HOME-TOPへ

NO360_01・・・・

志賀島の金印は捏造品だった。委奴国は倭国ではない。
倭国発祥の歴史を後漢書から探る!

滇(てん)王之印」との比較。金印はなぜ蛇の紐だったのか。



一刀彫と言われ、文字の彫り方がなめらかです。
蛇の鈕をもつ金印としては中国雲南省の石寨山(せきさいざん)の6号墓で出土した「滇(てん)王之印」が知られています。また、中国で見つかった「広陵王璽」という印は、たがねで文字を一気に彫り進める「線彫り」と呼ばれる高度な技法で製作されているということです。2018年、NPO 工芸文化研究所の鈴木勉理事長が、志賀島の出土の金印は、別の角度からも「たがね」を打ち込んで輪郭を整える「さらい彫り」で、こうした工学的分析では中国では明・清時代以降、日本では江戸時代以降の印章の技法であると発表しました。志賀島で発見された金印は江戸時代に中国から持ち込まれたの偽造品である可能性が高いのです。工芸品としての金印のレプリカはたくさんありますから、本物の金印があるのかどうか不明です。たぶん存在しないのでしょう。陰影からも偽造することは可能だからです。後漢書に書いてあるからといって、金印が真贋だという決め手には全くならなくなりました。しかし、国宝第一号ですが、それはともかくとして、後漢の時代の印影の特徴があり、かつ、蛇紐でり、ラクダでも亀でもないということは真贋論争を超えた意味は残されています。その研究は中国との文化的な関りというカテゴリーになるでしょう。

金印の蛇紐
封泥とは粘土のことで、当時は重要な文書(木簡・竹簡)は、まとめてひもをかけて巻物状(簡冊)にし、その上に粘土を盛って印を押し、途中で開けられていないことの保証として用いられてました。

@クレジット未調査、まま転載しています。






西晋(魏晉)朝(265年 - 316年)では、ベトナムのタインホア省で1936年に 「晉帰義叟王」 の金印 が発見されている。蛇鈕でなく、駱駝鈕だ。



①さらい彫り             ②③線彫り(一刀彫り)

①と③を拡大してみます。



下が③線彫り  上①と比較してみると、削った跡が滑らかです、刻線の下底が見た目にも違いが分かりますね。


①と②を拡大してみます。

出典:鈴木勉氏撮影 NHK「諸説あり」のスクリーンショット 右が「線彫り」

線彫りとの表現方法の違い

線が太くなったり細くなったりする表現を「肥痩表現(ひそうひょうげん)」ともいう。
さらい彫りの痕跡

鈴木勉氏は、違う道具を使えばその痕跡が残ることを発見した。上はさらい彫りの部分撮影

第二部 文献批判
 後漢書を読んで、光武帝が金印を与えたと思っていた人が大半ではないでしょうか?《後漢書》《列傳》《東夷列傳》(光武帝劉秀)建武中,東夷諸國皆來獻見とあるように、光武帝は東夷の諸国ばかりでなく西域もを広く封建制に移行し、諸国皆に金印・銀印などを大盤振る舞いしたのです。その数は1000個にも及んでいます。王莽が各国王を候王に格下げしたことで西域各国が造反したことの反動でしょう。その中で、九州の倭奴国が含まれていたことは十分に考えられます。

「(原文)建武中元二年(57年)倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬。」
「光武帝劉秀の建武中元二年(57年)、倭国から離れて南の極限にある倭奴国が朝賀の奉献をした。その使者は大夫と自称していた。
「原(文)安帝永初元年(107年)倭國帥升等獻生口百六十人願請見/桓靈間(146年 - ‎189年‎)倭國大亂更相攻伐歴年」
光武帝は印綬を賜った。安定の永初元年(107年)に倭国王帥升らが奴隷160人を貢献し、朝見を願い出た。」
この上下の、引用の倭国は、57年、107年、146-189年の間に出ますが、ほんとうに一つの倭国なのでしょうか?


その1)107年には生口=捕虜を160人も献上したという倭国はいったいどこにあったのでしょう。105年に高句麗が遼東に寇しています。この戦争において虜生口をとりこにしたものと思われます。

生口は高句麗の捕虜とみますが、捕虜である以上、107年前後にどんな戦争があったのでしょうか?

