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はじめに

クリティカル・シンキング [Critical thinking]

魏志倭人伝の解釈は、一般に「自分で考えて判断する思考力」が足りない?

批判的思考(証拠、正確さ、論理、合理性、公平性にもとづいて概念化したり分析したり総合判断することを指し、議論の基礎とされている。議論の中で間違った推論、誤認、虚偽、詭弁を見分けることも含まれる。批判的思考は重要な学力としてアメリカなどの教育で重視され、近年は日本でも導入が検討されている)。
批判的思考(英: critical thinking)またはクリティカル・シンキングとは、「物事や情報を無批判に受け入れるのではなく、多様な角度から検討し、論理的・客観的に理解すること」とされる。クリティカルの語源は「きびしく批判する」、「危篤の」、「批評(家)の」、「慎重な判断を下す」など。教育認知心理学者の楠見孝の定義では批判的思考とは、「マイサイド・バイアス(自分の信念が正しいと思ってしまうこと)」に陥らずに自他の思考を吟味するという、「メタ的に一つ上の立場に立って考えること」である。ケンブリッジ大学出版局では次の定義があ]。

クリティカル・シンキングは、「批判的な」という意味の「critical」と 「思考」を表す「thinking」を組み合わせた言葉です。日本語では「批判的思考」と訳されることが多く、物事に対して批判的精神を持って客観的に分析、思考することを言います。

与えられた情報や事実をそのまま鵜呑みにするのではなく、批判的な視点を持って客観的に分析するというのがクリティカル・シンキングの基本的な概念です。

「批判的」というと、何でもかんでも疑ってかかるという後ろ向きな視点に思えますが、クリティカル・シンキングは、物事を「否定する」ための考え方ではありません。義務教育初の民間校長を務められ、中学生に実践的な社会学習を体験させる「よのなか科」などユニークな取り組みで知られる奈良市立一条高校校長の藤原和博さんは、クリティカル・シンキングを「複眼的思考」と訳されています。

藤原さんは、著書『今、話したい「学校」のこと-15歳からの複眼的思考』の中で、日本人に馴染みにくいクリティカル・シンキングをこんなふうに説明しています。

クリティカル・シンキングとは、たとえば、テレビのコメンテーターや新聞の論調を「ホントかな?」と疑う多面的で本質的な思考力のこと

正解がひとつでない問いと向き合うには、縦、横、斜めなど複数の視点から物事をとらえることが大切だと藤原さんは説きます。つまり、「常識」や「当たり前」とされていることでも、自分で考え分析し、判断するのがクリティカル・シンキングの肝なのです。

クリティカル・シンキングは、アメリカでは1960年代から教育論として注目され、80年代には小学校低学年から教科を問わずさまざまな授業に取り入れられてきました。

九九や公式を徹底して“覚える”のが中心の日本の教育とは対照的に、数式だけでなく答えを導くまでの考え方や根拠を文章で示すのがアメリカ流。思考力を発展させて、自らの意見を自由に発するブレインストーミングやディスカッション、ディベートなどを幼少期から行うアメリカ人に比べて、与えられた正解を教わる“正解主義”に慣れている日本人がクリティカル・シンキングを苦手とするのも無理もありません。

「次の四つの中から正解を選べ」お馴染みの四択問題も「この中に正解がある」だから「その正解を素早く見つけ出さなければ」と、受験勉強のスキルを磨くのがこれまでの学習法でした。しかし、「四つの中に正解はないかもしれない」し、「正解を探すことより、なぜそれが正しいとされているのか?」と考えることの方に意味を見出すのがクリティカル・シンキングなのです。

正解主義は、基礎学力の向上や情報処理能力の向上という意味では有効です。しかし、社会に出てから直面する問題は、唯一無二の“正解”が存在しないことがたくさんあります。計算問題や四択問題のように正解がひとつではない場合に求められるのが、どれだけ多くの人に賛同してもらえるかという“納得解”を導き出す能力です。納得解を導き出すためには、そこにある事実を材料に自分で考え、時には批判的な目で物事を見たり、理解を深めたりして判断を下す必要があります。

正解を探してしまう癖のある日本人と、そもそも正解ではなく納得解を導こうと思考するアメリカ人がディベートで戦うことになれば、どちらの言い分に論理的説得力があるかは明白ですよね。

アメリカ人がディベートに強いというのは、「自分の意見を持っている」とか、「議論慣れしている」という以上に、子どもの頃からクリティカル・シンキングで物事をとらえ、自分なりの答えを考える姿勢が身についていることに寄るところが大きいのです。

正解主義とクリティカル・シンキングの違い
・正解主義・・・・・・「絶対的な正解」にいかに早く、正確に辿り着けるかというスキルを身につけることを目的とする。(主要なスキルは暗記に偏っている。)中国の古くからの科挙も正解主義の典型ですから、科学技術のどは外国から持ってくる、あるいは盗んでくることが多いのです。
・クリティカル・シンキング・・・・・・「正解はひとつではないかもしれない」という仮説の下、事実や資料を精査、分析し、自分なりの答えを論理的に導き出す


グローバル化の流れを踏まえ、日本の教育方法を変える取り組みはすでに始まっています。2020年に、センター試験に代わる新たな大学入試制度の導入、それに伴う教育改革が予定されています。改革の根本にあるのは、選択肢の中から答えを見つける教育ではなく、クリティカル・シンキングのような思考力や判断力を身につける教育へのシフトチェンジ。小学校3年生からの英語必修化、5年生からの教科化などもこの改革の一環です。これからの教育は、クリティカル・シンキングで思考し、英語でアウトプットできるグローバル人材を見据えているのです。
「英語はビジネスの手段であって目的ではない」すでに日本を飛び出してグローバルキャリアを歩むビジネスパーソンがよく口にする言葉です。
グローバルに活躍する人材には、学歴や資格、語学力が必要というイメージがありますが、物事をとらえる考え方、姿勢としてのクリティカル・シンキングは、間違いなく重要項目のひとつとして挙げられるでしょう。

正解を追い求めるのではなく、納得解を見つける。そのために自分なりに仮説を立て、情報や資料を精査し、分析に基づいて自分の考えを組み立てていく。世界の一流ビジネスパーソンが漏れなく身につけているクリティカル・シンキングは、次代を生きるすべての人に必要な思考法と言えるでしょう。

新しいメソッド

中国語の古代文字を精査したところ、一般書では日本語の訓読文から解釈するためにに曲解が多いことに気づきました。そこで、魏書倭人伝傳を原文から構造的に分析し新しい現代語訳を構築します。魏志倭人伝を正しく読むためにはメソッド 【method】を再構築しなければならないでしょう。そうした立場はアンチ観念的数値論と言えます。例えば12000里とはただ遠いという意味での観念的数値であるという説。(松本清張)、また、倭地とは対曹魏と戦略的観点から公孫氏が巨大に描いた観念的地図の上にある。(岩元正昭説)これでは巨大な地図の一里も巨大になってしまいます。観念的な数値とは言い換えれば、論者の立ち位置で伸縮自在になってしまいます。)

こうして、単位であるべき里という長さを替えてしまうので、どこかで矛盾を生じ破綻します。
魏志倭人伝を読むにあたって注意する3箇条3thingstonotewhenreadingTheGishi-Wajinden
1)原文の漢字の指示語の意味を古代中国語に溯って正確にとらえる。[AccuratelycapturethemeaningofthedemonstrativesofAncientChinesecharactersintheoriginaltext..]〜と、思われる、~とは考えられない、といった主観的推測表現を排除する。
[Excludesubjectiveexpressionssuchas,whichseemstobe,andwhichcannotbeconsidered.]
2)グーグルアースで幾何学的に投馬国、邪馬壹國、倭國を繰り返し特定できること。 
[BeingabletorepeatedlyidentifyToumacountryandYamatocountrygeometricallywithTheGoogleEarth.]
3)プログラミング的思考 (物事を考える時にその物事の動作や順序を理解し、効率的に意図した動作や結果を導くために論理的に考える力のことです。)Programmingthinking(Theabilitytounderstandtheactionsandorderofthingswhenthinkingaboutthem,andtothinklogicallyinordertoefficientlyderivetheintendedactionsandresults.)プログラミング的思考」とは、簡単に言うと、コンピュータやプログラミングの概念にもとづいた問題解決型の思考です。[Programmingthinkingissimplyproblem-solvingthinkingbasedoncomputerandprogrammingconcepts.]

概略

里数が関数の値をとるといういうトリッキーな(構文)とは、xが60m、壱岐國一里が正解図だが、関数としてのxの値は、小さければ小さい地図に、大きければ大きい地図に、変化するだけで、描かれるMAPは同じである。すなわち縮尺率が変化するだけとなり、一里を何キロメートルにしようが、大きさが違うデジタル地図ができあがるだけである。
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同じ長さでも中国洛陽では75里、倭地では500里。45里は300里! 倭での一里は60メートルだった。壱岐の島で証明する。水行20日は3日、水行10日は1日半、陸行1月は4日半といった具合に15%に縮小、2:1:3の比率だけを分割関数として定理に使う。
謎だった水行とは筑後川を遡上することで、川から陸に変化する地点は、分岐点でちょうど半分の所、日田市になります。
筑後川の水流を神埼から日田の間を2:1の割合を分割すると、投馬国が現れる。
不彌國は久留米、投馬国は朝倉市山田、邪馬壹國九州・宇佐・なんと西から東に向かって直線上に並ぶ。
一里は60メートルだった。壱岐島里、詳説!邪馬壹國九州・完全勝利!!!/h2>
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アプローチ 魏志倭人伝専門字典 文字の定義

1.道里について☆☆☆☆
1.方について
1.周旋について
1.余について 15%の数理問題☆☆☆☆☆
1.距離の単位について一里の長さは?
1.海島算経』 「海を隔てた島までの距離と山の高さ」を測ることができた!
 一里は前漢の里の長さを15%に縮小する。0.06km!
 日数による距離表現も縮小する。 水行10日は1日半、水行20日は3日、陸行1月は4日半といった具合に15%に縮小する。
水行と陸行 水行は河川を遡上すること。筑後川のことだった。☆☆☆
1.日本最古の丸木舟は7000年前。☆☆
1.2000文字のブロック化について(文節にも配列構造がある)☆☆☆☆
1.公孫氏について
1.孽子(げっし) とは child by a concubine 妾腹の子・第一夫人以外の妻の子・庶子(魏書夫餘伝では重要な意味をもつ)☆☆)
1.公孫呉と魏の初戦、田豫の活躍☆☆
1.山島について☆☆☆
1.海中について☆
1.共立について☆☆
1.日の出るところに近い国について☆☆☆
1.女王国について、(固有名詞です。末盧國、伊都国、邪馬壹国などと並ぶ国名です。)☆☆☆
1.【統属】〘名〙 一定の統制の下に属すること。所属すること。について
1.混一彊理歴代国都之図(日本列島が南北がさかさまな世界地図)について☆☆
1.壹は、ふたつきの豆(と)の意味。数詞の一ではない。☆☆
1.俎豆について
1.正始四年の条の壹拝(とはい)について
豆(と)と同じ旁(つくり)だった。
1.邪馬壹は正しく、邪馬臺(台)国は後漢書のトチリ。
1.女王の住まう土城と郡治所とは離れていることについて☆☆☆
1.女王のいる所と女王国は12000里以上離れていることについて☆☆☆
1.倭国と狗奴国はどこか
1.異面について☆☆
1.詔について
1.宗について
1.鬼神を祭った国はどこか。
1.倭国と倭の違い☆☆☆☆☆
1.倭人、倭種について
1.減筆について
1.都(ど)について(説文解字から)☆☆☆☆☆
1.俀国について
1.都鄙の八則について☆☆
1.京師について
1.太祖について

1.京邑について
1.京都(けいと)について☆☆☆
1.塞(さい)について・・・>塞曹掾史
1.臺(たい)に詣でるについて
1.闕(けつ)に詣でるについて
1.詣でるについて
1.奉について☆☆☆☆
1.景初三年銘文の三角縁神獣鏡
1.三公について
1.郡のなりたち
1.至について 自〜至〜里数で道里を表す構文、従〜至〜はその間の状態を説明する構文。距離がなくても書けます。例えば、何所かに近い、右隣にある・・・などの言い方も可能です。 この「どこから」にあたる従と自は文頭にくるのですが魏志倭人伝ではほとんど省略されています。ですから、邪馬台国の比定地が迷走しているといっても過言ではありません。
 ここでの水行は河を進むことで筑後川のことです。筑後川のどこまで船で遡上できたかが重要。
1.〇○西行東至〇○、○○、・・・を解読する。
1.驛について
1.譯について、
1.行について、☆☆☆☆☆
1.浮屠(ふと)について、
1.漢書地理志馬行3日、水行半年について
1.水行と澤散王城・ローマ間について
1.又字について☆☆☆
1.其字について☆☆☆
1.大夫について
1.大倭について
1.太伯について
1.大率について
1.海中洲は島のこと☆☆☆☆
1.【可】の字について、可+数詞は、~に一致する、~に合っているの意味。~ばかりであるとか、~ほどであると訳すのは間違い。
1.1.許の字について 概数を表す.~ばかり、~ほど。《説文解字》:許 聽也。从言午聲=聴⇒听 伝聞ということ。
1.季子 末の子 兄妹の中で一番若い子供
.季父 父の末の弟。もっとも年の若いおじ。〔史記‐項羽本紀〕{魏書夫餘伝}庶子麻余にたいして謀反をおこしたと解する。

*懦について、:駑弱者也 音読みダ、ジュ・訓読み よわい⇆公孫恭
      精選版 日本国語大辞典「駑」の解説
     ① にぶい馬。 のろい馬。 駑馬。→のろい。にぶい。おろか。=謂才能低下,力量薄弱

る。
.二心を抱く 味方や主君にそむく心。裏切りの心。{魏書夫餘伝 季父牛加有二心}「末の叔父が王位を奪おうとすること、謀反。

1.海内は国内、州は国内の小国
1.絶島について☆☆☆☆☆
1.罽刀(けいとう)について
1.赤罽幘(せきけいさく)とは
1.生口は羊と同じ扱い。戦争捕虜を言う。☆☆☆
1.反物一匹、一匹の寸法は9m20cm
1.短弓について
1.貝輪について
1.百濟大姓八族について(随書より)
1.卑弥呼の墓は23mについて
1.阿人について
1.貫頭衣について

メソッドの意味:
① 目的を達成するために決められたやり方。方法。方式。
② オブジェクト指向プログラミングにおいて、オブジェクトに対する操作を定義した手続き。
?   一貫した鉄則(里程論解析メソッド)

方向→距離→地勢→地名を優先順位とします。


方位・距離は原文通り。


*現代の主流的な考え方です。 例:邪馬壹国畿内説の内藤湖南のように「南は東であるべきか」などは論外。


原文のコンポジションにスポットをあてます。

*コンポジション 構成・構造・組立て・構図

道里について
定義:道里とは二地点間の長さを里数で記すこと。
里数があることが必須で、例えば日数であったばあいは狭義では道里とはいえない。
原則的に、どこからどこまでの構文、自至構文、従至構文で記される。
道里は地図上のカテゴリーの用語であり、例えばどこに至るのような述語で訳してはならない。

以下、解説:
裴秀(はいしゅう)は『禹貢地域図(うこうちいきず)』を表しました。
『晋書』裴秀伝に引用された『禹貢地域図』序文の原文は以下です。

制図之体有六焉 一曰分率 所以弁広輪之度也 二曰準望 所以正彼此之体也 三曰道里 所以定所由之数也 四曰高下 五曰方邪 六曰迂直 此三者各因地而制宜 所以校夷険之異也

有図象而無分率 則無以審遠近之差 有分率而無準望 雖得之於一隅 必失之於他方 有準望而無道里 則施於山海絶隔之地 不能以相通 有道里而無高下・方邪・迂直之校 則経路之数必与遠近之実相違 失準望之正矣 故以此六者参而考之 

 然〔後〕遠近之実定於分率 彼此之実〔定於準望 経路之実〕定於道里 度数之実定於高下・方邪・迂直之算 故雖有峻山鉅海之隔 絶域殊方之廻 登降詭曲之因 皆可得挙而定者 準望之法既正 則曲直遠近無所隠其形也

(1)図象(描かれた図)があっても縮尺がわからなければ、どれほど広い地域を描いたものかわからない。

(2)縮尺が正しくても方位がわからなければ、道理を正しく示すことはできない。

(3)方位がわかっていても道里(上記、1と2・縮尺率と方位)がわからなければ、山や海で隔てられた遠方の地を描けてもどのように道が通じているのか表すことができない。

(4)道里(里数)がわかっていても道中の「高下」「方邪」「迂直」を調べて校正しなければ、正しい準望(方位)からもずれてしまう。
だから、地図を作成するには6つの要素を集めて考えなければならない。

そうすれば、実際の遠近が縮尺上に定まり、地図上の2つの地点が正しい位置に示され、道里が定まるのである。だから、高下、傾斜、真っすぐか曲がっているか計算できるのである。ゆえに急峻な山と大きな海との隔たりや、絶域で異なる方向へ廻り込む迂回路、登り降りが激しく迷いそうに曲がりくねった道があったとしても、すべてを地図上に確定させることが可能となる。こうして、準望の法に正しく、それに則れば、曲直や遠近はありのままの形を隠すことなく明らかにすることができるのである。(私訳)


(弘中芳男『古地図と邪馬壹国』大和書房1988より 地図の製図の六要素

 学者胡渭は『禹貢錐指(うこうすいし)』の中で制図六体に非常に分りやすい解釈を加えていますが、「道里」については次のように述べています。

「道里者 人跡経由之路 彼里数若干之謂也」
(訳)道里は人跡経由の路のことにて、此処より彼処までの里数がどのくらいなのかを謂うなり。

「自此至彼里数」、この前置詞構文では、ここからあすこまで何里です、という単純な構文である。自~至~という表現は、二点間の方向と距離以外は書くことができない。つまり、曲がっているだとか、高下があるだとか、河や山があるなど状態を表現できない。したがって、道里とは正しい遠近であって、それはかつ地図に反映されるのは二点を結んだ直線となるわけだ。人跡経由之路すなわち人が歩いた路でるが、旅程ではない。直線距離で地図に表される。「計其道里當在会稽東治之東」、道里は路があるところですから、陸上であるのです。会稽の倭水人たちが住んでいる所は会稽の東の陸上にあることになります。倭水人たちは、この会稽の東を治めている。そこで、後漢書のように海を越えて倭(日本列島)を指すわけがありません。

会稽から船山市までは街道があった。
 「自此至彼 里数若干之謂也」、
道里は路のA地点からB地点までの里数である。
経路、すなわち道のりの曲がりや高下は二点間の2地点間の遠近(直線距離)が正しくなければ地図に表すことはできない。
では、周代の古地図を見てみましょう。『禹貢九州水土図』

里数を記すには縮尺率(分率)①と方位②とが必須要件となる。
分率とは今日の地図上でいうところの縮尺率のと同じセオリーです。言い換えると、単純な比で考えればいいのです。
縮尺率は「地図で表した長さ」÷「元の長さ」で出ます。

20000分の1の地図で1cmの距離は
20000倍すればいいので
1cmの実際の距離は20000cm=200m=0.20km です。
ところで、実際の長さとはメートルであろうと里で表そうと変わりません。つまり、縮尺率が変化しても実際の長さには影響がないのです。

一大国が壱岐であることに疑いありません。この島の南北は18kmです。
陳寿は300里としましたから、倭里は一里0.06kmです。
これを長安里にしますと、20分の3にします。長安里では45里です。ところで、この実際の長さは同じです。
こうして、此彼の里数の違いは実際の距離に影響しません。地図の縮尺率とは関係がないのです。仮に変数として一里を長くとれば大きな地図ができあがるだけです。
例えば単位としての数値が縮小、拡大されても実際の長さが変わりないのです。cmとインチ、kmとマイルの関係に置き換えて考えればわかりますよね。
*長安里:華内で使われた長さの単位;漢代では約0.4km.


マイルであろうとkmキロメートルであろうと、里であろうと単位数値が違っていてもインジケーターの長さが同じなら。結局、縮尺率は同じとなりますね。




横浜私立大学所蔵
下の図は現在の黄河の流れです。禹貢九州水土図と対比してみましょう。



泰山の北に黄河が流れていますが、墨の帯状に描かれています。これは通年洪水状態河川水位が高かったものと思われます。禹帝の治水工事は運河をつくり、江蘇省側の淮水に分水し、長江に水量を流したたものと推察できます。その逆だという説もありますが、禹貢九州水土図では淮河(わいが)ははっきりと描かれていません。上の地図と下の図を比べてみましょう。下は春秋時代の河川図ですが、二里頭遺跡の近くから長江に流入する二つの支流が見て取れます。

淮河(わいが、拼音: Huái Hé)は、中華人民共和国を流れる川の一つで、長江・黄河に次ぐ第三の大河。古くは「河」が黄河の固有名詞であったので、淮水と呼んだ。長さは1,078キロメートル (km)、流域面積は174,000平方キロメートル (km2)に及ぶ。
淮河は、黄河と長江の間を東西に流れており、下流にある湖で二手に分かれ、放水路は黄海に注ぎ、本流は長江につながっている。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)
淮河の流路は激しく変化してきた。かつて淮河は今日の江蘇省北部を通って黄海に注いでいた。しかし1194年、それまで渤海へ北流していた黄河が南に向きを変え泗水の流路へ流れ込み、さらに淮河河道へ合流するようになり、淮河は黄河の流れの強さに押しだされた。黄河が堆積した土砂は高く積もったため、淮河は流れをふさがれ、水は逆流してあふれ出し洪沢湖を形成し、多くの土地や町が水没した。洪沢湖に溜まった水は南へ迷走し、高郵湖、邵伯湖といった湖を作ったあと長江へと合流するようになった。沂沭泗河水系の各河川も江蘇省北部で出口をなくして迷走しながら大運河や黄海へ流れるようになった。
1850年代に黄河は再び北に流れを変えたが、淮河は黄河旧河道の堆積土砂による自然堤防のために元の流れに戻ることができず南に流れるままになり、安徽省・江蘇省境界付近でしばしば氾濫を繰り返した。1950年代以降、中華人民共和国によって淮河水系の上流でダム建設や植林、下流で排水路整備が進められた。特に江蘇省北部に設けられた放水路・蘇北灌漑総渠は、淮河旧河道に沿うかたちで淮河の水を洪沢湖から黄海へ流している。
おもな支流には、北岸の最大の支流・沙潁河(潁河)、南岸の最大の支流・史灌河など安徽省や河南省を流れる河川がある。また、山東省南部の沂沭泗河水系(沂河、沭河、泗河の三つの河川およびその支流からなる)はかつては淮河の大きな支流であり、現在も大運河などを経て淮河につながっている。泗水は、古代には淮水と並び、中原から江淮地方を結ぶ大動脈であった。
北岸の主な支流:洪汝河、沙潁河、西淝河、渦河、漴潼河、新汴河、奎濉河
南岸の主な支流:游河、溮河、竹竿河、寨河、潢河、白露河、史灌河、淠河、東淝河、池河



方について
 例えば、方400里とは、一辺を400里とする正四角形のことである。したがって、面積を表す一形式である。正方形や長方形の面積は、「面積=たての長さ×横の長さ」 で求め、対角線は一辺かける√2である。
国の形が、まんじゅうのような形、またねじりパンのように細長い形の場合、たて、よこの長い方を一辺とする。したがって、実際の形状の面積を求めることはできない。
正四角形の方位は上が北、下が南である。南北、東西は現代の地図と同じである。
長方形は「折方」という。例えば「折方千里」は長方形の長いほうの一辺が千里ということ。



周旋について 円周の長さ。円周=2×半径×円周率=直径x円周率 例えば周旋5000里の直径は5000÷円周率で方一辺の長さとなります。。



について・・・15%の数理問題

会稽の倭水人が居住するところについて倭人では、「計其道里當在曾稽東治之東・・・」
と書き、道里を計るという。ここに、計るという文字を使っていることは、道里とは計算できる対象であると言える。かくして道里の性質は数値であると定義できる。

 里の単位を求めて数年もたっただろうか。魏志倭人伝の里数について、その長さはいいかげんなものであるという人が多いが、現代のキロメートルに置き換えることができるだろうか。
ところで、~余里の余は15%に相当する実数だということに気づいた。魏志倭人伝では、文字の論理構造の中に潜ませている。だから、余のある箇所と余のない箇所を構造的に組み立ている。余が何なのか定義しないと、誰にも見えてこない。ここでは、可と余の構造論理式を突破口としよう。
プログラミングに馴染んでいる人ならすぐにわかることだが、プログラムをエディターなどで書くことをコーディングなどという。はじめに、変数宣言をする。変数宣言とは、プログラムの始まりである。たとえばx=0と書けば、変数xは数値であり、初期値は0である。プログラムの途中でX の値はいくらでも替えることができる。さて、里数なるものを変数宣言してみよう。余は、構成要素であり、素因をなす重要語である。

第一の15%の定義

余の定義;「余は元数に付加される15%の値である」
応用例:対馬の方400餘里は460里である。
第二の15%の定義
里の定義;「元数、すなわち倭里は中国里の15%の値である。」
応用例:末盧国ー伊都国間500里は中国里にすると、15%、=75里である。


仮に「りすう」、ローマ字では”Risuu”と読むから、R=1と定義する。Rの初期値は1で、数値の形をとる。これはあらゆる数値が代入できるが、反面、文字列は代入できないという宣言でもある。そこで、求める長さをLとする。余はYとする。すると、L=R+YRの式が成り立つ。Lはlengthの略でLとしただけだ。中文で開けば自A到Bである。L="自A到B"が代入の中身である。例えば自郡至女王国とすればAは郡Bは女王国だ。ここでのLは=”自郡至女王国”といいうわけだ。そこで、L=R+YRの式ではLは変数であり、その結果、YRは数としてのプロパティをとることが必然となる。このように変数Yが文字なのか数値なのかプログラマーは最初に考えて、必要な変数定義しないとプログラムが先に進まない。言い換えると書いていくことができない。Yは"余"であり、余は前提として何らかの数値でしかありえないことを説明した。私はY=0.15と定数として宣言した。R+YRの式からはYはRにかかる乗数であり、この乗数Yこそが”余”の真実(truth)である。驚くべきことに、陳寿は論理式を構造的に配列するの素養があったようである。


次に、原文の改行どおりに横書きにしてみた。
餘が文字列の中にどのように配列されているか見てみよう。「餘」(余)は赤く「,可」は緑色に色指定している。
我々は法則性を発見するのが命題である。中文の中にどんな法則性が隠れているか、あらゆるツールを使ってみよう。
Part1-《第一ブロックの前半》-------------〈至字の前に里数がある)
倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑舊百
國漢時有朝見者今使譯所通三十國從郡
倭循海岸水行歴韓國乍南乍東其北岸狗邪
韓國七千里始度一海千里至對海國其大
官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶㠀方四百
里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千戸無
良田食海物自活乗船南北市糴又南渡一海千
里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴
毋離方三百里多竹木叢林有三千家差有
田地耕田猶不足食亦南北市糴又渡一海千
里至末盧國有四千戸濵山海居草木茂盛行
不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沉没取之東南
陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄
渠觚有千
Part2-《第一ブロックの後半》・・・・〈至字の後ろに里数がある)
丗有王皆統屬女王國郡使往來/
常所駐東南至奴國百里官曰兕馬觚副曰卑奴
母離有二萬戸東行至不彌國百里官曰多模
副曰卑奴母離有千家南至投馬國水行二十
日官曰彌彌副曰彌彌那利五萬戸南至邪
馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊
支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮
七萬戸・自女王國以北其戸數道里得略載
旁國遠絶不得詳次有斯馬國次有巳百
支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有
好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國
次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有
鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有
躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次
有奴國此女王境界所盡其南有狗奴國男子爲
王其官有狗古智卑狗不屬女王自郡至女王國
萬二千

《余の使われ方》
1)方可四百餘里 四百余里という数値の前に可が配列される。対馬の下島を対象にした広さ
2)方可三百里 余がなく、三百里という数値の前に可が配列される。一大国(壱岐)を対象にした広さ

3)可五萬餘戸 57500戸である。
4)可七萬餘戸 80500戸である。

5)道里可得略載 可能の可として使われている。可の後方文字は得るという動詞句である。
6)旁國遠絶不可得詳 可能の可、詳しいことは得ることができなかった。

方可四百餘里については、四百里ほどであるとか、四百里ばかりであると訳される。「可りである。」可(ばか)りである、可りをばかりと読み下すのは、はたして適当なのだろうか。
か【可】
[音]カ(呉)(漢) [訓]よい べし

[学習漢字]5年

1 よい。よろしい。成績評価では良の次のランク。「可否/不可・優良可」

2 よろしいと認める。「可決/許可・裁可・認可」

3 できる。なし得る。「可視・可能・可燃性/不可解・不可欠・不可思議・不可侵・不可分」

4 …するがよい。それに値する。「可憐(かれん)・可及的」

[名のり]あり・とき・よく・よし・より

[難読]可惜(あたら)・可笑(おか)しい・可愛(かわい)い・可哀相(かわいそう)・生半可(なまはんか)・成可(なるべ)く・可漆(ベクうるし)・可杯(べくさかずき)

か【可】
1 良い悪いの二段階評価で合格を示す。「栄養可」

2 《「可能」の略》よいとして許すこと。「分売も可」

3 成績などの段階を示す語。優、良の次。学校の成績評価では、及第を認められるものの最下位。

中国語では、次のような接頭辞があります。
1)((文語文[昔の書き言葉])) およそ.≦大约.
【許】 概数を表す.…ほど.説文解字:許 聽也。从言午聲=聴⇒听
2)可は「付属形態素 合う,かなう.〜と一致する」
用例
重可千斤=重さは1000斤に当たる(500キロ).ちょうど1000斤ということ。

では、方可四百餘里、これを「およそ方四百余里」、という訳は矛盾する。そもそも後漢書では「凡百余国自武帝滅朝鮮」とあるように、およそという文字は凡である。
可は、~に合うという、ことで、不可は、合わないということだから、四百余里とかいてあっても、論理的には余を含めた実数の値をとるはずである。
方可三百里は三百里という実数なので、”Just three hundred Rie” 、「ちょうど三百里です。」と訳すことができるが、
四百余里は400+400x0.15ということになり、答えが460里になって、はじめて可と整合する構文となる。可には凡と違えるロジックが潜んでいたのだ。
余は15%の値をとる乗数の定数であるという定義に矛盾はない。
プログラム言語にすると X=X+0.15X
これが理解できると、驚くべきことに、余を使い分けて、正確な距離で図象(地図)を描いていることが分かるのである。陳寿イメージにあった地図を一里をkmの値を変換できれば、現代の地図に再現できるはずだ。
第一ブロックのPart1で実証してみよう。
1)郡から句邪韓国では7000余里→X=X+0.15X Xは8050
2)句邪韓国から末盧国まで3000余里→X=X+0.15X Xは3450
3)郡から末盧国まで10,000余里→X=X+0.15X Xは11500
4)末盧国から伊都国までは500里、余がない実数500
余里を使った合計11500に4)の実数を足すとちょうど12000
なんと、郡から伊都国までが12000里となるように仕組まれていた。
Part2の最終行、「自郡至女王國萬二千餘里」を解釈できる。
X=12000
X+0.15X X=13800
15%は1800里である。
これは、郡から女王国までは12000余里、これは実数では13800里、伊都国12000里よりも1800里遠い」という図象を表現しているのである。
Part2は伊都国からスタートし、1800里離れたところに女王國があるという結論になる。
奴国までの100里を取られるので1700里、これは何キロメートルか?この式は0.06kmをかける。=102km
奴国から東102kmに女王国がある。これは式にもとづくので根拠のある推理である。

ここから比定地については里程論編に詳細。


第一の15%の定義
余の定義;「余は元数に付加される15%の値である」

第二の15%の定義
「倭里は中国里の15%の値である。」
中国の度量衡
一里という単位は中国では度とされ、紀元前から長さの単位であった。今日のキロメートルでは
漢代は1尺=23.1cm一歩は六尺、138.6cm、度では一里は300歩ですから、一里は415.8m。≒0.416km。
では、魏志倭人伝での里は、中国の里に比べてどのくらいの比率になっているのだろうか?
倭里をWr、中国の里をCrと変数定義すると次のようになる。

y=f(x) x=x*1.15
なぜ、15なのか考えてい見る。15というと、思い出されるのは魔法陣だ。あの3×3の魔方陣だ。


1+2+3+4+5+6+7+8+9=45 45÷3=15 9は数秘術の神数です。3で割れる数字は桁を外して一桁になるまで足してゆくと残る数は3の倍数、369になる。
中国では9を神数として魔術や占いによく用いられる。15はある意味では神数である。3 x 5 =15 /1+5=6


3×3の魔方陣(三方陣)は、対称形を除けば下記の形しか存在しない。各列の合計は15になる。
倭人伝との関係は直接的にはないが、15がたまたまというほど軽い数ではないということは確かなようだ。
倭地の里は中国里を分母に”15/100”ということで、”3/20”、中国里の”15%”に当たる。
すなわち、倭里は0.0624km、小数点三位以下四捨五入で0.06km=60m。 
*倭里は東夷伝全体につかわれている。高句麗方2000里など・・・。

15%の第一の定義と第二の定義を用いて對馬と壱岐を地図上で精査してみる。
壱岐島「方300里」を復元」以下、および里程論で個別に実証します。
壱岐島「方300里」を復元する!

壱岐方300里
黒い実線が一辺18kmの正四角形。方三百里の復元図。一支国、壱岐島、「方可三百里」、300里ちょうどです。(~余がありません。)一里0.06kmで300倍は、18kmです。バルーンとバルーンの線は、18km、南北でとった一辺の線。一里0.06kmだと、ぴったりですよ。方形とは「全ての角が直角の四角形」で、方可三百里とは一辺を300里の正方形と文字通りに解釈するのが自然です。とりわけ、300余里とは記されていないので300を実数として計算できます。壱岐島での里数が何メートルに相当するのか測るにはもっとも適当な材料です。壱岐島は南北18km、東西は16kmです。島内最高峰の岳ノ辻山の頂上は標高212.8mと低い山です。壱岐島は山あり谷ありですから、歩行距離を測ったものではありません。峡谷のような地形で遠くを見通すことができないところを計測するには古代中国でも長いロープを使って測るという原始的な方法しかありませんでした。方里は直線距離であって、道のり(行程)ではないのです。壱岐島は南北18km、東西は16kmです。信用されない方もおられるので、下に2枚のMAPで証明しておきます。さて、壱岐島を例にとると、南北のほうが長いわけです。自然の島に真四角な島があるわけはありません。では、方300里といった書式は、正四角形の一辺を長い方の値をとっていると言えます。これは一つの法則だと考えられます。
上、南北18km。18kmが一辺の300里です。したがって、一里は0.06kmです。

下段、東西16km。壱岐國の王都は”前の原遺跡”に違いないでしょう。
余は計算できるのか?
余はある関数とみて、計算式に組み込みます。
地域固有の一里の単位実数を計算します。(東夷の領域)
Stip1魏志倭人伝の里はすべて点と点を結んだ直線距離です。(自~至~構文の法則)
Stip2魏志倭人伝の里数についている余を数式化します。
【定義】
α=余(変数)
x=郡から末盧國まで==10000(余を除いた合計値)
b=末盧國から伊都国まで=500
y=12000=郡から伊都国まで
上記の定義より次の数式を立て、α=余の実数値の割合を求めます。
【一次関数】
α=(y-b)/x
【余の乗数】
α=1.15
αの値が分かれば魏志倭人伝の区間とその合計の値を数式で割り出すことができます。
郡から金海市まで483km(Googleでの測定値) 里数は7000α=8050 
483÷8050=0.06
一里は0.06kmとなります。この値の検証は次章「里程論」をご覧ください。

 

 地域

 一里/km

 標準里

  縮少率

 A;

 中国(漢)の公里

 =0.4156km

 「長安里」

 B;

 漢書西域の公里

= 0.24948km

 「西域里」

 Aの6/10・3/5

 C;

 倭韓域の公里

  =0.0615km

 「東夷里」

 Aの15/100・3/20
Bの1/4

 A';

 中国(西晋)の公里

 =0.4342km

 「洛陽里」

 

C:の値を小数点三桁を切り捨て、0,06kmの値をで地図上で検証します。
*4列目のように長安里・西域里・倭里の固有の名前で定義しています。固定値です。従来の説である長里・短里などの中国の度の規定値でなく、西域には西域の、倭地には倭地に特有の一里の値がありました。Google Earthによる距離実測法によります。A Bのイニシャルは同時代のグループの意味です。西域里は中国里の3/5の値になります。
*中国の度量衡=http://www.allchinainfo.com/trivia-of-china/4841
*一里=300歩:一歩=6尺:一尺=23.04cm(後漢)一里=1800尺=にすれば一里となります。

中国の里をキロメートルにすると、時代ごとにわずかに長くなってます。
六尺で一歩、三百歩で一里となります。これを「六尺一歩、三百歩一里の制」と言われ、中国では漢から隋までこの制度が使われていました。

漢書に適用する標準里!
一尺=23.09cm
一歩=六尺=1.354m
一里=三百歩=415.62m

魏晋の一里・西晋に適用する標準里!
一尺=24.12cm
一歩=六尺=1.44.72m
一里=三百歩=434.16m

南朝時代(南宋・梁)に適用する標準里!
一尺=24.48cm
一歩=六尺=1..469m
一里=三百歩=440.64m

•「1寸千里法」とは、夏至の太陽南中時に、周の陽城(洛陽)付近の南北2地点で8尺の棒の影の長さを測り、その日影長に1寸の差があるとき、2地点間の南北距離成分を千里とする、というものである。南中点に太陽が達したときに同時にはからなければならないこと。また、棒の影がボヤっとしていた場合、測定には誤差がでる。この場合、76,9mの1000倍、76,9km離れた観測点をどうやって測定するのかが問題となろう。しかし、倭地や西域でこのような方法をもって計るわけにはいかない。なぜなら、夏至の瞬間でしかこの値はつかめないから、移動先ではまず実用に適さない不可能だろう。おおむね、天文学上の理論であって、一般に用いられたとは考えられない。
距離の単位について一里の長さは? 
魏志倭人伝での東夷地域の単位の縮小率は、中国のそれの3/20である。すなわち、楽浪郡倭地の一里は0.4156kmの20分の3で≒0.0624kmである。
対馬、壱岐では実測すると0.06kmの値で里数を復元するとに完全に一致する。結論としては、すなわち、いわゆる陳寿の地図を再現するには単位の復元が必要なのです。
★東夷伝の準望は現在の地図よりも偏角+8で描かれている。したがって、現代の地図を8度ばかり左回転させると、結果、魏志倭人伝の方位を復元できる。いわゆる陳寿の地図は方位を-8度に、かつ、海岸線を地域によって1m〜1kmぐらい後退させるさせる。この二つの点をいつも考慮してしておく必要がある。
中国における驛伝制のない海外には異なった里数単位を用いたのでしょうが、縮小した比率を明示していないのです。比率であれば、逆算すれば中国里に戻せます。


 


『海島算経』

劉徽(リョウへ)は 『海島算経』(かいとうさんけい)の著者です。
( 中国 )紀元 263 に、円周率を(およそ) 3.1416(4 桁)まで精度を高めました。日本では縄文後期あたりです。劉徽は九章算術の注釈を書いて、また、九章算術の最後に「重差」一巻九問
をつけ加えましたが、唐代になって単行本に改められました。そして、第一問が海島の高さと距離を測る問題なので、その本は「海島算経」と呼ばれるようになりました。 その本の第一問が海島の高さと距離を測る問題なので、「海島算経」と呼ばれました。その問題のなかに、「高きに上って川幅を計る」などがあり、どの例題の問いも朝廷百官への試験問題のようである。

上の訳を下に図解する。




中国の天空観
北斗七星の別名:おおぐま座の腰から尻尾を構成する7つの明るい恒星で象られる星列のこと。北斗、北斗星、七つの星、七曜の星とも呼ばれる。柄杓の形をしているため、それを意味する「斗」の名が付けられている。ひとびとはそこに広大な宇宙を見て、宇宙との関り合いを確認した。当時、人間の直感はそのまま霊感であった。徳の盛んな人の耳には、そこに「陰、陽、気」の織りなす流転のリズム、つまり「調」が聞こえたはずである。
天文訓:
『太微者,太一之庭也。紫宮者,太一之居也。軒轅者,帝妃之舍也,咸池者,水魚之囿也。天阿者,群神之闕也。四宮者,所以守司賞罰。太微者,主朱雀,紫宮執斗而左旋,日行一度,以周於天,日冬至峻狼之山,日移一度,凡行百八十二度八分度之五,而夏至牛首之山,反覆三百六十五度四分度之一而成一歲365度4分と小数点一桁まで計算してある。この「史記」の天官書では、天極星を「天帝」、神の常居(中宮)とする。屈曲した4つの星を、正妃、後宮の妃、周辺の12星を藩臣とし、「紫宮」または、 「紫微宮」とした。北方が紫とされ、最貴の方位、最高の色とする。漢の武帝は北極星を太一神として、最も尊い神として崇拝した。道教の天空観は、最高の天 の支配を北辰、北斗に置き、地上の皇帝をその支配と同一に見ていた。つまり、天の異変は、地上の異変のまえぶれと見なしていたのである。それゆえに、彗星 などが現われると世の中の乱れる前兆として受け止めたのである。そこで、天文学は政の重要な情報でもあった。道教の天空観は、政(まつりごと)の支柱と なっていた。北極星と北斗七星を軸にして中国の王権をささえていたのである。星宿と四神が描かれていたキトラ古墳・高松塚古墳には、すでに中国の帝王学が いかに日本に浸透していたかを証明している。
 さて、真北に向かっておよそ35度の高さをみると、そこに明るい二等星がある。北極星である。その北極星から少し離れてに7個の明るい星が、ひしゃく(斗)の形に並んでいる。明るさはだいたい揃っていて、中央のデルタ星以外は2等星である。それが北斗七星である。 北 斗七星はそもそも中国の学名で、日本では「七つ星」とか、「四三星」(しそうのほし)とか呼ばれていた。北極星は「一つ星」といっていた。この7つの星の さきっぽにあるエータ星をけんさき星といい、この位置で海上で時刻や方角を判じていた。この剣先星を破軍の星をもいわれ、この星の方角に兵を進めると必ず やぶれるといわれていた。四三の星を四三の剣ともいわれた。漁師は自身の船の方向や海上のどこにいるのか北極星を目視することで判断していた。
北斗七星と北極星を同じであるか、あるいは、曖昧に記憶している人が多いが、全く違う性質をもつ星である。
 北斗七星は北極星のまわりを一日に一回転する。一時間におよそ15度づつ動く。昔の航海士たちは北斗七星のひしゃくの先っぽのけんさき星を見ては、子の 刻(0:00)だ、丑の刻(2;00)だと時刻をはかることができた。北斗七星のけんさきは「北斗の針」とか「北の空の大時計」と呼ばれていた。
 北極星は時計で言えば針の中心軸であり、北斗七星は針先にあたる。北極星を中心点として左に天が回るので、北極星は古来「不動」を意味していた。まさに不動性たる存在があるからこそ、なんの測定器具がなくても漁師の脳に刻まれていたのである。天の中央に鎮座し満天の星々を統べる北極星を北辰といい、中国ではこの北辰の神名を太一(たいいつ)といった。そして、同時に天帝であった。
北斗七星の別名:おおぐま座の腰から尻尾を構成する7つの明るい恒星で象られる星列のこと。北斗、北斗星、七つの星、七曜の星とも呼ばれる。柄杓の形をしているため、それを意味する「斗」の名が付けられている。




北斗七星を構成する星
貧狼星 トンロウセイ
巨門星 キョモンセイ
禄存星 ロクソンセイ
文曲星 モンコクセイ
廉貞星 レンジョウセイ
武曲星 ムコクセイ
破軍星 ハグンセイ
北斗七星を構成する星


天地学。


蓋天説(がいてんせつ)とは古代中国天文学における宇宙構造論の一つである。渾天説・宣夜説とともに古代中国を代表する天観である。 蓋天説には大きく2通りの考え方があり、天は円く広げられた蓋か傘のようであり、地は方形の碁盤のようであるとされ、後に、天はドーム状(蓋笠)で、地はひっくり返した皿(覆槃)の形をしているとした。
さらに、原初の一点、元気をさして太一(太乙)ともいう。北極星において、マクロコスモスとミクロコスモスの両義性が現われてくる。この図をみれば北極星がなぜ不動星と呼ばれるのかわかっていただけたと思う。
2000年前、人類は地球が丸いことを発見していません。短里77mはここに誤解を挟み込んでいます。この計算は現代の地球が丸いことを知ったうえでの理論値です。蓋天説では地球は平だと考えていましたから、当時は距離は弦長を計算していたのです。下図のオレンジ色の線が弦長。里の単位とは何か?誤解が多いのはこの点です。短里の存在は証明されたと主張してる人も多い。谷本氏の計算は1里=76.9mとなる。
地球を球体とする現代知識によれば、原理的に2点間の太陽仰角の差が地上での距離に比例している。一方、一寸千里法では2点間の日影長の差が地上距離に比例していると考えている。谷本氏の計算は太陽仰角の差から角距離を出す手順において間違いはないが、最後は周髀算経の一寸千里法の原理である一寸=1000里を使っている。蓋天説でしか通用しない原理定数を、現実世界の1里計算に使っている訳です。


 
今日、地球の直径は、12,742 kmと確定しています。蓋天説を誤解しなければ、中国前漢の公式の一里は0.4156km、これは地球の直径12,742km30,659に分割したものだとわかります。
先秦兩漢 -> 雜家 -> 淮南子((えなんじ) -> 天文訓

天文訓:
正朝夕,先樹一表東方,操一表卻去前表十步,以參望日始出北廉。日直入,又樹一表於東方,因西方之表以參望日,方入北廉則定東方。兩表之中,與西方之表,則東西之正也。日冬至,日出東南維,入西南維。至春、秋分,日出東中,入西中。夏至,出東北維,入西北維,至則正南。欲知東西、南北廣袤之數者,立四表以為方一里歫,先春分若秋分十餘日,從歫北表參望日始出及旦,以候相應,相應則此與日直也。輒以南表參望之,以入前表數為法,除舉廣,除立表袤,以知從此東西之數也。假使視日出,入前表中一寸,是寸得一里也,一里積八千寸,得從此東萬八千里。視日方入,入前表半寸,則半寸得一里,半寸而除一里積寸,得三萬六千里,除則從此西里數也。並之東西里數也,則極徑也。未春分而直,已秋分而不直,此處南也。未秋分而直,已春分而不直,此處北也。分、至而直,此處南北中也。從中處欲知中南也,未秋分而不直,此處南北中也。從中處欲知南北極遠近,從西南表參望日,日夏至始出與北表參,則是東與東北表等也。正東萬八千里,則從中北亦萬八千里也。倍之,南北之里數也。其不從中之數也,以出入前表之數益損之,表入一寸,寸減日近一里,表出一寸,寸益遠一里。欲知天之高,樹表高一丈,正南北相去千里,同日度其陰,北表一尺,南表尺九寸,是南千里陰短寸,南二萬里則無景,是直日下也。陰二尺而得高一丈者,南一而高五也,則置從此南至日下里數,因而五之,為十萬里,則天高也。若使景與表等,則高與遠等也。
23 天文訓:太陽が春分の日は東から上り、冬至は東南から上ります。日がテーブルに差し込む日数に10日余の差があります。これは同時に八方位で45度の差があります。天文訓でいう『表』とは暗視箱ではないかと推測します。東西において、入射一寸の差が8000寸まで積算されるので、入射した長さが0.5寸が8000里で、夏至と冬至からの計測っを合わせると1寸になり、一寸は16000里です。
(北から東、萬八千里、日が入るとき半寸は一積み重なって18000里に相当する。北から西の半寸もまた積み重なっ
て18000里までになる。東西の里数は36000里となる。この長さは蓋天論では、地球の直径と等しくなる。天井までは10万里だとしている。
彼らはそれを知らない。

蓋天説を誤解しなければ、東西底辺36000里
これは、地球の径は12742kmメートル、これはとは地球の赤道の長さを4万75kmをパイで割ったものだという。単位というものは最初に決めるものだから謎というのが可笑しいのかもしれない。
*一寸 秦漢時代は2.31cm、一分は0.231cm

『周髀算経』巻上(栄方陳子の問答)(趙君卿註:栄方陳
子是周公之後人非周髀之本文)「①夏至南萬六千里,②冬至南十三萬五千里,③日中立竿測影。④此一者天道之數。
⑤周髀長八尺,夏至之日晷一尺六寸。髀者,股也。正晷者,
句也。正南千里,句一尺五寸。⑥正北千里,句一尺七寸。
⑦日益表南,晷日益長。候句六尺,即取竹,空徑一寸,長
八尺,捕影而視之,空正掩日,而日應空之孔。由此觀之,
率八十寸而得徑一寸。故以句為首,以髀為股。⑧從髀至日
下六萬里,而髀無影。從此以上至日,則八萬里。若求邪至
日者,以日下為句,日高為股。句、股各自乘,并而開方除
之,得邪至日,從髀所旁至日所十萬里。⑨以率率之,八十
里得徑一里。十萬里得徑千二百五十里。故曰,日晷徑千二
百五十里。」(番号は野上記入)



満月の日、夕方18時頃地平線から昇り、午前0時頃に南中し、朝6時頃になると沈みます。夜の間、東から西に移動し続けるのは、地球が自転しているためです。地球から月を見ている人は自分が地球とともに動いていることに気づいていません。このため月が動いているように見えます。月の観測者からの南中点は地平線からの水平角度(仰角)となって、夜7時ごろそれほど高くありませんが、約一時間で9.7度ぐらい高くなり、南中点は深夜0時頃にはほぼ頭の真上高く昇っています。

