B;檄告喩壹與。
⑧壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人、送政等還。
(結文)因詣臺、獻上男女生口三十人、貢白珠五千孔、青大句珠二枚、異文雜錦二十匹。

テンス(時制の流れ)を正確につかむことが重要です。②のA;檄告喩と⑦のB;檄告喩の間に④卑弥呼の死、⑤一度皇帝曹芳から難升米に徼告喩がなされたが内乱がおきたため出撃の実行が保留された。⑥壹與が共立され乱が収まった。以上の後に、あらためて壹與に張政がB;檄告喩をなした。時系列と合わせてストーリーが構築されるべきです。
1)玄莬郡から王頎が帯方に赴任する。
*黄幢は戦場に皇帝の陣を示す幢(吹き流し,旗)といわれていますが、天蓋のような形だったという説もあります。黄幢と徼と告喩がそろって、戦地へ向けて徴兵と開戦を命じたと解釈します。
一度、黄幢が難升米に渡ったが、壹與に改めて渡されたということはどういうことだろうか?難升米こそが誅殺された可能性が高い。
2)王頎が倭國に使者を送り郡治に詣でさせた。
3)王頎は高句麗戦に倭国の出兵を同意させた。
4)相攻撃状を張政を派遣して洛陽に上表した。
5)相攻撃状は洛陽に届けられ、皇帝曹芳は攻撃を命じた。黄幢が拝假され、檄が飛ばされた。
6)卑彌呼の死が公表され、墓を作る作業が開始された。
7)男王が謀反にあって共立王から失脚した。この間誅殺しあって1000余人が死んだ。
8)壹與が共立王となり国内が定まった。
9)張政が壹與に告喩し王頎軍とともに高句麗への征討に参加する。
10)壹與は高句麗戦での捕虜など貢献し、皇帝に倭王を追認してもらうために使者を詣でさせた。


年表体で書かれるので、正始8年の記録として残ったデータとしてみると、一年間で、1)~10)までの出来事が完了したと考えます。その前提で考えると、2)倭国に使者が行き、3)倭国が郡に詣でるまでの時間が消費されます。従って、2)3)は短期間と見ないとならなくなるでしょう。
4)5)洛陽に使いを送り、皇帝の制詔を届ける所要時間があります。
10)臺に使者を詣でさせたので、やはり帯方~洛陽までの片道の時間が消費されます。
以上を考えると卑弥呼が倭国の女王でが邪馬台国にみやこを置いていたと思う人々は苦しくなるはずです。卑弥呼が日本にいたとは考えられないことがお分かりになるでしょうか。




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