高句麗王第6代太祖大王(47年 - 165年・在位:53年 - 146年))は、。姓は高、諱は宮(クン)、または於漱(オス)。
56年7月には、東沃沮を討伐し、高句麗の領土が滄海(東朝鮮湾)から薩水(平安南道の清川江)に及んだ。68年8月に曷思王の孫の都頭が国を挙げて投降してきた。72年2月には藻那国を討伐、74年10月には朱那国を討伐した。118年6月には穢貊とともに後漢の玄菟郡を襲い、121年には、後漢の幽州刺史の馮煥、玄菟太守の姚光、遼東太守の蔡諷らが侵攻してきたので、王弟の遂成(すいせい、スソン。後の次大王)を派遣して迎撃させ、却って玄菟・遼東を攻めて捕虜二千を得るなどして領土を拡張している。しかし、その間105年には遼東郡に侵攻して6県を掠奪したものの、遼東太守耿夔の反撃にあって大敗してもいる。また、121年から122年にかけては馬韓や穢貊とともに玄菟・遼東に攻め入ったが、扶余王が漢軍を助けたために敗退を余儀なくされてもいる。治世末期の146年8月には遼東郡西安平県を攻め、帯方県の令を殺し楽浪太守の妻子を奪い取った。



その2)引用の倭国は、57年、107年、146-189年の間に出ますが、ほんとうに一つの倭国なのでしょうか?

1)57年の朝貢と107年の朝見の間に51年の差があります。
倭奴国と倭国を区別しなくてはなりませんね。
范曄が・・・倭奴国が倭国の極南界と書いたことで、倭奴国と倭国が対立するわけですが、著名な学者さんたちが、後漢書は愚かな誤りをしていると論ばくしています。いわゆる資料批判をしているのです。(白鳥庫吉・内藤湖南など)
2)さて、倭奴国に与えたのは印綬であって、金印とは限りません。というのは、銀印もあれば銅印もあるわけで、印綬だけでは金であるかどうかは分からないのです。
3)印綬を光武帝があたえたと書いていますが、後漢の光武帝劉秀の治世建武中元二年(57年)です。57年に倭国と号する国があったとは思えません。この一文は史実から見れば混乱しているとしか言えません。魏志倭人伝に倭国と倭王という文字が初出するのは正始元年(240年)のことになり、後漢末期になります。
倭国と倭奴国は遠絶しているわけ。
先秦兩漢 -> 史書 -> 後漢書 -> 列傳 -> 東夷列傳
《東夷列傳》 夫餘傳
29 「建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也,光武賜以印綬。安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。」

現代語訳;「建武中元二年(57年)、倭奴國が朝賀式典((封禅の儀とそれに伴う改元)に奉貢してきた。(雒陽に詣でた)使者は大夫と自称していた。この倭奴国は倭国の極南にある。倭国は安帝永初元年(107年)に倭国王の師升らが捕虜160人を献上し謁見を願い出た。

建武中元(けんぶちゅうげん)は、後漢の光武帝劉秀の治世に行われた2番目の元号。56年 - 57年。劉秀が元年:2月、泰山で封禅の儀をおこなう。4月、改元して建武32年を建武中元元年とする。光武帝の晩年の62歳になってやっと封禅の儀を行ったことになります。光武帝は建武中元2年2月5日に63歳で没しています。
倭奴国が朝賀したのはこの泰山での封禅の儀をおこなったことを契機とした改元祝賀奉献のために雒陽に詣でたのです。一方、この倭奴国は倭国から遠く南の端てにあると記されています。他方、倭国の朝獻は永初(えいしょ)は、後漢の安帝劉祜の治世に行われた最初の元号。107年 - 113年。となり、107年になります。倭国こと夫餘王の師升が高句麗と戦って獲た慮兵160人を貢献したという内容となりまする。倭国王師升とは百濟始祖王の尉仇台の前王になるはずですが、倭奴国と倭国の朝獻には51年のずれがあり、かつ、朝貢の性格がことなりますから、倭奴国と倭国は別々の国で、互いに隔絶していた国だった判明します。

4)光武帝は王莽のやったことの後始末をしました。西域・東夷の諸国を一斉に公国及び封国の侯王を王に格上げしました。そう考えると、匈奴などたくさんの属国が朝獻しているはずです。この倭奴國とは違う地域の国の誤認でしょうか。会稽の倭人が中国に往来していたことはすでに書きましたが、その使節が大夫と名乗っているという記事があります。会稽東(とうや)の東と改ざんした范曄ですから、あんがい大夫を軸に国を取り違えたのでしょうか。混乱の元はそのあたりでしょうか。

》 後漢書には「安帝永初元年(107年)倭國王帥升等獻生口百六十人願請見/桓靈間倭國大亂更相攻伐歴年」と書かれています。これはどうでしょう。
 後漢書の倭國王帥升がでてくる安帝の永初元年とは107年になります。『太平御覧』《扶余》では建武25年(49年)この時に大いに扶余王始將を厚く報い、。永寧元年(120年)にその子の尉仇台に金印金彩を与えた」と出てきます。師升=始將だとすると、この70年の差はいったいどうして出てくるのでしょう。建武25年の後漢書は、「(原文)建武中元二年(57年)倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬。」と書いています。太平御覧では扶余王、57年、同年の後漢書では倭奴国になっています。確認できるように下に太平御覧の原文を載せます。