満月の日、月が1時間動くといったい、何里移動したことになるのだろう。観測者は自分が地球の自転と同じ速度で動いていることに気が付かないから、月がうごいたように見えるのである。
月は一時間に15度動きます。ただし、月の公転によって一日13.18度、周囲の恒星より遅れていきます。その分を相殺すると、1時間14.45度で月は西へ進んでいく計算になります。月の理科では1分間で0.24度進みます。
これをふまえて、天台天文学では地上では一分26.666kmです。天蓋論であった中国古代の錬金術者たちはどう計算したのでしょうか。東西の端から端まで36000里と考えていました。
月の一周、24時間50分とする。24時間50分=1490分。一分では0.24度。子午線から子午線まで40000kmとしておく。地上を一分間に26.6669km進むことになります。したがって、壱岐の島を16km移動する時間は35.88秒です。天蓋説では東西36000里は地球の径でした。天蓋説に開くと、(36000x2)720000X60÷(89400=86400秒+3000秒)=(24時間50分)
島の東西南北の端に台を作る。2歩ぐらいの草地があれいばいい。卓上は水平にするために水平器、スリットを入れた暗視箱、水時計または砂時計、方位測定器、磁石、発光信号器を用意して満月の日に観測します。光の直進性を利用して暗視箱のスリットを月の光が通過する時間を東西二カ所で観測します。あるいは、長い竹筒を使ったムーンスコープ。これを月に向けてピンホールを通して底に映る月の影を観測します。*ソーラースコープを月用にしたものをムーンスコープというが、想像したもの。
火炎ランタンは発光信号器の役割をする通信手段ですから、東西両地点相互に目視できなければなりません。高い山があって信号が直接見えなければ火炎ランタンを丘や山の上に複数おいてリレーする必要があります。合図をおくるだけですから狼煙のような手段もあるかもしれません。島に高い山が突出していない壱岐の島のようなのような低い山々が連なるところではリレー方式になるでしょうが、秒速で合図を送るためには光が最適です。火炎ランタンに蓋をつけて瞬間の信号をリレーするのです。AB東西がの距離が解れば、南北の距離は簡単にだせます。A-C、A-D、B-C,B-Dの方位角度が解ればいいのです。南北のテーブル間の里数は計算でだせます。














水行と陸行
の分かれ目
 水行とは目の前の筑後川の往来のことだった。
投馬国から攻略する。現地図は次章にジャンプ
至投馬国水行20日、至邪馬台国水行10日陸行1月を旅程とした場合日数も縮小15%にする。これを筑後川の水路、陸行は街道と考える。川船が往復可能なのは日田市の手前夜明(C)と判断する。佐賀県神崎郡から東、大分から北との条件に適合し、もっとも最短の場所は宇佐となる。あるいは、同じ大分市大野川と大分川にはさまれた中央部の洲のところかもしれない。このばあい、女王国とは近接しており女王国は山側丘陵地になるだろう。
*夜明駅(よあけえき)は、大分県日田市大字夜明にある、九州旅客鉄道(JR九州)の駅である。 久大本線を所属線とし、日田彦山線を加えた2路線が乗り入れる。条件として女王国は海に望んでいるが、邪馬台国は海に接しているかどうかは不明。{*女王國東渡海千餘里復有國皆:倭種女王国の東から渡海する、]


Cはどこか、水行と陸行の狭間。

かつては舟運が盛んで、下流部には諸富津、若津、蒲田津、早津江津などの河港が栄え、大阪などへ米穀を売りさばく千石船の往来もありました。上流の日田からは杉をいかだに組んで流し、木材の集散地、大川では木工業が発達。しかし物流の輸送の主役が陸路へと変わるとともに、筑後川の舟運は衰退。いかだ流しは、夜明ダムの建設とともに昭和27年12月27日を最後に姿を消しました。現在でも上流から日田までは材木を筏にしており、「筏流し」といっています。両岸に渡しがあり、有明海から日田まで全部で62か所ありますが左右両岸にあります。船は、河に沿って真っすぐに進むだけではなく、斜めにジグザク進むところがあるのです。左岸の渡しから右岸の渡しに進み、次は右岸から左岸の渡しに停まるといったように進みます。これは河船にも櫂だけではなく、帆を持っており、向かい風でも斜めに進行できたと推定できます。そうだとすれば、風の影響も大きいのです。帆船は順風なら約6倍の速度がでます。また、上りなのか下りなのかで水流に逆らう場合と水流に乗る場合とがあり、手段が平底の丸木舟であることを想定すると、水行について直線距離で一日何里とおきかえるこはできません。ここは、旅程なのか、単位なのか最初の分岐を決めないとなりません。なんであれ、日数で書かれているということは明確な里数に換算すことは難しい、あるいは難しかったといえるのです。そこで、日数だけが単位として抽出、昇華します。日数でもって距離をあらわすということは、必然的に日数の多寡でのみ、地形に応じて判定するしかないのです。上の地図は水行20日、水行10日、陸行1月をつなげて、解釈します。これは2:1:3の割合です。分母を6として水行は3になり、二分の一、ちょうど半分が水行が占めることになります。そのポイントは陸行に切り替わるところです。それはどこなのか、筑後川の遡上の限界地だということです。これはすなわち上流の最奥の渡し、石井渡し、すなわち日田です。したがって、奴国ー日田(神崎郡(切通川)と日田)との間が全体の二分の一になります。つぎに日田から陸路をとるのですが、2:1:3ですから全日程の三分の二が投馬国から邪馬台国までとなりますね。投馬国ー邪馬壹國、これは全日程の三分の二になります。それと同時に全日程の三分の一の所に投馬国があると割り出すことができます。このように、日程の分割論理式がなりたち、投馬国は奴国ー邪馬壹國の間を比例分配すればいいのです。そのさい、投馬国は水行だけで到達できるのですから、筑後川に渡し場があり、筑後川の北側に大集落があるのです。投馬国は甘木など筑紫平野一帯を監察支配すると同時に、筑後川の関所でもあったのです。
関連地名:大宰府から豊後への駅の一つが設置されていたと考えられる。杷木町の中心部にある杷木神籠石は、筑後川にせり出した尾根上にあり、高良山神籠石(こうごうし)を視認

出来ることから、古代交通の拠点を防衛する神籠石式山城(こうごいししきやまじろ)と考えられる。急行 : 久留米市 - うきは市 - 杷木町 - 日田市。その他、麻弖良布神社(まてらふ)弖の文字は古代朝鮮でしか見当たらない。漢字ではない朝鮮造語文字。弓を立てかける置台のことらしい。

投馬国の古墳群
 下図


筑後川はかつて今より北側を流れていたという。21が狐塚古墳 墳丘は崩壊しているが、直径40mを超える円墳の装飾古墳、石室奥壁や側壁に線刻で、船、人物、動物などを描く。副葬品は土師器、須恵器、装身具、馬具、鉄器などで、これらから7世紀初め頃の古墳と考えられる。

奴国ー不彌國ー投馬国ー邪馬壹國は東行、東方向に直列(連続)していることが解明!
中心軸を日田に二分の一とした円周は宇佐にしか接していません。
上の図では、投馬国=朝倉市山田、そして邪馬壹國は宇佐市になるということです。

千石船*米千石程度を積める船。江戸時代には弁才船 (べざいせん) の俗称となった。江戸時代では日田から長崎まで米を運ぶルートは有明海を南下し天草諸島を迂回して長崎まで船で直行し、陸路を経由することはありませんでした。米を取引する商人たちは陸路を使うと金がかかることを熟知していたので、途中に陸上輸送を挟むことはありませんでした。また、大阪にも米を運びました。これは姫島沖を経由した瀬戸内航路使っています。姫島は九州と近畿とのクロスポイントです。平安京を築いた秦氏族がみな姫島を経由しました。国東では、ありがとうをオオキンといい、京都ではオオキニというのは、九州から多くの移民があったということです。九州の地名が奈良や京都に転移したのであって、大和が先ではないのです。

。*弁才船(べざいせん)は中世末期(安土桃山時代)から江戸時代、明治にかけて日本での国内海運に広く使われた大型木造帆船である。


いかだ流し(夜明){出典:国土交通省 九州地方整備局 筑後川河川事務所]
筑後川の物流がどこからどこまで可能であったのかは、筑後川の船が上行する限界こそが水行の終わる所、すなわち陸行に変わるところです。上流の渡しは62番の「石井の渡し」です。日田市の三隈川沿い日田温泉街の向い側にあったようです。夜明ダムができる前は、日田から大川(家具など木工房で有名)まで材木を運んでいたことはよく知られています。そこで、3から4世紀、当時の丸木舟で日田まで船で往来できたといっていいのでしょう。

て、本題に戻ることにします。
狗奴国が二か国あることはTOPページで実名を簡単に書きました。が、そこに到達するプロセスは二重、三重の壁を越さなければなりません。はじめに、わたしは魏志倭人伝を全文を6つの段落に分けました。なぜ、6つの段落にわけたのか、それは魏志倭人伝の訓読を何度読んでも分かりません。 原文からでてくる構文と構造式を訓読文では分析できないからです。小著「卑彌呼Xファイル」では現代語訳を6つに分けて紹介しています。1.帯方~九州編、2.会稽編3.九州編 4.帯方編Ⅰ 5.九州番外編 6.帯方編Ⅱと見出しをつけていますが、これでは、6つに分けた理由はよくわからないと思います。
「倭人伝は倭地を地域別に俯瞰していると総合的に判断し、全文をエリア別に6つにわけ、ブロックのはじめ分節の冒頭に見出しをつけた。」と、リーディングガイドに書いています。たしかにエリアに区分しているのですが、その理由には踏み込んでいません。そこで、6つに分けた真意をより詳細に述べてみたい思います。

私は、以上、6つのブロック(意味段落)に区分しましたが、これは意外と簡単です。代名詞がないところが切れ目ですが、こればかりではありません。主格が変わります。
主格とは、文法で、文や句の中で名詞・代名詞などが述語に対して、その作用・性状の本体を表しているときの語格のことをいいます。さて、この6つの段落に、それぞれ異なる主格があるのです。
1番目のブロック帯方~九州編の主格は、帯方から倭地(奴国)までの間の諸国((女王国以北の地域)
2番目のブロック会稽編の主格は会稽の水人(入れ墨をしている蛮族という意味での広義の倭人)
3番目のブロック九州編の主格は、九州の地、女王国以て北の領域
4番目のブロックの帯方編Ⅰ主格は倭国-1
5番目のブロックの九州番外編、主格は九州東北海岸から渡海して到着する大小さまざまな島嶼。
6番目のブロックの帯方編Ⅱ(倭国-2)主格は年号(景初と正始)だが、主題はすべて倭国の朝獻記録。
この6つのブロックの主格は人称だったり、場所であったり、国名、年号だったり違いがあり、さまざまですが、きれいに主格が分かれます。このほかに、総枠ブロックがこの全体を包括します。主題は「倭人」です。巻頭で宣言されています。倭人の定義は「入れ墨をした奴ら」ですから、地域・人種・言語に縛られません。裸國・黒歯国は太平洋の中、ミクロネシアにあります。倭人は多国籍民族の総称ととらまえると分かりやすいかもしれません。


もちろん、より理解していただく助けになるように書き進めたいと思います。 たとえば、至という文字は従~至~と、自~至~という前置詞構文です。至しかない一文は、従か自が省かれた脱略形であることを説明します。また、又又構文、有構文、在構文、其其構文、行構文などは、中国語に特有な構文です。分岐に関わる重要な条件文なのです。これらのキーワードが、6つの段落構成にどのように影響しているかを解説します。中国語は孤立言語で、棒書きですから文字配列(構造式)が重要な要素だからです。

 原文の文字の意味だけではなく、構成をつぶさに当たらなければ、魏志倭人伝を間違って解釈していても気がつくことはないでしょう。つまり、翻訳が間違えていると、違った解釈が派生してしまいます。誤訳が原因で戦争になったり、歴史が変わってしまう事例は多々あります。誤訳が増幅されて、とんでもない解釈が生まれます。間違いの上塗りが重なって、しまいには卑彌呼が天照大御神だ、なんてことになってしまいます。原文の真意がどんどん遠ざかってしまいます。こうした、まっかなフェイクが捏造されてしまっています。それどころか、卑弥呼の墓が箸墓であるとの論争も実におかしな話で、魏志倭人伝から離れて独り歩きしています。わたしは狐とタヌキの化かしあいように感じます。巻向遺跡が卑弥呼のいた所だというのも印象操作を加えています。梅の種など何百個出土しようが卑彌呼と何の関係もありません。すべてが邪馬壹国畿内説のウソの上塗りです。

 そうしたわけで、原文により準拠する、言い方を変えると、原点に戻ることが大事です。『三国史事典』の著者、渡邊義浩氏(わたなべ・よしひろ)は「三国志は邪馬壹国を記録するために著された史書ではないのである。」と、書いています。そのカテゴリーの中で考えることが大切なわけです、原点に戻るということでは、ある意味、三国志から見ることがたいせつです。海の向こうの歴史や地理に視点を置くことをも意味します。、『三国志』巻三十 鳥桓(うがん)・鮮卑・東夷伝の扶余伝、韓伝などにも目を通して、東北アジア史を知ることも必要です。三国志からは邪馬壹国は一か所だけに書かれるだけです。邪馬壹国は中国からみれば公孫燕を仲介して支配していた辺境の封地にすぎません。中国では前漢の武帝のころが最大領域を支配していました。その頃、倭地は楽浪郡に組み込まれ100余国が従属していました。それから200年たったころは支配地域が強勢となり、だんだん支配地域が減っているのです。ですから、魏になって通行する国は30カ国になっているのです。下に、そのことが分かる東夷伝の序文を紹介します。
 中国や朝鮮の歴史・文化まで視野を広げないと魏志倭人伝の理解は難しいといえます。
書式として、できるだけ原文と、その出典を明記するようにしています。原文は読まないで、眺めるだけでいいのですが、要点にかかわるところは目を通してください。
「倭」という一語の用例には、魏志韓伝の韓伝に倭韓と直列に書かれたところがありますので紹介します。


日本最古の丸木舟は7000年前。

論より証拠、千葉県雷下遺跡(市川市)の丸木舟:縄文早期(約7000年前)に作られた、国内最古のもの。
全長は7メートル。
雷下遺跡(市川市)の丸木舟:縄文早期(約7000年前)に作られた、国内最古のもの。
全長は7メートル。
船橋市古作貝塚からは縄文後期の貝輪が出土しており、貝輪は種子島以南の南方から到来したのだろう。沖縄と同質の文化が黒潮ルートに乗ってきたとすれば、丸木舟は海洋文明の証拠となるのだろう。



烏丸鮮卑東夷傳第三十 
 ->  ->  ->  -> 韓伝〔韓傳〕

桓靈之末,韓濊彊盛,郡縣不能制,民多流入韓國。建安中,公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡,遣公孫模、張敞等收集遺民,興兵伐韓濊,舊民稍出,是後倭韓遂屬帶方。景初中,明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣、越海定二郡,諸韓國臣智加賜邑君印綬,

「桓帝と霊帝の末(後漢末期)には*韓、濊(わい)が強勢になり、郡や県は支配することができず、住民の多くが韓国に流入した。(後漢最後の献帝の)建安年間(196~219)に公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為した。公孫康(こうそんこう)は公孫模(ぼ)や張敞(ちょうしょう)等を派遣して遺民(扶余)を集めて兵を興し、韓や濊を伐ったので、元の旧民(楽浪人)がわずかながら、少しずつ出てきた。この後、倭と韓はついに帯方郡に属した。景初中に、明帝は密かに帯方太守・劉昕と楽浪太守・鮮于嗣を派遣し、海を越え二郡を定めた。諸韓国の王には邑君の印綬を与えた。」


倭人伝は烏丸鮮卑東夷傳の韓伝を読んだあとに読むべきですよ。倭人伝のコンビネーションブロックで、いわば必須と言えるのです。
 韓は、馬韓54か国・弁辰12か国・弁韓12か国の三韓です。ここでは「倭韓」となっています。倭は韓と直列表記されていますよね。そこで、倭を単独で抽出すると、韓と対立する用例とみなすことができます。はじめのプロセスとしては、倭は領域(エリア)であると判断できます。倭人伝に代入すると、倭とは近畿以西の30カ国の領域となるのです。それらのうち9カ国は九州地方に、21カ国は中国・四国地方にあります。わたしは倭とか倭地とかの語彙が地点なのか領域なのか重視します。それは、地点か線なのか平面なのかという問題で、プログラムに取り込んで描画するさいには、重要な属性となるからです。(例えば王城と王城なら距離がとれます。しかし、国境だったらエリアとエリアの境ですから距離を取ることができません。

*「韓、濊(わい)が強勢になり、郡や県は支配することができず、住民の多くが韓国に流入した。」・・・左の訳の原文”韓濊彊盛”の四文字のうち、韓は貊(はく/ペク)の字の間違いでしょう。貊濊としないと、韓に流入した人々がどこからやって来たのか疑問となります。韓から韓に流入したというのは文脈としてありえないからです。濊貊に領有された地域の人々が貊濊を嫌って韓に逃げたというのが正しい文意だと思われます。また、当時、濊・貊・韓が三大種族でした。強勢となり周囲に領土を拡張したのは高句麗です。高句麗は貊族で、韓族ではありません。

*二郡 楽浪郡と帯方郡のこと。
*郡縣 前漢の直轄支配制。遼西郡治、遼東郡治・玄菟郡治・楽浪郡治を置いて地域の王を封じていた。
*遺民 高句麗三代目無恤に敗れ、高句麗の属国となっていた夫餘の流民。この中から尉仇台生まれが公孫に帰属、次第に隆盛となった。
*舊民・旧民 箕子朝鮮の時代からの楽浪人のこと。一時期、候王が存在し楽浪国という国があったと伝わる。
*桓靈之末 第十一代桓帝(在位146年~168年))と第十二代霊帝(168年~189年)の治世をさし、転じて後漢末意味する汎用句となった。おおよそ西暦178年~184年の間をさしている。184年には黄巾の乱がおこり、やがて董卓などの台頭の戦国時代に入いる。
*臣智(こち)は韓諸國に与えた官名。渠帥(きょすい),臣智,有險側,樊濊,殺奚,邑借の序列があり、渠帥は大王、臣智は王と同じで邑君に相当する。

帯方太守の在任期間
景初元年 帯方太守劉昕(りゅうきん)
景初二年 帯方太守劉夏(りゅうか)
正始元年~七年 帯方太守弓遵(きゅうじゅん)
正始八年 玄莬太守王頎 帯方太守兼任?(おうき)



図版出典『新説 その後の三国志』 坂口和澄著 宝島社(*不耐の位置が南すぎる)
遼東襄平城は公孫燕の根城、いまの遼陽市、後に女真族が占拠。丸都城は高句麗の朝鮮式山城で本拠地、平時は国内城(クンネじょう)元集安市


 また、ここでは帯方郡の経緯が書かれています。帯方郡とは、西暦204年に公孫康(こうそんこう)が楽浪郡の南部(屯有縣)の擾乱を収めて新設した郡です。そのとき倭と韓が公孫康に初めて服属したということです。沃沮は高句麗に属していました。公孫康(こうそんこう)がどのように倭韓を制圧したのでしょう。公孫模(ぼ)と張敞(ちょうしょう)等は公孫康配下の将軍です。帯方郡で挙兵して、倭に進軍した武将であったことは見逃せません。是の後、倭韓は遂に屬したのです。帯方に遂に倭韓は服属したのですから、遂の一文字から分かることは、公孫の武力侵攻があってのことです。それ以前倭韓は漢に従属していたと見るべきでしょう。公孫の武将たちに寇入され倭人は大きな被害を被ったでしょう。西暦204年から30年間は公孫に支配され、公孫氏が滅びるや即座に卑彌呼が魏に服属し、公孫氏に替わって倭地を経営支配したと見るのです。

『三国志』公孫度伝
(原文)度字升済,本遼東襄平人也。度父延,避吏居玄菟。同郡徐栄為董卓中郎将,薦度為遼東太守。
(訳文)公孫度は字を升済といい、もともとは遼東襄平の人である。公孫度の父の公孫延は役人になることを避けて玄菟郡に居た。同郡の徐栄が董卓の中郎将となり、公孫度を遼東太守にするよう薦めた。

『三国志集解』武帝紀
(原文)徐栄,玄菟人。為董卓中郎将。見公孫度伝。
(訳文)徐栄は玄菟の人で、董卓(とうたく)の中郎将であった。『公孫度伝』に見える。

*『後漢書』袁譚伝
(原文)康,遼東人。父度,初避吏為玄菟小吏。
(訳文)公孫康は遼東の人である。父の公孫度はむか中央の官吏を避けて玄菟の小役人となっていた。
*『三国志』公孫度伝 (原文)度字升済
*遼東の公孫氏と三国大乱時代:董卓192年頃→袁紹(えんしょう)197年頃→曹操(そうそう)207年~に服属。
 公孫康207年、袁紹の子、袁煕と袁尚兄弟が曹操に追われて遼東部に逃れてきたとき、首を切って曹操に差出し、献帝から襄平候、佐将軍に 任命される。

系譜[編集]

公孫延

 

公孫度

 

公孫康

 

公孫晃

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

公孫恭

 

 

公孫淵

 

公孫脩

 

 

 

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*公孫琙の琙(ユ)と日本語にありません。中国語のまま読むことにします。

中国皇帝

年号

王・族長

事跡


 


公孫延、役人の追及を逃れ、玄菟郡に移住する

 
 順帝永和元年    136  公孫度  尉仇台は夫餘王として雒陽に来朝した。順帝は舞踊の宴を開かせた。{*黃門鼓吹《舞踊劇》、角抵戲《秦の東海黃公》を主題とした古典舞踊)  

 桓帝

 

167 

 公孫琙

 玄菟太守公孫域、王夫台將二萬餘人の玄菟郡寇掠を擊破

 


 


公孫琙

公孫豹、玄菟郡の官吏に登用される

 

霊帝

 


公孫域

公孫琙、高句麗王伯固と協力して富山の賊を平定する

 

 靈帝

 

174 

 公孫琙

 復奉章貢獻。夫餘本屬玄菟

 

 

 

 

公孫度

 公孫豹(琙の子)と同名で玄菟太守公孫域の庇護を受ける

 

霊帝

 

184

公孫度

公孫度、高句麗王男武と戦う

 

霊帝

 


公孫度

公孫度、冀州刺史となるが流言により罷免される

 

献帝

 

189

公孫度

公孫度、董卓に属す徐栄の推薦で遼東太守となる

 

 

 

189 

公孫度

 夫餘王の尉仇台は遼東に属した。(夫餘伝)

 

献帝

 

190

公孫度

公孫度、遼東侯・平州牧を称す

 


 



公孫度、遼東郡を分割し、遼西中遼郡を置く

 


 



公孫度、渡海して東莱郡を征服し、営州刺史を置く

 

献帝

 


公孫度

公孫度、楽浪・玄菟郡を勢力下に置く

 

献帝

 

196

公孫度

王烈・管寧・ヘイ原らが遼東に難を避ける

 

献帝

 


公孫度

曹操、上表して公孫度を武威将軍・永寧郷侯に任じる

 


 



公孫度、任命を不満とし、印綬を封印する

 

 献帝

 

200 

 

 公孫度、扶余国王尉仇台に 宗女を娶せ、帯方に国を作らせる。

 

 献帝

 

201 

 

 高句麗が玄莬を包囲した。扶余王尉仇台は二万余人の兵と州と郡の兵と一緒に撃破

 

献帝

 


公孫度

ヘイ原、遼東を去り、北海に帰る

 

献帝

 

204

公孫度

公孫度死す、長男の公孫康が後を継ぐ

 


 

204

公孫康

公孫康、楽浪郡の南に帯方郡を置く

 


 

204


公孫康、帯方郡の移民を募り、韓ワイを討ち、ついに倭と韓を征圧する。

 

献帝

 

205

公孫康

曹操の武将張遼、海岸沿いに北上し公孫康の部下柳毅を破る

 

献帝

 

206

公孫康

公孫康、亡命してきた<>烏丸の速附丸を斬る

 

献帝

 

207

公孫康

公孫康、亡命してきた袁尚・袁煕を殺害し、首を曹操に送る

 


 



曹操、上表して公孫康を左将軍・襄平侯に任じる

 

献帝

 

209

公孫康

抜奇、公孫康に帰順。公孫康、高句麗を攻める

 

献帝

 


公孫康

この頃、公孫康没し、弟の公孫恭が後を継ぐ

 

献帝

 

218

公孫恭

王烈、遼東の地で没す

 


 


公孫恭

公孫恭、公孫康の長男晃を人質として送る

 

曹丕

 

221

公孫恭

曹丕、公孫恭を車騎将軍に任じ、公孫康に大司馬を追贈する

 


 

223

公孫恭

管寧、曹丕の招きに応じ、遼東を離れる

 

曹叡

 

228

公孫恭

公孫恭、甥の公孫淵に位を追われる

 


 


公孫淵

曹叡、公孫淵を揚烈将軍・遼東太守に任じる

 

曹叡

 

232

公孫淵

呉の孫権、周賀・裴潜を遣わして公孫淵に勅書を届ける

 


 



公孫淵、宿舒と孫綜を遣わして孫権に朝貢する

 

曹叡

 

233

公孫淵

孫権、張弥と許晏を遣わして公孫淵を燕王に封じる 明帝曹叡、田豫に呉討伐を命じていたが中断する。

 

曹叡

 



公孫淵、張弥と許晏を殺害し、首を魏に届ける

 

曹叡

 



曹叡、公孫淵を大司馬・楽浪公に封じる

 

曹叡

 

235

公孫淵

曹叡、毌丘倹を楽浪郡南に派遣して呉と高句麗に備える

 

曹叡

 

236

公孫淵

公孫淵、曹叡の入朝命令を拒み、魏に反旗を翻す

 

曹叡

 

237

公孫淵

景初元年、三國志 -> 魏書八二 -> 公孫度傳
景初元年,乃遣幽州刺史毌丘儉等齎璽書徵淵。淵遂發兵,逆於遼隧,與儉等戰。儉等不利而還。淵遂自立為燕王
(明帝は)公孫淵を懲罰する璽書をもたらし、幽州勅史毌丘儉等を派遣した。公孫淵は遼隧で兵を発して毌丘儉と戦った。儉らは不利とみて帰還した。淵はついに自ら燕王となした。
*璽書(じしょ)封じて御印を押した天子の詔書

 


 



公孫淵、自立して燕王を自称し、元号を紹漢と定める

 


 



公孫淵、鮮卑の単于に働きかけ、魏の北辺を荒らさせる

 

 

 

 

 

 明帝密かに、劉昕と鮮于嗣、海路朝鮮半島に渡らせ、楽浪・帯方郡を平定する

 

曹叡

 景初二年

238

公孫淵

魏の司馬懿、4万の兵で遼東に侵入する

 


 

238


公孫淵、孫権に謝罪し、救援を求める

 


 

238


公孫淵、襄平城で司馬懿に包囲される

 


 

238


公孫淵、襄平を脱出して逃走を図り、司馬懿に斬られる

 

 

 

238 

 

 十一月、倭国遣使奉献。卑弥呼を親魏倭王に制詔(せいしゅう)する

 

 曹叡

 

238

 

 十二月、明帝 曹叡は重篤におちいり早馬で単騎帰還した司馬懿に幼少の曹芳を託す。

 

 曹芳

 

239

 景初三年

 正月一日明帝34歳崩御。曹芳即日即位。太陽暦では1月22日、この年は景初三年。呉歴赤鳥二年、呉軍奇兵派遣。

 

 曹芳

正始
元年 

 240

 正始元年の改元朝賀を開く。倭国改元奉賀朝貢、倭国王を賜わる。

 

曹芳

 


公孫晃

公孫淵の兄、洛陽の獄中で妻子と共に金屑酒を飲み自害

 
  正始 二年
241       
  正始 三年  242    
 
  正始 四年  243    曹芳元服朝賀。倭国慶賀貢献。  
  正始 五年  244      
  正始 六年   245    幽州刺史であった毌丘儉は第一次高句驪を征討。  
  正始 七年   246    高句麗王・位宮、沃沮に逃亡。母丘儉、王頎に命じて高句麗王を追撃するも鹵獲できず。帯方太守弓遵戦死。  
  正始 
八年 
 247    母丘儉第二次丸都城攻略。王頎帯方郡に来る。倭国黄幢を以て参戦。高句麗王・位宮誅殺される。自称男王麻余誅殺され壹與共立。張政帰還。  




    扶余前史(東沃沮の歴史)
 前漢  武帝  前110年  臨屯郡   嶺東七県
      前107年  玄莬郡  沃沮城  橐離國王按(妃:河伯の女)
   高句麗建国  前37年      
     前75年  楽浪郡 東部都尉(濊城)   嶺東七侯国
     前75年 玄莬郡移動     高句麗の隆盛
 新  王莽    20年頃      下句驪 (はぐりょ)
   大武神王  37年 高句麗に帶素王殺される。   亡国時代  東夫餘消滅
 後漢 光武帝   44年 楽浪郡   楽浪郡に属す  侯国に復活
     118年 楽浪郡     高句麗と攻防を繰り返す?
   安帝五年 118年  公孫東海に雄を張る。    濊貊を攻撃、華麗城奪還
    安帝劉祜  120年頃  尉仇台遼東に移動  遼西晋平二郡時代  尉仇台印綬金綵拝受
公孫度が宗女を娶らせる。 
     121年 幽州勅使   後漢に属す 華麗奪還(第一次玄菟郡治所) 
       
   順帝 136年     公孫に属す 尉仇台朝賀貢献 
   公孫度  189年 新設帯方郡  公孫遼東に属す  夫餘国復活
      高句麗   高句麗に降る  相攻伐濊城以外消滅
     204年      公孫度死す。公孫康、楽浪郡の南に帯方郡を置く
     209年      伯固死,有二子,長子拔奇。公孫康は拔奇の願い聞き入れ3万の軍を預けた。
           
   明帝元年  237年  楽浪・帯方郡 高句麗に属す 明帝密かに高句麗から奪還侯国に 
   景初二年  238年  公孫滅亡  高句麗から脱し魏に属す  司馬懿、襄平城攻撃
    斎王曹芳  245年 帯方太守弓遵   帯方郡に属す 高句麗西安平を寇略。濊貊攻撃。 高句麗から奪還。毌丘倹丸都城攻撃するも退却。
   247年 帯方郡    濊不耐城陥落 
           
       壹與遣使朝貢    
     285年 夫餘依盧王   二都時代消滅 鮮卑慕容廆に殲滅され自殺
     286年夏 扶余依羅王    沃沮に逃れ夫餘復興 
     313年 高句麗   高句麗南進 楽浪郡滅亡 
     346年9月  近肖古王(346-375)  ソウルに遷都 契王自害。 
           
   高句麗  427年 長寿王  平壌遷都  
   百濟 660年   百濟滅亡    
   唐対日本  663年 白村江の戦い     
   高句麗  668年 羅唐軍に滅ぼされる。     


 王頎という人物がなぜ、正始八年に帯方の官に着任してきたのか、直接的には正始7年に弓遵が戦死したからですが、日本と交戦したことがない王頎が、いったい倭国とはどういう関係のか・・・・あなた分かりますか。疑問はあふれるほどありますよね。
追い込むようですが、弓遵や王頎といった倭人伝に書かれる人物が、「帯方に居た」ことは事実なのですよ。しかもですよ。このブロックには倭国から書き出されます。主題は倭国です。倭国について書いているのですよ。Q'S’のブロックに倭国は3か所登場します。また、倭王、倭女王、倭女王卑弥呼、親魏倭王卑弥呼、の表記もありますよ。日本書紀などで書いている倭國(日本書紀41件・古事記では5件)とは、かなり異質な感じがします。帯方と倭国は密接ですが、それに比べると、倭國と日本の関係は薄いのですよ。いったい、倭国と、帯方とは、なぜ密接な関係にあるのでしょうか。


1.孽子(げっし) とは child by a concubine 妾腹の子・第一夫人以外の妻の子・庶子(魏書夫餘伝では重要な意味をもつ))

《魏書十一》《管寧傳》[西晉] 265年-300年
例文:「是時康又已死,嫡子不立而立弟恭,恭懦弱,而康孽子淵有儁才」
訳;このとき公孫康は死ぬ前に長男は立てなかった。しこうして、弟の恭を立てた。恭はにぶく、おろかで、康は妾の子で、淵がなみはずれて優れた才能を持っていた。
日本国語大辞典「孼子・孽子」の解説〘名〙 めかけの子。妾腹(しょうふく)の子。庶子。・・・とする。わたしも三國志魏書・夫餘傳で「孽子麻余」を庶子である麻余とのと解釈あていたが、尉仇台の子であっても正妻であった卑弥呼の産んだ子ではないと解する。儒学の朝鮮では旁妃の子は通例王になれない。王になった事例は数少ない。
孽子麻余の出典:
《魏書三十》
《夫餘傳》
電子圖書館
3 打開字典顯示相似段落 夫餘傳:
夫餘本屬玄菟。漢末,公孫度雄張海東,威服外夷,夫餘王尉仇台更屬遼東。時句麗、鮮卑彊,度以夫餘在二虜之間,妻以宗女。尉仇台死,簡位居立。無適子,有孽子麻余。位居死,諸加共立麻余。<続く・これを倭國に置き換えると宗女とは女王卑弥呼であり、简位居は嫡男であったが早世し、側女の子麻余が王を自称した。景初2年の難升米は简位居、正始4年に倭国王に叙されたのは孽子麻余であろう。>
漢末、夫餘はもと玄菟郡に属していたが、高句麗に奪われ国を失っていた。公孫度が海東(沃沮・濊)を制圧した。扶余王の尉仇台は加えて遼東郡に属することになり、高句麗、鮮卑が強く、度は夫餘がこの高句麗と鮮卑という蛮族の間にあることをおもんぱかって、宗女を尉仇台の妻にした。尉仇台が死ぬと嫡子简位居が立ったが適子(ちゃく‐し)がいなかった。简位居が死ぬと、諸加(部族)は麻余という妾の産んだ男子がを共立した。
卑弥呼を佐治していた男弟とは、孽子麻余であること。卑彌呼亡き後、麻余は王座に一旦は共立されたが諸加のうち牛加の季父の反乱をうけ、年を経過した後(暦年)麻余は誅殺された。卑彌呼は宗女であり、尉仇台に嫁ぎ简位居を産んだ。简位居の子の子女、宗女壹與、壹與に宗女の冠があるのはあるのは卑弥呼が宗女であった証拠である。卑弥呼は河伯女の末裔で、公孫に妻子をともども投降したした発歧の娘ではないかと推察する。
*宗女:宗國の王后 宗國とは祖王の宗族が一国を代々継承するすること。卑弥呼と同祖意識をもつ宗族が牛加、別称、諸加のうち、涓奴加だった。
*卷十六 高句麗本紀 第四
『山上王』
發歧知難,以妻子奔遼東。見太守公孫康,告曰:「某,高句麗王男武之母弟也。男武死,無子,某之弟延優與嫂于氏謀,卽位以廢天倫之義。是用憤恚,來投上國,伏願假兵三萬,令擊之,得以平亂。」公孫康從之。
発歧は難を知ると、妻子を伴って遼東に逃がし、太守公孫康に見参しこう告げた、
「私は、先代故國川王の同母弟ですが、國川王に子供がありませんでした。わたしの弟の延優は兄嫁の于氏と共謀して、王位に就きました。このようなことは天の道里に反することで、またこのことが憤懣なので貴国に投稿してきたのです。三万の軍を借りて、これを撃破して、どうかこの反乱を平定させてください。」公孫康は彼の願いを許した。
三国史記の記述は三国志の高句麗伝の拔奇と同じ史実と思われる。
漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 魏書三十 -> 高句麗傳
《高句麗傳》
伯固死,有二子,長子拔奇,小子伊夷模。拔奇不肖,國人便共立伊夷模為王。自伯固時,數寇遼東,又受亡胡五百餘家。建安中,公孫康出軍擊之,破其國,焚燒邑落。拔奇怨為兄而不得立,與涓奴加各將下戶三萬餘口詣康降,還住沸流水。降胡亦叛伊夷模,伊夷模更作新國,今日所在是也。拔奇遂往遼東,有子留句麗國,今古雛加駮位居是也。其後復擊玄菟,玄菟與遼東合擊,大破之。
 伯固は第八代新大王の諱で、三国史記とは一代異なっています。しかし、拔奇は朝鮮史では發歧となっていることに違いありません。
三國志魏書では建安中に公孫康が出撃したと記している。その年は209年である。建安(けんあん)は、後漢の献帝(劉協)の治世に行われた3番目(永漢を除く)の元号。196年 - 220年。さて、204年 公孫度 公孫度死す、長男の公孫康が後を継ぐ。 この高句麗の王位紛争は公孫康の侵攻を招いた。公孫康、楽浪郡の南に置いたのはその204年なのだ。
高句麗王伊夷模の兄抜奇、公孫康に帰順する。妻子を伴っていた。また高句麗では最大本流だった涓奴加(牛加)の3万人が合流していた。抜奇は公孫康に帰属後すぐに自害したといわれ、尉仇台の妻(卑弥呼)を王として扶余の故地に移動したと推察する。郡内の遺民を集めてついに倭韓を制圧したという軍事力の大半は遼東の兵と涓奴加の扶余兵だった。公孫淵は高句麗を攻めた。 高句麗王伊夷模は公孫康に追われ、王都を移す。この時、三国史記では丸都城を築いたとある。伊夷模が第十代山上王、太祖朱蒙の祖孫に似ているという位宮の王名をもつ。似ているということは宗族ではないからだろう。諱は延優。
公孫康没し、弟の公孫恭が後を継ぐ。228年、あまりにも愚鈍だった公孫恭、甥の公孫淵に位を追われる。

宗孫(宗家のいちばん上の孫)は孽子(げっし) の反対語。

鬼神を祭った国はどこだったのか。
その国は高句麗だった。出処は三国志と周書の高麗傳。および随書の高麗
漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 魏書三十 -> 高句麗傳
高句麗傳
高麗之先,出自夫餘。夫餘王「嘗」得「河伯女」
『其俗節食,好治宮室,於所居之左右立大屋,祭「鬼神」,又祠靈星、社稷』「食物を倹約して、宮殿や王宮を盛んに建てる。居住する王宮の左と右に大きな建物を建て、そこで鬼神をに供え物をし、また星祭りや社稷(しゃしょく)の祭礼を行う。」
『周書』 高句麗伝
「又有神廟二所:一曰夫餘神、刻木作婦人之象;一曰登高神、云是其始祖夫餘神之子。並置官司、遣人守護。蓋河伯女與朱蒙云。」
訳: 「また、神廟が二所あり、一つは扶余神といい、木を刻んで婦人(女神)の象を作る。一つは登高神といい、その始祖の扶余神の子だという。官を並置して司り、遣人が守護する。それらは河伯(ハベク)の女と、ともに朱蒙(チュモン)に当たると伝えている。」
三国志の高句麗傳と周書の高句麗傳を比較すると、鬼神とは登高神こと朱蒙(チュモン)だと言える。「名曰卑彌呼,事鬼道,能惑衆,」卑弥呼が行う鬼道とは高句麗の鬼神を奉る祭事だということに帰結する。よって、卑彌呼もまた河伯の女の末孫(まっそん)に当たる。
鬼神は日本では大国主(鳥取の白兎神社(はくと)+八上姫)、八上姫は天照大神の若年の呼び名である。大国主はまた大黒天と習合し、八坂、熊野系では牛頭天王に変様したと思われる。そのほか、神社によって、都農(つの)とか水無(すむ)とか須佐之男(すさのお)とか様々な名称に変更されている。ところで、私は八坂神社、熊野神社などの牛頭天王とはこの鬼神が仏教と習合した姿ではないかと推察する。ちょうど、大国主が大黒天と習合したことに似ている。


維基 -> 隋書 -> 卷八十一列傳第四十六 東夷
《卷八十一列傳第四十六 東夷》[查看正文] [修改] [查看歷史]
《高麗》
『死者殯於屋內,經三年,擇吉日而葬。居父母及夫之喪,服皆三年,兄弟三月。初終哭泣,葬則鼓舞作樂以送之。埋訖,悉取死者生時服玩車馬置於墓側,會葬者爭取而去。敬「鬼神」,多淫祠』

高句麗では鬼神は始祖の朱蒙だが、百済では近肖古王(346-375)から尉仇台が始祖に変貌している。このねじれは石上神宮(いそのかみじんぐう)にある近仇首王が送ってきた七支刀が証拠となる。百済は仇台系の夫餘に乗っ取られた証で、この変貌に気づかないと、百済が高句麗から分かれた国なのに、どうして反高句麗になったのか真相が分からない。
維基 -> 隋書 -> 卷八十一列傳第四十六 東夷 「百濟」百濟
『每以四仲之月,王祭天及五帝之神。並其始祖「仇台」廟於國城,歲四祠之。』

宗族とは何か
 韓国における親族制度は、父系の親族を「親族チンゾク)」母方親戚を「外戚ウェチョク」といい、妻方親族を「姻戚インチョク」と区別する。親族とは父系につながる血族である。父系単系出自の原理に基づく親族組織として門中が発達し、原則として出生を機に、父親の姓と本貫を受け継いで、父子および兄弟の関係を介して、父系血縁の関係網の中に位置づけられる。(伊藤亜人1987)と述べる。韓国の親族制度において親族とみなされる最大の範囲は、同姓同本(ドンソンドンポン)の姓と本貫を共有し、一般的に族外婚の単位をなしているものである。親族は始祖の特性によって、「氏族シゾク」と「宗族ソンゾク)に分かれる。宗族は実態のある墓や行跡がはっきりしている。実質的な人物を始祖とする単系出自集団をなしている。
つまり、始祖が神話的存在か実質的な人物かによって、前者を氏族、後者を宗族という。
実質的な始祖を中心として祖先祭祀を共通に行う明確な系譜につながる男系親族を指すものとする。宗族は同姓同本の始祖(本貫祖ともいう)を頂点としてその父系子孫が共通の祖先の子孫であるいう共同意識、すなわち同祖意識によって連帯している。このような意識は世代交代によって文節化していく、焦点となる祖先を契機としていくつもの分派に分かれ、さらにそれぞれ分派した派はその内部にいくつかの支派に分かれている。それぞれの相互関係や位置関係は「族譜」に記録されており、宗族の各派が社会集団として組織化されたものを門中と呼ぶ。
門中は,墓祭を行うための資金を確保し,また高名な祖先の遺した文物があればそれを保存するために,共有の財産(位土と呼ばれる田畑,墓地を置く山林,集会を開くための祭閣など)をもち,有司や門長などの役員をおいて事務を処理する。門中の始祖から代々その後継ぎとなってきた家(長男の系統)を宗家(チョンガchongga),その当主を宗孫(チョンソンchongson)と呼ぶが,これは門中の象徴的中心である。
[本貫,族譜,門中]
 出自(同一の祖先の子孫であること)を示すのが姓と本貫である。本貫(ほんがん、ほんかん)は、古代東アジアにおいて戸籍の編成(貫籍)が行われた土地をいう。転じて、氏族集団の発祥の地を指すようになった。

門中に似た血縁集団の概念は、日本の同族、中国の宗族、朝鮮半島の本貫、ベトナムのゾンボ等、東アジアの漢字文化圏にも見られる。しかし、朝鮮半島のように強固かつ大きな広がりをもってはいない。

中央日報記事
祭事をきちんと行なう」との覚書きを作成したにもかかわらず、きちんと履行しなかった宗孫(宗家のいちばん上の孫)が、相続した財産を返さなければならなくなった。
ソウル高裁・民事第20部は、ホ某氏(78)が「山・田んぼ・畑など先祖から相続した不動産8000坪余の所有権を放棄せよ」とし、宗孫である実子(55、男)を相手取って起こした訴訟で、原告勝訴の判決を下した。

判決は「宗孫との点のため、財産を相続したにもかかわらず墓地をきちんと管理せず、祭事などをないがしろにし、不和をもたらした点が認められる」とし「今後も宗孫の義務を果たすとは見なせないことから、財産を返すべき」と指摘した。
ホ氏は、1966年、息子のいない実兄が死亡した後、実兄の家門にホ氏息子を入籍させた後、財産を譲った。しかし、息子が祭事を省いたり、墓地の管理をきちんと行なわず、不和が絶えなかった。99年に息子が「祭事をきちんと行なう」との誓約書を作成した後も、祭事などの義務を怠り、訴訟を起こした。


山島について、田豫の活躍 公孫淵と呉の連合後、魏の初戦から
明帝太和末西暦233年 公孫燕と呉孫権とが同盟を結んだことを知り、呉への出撃を中断する。

 山島で一つの単語です。「山の多い島」と訳します。三国志の中では、ほかに山島という言葉で地形を説明しているところがあります。諸山島と熟語になっています。山島でもって一単語だとわかります。以下、その個所を引用しておきます。
《魏晉南北朝》
《三國志》 [西晉] 265年-300年
《魏書二十六》
《田豫》
6:太和末,公孫淵以遼東叛,帝欲征之而難其人,中領軍楊曁舉豫應選。
7 :臣松之案:曁字休先,熒陽人,事見劉曄傳。子肇,晉荊州刺史山濤啟事稱肇有才能。肇子潭道元,次歆字公嗣,潭子彧字長文,次經字仲武,皆見潘岳集。乃使以本官督青州諸軍假節往討之。會吳賊遣使與淵相結,帝以賊衆多,又以渡海,詔使罷軍。度賊船垂還,歲晚風急,必畏漂浪,東隨無岸,當赴成山成山無藏船之處,輙便循海,案行地形,及諸山島徼截險要,列兵屯守。自入成山,登漢武之觀。賊還,果遇惡風,船皆觸沈沒,波蕩著,無所蒙竄,盡虜其衆。初,諸將皆笑於空地待賊,及賊破,競欲與謀求入海鉤取浪舡。懼窮虜死戰,皆不聽。初,以太守督青州,青州刺史程喜內懷不服,軍事之際,多相違錯。喜知帝寶愛明珠,乃密上:「雖有戰功而禁令寬弛,所得器仗珠金甚多,放散皆不納官。」由是功不見列。]
「太和末、公孫淵が反乱すると、曹叡は誰に鎮圧させるか迷った。中領軍の楊曁は田豫を推薦した。熒陽人は劉曄が傳える曁子肇を推薦した。晉の荊州刺史である山濤啟は陳述して曁子肇の才能を称賛した。そのほか潭道元、歆公嗣、彧長文、經仲武らが、みな潘岳が見える所に集まった。かくして、明帝は田豫を青洲諸軍の本監督とし、田豫に太守督のまま青州の諸軍を率いさせ、假節を与えて呉に向かわせた。しかし、呉賊が公孫淵と同盟したという情報が入った。明帝は呉の海軍の賊兵が多いこと、海へ逃亡してしまうことを懸念して、田豫に中止命令を下した。青洲に戻った田豫は、そこで賊船(呉の遼東から帰還する艦船)の航路を予測し、要害を押さえて待ち受けた。豫は賊船が還るとき、年末は風が強く必ず漂浪を恐れ、東側に岸がないのを見て沿岸に随行し、必ず成山にやってくるだろうと考えた。成山は船を停めておくところがなく、船が巡回するだけである。地形を考えると、山島の境はみな切り立っており敵の攻撃を防ぐのに好都合だった。ここに兵を駐屯させ、自らは成山に登って眺めて指揮をする。賊(呉軍)が戻ってくると、はたして悪風に遭遇して、みな山に触れて沈没し、波風が岸壁に打ち付けていた。隠れたり逃げる所がなく、多くの呉兵は、ことごとく捕虜となった。諸将は何もない空地で待つ作戦をはじめは嘲笑したが、田豫の予測通り賊船が流れ着いたことに驚いた。諸将は賊を追討しようと謀ったが、田豫は敵兵が死を賭して抵抗をすることを懸念し、諸将の求めを許さなかったが、諸将は田豫の命令を聞かなかった。
青州刺史の程喜は、軍事にさまざまな名利があり、帝が宝や明珠を好んでいることを知っており、密かに上奏した。
戦功はあっても軍令を緩めて珠金の器や儀仗など多くの財物を得たところをみな放散してしまい、それを官に納めなかったというのだ。程喜は田豫が戦利品を国庫に収めていないと讒言したため、田豫の功績は取り上げられなかった。程喜は青州勅使である。下位の太守督の田豫に軍権を奪われたことが不満であり、何度か対立したことから憎悪の感情を持っていた。官制と禄位とは今でいえば出世と金であろうか。主君に従順であっても争いは永遠になくならない。」(意訳)

*太和(たいわ)は、三国時代、魏の明帝曹叡の治世に行われた最初の元号。227年 - 233年。
この記録によれば明帝は、235年、237年毌丘倹、238年司馬懿の遼隧の戦いの前に(田)に公孫淵を討とうとした。呉の使者がきて公孫淵が燕王に封じられたのは太和末233年、にわかに諸将軍を招集し、田に指揮権を与えて軍事行動を起こしていたことが見て取れる。
*潘岳:漢籍の「潘岳-. 西征賦」に由来は中国の洞庭湖の西方,湖南省桃源県の西南の山中にある地名。湖南省桃源県の西南の山中にある地名。長江の支流、武漢より南。潘岳が定かではないが、遼東を攻撃するよりも、呉と戦うのに適した地である。




三国志地図】「青州(せいしゅう)」の郡県詳細地図(三国時代)
三国志地図】「青州(せいしゅう)」の郡県詳細地図(三国時代)


田豫が呉の艦隊を待ちうけた成山とはどこだろうか?