倭國王帥升とは扶余王始將(扶余王)だったのです。その子、尉仇台が詔賜された金印の紐(ちゅう)は鹿でした。扶余のシンボルは鹿だったのです。倭國王帥升は遼西にいた扶余王です。すなわち、後漢書は扶余王を倭国王と書いたことになります。
 ちなみに、倭國大亂というのも後漢書初出の新語です。倭人伝「其國本亦以男子爲王住七八十年」を倭国大乱と解釈したのでしょう。しかし、この一文は、倭国が主格ではありません。小生の現代語全訳では「女王国はもともと男子が王となって七、八十年ほど経っていた。」と記したように、ここでの「其」は女王国が主格です。范曄は会稽東の倭人の国、女王国、倭国をみな一つにミックスしています。後漢書の言う倭国はでたらめです。


《宋明》
《太平御覽》 [北宋] 977年-984年/
《四夷部二·東夷二》
夫餘》
建武二十五年(49年),夫餘王遣使奉貢,光武(生;前6年 -没; 57年)厚報答之,於是使命歲通。至安帝永初五年(111年),夫餘王始將步騎七八千人寇鈔樂浪,殺傷吏人,後復歸附。永寧元年(120年),乃遣嗣子尉仇臺詣闕貢獻,天子賜尉仇臺印綬金彩。順帝永和元年(136年),其王來朝京師(洛陽),帝作黃門鼓吹角抵戲以遣之。桓帝時(146年- 168年)亦朝貢。獻帝時(189年 - 220年)求屬遼東云。

建武二十五年(西暦49年)、夫餘王は楽浪に侵攻したが、直後、後漢に服属した。永寧元年(120年)に、使者を遣わし、貢物を献上する。光武帝は厚くこたえて之に報い、この使者に於いて歳時の朝見を命じた。」・・・このときは奉貢とあるように夫餘王が高句麗に大勝したことを報告するためにし朝貢しているのです。
さあ、太平御覧では、建武二十五年(49年)に光武帝に貢献したのは扶余王始將とします。後漢書東夷列伝では「建武中,東夷諸國皆來獻見。」としか書かず、(安帝劉祜)永寧元年(120年),乃遣嗣子尉仇台印闕貢獻,天子賜尉仇台印綬金綵。」とあり、太平御覧と後漢書東夷列伝、後漢書倭伝とも年代にずれがでてきます。また、公孫度は126年に生まれています。公孫度が生まれる前に尉仇台が金印金綵を頂戴するはずがないのです。なぜなら魏に使いをだし献見を実現させたのは公孫度だからです。公孫度は生年126ー204年、78歳で亡くなりました。公孫度と尉仇台は、ほぼ同年代に生きていたとみていいのです。したがって、扶余王始將とは尉仇台の先王、父にあたる人物でしょう。

太平御覧では、光武帝が扶余王の奉貢を受けた(49年)とし、111年に扶余王始將が玄莬郡太守の公孫琙に帰属したとします。順帝劉保の永和元年(136年)洛陽(京師)に出向いて金印の下拝を受けたのは夫餘王始將の嗣子だった尉仇臺だと書いています。さあ、扶余王とは代名詞としか思えません。で、始將と尉仇台は親子ですが、始將とは代名詞のようです。難升米など「ショウ」という読みの文字が共通とみることができます。光武帝に奉貢した扶余王がいたとしたら、紀元前37年に東明王が高句麗を建てた後、まもないころですから、もう高句麗神話によるしかありません。高句麗は建武8年(32年)に後漢に朝貢し、前漢末以来の王号が復活されたとされています。光武帝が高句麗の王号を復活したのが32年です。

『三国史記』高句麗本紀 大武神王
扶餘王帶素弟、至曷思水濱、立國稱王。是扶餘王金蛙季子、史失其名。初、帶素之見殺也。知國之將亡、與從者百餘人、至鴨綠谷。見海頭王出獵、遂殺之。取其百姓、至此始都。是爲曷思王

西暦22年・夏四月、扶余王帯素の弟、曷思水の濱に至って、国を立てて王を称した。これは扶余王金蛙の季子((末っ子)だが、史籍には、その名は消失している。彼は初め、帯素を見殺しにした。国のまさに滅亡を知り、従者百余人と鴨緑谷に至る。海頭王が出会い、狩りに出て、遂にこれを殺す。その百姓を奪い取り、ここに至って都を始めた。これを曷思王となす。

秋七月、扶餘王從弟謂國人曰「我先王身亡國滅。民無所依、王弟逃竄、都於曷思。吾亦不肖、無以興復。」乃與萬餘人來投。王封爲王、安置掾那部、以其背有絡文。賜姓絡氏。

都頭王(曷思の兄)、「我が先王(帯素)は身を亡ぼし、国を亡ぼす。民は依るべきところをなくし、王弟(曷思王)は逃げ回り、曷思に都を置いた。私も不肖ながら、扶余を復興することができない」、と言って、国を挙げて高句麗に降り、東夫餘候に封じられる。都頭を名付けて于台とする。椽那(ヨンナ)部の王とし、背に絡文が有るので姓を絡氏とする。
      これによれば、後東扶余、異端の扶余と呼ばれる系譜があるていど出ます。開祖としては曷思王(かっしおう)です。その次が都頭王(とづおう)になります。68年、曷思王の兄、都頭王が国ごと高句麗に降伏して、東扶余の後裔国は消滅し、都頭王は高句麗に仕え、于台の官を授けられました。都頭王が高句麗に降伏し、おそらく沃沮の不耐城に封じられたのです。

わたしは、倭国王師升は都頭王ではないかと思っています。この都頭王はおおむね公孫度よりも年長だったのです。遼東に止まっていた子である太子が尉仇台でしょう。公孫度の宗女と結婚しています。
こうして、都頭王と共に投降しないで遼東から遼西に逃げた王子がいたのでしょう。国を立てた・・・はいったい誰でしょうか。遼東に残って王を継いだのかは尉仇台であることは間違いありません。これが異端の夫餘といわれる所以です。

「大武神王的好童王子,就是曷思王孫女(大武神王之次妃)所生。」中国のWiki(出典不明)
大武神王の王子の一人である好童王子は曷思王の孫娘が生んだ子である。
これは神話の世界ですが、好童王子(こうどうおうじ、ホドンワンジュ)は曷思王の孫娘が無恤に嫁いで生んだ子ですから、解氏の宗族から見れば傑出した存在です。大武神王の皇后である元妃は嫡子である我が子をさしおき、好童が太子となることを恐れ、好童が謀反を起こそうとしていると大武神王に讒言した。好童は、元妃の讒言に釈明したなら元妃の悪行がさらされ大武神王を心配させるため、讒言に釈明せずに自殺した。高句麗では疎まれて王位につけず自殺したことになっているのですが、もし密かに逃避していたら一国をなすことができる大物です。ああ、思い出しました。曷思王も戦わず逃げ延びたのでしたね。好童王子が生き延びていれば、国を失って路頭に迷った扶余人があっという間に集合したでしょう。「幻の王女チャミンゴ」の後編ドラマになりますよね。


倭国王は始将、阿夫餘の始祖。
《史書》
《後漢書》
[南北朝] 420年-445年 提到《後漢書》
《列傳》
《東夷列傳》
8 打開字典顯示相似段落 東夷列傳:
(光武帝劉秀)建武中(25年 - 56年),東夷諸國皆來獻見。二十五年(49年),夫餘王遣使奉貢,光武厚荅報之,於是使命歲通。至安帝永初五年(111年),夫餘王始將步騎七八千人寇鈔樂浪,殺傷吏民,後復歸附。(安帝劉祜)永寧元年(120年),乃遣嗣子尉仇台印闕貢獻,天子賜尉仇台印綬金綵。順帝永和元年(136年),其王來朝京師,帝作黃門鼓吹、角抵戲以遣之。桓帝延熹四年(161年),遣使朝賀貢獻。永康元年(167年),王夫台將二萬餘人寇玄菟,玄菟太守公孫琙(ユ)擊破之,斬首千餘級。至靈帝熹平三年(174年),復奉章貢獻。夫餘本屬玄菟,獻帝時,其王求屬遼東云。

13 打開字典顯示相似段落 東夷列傳:
後句驪王生而開目能視,國人懷之,及長勇壯,數犯邊境。和帝元興元年(105年)春,復入遼東,寇略六縣,太守耿夔擊破之,斬其渠帥。安帝永初五年(111年),宮遣使貢獻,求屬玄菟。(安帝劉祜)元初五年(118年),復與濊貊寇玄菟,攻華麗城。建光元年春(121年),幽州刺史馮煥、玄菟太守姚光、遼東太守蔡諷等將兵出塞擊之,捕斬濊貊渠帥,獲兵馬財物。乃遣嗣子遂成將二千餘人逆光等,遣使詐降;光等信之,遂成因據險阨以遮大軍,而潛遣三千人攻玄菟、遼東,焚城郭,殺傷二千餘人。於是發廣陽、漁陽、右北平、涿郡屬國三千餘騎同救之,而貊人已去。夏,復與遼東鮮卑八千餘人攻遼隊,殺略吏人。蔡諷等追擊於新昌,戰歿,功曹耿耗、兵曹掾龍端、兵馬掾公孫酺以身扞諷,俱沒於陳,死者百餘人。秋,宮遂率馬韓、濊貊數千騎圍玄菟。夫餘王遣子尉仇台將二萬餘人,與州郡并力討破之,斬首五百餘級。
後句驪王の宮は生まれるとすぐ目を開き、よく見ることができた。国人はこれを懐かしみ、長じては勇壮だった。中国の辺境を犯すこと数多くあり、和帝元興元年(105年)春,繰り返し遼東に六縣を寇略した。遼東太守の耿夔が擊破し渠帥を斬った。安帝永初五年(111年),宮は遣使貢獻し、玄菟郡に属すことを求めた。元初五年(118年),濊貊と同盟して玄菟をふたたび攻略し、嶺東にあった華麗城を攻めた。(ここから、玄菟郡治の第一次拠点が華麗城だったという根拠になる)建光元年春(121年),幽州刺史馮煥、玄菟太守姚光、遼東太守蔡諷等の將兵は塞(長城)を出て討伐し、捕斬濊貊の渠帥を捕虜ないし斬首し,兵馬財物を獲た。宮の跡継ぎの逆光と将ゑひ二千余人が投降の遣使をしてきた。
秋,宮は遂に馬韓の軍を率いて、濊貊數千騎が玄菟郡治を囲んだ。夫餘王の遣子の尉仇台は將二萬餘人と州郡を并せて力討し、高句麗を撃破,斬首した兵は五百餘級に及んだ。