威海市天尽頭(成山頭)景勝地
そこは威海天尽頭(成山頭)であろう。威海市の県級市栄成成山衛に位置して、秦の始皇帝は「天の尽くす所」と呼び、この地に数回も行幸した。黄海と陸地の繋がる最東端で、中国では一番早く海の日の出を見える所といわれている。田豫は東側に岸がないのを見て沿岸を随行し、必ず成山にやってくるだろうと考え待ち伏せした。
当時の軍船は「楼船」という大型海洋帆船。孫権の楼船は7枚の帆を張り600人から700人の乗員を乗せていた。その艦隊の司令官を「楼船将軍」と言っていたが、呉の艦隊が何隻だったかは記録がない。


ここ威海市には9世紀中ごろ、張保皐(チャン・ボゴ)が寄進した赤山法花院があり、慈覚大師円仁が一時逗留し仏法を学んだ寺としても知られている。半島と一番近いということもあり、交易のため新羅の居留地(新羅坊)があった。『新唐書』巻220・新羅伝では、歓迎の宴の最中に閔哀王が殺されて国都が混乱していることを聞くや、張保皐が鄭年に兵5千を与えて「あなた(鄭年)でなくては、この禍難を収めることはできないだろう」といい、反乱者を討たせて新王に立てた。この新王によって張保皐は宰相に取り立てられたという。張保皐とは漢名であり、本名は弓福(又は弓巴)、日中韓の三角貿易を独占した。円仁は新羅商船で博多の鴻臚館に帰国、遺言で新羅明神を祭るよう弟子に伝えた。これが京都の赤山禅院であり、商売繁盛のご利益があるといい、商人の守護神となっている。当時の日本人にとっては張保皐が巨商、巨富と認識されていた。張保皐と取引すれば金持ちになれる。赤山明神が商売繁盛の御利益があるとされるのもうなずける話である。張保皐の船団が頻繁に日本を行き来した。日本の貴族は張保皐の船団が持ってくる新羅・唐・西域の物を好んだ。とくに茶と湯のみ茶碗(陶磁器)は禅僧・貴族が先を争って張保皐と取引し、利権をめぐり争うこともあった。当時、茶は高級品で儲けが大きかった。そのためだろう、茶の文化が育ち、茶の栽培もこのころから盛んになった。張保皐船団が交易を行った福岡(当時の筑前国)の太守・文屋宮田麻呂は退任後も本家がある京都に戻らず、同地に残り、張保皐と取引をしたほどだという。何であれ、張保皐(チャン・ボゴ)が日本との取引を重視していたことが大きい。828年は張保皐が清海鎮大使に任命された時でもあるが、莞㠀 (グワンド)にある青海鎮は中継貿易のために張保皐が作ったと考えらていれる。


海中について
海中とは海の中と訳すべきではありません。上中下の中の意味にとれば、海面の下になってしまいますからおかしいことに気づくはずです。島は海の中に浮かぶという日本語表現もあるので、ついつい中国語の意味をパスしてしまいます。中国語からは海中という熟語は、中国が海に囲まれていたと考えていました。したがって、中国の領土の中と訳したほうが適当です。中国の支配が及ぶ範囲を邦とすると、その内を海内、外を海外と云いました。日本でも、四海の内とは、すなわち国内の意味でした。
(文例;海内疫病流行して・日本書記)

《漢書》[新 - 東漢] 36年-111年[又名:《前漢》]
《志》
《郊祀志上》
《天文志》
131: 元封中,星孛于河戍。占曰:「南戍為越門,北戍為胡門。」其後漢兵擊拔朝鮮,以為樂浪、玄菟郡。朝鮮在海中,越之象也;居北方,胡之域也。

元封中(紀元前108年)、星孛(彗星)が戌の方向に通りすぎた。占が曰く:「南戍を越門,北戍を胡門と為した。」(占術の教条か?)其後、漢は兵を出撃して朝鮮を抜いた。こうして樂浪、玄菟郡を為し、朝鮮は海中にある。北方の胡の領域で起きた(彗星の出現は)卓越した現象である。
元封(げんぽう)は、中国、前漢代の元号。武帝の第6元。紀元前110年 - 紀元前105年。元封中は紀元前108年。
*海中は、中国の領土であると解する。朝鮮は半島であることから山島からなる倭地とは異なる地勢。朝鮮を海中、すなわち海の中にあると訳すには無理がある。

倭人在帶方東南大海之中,依山㠀爲國邑,舊百餘國,漢時有朝見者,今使譯所通三十國.<
「魏志倭人伝の「倭人在帯方東南太海之中」のイディオムは漢書地理志と対比してみることができます。
>《漢書》《志》《地理志》
《地理志下》
103 地理志下:
玄菟、樂浪,武帝時置,皆朝鮮、濊貉、句驪蠻夷。殷道衰,箕子去之朝鮮,教其民以禮義,田蠶織作。樂浪朝鮮民犯禁八條:相殺以當時償殺;相傷以穀償;相盜者男沒入為其家奴,女子為婢,欲自贖者,人五十萬。雖免為民,俗猶羞之,嫁取無所讎,是以其民終不相盜,無門戶之閉,婦人貞信不淫辟。其田民飲食以籩豆,都邑頗放效吏及內郡賈人,往往以杯器食。郡初取吏於遼東,吏見民無閉臧,及賈人往者,夜則為盜,俗稍益薄。今於犯禁浸多,至六十餘條。可貴哉,仁賢之化也!然東夷天性柔順,異於三方之外,故孔子悼道不行,設浮於海,欲居九夷,有以也夫!樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云。

漢の武帝が玄菟郡、楽浪郡を設置したとき、朝鮮、濊貊、句驪はみな蛮夷だった。殷の政道が衰えると箕氏は中国を去って朝鮮へいき、朝鮮の民に礼儀を教え、畑作・養蚕・織作をさせた。樂浪や朝鮮の民に犯禁の八条を作り、殺したものは、その時に、殺されて償い、傷つけたものは穀物で償い、盗んだ者は、家を没収し、男は奴となり、女子は婢とされた。自ら罪をあがなう者は五十万人。罪を免じられ奴婢から普通人になった者でも世俗はなおこれを差別し恥としていた。婚姻は結納や持参金などがない。その民はついに盗むことがなくなり、門戸を閉めることもなくなった。婦人は貞節で淫らなことをしない。
その人民は竹を編んだ籩(たかつき)や木をくり抜いた豆(たかつき)を使って飲食する。都市部では官吏や中国の郡の商人の影響を受けることが多く、しばしば杯器で食べる。郡は始め官吏を遼東で採用した。人民が藏を閉じないのを見た官吏や、朝鮮へ行った商人は、夜、盗みを行った。風俗はしだいに益がうすくなり、いま、犯罪や禁止事項はじわじわ増えて六十余条に至った。仁賢の人の感化はまさしく尊いのである。しかり、東夷の天性は柔順で、三方の外(西戎、北狄、南蛮)とは異なっていた。つまり、孔子が道の行われないのを悼み、海に筏を設けて九夷に住もうと望んだことには理由があるのである。楽浪の領域には倭人がいて、百余国を作り、季節ごとに献見に来たという。
*遼東で採用した官吏や商人が盗みを働いたとあり、彼らは東夷族ではなく北狄や中国系種族なのだろう。
*樂浪海中有倭人:楽浪(郡)の領土に倭人あり。・・・このように訳した方が適当です。

共立について
共立とはどういうことか、あんがい無視されている。なぜなら、日本の天皇制とは馴染まない制度だからである。天皇位は天孫の血筋をもって継承されるいわゆる男子一系といわれる制度だからである。
 共立するとは王を推戴するのに複数の諸加(臣)が投票して決めることである。共立王は諸国の部族長の満場一致で推戴される。全員の賛成でもって王になるのである。札には賛と否しかないので、全員の賛が得られるまで会議が続くことになる。
中国史書《魏志東夷伝》ではこれらの諸国の王(部族長)をどのように呼んだか参照してみよう。
『各有長帥、大者自名爲臣智、其次為邑借散在山海間無城郭』
「それぞれ長師がいて、部族長は自ら臣智と名のっており、その下は邑借と謂う。山や海の間に散らばって住み、邑を守る城壁のようなものはない。」
と記され、諸国の中で長師が最高位で、巨智は自称王あると認められる。
魏志韓伝(馬韓)では、渠帥があり、臣智、有險側、有樊濊、有殺奚、邑借と書かれ、国には四つの階級があったとする。一、王(大加)を代々輩出する部族、ニ、后を代々排出する部族、三、濊族の部族、四、被征服部族(荇人・北沃沮、盖馬/狗茶/東沃沮)などがあった。臣智は加とも称され、またそれぞれ畜名をもっていた。ちなみに高句麗では諸加のメンバーは、「傳薩」(ヨクサル)といい、涓奴加は羊加、絶奴加は馬加、順奴加は牛加、灌奴加は猪加(豚)、桂婁加は狗加(犬)と称していた。後に、部制になり、涓奴加は5世紀ごろには涓奴部と呼ばれるようになった。(スサノオは誰か?より。官の分職に部を使用するようになった。朝廷に仕える重鎮などは「部に列する」という。(分職命官、而統女王而して翰苑)や
三韓(馬韓、辰韓、弁韓)を統べる王は月支国の大王しかいなかった。そこで、光武帝のころ韓と斯の邑君が月支国の王だったことを考えあわせると、長帥は渠帥で大王を意味し、大者が臣智、王になるだろう。渠帥が大王、臣智が王である。
以下はすべて韓国の国名である。光武帝のころ56年、東夷の国々を一挙に王として封したときに服属した国々ということになるだろう。いずれも中国がつけた国名であり、それは魏志倭人伝の魏の通じるところ30か国も同様である。
馬韓には54国(『三国志魏書』馬韓伝)

已有爰襄國、牟水國、桑外國、小石索國、大石索國、優休牟涿國、臣濆沽國、伯濟國、速盧不斯國、日華國、古誕者國、古離國、怒藍國、月支國、咨離牟盧國、素謂乾國、古爰國、莫盧國、卑離國、占離卑國、臣釁國、支侵國、狗盧國、卑彌國、監奚卑離國、古蒲國、致利鞠國、冉路國、兒林國、駟盧國、内卑離國、感奚國、萬盧國、辟卑離國、臼斯烏旦國、一離國、不彌國、支半國、狗素國、捷盧國、牟盧卑離國、臣蘇塗國、莫盧國、古臘國、臨素半國、臣雲新國、如來卑離國、楚山塗卑離國、一難國、狗奚國、不雲國、不斯濆邪國、爰池國、乾馬國、楚離國
弁辰には12国

1.已柢国.2.不斯国・3.勤耆国・4.難彌離彌凍国(推封)5.冉奚国6.弁樂奴国7.軍彌国〈弁軍彌国〉8.如湛国9.戸路国10.州鮮国(馬延国)11.斯盧国12.優由国

*このうち、斯盧(サロ)国が後の新羅に発展する。『新羅は朝服は白を尊び、山神の祭りを好む。』と書かれている。

三、弁韓の12国・・・・、

1.弁辰接塗國 2.勤耆國3.弁辰古資彌凍國(古嵯国)、4.弁辰古淳是國(乞飡国)、5.弁辰半路國(卓淳国)、6.弁辰樂奴國、7.弁辰彌烏邪馬國(大伽耶国)、8.弁辰甘路國、9.弁辰狗邪國(金海キメ・金官加羅国)、10.弁辰走漕馬國(卒麻国)、11. 弁辰瀆盧國(釜山)、12.弁辰安邪国(安羅国)
百済では五方の方領の部族長からなる政治巌(チョンサム)会議
高句麗では五部族で構成する諸加(チュガ)会議
新羅では六部村長からなる和白(ウェベク)会議などがあった。会議を開いて大王を推戴するというのはいわゆる連邦制に近いのかもしれない。大王と言えども諸国の紛争、対外交渉など、租税法など内政は朝議にかける。ときに、王を廃位することもできる。それが朝議であり、朝廷の機能である。朝廷に参加できる臣は部族を代表するので大王(共立王)に従属するが、それぞれの領地では王であり、税収、軍事、賞罰などの権限をもっている。日本でいえば国司とか、荘園主のような感じだろうか。王権が強い、弱いというのは大王が自分の意志を実行できるときは王権が強い。大王が自分の意志が何一つ通らないときは弱いというこになる。朝廷に参画することを部に列するなどという。
この紀元前後の時代は長子の王位継承が制度化されておらず、王の兄弟が聡明であれば王位につくこともあった。このため立太子を廻る火種がつねに存在した。諸部族長が世継ぎ(太子)を家門から出すと王族になり、外戚政治が強勢になる。ゆえに妃を後宮入りさせることに熱心であった。后の姻族、弟などが兵部を掌握すると王は外戚の操り人形になりかねない。つねに謀反などの危険があった。とくに、幼少で王になったばあいなど、王后の実家の実力がないばあい、王には暗殺などの例が少なくない。王位はいつ簒奪されるか分からないことになる。
*外戚 皇帝の母方の一族。皇太后が幼少の皇帝に替わって摂政政治を行う垂簾(すいれん)政治の時、実質的な権力を掌握する。


日本のことは序文ですでに書かれていた!

陳寿は日本をどこから眺めたのか?
なぜ、日本が日の出に近い国なのか?---1)

なぜ、陳寿は日本に特に注目したのか?

なぜ、日本が女国なのか?
どうして、日本人は異面だったことを知ったのか?---2)

日本が地図上のどこにあったのか、すでに陳寿は知っていた。

答えはすべて『魏志倭人伝』の序文と東沃沮伝にありました。新現代語訳を解説とします。(2019/09/16)

1)魏志倭人伝 東夷傳:序文
「・・・而公孫淵仍父祖三世有遼東,天子為其絕域,委以海外之事,遂隔斷東夷,不得通於諸夏。景初中,大興師旅,誅淵,又潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡,而後海表謐然,東夷屈服。其後高句麗背叛,又遣偏師致討,窮追極遠,踰烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。長老說有異靣之人,近日之所出,遂周觀諸國,采其法俗,小大區別,各有名號,可得詳紀。雖夷狄之邦,而俎豆之象存。中國失禮,求之四夷,猶信。故撰次其國,列其同異,以接前史之所未備焉。

新現代語訳:
公孫淵が父祖から三代にわたり遼東にいたため、天子はそこを中華から遠く離れた地域となし、海外のことを(公孫氏に)委ねてしまった。こうして東夷の諸國(倭韓)と、通行ができなくなってしまった。景初中、大興師(司馬懿仲達)を遠征させ、公孫淵を誅殺した。(景初二年238年8月)また、それ以前に(238年春)密かに軍を海を渡らせて楽浪郡と帯方郡を制圧した。その後、海の表ははひっそりと静かになり、東夷は屈服し従属した。その後、高句麗が背いて叛乱を起こした。また、偏師(毌丘倹)は王頎をを派遣してこれを討伐した。(247年)(高句麗東川王を)追い詰めて遠く、極まるところまで追撃した。烏丸、骨都,沃沮を通り過ぎ、肅慎之庭(挹婁)を越えて、東に大海と接する地に行き着いた。そこの長老の説明によると、日の出る所の近い所に異面の人(入れ墨をした人)がいるという。ついにその諸国を巡って、その法俗を採録してみると、身分の大小の区別があり、それぞれ国名を持っている。夷狄の邦(大きな国)といえども、祭祀礼儀のことわりがある。中国はすでにその祭の儀礼を失ってしまったが、(孔子が)それを四夷に求めたことは、なお信じることができる。ゆえに、次に、その国を選んで、我が国と同じことやら違うことなど、前の正史が備えていなかったところに接(つ)ないで補うものとする。

*異面=黥面文身?異なった顔つき
*(孔子が)それを四夷に求めた=なぜ孔子なのか:
『漢書 卷二十八下 地理志第八下 燕地条』の「然東夷天性柔順 異於三方之外 故孔子悼道不行 設浮於海 欲居九夷 有以也夫 樂浪海中有倭人 分爲百餘國 以歳時來獻見云」で、これを書いたのは如淳は3世紀中頃の人物。
「しかるに東夷は天性柔順、三方の外に異る。故に孔子は道の行なわれざるを悼(お)しみ、浮(ふ)を海に設け、九夷に居らんと欲す。ゆえ有るかな。樂浪海中に倭人有り、分かれて百餘國と爲し、歳時を以って來たり獻見すと云う。」

2)濊傳:
正始六年,樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵以領東濊屬句麗,興師伐之,不耐侯等舉邑降。其八年,詣闕朝貢,詔更拜不耐濊王。居處雜在民間,四時詣郡朝謁。二郡有軍征賦調,供給役使,遇之如民。

「正始6年、楽浪太守劉茂と帯方太守弓遵は高句麗に属する領東の濊を興師(王頎)にこれを討たせた。不耐候は邑を挙げて投降した。闕(洛陽)に詣でて朝貢したので帝は詔書を発して不耐候を不耐濊王となした。不耐王に城郭はなく、民間の中に雑じって居た。帯方郡・楽浪郡に時に応じて詣でており、軍や賦調・使役の供給などを行い、郡の民のごとく遇した。」

*闕(けつ)中国で、宮門の両脇に設けた楼観(物見やぐら)。

3)魏志倭人伝 東沃沮傳:
「毌丘儉討句麗,句麗王宮奔沃沮,遂進師擊之。沃沮邑落皆破之,斬獲首虜三千餘級,宮奔北沃沮。北沃沮一名置溝婁,去南沃沮八百餘里,其俗南北皆同,與挹婁接。挹婁喜乘船寇鈔,北沃沮畏之,夏月恒在山巖深穴中為守備,冬月氷凍,船道不通,乃下居村落。王頎別遣追討宮,盡其東界。問其耆老「海東復有人不?」耆老言國人嘗乘船捕魚,遭風見吹數十日,東得一島,上有人,言語不相曉,其俗常以七月取童女沈海。又言有一國亦在海中,純女無男。又說得一布衣,從海中浮出,其身如中國人衣,其兩袖長三丈。又得一破船,隨波出在海岸邊,有一人項中復有面,生得之,與語不相通,不食而死。其域皆在沃沮東大海中。

以下新現代語訳:
「母丘儉(ぶきゅうけん)は高句麗を討った。高句麗王宮(東川王)は沃沮に遁走した。遂に進師(玄莬郡太守王頎)を進めてこれを撃った。沃沮の邑を皆破り、三千余の首を切った。宮は北沃沮に逃げた。北沃沮は溝婁(ばいろう)という別名があり、南沃沮から八百里ほど離れている。その風俗習慣は北沃沮も南沃沮も同じで挹婁と接している。挹婁(ゆうろう:魏以前の古名は肅慎しゅくしん)は船に乗って略奪することを好み、北沃沮はこれを恐れていた。夏には常に山の巌の穴の中にもぐって守備をし、冬の月は凍結するので船が通らないので下の村落に住んでいる。
母丘儉は王頎を別動隊として派遣し、宮(高句麗傳では位宮すなわち東川王(三国史記ではトンチョンワン)を、その東界の最も遠い所(日本海)まで追った。そこの耆老に、王頎は「海の東に、さらに人がいるのかどうか?」と問うた。耆老は言うのには、そこの(沃沮の)国人はかつて、船にのって漁をして数十日風に遭遇して東のある島に着いた。その島には人がいて言語は互いに分からなかった。そこでは常に七月に童女を海に投げ込む風習をもっていた。また、ある国が海中にあり、女ばかりで男がいなかった。海中から浮き出て、その身は中国人の衣服をきているようだった。その両袖は三丈もあった。また、破船が浜辺に漂着したが、首筋に面(入れ墨)がある人間が一人、生きていたが、言葉が互いに通じず、食をとらずにとうとう死んでしまった。その地域は沃沮の東の大海の中にある。」東川王は倭人伝では卑彌弓呼として現れる。倭人伝の景初2年以下陳寿の筆になるものではなく、宮中の書記の記録をまま転載したものであろう。皇帝の関する記述は一字一句改ざんしてはならないというのが史書が史書たる所以であるから。
*肅慎(しゅくしん),後漢・西晋時挹婁(ゆうろう),後魏以後勿吉國(もつきつ、拼音:Wùjí),高句麗の東北にあった本流の夫余国は北魏の時代まで存在し、太和18年(494年)に勿吉(靺鞨)に滅ぼされ高句麗に併合されて幕を閉じる。唐代靺鞨焉。靺鞨はという名称は一番新しい。16部族あり部族ごとに大人・酋長がいた。粟末靺鞨と7部族が連合して渤海國(渤海靺鞨大祚榮者698年)を建国、黑水靺鞨は女真族となり、1115年に遼から自立して金を建国した靺鞨は猛毒矢を用いる。また、人尿で手や顔を洗う」という風習も受け継いでおり、中国の史書では「諸夷で最も不潔」と評される。


東沃沮 折方千里を描く。長いほうの一辺は60km。方位角-8度にすると、ちょうど南北に一致する。
参照1:三國志 -> 魏書三十 -> 東沃沮傳
《東沃沮傳》
「東沃沮在高句麗蓋馬大山之東,濵大海而居。其地形東北狹,西南長,可千里」
参照2:《後漢書》《列傳》《東夷列傳
「東沃沮在高句驪蓋馬大山之東,東濱大海;北與挹婁、夫餘,南與濊貊接。其地東西夾,南北長,可折方千里。」


沃沮からみて、はじめて日の出の方向にある国が日本だと言えるのですね。日出る国の語源としては、これが初見ではないでしょうか?
954km、北朝鮮のミサイルの弾道距離ではありません。ですが、ジョークでもありません。ここで、いわゆる逆さ地図をご覧ください。なぜか違和感と不安感が入り混じるのは私だけでしょうか?アジア大陸から日本を見るというのは、ひょっとするとこういう地図が意識を拡張してくれるのではないでしょうか。


 公孫氏が倭に侵攻したのが204年です。204年~238年までおよそ30年間、倭は公孫康(こうそんこう)に統治されていたのです。わたしは【吉野ヶ里】が総都督府であったと考えます。その後釜が卑彌呼なのです。)あらたな外来種が弥生人を捕虜とし、奴隷にしたのです。弥生文化は一挙に崩落しました。

これは鍛造鉄器で武装された外部集団に敗れたという一大事件があったことを表出しています。
吉野ヶ里周辺遺跡からは鉄製素環頭太刀が出土しています。男性と葬られていました。
環頭装飾が施されたものは西域から高句麗にかけて多く、外来品であり一般には古墳時代のものと考えられています。

東京国立博物館蔵

大方の歴史家は倭が侵略されたことを見逃しているのではないでしょうか?銅剣については刃さえあれば中広でも武器としての使用に十分耐えると言われています。しかし、鉄の剣には敵いません。銅剣の大量隠蔽は公孫軍による武装解除だったと私は考えるようになりました。青銅器文化が滅ぼされたのです。山口県下関市土井が浜遺跡ミュージアム館内に展示されている「英雄の死の謎」は、「殺傷人骨」ですが、なんと、矢がささったまま発掘されています。弥生時代の殺傷では武器区分で分けて見ると刀剣による殺傷が 47%と約半数を占め、次いで弓矢が 31% の割合です。吉野ヶ里でも甕棺から首のない人骨や殺傷人骨が出土しています。方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)には弥生式土器よりもその後の古墳時代の土器が質が劣化していますが、その土器の編年におよそ100年のブランクがあります。およそ100年の文明衰退後、新文明が幕あけしたのです。国家起源は大和王朝史から歴史を見すぎていると見えてこないでしょう。
銅矛は柄がなく、銅鐸の付属物です。銅剣は刃があれば武器として使用できます。荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)島根県出雲市斐川町神庭の銅矛16本はその形態や北部九州産の青銅器に見られる綾杉状のとぎ分けがあることから、16本とも北部九州で製作されたものとみられていますが、銅剣のあたかも墓場のように入れ子になったり、互い違いに並べられており、整然と埋められていました。


公孫の武将たちが砦(都護)「を築いたとしたとしたら吉野ヶ里(伊都国)がそのうちの一つです。吉野ヶ里の南内郭には突出部(馬面・角楼)に物見櫓跡があり、有明海に向かった南方向を威圧するかのように4基立てられています。また、2つの入り口の主要通路は屈曲し、見通しがきかないように防御構造にして、敵が環濠の内部に入りにくくしています。北内郭も同じ機能と性格をもち、中国式の城柵であることは明らかです。これらの施設は公孫式の築城形式でしょう。公孫氏の襄平城の遺跡は女真族に奪われ、以来、どれが襄平城史跡であるか不明です。しかし、遼陽市にあったことを推定すると南を太子河が巾着のように取り囲んでいます。堀(水路)を防御壁としてめぐらしているのです。周囲に石積城壁(ウォール)をめぐらした痕跡はありません。邑に水堀をめぐらせた場合に環濠と書き、空堀をめぐらせた場合に環壕と書いて区別しますが、あきらかに環濠形式の城なのです。それが中国の中原の城とは異なるのです。こうしたわけで、わたしは吉野ヶ里の北郭の外形は襄平城のミニ版(模倣)だったと推測しています。


吉野ヶ里の土塁(城柵)が中国式であることについての専門家の説、
「有明海北岸地域では、中国城郭の城壁や入り口に付属する突出部(馬面・角楼)のように、環壕を外側へ突出させた部分をもつ環壕集落跡が集中しているが、他の地域では見られない。佐賀平野(吉野ケ里遺跡など11遺跡16環壕)、久留米市、八女市、日田市に、中国の城郭構造が反映されたと考えられる環壕集落が分布している。ただし、突出部の内側に物見櫓を設けたのは吉野ケ里遺跡のみです。」iRONNA(七田忠昭2018/09/24より抜粋)


吉野ヶ里と神崎地方の集落をはじめとして、北九州一帯が公孫軍に占領されたのです。公孫は帯方で倭韓攻略の兵を徴発しました。簡単にいえば、軍の内訳は公孫の士官と帯方にいた尉仇台夫餘の兵だと推測できます。卑彌呼は238年公孫氏滅亡のあと、その後釜((あとがま)になっただけということです。同時に、帯方郡の実勢力は、公孫軍から仇台扶余軍にシフトしたというわけです。
公孫氏が滅亡する一年前に、明帝が帯方太守、楽浪太守の二軍ともなって海を渡って派兵しています。邑国の王に金印紫綬を与えるなど、制詔(せいしゅう)したうえで公孫康が分割した帯方地域を後漢・魏の郡として存続させることを決定したのです。ですから、公孫淵の誅殺以前に二郡は平定されているのです。倭韓は後漢の遼東太守公孫氏の支配体制から魏の支配体制を受け入れた流れを読むのです。中国の東夷政策が入れ替わっただけということです。これを契機に倭韓は曹魏の支配下に入ったのです。また、韓国の諸王に印綬をあたえ侯王にしました。238年、景初2年に卑弥呼が明帝から「金印紫綬」を受けたことは倭人伝に書かれていますが、公孫軍の捕虜を献上したのでとびきり豪華な答品を賜りました。韓傳によれば帯方や韓の周辺の諸侯王への印綬綬拝も卑弥呼が徐される以前から、たくさん行われていたのです。{「参照文献:本章「奉について」。魏も直轄支配するほど力はなかったのです。そこで、卑弥呼は公孫氏が領有した地域である倭韓を引き続き統治占有したということになります。魏が女王卑彌呼を封じ、卑弥呼は倭韓を封じていたという関係になります。曹魏は卑弥呼を倭韓を孫受けさせていたのですね。そして、卑弥呼を女王に共立した国が倭国であって、邪馬壹国ではないということも言えるのです。倭国、女王国、邪馬壹国はロケーションが違うばかりか、その支配被支配の関係があります。洛陽>帯方郡治>倭国>女王国>伊都国ほか並び邪馬壹国ほか諸国)「となります。ここは後で嫌というほど詳述します。

「女王国」は【固有名詞】

 『魏略』は日出所國を「女国」としています。「女国}は魏志倭人伝では「女王国」と表記します。つまり、女国=女王国です。女国には”Queen”という意味は全くありません。これとパラレルに考えると、女王國というのは単なるネーミングで、「女王が支配する国」という定義付けは意味を失うということです。
魏略が女王とだけ書くところは、女国とは定義を異にします。「女王」と「女国」いうことばを、厳格に区別しなければならないのです。同様に、魏志倭人伝でも、「女王」と「女王国」とを厳格に区別する必要があります。魏志倭人伝では、①「女王之所都」、➁「不属女王」、③「此女王境界処尽盡」、④「詣女王」、⑤「去女王四千余里→女王国の転記間違い」、⑥「倭女王遣・・・」、⑦「詔書報"倭女王",曰:」、⑧「倭女王卑彌呼」など、八か所出現します。⑤を除いてこの女王は倭国に対応しています。女王國ではありません。⑤は察するに女王でなく女王国の脱字です。女王と女王国は同じではなく、また邪馬壹国とも違います。女王と女王国とをどう区別し定義するのか、が問題です。この女王二文字はロケーションでは倭国です。女王卑彌呼がいるのは倭国ですから女王は倭国にいるのです。倭国のロケーションは、地図でみると帯方よりも東の朝鮮半島のつけ根の東部、日本海に近い所になります。蓋馬高原の南になります。他方、女王国については、固有名詞であって一国の国名です。邪馬壹国のことではありません。邪馬壹国は女王国の北にあるのですから間違えないようにしてください。「女王国は邪馬壹国のことです。」といって恥じることなく、どうどうと邪馬壹国論を展開するセミプロの方がいらっしゃいます。また女王国は邪馬壹国を首都にした連合国である、とお茶ををにごす論者もいけません。それにしても「邪馬壹国の卑弥呼」というキャッチコピーを使う諸説書本が多いのには驚きを禁じえません。


女王:8回→7回
女王国:5回→6回
郡:3回 (帯方郡、郡使など複合語としては9回)
倭國:3回
倭王:5回
倭女王:3回
倭人:1回
倭水人:一回
倭:一回
倭地:一回
倭種:一回
親魏倭王:二回
倭錦、倭載斯、倭大夫:一回
奴国、伊都国:2回
邪馬台国その他:一回

狗奴國:二回
  狗奴国1:其南有狗奴國,男子為王,其官有狗古智卑狗,
  狗奴国2:狗奴國男王卑彌弓呼
女王の二文字と女王国をあいまいにしておいて解釈をすすめることはできないのです。また、キーワードとして、女王が一番多いのです。邪馬台国という一か国は周辺国から絞り込まなければ見えてこないのです。

维基文库 魏略輯本 (逸本)
作者:魚豢 三國
輯者:張鵬一

女王は固有名詞です。
さて、その根拠をあげてみます。
①南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
②奴國此女王境界所盡
③其官有狗古智卑狗不屬女王
いずれも魏志倭人伝から抜粋。
女王の二文字での魏志での用例は3カ所で、いずれも人称代名詞とみなすことができます。
女王はすなわち卑彌呼です。
奴國此女王境界所盡は「奴国はこの女王卑彌呼の境界がつきるところである。」
後漢書では、「倭奴国は倭国の極南界なり」とします。
すなわち卑弥呼のいる場所は奴国から北に遠く離れていることになります。もちろん船行していきつく先になります。〔郡使倭國皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯 女王国に駐在する)郡使が倭国(帯方郡)に使いをだすとき、皆(王・大率・郡使ほか)全員で波止場に出向いて、奏上書や献上品を点検し、詣でた際に女王との間にくいちがいがないようにする。〕
波止場はどこにあったのでしょう。もうお分かりのように船は女王国の波止場から出たのです。すると、九州の東北海岸になります。詳しくは後にします。

A)女王=倭国

B)伊都国=伊都国王がいる、公孫氏の砦。

C)女王国=郡の使者=帯方太守が派遣した郡使が往来し治める所

ロケーションの関係
帯方郡治所と伊都国は12000里離れている。
伊都国から女王国は西から東に1800里離れている。
帯方郡治所と女王国の総距離は13800里である。

女王と女王国がべつべつの地域にあるわけですから、魏略と対比すると「女王之南又狗奴国・・・」、となるのがナチュナルです。すなわち、「其の南・・・」は帯方の南と同義とはなりません。すなわち、女王、このばあいは、「女王の為政地」、あるいは、「女王の居る所」と解釈します。魏志倭人伝を対照すると、つまるところ「卑弥呼のいる所」に置き換えることがでたわけです。「卑弥呼のいる所」、これは帯方郡治所とは異なる場所であることは当然です。なぜなら、郡とは倭国が詣でるという関係で上位の太守がいるところだからです。参照:「景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡」・・・景初二年六月倭女王は大夫難升米とうを郡に詣でさせた」ここでは、郡と倭国の立ち位置は違うということが押させることが重要です。また、女王は朝鮮半島の曹魏の太守弓遵と近くにあり、その従属国になります。一方、女王国は九州の東にあるということが見えてきます。

統屬について
丗有王皆統屬女王國郡使往來常所駐
統屬=支配国は女王国です。三十国の王は皆女王にまとめて属している、と訳すのです。
郡使が常駐しているところは女王国となる重要な一節です。伊都国王が支配しているという説がときどき見受けられます。中国語の配列を見てみましょう。中国語は文字の配列によって意味が逆になりますから厳格にみるひつようがあります。
その1、「南道西行,且志國、小宛國、精絕國、樓蘭國皆並屬鄯善也。」
「南道を西に行列している且志國、小宛國、精絕國、樓蘭國はみな鄯善に並属している」 このように、訳すのが適切なのです。
その2、「中道西行尉梨國、危須國、山王國皆並屬焉耆,姑墨國、溫宿國、尉頭國皆並屬龜茲也。」
中道を西に並んでいる尉梨國、危須國、山王國は皆、焉耆に並屬している。姑墨國、溫宿國、尉頭國は皆、龜茲(クチャ)に並属している」
【統属】〘名〙 一定の統制の下に属すること。所属すること。
その1、その2の配列構造は属の後ろが支配国です。B+C+D+∞並属+支配国A
このように最後列Aが支配国です。

■帯方郡治所と女王国は12000餘里離れていることについて

以下の三文節を対照して、証明してみます。
一、『魏志倭人伝』:   「自至女王國萬二千餘里」
二、 『魏略』(逸文):  「自帯方至女國万二千余里」
三、 『御覧魏志』:    「自帯方至女国万二千余里」

一、の郡に対応するのは魏略では帯方、御覧魏志でも帯方です。魏志倭人伝の郡が帯方であることに疑問はありません

狗奴国は卑弥呼のいるところの南

この女王という言葉がキーとなり、さらに、Greatな結果がでます。狗奴国は女王の居る所の南という結論が得られます。すなわち狗奴国から見て女王は真北。帯方郡は東北方向、帯方大海中の倭地は郡からは東南です。この方位差はけっこう大きいと見なければなりません。以下、魏略と魏志を対照してみます。

一、魏略(逸文)「女王之南又有狗奴國女男子為王其官曰狗右智卑狗不属女王也」: 訳;女王のいる所の南にまた狗奴国があり、男子を以て王となしている。その官名は狗右智卑狗といい、女王には属していない。女王は曹魏に属しています。直接的には帯方太守弓遵でした。ですから、
狗奴国王は楽浪・帯方郡には抵抗していたことになります。
*女男の女は以の原書の転写間違い。・・・訂正後;「狗奴国以男子為王」

二、魏志:「南有狗奴國男子王為其官有狗古智卑狗不属女王」 :訳;女王のいる所の南に狗奴国があり、男子を王と為し、狗古智卑狗といい、官名をもっていて、女王には属していない。
 要約すると卑弥呼のいた所は狗奴国の北のライン上にあったので、狗奴国のポイントが分かれば卑弥呼がいた所の倭国のポイントも判明します。狗奴国は現在のソウル市に比定しますので、その北方は東沃沮、現在の北朝鮮の元山市北60km周辺と推定できます。詳しくは里程論をご覧ください。

用語の定義:

*女国=女王国

*女王=卑弥呼=倭女王〔親魏倭王卑彌呼〕==倭国...参照例:〔国乱相攻伐暦年王名曰卑弥呼/正始元年・・・倭国拝假〕
魏志倭人伝のなかに、女王国は五か所、女王の二字だけは三か所つかわれています。この定義をしっかりと踏まえておきましょう。魏略は日出処=倭地を「女国」としています。魏志倭人伝は「女国}を「女王国」と置き換えていると見ることができます。
魏略が女王とだけ書くところは、場所に置き換えると卑弥呼のいる所になります。

幻の倭国がとうとう姿を現した。


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女國(じょこく)はどこか?

古墳時代前期は鉄器部族の国家形態が成立してきた過渡期です。新王朝は、弥生人を蝦夷(えみし)と呼んで蔑視しました。4~6世紀、蝦夷征討とは奴隷狩りだった様相が垣間見られます。勢力をそぐために部族は分散移住させらました。大古墳の造営には労働集約が必要です。蝦夷(えみし)が奴婢に落とされ苦役を課せられて造営されたのです。弥生時代の文化は3世紀末に断絶したと考えられる痕跡が山鹿市の方保田東原遺跡(かとうだひがしばるいせき)にあります。そうした痕跡からは倭が公孫軍から、侵略されたことは事実でしょう。私は九州の人口が1/2に減ってしまったと推測しています。なんと、女しかいない国になっていたようなのです。

魏志倭人伝には、大人なら皆、4,5人、下戸でも2、3人の婦人をもっていたとあります。これは馬の一群れと同じ構成ですが、男女の人口比からみると、やはり女性が多かったことは否定できませんね。


(女しかいない国の参考文献;三国志魏書三十烏丸鮮卑東夷伝 東夷伝 東沃沮:「一つの国が有ります。亦やはり海中に在り、女だけで男はいません。」(母丘儉(ぶきゅうけん)第一次高句麗討伐と同年王頎の伝聞・西暦244年の伝承)

倭国はどこか?

《宋書》
《卷五本紀第五 文帝》
53倭國高驪東南大海中,世修貢職。高祖永初二年(421年),詔曰:「倭贊萬里修貢,遠誠宜甄,可賜除授。」太祖元嘉二年(425年),贊又遣司馬曹達奉表獻方物。贊死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍倭國王。表求除正,詔除安東將軍倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。二十年(444年),倭國王濟遣使奉獻,復以為安東將軍倭國王。二十八年(452年),加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故并除所上二十三人軍、郡。濟死,世子興遣使貢獻。世祖大明六年 (462年),詔曰:「倭王世子興,奕世載忠,作籓外海,稟化寧境,恭修貢職。新嗣邊業,宜授爵號,可安東將軍倭國王。」興死,弟武立,自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍倭國王。
以下、私訳。
倭国は高句麗の東南大海中にあり、代々貢職を修めている。高祖(武帝・劉裕)永初二年(421年)、皇帝は次のように詔した。「倭賛は萬里の貢献を修め、その深遠な誠はよろしく判別できるによって、徐授を賜うべし。」太祖(文帝・劉義隆)元嘉二年(425年)に司馬曹達は賛を奉賀朝貢に遣わした。賛が死に、弟に珍が即位し、遣使貢献してきた。珍は「使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍倭國王」を自称して、上表し徐正(進号)を求めてきた。皇帝は詔して、安東將軍倭國王と徐授した。珍は又倭隋等十三人、平西征虜冠軍、輔國將軍などの号の除正を求めたので、並びに聞き入れて除正した。文帝20年(444年)倭国王済が遣使し奉賀朝獻してきた。済を安東將軍倭國王に戻した。文帝28年(452年)文帝は倭国王済を使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍と徐正し、軍、郡の二十三人の授正を以前のように併せて詔した。濟が死に、太子興が遣使を出して貢獻してきた。世祖(孝武帝劉駿)大明六年 (462年)皇帝は詔をだした。「倭王太子興は、代々忠実に朝獻し,籓を外海に作り,天意に従い国境を寧(やす)んじ,うやうやしく貢職を修め。新たに辺業を継ぐ,爵号を安東將軍倭國王に授正するのにふさわしい。」興が死んで、弟の武が即位した。「使持節都督,倭,百濟,新羅,任那,加羅,秦韓慕韓七國,諸軍事,安東大將軍倭國王」を自称して上表してきた。

*奕世:累世,代代の意。
*司馬:中国、周の六卿の一。夏官の長で、官制・祭祀( さいし)・軍事をつかさどった。前漢には大司馬と称し、三公の一。司馬は元々軍事をつかさどる官職のことである。司馬曹達という人物は不明であるが、中国の官吏であるとみる。

★「倭国は高句麗の東南大海中にあり。代々貢職を修める。・・・」南宋は倭国を日本の地にあるとは思っていなかった。なぜなら、王が代わるごとに貢献していた国は島嶼倭地には見当たらないのです。日本史を見ても直接遣使を出したのは遣隋使しかないのです。日本書紀にも、3から4世紀の対外交流は朝鮮半島国家にしかありません。
ここで東南の大海とは日本海のことに違いありません。もし、楽浪海(黄海)に面した遼東方面にあるなら、西南になるはずです。”高驪”の二字は”高句麗”、さらに、これを”北の狗奴国Ⅰ”に置き換えることができます。こうして「倭国は高句麗の東南大海中にあり。」の意味がやっと納得ができます。意外にも倭国は朝鮮半島の日本海側、すわわち東沃沮、今の咸鏡南道(ハムギョンナムド) にあったのです。@2020/07/13公開
(左のメニュータグ・里程論の後半に詳述)


咸鏡南道(ハムギョンナムド) 金野郡 - 금야군【金野郡】Kŭmya-gun (クミャ=グン)かつては永興郡(えいこうぐん/ヨンフンぐん)と呼ばれた。幻の倭国がとうとう姿を現した。
高句麗は方二千里(辺120km)(魏書 高句麗傳より)ですが、2000里の四方形の対角線は、√2a=2828里、その半分は1414里(85km)になります。一番内側の円周になります
赤の直線の実測値は204kmです。ピンクのラインは丸都城を起点に東南方位角+8度(当時の磁方位偏角)方位143度に、距離を204kmに取っています。3400里に相当します。
1)高句麗の東南国境まで、3400-1414里=1986里、およそ120kmあります。
2)東沃沮の領域、《後漢書》《列傳》《東夷列傳》「東沃沮在高句驪蓋馬大山之東,東濱大海;北與挹婁、夫餘,南與濊貊接。其地東西夾,南北長,可折方千里。」、折方は長方形と解せるが、長いほうの一辺1000里を領域とする。
3)貊布、魚、塩、海産物は千里をかついで高句麗に届けられた。担ぐということは山道を経由したと考えられます。単単山越えの距離およそ2000里(120km)。
1)2)3)の合計は3414里となる。
わたしはこれを東夷に適用できる一里の単位を0.06kmと解析済みですのでkmに換算しますと3414里204.8kmとなります。

*正四角形の一辺aとすると対角線は√2a= 1.41421356a
参考:周書 卷四十九 列傳第四十一》房玄齢編 628年完「高句麗,・・・西渡遼水二千里,南接百濟,北鄰靺鞨千餘里」一部引用=、高句麗からは西に遼河(太子河の下流)まで2000里です。(多賀城碑:去靺鞨界三千里 大和朝廷の標準里はそうとう長く、中国と同じ度のようです。0.415km)

 この地図のURL


倭国(女王)、狗奴国Ⅱ、帯方郡治、楽浪郡治の関係図*北は方位角-8度(左回転・当時の磁方位偏角)
魏志倭人伝:「其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」
其の字の主格は女王です。そこで狗奴国Ⅱと女王倭国は北の線上にあるということになります。こうして狗奴国が分かれば女王のいる倭国もわかるのです。倭国が公孫氏、および高句麗と交戦したことは地理的にも可能であったのです。
女王卑彌呼は倭国にいたのであって、邪馬壹国ではないことは、三国志魏書四斎王紀の一行でも分かる。
「冬十二月,倭國女王俾彌呼遣使奉獻。」がその文字列だが、この年は正始四年である。魏志倭人伝では正始八年に「以て死す」と書かれる。したがって、正始四年に卑弥呼が遣使ををしたことに疑問はない。魏志倭人伝では「正始4年(243年)、倭王は復(ふたた)び大夫伊聲耆、掖邪狗ら八名を遣わし洛陽に詣でさせ、生口(高句麗の捕虜)、を献上し、倭錦絳靑、縑緜衣帛布、丹木のゆみつかを持つ短弓と矢を壹拝(とはい)した。掖邪狗らは率善中郎將に徐され印綬を与えられた。」とある。したがって齊王紀の「冬十二月,倭國女王俾彌呼遣使奉獻。」と重なる。下記に齊王紀の七年まで掲載したのは、冬12月が間違いなく正始四年だということを確認してもらいたいからだ。

漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 魏書四 -> 齊王紀
齊王紀:
三年春正月,東平王徽薨。三月,太尉滿寵薨。秋七月甲申,南安郡地震。乙酉,以領軍將軍蔣濟為太尉。冬十二月,魏郡地震。
10 打開字典顯示相似段落 齊王紀:
四年春正月,帝加元服,賜羣臣各有差。夏四月乙卯,立皇后甄氏,大赦。五月朔,日有蝕之,旣。秋七月,詔祀故大司馬曹真、曹休、征南大將軍夏侯尚、太常桓階、司空陳羣、太傅鍾繇、車騎將軍張郃、左將軍徐晃、前將軍張遼、右將軍樂進、太尉華歆、司徒王朗、驃騎將軍曹洪、征西將軍夏侯淵、後將軍朱靈、文聘、執金吾臧霸、破虜將軍李典、立義將軍龐德、武猛校尉典韋於太祖廟庭。冬十二月,倭國女王俾彌呼遣使奉獻。
11 打開字典顯示相似段落 齊王紀:
五年春二月,詔大將軍曹爽率衆征蜀。夏四月朔,日有蝕之。五月癸巳,講尚書經通,使太常以太牢祠孔子於辟雍,以顏淵配;賜太傳、大將軍及侍講者各有差。丙午,大將軍曹爽引軍還。秋八月,秦王詢薨。九月,鮮卑內附,置遼東屬國,立昌黎縣以居之。冬十一月癸卯,詔祀故尚書令荀攸於太祖廟庭。臣松之以為故魏氏配饗不及荀彧,蓋以其末年異議,又位非魏臣故也。至於升程昱而遺郭嘉,先鍾繇而後荀攸,則未詳厥趣也。徐佗謀逆而許褚心動,忠誠之至遠同於日磾,且潼關之危,非褚不濟,褚之功烈有過典韋,今祀韋而不及褚,文所未達也。己酉,復秦國為京兆郡。十二月,司空崔林薨。
12 打開字典 齊王紀:
六年春二月丁卯,南安郡地震。丙子,以驃騎將軍趙儼為司空;夏六月,儼薨。八月丁卯,以太常高柔為司空。癸巳,以左光祿大夫劉放為驃騎將軍,右光祿大夫孫資為衞將軍。冬十一月,祫祭太祖廟,始祀前所論佐命臣二十一人。十二月辛亥,詔故司徒王朗所作易傳,令學者得以課試。乙亥,詔曰:「明日大會羣臣,其令太傅乘輿上殿。」
13 打開字典 齊王紀:
七年春二月,幽州刺史毌丘儉討高句驪,夏五月,討濊貊,皆破之。韓那奚等數十國各率種落降。秋八月戊申,詔曰:「屬到巿觀見所斥賣官奴婢,年皆七十,或𤸇疾殘病,所謂天民之窮者也。且官以其力竭而復鬻之,進退無謂,其悉遣為良民。若有不能自存者,郡縣振給之。」臣松之案:帝初即位,有詔「官奴婢六十以上免為良人」。旣有此詔,則宜遂為永制。七八年間,而復貨年七十者,且七十奴婢及𤸇疾殘病,並非可售之物,而鬻之於巿,此皆事之難解。
正始七年春二月(236年)、幽州刺史であった毌丘儉は高句驪を討った。夏五月には濊貊を皆撃破した。韓の那奚国ほか數十國の各率種(恩率など高官)らは投降した。秋八月戊申、斎王は市の類に行き、その様子を見て奴婢を売り買いする役人を叱った。奴婢は皆七十歳ぐらいに見えて病気をやんでいる。いわゆる生まれながらの困窮者である。役人らは必死になって文句を言うこともできず、役人らの進退は言うまでもないだろう。その遺民らは悉く良民となし、もし一人では生きていけない者には郡県が生活を助けることにする。臣松の注「公の奴婢で60歳以上は身分を免じて良民となす」という詔は永久の制度となっていたはずなのに、再び七十の奴婢と病人らを市で売ることができないという命令は市の商売をすることが難解になった。」・・・(高句麗討伐で濊族と貊族の捕虜となったもの、また百姓などが連行されてきたのだろう。)



倭人の国邑100余国は前漢時代には楽浪郡に属していた。(すでに倭國と混同している真相)

*帯方郡は204年〜313年の109年間存在した。帯方郡を公孫康が創設前するは楽浪郡が倭地を支配していた。「楽浪海中有倭人」
《史書》
《漢書》
[新 - 東漢] 36年-111年
《志》
《地理志》
[又名:《前漢書》]
《地理志下》:
玄菟、樂浪,武帝時置,皆朝鮮、濊貉、句驪蠻夷。殷道衰,箕子去之朝鮮,教其民以禮義,田蠶織作。樂浪朝鮮民犯禁八條:相殺以當時償殺;相傷以穀償;相盜者男沒入為其家奴,女子為婢,欲自贖者,人五十萬。雖免為民,俗猶羞之,嫁取無所讎,是以其民終不相盜,無門戶之閉,婦人貞信不淫辟。其田民飲食以籩豆,都邑頗放效吏及內郡賈人,往往以杯器食。郡初取吏於遼東,吏見民無閉臧,及賈人往者,夜則為盜,俗稍益薄。今於犯禁浸多,至六十餘條。可貴哉,仁賢之化也!然東夷天性柔順,異於三方之外,故孔子悼道不行,設浮於海,欲居九夷,有以也夫!樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云。
*三方;西蛮、南夷、北伐


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『漢書』 卷二十八下地理志第八下燕地の条 幽州屬
後漢の「班固」が明帝に任ぜじられ、漢の高祖から王莽に至る前漢の史実を撰録したもの。十二帝紀、八表、十志、七
十列伝からなる。班固は61歳で獄死するが、八表、天文志を補うため、後を受けた妹の班昭(はんしょう)、ついで
任命された馬続(ばしょく)が完成した。後、唐代に「顔師古」等が註を附記した。「前漢書」とも云う。
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樂浪海中有倭人、分爲百餘國、以歳時來獻見云。
楽浪の海中に倭人あり。分かれて百餘国をなし、歳時をもって来たり獻見すと云う。
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■この文章は、後の各史書の冒頭に引用されるほど影響を及ばしている。後漢書、三國志、晉書、宋書、南齊書、北史、
隋書に引用されているが、「歳時をもって来たり獻見す」の事実が確認できるのは、後漢の初代光武帝の建武中元二年
(57)に、倭の奴国が入貢して光武帝から金印を授かったとの記事が「後漢書・東夷傳」に見えるのが初見である。
「倭奴國奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭國之極南界也。光武賜以印綬。」
■「歳時をもって来たり獻見」していたのは尉仇台の半島倭國だろう。倭人の国邑、列島100余国と混同している。
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『漢書』 卷二十八下地理志第八下燕地の条 幽州屬
 如淳著

顔師古の注:
【如淳曰  :「如墨委面、在帶方東南萬里。」
 臣[王贊]曰:「倭是國名、不謂用墨、故謂之委也。」
 師古曰  :「如淳云『如墨委面』、蓋音委字耳、此音非也。倭音一戈反、今猶有倭國。魏略云『倭在帶方東南大海
中、依山島爲國、度海千里、復有國、皆倭種。』」
呉と魏の初戦、田豫の活躍 如墨委面は倭人のこと。国名ではない。したがって、倭國とした顔師古の注には重要な誤認がある。
*顔師古(がん しこ、581年 - 645年)は、中国・初唐の学者で、本貫は、琅邪郡臨沂県(山東省臨沂市)で、『漢書』100巻の注釈をつけた学者。