*下句驪とは王莽が高句麗を呼ばわった言葉。後句驪とは高句麗のことはもちろんだが、後句驪と記しているのは何らかの意味があるのだろう。宮は高句麗王第6代太祖大王と諡があり、太祖という諡は、高句麗開祖と同じ意味をもつ。『三国史記』高句麗本紀では「太祖」と「大祖」の表記が混在している。高句麗第6代だが、朱蒙王の4世代あとである。第2代瑠璃明王の曽孫。119歳まで生きたことになっている。遂成は王弟である。遂成はは次大王(じだいおう、71年 - 165年)のおくりなで、高句麗の第7代の王(在位:146年 - 165年)。姓は高、諱は遂成(すいせい、スソン)。『三国史記』高句麗本紀・次大王即位紀には先代の太祖大王の同母弟とあるが、太祖大王紀の文中においては、遂成を太祖大王の弟とする記述と王子とする記述とが混合している。また『後漢書』には遂成は宮(太祖大王)の子とある。太祖大王の94年(146年)12月に王位を譲られ、遂成が76歳で即位した。
『後漢書』では先代の遂成(次大王)の子、『三国志』では宮(太祖大王)の子とし、いずれの書においても後漢の順帝の陽嘉元年(132年)よりも前に王となったとする。『三国史記』高句麗本紀の中国関係記事については『三国志』『後漢書』を引用したものと見られるが、新大王から山上王にかけて、年数などに矛盾するものが多々見られる。
*山上王(さんじょうおう、生年不詳 - 227年5月)は高句麗の第10代の王(在位:197年 - 227年)。『三国史記』高句麗本紀によると姓は高、諱は延優、または位宮。先代の故国川王の弟であり、故国川王が197年5月に死去したときに王子がなかったため、もう一人の兄の発岐と争って勝利し、王位に就いた。
*故国川王(ここくせんおう、生年不詳 - 197年5月)は高句麗の第9代の王(在位:179年 - 197年5月)。姓は高、諱は男武。国壌王とも表記され、『三国遺事』王暦では諱を男虎とする。先代の新大王の第2子であり、提那部の于素の娘を王妃とした。179年に新大王が死去したときに、長男の抜奇が政権内や人民の評判が悪かったため、延優が擁立されて王位に就いた。
『三国史記』高句麗本紀・故国川王紀には、故国川王の死後に漢の建安年間(196年-220年)の初めに、抜奇が王位につけなかったことを不服として消奴部の加(高句麗の官名のひとつ、首長層)と3万余人を率いて公孫氏の元に降り、さらに後に抜奇は帰国して沸流水(渾江)の辺に住んだ、とする。同書・山上王紀では、故国川王の死後にその兄の発岐・弟の延優が王位を争い、敗れた発岐が公孫度を頼り反乱したとの記述がある。
『三国史記』高句麗本紀・山上王即位前紀では、諱の「位宮」は曾祖父の宮(太祖大王)に似て生まれながらに目を開き、物を見ることができたので名づけられたと『魏書』(高句麗伝)を引いて記している。故国川王が王子のいないままにて死去すると、その王妃の于氏は初め喪を伏せたまま、すぐ下の弟である発岐に王位を継ぐことを勧めた。発岐は王の死を知らなかったために于氏の勧めが不遜であると責めたため、于氏は延優の元へ行った。そこで、王の死とともに発岐が傲慢であることを言い、延優に王位に継ぐことを勧めた。延優はこれに応え、翌日早朝に于氏は王の遺命と偽って延優を王位につけさせた。発岐は王位に就き損ねたことを不服として、遼東太守の公孫度と結託し武力侵攻を行うが、王位簒奪に失敗した彼は後に自害している。先王の王妃于氏はその後で山上王の王妃となった。