『三國史記』卷十七 高句麗本紀 第十五 第六代太祖大王  「四年(56年)秋七月、東沃沮を討伐して、その旧領を接収して、城邑とした。(直轄地とした)これによって高句麗の領土が拡大し、東は蒼海(日本海)、南は薩水(清川江)にまでおよんだ。 西暦55年には玄莬郡を制圧し、高句麗は東沃沮を自国の領土とした。

漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 魏書三十 -> 東沃沮傳

《東沃沮傳》「国は小さく、大国の間に押し詰まっているので、ついに高句麗に臣属した。高句麗はその中に大人を置き、使者(高句麗の下級官名)となして統治させた。また大加(高句麗の貴族・部族長)に租税を取り立てさせ、貊布、魚、塩、海産物は千里をかついで高句麗に届けられた。また沃沮の美女を送って召使いにしたが、奴隷のように扱っていた。」「里程論」のタグから抜粋
*古代朝鮮人は貊族、濊族、韓族の三大部族で形成されていたと考えられていました。東沃沮は貊(ペク)族だったことが貊布の文字から分かります。貊族は北扶余、東扶余、卒本扶余に分裂していましたが、おおむね新興の高句麗に統一されていったのです。ここで高句麗の朱蒙が育った東扶余が東沃沮にあったということはあまり理解されていません。また、玄菟郡太守は華麗城におり、118年のころ太守は姚光(ようこう)だったと《後漢書》列伝巻85東夷列伝高句麗に記されています。東扶余と第一次玄菟郡は近い距離だったと思われ、玄菟郡の治所は嶺東の華麗県・華麗城にあった。

『三國史記』「東川王十九年(245年) 春三月 東海人獻美女 王納之後宮 冬十月 出師侵新羅北邊
東海人が美女を献じてきた。王は後宮にいれた。
美女を献上していたことは魏書でも書かれています。以下魏書三十》《濊傳》正始6年の条。


烏丸鮮卑東夷傳第三十 
漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 魏書三十 -> 韓伝〔韓傳〕

桓靈之末,韓濊彊盛,郡縣不能制,民多流入韓國。建安中,公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡,遣公孫模、張敞等收集遺民,興兵伐韓濊,舊民稍出,是後倭韓遂屬帶方。景初中,明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣、越海定二郡,諸韓國臣智加賜邑君印綬,

「桓帝と霊帝の末(後漢末期)には韓、濊(わい)が強勢になり、郡や県は支配することができず、住民の多くが韓国に流入した。(後漢最後の献帝の)建安年間(196~219)に公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為した。公孫康(こうそんこう)は公孫模(ぼ)や張敞(ちょうしょう)等を派遣して遺民を集めて兵を興し、韓や濊を伐ったので、元の旧民(阿残=楽浪国人)がわずかながら、少しずつ出てきた。この後、倭(嶺東夫餘)と韓はついに帯方郡に属した。景初中に、明帝は密かに帯方太守・劉昕と楽浪太守・鮮于嗣を派遣し、海を越え二郡を定めた。諸韓国の王には邑君の印綬を与えた。」

やがて公孫康が帯方郡を新設すると、扶余の遺民を集合して侵入し、東沃沮(嶺東)に「阿扶余」という新国家を作った。さらに王は尉仇台は遼東の*小水に国をつくった。倭の五王の太祖である。公孫度は宗女を妻としたが、この宗女こそ倭国女王卑弥呼としか考えられない。公孫氏滅亡の同年に魏への遣使を果すことができたのはなぜだろうか。そこをつっこむと、謎が解ける。
*小水とは 《魏書三十》《高句麗傳》[西安平縣北有小水,南流入海,句麗別種依小水作國,因名之為小水貊,出好弓,所謂貊弓是也。] 南に流れる河は遼水。遼東の西安平縣の北に小水という地域があった。句麗の別種とは中国の用語であり、扶余王と尉仇台系の夫餘のことです。


三国志魏書東夷伝 扶余。
夫餘はもと玄菟に属す。漢末、公孫度海東に雄を張り、外夷威服し、夫餘王尉仇台さらに遼東に属す。句麗・鮮卑強なる時、夫餘二慮の間にあるを以って、度、宗女を以って妻となす。

扶余は昔、玄菟郡(漢)に属していたが、その後高句麗に従属していた。公孫度が濊と韓を討伐して東の海に進出すると、扶余は公孫に属した。さらに領地を遼東の西部にも広げた。高麗や鮮卑が強力な時、高句麗と鳥桓(鮮卑)の間に位置して不安なため、公孫度は宗女を尉仇台に与えて婿とした。ひとつ、「阿扶余」という新国家が誕生した。「阿」という冠をつけた扶余である。異端の夫餘とも扶余の別種とも云われる。

《魏書三十》《夫餘傳》
3 打開字典顯示相似段落 夫餘傳:
夫餘本屬玄菟。漢末(118年),公孫度雄張海東,威服外夷,夫餘王尉仇台更屬遼東。時句麗、鮮卑彊,度以夫餘在二虜之間,妻以宗女。尉仇台死,簡位居立。無適子,有孽子麻余。位居死,諸加共立麻余。牛加兄子名位居,為大使,輕財善施,國人附之,歲歲遣使詣京都貢獻。正始中,幽州刺史毌丘儉討句麗,
 夫餘はもともと玄莬郡に属していた。(しかし、西暦55年以降、高句麗に領有されていたが)、公孫度が海東に雄を張り、外夷を威服した。扶余王尉仇台は(東沃沮)に国を作ったが、さらに遼東に属することになった。特に句麗(高句麗)や鮮卑の強国にはさまれていたので宗女をもって尉仇台の妻とした。宗女が卑弥呼であることは疑いない。尉仇台の後嗣子简位居が立ったが黄幢を受け取った前後に早世してしまい、简位居に男子がなく、無知無能の弟麻余が王になり、牛加の位居を大使として国政を佐治していた。ところが卑彌呼の死後、諸加が麻余を共立したが、牛加の位居の叔父が謀反を起こした。国人は位居についた。これが正始8年の相誅殺しあった内乱です。誅殺の二文字は殺す相手がはっきりした戦いです。牛加は高句麗では消奴加、代々王を出す松譲王系の宗族です。尉仇台は夫餘の太祖ですが、麻余が殺されると直系の男子は絶えてしまいます。壹與が简位居の子女の可能性は残りますが、夫餘の男系王位、依羅(壹與13歳にたいして依羅8歳)・次の依盧は傍系宗族になったといえます。これが後の男王ですが代々貢献を絶やさなかったと伝え、倭の五王に繋がることになるのです。*麻余が庶子であったとの過去の解説は撤回します。

『三國史記』卷十七 高句麗本紀 第五 「十一年 遣使如魏 賀改年號 是景初元年也」237年、使者を派遣し、魏の年号が改まったことを祝賀朝獻した。このときが景初元年である。237年明帝が年号を景初に改元したさいには、高句麗は朝賀貢献に奉じています。景初二年高句麗は司馬懿に二千の兵を助軍しています。高句麗が魏に反旗をひるがえすのはこの5年後となります。実は、倭国は正始元年の改元のときに奉賀貢献しています。
『魏志倭人伝』正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉,詔書印綬詣倭國拝假,倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡釆物倭王因使上表荅謝詔恩(魏志倭人伝・新訳)
正始元(240)年、(帯方)太守弓遵(きゅうじゅん)は建忠校尉梯儁(ていしゅん)らを改元朝賀の儀に奉賀朝貢させた。(魏帝曹芳は)詣でた倭国に詔書と印綬を拝假し、倭王に併せて金帛錦、罽刀、鏡、釆物などの詔賜を齎(もたら)した。よって倭王は(倭国から)使者を出し上表をもって詔恩に答謝した。梯儁(ていしゅん)は中国皇帝にから建忠校尉という称号の明帝の臣です。上位が属国である「倭国に詣でる」というイディオムは成立しません。また、奉は奉賀朝獻の略です。いままでの学説?が根本的に誤訳をしています。なんと梯儁(ていしゅん)が日本に来たという曲解のもとに邪馬壹国論を展開しているのですからすべて空論となります。


《魏書三十》《濊傳》:
正始六年,樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵以嶺東濊屬句麗,興師伐之,不耐侯等舉邑降。其八年,詣闕朝貢,詔更拜不耐濊王。居處雜在民間,四時詣郡朝謁。二郡有軍征賦調,供給役使,遇之如民。


正始6年(245年)樂浪太守劉茂と帶方太守弓遵は嶺東と濊が句麗に属しているので興師(毌丘倹)を以てこれを征討した。不耐王らは邑をあげて投降した。正始8年、不耐王は洛陽に朝貢し、詔を受け、不耐濊王に序された。城壁はなく、不耐濊王は邑の民の間に雑居している。一年に4回季節ごとに洛陽に詣でて謁見する。楽浪郡と帯方郡は嶺東と濊において軍を整え、税や物産を徴収し、役人を供して民のように待遇した。

★245年春には楽浪郡と帯方郡は東沃沮を制圧し軍政を敷いています。その前年まで東沃沮は高句麗に属し、その同じ245年正始6年に卑弥呼が帶方太守弓遵の政治下にあったことが明確なのですから、卑弥呼がいた場所は嶺東に違いありません。嶺東七県は「東傥,不而,蠶台,華麗,邪頭昧,前莫,夫租。」21世紀になっても、日本の学説とやらは、「邪馬壹国の女王卑弥呼」のイディオムから離れていません。卑弥呼は倭国の女王であって、邪馬壹国の女王ではありません。「女王之所都」の都は”みやこ”とは違います。「都(ど)は都鄙(とひ)の略語です。君主が王族や貴族に与える地方の直轄地です。邪馬壹国は卑弥呼の直轄地の一つにすぎなかったのです。卑弥呼は邪馬壹国にはいなかったのです。倭国と女王国、邪馬壹国を一つにまるめて、定義しない学説?は実は、「そうとう漢文の語学力レベルが低い」のです。

女王国は「おんなのおうこく」

四、 《後漢書》
[南北朝] 420年-445年
《列傳》 《東夷列傳》
18 打開字典顯示相似段落 東夷列傳:
「又有北沃沮,一名置溝婁,去南沃沮八百餘里。其俗皆與南同。界南接挹婁。挹婁人憙乘船寇抄,北沃沮畏之,每夏輒臧於巖穴,至冬船道不通,乃下居邑落。其耆老言,嘗於海中得一布衣,其形如中人衣,而兩袖長三丈。又於岸際見一人乘破船,頂中復有面,與語不通,不食而死。又說海中有女國,無男人。或傳其國有神井闚之輒生子云。」
「また北沃沮がある。一名、置溝婁ともいう。南沃沮と800里離れている。その俗は皆南沃沮と同じである。境は南に挹婁に接している。挹婁人は夜明けに船で襲って略奪行為する。北沃沮はこれを恐れ、毎年夏にはいつでも岩穴に隠れ、冬になると船が通れなくなるので、ようやく下の村に住む。その老人が言うのには、かつて海中にある衣を拾い上げた。その衣服は中人の衣で、しこうして両袖が三丈もあった。また海岸に難破船があり一人の男が乗っていた。うなじや体にかけて入れ墨があり、言葉が通じず、食べないので死んだ。また、老人が説明するには、海中に女國があり、男の人がいない。あるいは、その国には神がいて、井戸をのぞくとたちまち子供が生まれると伝えられる。」

魏略と御覧魏志、後漢書が女國と記し、女王國とは記していないのは何故なのか、あまり争点にならないのが気にかかります。

どうして、『魏略』と『御覧魏志』は「女國」と記したのでしょうか?

第一に考えられるのは委の文字の略体ということだ。委が倭の元字であり、委國が女國となった。女しかいない国の参考文献;三国志魏書三十烏丸鮮卑東夷伝 東夷伝 東沃沮:「また、ある国が海中にあり、女ばかりで男がいなかった。」(母丘儉(ぶきゅうけん)第一次高句麗討伐と同年王頎の伝聞・西暦244年の伝承、日本を女國と記録したのはこの資料を引いているのです魏略逸文」とは翰苑(かんえん)に収録された引用です。翰苑は唐の時代に張楚金によって書かれた類書です。
『翰苑』巻30の逸文に、女国の記述があります。
「自帯方至女國万二千余里 其俗男子皆黥而文 聞其旧語 自謂太伯之後 昔夏后小康之子 封於会稽 断髪文身 以避蛟龍之害 今倭人亦文身 以厭水害也」とあり、三国志魏書倭人伝とは違いがあるのです。 
三国志魏書三十烏丸鮮卑東夷伝 東夷伝 東沃沮
「王頎別遣追討宮,盡其東界。問其耆老「海東復有人不」?耆老言國人嘗乘船捕魚,遭風見吹數十日,東得一島,上有人,言語不相曉,其俗常以七月取童女沈海。又言有一國亦在海中,純女無男。又說得一布衣,從海中浮出,其身如中國人衣,其兩袖長三丈。又得一破船,隨波出在海岸邊,有一人項中復有面,生得之,與語不相通,不食而死。其域皆在沃沮東大海中。」
以下自前の訳文:
「王頎を別動隊として派遣し、位宮(東川王)を、その東界の最も遠い所(日本海)まで追った。そこの耆老に、王頎は「海の東に、さらに人がいるのかどうか?」と問うた。耆老は言うのには、そこの(沃沮の)国人はかつて、船にのって漁をして数十日風に遭遇して東のある島に着いた。その島には人がいて言語は互いに分からなかった。そこでは常に七月に童女を海に投げ込む風習をもっていた。また、ある国が海中にあり、女ばかりで男がいなかった。海中から浮き出て、その身は中国人の衣服をきているようだった。その両袖は三丈もあった。また、破船が浜辺に漂着したが、首筋に面(入れ墨)がある人間が一人、生きていたが、言葉が互いに通じず、食をとらずにとうとう死んでしまった。その地域は沃沮の東の大海の中にある。」...この位宮(東川王)が卑彌弓呼だった。

女国は「日の出る所にある諸国」と東夷伝序文ですでに書かれていた!

陳寿は日本をどこから描写していたのか?
なぜ、日本が日の出に近い国なのか?---1)

なぜ、陳寿は日本に特に注目したのか?

なぜ、日本が女国なのか?
どうして、日本人は異面だったことを知ったのか?---2)

答えはすべて『魏志倭人伝』の序文と東沃沮伝にありました。新現代語訳を解説とします。(2019/09/16)

1)魏志倭人伝 東夷傳:序文
「・・・而公孫淵仍父祖三世有遼東,天子為其絕域,委以海外之事,遂隔斷東夷,不得通於諸夏。景初中,大興師旅,誅淵,又潛軍浮海,收樂浪、帶方之郡,而後海表謐然,東夷屈服。其後高句麗背叛,又遣偏師致討,窮追極遠,踰烏丸、骨都,過沃沮,踐肅慎之庭,東臨大海。長老說有異靣之人,近日之所出,遂周觀諸國,采其法俗,小大區別,各有名號,可得詳紀。雖夷狄之邦,而俎豆之象存。中國失,求之四夷,猶信。故撰次其國,列其同異,以接前史之所未備焉。

新現代語訳:
公孫淵が父祖から三代にわたり遼東にいたため、天子はそこを中華から遠く切り離れた地域となし、海外のことを(公孫氏に)委ねてしまった。こうして夏王朝の後裔諸國(日本)と、通行ができなくなってしまった。景初中、大興師(司馬懿仲達;しばいちゅうたつ)を遠征させ、公孫淵を誅殺した。また、密かに軍を海を渡らせて楽浪郡と帯方郡を制圧した。その後、海の表ははひっそりと静かになり、東夷は屈服し従属した。その後、高句麗が背いて叛乱を起こした。また、偏師(毌丘倹;ぶきゅうけん)を派遣してこれを討伐した。(高句麗東川王を)追い詰めて遠く、極まるところまで追撃した。烏丸、骨都,沃沮を通り過ぎ、肅慎之庭(しゅくしん)を越えて、東に大海と接する地に行き着いた。そこの長老の説明によると、日の出る所の近い所に異面の人がいるという。ついにその諸国を巡って、その法俗を採録してみると、身分の大小の区別があり、それぞれ国名を持っている。夷狄の邦(大きな国)といえども、*俎豆という祭器を使う祭礼のことわりがある。中国はすでにその祭の儀礼(周禮)を失ってしまったが、(孔子が)それを四夷に求めたことは、なおさら信じることができる。ゆえに、次に、その国を選んで、我が国と同じことやら違うことなど、前の正史が備えていなかったところに接ないで補うものとする。
日本列島の倭人が黥面文身をしているとは一カ所もなかったことになります。
あきらかに文身黥面をしていたのは呉越の民です。
*俎豆(そとう):昔の中国の祭器の名。俎と豆。俎はいけにえの肉をのせるまないた、豆は菜を盛るたかつき。転じて、礼法。
上記の序文では周禮を指すだろう。陳寿は蜀に仕えたが、蜀が滅亡後もしばらく仕官できなかった。しばらくして、司馬炎に才能を買われて晋に仕えた。呉が滅亡したのは280年だが、成立したのはそれ以後だとされる。陳寿は297年死去。晋に忖度してのことだろうか、魏略(評点本)にある「聞其旧語自謂太伯後」の主格は「其俗男子皆黥而文」で、ここに其字をいれてしまったミスをしている。その点、魏志倭人では、しっかりと其の字を省いている。魏志で訳せば、黥面文身しているのは会稽の倭族なのです。したがって、太伯の後というのは、会稽の黥面している倭族の言語が呉の古い発音だったということなのです。(あなた、九州倭人と混同していませんでしたか?大国主といえば出雲としか連想しない固定観念(ステロタイプ)と似て、洗脳解除(undo the mind control)することがなかなか難しいようです。)さて、魏志倭人伝の完成するとき、晋がまだ呉と戦っていましたから、呉の始祖である太伯の文字が削られ、そのかわりに、その使いが中国にもうでるとき大夫と自称している、に変更されてるのですね。さて、『史記』周本紀)では、古公の孫の昌に瑞祥があり、親の季歴に世を継がせたいと欲した。長子の太伯と次子の虞中の二人は荊蛮に逃れて文身断髪をし、季歷に位を譲ったという経緯を孔子は、これが父の気持ちをくんだ徳とし、美談として記したのです。古公はおよそ紀元前1200年ごろの人物、古公の二代後の文王が生年・紀元前1152年ー1056年とされています。

*四夷:東夷、東夷、北狄、西戎、南蛮と呼び、「四夷」あるいは「夷狄」と総称した。人種や民族に固有されるわけではない。異民族であっても朝廷を制すれば中華人である。実際、周、秦、隋、唐、元、清は漢民族ではない。漢民族の王朝は漢、宋、明しかない。
女王の居た所はどこか?

 女王卑彌呼は咸興市(ハムンし、ハムフンし)は(함흥시) 咸鏡南道の道都のやや北側にいた。

投馬国はどこか?
 倭地、いわゆる武帝のころ最大領地だった楽浪郡の領内にあった大小の島々(山島)のことである。

<自女王>南至投馬國水行二十日,官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
<自女王>南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月,官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸
水行十日がはっきりしない以上女王の南線上にあることだけが証拠である。
では、早速エヴィデンスベーシックの手法でヴィジュアル化してみよう。
女王南のライン


女王国から女王までの北のラインで奴国東の交点に適合するの日出、または豊後大野市である。中津方面、宇佐に近い豊後大野が人口が多い。
したがって、大きな豊後大野、宇佐を邪馬台国、投馬国は中津市と比定する。


中国で失った
が日本に残っていることが信じられるということについて、

禮とは、礼の旧字だが、字源では祭事の意味である。
会意形声。「示」+音符「豊(「豐」(元来からの文字)」。「豊」は「壴(鼓)」に形よく供え物をならべた様。形よく整えられた祭礼を意味する。そすると、中国はすでにその祭の儀礼を失ってしまったが、(孔子が)それを四夷に求めたことは、なおさら信じることができる。中国では絶えてしまった「形よく整えられた儀式」、すなわち周道が日本に残っているというのが信じられるといっているのです。会稽編であった禹祭のことを思い出してください。こいのぼり、ひな祭り、たなばた祭り、きつねの嫁入りなどは中国の祭の残滓ではないでしょうか。なんと4000年前の風習ですよ。江南倭族が日本人の原像をつくっているということは『古代中国と倭族』鳥越憲三郎が多くの資料を載せています。



上の禮の金文を見てください。小篆のつくりは豊です。その豆にあたる部分の比較をしてみてください。
豊の構図の豆は植物の”まめ”ではなく、金文を見れば、供物をのせる器です。邪馬壹国は倭人伝では邪馬國で、壱の旧字としかみないようですが、邪馬壹國の壹にも豆が下つき文字になっています。結局、壹とは供物をのせる行事用の台とか器の意味だったのです。数字の壱という意味にとると誤訳になるのですね。土器でつくった器なら、衝重(ついがさね)といい、これが木製であれば盆卓(ぼんたく)、もしくは盆台といったイメージです。下図は中国では豆(トウ)と呼ばれた青銅器です。豆(とぅ)とは、植物のまめではなかったのです。

は、ふたつきの豆(とう)ということ。数詞の一ではない。
では、この意味での邪馬壹國を邪馬臺(台)に変えたのは後漢書の范曄ということになるのですね。


豆[dou]〘名〙 中国古銅器の一つ。食物を盛る器で脚の付いた高坏(たかつき)形のもの。また、木、竹、土、玉で造られた、これと同形の器もいう。※延喜式(927)二〇「釈奠十一座〈略〉豆十、韮、醯醢、菁、鹿醢、芹、醢、笋、魚醢、脾折、豚」 〔詩経‐大雅・生民〕
上記の十の供え物:韮(ニラ)、醯醢(酢であえた塩魚)、菁(すずな・カブの一種)、鹿醢(鹿肉の塩づけ)、芹(セリ)、醢(肉の塩辛)、笋(タケノコ)、魚醢(魚の塩漬け)、脾折(骨つき雞鳥?)、豚(ブタ肉)
豆とは、中国古代に用いられた脚付き,ふた付きの食器。黒灰色の土器で,竜山文化以降盛んにつくられ,のちに青銅製もつくられた。日本の高坏 (たかつき) にあたり,中国では礼器として使用された。
(世界大百科事典内の豆の言及)
【青銅器】より
…しかし罍(らい)とか大型化した壺(こ)があるところから,酒を使う行事が廃れたわけではなく,青銅器で使られるものが少なくなったというべきである。一方,飯を盛るはちの類で,簋(き)を隅丸長方形にした形の盨(しゆ),低い方錐形の器に同形の蓋をかぶせた形の簠(ほ)が現れ,鬲(かなえ)の比率が増し,つまみ類を盛る高杯(たかつき)、豆(とう)も青銅製のものが多く作られるようになる。食物関係の青銅器が充実してきたといえよう。…
*罍(らい):古代中国で用いられた青銅製の壺

魏志倭人伝の正始四年の条の壹拝(とはい)について

其四年倭王復遣使大夫伊聲耆掖邪狗等八人上獻生口倭錦絳靑 縑緜衣帛布丹木𤝔短弓矢掖邪狗等壹拝率善中郎將印綬
正訳:正始4年(243年)、倭王は復(ふたた)び大夫伊聲耆、掖邪狗ら八名を遣わし洛陽に詣でさせ、生口(高句麗の捕虜)、を献上し、倭錦絳靑、縑緜衣帛布、丹木のゆみつかを持つ短弓と矢を壹拝(とはい)した。掖邪狗らは率善中郎將に徐され印綬を与えられた。(新訳)

*論点:1:魏帝曹芳元服奉賀朝貢であろう。z
*ここでの生口は高句麗軍との戦闘で奪った虜(捕虜)です。口はもともと羊を数える量詞。
⇒[𤝔]は弣〔ユヅカ・ゆみつか〕の誤字。⇒左手で弓を握る部分で通常、皮などを巻く。
短弓は匈奴・鮮卑など戎狄(じゅうてき)が使う武器です。短弓は西域、モンゴル、女真・扶余が使うΣ型をした弓で、主に馬上から放ちます。倭人が使う弓ではありません。よって短弓は対高句麗戦での戦利品とみる視点が重要で、倭国は高句麗と戦える距離にあった国です。

[𤝔]はタブレットのブラウザでは文字化けしている場合があります。
[𤝔]=

*論点:2:壹拝は一拝と訳すのは誤訳。
壹拝(とはい)とは高坏(たかつき)に供え物を載せて献上すること。[アプローチ編に詳細]
ここでは、なんらかの容器に体裁を整えて献じたということ。
正始4年(243年)、倭王は復(ふたた)び大夫伊聲耆、掖邪狗ら八名を遣わし洛陽に詣でさせ、生口(高句麗の捕虜)、を献上し、倭錦絳靑、縑緜衣帛布、丹木のゆみつかを持つ短弓と矢を壹拝(とはい)した。掖邪狗らは率善中郎將に徐され印綬を与えられた。以上は私訳ですが、壹拝(とはい)とは貢献品をなんらかの装飾容器にのせて捧げたと解釈します。


壹が正しく、臺はまったく違う文字、訓読みは「やまとこく」です。
の古書体(下)


   (A)
一番左の説文解字での書体には右の壹のなかに口が入っています。

上図はくちの文字の旧書体です。注目しべきことは、左から2番目の小篆の書体では上横棒を縦棒が上に突き抜けています。例えれば角のように見えています。
(A)の文字には口の象形がしっかりと入っているのです。
つぎは、どのように略されていったのかを見てみましょう。



古書体(下)後漢書では邪馬臺國ですが、この「臺」 ですが、吉の下に室の組み合わせですが、のちに台という略体になります。高い建物という意味です。



《説文解字》
[東漢] 100年-121年 許慎著
《卷三》
《卷十一》
《壺部》
6606 壺部:㚃:壹㚃也
壹は㚃也とありますよね。古田武彦が『「邪馬壹国」はなかったー解読された倭人伝の謎ー』の中で、金石文字の壹と壹は似ていないことを指摘しています。そもそも、壹㚃也とあるように壹は壺部の文字と同意だったようですね。
維基 -> 隸辨 -> 卷一 -> 檢索 "㚃"
說文㚃字注云㚃壹㚃也引易天地壹㚃今 易作絪縕則㚃與縕同壹為
この注には㚃は壹の略体字としかいっていません。ほかの古辞書でも異体字としか説明されていませんが、説文解字ではつぼ部になっています。


井上よしふみは、「草書体で解く,邪馬壹国への道程」という本をで、『「壹」は「臺」の誤り』としています。その根拠は江戸時代の松下見林が著書『異稱日本傳第一冊』に「南至邪馬壹国の壹は字は臺の字の誤りである」と記しているというのです。井上氏は魏志倭人伝のほかの漢文では「一」が用いられ、合計九カ所あり、壹が用いられのは3カ所であるとして、壹が一の借字だとすると、一を用いないのは草書殺字が酷似している臺の誤りではないかというわけです。
ここで、壹が臺の草書体が酷似していることによる転記の際の誤記だとみなしています。なお、壹の文字は陳寿だけで、後漢書や梁書などは臺を用いているではないか・・・とだめ押しします。
まず、「壹」が「一」でないこと、これは上記ですでに解説しました。また、わたしは後漢書の范曄が臺にかえてしまったのだと確信してます。です。その後の史書は尚古主義にのっとって後漢書を援用しているにすぎません。改ざんした犯人は後漢書の范曄というわけです。後節、『後漢書はおわらいの傑作』に。
そこで、さらに草書体が本当に酷似しているのか鑑定してみることにします。

 漢典サイト                    ||

上を比較してみると壹と臺の草書の文字が酷似しているとは言えません。ご自身の目でご覧ください。
井上よしふみが酷似しているという図、同書より引用転載。

ちなみに、井上先生は書道家でいらっしゃいます。ご自身が書かれたのだろうと推察します。たしかに酷似しています。わたしには、これだけ見せられたとしたら、どちらも何の字なのか判読できません。いえることはあまりないのですが、草書体は紙が普及してからの書体だと思われます。筆の動きが滑らかに、また強弱やかすれなどの表現が可能となりました。さらに、芸術性が文字に加わり、時代を経てさまざまな流派が生まれたのではないでしょうか。上記はあくまでも日本の書道の例なのです。范曄がはじめから草書で記したということはないでしょう。篆書体をそうとう略したといえますが、いわゆる書体としての草書であった可能性は低いのです。
【高杯∥高坏】より
…平城宮出土の土師器(はじき)の高杯には,〈高坏〉〈高盤(たかさら)〉と墨書したものがある。中国では古く,高杯形の木製品を〈豆(とう)〉,竹製品を〈籩(へん)〉と呼んだ。ただし中国考古学では土器や青銅器の高杯も豆と称する。…

飛躍しますが豊国(とよくに)は祭祀王国であるニュアンスがでてまいりますね。豊は豆の上に供物をのせている象形です。これで禮という文字の本当の意味がわかります。漢字は表音文字ではないということが本質的です。絵文字が変化して今日の文字になっています。いわばシンボルが文字になっているのです。”やまいちこく”と読もうが、”やまたいこく”と読もうが、日本での読み方ですから、どうでもいいのですが”、わたしは”やまとこく”と呼んだ方がよりよいと考えます。だだ、やたら”大和朝廷のヤマト”につなげるのは間違いです。まさに日本中華思想の論者の曲解です。{*つぶやき:尊敬してやまない宮崎康平先生は表音主義でしたね。”ごめんなさい”」という気持ちでいっぱいです。
さて、古田武彦が述べたように壹と臺の古書体がどう違っているのか見てみましょう。


左が台、右が壹、『「邪馬壹国」はなかった』古田武彦著 朝日文庫より。


臺と台の篆書ももともと違っていた。


そうですね、イメージの違いというより、根本的に象形のポイント(視点)が違いますね。
後漢書において臺の字は初出なんですよ。ですから、壹と臺にしたのは後漢書の范曄か、あるいは後世の誤筆なのでしょうね。
豆がまめでないことの用例:
《漢書》[新 - 東漢] 36年-111年 [又名:《前漢》]
《志》
《地理志》
《地理志下》
地理志下:
燕地,尾、箕分野也。武王定殷,封召公於燕,其後三十六世與六國俱稱王。東有漁陽、右北平、遼西,遼東,西有上谷、代郡、雁門,南得涿郡之易、容城、范陽、北新城、故安、涿縣、良鄉、新昌,及勃海之安次,皆燕分也。樂浪、玄菟,亦宜屬焉。
100 打開字典顯示相似段落 地理志下:
燕稱王十世,秦欲滅六國,燕王太子丹遣勇士荊軻西刺秦王,不成而誅,秦遂舉兵滅燕。
101 打開字典顯示相似段落 地理志下:
薊,南通齊、趙,勃、碣之間一都會也。初太子丹賓養勇士,不愛後宮美女,民化以為俗,至今猶然。賓客相過,以婦侍宿,嫁取之夕,男女無別,反以為榮。後稍頗止,然終未改。其俗愚悍少慮,輕薄無威,亦有所長,敢於急人,燕丹遺風也。
102 打開字典顯示相似段落 地理志下:
上谷至遼東,地廣民希,數被胡寇,俗與趙、代相類,有魚鹽棗栗之饒。北隙烏丸、夫餘,東賈真番之利。
103 打開字典顯示相似段落 地理志下:
玄菟、樂浪,武帝時置,皆朝鮮、濊貉、句驪蠻夷。殷道衰,箕子去之朝鮮,教其民以禮義,田蠶織作。
樂浪朝鮮民犯禁八條:相殺以當時償殺;相傷以穀償;相盜者男沒入為其家奴,女子為婢,欲自贖者,人五十萬。雖免為民,俗猶羞之,嫁取無所讎,是以其民終不相盜,無門戶之閉,婦人貞信不淫辟。其田民飲食以
籩豆,都邑頗放效吏及內郡賈人,往往以杯器食。郡初取吏於遼東,吏見民無閉臧,及賈人往者,夜則為盜,俗稍益薄。今於犯禁浸多,至六十餘條。可貴哉,仁賢之化也!然東夷天性柔順,異於三方之外,故孔子悼道不行,設浮於海,欲居九夷,有以也夫!樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云。
104 打開字典 地理志下:
自危四度至斗六度,謂之析木之次,燕之分也。


籩:(へん)たかつき。祭祀のときに食べ物を盛る竹製の容器。
籩豆:同上。
俎豆について 俎と豆。俎はいけにえの肉をのせるまないた、豆は菜を盛るたかつき。転じて、礼法。
日之所出(東夷傳序文):遂周觀諸國,采其法俗,小大區別,各有名號,可得詳紀。雖夷狄之邦,而俎豆之象存。中國失禮,求之四夷,猶信。故撰次其國,列其同異,以接前史之所未備焉。
豆とは、中国古代に用いられた脚付き,ふた付きの食器。黒灰色の土器で,竜山文化以降盛んにつくられ,のちに青銅製もつくられた。日本の高坏 (たかつき) にあたり,中国では礼器として使用された。
壹は、ふたつきの豆(とう)ということ。数詞の一ではない。


異面=委面=倭面=黥面文身(入れ墨をした人=倭人)}

2)魏志倭人伝 東沃沮傳:
「毌丘儉討句麗,句麗王宮奔沃沮,遂進師擊之。沃沮邑落皆破之,斬獲首虜三千餘級,宮奔北沃沮。北沃沮一名置溝婁,去南沃沮八百餘里,其俗南北皆同,與挹婁接。挹婁喜乘船寇鈔,北沃沮畏之,夏月恒在山巖深穴中為守備,冬月氷凍,船道不通,乃下居村落。王頎別遣追討宮,盡其東界。問其耆老「海東復有人不?」耆老言國人嘗乘船捕魚,遭風見吹數十日,東得一島,上有人,言語不相曉,其俗常以七月取童女沈海。又言有一國亦在海中,純女無男。又說得一布衣,從海中浮出,其身如中國人衣,其兩袖長三丈。又得一破船,隨波出在海岸邊,有一人項中復有面,生得之,與語不相通,不食而死。其域皆在沃沮東大海中。

以下新現代語訳:
「母丘儉(ぶきゅうけん)は高句麗を討った。高句麗王宮(東川王)は沃沮に遁走した。遂に師(王頎)を進めてこれを撃った。沃沮(よくそ)の邑を皆破り、三千余の首を切った。宮(位宮)は北沃沮に逃げた。北沃沮は溝婁という別名があり、南沃沮から八百里ほど離れている。その風俗習慣は北沃沮も南沃沮も同じで挹婁(ゆうろう)と接している。挹婁は船に乗って強奪することを好み、北沃沮はこれを恐れていた。夏には常に山の巌の穴の中にもぐって守備をし、冬の月は凍結するので船が通らないので下の村落に住んでいる。
母丘儉は王頎を別動隊として派遣し、宮(東川王)を、その東界の最も遠い所(日本海)まで追った。そこの耆老に、王頎は「海の東に、さらに人がいるのかどうか?」と問うた。耆老は言うのには、そこの(沃沮の)国人はかつて、船にのって漁をして数十日風に遭遇して東のある島に着いた。その島には人がいて言語は互いに分からなかった。そこでは常に七月に童女を海に投げ込む風習をもっていた。また、ある国が海中にあり、女ばかりで男がいなかった。海中から浮き出て、その身は中国人の衣服をきているようだった。その両袖は三丈もあった。また、破船が浜辺に漂着したが、首筋に面(入れ墨)がある人間が一人、生きていたが、言葉が互いに通じず、食をとらずにとうとう死んでしまった。その地域は沃沮の東の大海の中にある。」

《隋書·東夷傳·倭國》:大業三年、其王多利思比孤、遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法、故遣朝拜、兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰:「日出處天子,致書日沒處天子,無恙。」云云。帝覽之不悅、謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者、勿復以聞。」
「大業三年(607)、その王のタリシホコは使者を派遣し朝貢した。使者は『海の西の菩薩のような天子が手厚く仏法を興隆させていると聞きましたので、朝拝に(私を)派遣するとともに、出家者数十人が仏法を学ぶため来ました。』と言った。その国書にいう。『日が出るところの天子が書を日の没するところの天子に届けます。お変わりありませんか。云々』 帝(煬帝)はこれを見て喜ばず、鴻臚卿に『蛮夷の書で無礼のあるものは二度と聞かせるな』と言った。」
*日出る国は東という方向を示しただけと分かりました。旧唐書で日辺にあるをもって日本と号したとあるので、The Rising Sun、の意味に変わってしまったようです。こうして、言葉の意味は時代時代の流行に左右されるのですね。

梁書の女国(地理誌の劣化が激しい見本)

《梁書》《卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎》629年(貞観3年)成立

維基 -> 梁書 -> 卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎
50 漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子卑彌呼為王。彌呼無夫婿,挾鬼道,能惑眾,故國人立之。有男弟佐治國。自為王,少有見者,以婢千人自侍,唯使一男子出入傳教令。所處宮室,常有兵守衛。至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢,魏以為親魏王,假金印紫綬。正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。齊建元中,除武持節、督倭、新羅、任那、伽羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖即位,進武號征東將軍。
漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子卑彌呼為王。彌呼無夫婿,挾鬼道,能惑眾,故國人立之。有男弟佐治國。自為王,少有見者,以婢千人自侍,唯使一男子出入傳教令。所處宮室,常有兵守衛。至魏景初三年公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢,魏以為親魏王,假金印紫綬。正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。齊建元中,除武持節、督倭、新羅、任那、伽羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖即位,進武號征東將軍。



景初三年
・梁書原書の誤記の指摘:重要。
景初三年公孫淵誅後〔誤〕→〔正〕魏景初二年公孫淵誅後
*「景初三年」語の配された位置は公孫淵の誅殺の年を語るための位置である。従って景初三年は「二年の間違いである。《引用:岩元学説》、景初三年は公孫誅殺にかかる修飾句です。卑弥呼の遣使ではありません。史実に照らせば、「景初二年公孫淵誅殺後、卑彌呼は初めて遣使を送り朝貢した」というのが正しいといえるのです。公孫淵が殺されたのは景初二年ですから、はっきりと梁書の間違いとしないとなりません。梁書を引いて卑弥呼の遣使が景初三年とするのは梁書の誤記を見破れないからです。そうは考えられないというのはあなたの自由です。

諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎の続き、
51 其南有侏儒國,人長三四尺。又南黑齒國、裸國,去倭四千餘里,船行可一年至。又西南萬里有海人,身黑眼白,裸而醜。其肉美,行者或射而食之。
52 文身國,在倭國東北七千餘里。人體有文如獸,其額上有三文,文直者貴,文小者賤。土俗歡樂,物豊而賤,行客不齎糧。有屋宇,無城郭。其王所居,飾以金銀珍麗。繞屋為緌,廣一丈,實以水銀,雨則流于水銀之上。市用珍寶。犯輕罪者則鞭杖;犯死罪則置猛獸食之,有枉則猛獸避而不食,經宿則赦之。
*52.からの文身國はそうとう混乱した内容です。
53 大漢國,在文身國東五千餘里。無兵戈,不攻戰。風俗並與文身國同而言語異。

54 扶桑國者,齊永元元年(499年),其國有沙門慧深來至荊州,說云:「扶桑在大漢國東二萬餘里,地在中國之東,其土多扶桑木,故以為名。」扶桑葉似桐,而初生如筍(タケ),國人食之,實如梨而赤,績其皮為布以為衣,亦以為綿。作板屋,無城郭。有文字,以扶桑皮為紙。無兵甲,不攻戰。其國法,有南北獄。若犯輕者入南獄,重罪者入北獄。有赦則赦南獄,不赦北獄。在北獄者,男女相配,生男八歲為奴,生女九歲為婢。犯罪之身,至死不出。貴人有罪,國乃大會,坐罪人於坑,對之宴飲,分訣若死別焉。以灰繞之,其一重則一身屏退,二重則及子孫,三重則及七世。名國王為乙祁;貴人第一者為大對盧,第二者為小對盧,第三者為納咄沙。國王行有鼓角導從。其衣色隨年改易,甲乙年青,丙丁年赤,戊己年黃,庚辛年白,壬癸年黑。有牛角甚長,以角載物,至勝二十斛。車有馬車、牛車、鹿車。國人養鹿,如中國畜牛,以乳為酪。有桑梨,經年不壞。多蒲桃。其地無鐵有銅,不貴金銀。市無租估。其婚姻,婿往女家門外作屋,晨夕灑掃,經年而女不悅,即驅之,相悅乃成婚。婚禮大抵與中國同。親喪,七日不食;祖父母喪,五日不食;兄弟伯叔姑姊妹,三日不食。設靈為神像,朝夕拜奠,不制縗絰。嗣王立,三年不視國事。其俗舊無佛法,宋大明二年(458年),罽賓國嘗有比丘五人游行至其國,流通佛法、經像,教令出家,風俗遂改

 扶桑國とは高句麗のことです。貴人第一者為大對盧,第二者為小對盧,第三者為納咄沙。貴人の最上位者が大對盧(てでろ)といっているところです。これは高句麗の内官制です。また、北の獄では男女を配し、生まれた子供は男子は8歳、女子は9歳で奴隷とするとあり、国が奴隷を監理してしたことが明らかです。つまり、扶桑國は奴隷制があったのです。
南朝斉永元元年=499年=北魏:太和23年(471年:崎玉稲荷山古墳鉄剣の銘文年号)
南朝宋大明二年=458年戊戌 「かつて罽賓國にいた比丘五人が游行して扶桑国にいたった。仏法が広まり、経像、出家の風習など風俗がついに改まった」仏教伝来の記録としてみることができそうです。(479年宋滅びる)(日本史:513年百済五経博士を献じる。)

55;慧深又云:「扶桑東千餘里有女國,容貌端正,色甚潔白,身體有毛,髮長委地。至二、三月,競入水則任娠,六七月產子。女人胸前無乳,項後生毛,根白,毛中有汁,以乳子,一百日能行,三四年則成人矣。見人驚避,偏畏丈夫。食鹹草如禽獸。鹹草葉似邪蒿,而氣香味鹹。」天監六年,有晉安人渡海,為風所飄至一島,登岸,有人居止。女則如中國,而言語不可曉;男則人身而狗頭,其聲如吠。其食有小豆,其衣如布。築土為牆,其形圓,其戶如竇云。

私訳:荊州に来た高句麗の修行僧慧深(けいしん)が、また伝えるには、「扶桑の東1000里に女国がある。容貌は端正で、肌の色ははなはだ清くて白い。髪は長く地に付くほどである。二、三月になると競うように入水して妊娠する。六、七月には出産する。女人は胸の前に乳がなく、首のうなじに生えるうぶ毛の根元は白く、毛の中から汁がでて、それで授乳する。百日もすると歩くようになり、三、四年で成人になるなり。人を見ると驚いて避けて、一方的に男性を怖がっている。鹹草(アシタバ)を獣のように食し、男の身体は犬のようで、その声は吠えるているように聞こえる。食べるものは小豆で、着るものは布のようである。土を築いて土塀をつくり、その形は円で、その住まいは穴のようだったと伝える。」扶桑国、高句麗から東1000里は、東沃沮になります。彼の思っている女国は日本ではありませんでした。

天監六年=梁の武帝蕭衍の治世=506年=北魏正始3年(日本史:513年百済五経博士を献じる)
扶桑国と女国が別項になっていること、女国の子育てについては首をかしげるような内容ですが、そう伝え聞いた話として初出とみることができます。
*罽賓國は西域のスキタイ印欧部族の国家です。
*沙門;《(梵)śramaṇaの音写。勤息と訳す》僧となって仏法を修める人。

以上からは日本列島は魏志倭人伝のカテゴリーでは朝鮮沿海から東にあるという認識があるわけです。これを踏まえると下の地図のような日本列島をイメージして魏志倭人伝に応用してはならないのです。
そもそも、この地図の成立は明代です。みなさんこれが中国において3世紀の日本列島の認識がこれだった、とは断定できません。この地図を邪馬壹国比定地論にもちこむのは禁じ手です。

混一彊理歴代国都之図(こんいつきょうりれきだいこくとのず)、略称疆理図(きょうりず)とは1402年に李氏朝鮮で作られた地図。名称は「歴史上の首都一覧図」を意味する。(「混一」はひとまとめを、「疆」は国境あるいは国土を意味する。)混一疆理図と略されることもあるが、後述する清浚による『混一疆理図』と紛らわしいため、あまり使われない。1402年という作成年は、下に書かれている奥付に基づく。現存するものは写本のみであり、それに書かれている地名から類推すると、遅ければ1592年の情報が混入されていると見ることができる。
この地図は、明の建文4(1402)年、李氏朝鮮で作成されたもので、現存最古の世界地図とされる。地図の下段に記される由来によると、朝鮮使として明に派遣された金士衡という官僚が、1399年に2種類の地図を国へ持ち帰った。それは李沢民の『声教広被図』と、仏僧である清濬の『混一疆理図』で、それらを合わせ、さらに朝鮮と日本を描き加えたものであると伝える。
この地図には不思議な点が数多く存在する。まずは、日本列島。九州を北にして180度ほど傾いた南北に長い国として描かれている。魏志倭人伝では、邪馬壹国が北九州沿岸の国から、南の方向にあると記述されているが、この地図で南に進むと畿内方面に至ることから、「邪馬壹国畿内説」の論拠の一つとなっている。
 それでも、なぜ日本列島が南に転倒しているのだろうか。それは、15世紀の初頭に、李氏朝鮮の廷臣である権近が、東を上方にして描かれた日本を具体的に書き表した最古の地図「行基図」を、不用意に挿入してしまったためだそうだ。朝鮮の絵師が地図の構図からやむを得ず日本列島を南転させて作ってしまったのである。権近が絵師に東に横に入れるしかないと言われて了解したとんでも地図となろうか。

行基(ぎょうき 668-749)奈良時代の高僧
 最古の日本全図の作成者?