井上秀雄は『三国志』高句麗伝などに基づいて、故国川王の死後に発岐(抜奇)と延優とが争い、発岐を支持したのは消奴部だけで残りの四部は延優を支持したため、発岐は遼東郡の公孫氏を頼り、桓仁(遼寧省本渓市桓仁満族自治県)付近で王位に就いた。一方で延優らは集安(吉林省集安市)付近で丸都城を築いて新しい国を建て、王位に就いた。発岐はのちに公孫氏によって遼東郡に移住させられ、延優の新国が発岐の旧国を吸収し、高句麗の名を継いだとしている。この後、集安付近の丸都城(山城)と平地の国内城とが一体となった高句麗の王都となり、長寿王によって平壌(平壌直轄市)に遷都されるまでの間を国内・丸都時代ともいう。

208年11月、山上王は祭事に用いる生贄の豚を求めて酒桶村へ行き着いたところ、そこで20歳ほどの女性に出会って一夜を共にした。王妃于氏はこれを知って憤慨し、この女性の殺害を試みるが成功しなかった。まもなくこの女性は男子を産んだので、山上王はこの女性を小后(側室)として封じ、この王子を213年に立太子した。これが後の東川王である。高句麗ではこれまで兄弟相続が続いていたが、有力な五族によるクリルタイ方式の王の選出としていたものが、本拠地の移動によって五族の力が弱められ父子相続に移行していったものと見られている。・・・

*東川王(とうせんおう、209年 - 248年9月)は、高句麗の第11代の王(在位:227年 - 248年)。姓は高、諱は憂位居、幼名は郊彘。東壌王ともいう。先代の山上王の子であり、213年に太子に立てられ、227年5月に先王の死去により王位に就いた。『三国史記』は中国史書が記す「位宮」を山上王とするが、年代的には東川王に当たると見られる。
女王卑彌呼が晩年に王頎に同盟し戦った相手はこの東川王であり、公孫氏が夫台將=尉仇台の別称に娶らせた宗女とは、公孫氏に降った発岐(抜奇)の娘である可能性が高い。消奴部の加(高句麗の官名のひとつ、首長層)と3万余人は発岐の死とともに丸都城に戻るわけにもいかず、卑弥呼が嫁いだ尉仇台と高句麗に対する恩讐を共にしたのだろう。こうした治世的な見方は歴史の裏読みということであくまでも想像である。
しかし、卑弥呼は東川王と同じ高句麗の閨閥系統の中にありそうなのだ。順帝永和元年(136年)、尉仇台は夫餘王として雒陽に獻見した。公孫度が男武(故国川王)と戦ったのは正史では184年である。高句麗が沃沮にある華麗城を攻撃した184年、尉仇台は2万の兵をもって撃破、189年尉仇台は遼東に属すことになった。公孫度が宗女を尉仇台に娶らせたのは200年、公孫度が死んだのが204年、帯方郡が公孫康によってでき、倭韓を征圧したのは204年、いずれも献帝・建安年間(196年-220年)の出来事である。とともに、卑彌呼の死が247年、卑彌呼の生涯が描けるではないか。ゆえに中国史では東川王を卑彌弓呼(ひみくこ)と一字ちがいにしたのだ。卑彌呼と卑彌弓呼がなぜ素(もと)より不和なのか、卑弥呼の実の父発岐(抜奇)を殺したのが卑彌弓呼の父・山上王となれば、これは仇討をしなければならない敵であろう。
《夫餘傳》

夫餘本屬玄菟。漢末,公孫度雄張海東,威服外夷,夫餘王尉仇台更屬遼東。時句麗、鮮卑彊,度以夫餘在二虜之間,妻以宗女。尉仇台死,簡位居立。無適子,有孽子麻余。位居死,諸加共立麻余
卑弥呼は宗女、すなわち宗孫、卑彌弓呼は孽子(側女の子)である。
卑彌呼の意味は太祖朱蒙がニワトリの卵から産まれたという天光受胎神話を引いている。このことから卑の本字は鹎だということになろうか。の本字は 鹎〔bēi〕の漢字は雛(ひな)で、日本の辞書にはありません。したがって、河伯の女が産んだ子孫という意味で、高句麗の朱蒙の系譜につながる子孫を河孫といいます。卑彌呼と卑彌弓呼はともに河孫であることが暗示されます。
新華辞典 鹎(鹎)bēi
1.主に黒褐色の羽と白い腹、短くて細い脚を持ち、果物や昆虫を食べる鳥の属。
(鳥類的一屬,羽毛大部為黑褐色,腹白,腿短而細弱,食果實和昆蟲)
*
*夫台將=扶余王の別称。「夫餘王遣子尉仇台將」
*新(しん、8年 - 23年)は、中国の王朝。 前漢の外戚であった王莽(おうもう)が前漢最後の皇太子の孺子嬰より禅譲を受けて立てた。

*扶余王は49年に奉賀朝貢し、111年に再び後漢に帰属しています。この王はいったい何歳まで生きたのでしょうか?長生きしすぎです。
*ここでの宮とは高句麗王第6代太祖大王(生死・47年-165年・在位:53年-146年)この王は、姓は高、諱は宮(クン)、または於漱(オス)。この宮も年齢があやしいのですが、どうも二倍にされているようです。中国史書ですが、高句麗の倍年暦を調整しなかったのでしょうか?
8 打開字典顯示相似段落 東夷列傳;
現代語訳;「建武中、(25年 - 56年)東夷の諸国はみな雒陽に来て獻見した。(建武)二十五年(49年)に夫餘王は使いを派遣して朝貢してきた。光武帝はこれに厚く答えそれに報いた。ここにおいて毎年朝貢するようになった。安帝永初五年(111年)にいたって扶余王始將は步騎七八千人で楽浪郡を略取した。郡の官僚や衆人を殺傷したのち、再び後漢に帰属した。永寧元年(120年),扶余王は嗣子尉仇台を雒陽の印闕(楼閣)に貢獻させた。天子は尉仇台に印綬金綵を与えた。順帝永和元年(136年)、尉仇台は夫餘王として雒陽に来朝した。順帝は黃門鼓吹、角抵戲など舞踊の宴を開かせた。{*黃門鼓吹《舞踊劇》、角抵戲《秦の東海黃公》を主題とした古典舞踊)
桓帝劉志の代、延熹四年(161年),使者を派し朝賀貢獻した。永康元年(167年),王夫台將は二萬餘人をもって玄菟郡を寇鈔(略奪)した。玄菟太守公孫琙(ユ)はこれを擊破し、斬首千餘級という戦果をあげた。靈帝熹平三年(174年)にいたり、ふたたび奉章貢獻をした。夫餘は古くはもともと玄菟郡に属していた。獻帝時(189年-220年(公孫度が隆盛のとき),其王は遼東郡に属することを願い出た。(夫餘が遼東に移動したのは200年頃となる。これは公孫度が遼東郡を分割し、遼西中遼郡を置いたことと期を同じくする。まず、公孫度に服属したこと、その場所は遼西中遼郡に移動し尉仇台はそこで倭国王と号したことになろう。尉仇台が強勢となった契機である。)

楽師たち。
*黃門鼓吹《舞踊劇》

『黃門鼓吹』と題する古典舞踊(大きな祝賀の時だけ宮中で催されたと言う。)

13 打開字典顯示相似段落 東夷列傳:
現代語訳:工事中2020/03/3 尉仇台が玄莬郡と遼東郡の軍と同盟して高句麗と戦ったことが書かれる。卑弥呼がもとより卑彌弓呼と不和であったそもそもの発端となります。

傳第三十 韓伝

桓靈之末,韓濊彊盛,郡縣不能制,民多流入韓國。

三国志魏書東夷伝の韓伝のここを引いたのでしょう。郡県制が不能になったとかかれています。 烏丸鮮卑東夷傳第三十 韓伝 「桓靈之末,韓濊彊盛,郡縣不能制,民多流入韓國。」・・・桓帝と霊帝の末(146年 - 168年;168 - 189年)に、郡県制が不能になったと書かれています。
桓帝と霊帝の末は黄巾の乱(184)があった期間です。韓と濊が強盛になったというのは中国からみれば大乱と解することができます。
 「建武中元二年(57年)倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬。安帝永初元年(107年)倭國王帥升等獻生口百六十人願請見桓靈間倭國大亂更相攻伐歴年無主有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆於是共立為王侍婢千人・・・。」これは、楽浪郡・玄菟郡・遼東郡が直轄支配ができなくなったということです。また、桓靈之末頃は、鮮卑族の檀石槐が大暴れしていた時期です。いずれにせよ、倭国大乱を韓濊の反乱に結合したのでしょうか?相攻伐とは、敵味方がはっきりしない戦いを意味します。

安帝永初元年(107年)倭國王帥升等獻生口百六十人願請見は、その後の『翰苑』 倭国の条、北宋版『通典』、『唐類函』の百十六巻の倭の条などに継承されました。倭国王の朝貢が〔安帝永初元年107年〕が引き継がれてしまっています。

 実際に金印を与えたのは献帝(在位:189年 - 220)だったのです。尉仇台は公孫度の推挙によって扶余王の代理として京師(洛陽)に出向いたのです。父王が扶余王始將帥升)でした。公孫度は204年に死去しているので、204以前に、尉仇台が印綬金彩を詔賜しているのです。公孫度は生年は126年になります。204年に78歳で亡くなりました。永寧元年(120年)に扶余王の嗣子尉仇台が印綬金彩を賜ったというのはおかしいのです。扶余王始将その人でなければなりません。
*後漢・順帝 劉保 在位期間 125年12月16日 - 144年9月20日
*献帝 在位期間 189年9月27日 - 220年11月25日 (後漢最後の皇帝)
203年 健安中(196年 - 220年)高句麗、遼東部に侵攻。尉仇台は出兵してこれを撃退。尉仇台の活躍期間ですから、120年に金印徐授となると、尉仇台は100歳になってしまいます。
献帝5年(200年)、扶余王太子尉仇台、遼東部に属したいと申し出て、遼東部に属した。朝貢し扶余王が印綬金綵((きんさい)を徐授。