 高僧行基は、地図作成の分野では「行基図」と呼ばれる中世を通じてみられた唯一の日本全図の作成者として名高い。
 行基図と呼ばれる地図は、作成から江戸初期まで数々の書写が行われており、現存する最古のものは、仁和寺所蔵の日本全図(嘉元3年 1305)だといわれている。その後も、この種の地図は江戸時代まで数多く作成され、行基の作であることが記されていることから「行基図」と呼ばれている。行基図はその後、国内での使用はもちろん、朝鮮半島や中国、ヨーロッパまでも伝わって、世界図の中の日本として存在した。
伊能忠敬(1745~1818年)は日本全国を歩き、日本地図を作った。その「伊能図」(大日本沿海輿地全図)ができるまえの地図が行基図である。右図のように東が上になって描かれている。(東を尊ぶことから上にしたのだろうか。)
結局、この15世紀に作られた混一彊理歴代国都之図、この地図が中国人の世界にたいする普遍的な認識であったとというのは全くの誇大解釈でしかない。

そもそも、邪馬壹国近畿説にとって「南、水行十日、陸行一月」の南が邪魔であり、南を東に改めなければならない。「南とあるは東であるべし」まるで、魏志倭人伝を超越した論法であり、批難の矛先となったのは当然だろう。そこで、この方向を南のままで近畿説を展開できるように持ち出されたのがこの地図だった。
1980年代の近畿論者はほとんどこの地図説を支持していたというから驚きです。邪馬台国論には流行があるんですね。
1988年、島原市本光寺でもう一つの混一彊理歴代国都之図が発見された。


本光寺図では、東南に横に日本列島が描かれている。どちらの地図が古いか、こうした論議は推測に終わり、なぜなら、陳寿の時代の地図そのものは実在しないので、陳寿の地図とはそもそもフェークなのだ。江戸時代後期まで日本では中国を震旦国と表記していました。

詔について: 天子または皇帝のもっぱらにする権限で出す命令、および叙勲などの一形式。

始皇帝は天下太平を成し遂げたとき、自称を「余」から「朕」。命令を「制」から「詔」に、呼称を「王」から「陛下」にしました。もっぱら詔をだすのは皇帝であって、その他の者が詔(しょう)を発することはありません。したがって詔は通例、主語か省略されます。天子または皇帝が詔を発していることに変わりはないからです。訳すときは主語を天子または皇帝以外の主語(又は代名詞)に違えてはならないのです。
倭人伝の正始8年の条、「相攻撃状,遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢拝假難升米爲檄告喩之」
 「塞曹掾史の張政たちを派遣して、それにより、(先に帯方郡まで届いていたが送られていなかった)詔書と黄幢をもたらし(狗奴国との戦いの軍事的指導者である)難升米に拝仮し、檄文をつくって難升米に告喩した。」この訳し方の通説は誰の訳文かはいいませんが完全に間違っています。・・・張政が詔書と黄幢を齎(もたら)すことは絶対にありえないのです。ですから私は誤訳とみなします。「(王頎は)倭載斯・烏越等に使者を送り、郡治に詣でさせて狗奴国(高句麗)を共に攻撃する状を(王頎が)説得した。(王頎は)その攻撃状を塞曹掾史張政等らを(洛陽に)派遣した。(皇帝に届けた)よって(皇帝曹芳は)、難升米に黄幢を拝假する詔書を出し、激の告喩を為した。」とわたしは訳します。簡単にいえば、あくまでも皇帝曹芳が詔を与えたのですね。詔をだしたのは皇帝曹芳に限られる、これが原則なのですよ。 ところで、塞曹掾史張政が邪馬壹国に派遣されて、その後、20年近くを邪馬壹国で過ごして泰始2年(266年)に帰国したとする説もあるそうですが、妄想もはなはだしいと言わねばなりませんね。
*塞曹掾史 万里の長城を管理する中級以下の官吏。
用例:
「元年,制詔(せいしゅう)丞相斯、去疾,法度量,盡始皇帝為之」
出典:《魏晉南北朝》《顏氏家訓》[南北朝 (420年 - 581年)] 顏之推著《顏氏家訓》にある史記始皇本紀引用文
訳:「元年、丞相の斯に制詔した、度量の法をすぐに実施止せよ。これが始皇帝が真っ先にしたことである。」(度とは長さの単位。量は重さの単位)」
(解説:李斯(りし、拼音:Lǐ Sī、? - 紀元前208年)は、中国秦代の宰相。字は通古。子は李由ら。法家を思想的基盤に置き、度量衡の統一、焚書などを行い、秦帝国の成立に貢献したが、始皇帝の死後、権力争いに敗れ、宦官趙高によって処刑された。)

上と同様に制詔をなすのは天子にきまっているので省略されるのです。以下。
すべて、主語である皇帝が減略字されています。
「申制詔臣・「遂制詔三公」《魏書二》《文帝紀》
「制詔燕王」 《魏書四》《陳留王》
「制詔彭城王」《魏書二十》《彭城王據傳》
「制詔中山王」 《中山恭王衮傳》
「制詔遼東屬國率衆王頒下」《魏書三十》《烏丸傳》
「制詔親魏倭王卑彌呼」《魏書三十》《倭人傳》

魏志倭人伝にもどると、建忠校尉梯儁(ていしゅん)が詔書と印綬を倭國に拝假するなど不可能なのです。校尉とは蛮夷の地を鎮撫する官名ですからね。
*詔(しょう):召して、文書をもって命ずる。上から下に告げしらせる。秦(しん)・漢以後、天子の命令にのみいう。みことのりする。みことのり。
 「詔命・詔勅・詔書・詔諭・詔旨・優詔・恩詔・拝詔」


宗について
《說文解字》[東漢] 100年-121年 許慎著
《卷八《宀部》
4532 打開字典 宀部:
宀:交覆深屋也。象形。凡宀之屬皆从宀。
《卷八》《宀部》
「宀とは幕屋のことなり」
4600 打開字典 宀部:
宗:尊祖廟也。从宀从示。
「宗とは祖廟を尊ぶことなり」(祖廟とは始めの廟である)
《示部》
73 打開字典 示部:
禰:親廟也。从示爾聲。一本云古文𥜬也
「禰とは祖廟のことなり」

《說文解字注》
22宀部 《宗》zōnɡ
《宗》 注解:「尊祖廟也。宗尊雙聲。按當云尊也,祖廟也。今本奪上也字。大雅:公尸來燕來宗。傳曰:宗,尊也。凡尊者謂之宗,尊之則曰宗之。大雅:君之宗之。箋云:宗,尊也。禮記:別子為祖,繼別為宗,繼禰者為小宗。凡言大宗小宗,皆謂同所出之兄弟所尊也。尊莫尊於祖廟,故謂之宗廟。宗從宀從示,示謂神也,宀謂屋也。從宀示。會意。作冬切。九部。按唐韻當在一東。」
「「宗とは祖廟を尊ぶことなり。宗と尊は対を為す言葉である。案ずるにまさに尊をいうのである。いまの本では宗尊の宗の字を略しているのである。
大雅本では、公尸(人名)が燕に来ることを来宗と言う。伝に曰く、「宗は尊である。」と。おおよそ尊者はこれを宗といい、尊はすなわち宗である。『禮記』に、「別子を祖となすには別な宗を為して継ぐ継禰(けいねい)の者を小宗といい、おしなべて大宗、少宗という。同母の兄弟の出た所が同じである所ならば、みな尊というのである。祖廟は例外なく尊であり、ゆえに、これを宗廟というのである。宗は宀に従い、示は神のことである。宀は幕屋で、宀と示と宗という会意文字となる。(宀は漢字の冠の一。「宇」「字」などの「宀」の部分。家屋に関する文字を作る。私見だが、宀の下に神が合わさると祠(ほこら)、神廟、廟堂の意味になろうか。)文責:黒澤一功翻訳

71 《祖》 zǔ
72 《祖》 注解:始廟也。始兼兩義,新廟為始,遠廟亦為始。故祔祪皆曰祖也。釋詁曰:祖,始也。詩毛傳曰:祖,為也。皆引伸之義。如初為衣始,引伸為凡始也。從示且聲。則古切。五部。注□,古文。
「祖とは始廟である。新廟と遠廟の両義がある。ゆえに祔祪が曰くには祖であるという。また釋詁が曰くには、祖の始めであるという。詩毛傳では祖であると謂う。みな始廟が別な語に転じたものである。衣始を初の意味に転じたり、凡を転じて始の意味にしたりするが如くである。示に従い、音は且である。古切りの五部に則ると古文の注にある。文責:黒澤一功翻訳
宗族は同じ氏の祖先をもつ一族のこと。
《梁書》《卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎》
46」百濟王・・・號所治城曰固麻,謂邑曰簷魯,如中國之言郡縣也。其國有二十二簷魯,皆以子弟宗族分據之。其人形長,衣服凈潔。其國近倭,頗有文身者。
46:(521年頃)百済王の治城を固麻(こま)と号し、邑を簷魯(えんろ)と言っているが、中国でいう郡県に相当する。その簷魯は二十二あり、みな王の子弟宗族が分拠している。人は背が高く、衣服は清潔である。倭に近く、文身している者がすこぶる多い。
原文に宗族という文字がある梁書の百濟についての一節であるが、宗族が国を分けて治めている。このことから同祖から分岐した系統の一族郎党といえる。今日でいえば王族の家系をいうのであろう。江戸幕府に例えれば徳川家と御三家のような関係だろうか。
 ->  ->  ->  -> 邑部
3987 打開字典顯示相似段落 邑部:
都:有先君之舊宗廟曰都。从邑者聲。周禮:距國五百里為都。
3987:訳、「都(ど)は以前の君主の旧(初代からの)宗廟があるところを都といいます。部首”邑”(yì)”者”(zhě))と発音します。周禮では、それぞれ五百里離して都(と)となしています。

都は邑部です。邑(ゆう)は、「古代中国の都市国家的な集住地。後の中国の文化や文明のもととなった黄河の流域の古代文明において、新石器時代から青銅器時代である春秋時代中期にかけて広く展開した。漢字の邑は区画や囲壁をあらわす「囗(くにがまえ)」にひざまずいた人をあらわす「巴(卩)」をあわせた会意文字で、この全体を略した部首が「阝(おおざと)」である。邑の社会は同姓の一族による氏族共同体で大抵は土塁よりなる囲壁をめぐらし、周囲に氏族民共有の耕作地が展開した。」
たとえば、陳氏は陳姓を名のる人々が一団となって居住する。隣に楊氏が住んでいるとします。陳氏の邑と楊氏の邑は接していることになります。
石平先生の本『中国人の善と悪はなぜ逆さまなのか 宗族と一族イズム』に関連してに「中国は宗族と械闘(かいとう)でわかる」という邑どうしの争いの話がでてきます。ここでは、YouTubeを紹介します。

中国と日本と決定的に違うこと。惣村(そうそん)について学び、比較してみましょう。
惣村(そうそん):日本の中世における邑
中世農民の自治的な共同組織。鎌倉時代後期に近畿やその周辺部では、それまでの荘園などの内部で農民たちがみずから自立的・自治的な村をつくる動き(惣荘から惣村へ移行のこと)がみられ、南北朝の動乱の中で各地に広がった。古くからの有力農民だった名主層に加え、新しく成長してきた小農民も構成員となった。神社の祭礼や農業の共同作業、戦乱に対する自衛などを通じて村民の結合も強まった。(2018-05-24 朝日新聞 夕刊 大文化)
この惣村は中国と決定的に違うところは、非族縁的な自律集団であり、地縁的組織であることです。「この非族縁的な自律集団の集会は,原則として平等な成員の自治によって運営され,その意志決定は多数決による一味(いちみ)同心,一揆の評定(ひようじよう)として特別の効力をもつものとされた。」

倭國と倭と倭人の違い


《說文解字》
[東漢] 100年-121年 許慎著
[又名:《說文》]
《卷九》
《人部》
4964 打開字典顯示相似段落 人部:
:順皃。从人委聲。《詩》曰:「周道倭遟。」


説文解字では「従順なさま。詩経に曰く“周道倭遟(周への道は曲がりくねり遠い)”。」と解説されています。 康熙字典によれば、さらに人名にも使用され、例えば魯の第21代王宣公の名は「倭」であると書かれています。さらに、重要なことは「委聲」とあり、委と同じ音韻だと書かれています。聲は声ですから、倭の発音は委と同じだったと記されています。

『漢書地理志』倭人の項」如淳の注には「如墨委面」という文字がはっきり記事になっていたのでしょうが、現在では書き換えられたか、逸失のため如淳曰くの「如墨委面」の原文は確認できません。

この注を書いたのは如淳は3世紀中頃の人物(魏)で、顔師古の注は、「樂浪海中有倭人。分爲百餘國。以歳時來獻見云。」を対象にした注釈である。この漢書の倭人は、元は如墨委面と注されていたことを踏まえておこう。
倭とは『委』が転じたものでしょう。音が同じだったと《說文解字》にはかいてありますが、顔師古は倭と委の音は違うと、これを否定しています。

如淳曰、「如墨委面 在帯方東南万里」
 臣讃曰「倭是国名 不謂用墨 故謂之委也」
 師古曰「如淳云『如墨委面』 蓋音委字耳 此音非也 倭音一戈反 今猶有倭国
魏略云『倭在帯方東南大海中 依山島為国 度海千里 復有国皆倭種』」

、師古が言う。『魏の如淳が、「如墨委面が東南万里にある」と書いたようだが、どう注釈すればいいのか?』
讃が答える。『倭がその国でしょう。墨の文字はいま称さないので、委が倭を意味しているのでしょう。』
師古が言う。『如墨委面の委の字は耳で聞くと、「倭」の反切りと同じはない。昔からいまだにもってずっと倭といっているではないか。魏略には「倭は帯方郡の東南の大海の中にあって、山の多い島々から国がなっている。海を渡ること千里、又国があるが、皆倭種である。」と記録している。だから、如墨委面は国名だとしても、倭国と書き換えるべきだろう。』

*顔 師古(がん しこ、581年 - 645年)は、中国・初唐の学者で、本貫は、琅邪郡臨沂県(山東省臨沂市)で、『漢書』100巻の注釈をつけた学者である。師古は300年前に書かれていた「如墨委面 在帯方東南万里」の意味がよく理解できなかったので思案している。とくに、委と耳の発音が同じで、倭と違うというのは試行錯誤しているのである。結論的には如墨委面が倭人の旧名であると判断して、原本の如墨委面を倭国と注を入れて、師古が、如墨委面という文字を倭人に代えたのである。
如墨委面が委国になり、さらに倭国に変わっていることが分かる貴重な記録であり、意味のない注釈ではないのである。如墨委面という語彙は倭に替えられたので、いまは一切見ることができません。その後、正史のほかで委面とか異面とかはみな倭人を意味することになったのだろうと思われます。

《史書》《漢書》《志》《地理志》《地理志下》
[新 - 東漢] 36年-111年
103 打開字典顯示相似段落 地理志下:
「玄菟、樂浪,武帝時置,皆朝鮮、濊貉、句驪蠻夷。殷道衰,箕子去之朝鮮,教其民以禮義,田蠶織作。樂浪朝鮮民犯禁八條:相殺以當時償殺;相傷以穀償;相盜者男沒入為其家奴,女子為婢,欲自贖者,人五十萬。雖免為民,俗猶羞之,嫁取無所讎,是以其民終不相盜,無門戶之閉,婦人貞信不淫辟。其田民飲食以籩豆,都邑頗放效吏及內郡賈人,往往以杯器食。郡初取吏於遼東,吏見民無閉臧,及賈人往者,夜則為盜,俗稍益薄。今於犯禁浸多,至六十餘條。可貴哉,仁賢之化也!然東夷天性柔順,異於三方之外,故孔子悼道不行,設浮於海,欲居九夷,有以也夫!樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云。」

「玄菟・楽浪の二郡は、武帝のとき置かれ、いずれも朝鮮・濊貉・句驪などの蛮夷であった。殷の政道が衰えると、箕子は去って朝鮮にゆき、その民に礼儀と農蚕・機織仕事を教えた。楽浪・朝鮮の民が禁制の八か条を犯したときは、殺害には即時に殺すことで償い、傷害には穀をもって償い、盗みには男ならばこれを没収して家奴とし、女ならば婢とし、自ら贖おうとすれば、一人につき五十万銭を要した。罪を免れて庶民に復しても、風俗としてなおやはりこれを羞じ、嫁のやりとりに讎(つぐな)いがなく、さればその民ついに相い盗まず、家の戸締りもせず、婦人は貞節をねじけかたよることがなかった。その農民は飲食をするに籩豆を用い、都邑では往々役人や内郡の商人にならい杯器を用いて食事をした。郡は初め役人を遼東郡から採ったが、民を閉じ蔵(かくさ)ないのを見た役人や往来する商人が、夜になると盗みをしたために、民俗はしだいにそこなわれ、今や禁を犯す者がますます多く、これにつれて禁制も六十余の多きに至った。仁賢の感化は何と貴いものであろう。」

上記の漢書地理誌が記す紀元前100年頃の楽浪海中の倭人の国とは東夷の端にある国のようです。ところが、3~5世紀頃の倭国となると、およそ楽浪海中にある委面の国とは異なってきます。地理的な情報がおよそ百年ごとに愚鈍な史書官によって劣化しているのでしょうか?

『後漢書』「巻八十五」の「東夷伝」の「第七十五」
安帝永初元年(107年) 倭國王帥升等獻生口百六十人 願請見

『翰苑』「蕃夷部」「倭国」の条(唐代の張楚金作)
安帝永初元年 倭面土國王師升等獻生口

北宋版『通典』(『後漢書』を参考にして書いたと考えられる模写版)
安帝永初元年 倭面土國王師升等獻生口

『唐類函』の「百十六巻」の「邉塞部一」の「倭」の条(明代成立) 
安帝永初元年(107年) 倭國土地王師升等獻生口


范曄著の『後漢書』の成立は、432年である。この貢献は、後漢の安帝永初元年(西暦107年)は誤りで、東普の第十代皇帝の安帝の隆安年間(西暦413年)である。この晋の安帝は在位396年~403年で、旧唐書倭国伝の「倭国は、古の倭奴国である。・・・其の王、姓は阿毎(āměi)氏なり」 を前提に考えると、初めに後漢書が安帝を早とちりしたと分かるのである。
生口とは慮、現代語では捕虜であり、戦勝した証拠として捕虜を献上して褒美にあずかる一連の行為が含まれます。過去の、たとえば5年前の戦争捕虜を献上してもだめで、まだ勝ったという興奮がさめないときに献上してはじめて褒賞を得られるのです。107年の前年に東北アジアで大きな戦争があったと見なければなりません。この倭国は遼西にあった國で、師升とは尉仇台(百濟本紀での肖古王)です。すると、後漢書が年号の間違いを犯し、その後の史書がその間違いをそのまま右に倣えしているのです。

413年 倭国、東晋・安帝に貢物を献ずる。(『晋書』安帝紀、『太平御覧』)
421年 宋 永初2  讃、宋に朝献し、武帝から除綬の詔をうける。安東将軍倭国王。
(『宋書』夷蛮伝)
・・・この貢献と除綬は倭国王讃です。そこで、倭國王帥升とは倭王讃のことであることもはっきりしました。
さらに、隋書を参照してみよう。「漢光武時遣使入朝自稱大夫 安帝時又遣使(・・・・・・) 朝貢謂之倭奴國」・・・・光武帝が金印を贈ったのは「委(・)奴国」107年で、晋の安帝のときの朝貢したのは「倭(・)奴國」413年年だったが、これを同一な国だと思いこんだ結果だと思われる。さらに、「又遣使あり」と二度目の朝貢であるような書き方である。この二つの朝貢の間は305年間になり、その間、倭の朝貢の記録が全くなっかたとみなせる。この通りだとすると、奴国は金印徐綬後、朝貢を継続しなかったことになる。

旧唐書「倭国日本伝」で日本という表記がはじめて中国正史に登場した(八世紀)。 その一箇所に、「日本国は倭国の別種なり。其の国、日辺にあるを以って、故に日本を以って名となす」とある。別種とは違うということだ。「日本国は倭国とは違う」、この意味するところは日本という国号を与えたとき、以前の倭国とは違うということを認識したということである。倭国は百済が自称していたのですが、よく調べもせずに百済王を倭国王と為して徐授していたのです。ただ、卑彌呼が親魏倭王と徐授されています、その末裔は代々朝貢をしていたのですから、日本とは関係なく倭国を自称してもおかしなことではありません。
前漢のときの委奴国が日本列島にあったというという事実に、やっと気づいたのが、武則天が日本という国号を与えた時だった。(702年)。
翌大宝2年(702年)5月に遣唐大使、粟田真人(執節使)が唐の武則天から天皇の称号と、日本という国号を得た。これより独立国、中国の化礼慕外の国になった。8世紀に至るまで、なんと倭国が日本列島にあるとは一顧だにされず、中国の史書家の話題にもならなかったのだ。
これより、旧唐書「倭国日本伝」、で日本という表記がはじめて中国正史に登場したわけである。「日本国は倭国の別種なり。其の国、日辺にあるを以って、故に日本を以って名となす。」と書いた。
日本が、いままで思っていた倭国とは別種である。いままでの倭国と場所が違う国だ・・・ということを中国が初めて分かったと汲み取れるのである。
その後の倭国の書き方は次のように一変した。

『旧唐書』倭国伝 倭国は古の倭奴国である・・・其の王、姓は阿毎(āměi)氏なり。
『新唐書』日本伝 日本は古の倭奴国である。
『宋史』日本国伝 日本国は、もとの倭奴国である。
『元史』日本伝  日本国は東海の東に位置し、昔は倭奴国と称した。
『明史』日本伝  日本は古の倭奴国である。

まだ、倭奴國と書くところを見ると、まだ典籍を引くことには熱心なようです。日本は(倭国と違って、)いにしえの倭奴国だ・・・と書くのは、それでも格段の進歩があったと見るべきだろう。
左記の類書では、「倭面土地王」、「倭面土国王」「倭面国」などと表記されている。

漢書地理史   如墨委面 ・如淳の注:逸失
金印       委奴國
後漢書      倭国
翰苑       委面土國
唐類函      倭国土地
旧唐書      倭奴国
新唐書      倭奴国
 委が倭に転じている。奴と土が互換されている。奴は「ド」という読みの音写文字であるとすると、都の共通文字が浮かび上がる。委土と連ねると伊都になる。金印に刻印された「委奴國」は「伊都国」だったようです。

倭の解釈の紆余曲折、なぜ学者は曲説を唱えるのか?

一条兼良は、『説文解字』に倭の語義が従順とあることから、「倭人の人心が従順だったからだ」と唱え(『日本書紀纂疏』)、後世の儒者はこれに従う者が多かった。
江戸時代の木下順庵らは、小柄な人びと(矮人)だから倭と呼ばれたとする説を述べている。
新井白石は『古史通或問』にて「オホクニ」の音訳が倭国であるとした。
隋唐代の中国では、「韻書」と呼ばれる字書がいくつも編まれ、それらには、倭の音は「ワ」「ヰ」両音が示されており、ワ音の倭は東海の国名として、ヰ音の倭は従順を表す語として、説明されている。すなわち、隋唐の時代から国名としての倭の語義は不明とされていた。

江戸時代の木下順庵らは、小柄な人びと(矮人)だから倭と呼ばれたとする説を述べ、他にも「倭」を蔑称とする説もあるが、「倭」の字が悪字であるかどうかについても見解が分かれる。『魏志倭人伝』や『詩経』(小雅、四牡)などにおける用例から見て、倭は必ずしも侮蔑の意味を含まないとする見解がある。それに対して「卑弥呼」や「邪馬壹国」と同様に非佳字をあてることにより、中華世界から見た夷狄であることを表現しているとみなす見解もある。

倭は「いやしい」という意味で、倭国は「いやしい国」となり、邪馬壹国は「よこしまで、野蛮な下界に住む者の国」ということになり、いいネーミングとはいえない。中華思想にとりつかれた者から見れば、周辺はみな蛮族の国になる。

名詞「ちび」
対訳の関係完全同義関係

矮个ǎigèの概念の説明
日本語での説明 ちび[チビ]
背が低く,小さい人
英語での説明 shorty
a person who is short in stature
形容詞 ピンインǎi
‘矮’は「垂直体の背丈が低い」ことを示し,‘低’は「水平面からの距離が近い」ことを示す.したがって‘飞机飞得很低。’(飛行機はとても低く飛ぶ.)と言う場合に‘矮’を用いることはできない.
しかし、矮が倭字の本字だとみることが、そもそもずれているようです。


倭人という語がでてくる条は以下のとおり。

《儒家》相關討論
相關資源
《論衡》相關討論
[東漢] 80年 王充著 提到《論衡》
《儒增》
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50 打開字典顯示相似段落顯示影印本 儒增:
周時天下太平,越裳獻白雉,倭人貢鬯草。食白雉,服鬯草,不能除凶,金鼎之器,安能辟姦?且九鼎之來,德盛之瑞也。服瑞應之物,不能致福。男子服玉,女子服珠,珠、玉於人,無能辟除,寶奇之物,使為蘭服,作牙身,或言有益者,九鼎之語也。夫九鼎無能辟除,《傳》言能辟神姦,是則書增其文也。
後漢の王充が書いた論衡。ここでの倭人は南倭、中国南部の越裳(えつしょう)の倭人のこと。(前1040年頃)
《恢國》
10 打開字典顯示相似段落顯示影印本 恢國:
武王伐紂,庸、蜀之夷佐戰牧野。成王之時,越常獻雉,倭人貢暢。幽、厲衰微,戎、狄攻周,平王東走,以避其難。至漢,四夷朝貢。孝平元始元年,越常重譯,獻白雉一、黑雉二。夫以成王之賢,輔以周公,越常獻一,平帝得三。後至四年,金城塞外羗良橋橋種良願等,獻其魚鹽之地,願內屬漢,遂得西王母石室,因為西海郡。周時戎、狄攻王,至漢內屬,獻其寶地。西王母國在絕極之外,而漢屬之。德孰大?壤孰廣?方今哀牢、鄯善、諾降附歸德。匈奴時擾,遣將攘討,獲虜生口千萬數。夏禹倮入吳國。太伯採藥,斷髮文身。唐、虞國界,吳為荒服,越在九夷,罽衣關頭,今皆夏服,褒衣履舄。巴、蜀、越嶲、鬱林、日南、遼東,樂浪,周時被髮椎髻,今戴皮弁;周時重譯,今吟《詩》、《書》。
ここでの倭人は越裳(えつしょう)の恢國の倭人。(前1027年頃)

*獲虜生口千萬數 千万の捕虜を獲た。

《史書》
相關資源
《漢書》
[新 - 東漢] 36年-111年 提到《漢書》的書籍 電子圖書館
[又名:《前漢》]

《志》
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《地理志》相關討論
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《地理志下》
103 打開字典顯示相似段落 地理志下:
玄菟、樂浪,武帝時置,皆朝鮮、濊貉、句驪蠻夷。殷道衰,箕子去之朝鮮,教其民以禮義,田蠶織作。樂浪朝鮮民犯禁八條:相殺以當時償殺;相傷以穀償;相盜者男沒入為其家奴,女子為婢,欲自贖者,人五十萬。雖免為民,俗猶羞之,嫁取無所讎,是以其民終不相盜,無門戶之閉,婦人貞信不淫辟。其田民飲食以籩豆,都邑頗放效吏及內郡賈人,往往以杯器食。郡初取吏於遼東,吏見民無閉臧,及賈人往者,夜則為盜,俗稍益薄。今於犯禁浸多,至六十餘條。可貴哉,仁賢之化也!然東夷天性柔順,異於三方之外,故孔子悼道不行,設浮於海,欲居九夷,有以也夫!樂浪海中有倭人,分為百餘國,以歲時來獻見云。
悼:人の死を悲しみ嘆く。
悼道:宗教のことか?
東夷の人は従順で三方の人々とは異なり、故に孔子は中国では悼道が行われておらず海の外の九夷にもとめた。
ここでの倭人は日本の民。たかつきを食器にしている。

《後漢書》
[南北朝] 420年-445年 提到《後漢書》的書籍 電子圖書館
《列傳》
電子圖書館
《烏桓鮮卑列傳》
33 打開字典顯示相似段落 烏桓鮮卑... :
帝不從。遂遣夏育出高柳,田晏出雲中,匈奴中郎將臧旻率南單于出鴈門,各將萬騎,三道出塞二千餘里。檀石槐命三部大人各帥眾逆戰,育等大敗,喪其節傳輜重,各將數十騎奔還,死者十七八。三將檻車徵下獄,贖為庶人。冬,鮮卑寇遼西。光和元年冬,又寇酒泉,緣邊莫不被毒。種眾日多,田畜射獵不足給食,檀石槐乃自徇行,見烏侯秦水廣從數百里,水停不流,其中有魚,不能得之。聞倭人善網捕,於是東擊倭人國,得千餘家,徙置秦水上,令捕魚以助糧食。
ここでの倭人は遼江、鴨緑江にいた倭人。(余談として、檀石槐は幼いころ母親に育てられ、倭人ではないかと噂された?)

 魏志倭人伝では、会稽の倭人、南越の倭人が書かれています。詳細は「会稽の倭人編」をお読みください。
『漢書地理志』 136 打開字典顯示相似段落 地理志下:
「武帝元封元年略以為儋耳、珠崖郡。民皆服布如單被,穿中央為貫頭。男子耕農,種禾稻紵麻,女子桑蠶織績。亡馬與虎,民有五畜,山多麈嗷。兵則矛、盾、刀,木弓弩,竹矢,或骨為鏃」

「武帝の元封元年に略式の命令を以て儋耳(たんじ)、珠崖(しゅがい)を郡になした。民はみな中央に穴をあけて頭に通して被るだけの一枚の布を衣服としている。男子はの稲やカラムシのなど穀物の種を植えて農耕し、女子は桑蠶(かいこ)から糸を紡いで織りなしている。馬とトラはいない。みな、五種類の家畜を飼っており、山には鹿のなく声が多い。兵は矛、盾、刀、木弓弩を身に着けている。矢は竹で、骨の矢じりのあるものもある。」
ここでは、儋耳(たんじ)、珠崖(しゅがい)の倭人(前110年-105年)が書かれています。貫頭衣は儋耳珠崖の住民の衣服であり、会稽の住民はこれと同じだといっているのです。

脱字、誤植(転写ミス)について

三国志(ほんの一部に魏志倭人伝の記載)は、しっかりした書物になるまでの900年間で、およそ45回もの写本がされています。甲骨文字、金文、篆書(てんしょ)、隷書(れいしょ)、草書、行書、楷書という文字の歴史の流れがあります。草書は紙が普及してからの書体です。紙の上では筆を滑らかに動かすことができるようになり、はねや太い細いなどが自在に表現できるようになります。書き手の感情移入ができるようになり、文字に芸術性が加わりました。そして、リズミカルに素早く書くことが可能になり、後漢の頃には、実用書はすでに補助書体として草書が使われていたとされています。魏志倭人伝の原本も草書であるとされます。楷書は現在の明朝体の元となった書体ですが木版のプリント技術が普及してからの書体です。それを考えると、魏志倭人伝にも誤植があります。紹興本や紹煕本は楷書に転写されものですが、もとは筆で書かれた個性的な草書体です。写本すれば、誤植は避けられないといえます。たとえば、一大国の大→支、紹煕本の對海、海→嶋、紹興本の對馬、馬→㠀、魏略の女男→以男、東治が後漢書で東冶県に、後漢書の狗奴國、拘→狗、𤝔は弣(ゆづか)の誤記等々・・・・。

減筆について 
その一、 草書はおのずと画数が減っています。一筆書きが好まれたためでしょう。すばやく書くためには、三拍子ぐらいのリズムで一挙に書いてしまうので、3秒で一文字をかけるといいます。
その二、変略文字: 画数を減らすという方法の一つに減筆があります。減筆とは、つくりやへんを省いてしまいます。銅鏡の中に火鏡というのがありますが、銅鏡の象嵌では火竟と刻まれています。また、七支刀の支は枝が元字です。これらは、へんを省略しています。略しているのですが、元の字の一部を残していますが、一時的に使った変体ですから字書には出てきません。が、後漢の末期の「字書」には本字の下に、略体文字も記されています。例えば、児・兒の文字の略体は儿と記され、略体が実用的に使用できたようです。
その三、異体文字:陳寿は、おそらく竹簡や木簡に書いていたでしょう。紙は、後漢の宦官であった蔡倫(さいりん)が発明し105年に皇帝に献上したと言われていました。が近年古い遺跡から次々と文字の書かれた「紙」が発掘され、蔡倫の時代よりも300年ほど昔、つまり前漢の中期ごろから紙は使われていたことがわかってきました。紙はまだたいへん高価なものでした。三国志は全体で6万字という膨大な文字量ですよ。官職にない陳寿には皇帝の援助はありません。したがって、陳寿が書いた初筆原本が紙であった可能性はかなり薄いのです。すると、陳寿自身が草書でかいたということも根拠が薄れます。竹簡は幅が指の頭ぐらいしかありません。したがって、画数の多い文字は異体文字に置き換える必要があります。

異体文字の例
 魏志倭人伝を例にすると、邪、馬、卑、奴、狗、などです。卑字とも賤字とも言われます。これらは置き換えられた異体の文字と考えられます。いわば置換文字です。ですから、発音ではなく、形と意味の両面から元字を推測するか、ほかの用例をサンプリングするしかありません。まったくの異体字を置換したのですから、いわば”あてがい”文字です。元字はまったく発音が異なる例もあると考えたほうがいいのです。新井白石のように、末盧を松浦、伊都と怡土、不彌国を宇美とし、カタカナ風(万葉仮名)に読んで日本の古地名音が似ていることで比定地を選択する方法は実は言語学のカテゴリーに照らしてみると危ない方法です。中国語に万葉仮名の借字法は全く援用できません。
對馬が対島、対になった島、一大国が一支国、分岐した一つの国、侏儒国、小さい人が多い国、裸国、裸の人ばかりの国、黒歯国、口の中が黒い人が多い国(檳榔を噛む習慣か?)、女国、女の人ばかりで男がいない国、といったふうに、特徴を捉えたなんらかの意味表現が含まれていることを見なければなりません。こうして、援用すると不彌国は、あまり広くない国という意味でしょう。伊都国は、伊が都(管轄)する国ですから、四国の伊(後の阿波忌部)が支配する国となるでしょう。それらの地名について、私とて、古代の中国人になりきることができませんので、ヒントをだしたぐらいに思っていてください。



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邪馬壹國(やまと)は女王が都(ど)とする所です。


邪馬壹国は女王が都とする所です。
「都」の研究 ~都は”みやこ”ではないことを証明する~                      

邪馬壹国について、「南至邪馬壹國女王之所都」と書かれています。「邪馬壹国、女王が都(みやこ)を置いているところである」と訓読します。それでは開くと、「女王が邪馬壹国にいる」ことになります。それなら、女王は邪馬壹国近畿説では近畿に、九州説では九州にいることになりますよね。ここは、女王の居る所として、論理的に重要な分岐条件となります。都について、ここはしっかりと定義を行い、それを踏まえて論を展開する必要があります。都(と、ど)とは禄採地のこと。和義では屯倉(みやけ)になるでしょう。現代語では植民地。
「邪馬壹国は女王が禄採地にしているところです。」と訳します。都(首都)、すなわち女王卑弥呼の宮殿がある処のような意味はありません。
はじめに、「都(ど)」という意味を、1-3世紀の中国古語のほんらいの意味に戻すことにします。「みやこ」と読むと誤訳になることをこれから論じます。(2019.8.14)

  2世紀にあった古い中国の辞書《說文解字》から都の意味をさぐります。ここはキーポイントです。


都の用語解説
《說文解字》 説文解字(せつもんかいじ、拼音: Shuōwén Jiězì)
[東漢] 100年-121年 許慎著 提到《說文解字》的書籍
[又名:《說文》]
 ->  -> 說文解字>《巻七》
《邑部》
(日本語では”漢字の部首、偏(へん)の一、こざとへん。「防」「限」などの「⻖」。旁(つくり)の「おおざと(⻏)」と区別していう。 〔漢和辞典では一般に「阜」(八画)部に配列される〕「阜」の字を略した形)

 ->  ->  ->  -> 邑部
3987 打開字典顯示相似段落 邑部:
都:有先君之舊宗廟曰都。从邑者聲。周禮:距國五百里為都。
3987:訳、「都(ど)は以前の君主の旧(初代からの)宗廟があるところを都といいます。部首”邑”(yì)”者”(zhě))と発音します。周禮では、それぞれ五百里離して都(と)となしています。

都は邑部です。邑(ゆう)は、「古代中国の都市国家的な集住地。後の中国の文化や文明のもととなった黄河の流域の古代文明において、新石器時代から青銅器時代である春秋時代中期にかけて広く展開した。漢字の邑は区画や囲壁をあらわす「囗(くにがまえ)」にひざまずいた人をあらわす「巴(卩)」をあわせた会意文字で、この全体を略した部首が「阝(おおざと)」である。邑の社会は同姓の一族による氏族共同体で大抵は土塁よりなる囲壁をめぐらし、周囲に氏族民共有の耕作地が展開した。」

惣村(そうそん):日本の中世における邑
中世農民の自治的な共同組織。鎌倉時代後期に近畿やその周辺部では、それまでの荘園などの内部で農民たちがみずから自立的・自治的な村をつくる動き(惣荘から惣村へ移行のこと)がみられ、南北朝の動乱の中で各地に広がった。古くからの有力農民だった名主層に加え、新しく成長してきた小農民も構成員となった。神社の祭礼や農業の共同作業、戦乱に対する自衛などを通じて村民の結合も強まった。(2018-05-24 朝日新聞 夕刊 大文化)
この惣村は中国と決定的に違うところは、非族縁的な自律集団であり、地縁的組織であることです。「この非族縁的な自律集団の集会は,原則として平等な成員の自治によって運営され,その意志決定は多数決による一味(いちみ)同心,一揆の評定(ひようじよう)として特別の効力をもつものとされた。」

4009 打開字典顯示相似段落 邑部:
酆:周文王所都。在京兆杜陵西南。从邑豐聲。
上記の4009を訳すと:「:酆酆都城(fēng dū chéng ))は周の文王の都(ど)とするところです。京兆(郡)の(前漢宣帝の陵墓である)杜陵の西南にあります。部首邑(おおざと)”酆”と発音します。


*杜陵は西安市街南東部にあります。


:酆は杜陵の西南にあることを地図で確認します。




①4009酆: 「酆周文王所都」
①’酆(酆都)は周の文王の都(ど)とするところです。
  豊邑(豐邑(ほうゆう)は西周の都(ど)だった。都をみやこと読んではいけないのですよ。酆邑は文王の時代、周公の都(ど)で、京師すなわち”みやこ”は鎬京(こうけい)です。鎬京(こうけい)は陝西(せんせい)省西安市(後の長安)だとされています。

①酆:周文王所都。を構文配列すると、酆周文王所都」は「邪馬壹國女王之所都」と同じ文型です。(配列が同じ)!
場所 +支配者 +【所】+【都(ど)】
になります。

②邪馬壹國女王之所都。
邪馬壹国+女王 +之所 + 都(ど)   ・・・やはり同じ構文になっています。

①’に準じて訳すと、②は邪馬壹国は女王が都(ど)とするところです。・・・となります。みやこ、とついつい訓読してしまうくせのある方、すぐには修正できないでしょうが、文字そのものに秘められた洗脳を解く必要があります。

 文例  配   列   
 文型→ 地名  支配者  所   都  
 ①  酆  周文王  都  酆は周の文王の都(ど)とするところです。
 ②  邪馬壹国  女王  之所  都  邪馬壹国は女王が之を都(ど)とするところです。

西周は鎬京(こうけい)が首都でしたから、酆(酆都)は周の文王の京(みやこ)ではないのはあきらかです。邪馬壹国もしかりです。これで詰みましたね。女王は邪馬壹国にいなかったのです。それどころか、女王が大率を派遣して邪馬壹国を支配監察していたのですね。

*酆都城:中華人民共和国 重慶市 豊都県、「豊都鬼城」=(動画:もっとも冥途に近いと言われてい名所・鬼城)=MAP
*周の建国時首都:豊鎬(中国語)(豊京及び鎬京(こうけい)、:陝西省西安付近)(前1046年 – 前771年)
周の東遷:洛邑(前771年 – 前256年)
*文王(ぶんおう、ぶんのう、生年・紀元前1125年/没年・紀元前1051年)は、中国殷代末期の周国の君主。姓は姫、諱は昌。在世時の爵位から「西伯」「西伯侯」「西伯昌」とも呼ばれ、『尚書』では「寧王」とも呼ばれる。殷の紂王に対する革命戦争(牧野の戦い)の名目上の主導者であり、周王朝を創始した武王や周公旦の父にあたる。父は季歴、母は太任。弟に虢仲と虢叔がいる。祖父は古公亶父。伯父は太伯と虞仲。
*周は黄河の支流渭水流域にあった邑の一つで、はじめ殷の支配を受けていました。文王の時に宰相太公望などの補佐もあって有力となり、前1024年頃、文王の子の武王が殷の紂王を牧野(ボクヤ)の戦いで破り、華北一帯を支配しました。[首都]は渭水流域の鎬京(こうけい)に置きました。殷を滅ぼして中原を支配するようになってからは、中原統治の便を考慮して、河南省の洛陽(かつての洛邑)を[副都]としました。BC771年に周の[首都]の鎬京(こうけい)に犬戎(けんじゅう)という異民族が乱入し[首都]を奪ってしまいます。そして鎬京[首都]を奪われた周は洛邑(らくゆう=洛陽)に京師[首都]を移すことになります。これを周の東遷といいます。鎬京よりも洛邑は東に位置したのですね。この東遷を境にして西周・東周という言い方をします。


3987:では、都には封建君主の始祖の宗廟があって、宮処から500里(漢の里?207.5km)以遠にあるということが条件だと分かります。
*用語:*从=従:そえ。正の次の位。三親等内の親族。封建領主は大王の王族、貴族がなるのが通例。
*酆都大帝(ふぉんとうーたいてい) 泰山の東岳大帝の横に鎮座し、冥界(地獄)を司る最高神。

4072 打開字典 邑部:
郢,故楚都。在南郡江陵北十里。从邑呈聲。
4072訳、「:郢(てい)はかつての楚の都(ど)です。南郡・江陵(湖北省)の北十里にあり、部首邑、”呈”と発音します。」

1.楚の首都は丹陽(河南省淅川県) 2.郢(湖北省荊州市荊州区)が都(ど)です。

なぜ、宮城から500里離れていないと都(ど)といわないのか? 答えは下にあります。
漢代之後 -> 宋明 -> 太平御覽 -> 州郡部一 -> 敘京都上
《敘京都上》
6 打開字典顯示相似段落 敘京都上:
《周禮·大司徒》:以土圭之法測土深,正日影,以求地中。又曰:四縣為都。又曰:距國五百里為都。

「土圭之法で土を深く掘り、地中に映ずる日影が正しく吉ならば都を建国する。また、四県を都となす。五百里(207.5km)隔たったところを都となす」

*初出の「土圭之法」とは風水?「土圭」は、昔、中国で方角・日影を測る磁針を称した語。(デジタル大辞泉)
 ->  ->  -> 地官司徒
66 打開字典顯示相似段落 地官司徒:
以土圭之法測土深、正日景,以求地中。日南則景短多暑,日北則景長多寒,日東則景夕多風,日西則景朝多陰。日至之景,尺有五寸,謂之地中:天地之所合也,四時之所交也,風雨之所會也,陰陽之所和也。然則百物阜安,乃建王國焉,制其畿,方千里而封樹之。
地中に映ずる日影が短ければ暑く、長ければ寒い、東の日影が夕にあれば風が多く、西の影が朝に傾けば陰が多い、日影の長さは五寸あり、地中の天地が合し、四時(東西南北)の交わるところで、風雨が会うところで、陰陽が和すところ、百物大安なので、すぐにでも王国を立てるなりや。

隋唐ではみやこという現代的用法に変わっているという証拠文。


『隋書』 卷八十一列傳第四十六 東夷 俀国
俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居 魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王 夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也,古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近

俀国(倭国)は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。山の多い島に居住している。魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。夷人(倭人)は里数を知らない。ただ日を以って計算している。その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。地勢は東が高く西が低い。邪靡堆(ヤビタイ)を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤマタイ)である。古には、楽浪郡境及び帯方郡から一万二千里離れていて、會稽(郡)の東にあり、儋耳に近いと言われていた。」
*随書の上文は魏志倭人伝を正当に解釈していない。もっとも新出である俀国と書き換えていること、都をみやこ(首都)の意味に変えていること、會稽(郡)の東にあり、儋耳に近い等々魏志倭人伝とはまったく違うことを記しており、うっかりしていると曲解してしまう。随書は間違いだらけの後漢書を引いているといっていいだろう。とさて、文字は呪いである。以下、

俀( たい)について

『史記』は紀元前91頃に司馬遷が著した黄帝から前漢の武帝までの史書である。「俀」は「世家」三十巻の内、第三(史記巻三十三)の魯周公世家の君主宣公の名である。

『史記』の年表、「十二諸候年表第二」(史記巻十四)に魯国の宣公俀の記載がある。
(原文)
文公一八年 襄仲殺嫡,立庶子為宣公。
魯宣公俀元年。魯立宣公,不正,公室卑。

(訳)
前六〇九年、魯 襄仲は文公の嫡子を殺して庶子を立て、宣公とした。
前六〇八年 魯 魯宣公俀の元年。魯は宣公を国君に立てたが、正しい継承でなく、魯の公室は権威が地に落ちた。

史記の魯公の「俀」は、本来の継承者である嫡子二名を殺害し、擁立された君主である。宮廷クーデターといえる。年表でも短い文で「魯立宣公、不正」(魯、宣公を立てるが不正)と書いている。
唐代に『隋書』を著した魏徴が日本列島からの使者の国を「俀国」と書いたとき『史記』では、「俀」が「不正に継承した君主」と書かれていることを知らなかったとは思われない。 

このことから『隋書』の「俀国」とは、「倭奴国」を「不正に継承した国」であると、文字であらわしたと思われる。(野田 利郎)


都鄙の八則

 ->  ->  -> 天官冢宰
《天官冢宰》

58 打開字典顯示相似段落 天官冢宰:以八則治都鄙(とひ):一曰祭祀,以馭其神。二曰法則,以馭其官。三曰廢置,以馭吏。四曰祿位,以馭其士。五曰賦貢,以馭其用。六曰禮俗,以馭其民。七曰刑賞,以馭其威。八曰田役,以馭其眾。


「八つの規則をもって都鄙(とひ)を治める。一つには祭祀、その神を馭(ギョ)する、二つには法(官制)にのっとりその官吏を馭する、三つには廃置(異動)をもって官吏を馭する。四つには禄位(報酬)をもって士(兵)を馭する、五つには賦貢(税)をもって財政を馭する、六には禮俗(冠婚葬祭)をもって民を馭する、七つには刑罰と褒賞をもって威厳を馭する、八つには田役(屯田地の労役)をもって衆人を馭する」

*眾=众(zhòng)衆(多くの人)
都鄙(とひ)は他の都のから500里以上離れていて、在王畿之邊、京より遠い辺地にある領地なのです。
都の封建領主は、祖神を祭ることのほか、ほぼ行政のすべての任務があったことが分かります。
*馭(ギョ)するとは馬を馭するの用例からは治める、きちんと統制するという意味。

   
京師の用語解説:

京師に送る;”京師”とは天子のいるところ

*『儒家』『白虎通徳論』(東漢79年-
《白虎通德論》
[東漢] 79年-92年 班固著
《卷三》
《京師》

3 打開字典顯示相似段落顯示影印本 京師:
京師者,何謂也?千里之邑號也。京,大也;師,眾也。天子所居,故以大眾言之,明諸侯,法日月之徑千里。《春秋傳》曰:「京曰天子之居也。」《王制》曰:「天子之田方千里」。
4 打開字典顯示相似段落顯示影印本 京師:
或曰:夏曰夏邑,殷曰商邑,周曰京師。《尚書》曰:「率割夏邑。」謂桀也。「在商邑。」謂殷也。

3. 京師者とはなんといったらいいのだろうか? 千里ほどの邑をいうのです。京とは大きいという意味。師は眾(=衆・邑中の多くの人)という意味です。ゆえに天子のいる所です。大眾(京師)と言うのにはこれを明らかにしたのが諸侯法日月之徑千里です。明諸侯,法日月之徑千里。《春秋傳》では、京は天子のいるところなりと言っています。《王制》では、天子の田方千里のことを言うのだとしています。
4.京師は、夏では夏邑、殷では商邑、周では京師、と言っていました。《尚書》”桀”では「率割夏邑」言い、殷では”商邑”と言っていました。

用語解説:
*京(大きいの意味=天子のいる所、類字,鯨)
*京師(千里ある邑・天子のいる所)
*眾(=众(衆)
*里=前漢以前の周代の距離単位か?。法日月を基にした千里とは何を指すのでしょうか?『周髀算経(しゅうひさんけい)』に「凡日月運行,四極之道。」とあるので日月の法は「一寸千里の法」に結びつきそうです。谷本茂が論じたところによると、一里は76m~77mとされます。さまざまな里程論では、これを『短里』と称しています。長さを度といいますが、始皇帝が統一した基準を制定したことはよく知られた事実です。度量衡は天帝が制詔するするもので、始皇帝以後いわゆる短里が公里として定められたことはありません。

先秦兩漢 -> 《算書》 周髀算經 [漢] 公元前50年-100年 ->  ->  -> 卷上
一寸千里の法:夏至の南中点の時に地上に垂直に立てた長さ八尺の棒の影の長さが一寸ちがう地点を千里とする測量方法。ただし、技術的に南北の距離しか測れません。

京師の用例:
『三國遺事』/卷第一 作者:一然 (1206年--1289年)
「定方以義慈王及太子隆等送京師。今云會(会)扶餘王隆。則知唐帝宥隆而遣之。立為熊津都督也。」
蘇定方は義慈王及太子隆等を京師(洛陽)に送った。今伝える會扶餘王の隆である。唐帝は隆を許し熊津都督に為した。:(三国遺事は百済王隆と書かず會扶餘王隆と書いたのだろうか?百済は熊津遷宮以後、国号を南扶余と改めたが、それを引用しているのだろうか。)
*宥yòu(罪などを)寛大に許す,大目に見る.
もう一カ所、より詳細な記述があります。
「定方以王義慈。及太子隆王子泰。王子演。及大臣將士八十八人。百姓一萬二千八百七人送京師。」
「義慈王及太子隆等が王子泰、王子演、大臣88人、百姓12807人となっています。12807人の百姓は奴隷(生口)として連行したことです。
以上の高麗での『三國遺事』にある用例ですが、ここでの京師は唐の長安です。言えることは、京師でもって一単語でなのです。また、京城は王のいる所、王城になります。
上記の三國遺事の記載出来事は、下線の660年7月。
660年 唐の高宗、蘇定方に百済攻撃を命ず。新羅王にも派兵を命ず。
*660年7月11日 蘇定方・新羅軍、百済を攻略し、義慈王を面縛し、高宗に献じる。これ以後、新羅は次第に高句麗・百済の旧地を領有する。
660年12月 唐、契苾何力・蘇定方・劉伯英・程名振らに高句麗を攻めさせる。斉明天皇、百済の鬼室福信の要請に応えて、救援軍の派遣を決す。筑紫に向かうため、難波宮に幸して軍器を備える。(書記)

古代東アジア世界史年表
より
661年2月 百済の残賊(鬼室福信・僧道琛)、反乱し、泗沘城を攻める。倭国に質として滞在していた余豊璋を王となす。新羅王、救援のため、諸将を派遣する。また、唐の高宗、劉仁軌を救将として派遣する。ここでの倭国は日本列島のこと。
661年8月 将軍蘇定方、高句麗軍を浿江で破り、馬邑山を奪って平壌城を包囲する。
662年 鬼室福信に矢10万隻・糸500斤・綿1000斤・布1000端・韋1000張及び稲種3000斛を賜う。(書記)
663年 百済王豊璋、鬼室福信を殺害。(書記)
663年9月8日、劉仁軌の水軍、白江河口にて倭軍に大勝。また、周留城も攻略。百済王豊璋、高句麗へ脱出。扶餘忠勝・忠志らおよび倭国や眈羅国、降伏。遅受信のみ任存城によって降伏せず。
666年1月1日 高宗、泰山に到着。この日、泰山封禅
668年9月 唐に亡命した高句麗の泉男生(淵蓋蘇文ヨン・ゲソムンの長男)、謀って高句麗を滅ぼす。(書紀 天智6・10月条)唐軍、高句麗の王都平壌を陥し、宝蔵王らを捕える。高句麗滅亡。淵蓋蘇文は日本書紀では伊梨柯須彌(伊梨柯須弥、いりかすみ)もしくは蓋金として現れる。高句麗末期の最高位、大莫離支(テマクリジ)。
677年2月 唐、扶余隆を熊津都督帯方郡王とし、帰国させる。また、安東都護府を新城に移して百済故地を統括させる。このとき新羅強勢で隆は入国できず、高句麗に寄留していたが、そこで死去。のちに則天武后、百済義慈王の子の扶余隆の孫の敬に王位を継がせたが、故地は新羅・渤海・靺鞨に分割されていて、ついに国系は断たれる。

*新城は清の太祖(ヌルハチ、在位:1616年 - 1626年)女真族の大人が拠点にした城で、今の遼陽市にあり、その古名が公孫の襄平城である。百済の故地が遼東であることの裏付けとなる。扶余が玄莬から遼東に帰属した経緯から、百済は旧名が扶余の分岐した国ということだ。


宗廟で祀られるのは開祖


周(しゅう、拼音: Zhōu、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立したとみられる。周の伝説上の始祖は后稷と言い、帝舜に仕えて、農政に功績があったという。古公亶父の時代に周の地に定住したと言われている。

古公亶父には3人の息子があり、上から太伯・虞仲・季歴と言った。季歴の子の昌(後の文王、前1152年生 - 前1056年没)が誕生する際にさまざまな祥瑞が起こり、古公亶父は「わが子孫で栄えるのは昌の子孫であろうか」と言っていた。古公亶父が季歴に後を継がせたいと考えていることを知った太伯と虞仲は出奔して南の荊蛮の地に赴いた。太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は太伯を君となし、多くこれに従った。


前漢の高帝(劉邦(高祖)、在位:紀元前206年 - 紀元前195年)
魏の武帝(曹操、子の曹丕による追号)
呉の大帝(孫権、在位:222年 - 252年)
晋の文帝(司馬昭、武帝による追号)
前涼の武王・武穆王(張軌、在位:301年 - 314年)
前趙の光文帝(劉淵、在位:308年 - 310年)
後趙の武帝(石虎、在位:334年 - 349年)
前燕の文明帝(慕容皝、在位:337年 - 348年)
後涼の懿武帝(呂光、在位:384年 - 399年)
後秦の太祖(姚萇、在位:384年 - 393年)
北魏の太祖道武帝(拓跋珪、在位:398年 - 409年)
西涼の武昭王(李暠、在位:400年 - 417年)
北涼の武宣王(沮渠蒙遜、在位:401年 - 433年)
北燕の文成帝(馮跋、在位:409年 - 430年)
西秦の文昭王(乞伏熾磐、在位:412年 - 428年)
宋の太祖文帝(劉義隆、在位:424年 - 453年)
斉の太祖高帝(蕭道成、在位:479年 - 482年)
北周の太祖文帝(宇文泰、孝閔帝による追号)
唐の太祖景帝(李虎、李淵による追号)
閩の太祖昭武帝(王審知、在位:897年 - 925年)
十国呉の太祖(楊行密 在位:902年 - 905年)
後梁の太祖(朱全忠 在位:907年 - 912年)
呉越の太祖武粛王(銭鏐 在位:907年 - 932年)
大理国の太祖(段思平 在位:937年 - 944年)
後周の太祖(郭威、在位:951年 - 954年)
北宋の太祖(趙匡胤、在位:960年 - 976年)
西夏の太祖(李継遷、在位:985年 - 1004年)
遼の太祖(耶律阿保機、耶律億、在位:907年 - 926年)
金の太祖(阿骨打、完顔旻、在位:1115年 - 1123年)
元(モンゴル帝国)の太祖(チンギス・ハーン、在位:1206年 - 1227年)
明の太祖洪武帝(朱元璋、在位:1368年 - 1398年)
清の太祖(ヌルハチ、在位:1616年 - 1626年)金(女真)の大人(遼陽)

朝鮮
金官伽倻の太祖(金首露、在位:42年 - 199年)
高句麗の初代(東明王:在位:紀元前37年 - 紀元前19年)
高句麗の太祖大王(高宮、在位:53年 - 146年)
新羅初代の王(赫居世居西干:在位:紀元前57年 - 4年)
伯濟国の初代(餘温祚:)
百済の上祖(尉仇臺:先代は夫餘王)
高麗の太祖(王建、在位:918年 - 943年)
新羅の太祖(金春秋(武烈王):(在位:654年 - 661年)
朝鮮の太祖(李成桂、在位:1392年 - 1398年)
ベトナム
前黎朝の太祖(黎桓(レ・ホアン)、在位:980年 - 1005年)
李朝の太祖(李公蘊(リ・コン・ウァン)、在位:1010年 - 1028年)
陳朝の太祖(陳守度(チャン・トゥ・ド)、在位:1225年 - 1258年)
黎朝の太祖(黎利(レ・ロイ)、在位:1428年 - 1434年)
莫朝の太祖(莫登庸(マク・ダン・ズン)、在位:1527年 - 1529年)


京邑(けいゆう)について 

 《三國志》 [西晉] 265年-300年
《魏書二十二》
《陳羣傳子泰》
9 打開字典顯示相似段落 陳羣傳子... :
泰字玄伯。青龍中,除散騎侍郎。正始中,徙游擊將軍,為并州刺史,加振威將軍,使持節,護匈奴中郎將,懷柔夷民,甚有威惠。京邑貴人多寄寶貨,因泰市奴婢,泰皆挂之於壁,不發其封,及徵為尚書,悉以還之。嘉平初,代郭淮為雍州刺史,加奮威將軍。蜀大將軍姜維率衆依麴山築二城,使牙門將句安、李歆等守之,聚羌胡質任等寇偪諸郡。征西將軍郭淮與泰謀所以禦之,泰曰:「麴城雖固,去蜀險遠,當須運糧。羌夷患維勞役,必未肯附。今圍而取之,可不血刃而拔其城;雖其有救,山道阻險,非行兵之地也。」淮從泰計,使泰率討蜀護軍徐質、南安太守鄧艾等進兵圍之,斷其運道及城外流水。安等挑戰,不許,將士困窘,分糧聚雪以稽日月。維果來救,出自牛頭山,與泰相對。泰曰:「兵法貴在不戰而屈人。今絕牛頭,維無反道,則我之禽也。
」勑諸軍各堅壘勿與戰,遣使白淮,欲自南渡白水,循水而東,使淮趣牛頭,截其還路,可并取維,不惟安等而已。淮善其策,進率諸軍軍洮水。維懼,遁走,安等孤縣,遂皆降。

泰玄伯は青龍中(233年 - 237年)、散騎侍郎に任命されていた。正始中(240年 - 249年)は徙游擊將軍・幷州勅使になった。加えて、振威將軍,使持節,護匈奴中郎將に叙され、夷民を懐柔し、天子の恩恵がはなはだしいことを知らしめた。京邑には貴人が多く、寶貨を寄進してきたので、泰玄伯は奴隷の市を禁止しないことを城壁の壁に告知し、奴婢の尚書を返還した。こうして、ことごとく現状に戻した。嘉平初(嘉平1年7,8月),代郭淮為雍州刺史・加奮威將軍に上進した。蜀の大將軍姜維(きょうい)は衆を率いて麴山に二城を築き、使牙門將の句安を使者にだし、李歆等にこれに対して守らせ、人質を取っていた羌胡(きょうこ)に諸郡を侵攻させた。これに対して、征西將軍の郭淮と泰玄伯は防戦を謀った。泰曰く:「麴城は堅固な城であるといえども蜀から非常に遠いので軍糧を運ぶために、羌夷(羌胡)はその勞役を必ず嫌うだろう、今は兵糧を絶っておけば麴城(ちゅうじょう)を無血で奪えるだろう。山道は険しく阻害しており、また、兵(大軍)が救援できる地形ではない。郭淮(征西将軍・都督雍涼諸軍事)指揮下の陳泰・徐質(討蜀護軍)・鄧艾(南安太守・参征西将軍事)らは、其の兵糧を運こぶ道を絶ち、城外流水(洮水)を流して包囲し、突破を許さなかった。將士句安らは困窮し、雪を集めて水の代わりとし、渇きをしのぐ程だった。はたして、牛頭山からの軍量の支援を求めた。泰玄伯は曰く、「今、牛頭(首領)を絶てば、兵法では戦わずして勝つという道理に反することはないだろう。もはや敵は籠の鳥である。・・・中略・・姜維は怖れて遁走した。蜀の南安太守鄧艾らはみな投降した。」

*延熙十二年(えんき・蜀の劉禅の治世・249年) 麴山の戦い(ちゅうさん):秋、姜維(きょう い)は再度北へと軍を進める。姜維はまず彊川より隴右に出て、為翅の麴山に二つの城を築くと、そこに句安、李歆の二将を置いて備えとし、羌胡の人質を集めるとともに、自らは隴右河西諸郡へ侵入し、圧力を掛けた。この姜維の行動は、諸郡県の魏からの離反を誘うと共に、交通の要衝である為翅を押さえ、魏軍が容易には洮水へと達せられないようにする意図があった。敵の鋭鋒を恐れ、援軍が前進を躊躇して後方で勝機を待つという態度は、涼州の人々がかつて苦しめられた状況と同じである。彼らの怒りは魏へと向く、姜維はそれを狙っていた。
*青龍(せいりゅう)は、三国時代、魏の明帝曹叡の治世に行われた2番目の元号。233年 - 237年。青龍5年は3月に改元されて景初元年となった。

 ここでの、京邑は泰字玄伯が赴いた地は并州(へいしゅう)の晋陽Jin yangと思われる。
・幽州(ゆうしゅう)  薊Ji
・青州(せいしゅう)曹魏
・冀州(きしゅう)  鄴(ぎょう)
・并州(へいしゅう)晋陽Jin yang
・徐州(じょしゅう) 小沛
・兗州(えんしゅう) 曹魏
・豫州(よしゅう)  曹魏  許都(河南省許昌市)・沛国Pei
・司州(ししゅう)・司隷Si li 雒陽Luo yang・
・雍州(ようしゅう )雍州と涼州を統合 長安
・涼州(りょうしゅう) 漢陽Han yang 
・揚州(ようしゅう) 孫呉 建業
・荊州(けいしゅう)孫呉  襄陽
・益州(えきしゅう) 蜀漢(劉備) 成都
・交州(こうしゅう) 孫呉  交趾Jiao zhi

以上、三国時代の全14州と主要都城=京邑
*「許都」という呼び名は、196年に長安から洛陽まで逃れてきた献帝と側近達を保護した曹操が、洛陽が炎上していたため、天子の行幸(仮宮)という形で「許」を暫定の京師としたことからついた通称。


「京都に詣でる」について:


 春秋戦国時代と三国時代では「京都」の意味が変わっていた。

京都(けいと)の【用例】

電子圖書館
《先秦兩漢》 《史書》 《後漢書》 [南北朝] 420年-445年
《志》
《五行四》

27 打開字典顯示相似段落 五行四:
順帝永建三年正月丙子,京都漢陽地震。漢陽屋壞殺人,地坼涌水出。是時順帝阿母宋娥及中常侍張昉等用權。
訳:
順帝永建三年正月丙子(128年)京都漢陽に地震があった。漢陽の家屋は倒壊し死者がでた。地は裂け、水が湧き出た。この時、順帝は阿母宋娥と中常侍張昉らと用權(ようけん)に居た。

解説:
順帝(じゅんてい)は、後漢の第8代皇帝。永建年間は(126年 - 131年)です。
順帝(じゅんてい)の首都は洛陽でした。
しかし、漢陽は中国、後漢時代の天水郡(現在の天水市)の別名。漢陽郡。74年(永平17年)、天水郡は漢陽郡と改称されています。涼州(りょうしゅう)にある漢陽Han yangのことです。長安の西に位置します。
ですから、漢陽は順帝のいわゆる”みやこ”ではありませんね。
用語:
*地坼涌水出=地割れと液状化現象
*順帝 劉保,後漢,第8代皇帝,在位期間 125年12月16日 - 144年9月20日,永建3年(128年)、相次ぐ天災(頻発する地震と蝗害(こうがい);いなごの大量発生による災害)を受けて巡察や救貧政策が採られた。9月、鮮卑が漁陽に侵攻した。12月、太傅の桓焉が免職となった。この年に車騎将軍の来歴が罷免された。
*中国の蝗害は日本では想像できないほどその規模はすさまじく、大災害として農民に恐れられていた。イナゴの大群は数百万匹に達し真っ黒な雨雲のように太陽を覆って飛来し、広大な草原や耕地を荒れ地に化してしまう。かつて南京攻略の日本軍を蝗軍と揶揄した例がある。

《史記》
[西漢] 公元前109年-公元前91年 司馬遷著
《列傳》《黥布列傳》
12 打開字典顯示相似段落 黥布列傳:
七年,陳。八年,雒陽。九年,長安。
《漢書》
[新 - 東漢] 36年-111年 提到《漢書》的書籍 電子圖書館
《傳》
49 打開字典顯示相似段落 韓彭英盧... :
六年,朝陳。七年,朝雒陽。九年,朝長安。

”京都”が漢陽なのですから、周代では京都は天子の居る所と定義できません。

しかし、京都は三国時代には皇帝のいる処に変化しています。

京都(けいと)の【用例】は5世紀ごろ後漢書で現れてくる熟語ですが、どう訳したらいいのでしょうか。
漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 魏書三 -> 明帝紀
明帝紀: 二年春二月乙未:・・・「俾逆臣董卓,播厥凶虐,焚滅京都
董卓が火を付けたのは洛陽であるので、三国時代には天子のいる宮処を京都といっていたのですね。曹操がこの廃墟となった洛陽から許都に移ったことを遷宮と言わず、許都遷都としています。黄巾の乱の蜂起(184年)による漢朝の動揺から西晋による中国再統一(280年)までを三国時代といいますが、この時代には皇帝のいる宮城を京師とはいわずに京都と称してしたのです。
明帝紀:
丙寅,司馬宣王圍公孫淵於襄平,大破之,傳淵首于京都,海東諸郡平。冬十一月,錄討淵功,太尉宣王以下增邑封爵各有差
 「司馬宣王(司馬懿仲達)が襄平城を破り公孫淵を襄平で破り、公孫淵の首を取ったことを京都に伝えた。海東諸郡(楽浪郡・帯方郡)を平定した。冬十一月に公孫淵を討ったことを記録し、司馬懿以下にそれぞれ差異をつけて禄を与えた。」、明帝に知らせたのですから、京都が首都であることに相違ないと思われます。

   ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
では魏志倭人伝を見てみましょう:「 王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露、傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯」
上記の魏志倭人伝よりの抜粋に京都という語がありますよね、ところが京都へもう出ていた国がほかにもありました。「毎年のように使いを送り、京都に貢献していた」それは扶余伝に書かれています。以下、その原文。

《魏書三十》
電子圖書館
《夫餘傳》
3 打開字典顯示相似段落 夫餘傳:
夫餘本屬玄菟。漢末,公孫度雄張海東,威服外夷,夫餘王尉仇台更屬遼東。時句麗、鮮卑彊,度以夫餘在二虜之間,妻以宗女。尉仇台死,簡位居立。無適子,有孽子麻余。位居死,諸加共立麻余。牛加兄子名位居,為大使,輕財善施,國人附之,歲歲遣使詣京都貢獻。正始中,幽州刺史毌丘儉討句麗,
ここでは、壹與が共立される前に、简位居が死に、麻余が共立され王になったのですが、牛加の位居に国人の人気が集まり、麻余は誅殺されたのですね。
ところが、牛加の位居は実権をもったはずですが、倭人伝では壹與を共立したとされています。倭人伝では「更立男王,國中不服,更相誅殺,當時殺千餘人。復立卑彌呼宗女壹與,年十三為王,國中遂定」と書かれている真相です。
国中不服さらに相誅殺というのは麻余が殺されたということです。

年年京都に貢献していたのが事実なら九州の伊都国王より上手がいたということになります。

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塞について・・・塞曹掾史とは


塞とは万里の長城の防壁のことです。塞内、塞外とは万里の長城のなか、そと、を意味します。下の図での黄色い線は紀元前445年から222年までの間、オレンジの線は紀元前206年から紀元後220年までの長城のあったラインです。平壌は含みませんが北側十数キロメートルに万里の長城があったことが確認できます。帯方郡に塞曹掾史がいてもおかしくないということです。曹掾史とは大司馬の下の中級の実務官の名称です。塞曹掾史は「長城監視情報官」といった意味になります。
掾(えん):三公府や将軍府の属僚。
曹掾:は大将軍の属官として、西曹掾、東曹掾、戸曹掾、倉曹掾、賊曹掾、金曹掾、水曹掾、兵曹掾、騎曹掾、鎧曹掾、営曹掾、などがありました。
これらに準じると塞曹掾は、中国の秦・漢代に中央朝廷と地方官署内に設けられた執行機関の一つで、大司馬の下の組織である大将軍府の属官と考えていいでしょう。(軍師・長史・従事中部・主簿・参軍・記室・西曹掾・東曹掾・戸曹掾・倉曹掾・金曹掾・水曹掾・兵曹掾・騎兵掾・鎧曹掾・営軍都督・刺姦都督・張下部督・舎人)・・・この中には曹掾という官名が多いように、軍の統括の下のさまざまな役所の指揮官(実働部隊の長)といったところです。楽浪郡を包むように万里の長城が朝鮮半島にも伸びていましたから、塞曹掾史とは長城の防衛にあたる史官でしょう。史:(古代に歴史をつかさどった)史官。史官(前王朝の史料・史書を整理・編纂し,現王朝の史実を収集・整理する役人)とされますので、どちらかといえば武人ではなく文官と考えられます。
塞曹掾史:・・・とは長城の塞内外の軍事情報官。



遼東郡、玄莬郡、楽浪郡を取り囲んで万里の長城があり、帯方郡は塞外であった。204年公孫康が楽浪郡の南に帯方郡を置き、帯方郡の移民(主に夫餘)をもって兵を起こし、韓濊を討ち、ついに倭と韓を征圧する。これによって後漢献帝は東夷との通交を断れた。238年公孫燕が滅亡したが、その間25年間、倭地は政治的には公孫氏の軍政下にあった。しかし、その実力部隊は北夫餘兵であった。そうすると、尉仇台系の夫餘が先に九州北部に侵入し、あとから辰国伽耶系、続いて346-375年の間に漢江百済系王族が肥後から侵入し書記のとおり東遷して大和王朝を建国したことになる。七支刀(379年)はその両勢力の手打ちの証であるのだ。七支刀は369年ではなく379年とする説は七支刀のTABに論説。

主な長城・関の一覧

長城本線の東端、老龍頭

明代・慕田峪長城

明代の長城西端にあたる嘉峪関の門
※東から西の順。

北京以東
虎山長城
遼寧省丹東市にあり、明代長城の支線の東端にあたる。
老龍頭長城(ろうりゅうとう)
山海関にほど近い長城。ここで明代長城の本線は海中に没する。
山海関(さんかいかん)
河北省秦皇島市にあり、明代長城本線の東端にあたる。
黄崖関長城(こうがいかん)(天津市薊州区)
北京周辺
※北京近辺で訪問できる場所

司馬台長城(しばだい)
険しい山の上に築かれている。あえてあまり修復されていない。
金山嶺長城(きんざんれい)
慕田峪と司馬台の間にあり、司馬台とお互いに徒歩で行き来できる。
蟠龍山長城
あえて全く修復せずに公開された長城。崩れかかった長城の上に歩道だけを整備して公開された。
古北口長城(こほくこう)
大榛峪長城(だいしんよく)
黄花城長城(こうかじょう)
慕田峪長城(ぼでんよく)
八達嶺に次ぐ著名な見学地。ロープウェイが存在するため登りやすい。
箭扣長城(せんこう)
八達嶺長城(はったつれい)
もっとも有名な見学地。ツアーのほか北京市内からの路線バスも頻繁にあり、多くの観光客が押し寄せる。
水関長城(すいかん)
居庸関 ・居庸関長城(きょようかん)
八達嶺長城のすぐ北京寄りにある。元代に建築された雲台が著名。2006年に修復後公開された。
挿箭嶺長城(そうせんれい)
北京以西

明・長城の狼煙台(楡林市)
老牛湾長城(ろうぎゅうわん)
楡林鎮北楼(ゆいりんちんほくろう)
三関口長城(さんかんこう)
トングリ砂漠長城
丹峡口長城(たんきょうこう)
嘉峪関(かよくかん)
甘粛省嘉峪関市にある関で、明代長城の西端にあたる。
河倉城(かそうじょう)
玉門関(ぎょくもんかん)
甘粛省敦煌市にある関で、嘉峪関よりは西にあり、漢代長城はここを西端としていた。
陽関(ようかん)
玉門関と共に「二関」として設置され、玉門関のすぐ南にあるのでこう呼ばれた。

「臺(たいtái)に詣でる」、について。

《魏晉南北朝》
《道德真經註》
[三國 (220年 - 265年)] 王弼著
《巧蓺》
2 打開字典顯示相似段落 巧蓺:
陵雲臺樓觀精巧,先稱平眾木輕重,然後造構,乃無錙銖相負揭。臺雖高峻,常隨風搖動,而終無傾倒之理。魏明帝登臺,懼其勢危,別以大材扶持之,樓即穨壞。論者謂輕重力偏故也。・・・

訓読;「陵雲臺の樓觀の精巧たるは、先に眾木の輕重を稱りて平らげ、然る後に構えて造れば、乃ち錙銖も相い負く無し。臺の揭ぐること高峻にして、常に風に隨いて搖れ動きたると雖ど、而して終には傾倒の理無し。魏の明帝は臺に登れるに、其の勢の危きを懼れ、別に大材を以て之の持するを扶けんとするに、樓は即ち穨壞す。論者は輕重の力の偏りたる故なりと謂う。」

現代語訳;「凌雲臺(りょううんだい)の楼観は精巧です。先に平らな多くの木を秤りを軽重をぴったり合わせます。しかる後に組み立てますから、そこで、ごくわずかな重さの違いもないので木と木がはがれることがありません。”臺”が高く険しくても風に従って揺れ動いても倒れることがないのはこのためです。魏の明帝がこの凌雲臺に登りましたが。風の勢いが強く危ないと思って別の大材を以て支え、倒れないようにしようとしたが、高楼はたちまち崩れ落ちてしまった。論者は軽重の偏りが原因だと言う。」

*銖錙 (しゅし) 。昔、中国の量目で、100粒の黍 (きび) を1銖とし、24銖を1両、8両(または6両とも)を錙としたところから》わずかなこと。また、ごく小さいこと。漢代の斤を226.67グラムと仮定すると、銖は約0.590グラムに当たる。
*揭 jiē:くっついているものを)はがす,めくる,


中国风水墨楼台(想像参考図)

「闕(けつ」、について


《太平御覽》[北宋]977年-984年/《四夷部二·東夷二》 建武中,東夷諸國皆來獻見。二十五年(49年),夫餘王遣使奉貢,光武厚荅報之,於是使命歲通。至安帝永初五年(111年),夫餘王始將步騎七八千人寇鈔樂浪,殺傷吏民,後復歸附。永寧元年(120年),乃遣嗣子尉仇台印貢獻,天子賜尉仇台印綬金綵。順帝永和元年(136年),其王來朝京師,帝作黃門鼓吹、角抵戲以遣之。桓帝延熹四年(161年),遣使朝賀貢獻。永康元年(167年),王夫台將二萬餘人寇玄菟,玄菟太守公孫域擊破之,斬首千餘級。至靈帝熹平三年(174年),復奉章貢獻。夫餘本屬玄菟,獻帝時(189年- 220年),其王求屬遼東云。

建武中に光武帝の朝賀に東夷の諸国は皆やってきて奉献した。二十五年には夫餘王が使をよこして奉賀に遣って来た。光武帝は厚くこれに答えた。此処により歳時に使いを命じた。安帝の永初五年(111年)に至って扶余王の始將は騎馬兵と歩兵八千人で楽浪を強奪し官吏や衆を殺傷した。そののち再び帰属した。永寧元年(120年)、こうして嗣子の尉仇台が印綬を拝するために入って貢獻をした。天子は尉仇台に印綬金綵を賜わった。順帝永和元年(136年),其王尉仇台は京師に來朝し,皇帝は黃門鼓吹や角抵戲を以って尉仇台をもてなした。・・・
尉仇台が闕(けつ)に詣でて貢獻した。尉仇臺が京闕(けいけつ)に詣でた。
闕(けつ)とは、*闕(けつ):祠廟,陵墓などの門前の両脇に張り出して左右対称に設けられた望楼のことを言います。一般には門を挟んで二つ並んでいる楼観のこと。転じて宮城となる。京闕は洛陽の天使の住まう宮殿、いわゆる宮中が闕なのだろう。
*黃門鼓吹、角抵戲、歓迎の宴で演じられる演舞。


中国の双闕
中国の双闕(そうけつ)

用例;
《鮮卑傳》
2 .「建武三十年,鮮卑大人於仇賁率種人詣朝貢」
「建武30年、鮮卑の仇賁にいた部族長は諸部族長を率いて闕に詣でて朝貢した。」
3..「黃初五年,步度根詣貢獻」
「黃初五年,步度根は闕に詣でて朝貢した。
《烏丸傳》
「弟阿羅槃等詣朝貢」
「弟阿羅槃らはに詣でて朝貢した。」

《濊傳》:
正始六年,樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵以領東濊屬句麗,興師伐之,不耐侯等舉邑降。其八年,朝貢,詔更拜不耐濊王。居處雜在民間,四時詣郡朝謁。二郡有軍征賦調,供給役使,遇之如民。
「正始6年、楽浪太守劉茂と帯方太守弓遵は高句麗に属する領東の濊を興師(王頎)にこれを討たせた。不耐候は邑を挙げて投降した。闕に詣でて朝貢したので帝は詔書を発して不耐候を不耐濊王となした。不耐王に城郭はなく、民間の中に雑じって居た。帯方郡・楽浪郡に時に応じて詣でており、軍や賦調・使役の供給などを行い、郡の民のごとく遇した。」
ここでは、不耐候が闕に詣でたとありますが、朝貢です。天子から王号を賜っていますので闕に詣でるとは京都に詣でたことと同意です。

*「詣朝貢」がワンフレーズで使用されています。

詣について

詣でるの用語はいずれも属国が皇帝の居る所、および太守の居る所に行くことです。

用例から見てみよう。《魏書三十》の中に35カ所つかわれています。
通例では、使+詣+天子(中国)の構文になります。例外として主語が天子になった場合、天子+詣+属国名(夫餘,倭国)の例は、原則と逆ですから、詣でた倭国、詣でた夫餘というように訳すことなります。(順行の修飾語)


檢索範圍: 魏書三十 檢索類型: 段落
條件1: 包含字詞"詣" 符合次數:35.
共19段落。第1頁,共2頁。 跳至頁1 2
《魏書三十》
《烏丸鮮卑東夷傳》
2.「烏丸大人郝且等九千餘人率衆闕」
《烏丸傳》
1.「袁紹與公孫瓚連戰不決,蹋頓遣使紹求和親,助紹擊瓚,破之」

《鮮卑傳》
2 .「建武三十年,鮮卑大人(王・首長)於仇賁率種人闕朝貢」
 「後烏丸校尉耿曄將率衆王出塞擊鮮卑,多斬首虜,於是鮮卑三萬餘落遼東降。」
3.黃初五年,步度根闕貢獻
《軻比能傳》
2.比能數款塞,貢獻。
《烏丸傳》
3.「魏畧曰:景初元年秋,遣幽州刺史毌丘儉率衆軍討遼東。右北平烏丸單于寇婁敦、遼西烏丸都督率衆王護留葉,昔隨袁尚奔遼西,聞儉軍至,率衆五千餘人降。寇婁敦遣弟阿羅槃等闕朝貢,封其渠帥三十餘為王,賜輿馬繒采各有差。」
《夫餘傳》
3.「正始中,幽州刺史毌丘儉討句麗,遣玄菟太守王頎,夫餘位居遣大加郊迎」
*(王頎に詣でたところの夫餘は位居を遣わし、大加(王)は郊外まで出迎えた。*王頎と夫餘の上下関係を踏まえると、王頎が夫餘に詣でることは客観的にありえません。太守とは皇帝を体現する勅使になります。)
《高句麗傳》
2.「莽不聽,詔尤擊之。尤誘期句麗侯騊至而斬之,傳送其首長安。莽大恱,
5.「自伯固時,數寇遼東,又受亡胡五百餘家。建安中,公孫康出軍擊之,破其國,焚燒邑落。拔奇怨為兄而不得立,與涓奴加各將下戶三萬餘口康降,還住沸流水。」

倭人伝には11文字
2.「其使中國」
 「已葬,舉家水中澡浴,以如練沐」
 「其行來渡海中國,恒使一人」

3.「王遣使京都」
「傳送文書賜遺之物女王」
6.「景初二年六月,倭女王遣大夫難升米等郡,求天子朝獻,太守劉夏遣吏將送京都

7.「正始元年,太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印綬倭國」
 *建中校尉は建忠校尉の誤りですが、皇帝が官に除した冠名です。詔書印綬を与えた主語は皇帝で脱字しています。とうぜん印綬をあたえた目的語は倭国ですから、したがって、詣を修飾語として、「詣でた倭国」とすべきなのです。梯儁(ていしゅん)が倭国に詣でたというのは誤訳です。

8.「遣倭載斯、烏越等郡說相攻擊狀」
卑弥呼の使いである倭載斯、烏越は郡に詣でて、郡にいた太守王頎が相攻擊狀を説いたと訳すのが正しいのです。

9.「壹與遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等還,因臺」
この9.の条を含めて3-7はいずれも倭国が洛陽に朝貢した記録と読み取る必要があるのです。

奉について

奉;奉貢朝賀の略;諸侯や外国の使いが来朝して、朝廷に貢物をさし出すこと(日本国語大辞典)

奉貢朝賀を奉の一文字に略していると考えます。
唐の杜佑が編纂した『通典』によれば、漢の高祖(劉邦、在位:紀元前206年 - 紀元前195年)が初めて朝賀儀を行ったとされています。歴の改元は天極を統べる天子だけが行える聖なる儀式で、改元のとき、従属国はその儀式に参加し、天子を祝い忠誠を誓うというわけです。こうして字義としては、「雒陽に出向き天子に拝し、祝いの貢献をすること」、となるのです。
改元の儀に際しては恩赦が行われます。貢献してきた侯国には返礼の答物が与えらますが、皇帝の威厳を示すため貢献品以上の高価なものを与えます。
奉貢朝賀;例文
「建武中元二年(57年)倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬。」(後漢書原文)

建武中元(けんぶちゅうげん)は、後漢の光武帝劉秀の治世に行われた2番目の元号。56年 - 57年。劉秀が建武中元元年:2月、泰山で封禅の儀をおこないました。4月、改元して建武32年を建武中元元年としたのです。光武帝の晩年の62歳になってやっと封禅の儀を行ったことになります。ところが光武帝は建武中元2年2月5日に63歳で没しています。
倭奴国が朝賀したのはこの泰山での封禅の儀をおこなったことを契機とした改元祝賀奉献のために雒陽に詣でたのです。東夷だけでも100余国以上が参列したものと推測できます。よって、光武帝から金印や銀印が与えられたのは数百国となるでしょう。後漢書はこのなかに倭奴国があったと推測したにすぎません。
《三国志魏書烏丸傳》
3.「後樓班大,峭王率其部衆,樓班為單于,蹋頓為王。」
《三国志魏書軻比能傳》
2.「太和二年・・・比能數款塞,詣州貢獻。」
《三国志魏書東夷傳》
1.「魏興,西域雖不能盡至,其大國龜茲(クチャ)、于寘、康居、烏孫、踈勒(ソロク)、月氏、鄯善、車師之屬,無歲不朝貢」
「魏が起こって西域までもが圏外ではなかった。その大国である龜茲、于寘、康居、烏孫、踈勒、月氏、鄯善、車師之屬國等は奉朝貢をしない年はなかった。

《三国志魏書倭人傳》
6.「其年十二月・・・・帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次使都市牛利,汝所獻男生口四人,女生口六人、班布二匹二丈,以到。」
「景初2年12月・・・帯方太守劉夏は女王卑弥呼の大夫難升米、次使都市牛利を奉献させた。(明帝曰)汝の所領で捕らえた虜4人と女の慮6人、班布二匹二丈を以て洛陽についた。」


7.「正始元年"太守弓遵"遣"建中校尉梯儁"等,詔書印綬詣倭國拝假,倭王并齎詔賜,金帛錦,罽刀,鏡釆物,倭王因使上表荅謝詔恩」
「正始元年、太守弓遵は建忠校尉梯儁を奉賀貢獻させた。皇帝は詔書と印綬を詣でた倭国に拝假した」
 景初二年は、公孫氏戦勝儀式(凱旋式)、正始元年は改元祝賀式に属國としての義務を果たしたものと考えるのが筋であろう。



:いわゆる和語となった朝賀の意味→朝賀(ちょうが)とは、律令制において毎年元日の朝に天皇が大極殿において皇太子以下の文武百官の拝賀を受ける行事。『続日本紀』大宝元年(701年)条には朝賀の細かい様子が描かれており、この頃に儀礼としてのスタイルが確立したとみられている。元日の天皇は朝から四方拝・供御薬・朝賀の順で儀式をこなし、平安時代に作成された『貞観儀式』(巻6「元正朝賀儀」)(Wikipediaより)

入見天子
とは・・・・(蛮夷の君長が訴えを申し出ること)

先秦兩漢 -> 史書 -> 漢書 -> 傳 -> 西南夷兩粵朝鮮傳
《西南夷兩粵朝鮮傳》
箕子は殷(いん)の王族 古代中国の殷の賢人,箕子が朝鮮半島北西部に亡命して,古代王朝(箕子朝鮮)を建設したという説。『尚書』(→書経),『史記』『漢書』などの中国史料に,殷滅亡の際,箕子が朝鮮に逃れて礼楽を教え,犯禁八条を定め,周の武王がこれを朝鮮侯に封じたと記されているが,単なる伝承にすぎない。

朝鮮王滿,燕人。自始燕時,嘗略屬真番、朝鮮,為置吏築障。秦滅燕,屬遼東外徼。漢興,為遠難守,復修遼東故塞,至浿水為界,屬燕。燕王盧綰反,入匈奴,滿亡命,聚黨千餘人,椎結蠻夷服而東走出塞,度浿水,居秦故空地上下障,稍锁屬真番、朝鮮蠻夷及故燕、齊亡在者王之,都王險。

朝鮮王満は燕人である。真番に略属していた。築障を朝鮮の官吏とした。燕王の盧綰は(朝鮮王満に対して)反し、秦が滅亡し、秦の時からの領域を空地として防衛せず、匈奴が侵入したので、満は浿水を越えて塞外(燕長城の外)に亡命した。断髪した蛮夷が集り、千余人が追従した。漢が興り、浿水を境として塞内と改め、遠難を太守となした。亡命した朝鮮夷族および燕と齊の亡命者は王險を都地にした。(意訳)

39 打開字典顯示相似段落 西南夷兩... :
會孝惠、高后、天下初定,遼東太守即約滿為外臣,保塞外蠻夷,毋使盜邊;蠻夷君長欲入見天子,勿得禁止。以聞,上許之,以故滿得以兵威財物侵降其旁小邑,真番、臨屯皆來服屬,方數千里。
天子である會孝惠の高后(漢皇祖の次の皇帝惠帝のときの皇太后・呂太后のこと)は天下を初めて定め、満を遼東太守に降格し、外地の蛮夷を治めるように命じた。高后は使者をだして辺境の地を漢の領土(我が物)にしようとした。毋(ブ)は使者を出して周辺国をも取ろうとした。朝鮮の君長は天子に上書を持って謁見求めたが天子は禁じた。君長たちは満に付くことにした。萬は不満をもち、兵をもって君長たちの遼東周辺の村を寇略した。真番、臨屯はみな服属して、その領域は方数千里に及んだ。


40 打開字典顯示相似段落 西南夷兩... :
傳子至孫右渠,所誘漢亡人滋多,又未嘗入見;真番、辰國欲上書見天子,又雍閼弗通。元封二年(げんぽう・前109年),漢使涉何譙諭右渠,終不肯奉詔。何去至界,臨浿水,使馭刺殺送何者朝鮮裨王長,即渡水,馳入,遂歸報天子曰「殺朝鮮將」。上為其名美,弗詰,何為遼東東部都尉。朝鮮怨何,發兵攻襲,殺何。
*元封2年秋:楊僕・荀彘を将として朝鮮に派兵。
*元封3年夏:衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡・玄菟郡・臨屯郡・真番郡の漢四郡を設置。
朝鮮王衛滿の傳子,孫の右渠(衛右渠(えい・うきょ)になって漢人の亡命人は増え続け、いまだかつて謁見したことがなかった真番、辰國は天子に流入を防ぐように、また雍閼を通行できないように上書を出すことを欲した。漢の使者・譙は右渠に皇帝の命令を以て漢に従うよう交渉したが、右渠はついに肯定しなかった。また、使者が浿水を渡り去ろうとしたところ、刺客を送り使者を殺そうとした。浿水を渡り、国に帰り、天子に報告すると、天子は「朝鮮の右渠を殺せ」と命じた。元封二年(げんぽうにねん・前109年)命令を拝した美は、遼東の東部都尉を説得し、いかに憎みをもち、いかに攻撃して、満を殺すか、談判した。

41 打開字典顯示相似段落 西南夷兩... :
天子募罪人擊朝鮮。其秋,遣樓船將軍楊僕從齊浮勃海,兵五萬,左將軍荀彘出遼東,誅右渠。右渠發兵距險。左將軍卒多率遼東士兵先縱,敗散。多還走,坐法斬。樓船將齊兵七千人先至王險。右渠城守,窺知樓船軍少,即出擊樓船,樓船軍敗走。將軍僕失其眾,遁山中十餘日,稍求收散卒,復聚。左將軍擊朝鮮浿水西軍,未能破。

皇帝孝惠は罪人を集め、朝鮮を攻撃した。樓船將軍楊は渤海を渡り、兵五万、左將軍荀彘は遼東を出て、右渠(ウキョ・萬の子)を誅殺すべく出撃した。右渠は兵を発して王險城を守り迎え撃った。
樓船軍は兵が少なく、城を落とす見込みが少なかったが、出撃して負けて敗走した。将軍は兵を失ったが山中に十日潜んで、再び兵を集合した。左将軍の率いる西軍は浿水を破り、渡りきることができなかった。


42 打開字典顯示相似段落 西南夷兩... :


天子為兩將未有利,乃使衛山因兵威往諭右渠。右渠見使者,頓首謝:「願降,恐將詐殺臣;今見信節,請服降。」遣太子入謝,獻馬五千匹,及餽軍糧。人眾萬餘持兵,方度浿水,使者及左將軍疑其為變,謂太子已服降,宜令人毋持兵。太子亦疑使者左將軍詐之,遂不度浿水,復引歸。山報,天子誅山。

天子は両将軍が未だに有利でないため、一心にわびて「降伏を願い出て、」太子をさしだしてわび、馬五千匹、および軍糧を贈った。萬余の兵をあつめて浿水を渡り


43 打開字典顯示相似段落 西南夷兩... :
左將軍破浿水上軍,乃前至城下,圍其西北。樓船亦往會,居城南。右渠遂堅城守,數月未能下。


左将軍は浿水の上軍を破り、城下に至り、その西北を取り囲んだ。樓船はまた戻り、
城の南側に陣をとった。右渠は固く城を守ったが、数か月しても下落しなかった。

島根県立古代出雲歴史博物館にある年号銅鏡、景初三年の銘文のある銅鏡が展示されています。この鏡は島根県神原神社(カンバラジンジャ)古墳から出土した三角縁神獣鏡ですが、鏡に「景初三年陳是作……」の文字が鋳出されている点です。卑弥呼が賜った鏡の一つではないかと言われています。41文字があり、なんと、この中に京師という文字が記されています。


「景初三年、陳氏この鏡を制作する。ある経述によると、もと京師だった杜の地で作り出され、この鏡をもつものは、役人(吏人)であれば三公の位に登り、女性ならばよい子孫に恵まれ、金石のごとく長寿を保つと刻まれているなり。」

 おみくじの大吉みたいな内容じゃありませんか。男なら出世し、女なら子宝に恵まれる。三角縁神獣鏡の銘文がこんな内容だったんですねえ。この鏡、縁起物のようですね。よく女性の古墳から出土するわけがすっきりしました。それよりも京師という文字と杜の文字があったことのほうが驚きです。学んだばかりの文字が、三角縁神獣鏡にあったのですから。ポイントとしては杜地が元”みやこ”であったこと、かつ前漢宣帝の陵のあった地だと解釈します。

注:兮:漢文の助字、置き字。古詩によく見られ、語調を整える。呉音 : ゲ、漢音 : ケイ
*三公:朝廷の最高権力者。周においては、太師、太傅、太保の3官職が三公と呼ばれていた。周では宮廷の庭に槐(えんじゅ)の木が植えられ、三公は政務の際に槐に向かって座す定めであったため、三槐とも雅称される。または、三台星にちなんで三台とも。秦や前漢では行政を司る丞相(大司徒)、軍事を司る太尉(大司馬)、監察・政策立案を司る御史大夫(大司空)の3官が三公と呼ばれ、後漢以降(25年~)は大司徒・大司馬・大司空と名を改められた。

 ->  ->  ->  -> 西南夷列傳
《西南夷列傳》
8 打開字典顯示相似段落
西南夷列... :南越破後,及漢誅且蘭邛君,并殺筰侯,冄駹皆振恐,請臣置吏。乃以邛都為越巂郡,筰都為沈犁郡,冄駹為汶山郡,廣漢西白馬為武都郡。

南越を破った後、および漢が(西南夷の)且蘭(しょらん)の邛君(きゅうくん)を誅し、併せて筰侯(さくこう)を殺した。冄駹(ランマン在今四川茂汶地区古代南西部の国)は恐れ震え、(降伏し)臣になり、史を置くことを請うた。これをもって邛都(きゅうど)を越巂(えつすい-ぐん/ユェシー)となし、筰都(さくど)を沈犁郡となし、冄駹を汶山郡とし、廣漢西白馬を武都郡と為した。

   

解説:秦末から漢の初めにかけて、現在の雲南省の一帯には西南夷と総称される諸族が小さな国に分かれて住んでおり、後の越巂郡の地は邛(きゅう)と呼ばれていた。古代中国の少数民族の国名。今の四川省にあった。現在の広東省及び広西チワン族自治区には南越があり、西南夷諸国は漢と南越の両方に通交していた。武帝の元鼎4年(紀元前113年)頃に南越と漢が戦争状態に入ると、漢は西南夷諸国を動員して南越と戦わせようとしたが、諸国は従おうとしなかった。武帝の元鼎6年(紀元前111年)に独力で南越を滅ぼした漢軍は、雲南地方に侵入して小国の王を殺し、各地に郡を立てた。その例が筰都を沈犁郡になし、邛都を粤巂郡(越巂郡)となした。都を郡に改名したのは、都は封建制の邑(国)名称だったからで、漢が直轄支配にしたということです。

用語:

*且蘭(しょらん)県:歴史上,雲南,貴州方面の政治・軍事の要地で〈滇南(てんなん)の門戸〉と称せられたが,古くは,西南夷の地であった。前2世紀漢の武帝によって牂牁(しようか)郡がおかれ、少数民族の首長をもつ且蘭(しよらん)県の地となった。

*越巂郡(えつすい-ぐん)は、中国の漢代から唐代まで、現在の四川省西南部と雲南省東北部にまたがって置かれた郡である。越嶲郡、粤巂郡とも書く。上記の西南夷列.で、越巂郡の地は邛(きゅう)と呼ばれていたことが分かる。


以下の文字は”旁(つくり)”がおおざとの単語を集めています。おおざと「邑」は人の居住地・地名などを表す文字を作ります。
三省堂の大辞林での意味は:
①むら。集落。
②中国,西周および春秋時代初期の城壁で囲まれた都市国家。また,諸侯の封土をさす。

 小篆体
(しょうてん
   漢字データーベース  說文解字第六篇下 金壇段玉裁注 成立年代 清 
     有先君之舊宗廟曰都。左傳曰。凡邑有宗廟先君之主曰都、無曰邑。周禮大司徒注曰。都鄙者、王子弟公卿大夫采地。其都畍曰都。鄙、所居也。載師注曰。家邑、大夫之采地。小都、卿之采地。大都、公之采地。王子弟所食邑也。大宰八則注曰。都鄙、公卿大夫之采邑。王子弟所食邑。周召毛耼畢原之屬在畿內者。祭祀者其先君社稷五祀。按據杜氏釋例。大曰都。小曰邑。雖小而有宗廟先君之主曰都。尊其所居而大之也。又按左氏言有宗廟先君之主曰都。改云有先君之舊宗廟。則必如晉之曲沃故絳而後可偁都。恐非左氏意也。左氏與周官合。从邑。者聲。當孤切。五部。周禮。歫國五百里爲都。此周禮說也。周禮載師注引司馬法曰。王國百里爲郊。二百里爲州。三百里爲野。四百里爲縣。五百里爲都。大宰注曰。邦中、在城郭者。四、去國百里。邦甸、二百里。家削、三百里。邦縣、四百里。邦都、五百里。
佐傳曰く、おおよそ先君主の宗廟があるものを都といい、無いものを邑(い)という。
周禮(しゅうらい)大司徒の注に曰く、都鄙(とひ)の主は王子や子弟、公卿や大夫の采地(さいち)で、都畍(とかい)を都鄙といい、それらの者が居るところである。

載師の注に曰くには、家邑は大夫の采地小都は卿の采地、大都は公主(王子・王女)のもので、王の子弟が食邑とするところなり。
杜氏の釈例によると、大きいものを都といい、小さいものを邑というが、小さいといえども先の君主の宗廟があるものは都という。百里が郊、二百里が州、三百里が野、四百里が縣、五百里を都となす・・・ここからは、都は方五百里とみることができます。

*采地とは与えられた所領だが、都鄙八則からみると、都鄙者は地方の首長(候王)といえる。ほとんど人事、軍事、収税、警察・裁判権ほかほぼ全権をもっている。

*畍 =文解字・巻14 田部には「境なり」とある。都畍は都の境(さかい)の意。→9138 打開字典 田部::畍:境也。从田介聲
     五酇爲鄙。見遂人。五百家也。又周禮都鄙、王子弟公卿大夫采地。其畍曰都。鄙、所居也。按大司徒以邦國、都鄙對言。鄭注以邦之所居曰國、都之所居曰鄙對言。春秋經傳鄙字多訓爲邊者。葢周禮都鄙歫國五百里。在王畿之邊。故鄙可釋爲邊。又引伸爲輕薄之偁。而鄙夫字古作啚。冣目云俗儒啚夫翫其所習、可證也。今則鄙行而啚廢矣。从邑。啚聲。兵美切。古音在一部。故鄙否通叚用也。
     國也。鄭莊公曰。吾先君新邑於此。左傳凡偁人曰大國。凡自偁曰敝邑。古國邑通偁。白虎通曰。夏曰夏邑。商曰商邑。周曰京師。尚書曰西邑夏、曰天邑商、曰作新大邑於東國雒皆是。周禮。四井爲邑。左傳。凡邑有宗廟先君之主曰都、無曰邑。此又在一國中分析言之。从囗。音韋。封域也。先王之制。尊卑有大小。从卪。尊卑謂公矦伯子男也。大小謂方五百里、方四百里、方三百里、方二百里、方百里也。土部曰。公矦百里伯七十里、子男五十里。從孟子說也。尊卑大小出於王命。故從卪。於汲切。七部。凡邑之屬皆从邑。

     國也。周禮注曰。大曰邦、小曰國。析言之也。許云。邦、國也。國、邦也。統言之也。周禮注又云。邦之所居亦曰國。此謂統言則封竟之內曰國曰邑。析言則國野對偁。周禮體國經野是也。古者城?所在曰國、曰邑。而不曰邦。邦之言封也。古邦封通用。書序云。邦康叔。邦諸矦。論語云。在邦域之中。皆封字也。周禮故書。乃分地邦而辨其守地。邦謂土畍。杜子春改邦爲域。非也。从邑。丰聲。博江切。九部。

     周制。天子地方千里。分爲百縣。縣有四郡。逸周書作雒篇曰。千里百縣。縣有四郡。高注六月紀云。周制。天子畿內方千里。分爲百縣。縣有四郡。郡有監。故春秋傳曰。上大夫受縣。下大夫受郡。周時縣大郡小。至秦始皇兼天下。初置三十六郡以監縣耳。按作雒篇與周禮不合。鄭注月令但云。四監、主山林川澤之官。百縣、鄉遂之屬。是不從作雒說也。故春秋傳曰。上大夫受縣。下大夫受郡是也。各本少受縣下大夫五字。今從水經注河水篇所引補正。趙簡子曰。克敵者上大夫受縣。下大夫受郡。見左傳哀公二年。至秦初。天下置三十六郡㠯監縣。戰國策。甘茂曰。宜陽、大縣也。名爲縣、其實郡也。秦武王時巳郡大縣小矣。前此惠文王十年。魏納上郡十五縣。後十三年。攻楚漢中。取地六百里。置漢中郡。吳氏師道云。或者山東諸矦先變古縣大郡小之制。而秦效之。是也。至始皇卄六年。始置三十六郡。三十六郡者、錢氏大昕曰。地理志。河東、太原、上黨、東郡、潁川、南陽、南郡、九江、鉅鹿、齊郡、琅邪、會稽、漢中、蜀郡、巴郡、隴西、北地、上郡、雲中、鴈門、代郡、上谷、漁陽、右北平、遼西、遼東、南海皆曰秦置。長沙國曰秦郡。河南曰故秦三川郡。沛郡曰故秦泗水郡。五原曰秦九原郡。鬱林曰故秦桂林郡。日南曰故秦象郡。趙國曰故秦邯鄲郡。梁國曰故秦碭郡。魯國曰故秦薛郡。數之適得三十六。下文揔之曰。本秦京師爲內史。分天下作三十六郡。此確然不易者也。史記始皇本紀。二十六年。分天下爲三十六郡。而略取陸梁地爲桂林、象郡南海、乃在三十三年。裴駰以爲不當在三十六之內。因舍三郡。以內史、鄣郡、黔中、足之。內史別於三十六郡不待言。故鄣郡雖見於志注、而不系之秦。黔中郡見昭襄王三十年、而志不之數。不可爲典要也。史記之三十六與漢志同。乃揔攝後事而言之。故漢志、說文、高誘吕覽注、應劭風俗通、皇甫謐帝王世紀、司馬彪郡國志皆言。秦分三十六郡。裴氏不從漢志之目。而唐人作晉書乃造秦四十郡之說。前此無言之者。从邑。君聲。渠運切。十三部。按釋詁曰。郡、乃也。此未得其說。疑𨙻之誤也。
     歫國百里爲郊。杜子春注周禮曰。五十里爲近郊。百里爲遠郊。玉藻說郊祭曰。於郊、故謂之郊。从邑。交聲。古肴切。二部。按周禮故書作蒿。假借字。

郊は首都から百里隔たっている。杜子春が周禮に注を入れたところによると五十里は近郊、百里は遠郊。玉藻は郊國で言われていたがゆえに郊祭というと説いた。部首は邑、音は”交”。目録は古肴切の分類は二部。
     周邑也。在河內。左傳隱十一年。王與鄭人蘇忿生之田。溫、原、絺、樊、隰郕、欑茅、向、盟、州、陘、隤、懷。杜曰。絺在野王縣西南。按郗者本字。絺者古文假借字也。前志河內郡波縣。孟康云有絺城。後志亦云河內波有絺城。按許但云河內、不云某縣者。有所未審也。从邑。希聲。丑脂切。十五部。
河內にある周の邑を言う。


そこで、倭人伝に都(ど)の意味を返すことにします。

 こうして、分かりやすくしますと、「女王が都を置いてるところである」は、女王が支配する封地です。が、正しく、邪馬壹国に女王はいないというのが結論になります。

ただ、都の意味は後漢書5C以後、天子がいる所といった意味に変わっています。都が今日でいう首都とか宮という意味が一般的な意味に変化しているので、多くの学説のなかで見過ごされてきたと言えます。ただ、2011年に読んだ本、「岩元学説 邪馬壹國への道」2011年5月31日発行 著者:岩元正昭・・・で第二章 「都の一字が導く卑彌呼遷都の事実」の中で『「說文解字』に載る「都」字について」という所説が載っています。先行する日本での初出文献ということで紹介します。