その2:生口百六十人を貢献したことをどう解釈したらいいのでしょうl。この慮(生口)たちは、尉仇台が帯方に侵入してとらえた捕虜と思われますが、鮮卑、烏丸、高句麗と戦闘を交えています。


きわめつけは、邪馬台国への拡張解釈です。
『三国志』の【使譯所通三十國】を、『後漢書』は【朝鮮使驛通於漢者三十許國】とし、「朝鮮使驛」としています。これは、大率の役人が扶余人ですから、みな中国からみて夫餘だったといっているのです。後漢書成立は424頃とされていますから、南宋のころ、朝鮮という国号はなかったはずです。朝鮮という文字がはいるとすれば唐代です。
後漢書は唐代になんらかの修正加筆がなされたと信じう得ることになります。

ⅳ.『後漢書』は【國皆稱王】としました。三十カ国に皆王がいる・・・ここまではいいとして、『三国志』で丗王としか書いていない、ここを、丗丗傳統、世襲の王がいると新解釈を入れ込みました。これは積み上げられた誤訳です。
ⅴ.『三国志』の【邪馬壹國】を、『後漢書』は【邪馬臺國】とし、大倭王という新語を登場させています。さらに大倭王が【邪馬臺國】にいるとしたのです。九州の30か国を監察していた首都ともいえる国が伊都国です。今日、邪馬台国が卑弥呼のみやこというフレーズと相乗して、大倭をヤマトと音訳したため、邪馬台国が突出して注目を浴びることになったようです。その原因となったのは、後漢書というわけです。
志賀島で出土した金印は、光武帝が57年に徐授したと言われていますが、後漢書を根拠にしています。さて、「光武賜以印綬」もなんだか信用していいものか心配になります。おりしも、2018年、金印は江戸時代の偽造であることが工学の技法解析から証明されましたから、後漢書に書いてあるからといって、金印が真贋だという決め手には全くならなくなりました。国宝であっても、ああ、もう後戻りできません。どうしようもないですね。
倭人伝に関して言えることは、後漢書を文字通りすべて正しいとみると赤っ恥を掻くことになります。後漢書に依拠した諸々の説は范曄の妄想なのですから、魏志倭人伝に優先して解釈するのは大きな誤りを犯します。三国志魏書に逆転写するのはやめましょう。

志賀島での発見にまつわる捏造説

1)天明14年(1784)、2月23日、この日、甚平衛が作人であった栄治、喜兵の二人が大石の下から見つけた金印を黒田藩に届けた。
2)甚平衛には黒幕がいて、最初に鑑定をした「西学問所(甘業館)学長 亀井南冥(かめいなんめい)」の功名心による策謀だったという説。
3)志賀島発見の金印の銘文は委奴國王であって倭奴國王ではない。1892年(明治25)三宅米吉氏の見解(金印の委を”倭”=ワと読む)という一つの説が教科書に影響を及ぼし、国宝第一号となって、今日にまで至るというのが現状です。皇帝が冊封国の王に与えた金印に「漢の○の○の国王」のような三重にも修飾した例が無い。
4)発見場所が今の金印公園より下の、海岸沿いの県道542号線の脇で、金印はどこかほかの場所から運ばれたという説。周辺には遺跡は存在せず、ほかの遺物が何も発見されないというもっともな疑問によって、古く江戸時代から偽造品であるとの噂が絶えなかった。発見場所は波打ち際といってもいいほど海に近いところ。このあたりは、漂流した難破船がたくさん沈んでいます。元寇のときの元の船がよく発見されます。このことから、清代に中国から運ばれた途中、難破して金印が海中に落ちたという説。でなければ、亀井南冥が、こっそりと埋めておいた?甚平衛の逃亡、亀井南冥の家の火災、その後の失踪など、きな臭い噂が絶えません。

解説*三宅 米吉(みやけ よねきち、1860年7月1日(万延元年5月13日) - 1929年(昭和4年)11月11日)は明治時代から昭和初期にかけての日本の歴史学者、教育者。号は昭軒。
紀伊国和歌山城下出身。慶應義塾に学んだ後、新潟学校、千葉師範学校、東京師範学校に勤務。1886年(明治19年)に大手教科書出版社・金港堂に入社し、同社の支援よる欧米留学を経て、教科書や雑誌の編集に従事。1895年(明治28年)以降は高等師範学校、東京高等師範学校教授および帝国博物館、東京帝室博物館の要職を長く務めた。1901年(明治34年)には文学博士となり、また考古学会会長に就任。晩年は東京高等師範学校長、帝室博物館総長、宮中顧問官、帝国学士院会員を歴任した。高師校長としては東京文理科大学設立に尽力し、初代学長に就任している。


<続く>


 HOME-TOPへ


_