このページの活用について、

ページの中段から魏志倭人伝の原文のリンク先が載せてあります。ブラウザのページ内検索をご利用になれます。
例えば、「倭国」という語は何処に何か所書かれているのか、「狗奴國」、「女王國」、「女王」、「倭地」、「倭人」、「郡」、「又」、「行」などは?いくつ何処に書かれているの? これを目で探していては正確に何か所に書かれているのか判別するのはたいへんですよね。また、「倭地」という語は、「会稽」と「九州の外」の二つのロケーションブロックの中でヒットします。つまり、検索結果でヒット文字はカラーでハイライトされています。そこで、倭地という語が複数の別々のブロックのなかに使われていることが分かります。倭国という文字のばあい、いったんブロック内の原文の文字をマークして検索欄にコピペするといいでしょう。国という字が國になっています。また、IMEでは出てこない文字も多いので、コピペのやり方をお勧めします。
検索用のシンプルページを用意してあります。ページ内検索は、けっこう面白くて為になりますよ。倭国という言葉は3か所、女王國は5か所、邪馬壹国は1か所しかでてきません。やってみてください。
下のアンダーラインをクリックしてみてください。


魏書 韓伝全文


 ->  ->  ->  -> 倭人傳

を深堀りする。
至と到は全く同じ意味だということは説文解字の下の説明を対比すればわかります。
至は「鳥飛高下地也」と注釈されています。(下の小篆、上段をご覧ください。))この文字の象形は羽を広げた鳥の絵図で地面に足をつけている状態です。「鳥が高い所から地面に着地する象形なり」でしょう。ある地点から鳥が舞い降りて地面に止まる様なのですから、空中から一直線に来るわけです。へんな言い方ですが空中で寄り道はできないのです。
 こうして、曲がりくねった道程をしめさず、直線を表現すします。
また、従~至の構文が使われています。始点から終点まで途中の状態が高下です。従~至は3D表現ができるという例文にもなります。(3D=立体的、スリーディメンション)

  至   飛高下地也。凡云來至者、皆於此義引申叚借。引申之爲𢡆至、爲極至。許云到、至也。臻、至也。徦、至也。此本義之引申也。又云親、至也。寴、至也。此餘義之引申也。从一。一猶地也。一在下、故云。象形。謂?也。不、象上升之鳥、首鄉上。至、象下集之鳥、首鄉下。脂利切。古音讀如質。在十二部。不上去而至下。句。來也。瑞麥之來、爲行來之來。凡至之屬皆从至。(許慎の説文解字)

《至といいう文字は飛ぶ鳥が高ところから地上に降り立つことなり。
皆、従とコンビネーションで使われる。高いところから低いと心に着くということは、三次元空間の移動です。ですから、ニュートンの運動法則が使えます。
数学では微分積分です。したがって、この(構文)は三次元空間の状態が書くことができます。「あるいは南にあるいは東に進み」、「はじめて一つの海を渡り」、「その草木は前の人が見えないくらい高く伸びている。深い浅いを、とわず、よく潜って魚やあわびを捕っている」+里数というくくりかたをする。右の例文は三次元だということが明らかです。また、ここで大事なのは『凡至之屬皆从至』です。おおよそ、至の文字は皆(例外なく)从至(の構文)で使われるということです。倭人伝では文節の頭語が南至とかで始まりますが、従(が省略されていることになります。この三次元(表現)には从至のファンクションになっています。从至が主部になりますから、ファンクションの中の人称は修飾句になります。至るというのではなく、至る間は、という訳し方になります。


   到  至也。大雅曰。靡國不到。論語兩言民到于今。釋詁曰。到、至也。从至。刀聲。都悼切。二部。
[大雅が曰く、行かなかった国はない。釋詁曰く、到の字は至の字と同じである。というが、人称が主語になっているところが注目できます。
つぎに、倭人伝の到の使われる4か条を
從郡倭循海岸水行歴韓國乍南乍東其北岸狗邪韓國七千餘里は、文節を分ける。なぜなら、至と到を含めて一文節にはできない。
下のように文節を入れ子にする。
【從郡・・・・・・循海岸水行歴韓國乍南乍東其北岸狗邪韓國七千餘里始度一海千餘里對海國其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶㠀方可四百餘里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴/又南渡一海千餘里名曰瀚海一大國官亦曰卑狗副曰卑奴毋離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴/又渡一海千餘里至末盧國有四千餘戸濵山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沉没取之/東南陸行五百里伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸・・・・・・至倭 従至の間は下線部ですが、平叙文の順構文、三次元表現になっています。ゆえに、到が使えるのです。これがネスト構造です。

②東南陸行五百里伊都國・・・・・①の文中下線部に入る。
➂其八年太守王頎官・・・王頎が人称ですから、着いたという動名詞でいいのです。  
④難升米牛利還録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也・・・難升米牛利が人称ですから到着という動名詞でいいのです。

”到”は、中国語では目的を達するという補語としても使われます。



従A・・・・・・至B=前置詞(介詞)~から~まで。全体で主部をなす。
 A地点よりB地点までの間。前置詞構文。その間の様子や状況が・・・・・・に書けるので三次元的構文(【用法】Between A_place and B_place) 現代の中国語では簡体文字”从〜到”になっていますが用法は同じです。大部分のセンテンスで従Aが省略されてます。状態を書くので必ずしも里数が記入されるわけではない。
邪馬壹國を構文通りに文字列の順番を入れ替えてみます。自〜と従〜のどちらを選ぶべきでしょうか?
邪馬台国の場合は里数で書かれず、旅程のよう書き方です。日数で書かれていますので、邪馬壹國までの状態を示すものです。

自A至B里数=前置詞(介詞)~から~まで。もっぱら距離を地図化する基本の構文です。
 A地点からB地点まで。前置詞構文。二次元的構文で、間は直線のみ。後続する修飾句とは区切る。(【用法】From A_place to B_place)
大部分のセンテンスで自Aが省略されてます。Bの地名の直後に距離が記される。

[自奴国]至邪馬壱国 南水行十日陸行一月/女王之所都 官有伊支馬 次日弥馬升 次日弥馬獲支 次日奴佳鞮 可七万余戸
青色は距離のカテゴリーになりますが、距離としてはかなりアバウトです。
自:介詞
(文語 移動の起点)~から、~より。
(文語 時間の起点)~から、~より。
典型的な構文:自郡至女王國萬二千餘里
略される例:「東南至奴國百里」、どこからに相当する<自伊都国>が省略されている。Fullでは「自伊都国東南至奴國百里」

「行」の研究 ~行は”列している。の意味”、または「一列に連続している。}ということを証明する~             
行=①始点から終点までその空間を歩く。
   ②方向+行=並んでいる、列、の意味。東行は「東に向かって一列に連なっている」、という状態を表現している。
《說文》人之步趨也
(宋)司馬光 《類篇》行:列也。
漢代之後 -> 清代 -> 康熙字典 -> 行部 -> 《康熙字典》:行部① 《類篇》列也。
②《左傳·隱十一年》鄭伯使卒出豭,行出犬雞。《註》百人爲卒,二十五人爲行。行亦卒之行列。


      《說文解字》
《行部》
1265 打開字典 行部:
人之步趨也。步、行也。趨、走也。二者一徐一疾。皆謂之行。統言之也。爾雅。室中謂之時。堂上謂之行。堂下謂之步。門外謂之趨。中庭謂之走。大路謂之奔。析言之也。引伸爲巡行、行列、行事、德行。从彳亍。彳、小步也。亍、步止也。戶庚切。古音在十部。凡行之屬皆从行。
:人之步趨也。从彳从亍。凡行之屬皆从行。
「人の目的地に向かって歩く、または走る」と、形容動詞として訳します。地点から地点へ歩くのですから、場所的概念です。どこからどこまでの場所のため、距離を表すカテゴリーです。何時から何時といった時間の表現には別な用語を使います。趨:一スウ・シュ ①はしる。足ばやに行く。 ②おもむく。目的に向かって行く。「趨向」「趨勢」 類趣 二ソク ①はやい。すみやか。 ②うながす。
*爾雅(じが、 拼音: Ěryǎ)は、中国最古の類語辞典・語釈辞典のこと。爾雅。室中謂之時。堂上謂之行:室内、堂の上を歩く時の様。
室内では小股で歩くということでしょう。

彳=少し歩くなり走るなりして亍=止まる動作を繰り返すこと。左の動名詞を名詞にすると行程となります。歩行とは複数の区間を止まり止まりしながら歩くこと。転じて、点線、碁盤の升目の行などの名詞になります。
从彳亍。彳、小步也。亍、步止也。これを理解するには将棋の駒、「歩」の動きを連想すると理解ができます。すなわち一手ごとに前に一目しか進むことができません。
說文解字「 彳:小歩也。象人脛三属相連」に対照した許慎の《說文解字注》「三属者上段股中為脛下為足也。單挙脛者挙中該上下也。脛動而股與足隋之云々」 人の象形に脛(すね)に属する三つの器官がが相連なることなり。三属は上が股、中を脛(すね)と為し、下を足と為すなり。だだ脛を挙げれば以て上下を該(かぬ)るなり。脛が動けば股と足も脛に随う。」
股と脛と足が連結している様を行としている。股と脛と足が上中下ときちんと動作することは、すなわち、歩くことでもあるが、三つの部分は一列に整列しているわけだ。ここにはきちんと並んでいる状態を言い表している。段玉裁の説文解字注では次のように言う。
《說文解字注》
106 注解:「小步也。象人脛三屬相連也。三屬者,上為股,中為脛,下為足也。單舉脛者,舉中以該上下也。脛動而股與足隨之。丑亦切。李斯作?。筆迹小變也。凡彳之屬皆從彳。」許慎の《說文解字注》「三属者上段股中為脛下為足也。單挙脛者挙中該上下也。脛動而股與足隋之云々」 人の象形【人体】の脛(すね)に属する三つの器官が相連なることなり。三属は上が股、中を脛(すね)と為し、下を足と為すなり。だだ脛を挙げれば以て上下を該(かぬ)るなり。脛が動けば股と足も脛に随う。」・・・これは連動して、という修飾語になるでしょう。

許慎も玉裁も「人体の形状、人象の脚の形状を註釈の意味にしているのである。けっして解剖的なことを主眼に説明をしているわけではない。
玉裁の註釈:小歩なり、人の姿で脛には三つのものが相連なっている。上は股であり、」真ん中は脛であり、下は足である。脛を上げれば股も足も上がる。脛はこうして股と足を従えているのである。」
ようするに、相連なっているとという比喩に使っているのであり、例えていえば、脚の3つの関節が連動していることが、なぜ、それが「小歩」なのかは現代人には理解しがたいことは確かであるが、彳が連なっているという状態を示しているということは外してはならない。
こうなると、歩くとか行くとかという『動詞』と見ることはできない。小歩とは、『形容詞・副詞』、いわゆる修飾詞になるのだ。玉裁の注の解釈を「戯言」ということはできない。許慎や玉裁の、この脚の動きを形容した表現は解剖学的解説ではないんです。後の唐や清代の辞書に列するとストレートに連なる、列すると書かれるように至っている。連邦とか、連山など繋がっていることが要素なんですよ。行は「現代のエクセルなどでの折れ線グラフ」が、わたしにはイメージがたいへん近いのです。

   不行 読み:音読み「ゼン」「セン」;訓読み「まえ」「さき」過去。すすむ。あらかじめ。まえもって。(現代辞書) 
許慎注:不行而進謂之歬 まっすぐではないが、しかれども進むことを歬(ゼン)という。

不行:きちんとしていないという意味合いがある。超訳:右や左にふらふらと千鳥足ではあるが、前に前に進んでいる様子をゼンという。
漢字のもつ絵文字的イメージでは、船が川の左右にある渡し場をジグザクに泊まり泊まりして進行しているが、しかし目的地に進んでいることをゼンという。部首が止まるで船が下付きになっている象形。、
而;(語・句・節を接続して反転関係を示し)…であるがしかし…,…であるけれども….反意的用例
     走也。曲禮注曰。行而張足曰趨。按張足過於布武。大雅。左右趣之。毛曰。趣、趨也。此謂假借趣爲趨也。从走。芻聲。七逾切。古音在四部。
爾雅:堂から門外に出たところの歩み。
     趨也。釋名曰。徐行曰步。疾行曰趨。疾趨曰走。此析言之。許渾言不別也。今俗謂走徐、趨疾者、非。从夭止。夭者、屈也。依韵會訂。夭部曰。夭、屈也。止部曰。止爲足。从夭止者、安步則足胻較直。趨則屈多。子苟切。四部。大雅假本奏爲奔走。凡走之屬皆从走。
爾雅:中庭を小走りに前に進む様。
 
     《夭部》奔:走也。从夭,賁省聲。與走同意,俱从夭。
爾雅:大路を走るように前に進む様。大路謂之奔

   𤘸  牛徐行也

𤘸:牛徐行也。とあり、「牛がのろのろと歩いている」。左の意味からは、牛の群れを言うようです。人以外の動物などにも使っているようです。


逆に、という文字から見てみますと、”歩”とは”行”なりと書かれています。「步:行也。行部曰。人之步趨也。步徐、趨疾。釋名曰。徐行曰步。从止?相背。止?相竝者、上登之象。止?相隨者、行步之象。相背猶相隨也。薄故切。五部。凡歩之屬皆从步。」
*趨 意味
行は同”歩”と訳してなんら問題はないのです。ところで、これは一つの意味しか書いていないのです。もう三つの意味があります。「引伸爲巡行、行列、行事、德行。」からは、行には①歩く②並ぶ③催す④行う・・・の4つの意味があります。
③の行列は、(横)列という意味です。英語で言えば”LINE”;ラインです。
以下、ラインという意味があることを說文解字から拾ってみます。


その1
1261 打開字典 廴部:
     長行也。本義訓長行。引伸則專訓長。方言曰。延長也。凡施於年者謂之延。又曰。延徧也。从㢟。厂聲。厂部曰。象抴引之形。余制切。虒延?皆以爲聲。今篆體各異。非也。厂延虒?古音在十六部。故大雅施於條枚。呂氏春秋、韓詩外傳、新序皆作延于條枚。延音讀如移也。今音以然切。則十四部。


𢌛:長行也。从廴正聲。
「延は行です。部首は廴、発音は正と同じ。」
【延延】 とは長く続くさまですが、羊延と書けば羊の長い行列ということです。
日本語では日常語としてよく使わる例は【延延】 長く続くさま。があります。

廴部(いんぶ)の部首の意味は長い列というのが基本です。
《廴部》 廴部(いんぶ)
1259 打開字典 廴部:
廴:長行也。从彳引之。凡廴之屬皆从廴。

その2)
說文解字(せつもんかいじ)
《行部》
   𢓈  𢓈 行示也。大司馬。斬牲以左右徇陳曰。不用命者斬之。小子。凡師田、斬牲以左右徇陳。陸德明引古今字詁曰。徇、巡也。按如項羽傳。徇廣陵、徇下縣。李奇曰。徇、略也。如淳曰。徇音撫循之循。此古用循巡字、漢用徇字之證。此古今字詁之義也。从彳。勻聲。古勻旬同用。故亦作徇。詞閏切。十二部。司馬法。斬以𢓈。許引司馬法者凡八。


1255 打開字典 彳部:
𢓈:行示也。从彳勻聲。《司馬法》:「斬以𢓈。」
「均は行示です。部首は彳勻と同じ声音です。斬と同じ。」
この行示の用例は不用命者、命令に不服な者を処刑するという意味でしょうか。執行する?
行には、行為という用例があります。行いを以て処す。
〖斬〗 ザン・きる1.《名・造》罪人の首・手足などを切りはなす。切りころす。きる。 「斬に処す」

東行について (方位,+行,+A,B.Cの構文)

行は静的述語です。西域伝に少なからず使われていますので用例をもって説明したいと思います。
其境東西九日行,南北二十日行など行く、歩いて進むなどの意味が基本です。しかし、そうでない例があります。
『魏略西戎傳』から行の用例として二行抜粋してみました。これは、行という用例が「行列している」の意味だということ教えてくれます。

その1、「南道西行,且志國、小宛國、精絕國、樓蘭國皆並屬鄯善也。」
「南道を西に行列している且志國、小宛國、精絕國、樓蘭國はみな鄯善に並属している」 このように、訳すのが適切なのです。

その2、「中道西行尉梨國、危須國、山王國皆並屬焉耆,姑墨國、溫宿國、尉頭國皆並屬龜茲也。」
中道を西に並んでいる尉梨國、危須國、山王國は皆、焉耆に並屬している。姑墨國、溫宿國、尉頭國は皆、龜茲(クチャ)に並属している」

その1では、行列していると訳し、その2では、沿って並んでいると訳しましたが、どちらも同じです。どちらも、「西行」でもって、国々が東から西に並んでいる状態を示す静的述語となります。
東行、西行、などの例。一定の方向に列をなしている状態。

例文:自玉門・陽關出南道歷鄯善而南,行至烏弋山離,南道極矣。
 玉門關と陽關から南道に出るのには鄯善(シャンシャン)國を南に経由する。南道に平行している烏弋山離國(うよくさんり)が南道の尽きるところです。

*鄯善國は楼蘭(ローラン)の後継国となります。鄯善國はローラン遺跡のある場所近くと比定します。南道のゲートは鄯善國の南200里のところにあります。そこは且末との境でした。南道の国々はここを起点に距離を取り、里数を記します。南道の終点は烏弋離国(うよくさんり)です。鄯善国から烏弋山離までの間に南道に沿って且末・精絶・于闐など主な国が複数あります。「行至」は、どこどこに着いた、というのではなく国々が行列している状態を示しめしますので、動詞句としては、至る(いたる)ではなく、沿って有る(ある)になります。
南道の終点に烏弋山があります。書いていませんが、その間に且志國、小宛國、精絕國、樓蘭國があることを「行」の一文字でカバーしています。
以上は、魏志倭人伝の[東行至不彌國百里・・・・を解読するためのおさらいです。東行至A.B.Cという前置詞構文となり名詞句となります。
「東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離;有千餘家南至投馬國水行二十日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸南至邪馬壹國|女王之所都水行十日陸行一月官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸。」上記」「」の中が、東行がカバーする一つの文節として訓読します。

こうして、東に列する国々は不彌國、投馬国、邪馬壹国となります。次の、狗奴国を絞り込むで詳述します。

*矣は、置き字として読みません。終尾詞として使われた時の 「也・乎・矣・焉・與・歟・耶・邪・哉・夫・已・耳・爾・而已・也已・已矣・而已矣」などの字は 「なり・や・か・かな・のみ」 などと読むことが多い。

魏書 倭人伝の『魏略西戎傳』の引用14 打開字典 倭人傳:
北新道西行,東至,且彌國、西且彌國、單桓國、畢陸國、蒲陸國、烏貪國,皆并屬車師後部王。王治于賴城,魏賜其王壹多雜守魏侍中,號大都尉,受魏王印。轉西北則烏孫、康居,本國無增損也。
北新道/西行/東至/○○國、○○國、○○國・・・・・・・皆并屬車師後部王。
北新道を西に行列している、東から○○國、○○國、○○國・・・・・・・での国々はみな車師後部王に併属している。王は于賴城を治め、魏は其の王に壹多雜守魏侍中という身分をあたえ、大都尉と号して魏の王印を与えた。西北に転じるとそこは烏孫、康居がある。本国は無增損である。
このように訳しますが、西行/○/東至////・・・、○の個所にある文字が脱字されています。从(従)を入れることによって上のように訳すことができます。
西に並ぶ国は目線の地点東から西方向に並ぶわけですから、東からの順列になります。
西に並ぶ状態を西行+从+東+至+○○國、○○國、○○國・・・・・・・、この配列構造をとご覧ください。

《說文》人之步趨也
(宋)司馬光 《類篇》列也。
漢代之後 -> 清代 -> 康熙字典 -> 行部 -> 《康熙字典》:行部 《類篇》列也。《左傳·隱十一年》鄭伯使卒出豭,行出犬雞。《註》百人爲卒,二十五人爲行。行亦卒之行列。

女王国=奴国 (プロパティ=地点=吉野ヶ里東南6km)漢の都護治。

女王=①女王という人称代名詞、②女王がいる土城=倭国

倭=九州の30カ国の領域(プロパティ=エリア)

倭国=中国に朝見して封じられた国であること。地点としては、日本海に面した嶺東地域にある一国で女王がいる土城。

倭人=「背の小さい従順な人」(入れ墨をした人、黥面という概念)

倭種=「委面の人々」(人種・民族を問わない)

倭地=「背の小さい黥面の人々が住む領域」(プロパティ=エリア・九州のほか複数国あります。会稽、侏儒国、裸國、黒歯國なども倭地です。)

鎮=軍隊が常に駐屯する所.地政的に重要な地点の要塞

関=関所、一つの城の形態をもつ。主に監視と税収を目的とした通行止め。



譯とは? 後漢書の改ざん
『三国志東夷伝倭国条』の【使譯所通三十國】を、『後漢書』は【朝鮮使驛通於漢者三十許國】とし、使譯を使驛」としています。
驛=中国における街道の中継地。『漢書地理志』西域伝に、次のように書かれています。「郵驛亭置如中國。從安息繞海北到其國,人民相屬,十里一亭,三十里一置」、
西域の手前まで武帝の作った河西回廊には驛や小さな関が置かれていました。街道沿いの馬を休める休憩所、宿場、関所などで、里数を示す役割をもっていました。
誤字を指摘しておきます驛所は中国における郵驛亭のようなものですが、傳といいます。
*驛傳:周王朝の頃に高速馬を使って緊急に簡本(竹簡)を届けるため、街道に亭(休憩所)、舎(宿舎)、館(宿屋)、舖(駅)などの通信システム・郵驛亭がありました。十里一亭(≒4.3km:漢書百官公卿表 班固著)

《禮·玉藻》士曰傳遽之臣。《註》驛傳車馬,所以供急遽之令,士賤而給役使,故自稱如此。又古者以車駕馬,乗詣京師,謂之傳車。後又置驛騎,用單馬乗之,若今之遞馬。凡四馬高足爲置傳,四馬中足爲馳傳,四馬下足爲乗傳,一馬二馬爲軺傳。漢律,諸當乗傳及發駕置傳者,皆持尺五寸木傳信,封以御史大夫印章,其乗傳參封之。參,三也。有期會絫封兩端,端各兩封,凡四封。乗置馳傳五封之,兩端各二,中央一軺,傳兩馬再封之,一馬一封,以馬駕軺車而乗傳,曰一封軺傳。又關傳。

《説文解字》

《人部》傳:《廣韻·去聲·線·囀》傳:郵馬。
《說文解字》[東漢] 100年-121年 許慎著
《卷十一》

《馬部》 その他
提到《馬部》
6154 打開字典 馬部:
騎:跨馬也。从馬奇聲。
6202 打開字典 馬部:
驛:置騎也。从馬睪聲。
驛とは乗馬を置くところです。

譯とは?
[東漢] 100年-121年 許慎著
《卷四》
《言部》
1713 打開字典 言部:
譯:傳譯四夷之言者。从言睪聲。
四夷之言者とは、華中からみて外国語話者のこと。一語で外国語で伝言する通訳者。[Interpreter]

公文書を通達する役人のこと。

東夷伝第三十全般にわたって、譯の字は六ケ所あり、そのすべてが驛の転写ミスとは考えられません。
漢書地理誌では譯長という官名があります。おそらく通訳官でしょう。
ここでは三)に譯人という名詞があります。史譯(りやく)とは、官吏譯とすれば譯を司る役人と取れます。使譯は譯人を使ってとなり、漢字文化圏では通訳ではなく、木簡・竹簡などを通訳する者と解されます。
一)《軻比能傳》太和二年,豫遣譯夏舍詣比能女壻鬱築鞬部,舍為鞬所殺。
豫は夏舎を譯を遣わし詣でさせ、弓袋庫を築くことに気がすすまなかった比能女壻を弓袋のある所で殺すように舎に伝えた。

二)《東夷傳》然荒域之外,重譯而至,非足跡車軌所及,未有知其國俗殊方者也
荒れた地域の外であるが、重ねて譯を送りようやくいたる。人の足跡もなく、車の軌道がおよぶところではない。その国の俗、特殊な者たちかどうか未だ知っているものがいない。

三)《夫餘傳》以金銀飾帽。譯人傳辭,皆跪
 以て、金銀飾り帽子、譯人辞を伝え、みな趺坐した。

四)《韓傳》郡即以鑡為譯,從芩中乘大船入辰韓
郡はすぐに”のべがね”を譯にした。芩から大船で辰韓に入った。

五)分割辰韓八國以與樂浪,吏譯轉有異同,臣智激韓忿
辰韓八国を分割し、以て楽浪郡に編入した。史驛が異同があり、転じることを伝えると、臣智(古爾王)激して、韓怒る。*轉=

六)《倭人傳》 今使譯所通三十國
いま通訳を使って通じるところ三十カ国:
この場合、現地語を母国語とする者で中国語を理解する者と考えられます。

一から六までをまとめると、譯とは公文書を配達する役人。または郵便物のことです。
*郵驛亭 周王朝の頃に高速馬を使って緊急に簡本(竹簡)を届けるため、街道に亭(休憩所)、舎(宿舎)、館(宿屋)、舖(駅)などの通信システムがありました。十里一亭(≒4.3km:漢書百官公卿表 班固著)
つぎに、随書をみてみます。
随書』 卷八十一列傳第四十六 東夷 俀国
俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居 魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王 夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也,古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近

「倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。山の多い島に居住している。魏の時、通訳を介して中国と交通したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。夷人(倭人)は里数を知らない。ただ日を以って計算している。その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。地勢は東が高く西が低い。邪靡堆(ヤビタイ)を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)である。古には、楽浪郡境(後漢書、この頃帯方郡は存在しない)及び帯方郡(魏志)から一万二千里離れていて、會稽(郡)の東にあり、儋耳に近いと言われていた。」

譯は驛(駅)の誤りか?

 訳中に誤字を指摘しておきます。使譯所の譯(訳)は、驛(駅)の誤字とみなします。隷書体から楷書体に転記されたさいに、あるいは写本の時に写筆ミスが起きたと考えます。驛所は中国における郵驛亭のようなもので、驛所なら通行のカテゴリーに使えますが、訳所という語彙では意味をなしません。この転写誤記は東夷傳全般にわたっています。訳すとは人為的行為ですから、人称代名詞になるはずです。譯長、譯者、通譯などはよいとして、譯所はへんだということです。史書には驛の文字は相当大量に譯に転記ミスがあります。

*郵驛亭周王朝の頃に高速馬を使って緊急に簡本(竹簡)を届けるため、街道に亭(休憩所)、舎(宿舎)、館(宿屋)、舖(駅)などの通信システムがありました。十里一亭(≒4.3km:漢書百官公卿表 班固著)


都護治所=西域における鎮の呼び方。

浮屠(ふと)=普通名詞では仏教僧のこと。固有名詞ではゴータマ・シッダッタ(巴: Gotama Siddhattha)・漢訳では瞿曇悉達多を指す。つまり釈尊のことを浮屠(ふと)としている。
浮屠經=仏教の経典。
臨兒國=コーサラ國、釈迦が生誕したルンピニーのある国?
引用:魏志倭人伝、後半部分、主に西域。
11 打開字典 倭人傳:
臨兒國,浮屠經云其國王生浮屠。浮屠,太子也。父曰屑頭邪,母云莫邪。浮屠身服色黃,髮青如青絲,乳青毛,蛉赤如銅。始莫邪夢白象而孕,及生,從母左脅出,生而有結,墮地能行七步。此國在天笁城中。天笁又有神人,名沙律。昔漢哀帝元壽元年,博士弟子景盧受大月氏王使伊存口受浮屠經曰復立者其人也。浮屠所載臨蒲塞、桑門、伯聞、疏問、白疏間、比丘、晨門,皆弟子號也。浮屠所載與中國老子經相出入,蓋以為老子西出關,過西域之天笁、教胡。浮屠屬弟子別號,合有二十九,不能詳載,故略之如此。
「臨兒國、浮屠經が伝えるにはその国の国王が浮屠を生んだ。浮屠は太子なり。父は屑頭邪、母は莫邪という。浮屠は黄色の服を着て、髭は青絲の青い乳(螺髪(らほつ)のようだった。蛉は銅のように赤かった。はじめ母の莫邪は白象の夢を見て妊娠し、子を産んだ。母の左の脇腹から生まれた。生まれると印結があり、地上に降りると七歩ばかり歩むことができた。この国は天竺城の中にあり、天笁は加えて神人がおられた。名を沙律と言いました。昔、漢の哀帝元壽元年(前2年)に博士は弟子景盧を受けいれ、大月氏王・使伊存口を受け入れた。浮屠經が曰くには復び立つ者は其人であるという。浮屠所に掲載された、臨蒲塞、桑門、伯聞、疏問、白疏間、比丘・晨門らは皆弟子と称されている。浮屠所が載せるには中國老子經が相出入し、けだし老子の教えがが西の玉門関を出ることとなった。関を過ぎて天笁の西域にまで胡(西域)の諸国を教化した。浮屠に属する弟子は別に29名の名前を名乗っていたが、詳しく載せることができないので、このように略載した。」

*釈迦が生まれる際、その母は白象がお腹の中に入っていった夢を見て妊娠を知ったと言われている。浮屠が釈迦であることに間違いはない。釈迦の父であるガウタマ氏のシュッドーダナは、コーサラ国の属国であるシャーキヤのラージャで、母は隣国コーリヤの執政アヌシャーキャの娘マーヤーである。母のマーヤーは、出産のための里帰りの旅行中に、カピラヴァストゥ郊外のルンビ二で子を産んだ。この誕生に関して、釈迦はマーヤーの右脇から生まれ出て7歩あゆみ、右手を上に、左手を下に向けて、『天上天下唯我独尊』と言った(八正成道(はっしょうじょうどう)のうち降誕もしくは出胎)と物語られている。マーヤーは出産した7日後に死んだ。この子はシッダールタと名付けられた。シャーキャの都カピラヴァストゥにて、シッダールタはマーヤーの妹マハープラージャーパティによって育てられた。
*浮屠所で一つの意味単語と解した。仏教寺院のことだろう。
*いわゆる釈迦頭は青色だったことになりますね。
*母の名前、「莫邪」はマーヤーの音写のようです。中国文字は長音がありませんからマヤと単音化されます。父は屑頭邪は●●ヤーのような読みでしょう。ゴータマーとは一致しません。「臨兒國はコーサラ國でしょうが、これは音写とはいえません。どちらかというと意味転写です。沙律はバラモンの高僧でしょう。


こちらの仏様はタイのお釈迦様です。


*元寿(げんじゅ)は、中国、前漢の哀帝劉欣の治世に行われた年号。紀元前2年 - 紀元前1年。
元年:哀帝死去し、平帝劉衍が即位。太皇太后王政君により王莽がふたたび大司馬となる。
*説文解字 虫部:蛉:蜻蛉也。从虫令聲。一名桑桹。蜻蛉はトンボとかカゲロウのこと。トンボが赤かったという意味句がここに挿入される意味は私には分からない。玉部: 玲:玉聲の文字違いではないか?玉同士が触れ合って出す音のことらしいが、玉珠ではないか。頭の青い仏像が世田谷にあったが、頭の上部になにやら赤いボタンのようなものがついている。これは飾り物ではなく、肉髻珠(にっけいしゅ)ということだった。

螺髪(らほつ)=仏像の丸まった髪の毛の名称、縮れて右に渦巻く巻貝の形をした髪。如来の姿の三十二相八十種好のひとつ。
頂髻(ちょうけい)相、(肉髻(にっけい)相=頭頂に椀(わん)のような肉の盛り上がりがある)が、これは知恵を表すとされている。その椀の前面にある赤くて丸い珠のようなものが肉髻珠(にっけいしゅ)。蛉は銅のように赤かった。・・・はこれだろう。菩薩の宝髻にも装飾品が付けられている場合がよくありますが、これらのものとは全く性格の異なるものです。如来形には本来装飾品はつけないものなのです。肉髻珠は仏の智恵の光を表わす珠(たま)とされています。飾り物ではないので一言。

大都督(たいとど)=軍事総監 孫呉の周瑜、曹魏の司馬仲達、蜀の諸葛亮など軍の指揮権をもつ官織(身分制とは異なる)

皆=対象語を複数化し、かつ、その全部ということ。


例文:「大宛國,王治貴山城・・・・東至都護治所四千三十一里,北至康居卑闐城千五百一十里,西南至大月氏六百九十里。」
この上の文章に自~が省略されています。脱字を埋めてみましょう。
「大宛國,王は貴山城を治めている。,自貴山城東至都護治所四千三十一里,自貴山城北至康居卑闐城千五百一十里,自貴山城西南至大月氏六百九十。」
 こうして省略部分をいれて、「貴山城から都護治所まで東4031里」と読みます。
この例文にはもう一つ重要なヒントが隠されています。自貴山城北至康居卑闐城千五百一十里には、はっきりと康居卑闐城と王城の名前が記されています。このばあいは、大宛國貴山城から康居卑闐城まで1510里と地点と地点の径、すなわち直線距離です。


是=一見して、この是という術語がないように見える文は名詞フレーズが術語になります。「です」が脱字になります。「AからBまで500m」・・・このフレーズを例にとると、500mが術語になりますので、「AからBまで500mです。」と訳すことができます。

都(と)=封建制度下の辺境の行政地ないし封地(前漢の郡や県に相当。じみやこような意味はありません。後節:)

京師(けいし)=皇帝のいるところ。宮城。

京邑(けいゆう)=州の主要な都城。郡太守を監察する勅使のいるところ。

津(つ)=波止場、船着き場、現代的には港でも可。

行来=ゆきき、往来

去=外出する、離れる(倭人伝の中に一か所あります。従や自の構文を使わない例)

到=至と同じ「~まで」と訳すが、途中の区切り地点が強調される。

歴=①経由する(歷韓國といえば朝鮮半島の陸道を通過したということです)
   ②暦年とは暦の上での1年間。

「馬行〜日」このフレーズはコンビネーションだということです。
例文として漢書地理誌・西域から一つ上げてみましょう。

「尉頭國・・・・西至捐毒千三百一十四里,徑道馬行二日」


この例文はつぎのように訳します。「尉頭國から西方向に捐毒まで1314里です。馬でまっすぐ二日の距離です。」

「徑道馬行二日」の徑は現代の直線です。径の意味は「ただちに。すぐに。まっすぐに。さしわたし。」です(辞書より)。直径とか半径、直情径行とか熟語にあたってみると、まっすぐの意味であることが読み取れます。さて、そこで気づかなくてはなりませんね。1314里は馬で2日の直線距離です、と言っているのですね。
馬2日は距離の代替的な表現です。別な言い方をすれば距離と互換性があるのです。尉頭国で馬行2日が「1314里」と書かれています。西域里は0.24948kmでした。一日当たり、657里、164.1kmです。一日馬行=164km(西域里換算)となります。西域の里については漢書地理誌西域の章をご覧ください。
馬行~日でも、里数で書いても同じリアルな実数です。漢書地理志の里は何処から何処までという、その間を直線で計測しています。よく水行はなんだ、陸行はなんだ、と、道程や旅程として考えるのは日本だけなんです。行を「いくこと」なんて訓読するから道行きで考える思考におちいっているのです。水行+数値+日のワンフレーズで考えましょう。
水行半年」について
例文;
倭人伝の末尾に西域のエリアのことが付け加えられています西域伝といっていいのでしょうが、倭人伝のカテゴリーに書かれます。その中に、水行半年があります。
13 打開字典 倭人傳:
「澤散王屬大秦,治在海中央,北至驢分,水行半歲,風疾時一月到最與安息安谷城相近,西南詣大秦都不知里數。驢分王屬大秦,治去大秦都二千里。」
現代語訳:
「澤散王はローマに属し、其の(澤散王)王城は海の中央に在り、北には驢分がある。水行半年、風が速い時は一か月の距離にパルティアの安谷城の近くに至る。西南に安谷城から出発しローマ大都に詣でているが安谷城と大秦国の里数は知ることができない。驢分王はローマに属する。其の(澤散王)城はローマ大都から二千里である。」

「水行半年、風が速い時は一か月」の解釈では水行半年は定数がなく、風が吹くときは変数で計算することになります。変数にあたる風の速さは不定ですが、半年が一か月に縮小されるので、6分の1になります。追い風が強いときでしょう、速度としては6倍になると言っているのです。さて、その前に船は帆を持っていたことが裏付けられますね。
澤散王の王城は安谷城から水行半年を無風状態での距離単位と定義します。この間の距離がわかれば水行一日の定数が出るはずですが、今のところ安谷城を明確にできません。水行半歲,風疾時一月到と水行という距離単位で書かれています。安息ペルシャの安谷城と澤散王城との距離に違いないでしょう。パルティア(ペルシャ=イラン)の安谷城はカスピ海の南端にあったと思われます。そこで、水行とはたとえば湖や海を経由していますが、ほとんど地図上では陸上なのです。そこで水行とは単純に距離の単位として使用され、実際の行程において水の上を行く(水上交通)という定義は全くできません。言い換えると観念上の距離なのです。そこで水行を使うも、陸行を使うも任意ということですが、長距離は水行、単距離は陸行を使うようです。

澤散王城(たくさんおうじょう)の場所を推理する
*其のは二回、三回と後続の文字列に現れても最初の其の主格を共有します。其の(澤散王)城はローマ大都から二千里であると解読します。
澤散王城:ローマ市間は2000里、この澤散城:ローマ市間は2000里です。
2000里は中国魏一里0.4156kmで換算すると839kmです。城は海の中央に在るということから推定するに、澤散国はギリシャ半島にある国のようです。
この等距離円周に一番ちかい古代都市は、パトラです。パトラはアテネの西、ペロポネソス半島の北西部に位置する港町です。あまり知られていませんが、パトラは西の玄関口で、ギリシャ第三の都市です。市内にはローマ時代からの遺跡が残る一方、今なお重要な輸出港としての役割も果たしています。




ローマを支点に839kmの等距離円を描いてみました。澤散城:ローマ市間は2000里、中国魏一里0.4156kmで換算すると839km


下はPatra=パトラの位置を示す図です。澤散王城(たくさんおうじょう)はパトラでいいでしょう。
上の等距離円が届くギリシャの古代都市のうち絶好な位置にあります。


古代ローマ時代のオデオン遺跡(音楽堂)があります。


バトルとパルティア安谷城の距離は2784kmです。6か月29x6=174で割ってい見ると、一日水行は16kmでした。一か月なら96km。

里=倭人伝の里数は中国里ではなく、定義した数値一里60メートルです。ローカル定数ですので「倭里」と呼びます。

有=場所が先に、有を挟んで、後ろに目的語がくる構文。

在=場所が先に、在を挟んで、後ろに目的語がくる構文。語りても聞き手も知っている場合に多く使われるので、場所の地名が一般に知られている場合は有よりも在が使われます

郡=州ー郡ー県などの行政区分 郡太守が監察する。

州 國のこと。(三国時代では州牧が新設される。)

餘=余=~すこし多い値。(~ほどである、~あまりであるといった文語的意味では数値化できない)
簾=列挙する
相=互いに同一行為をすること。相攻撃とは、互いに協力して第三者と戦うというという意味。互いを攻撃し合うという意味ではない。

「又」字について

唐代發音: *hiòu
說文解字: 《又部》又:手也。象形。三指者,手之𠛱多略不過三也。凡又之屬皆从又。打開字典

康熙字典: 《康熙字典·又部·又部》又:《唐韻》于救切《集韻》《韻會》尤救切《正韻》爰救切,𠀤音宥。《說文》手也。象形。三指者,手之𠛱多,略不過三也。《韻會》偏旁作𠂇。又《廣韻》又,猶更也。又《韻補》叶夷益切,音亦。復也。《詩·小雅》人之齊聖,飮酒溫克。彼昏不知,壹醉日富。各敬爾儀,天命不又。富音偪。打開字典
反切: 于救 (《廣韻·去聲·宥·宥》)

宋本廣韻: 《廣韻·去聲·宥·宥》又:又猶更也。打開字典
英文翻譯: and, also, again, in addition

『說文解字』又字は手である。三本の指の者の象形である。手の列が多くても略して三本を過ぎることはない。
・・・3文節まで又を続けることができるが4つ又を連続させることができないということのようである。
又字の用法;
第一の使用法;文章中、すでに使用済みの文言を後ろに再使用したいばあい、その使用したい箇所に又字を置くことにより、件の文言はその位置に甦る。又字がその再利用したい語の代替詞として記入される。・・・漢文においては、常に又の字の右に再利用したい語句があるので、右と同様な機能をもつ。
第二の使用法;同じ語が立て続けに三度使用される場合、二つ目以降のそれを又字で代替する法を言う。

同じ語を繰り返し主格として再使用したいばあい、又の字を代替詞として使用する。このばあい、被代替句(述語部)はすでに読み終えた文章の中に形と意味をもって実在している。(以上岩元説引用P52)
再利用したい文言は又の字前にある。言い換えると、(主格=代替される語句は、又の字の前の文節にあり、その内容は又の文節に引き継がれ打ち消されることはない。)

もう古典的地図で骨董品。





[又]の字は文中では構文になります。したがって、又又構文とわたしは名づけます。
例文:
1)犯人WはAさんを拳銃で3発撃った。
2)また、Bさんを4発撃った。
3)また、Cさんを2発撃った。

上の文を読んで、次の問いに答えなさい。

1)犯人は何人ですか?
2)犯人が撃った人は何人ですか?
3)犯人は拳銃を何発撃ちましたか?

答えは:
1)1人
2)3人
3)9発

1)主語は共通で一人ですが、2)行為の回数や3)付随する数値は通算されます。

又は、順次、1)の主体が何らかの行為を繰り返えしますが、その中の要素としての回数や距離、時間といった実数は加重されていきます。撃った弾数は総合計になってますよね。


では、上の例を参考に、魏志倭人伝の原文にある又又構文を解きなさい。魏志倭人伝には2カ所あります。
さて、ここからは本番の問いです。

♦一番目の又又構文
<從狗邪韓國>始度一海千餘里至對馬國・・略・・
南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國・・略・・
渡一海千餘里至末盧國・・略・・
<從末盧国>東南陸行五百里到伊都國・・略・・(注:又が無い)

上の文を読んで次の問いに答えなさい。

問1)狗邪韓國から対馬国まで何里ですか?
   答え:1000余里
問2)狗邪韓國から一支国まで何里ですか?
   答え:2000余里
問3)狗邪韓國から末盧国まで何里ですか?
   答え:3000余里
問4)狗邪韓國から伊都国まで何里ですか?
   答え:3000余里+500里
問5)又が代替する主語はなんですか?
   答え:<從狗邪韓國>・・・です。

♦二番目の又又構文
<女王國東渡海>千餘里復有國皆倭種
有侏儒國有其南人長三四尺去女王四千餘里
有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至參問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周旋可五千餘里

上の文を読んで次の問いに答えなさい。

問1)女王国東海岸から倭種の国まで何里ですか?
   答え:1000余里
問2)女王国東海岸から侏儒國まで何里ですか?
   答え:1000余里+4000余里=5000余里
問3)女王国東海岸から裸国・黒歯国まで何里ですか?
   答え:5000余里+船行一年
問4)又の代替する主語はなんですか?
   答え:<女王國東渡海>・・・です。

さて、正しい答えができたでしょうか?たぶん、まだ首をひねっている方が多いでしょう。重要なことは、又の字の論理式を知ることです。

*余里は15%増しで実数化します。1000余里は1150里として計算します。余がない里程はそのまま実数とします。詳しくは後節。

又が3つまで連続させることは可ですが、4つ以上連続させている史書があります。《太平御覽》と《梁書》 は、又を5つ連続させていますが、これは語法を間違えています。《太平御覽》と《梁書》 では、解釈上、順次式も放射式もあったものではありません。宋本廣韻: 《廣韻·去聲·宥·宥》又:又猶更也。打開字典では「さらに」という意味付けをしていますので、又はさらにと訳さないとならないでしょう。そこには論理的な分岐がありません。こうして《太平御覽》と《梁書》などを魏志倭人伝の解釈に援用してはならないのです。
《宋明》
《太平御覽》
[北宋] 977年-984年
《四夷部三·東夷三》
《倭》
電子圖書館
2 打開字典顯示相似段落 倭:
倭:
《魏志》曰:倭國在帶方東南大海中,依山島為國,舊百餘小國。漢時有朝見者,今令使譯所通共三十國。從帶方至倭,循海岸水行,歷韓國,從乍南乍東到其北岸拘耶韓國七千餘里,至對馬國戶千餘。其大官曰卑狗,副曰卑奴母離。所居絕島方四百餘里,地多山林,無良田,食海物自活,乘船南北市糴。
南渡一海一千里,名曰瀚海,至一大國,置官與對馬同,地方三百里,多竹木叢林,有三千許家,亦有田地。耕田不足食,亦行市糴。
渡海千餘里,至未盧國,戶四千,濱山海居,人善捕魚,水無深淺皆能沉沒取之。東南陸行五百里,到伊都國,官曰爾支,副曰泄謨觚、柄渠觚,有千餘戶,世有王,皆統屬女王。帶方使往來常止住。
東南至奴國百里,置官曰先馬觚,副曰卑奴母離,有二萬餘戶。
東行百里,至不彌國,戶千餘,置官曰多模,副曰卑奴母離。
南水行二十日,至於投馬國,戶五萬,置官曰彌彌,副曰彌彌那利。
南水行十日,陸行一月,至耶馬臺國,戶七萬,女王之所都,其置官曰伊支馬,次曰彌馬叔,次曰彌馬獲支,次曰奴佳鞮,其屬小國有二十一,皆統之女王。之南
有狗奴國,男子為王,其官曰狗石智卑。狗者,不屬女王也。自帶方至女國萬二千餘里,其俗,男子無大小皆黥面文身。
聞其舊語,自謂太伯之後;
云自上古以來,其使詣中國,草傳辭說事。或蹲或跪,兩手據地,謂之恭敬。其呼應聲曰噫噫,如然諾矣。
曰:倭國本以男子為王。漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐無定,乃立一女子為王,名卑彌呼。事鬼道,能惑眾。自謂年已長大,無夫婿,有男弟佐治國,以婢千人自侍,惟有男子一人給飲食,傳辭出入。其居處,宮室樓觀城柵,守衛嚴峻。景初三年,公孫淵死,倭女王遣大夫難升米等言帶方郡,求詣天子朝見,太守劉夏送詣京師。難升米致所獻男生口四人、女生口六人、班布二匹。詔書賜以雜錦采七種五尺,刀二口,銅鏡百枚,真珠、鉛丹之屬,付使還;又封下倭王印綬。女王死,大作冢,殉葬者百餘人。更立男王,國中不伏,更相殺數千人。於是復更立卑彌呼宗女臺舉,年十三,為王,國中遂定。其倭國之東,渡海千里,復有國,皆倭種也。又有朱儒國,在其南,人長三四尺。去倭國四千餘里,又有裸國。墨齒國,復在其南,船行可一年至。

*又で改行し、赤でマークしました。ここでの又はたんなる接続詞になっている。つぎの、梁書も同様、内容から主格を判断すると行程以外にも又が使われ、厳密にいえば順次式にも放射式にも当てはまらない。


≪梁書 -> 卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎
倭者,自云太伯之後,俗皆文身。去帶方萬二千餘里,大抵在會稽之東,相去絕遠。從帶方至倭,循海水行,歷韓國,乍東乍南,七千餘里始度一海;海闊千餘里,名瀚海,至一支國;
度一海千餘里,名未盧國;
東南陸行五百里,至伊都國;又東南行百里,至奴國;
東行百里,至不彌國;
南水行二十日,至投馬國;
南水行十日,陸行一月日,至祁馬臺國,即倭王所居。其官有伊支馬,次曰彌馬獲支,次曰奴往鞮。民種禾稻籥麻,蠶桑織績。有姜、桂、橘、椒、蘇,出黑雉、真珠、青玉。有獸如牛,名山鼠;
有大蛇吞此獸。蛇皮堅不可斫,其上有孔,乍開乍閉,時或有光,射之中,蛇則死矣。物產略與儋耳、朱崖同。地溫暖,風俗不淫。男女皆露紒。富貴者以錦繡雜采為帽,似中國胡公頭。食飲用籩豆。其死,有棺無槨,封土作塚。人性皆嗜酒。俗不知正歲,多壽考,多至八九十,或至百歲。其俗女多男少,貴者至四五妻,賤者猶兩三妻。婦人無淫妒。無盜竊,少諍訟。若犯法,輕者沒其妻子,重則滅其宗族。
50 漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子卑彌呼為王。彌呼無夫婿,挾鬼道,能惑眾,故國人立之。有男弟佐治國。自為王,少有見者,以婢千人自侍,唯使一男子出入傳教令。所處宮室,常有兵守衛。至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢,魏以為親魏王,假金印紫綬。正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與為王。其後復立男王,並受中國爵命。晉安帝時,有倭王贊。贊死,立弟彌;彌死,立子濟;濟死,立子興;興死,立弟武。齊建元中,除武持節、督倭、新羅、任那、伽羅、秦韓、慕韓六國諸軍事、鎮東大將軍。高祖即位,進武號征東將軍。
51 其南有侏儒國,人長三四尺。
南黑齒國、裸國,去倭四千餘里,船行可一年至。
西南萬里有海人,身黑眼白,裸而醜。其肉美,行者或射而食之。
52 文身國,在倭國東北七千餘里。人體有文如獸,其額上有三文,文直者貴,文小者賤。土俗歡樂,物豊而賤,行客不齎糧。有屋宇,無城郭。其王所居,飾以金銀珍麗。繞屋為緌,廣一丈,實以水銀,雨則流于水銀之上。市用珍寶。犯輕罪者則鞭杖;犯死罪則置猛獸食之,有枉則猛獸避而不食,經宿則赦之。
53 大漢國,在文身國東五千餘里。無兵戈,不攻戰。風俗並與文身國同而言語異。

「其」字について
代名詞です。
 文の構造では、其其構文となります。
同じ語を繰り返し借用して文を構成する語法。

A・・・・・
其・・・・・
其・・・・・
其・・・・・
B・・・・・
其・・・・・
其・・・・・
其・・・・・
其・・・・・

1)Aの下の其はAを代替する。
2)Bの下の其はBを代替する。

其が続く限り、冒頭の主語を共有することです。
其が冒頭の主語以外の任意の語を主語にとることはありません。例えば直前の文字列から主語を引用するという日本語の慣用的な用法は間違いのもとになります。

魏志倭人伝中の例

景初二年六月倭女王・・・・
其年十二月・・・・・
正始元年太守弓遵・・・・・
其年四年・・・・
其年六年・・・・・
其年八年・・・・・

其が冒頭の主語を代替しますので、其は年号となります。
以下のように、景初か正始が代入されます。

A:
 景初二年六月倭女王・・・・
其年十二月・・・・・(其の代替文字は景初)
B:
 正始元年太守弓遵・・・・・
其年四年・・・・(其の代替文字は正始)
其年六年・・・・・(其の代替文字は正始)
其年八年・・・・・(其の代替文字は正始)

重要なことは、上のように、A段とB段を分けることができます。其の切れ目で分けることができます。冒頭に其がないことだけで其の其の段落の区切りをつけることが条件です。本論ではこの段落を、ブロックとして囲み罫をいれて分かりやすく編集しています。
なお、其の其の構文が多発し、ウェイトが高いのは、会稽編、女王国編です。其の解釈の違いが解釈を根幹から変えてしまいます。ここはしっかりと原則を押さえてください。

可の字について

倭人伝中に可の使用箇所は以下のとおり、9か所あり、右にわたくしなりの訳を書いています。
1.對馬國・・・可四百餘里 「ちょうど四百餘里である。
2.一大國・・・可三百里  「ちょうど三百里である。
3.投馬国・・・可五萬餘戸 「ちょうど五万餘戸である。
4.邪馬壹國・・可七萬餘戸 「ちょうど七万餘戸である。
5.旁國遠絶不可得詳・・「旁國は遠く切り離れており詳しいことを得ることができなかった。(可+動詞=可能表現)
6.自女王國以北・・・可得略載 「略して載せることができた。(可+動詞=可能表現)
7.有裸國黒齒國・・・其東南船行一年可至 「その東南、船行一年ちょうどである。
8.有裸國黒齒國・・・周旋可五千餘里 「周囲の円周はちょうど五千餘里である。
9.其年十二月制詔・・録受悉可以示汝國中人 目録を受けたら、ことごとく一致した財物や品々を汝の国中の人に示せ。

可には、できるできないの可能の表現のほか、一致する、合うという意味がある。
合うとか一致すると訳すより、口語的には”ぴったり”とか”ちょうど”などの修飾詞をつかって訳すのが上級者だろう。
既存の訳では、~ほどである、~ばかりであると訳すのは問題だ。とくに可(ばかり)なり。と訓読するのは誤訳にあたいするだろう。

許の字について・・・

ピンインxǔ
1付属形態素 程度を示す.⇒少许 shǎoxǔ ,些许 xiēxǔ .
2((文語文[昔の書き言葉])) 概数を示す.
用例
年五十许=年のころは50余りである.
从者百许人。=従者は100人余りである.

徑=①徑三十里の用例。徑は径、直線で点と点を結ぶ。まっすぐな線のこと。副詞的用法では「まっすぐに」
   ②通道,小路,窄道 
海中洲とは:
《康熙字典》嶼:海中洲
《說文解字·山部》:嶼:㠀也。
《廣韻·敘》: 嶼:海中洲也。
康熙字典では海中洲は嶼のことですね。では嶼とは、ショ・しま/小さな島を意味します。
島嶼(トウショ)という連語は海に浮かぶ大小の島々を意味します。

海中洲㠀で、島の連語であり、島嶼(トウショ)、大小の島々、一語にすれば島々と訳せます。
①《後漢書》::珠崖儋耳 「其珠崖、儋耳二郡在海洲上,東西千里,南北五百里」
珠崖と儋耳の二郡は東西千里、南北五百里の嶋の上にある。(海南島)
②《太平御覽》::干陁利國 「《南史》曰:干陁利國在南海洲上。 顯示全文」
干陁利國は南の島の上にある。(上は乗っている、置かれているの意味)
③《太平廣記》:訶陵國 「訶陵在真臘國之南,南海洲中,東婆利,西墮婆,北大海。」
訶陵国は真臘國の南の島嶼にあり、東には婆利國、西に墮婆國、北は大海がある。
上の、①②③とも海洲は島と訳せばいいのです。中国語は単数複数形がありません。諸般から島々とも訳す場合もあります。

海中、海内:(文語文[昔の書き言葉])) は国の領域ないし国内のこと。(昔は中国の周りは海に囲まれていると考えられていたため国境の内側を‘海内’と称した.)↔海外.
州:大きな邦のなかの小国、中国における郡県にあたる。隋の文帝以後、郡県を州という表記に改めた。したがって、州と表記される地図は隋代以降に作成されたもの。


大明地図 日本付近 この図には国名が記されているが,そ れ は 「○○州」 と記載 されている。州 とい う記載の仕方 は海東諸国総図 と同 じである。



について


說文解字: 《糸部》絕:斷絲也。从糸从刀从卩。
「絶は絹糸を断つなり。」
《廣韻·入聲·薛·絕》絕:斷也,
参考:說文解字: 《絲部》絲:蠶所吐也。从二糸。凡絲之屬皆从絲。
「絲は蚕が吐くなり」糸は糸でも絹糸です。
絶は断つと同じです。
現代辞書では:
1. 途中でたち切る。連続しているものや関係が切れる。「絶交・絶食・絶望・絶命・絶滅/気絶・義絶・根絶・断絶・中絶・途絶・廃絶・悶絶(もんぜつ)」
2. 遠く隔たる。

絶=隔離している、分かれている。たとえば、一つの卵を真っ二つにしたような状態。または、まんじゅうを二つに割ったような様を指す。

   EX.絶島、女王国餘傍国遠絶、倭地絶在海中州島之上、或絶或連、


絶島の訳としては、1の意味にとるべきです。
魏志倭人伝には以下のように、4カ所あります。
どのように訳したらいいでしょうか?


直訳で、一度その理解を深めることにします。


1.其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶㠀方可四百餘里
2.其餘旁國遠絶不可得詳次有;斯馬國次有
3.參問倭地絶在海中洲㠀之上或或連周旋可五千餘里
4.天子為其域(東夷傳序) 

1.絶㠀海で断ち切れて離れた⇒対馬の例
2.遠絶=海で切り離されて遠くはなればなれな~/余傍国は九州北部から渡海した先の遠くの島に国を作っている。
3.絶在=海で切れている。或絶或連=あるいは海で切り離れ、あるいはつながっている
絶域=切り離れた地域
倭は島々からなっていま
すから、島を分断するのは海しかありません。海の水道や海峡などで二つ以上に断絶している状態がニュアンスとして感じられれば訳としてはOKかと思われます。複数で数が多ければ、点在するイメージですから、ばらばらな、という形容詞でもイメージが合うでしょう。

周旋=ぐるっと一周する 

與=~と(並列助詞),西域伝では、~の方向に。

例文:
大宛國・・・北與康居、南與大月氏接。
大宛國は北に向かって康居(こうきょ)、南に向かって大月氏(だいげっし)に接する。


季=末の(季子とは末っ子のこと)

塞=中国と蛮夷の境界(長城を指す場合が多い)

素=もともと

恒=いつでも

方向+並=一定の方向にまとまって

地名+踰=~を越えて
接=接する;国境を隣り合わせにしていると解釈します。その間にほかの国はありません。
   

通:通~、(~を)通過すること。
接する隣国との国境を通過することです。「姑墨國、東通龜茲六百七十里」の例では、姑墨國の南城から龜茲國の延城までは861里。都護治所の烏壘城までは1211里あります。(この間350里)
つまり、東に向かって670里で通過するのは姑墨國と龜茲國の国境ということになります。


則=国境を接していますが長大な距離の国境を隣接している。大国のばあいには接でなく、則が使われるように思えます。すなわち、一つにくっついている様。則刀は刀を身に着けている。則攻、則退、則進などはすぐに、ただちになどと訳します。西域伝では「東則接漢」西域の東は漢に接している。とうぜん、といった規定の事実を強調している接続助詞、動詞があるばあいは関係補助詞だろう。則の後ろは修飾句になる。(注)これは私の解釈です。

南道西逾葱嶺,則出大月氏、安息之國也。「南道を西に越えると葱嶺である。すなわち大月氏と安息の国に出る。」
「安息東則大月氏」、この場合、安息の東は大月氏です。與、接、有よりも藩という意味だけでなく、

乍~乍~ ~したり、~したりする。乍東乍南(さくとうさくなん) 東に南に順次方向を変えること。


轉=転=方向を変える

於=~において


端=ポイント+端では行き止まり、~の先っぽ、ゴール、終点、などの意味。


而=~順接・・「テ」「しかシテ」「しかウシテ」(讀み) 「そして」「それで」「そうして」(意味) して、

而=逆接・・「しかルニ」「しかルヲ」「しかレドモ」 (讀み)「それなのに」「そうではあるが」「そうはいっても」~でも

轉北而東復=北に方向を変えて、再び東に・・・

乃=そこで,ようやく,やっと,…でこそ,(月氏乃遠去;月氏をようやく遠く去って)②なんと,予想外にも.③…は…である.≦是.

*蓋=(けだし)確信をもって思うに

提=推挙する

燕(えん、紀元前1100年頃 - 紀元前222年)は、中国に周代、春秋時代、戦国時代にわたって存在した国。春秋十二列国の一つ、また戦国七雄の一つ。首都は薊(けい)で、現在の北京にあたる。

祖禰(そでい・そね) 禰の異字体=祢・(でい・ね)  父の霊廟:「生きるを父と称し、死せるを考と称し、廟に入るを祢と称す。」(春秋公羊傳)・父のおたまや。みたまや。廟(ビョウ)にまつった父。「祈・祈は同じ「しめすへん」です)祖禰:遠祖・または初代の霊廟。

上祖:宗廟の筆頭の祖先、例外なく国祖、開祖(王朝を開いた最初の王)となります。

宗社:宗廟と社稷のこと。

社稷(しゃしょく):宗廟のこと。(建国時に創建された祭壇)


宗族=同じ先祖を持つ一族。
宗女=一族の女。同族であればいいので、宗女は嫡女とは限らない。

王=文中での一単語として出現する場合は原則的に男性です。「年已長大,無夫壻,有男弟佐治國。自為王以來,少有見者。」、男王との記述はないのですが、自為王の王は男性です。ですから、この王は卑弥呼ではありません。弟のことです。通説はみな卑弥呼が王になって以来と誤訳しています。
《說文解字》 [東漢] 100年-121年 許慎著
《卷二》《王部》
78 王:天下所歸往也。董仲舒曰:「古之造文者,三畫而連其中謂之王。三者,天、地、人也。(天地人の中を連ねる者)
分(わけ)=系図において本流にたいして戸籍を分けること。名+分、荒田分とかは嫡男でないことで、弟や中子を意味する。『禮紀』「別子が祖を為し、別を継ぎて宗を為す。」
日本紀においては天皇の和風諡号に別の文字を用いる。


拝假=天子より官職を拝命される事。(岩元学説P240)

假=官品を与えて任命すること。

獻:(異字体)=献 ささげる/たてまつる/まつる/神や目上の人に物を供える


徼(げき)=天子から出される召書。漢の劉向撰『説苑』(ぜいえん)「徼以木簡為書、長二尺以徴召」によれば、二尺(65cm)の木簡による伝達であり、召し出す、または徴用することを目的とする。
告喩(こくゆ)=口頭でさとし告げること。
因よって詔書・黄幢を齎もたらし、難升米に拝仮せしめ、檄げきを為つくりてこれを告喩す。
國中遂に定まる。 政等せいら、檄げきを以て壹與に告喩す。
*軻(カ)物事がうまく進まない様
*嘗(ショウ)ためしに

大夫① =周代の内官制度 五等以下の六等の中でも中位にあります。君>卿>大夫>上士>中士>下士、俸禄に準じた身分階級で、いわゆる貴族(上流階級)。卿は大夫の3倍の俸禄、大夫は上士の二倍の俸禄が与えれれていました。周王朝、戦国時代まで、朝廷では普通にあった、ありふれた階級の官吏。中国の春秋戦国時代に韓、魏・趙など三晋にも大夫という官名はあり、中原にあった王朝ではごくありふれた官名です。

《孟子》《儒家》
《禮記》 [戰國] 公元前340年-公元前250年
《萬章下》
 孟子曰:「其詳不可得聞也。諸侯惡其害己也,而皆去其籍。然而軻也,嘗聞其略也。天子一位,公一位,侯一位,伯一位,子、男同一位,凡五等也。君一位,卿一位,大夫一位,上士一位,中士一位,下士一位,凡六等。
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「天子之制,地方千里,公侯皆方百里,伯七十里,子、男五十里,凡四等。不能五十里,不達於天子,附於諸侯,曰附庸。天子之卿受地視侯,大夫受地視伯,元士受地視子、男。
打開字典顯示相似段落顯示更多訊息
「大國地方百里,君十卿祿,卿祿四大夫,大夫倍上士,上士倍中士,中士倍下士,下士與庶人在官者同祿,祿足以代其耕也。次國地方七十里,君十卿祿,卿祿三大夫,大夫倍上士,上士倍中士,中士倍下士,下士與庶人在官者同祿,祿足以代其耕也。小國地方五十里,君十卿祿,卿祿二大夫,大夫倍上士,上士倍中士,中士倍下士,下士與庶人在官者同祿,祿足以代其耕也。耕者之所獲,一夫百畝。百畝之糞,上農夫食九人,上次食八人,中食七人,中次食六人,下食五人。庶人在官者,其祿以是為差。」

以上を参照すると、五等以下の凡六等の中でも中位にあります。君>卿>大夫>上士>中士>下士・・・わたしの感想では天子から君子までは王族でしょう。その君子の身近に出入りできる官吏ですから、上層階級だと考えられます。君は卿の十倍の禄が与えられ、卿は大夫の二倍、大夫は上士の二倍、・・・以下倍々となっています。これによると、役職ではなく、俸禄に準じた身分階級のようですね。・・・の次に、「天子之制,地方千里,公侯皆方百里,伯七十里,子、男同五十里,凡四等。不能五十里」、とあり、大夫は六等の中位ですから方五十里(20km)以下の土地を禄に配分されていたという感じです。

いずれにせよ、《禮記》だけでなく、史書にも数えきれないほど「大夫」という語は記されています。
また、釈喪制という葬儀の儀典では、天子は崩、諸侯は薨、大夫は卒、士は不祿、庶人は死、とされ、大夫は死ではなく、卒という用語を使っていたというのです。天子の祭祀にさいしては廟に天子の後ろに卿に続いて序列を配して入場しますから、貴人の扱いを受けているのです。

其使詣中國皆自穪大夫夏后少康之子封於會稽斷髪丈身以避蛟龍之害での大夫は夏王朝の小康の節が続きますから、会稽の倭水人が住む國の使いが大夫と名乗っていたことに矛盾がありません。それを踏まえると、東の揚州にある会稽や粤、蛮夷の国でも官僚制があったのだろうか・・・と、疑問を投げかけているのです。夷族の特使が大夫と名のることは奇異なことです。返して、東夷の国にも官僚制度(天子の内官制)があったのだろうか」という、疑問導入文になるわけです。大夫と自称している理由は、次に書かれます。夏王朝の禹帝の末裔、小康の子が会稽倭人王朝の始祖だったからということです。禹帝はBC2000年の夏王朝です。中国全土を九州と定めたのは、禹帝ですよ。禹帝の治水の神で、妻は、白狐をトーテムとする倭族の族長の娘で、九尾狐だったのです。九尾狐は倭人にとっては、実にめでたいシンデレラストーリーなのですが、このあたりは、伝説の世界ですから、ここでは触れておくだけにします。ただ、禹帝の廟が会稽にあり、会稽とう地名そのものが禹帝に由来するということだけは記憶しておいてください。現在の紹興市です。
Tuit:会稽の倭人の使いを大夫といっているのですが、倭女王の使いだと誤解すると、「卑弥呼が太伯の描なり」ということになるんでしょうね。

大夫②=扶余君:大夫は中国の古代の官名でしたが、他方大夫難升米の大夫は違和感があります。東夷の一国ですから、中国の官名を中国正史が書くのはおかしいのです。景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡・・・大夫難升米次使都市牛利奉前後の述部からは難升米は中国皇帝に祝賀朝貢して謁見するのですから、中国の官名である大夫の身分では低すぎます。むしろ王、もしくは王に次ぐ君(あるいは摂政)がふさわしいのです。そこで、夫は夫餘の夫一文字をとったものと解するほうが適当だと考えられます。つぎの大倭と対比すると大夫が夫餘の夫だというのは無謀ではありません。関連して大倭も中国における大夫の夫の字を倭に置き換えたと考えられるからです。

大倭:「収租賦有邸閣國國有市交易有無使大倭監之」からは、諸国の税を集め、交易を監視する立場であることから、地域の軍事、および租庸調を徴収する権限を持ち、それらを記録するものと解釈します。高句麗では属国に対しては官をおくり、税や庸調を監察していましたが、その官を大加と言っています。大加とは高句麗の五部の長(部内では王)となります。では、倭地における大倭は大率とどう違うのでしょうか。大率は朝廷の直属で二品の貴族です。そこで大倭はその下の地方の長官というべきでしょう。そこで、大率と大倭はともに支配国が派遣した役人だと見て取れます。大和連合国というような表記をする一部邪馬壹国論者がいますが、連合国というのはやや安易です。BCDEの四国がA国に属すといったばあい、A国は盟主國だという言い方は成立すると思いますが、BCDEは統(す)べる所の属国ですから、連合国というには疑問があります。連合国という用語は近代政治学において初めて使われたので、古代史に連合国という概念を持ち込むのは無用な混乱を招きます。この近代政治的概念でいうならば属国とは植民地といったほうが、より相応しいでしょう。

太伯について
史書名+表記の内容
 魏略    ;自帯方至女国万二千餘里 其俗男子皆黥面文 聞其旧語自謂太伯之後
 御覧魏志  ;自帯方至女国万二千餘里 其俗男子皆黥面文身 聞其旧語自謂太伯之後
 梁書    ;去帯方万二千餘里  自伝太伯之後
 晋書    ;            俗皆文身 自謂太伯之後
 北史    ;又伝去楽浪郡境及帯方郡並一万二千里 俗皆文身 自伝太伯之後
魏志倭人伝 ;男子無大小皆黥面丈身自古以來其使詣中國皆自穪大夫

五正史の下線部分は倭人伝で自称大夫に対照されます。相応した下線部の語源から共通する意味は「周禮」であり、文身黥面はしているが、周の法俗を継承しているということです。魏志倭人伝には太伯という文字はありませんが、周禮を守っているという意味では同じです。なぜなら、大夫とは周代の内官制度で卿に次ぐ官名です。古く紀元前1000年ごろの周禮の規則を守っているというわけです。
配列構造をみると、魏略を含めて五史は日本倭人、魏志倭人伝は会稽の倭水人が主格です。主語がことなっています。

後漢書   ;建武中元二年(57)倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也

後漢書は、自称大夫を文脈を無視してきりばり(結合)して、光武帝の封禅の儀の朝賀貢献にやってきた日本倭人の使いが大夫と自称したとします。これは、まったく独自の新説です。大いに疑問のあるところです。ただし、倭奴国が倭国の領界の最南端にあるという解釈は正しいのです。倭国と奴国が別々に遠く離れ、奴国が南に位置するということは踏まえておくべきことです。


魏志倭人伝では太伯という姓名は書かれていない。太伯という単語の意味について知っておくことも必要だろう。
太伯とは一般用語としては星の名前であり、金星をさしています。
《史書》《史記》[西漢] 公元前109年-公元前91年 司馬遷著 提到
《史記》《書》《封禪書》
(史書 -> 史記 -> 書 -> 封禪書)

《封禪書》
提到《封禪書》的書籍 電子圖書館
33 打開字典顯示相似段落 封禪書:
而雍有日、月、參、辰、南北斗、熒惑、太伯、歲星、填星、[辰星]、二十八宿、風伯、雨師、四海、九臣、十四臣、諸布、諸嚴、諸逑之屬,百有餘廟。西亦有數十祠。於湖有周天子祠。
上記の引用のように、太伯が日や月の以下にある星の名前だとわかります。

「古代中国での金星
宵の明星 - 中国では、古くは、宵の明星と暁の明星とを別々の星と考えており、明けの明星を「啓明」(けいめい)、宵の明星を「長庚」(ちょうこう)、と呼び分けていた。「太伯」は金星そのものの他に、宵の明星=「長庚」を指す。
虚空蔵菩薩
太伯金星 - 中国の、金星を司る仙人。「西遊記」によく登場する。」(wiki引用)


さて、これからは太伯という人物がいます。魏略にはありませすが、魏志倭人伝にはありません。ですから、魏志倭人伝の訳には登場しません。魏志倭人伝がなぜ太伯を記さなかったのかはわかりませんが、魏志倭人伝にないからといってまったく無視することはできません。なぜなら、太伯については、中国の史書に少なからず登場するからです。魏略、晋書、梁書、北史は、太伯の記載があります。以下、抽出抜粋してみましょう。

史書 -> 史記 -> 本紀 -> 周本紀
《周本紀》
5 打開字典顯示相似段落 周本紀:
古公有長子曰太伯,次曰虞仲。太姜生少子季歷,季歷娶太任,皆賢婦人,生昌,有聖瑞。古公曰:「我世當有興者,其在昌乎?」長子太伯、虞仲知古公欲立季歷以傳昌,乃二人亡如荊蠻,文身斷髪,以讓季歷。

古公には太伯という長子と次子に虞仲という子がいた。(小后)太姜が少子履歴を生んだ。季歷は太任という賢夫人を娶り、昌という子を生んだ。この昌に聖瑞があった。古公は曰く「我が世はまさに国を隆盛にする者があらわれた。その子は昌だろうか。太伯と虞中は古公が季歷を即位させ、孫の昌に代を伝えようと望んでいることを知り、二人は荊蛮に逃れて文身断髪をし、季歷に位を譲った。

古公(周本紀)が孫の昌に奇瑞があり、子の季歴を太子にした。長子の太伯と次子の虞中の二人は荊蛮に逃れて文身断髪をし、季歷に位を譲ったという経緯を孔子は、これが徳とし、美談として記したのである。

倭人は周の時代は江南にすんでいた。漢書の厳助伝には「越はざんばら髪で体に入れ墨をした民だ」とされ、その南夷だった江南倭人が日本と加羅に国を作っているというのが魏志の作者には自明のことであった。魏志倭人伝でもっとも倭人の特徴をとらまえているのが入墨の風習となるのである。

「朱丹をもってその身体に塗ること、中国にて粉を持ちうるが如きなり」魏志

「並びに朱丹を以って身に扮すること、中国の粉を持ちうるがごときなり。」後漢書

ここでは倭人は赤い入墨を顔や身体にしていた世界でもまれな民族だったことを踏まえておこう。「中国にて粉を持ちうるが如き」・・・中国の粉とは白粉(おしろい)のことで、朱丹(水銀)から生成される純白の化粧品のこと。日本人は朱丹と書いてあるのは、明らかに辰砂(赤土)となる。

《先秦兩漢》
《韓詩外傳》
[西漢] 公元前180年-公元前120年《卷十》
5 打開字典顯示相似段落顯示更多訊息 卷十:
君子溫儉以求於仁,恭讓以求於禮,得之自是,不得自是。故君子之於道也,猶農夫之耕,雖不獲年之優,無以易也。大王亶甫有子曰太伯、仲雍、季歷,歷有子曰昌,太伯知大王賢昌,而欲季為後,太伯去,之吳。大王將死,謂曰:「我死,汝往讓兩兄,彼即不來,汝有義而安。」大王薨,季之吳告伯仲,伯仲從季而歸,群臣欲伯之立季,季又讓。伯謂仲曰:「今群臣欲我立季,季又讓,何以處之?」仲曰:「刑有所謂矣,要於扶微者。可以立季。」季遂立,而養文王,文王果受命而王。孔子曰:「太伯獨見,王季獨知;伯見父志,季知父心。故大王太伯王季可謂見始知終,而能承志矣。」《詩》曰:「自太伯王季,惟此王季,因心則友。則友其兄,則篤其慶,載錫之光。受祿無喪,奄有四方。」此之謂也。太伯反吳,吳以為君,至夫差二十八世而滅。

漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 吳書二
《吳主傳》化曰:「周之初基,太伯在東,是以文王能興於西。」
化がいう。周が建国した初め、太伯が東にいたので文王は西の方をよく治めた。


 司馬遷の「史記一 本紀」、ここには、ある重要な痕跡が残されている。それは、文身断髪したということ、それである。太伯、彼がなんであれ、京師を逃れたあと、蛮族の風習に身をやつしたということだ。倭人の居住地であった会稽か越南に出奔したと考えられるが、荊蛮とあるので、荊州なのであろう(紀元前11世紀)そこで、太伯はその地で君に推戴された。呉国の淵源は太伯から始まるので、会稽の、其の旧い言葉を聞いてみると自ら太伯の後と言うのである。

魏略にある「聞其旧語自謂太伯之後」とある主語は女王国、九州のの倭人ですが、魏志倭人伝は、この文節に対応させて「自古以来其使詣中国皆自称大夫」と記したので、会稽の倭水人が主語です。そこで、陳寿が魏略を底本にしたとは考えられないのです。あるいは魏書逸文が改編されていているという疑いです。大夫とは周の官名です。太伯も周の天子を継ぐべき正統な王だったのです。ところが、梁書では、これがあいまいになってしまいます。
《梁書 卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎》
49 倭者,自云太伯之後,俗皆文身。去帶方萬二千餘里,大抵在會稽之東/
ここでの倭者はあきらかに楽浪大海中の日本倭人ですが、去帶方萬二千餘里にあり、置き換わっています。そこが会稽の東だと後漢書に準拠しているのです。と、いうので、今日の通説が日本倭人が太伯の後で会稽東冶の東になってしまうということです。後漢書以後、こうした折衷されたコピーが多いと考えられます。

《太平御覽》《人事部一十四》《髮》
12 打開字典顯示相似段落 髮:
又《哀上》曰:太伯端委以治周禮,仲雍嗣之,斷髮文身,祼以為飾,豈禮也哉?
太伯は端委にして、周禮をもって治めた。太伯の弟の仲雍(ちゅうよう)これに継いで断髪文身して裸を飾った。あに、禮なりや?
古代中国人にとって髪は自ら切らなかったほど大切で、切られることは大きな恥辱であったから、断髪文身したことは禮に合わないことではないかと批判している。

《論衡》相關討論
[東漢] 80年 王充著《論衡》
《初稟》
棄事堯為司馬,居稷官,故為后稷。曾孫公劉居邰,後徙居邠。後孫古公亶甫三子:太伯、仲雍、季歷。季歷生文王昌。昌在襁褓之中,聖瑞見矣。故古公曰:「我世當有興者,其在昌乎!」於是太伯知之,乃辭之吳,文身斷髮,以讓王季。文王受命,謂此時也,天命在人本矣,太王古公見之早也。
《譴告》
電子圖書館
3 打開字典顯示相似段落顯示影印本 譴告:
夫天道、自然也,無為。如譴告人,是有為,非自然也。黃、老之家,論說天道,得其實矣。且天審能譴告人君,宜變易其氣以覺悟之。用刑非時,刑氣寒,而天宜為溫;施賞違節,賞氣溫,而天宜為寒。變其政而易其氣,故君得以覺悟,知是非。今乃隨寒從溫,為寒為溫,以譴告之意,欲令變更之且。大王亶父以王季之可立,故易名為歷。「歷」者、適也。太伯覺悟,之吳、越採藥,以避王季。使大王不易季名,而復字之「季」,太伯豈覺悟以避之哉?今刑賞失法,天欲改易其政,宜為異氣,若太王之易季名。今乃重為同氣以譴告之,人君何時將能覺悟,以見刑賞之誤哉?
9 打開字典顯示相似段落顯示影印本 譴告:
竇嬰、灌夫疾時為邪,相與日引繩以糾纆之,心疾之甚,安肯從其欲?太伯教吳冠帶,孰與隨從其俗,與之俱倮也?故吳之知禮義也,太伯改其俗也。蘇武入匈奴,終不左衽;趙他入南越,箕踞椎髻。漢朝稱蘇武,而毀趙他。之性,習越土氣,畔冠帶之制。陸賈說之,夏服雅禮,風告以義,趙他覺悟,運心嚮內。如陸賈復越服夷談,從其亂俗,安能令之覺悟,自變從漢制哉?

以上の接点から、倭王である卑弥呼が周の「太伯」の子孫であると称したことは、ありえない。

中国正史の魏略・御覧魏各倭伝に「太伯之後」と書かれ、魏志倭人にはない。
翰苑(かんえん)は正史外。正史のうち、魏略・御覧魏志・魏志・晋書では、皆「夏后小康の子が断髪文身」と記している。「太伯の苗」は呉國であり、呉の孫権が王である。魏は呉を滅ぼしたのだが、結局、呉の孫権と直接【交通】した記録はない。なんらかの政治状況の変節が影響したのだろうが、魏志倭人伝が「呉の後を削除した意味の方を重視したい。

 *荊蛮(けいばん)荊州のこと。今の中国湖北省・湖南省の大部分。黄河一帯が漢族の故地であった。紀元前5世紀ごろの観念では、長江の南側は古代では蛮人の国であった。

(詩経 小雅)うごめき騒ぐ荊州の蛮人どもが
我が大国に歯向かおうとしている。

いずれも卑彌呼が太伯の苗と言っているのではなく、会稽の住民がみな太伯の後裔だと自称しているということであり、翰苑の一人とちりである。魏志は「その会稽の使いが皆大夫と自称している」とは、書いているが、呉とは関係がない。むしろ、「大夫」は周代から春秋戦国時代(=東周時代)の貴族の位の一つ官名であり、戦国時代には死語になっていたのだろう。


この李歴の子に昌(しょう)という子があり、この昌に聖なる瑞祥があった。そこで古公は李歴とその子、昌にわが世を伝えようと欲していた。このため、太伯と虞仲は*洛陽から、荊蛮(けいばん)の地に出奔した。そこで、蛮俗の如く文身断髪した。周の王に相応しくない風体になり、つまり、あえて李歴に王位を譲ったというのである。
以上は、司馬遷の「史記一 本紀」に見られる記述である。聖瑞があったとされる李歴の子の昌は、周の聖王、「文王」である。「文王」の次が「武王」で、有名な「太公望」が軍師として登場してくる。周朝初期を、孔子はユートピアとして描きあげ、それを後代に見習うべき模範として伝えた。

倭人はもともと広西壮族自治区から福建、広東、浙江省の地域にいた南方異民族で海蛇をトーテムとし、中国で「倭の水人」と言われた南方モンゴロイドだ。しかし、不思議なことに彼らは自らを呉の始祖・太伯の子孫だと言っていたことは否定できない。一般に呉という国があった地域と古代日本人とは非常に近い関係にある。始皇帝が前221年に最後に統一したのが越地であり、このとき制圧を嫌って越人は移動したのであろう。春秋戦国時代の西暦前334年、江南の大国・越が楚に破れている。『史記』には、「越はここをもって散ず、江南の海上に浜(ひん)す」とあり、多くの越の住民が日本に逃れてきたことを暗示している。江南の海上にあるのは日本列島のことである。しかし、会稽の東の海上は、まごうことなき日本列島なのである。また、越の民は雲南の山岳地帯にも移動したと考えられる。越人の最大の種族、ミャオ族(三苗族)には、かつて祖先は東に住んでいた。山を越え、河を渡ってだんだん西方に来たという古歌が多く残されている。史記には、「三苗、江淮荊州に在り、数乱を為す」とあり、江淮荊州とは長江の中流域あたりで。また、タイ人と呼ばれる主たる民族は中国の揚子江(長江)以南の地域がその起源であると考えられる。黄河流域より勢力を拡大した漢民族の圧迫を受けるようになると、およそ6-7世紀に中国南部から主に南下もしくは西方に向かって移住した。(荊州は三国志では関羽が守っていた地)

大率(だいりつ)=扶余の十六品のうちの一官名、佐平の次の位、官服は紫の帯をつける。(女王国と倭国編に詳細:三國史記では二品は達率といい、32人いたとする)一大率=幾人かいる大率のうちの一人。(大率が複数人いることの意味取りすることが重要。)

文献:随書八十一列伝第四十六東夷百済:
其國東西四百五十里,南北九百余里,南接新羅,北拒高麗。其都曰居拔城。
官有十六品:長曰左平,次大率,次恩率,次德率,次杆率,次奈率,次將德,服紫帶;次施德,皁帶;次固德,赤帶;次李德,青帶;次對德以下,皆黃帶;次文督,次武督,次佐軍,次振武,次克虞,皆用白帶。其冠制並同,唯奈率以上飾以銀花。


大人=鮮卑伝では「自檀石槐死後,諸大人遂世相襲也」とあり、鮮卑の部族長を大人と呼んでいた。

下戸=平民以下奴婢まで

薨=場所+薨(こう)じる、は普通の死に方、単独で薨の場合は暗殺、ないし誅殺されたこと。

但=ひたすら、ただただ

禽(きん)=説文解字:走獸の緫名(そうめい)なり、厹に従ひ、象形、今(きん)を聲とす、禽、离(り)、兕(じ)は頭相ひ似たり。
ト=卜占のこと。夏殷周代の亀甲文字を生成した占い。鬼神は宗族の太祖(国を興した祖先)であり、悪語ではない。

大陰暦=月の満ち欠けを基準にして作った暦。1朔望月(さくぼうげつ)は29.5306日なので29日と30日の月を組み合わせて1年を12か月とし、30年に11回の割合で30日の月を二度続ける。季節とは合わない。儀鳳暦(ぎほうれき)は中国暦の一つで、中国・唐の天文学者・李淳風(中国語)が編纂した太陰太陽暦の暦法である。唐でのもともとの名称は麟徳暦(中国語)(りんとくれき)であるが、日本においては儀鳳暦と呼ばれ、飛鳥時代から奈良時代にかけて使用された(後節)。定朔法を用いており、優れた暦法とされる。なお、この暦において初めて進朔が採用された。

四分暦=中国暦のなかで太陽年の長さを365と4分の1日とする四分法にもとづく暦法のこと。古六暦・戦国四分暦・後漢四分暦などがこれに当たります。暦法は中国では次ように変遷しています。
19年7閏月の章法を採用し、1太陽年を365 1/4(= 365.25)日、1朔望月を29 499/940(≒7001295308500000000♤29.53085)日とする。
古六暦(こりくれき)BC1050~BC104
前漢太初暦   BC104~ AD85(これ以後、暦法の詳細が正史に記載される)
後漢四分暦 AD85~AD220
景初暦   AD237~AD444
元嘉暦   AD445~

(晋の秦始暦=魏の景初暦を踏襲)
(東晋を継承した宋は名称こそ永初暦に変更したものの晋の秦始暦=魏の景初暦を踏襲しましたが、元嘉暦に変更しました。)(梁:建元暦―→大明暦)

景初歴=19年7閏月の章法を採用し、1太陽年を(≒365.24688日、1朔望月を(≒29.530599日とする。景初歴では19間年で7閏月と定めました。 景初元年4月から施行。

元嘉暦=中国では宋の元嘉二十二年(445)~斉(建元暦)を経て、梁の天監八年(509)の65年間。その前は永初暦、次は大明暦。日本でいつから用いられていたかについてははっきりしません。儀鳳暦との併用期間を経て、続日本紀の始まる文武天皇元年(697)からは儀鳳暦におきかわりました。19年に7閏月を置きます。
定数:平朔、平気、章法
1太陽年= 222070(紀日)÷ 608(紀法)=365.24671日
1朔望月= 22207(通数)÷ 752(日法)=29.530585日
1交点月= 1朔望月×939(会月)÷(939+80(朔望合数))=27.212188日

莽=広大な。莽平は広大な平地の意味。

糴=買い入れる;糴穀=穀物を買い入れる

是=~です。省略されても名詞述語文となる例が多い。

一,二、三=数詞といいます。

本、個、匹、編など・・・日本語では助数詞といいますが、中国語では量詞といいます。物の数を表すときアジア言語の凡例的用法、類別詞ともいう。
             个【gè】はなんにでも使われるようです。タイ語の類別詞【ʔan】は小物だけですが用法は个【gè】と似ています。

朱丹=朱砂を石臼で粉末にして、硫化水銀を分離した天然のもの。朱の顔料には別に、鉄の生産の副産物として生成されるベンガラがある。(褐鉄鉱を酸化還元する過程できる)



罽刀(けいとう)=魏志倭人伝に出てきます。「拝假倭王 齎詔賜金帛錦罽刀鏡采物」です。これは罽賓國=スキタイ族の作った刀です。敦煌の月氏が匈奴に圧迫されゾグディアナに移動、サカ族を追放して大月氏国をたてました。サカは大月氏国に征服された後、南下カシミール地方に罽賓国(けいひんこく)を建てます。漢書地理史より。

罽賓國:西域の一国、サカ族(スキタイ)の国家。
維基 -> 梁書 -> 卷第五十四列傳第四十八 諸夷海南諸國 東夷 西北諸戎
《扶桑國者》宋大明二年,罽賓國嘗有比丘五人游行至其國,流通佛法、經像,教令出家,風俗遂改。
南朝斉永元元年=499年=北魏:太和23年(471年:崎玉稲荷山古墳鉄剣)
「南朝宋大明二年=458年戊戌、かつて罽賓國にいた比丘五人が游行して扶桑国にいたった。仏法が広まり、経像、出家の教えなど風俗がついに改まった」
仏教伝来の記録としてみることができそうです。(479年宋滅びる)(日本史:513年百済五経博士を献じる。)
赤罽幘(せきけいさく)について
*幘(さく) 官帽または冠(かんむり) 官職・身分によってスタイルが決められた。
 三國志 卷四十六 三国志 呉書 孫堅 堅、常著赤罽幘。乃脫幘、令親近將祖茂、著之。卓騎爭逐茂、故堅從閒道得免。茂、困迫、下馬、以幘冠冢閒燒柱、因伏草中。
 孫堅はいつも赤罽幘を着用していたが、幘を脱いで親近の将軍祖茂にこれを着用させた。 董卓の騎兵は争って祖茂を追走したので、孫堅は間道をつたって逃げることができた。 祖茂は追い詰められて馬を下り、幘を塚のあいだの焼け柱にかぶせ、そこで草むらの中に身を伏せた。

  以上、赤罽幘(せきけいさく)は孫堅のみがかぶっていた幘(さく)で、董卓の兵にも識別できていたことが明確だ。

*幘の画像、幘のイメージ、高句麗壁画より。

上:幘(官帽)を被った馬上の人物(1) 徳興里壁画古墳 壁画
平安南道南浦市江西区域徳興洞(旧地名は、平安南道大安市徳興里)にある高句麗時代初期の壁画古墳である。この壁画古墳は、墓室の中から発見された墨書銘により、被葬者が幽州刺史を務めた「鎭」某という人物であり、造成された年代は永楽18年すなわち408年であることが明らかになっている。

上:間道東壁 幘を被った馬上の人物(2) 描き方が(1)より雑であること、幘に違いがあること、夫人が乗る牛車の後ろにいることなどの様子から護衛兵であろうか。
幘について
幘は中国皇帝が与えた由来
《三國志》[西晉] 265年-300年
《魏書三十》
《韓傳》
是後倭韓遂屬帶方。景初中,明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣越海定二郡,諸韓國臣智加賜邑君印綬,其次與邑長。其俗好衣幘,下戶詣郡朝謁,皆假衣幘,自服印綬衣幘千有餘人。部從事吳林以樂浪本統韓國,分割辰韓八國以與樂浪,吏譯轉有異同,臣智激韓忿攻帶方郡崎離營。時太守弓遵、樂浪太守劉茂興兵伐之,遵戰死,二郡遂滅韓。

桓帝と靈帝の末に韓と濊は強勢となり、郡県制を維持することが難しくなり、海内の民は多く韓國に流入した。建安中に公孫康は屯有縣以南の荒地を分割して帯方郡をつくった。公孫模や張敞等を派遣して遺民を集め、兵を起こして韓濊を討伐した。旧民がわずかばかり少しづつ出てきた。こののち、倭、韓はついに帯方郡に帰属した。景初中(二年)明帝は密かに帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于を派して海を越えて二郡を平定した。韓国の臣智に、次に邑長に印綬を賜った。その風俗は印綬衣幘(官位や官帽)を好み、下戸までも郡に詣でて天子との目通りを求めた。みな假拝された官衣や官帽を自ら着て、印綬とその官衣や官帽を着るものは千人を超えていた。部従事(百済の朝議に列する貴族)の呉林は韓国が楽浪がもとはを統括していたことをもって、辰韓の八国を楽浪郡に付属させて吏譯を転じた。臣智は激怒して、帯方郡の崎離營を攻めた。時の帯方太守弓遵、樂浪太守劉茂は兵を興して討伐した。太守弓遵は戦死し、二郡はついに韓を滅ぼした。(明帝の派遣した楽浪・帯方太守が公孫の属国を懐柔するため印綬や幘をあたえ官に任じたのをみて、帯方郡の南側の地域の邑借らが動揺し自分らも帯方郡に属すことを望んだ。百済の古爾王が謀反として制圧に動いたというのが素直にいえる真相だろうか?
*韓国での首長は、大国の君主は「臣智」といい、各国には長帥が、小国の君主は「邑借」という。「臣智激韓忿」から、ここでの部従事とは臣智に従属する長師か邑借ということになるだろう。


生口(せいこう) =捕虜

生口と奴婢の定義は別にするべきこと!

《三國志》[西晉] (265年-300年)
《魏書二》《文帝紀》
20 打開字典顯示相似段落 文帝紀:
「・・略・・魏書曰:十一月辛未,鎮西將軍曹真命衆將及州郡兵討破叛胡治元多、蘆水、封賞等,斬首五萬餘級,獲生口十萬,羊一百一十一萬口,牛八萬,河西遂平。・・略・・旬日:,破胡告檄到,上大笑曰:「吾策之於帷幕之內,諸將奮擊於萬里之外,其相應若合符契。前後戰克獲虜,未有如此也。」己卯,以大將軍曹仁為大司馬。十二月,行東巡。是歲築陵雲臺。」
訳;
「魏書に曰く、十一月辛未、鎮西将軍の曹真は将軍や州郡兵に叛いた胡が治める元多、蘆水、封賞を討伐することを命じた。五万余級を斬首、生口十万、羊百十万口(匹)、牛八万を獲た。河西はついに平定された。」・・・旬曰く「上大は笑って曰く:「吾は策を帷幕(いばく)の中で立てたが、諸將が萬里の外に出て奮擊したのだが其の符契(ふけい割符のこと)が合っているいるかどうか、相い応じて前後の戰で虜を克獲したのである。いままでなかった事である。己卯の年、大將軍曹仁は大司馬に取り立てられた。十二月、文帝は東に巡行し、この年、陵雲臺を築造した。

*生口十万=虜生口十万口=口とは羊の数え方との同じで、人間扱いされず、生かすも殺すも羊と同じということ。主に匈奴の深層意識による語源的表現だろう。

口 [kŏu]とは何か?
物を数える方法として、アジア言語では汎用的に助数詞がつかわれます。中国語の文法書では量詞といいます。タイ語では類別詞という言い方をします。では、口はいったい何を数える量詞なのかというと、羊(ひつじ)です。日本語ではひつじは一匹、二匹、三匹といいますが、中国では一口、二口、三口といいます。口という量詞が数えることのできる対象はひつじだけでしょうか。文法的には、一、家族全員の人数を数える。二、市町村などの人数も数える。 EX.我家有三口人。また、別な解説書では、家族の人数、豚、口のあるもの、口に入れたもの、口から出したもの、刃物など・・としています。日本語での人口という熟語に口が使われますが、そのソースだといっていいでしょう。ひつじのほかに豚も何口と数えるようですから、人口という言葉にはあまりいい響きはありませんね。そんなところをふまえたところで、流民を数える例文にぶちあたりました。「流民自占八萬餘口」と、いうのです。流民は国人の反対語でしょうか。羊や豚と同じように扱ったのか、家族や、市町村の人数に準じたのかはわかりませんが、流民はだいたい奴隷とひとしい扱いをうけていますから、奴婢七萬口なんていう言い方があるかもしれません。
*中国語量詞一覧表~名詞等の前につき数量を表す言葉一覧
800年頃、中国で使われた量詞がわかる例文を見てみましょう。
《隋唐》
《通典》[唐] 801年 杜佑著
《禮十八》
《天子納后》
*羊一口酒二斛
用鴈一頭,白羊一口,酒十二斛,米十二斛
用白羊一口,玄纁帛三疋,絳二疋,絹二百疋,獸皮二枚,錢二百萬,玉璧一枚,酒十二斛,白米十二斛,馬六匹,從車百乘
用玄三疋,纁二疋,束帛十疋,大璋一,虎皮二,錦采六十疋,絹二百疋,羔羊一口,羊四口,犢二頭,酒黍稷稻米弃各十斛,從車百乘
錦采四十匹,二品三十匹,三品二十匹。四品雜采十六匹,五品十匹,六品七品五匹。絹百四十匹,二品百二十匹,三品百匹。六品以下至九品,遞降二十匹。羔羊一口,羊二口,犢二頭,酒黍稷稻米弃各四斛。

羔羊【名詞】とはピンインgāoyáng
①〔‘只 zhī ’+〕羊.
②気の弱い者,純真な者,臆病者.
ですが、羊が臆病者の代名詞になるというのも面白いですね。
口は羊の頭数を数える量詞です。また、刀剣を数える量詞でもあります。

《孟子》數口之家。《前漢·宣帝紀》膠東相成勞來不怠,流民自占八萬餘口。又《李陵傳》捕得生口,言李陵敎單于爲兵,以備漢軍。又姓。

《中論·佚文》: 往昔海內富民、及工商之家,資財巨萬,役使奴婢,多者以百數,少者以十數,斯豈先王制禮之意哉! 顯示全文
《後漢書》: 二十五年,遼西烏桓大人郝旦等九百二十二人率眾向化,詣闕朝貢,獻奴婢牛馬及弓虎豹貂皮。
古制本無奴婢, 奴婢皆是犯事者奴婢曰私屬,皆不得賣買[古い制度では奴婢は本来いなかった。奴婢はみな犯罪を犯した者で、私人の所有する者だった。そこで、皆が売買できるわけではなかった]


夫餘の口をなんて訳しますか?

《隋唐》《通典》 [唐] 801年 杜佑著
《兵十四》《邊防一》《夫餘》                     *邊(へん)防(ぼう)とは (biānfáng) 国境警備
至太康六年,為慕容廆所襲破。廆(かい)呼罪反。其王依慮(いろ)自殺,子弟走保沃沮。武帝以何龕(かがん)為護東夷校尉。明年,夫餘後王依羅(いら)遣使詣龕,求率見人還復舊國。龕(かん)遣督郵賈沈以兵送之。爾後每為廆掠其種人,賣於中國,帝又以官物贖還,禁市夫餘之口。自後無聞。
訳:太康六年(285年)、慕容廆(ぼようかい)によって扶余は全軍が撃破され、夫餘王の依慮(いろ)は自殺し、子弟は遁走して沃沮(よくそ)に逃れた。武帝は何龕(かがん)を護東夷校尉に任命した。
翌年、286年夏、夫余王依慮の後の王である依羅は民を帰還させ夫餘を復興するため西晋の東夷校尉何龕(かがん)に救援を要請した。何龕(かがん)はこれに応じて督護賈沈(かじゅう)を差し向け、依羅を保護して旧国(故地沃沮)へ率いて送った。これを察知した慕容廆は配下の将軍孫丁(そんてい)に騎兵を与え、行軍路を阻ませて賈沈(かじゅう)を攻撃させたが、孫丁(そんてい)は返り討ちに遭って斬り殺された。こうして夫余は(旧国に)復興されたものの、慕容廆(ぼようかい)はその後もたびたび(遼西に)侵入してはその民衆を捕らえ、中国に売りさばいた。その為、西晋の武帝司馬炎(しばえん)は国の資産で夫余の奴隷を買い戻し、さらに司州・冀州では夫余人奴隷の売買を禁止した。それから、この国のことを聞くことがなくなった。
注:*慕容廆(ぼようかい):鮮卑慕容部の大人(部族長)(在位:285年 - 333年)。
注:*このとき、扶余王は遼西晋平県にいたのですが、子弟は沃沮(オクチョ・朝鮮半島東海)に逃れた経緯(けいい)が記録されています。

■奴隷ではなく捕虜と読むことが適当なことが分かる例文、その一、
[東漢] 80年 王充著 提到《論衡》《儒增》「・・・鄯善、諾降附歸德。匈奴時擾,遣將攘討,獲虜生口千萬數。」
訳:「鄯善(旧称ローランのこと)が降伏して漢に付いた。時に匈奴が邪魔をしたので將攘を派遣して討伐した。千万の捕虜を獲得した。

■捕虜と読むことが適当なことが分かる例文、その二、
《三國志》[西晉] (265年-300年)
《魏書二》《文帝紀》
20 打開字典顯示相似段落 文帝紀:
「・・略・・魏書曰:十一月辛未,鎮西將軍曹真命衆將及州郡兵討破叛胡治元多、蘆水、封賞等,斬首五萬餘級,獲生口十萬,羊一百一十一萬口,牛八萬,河西遂平。・・略・・旬日:,破胡告檄到,上大笑曰:「吾策之於帷幕之內,諸將奮擊於萬里之外,其相應若合符契。前後戰克獲虜,未有如此也。」己卯,以大將軍曹仁為大司馬。十二月,行東巡。是歲築陵雲臺。」
訳:「魏書に曰く、十一月辛未、鎮西将軍の曹真は諸将軍や州郡兵に叛いた胡が治める元多、蘆水、封賞を討伐することを命じた。五万余級を斬首、生口十万、羊百十万口(匹)、牛八万を獲た。河西はついに平定された。」・・・旬曰く「上大は笑って曰く:「吾は策を帷幕の中で立てたが、諸將が萬里の外に出て奮擊したのだが其相應が符契にあっていたので前後の戰で虜を克獲したのである。いままでなかった事である。己卯の年、大將軍曹仁は大司馬に取り立てられた。十二月,文帝は東に巡行し、この年、陵雲臺を築造した。*詣臺の臺。


*生口十万=虜十万口
*大司馬 軍権の最高統括者、諸将軍に命令、罰、褒賞を与える権限をもつ。
*文帝(ぶんてい)は、前漢の第5代皇帝在位期間:前180年11月14日 - 前157年7月6日
姓・諱 劉恒:諡号 孝文皇帝



徇葬者の奴婢について
「卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」では、人が使われていますが、徇葬者に重きをおけば人が適当です。また、12月の生口四人女生口六人は公孫氏の軍の捕虜、正始8年の男女生口三十人は高句麗軍の捕虜と読むべきです。その理由は、「今一つ考えられるのはこの粗末な献上物を難升米が差し出せたのは、十人の生口が公孫氏系の捕虜だったからで、この捕虜献上が魏の明帝を最も喜ばせたに違いない。」・・・岩元正昭『邪馬台国への道』より。この岩元説は達見だったのです。・・・・生口十人は難升米が公孫軍と戦い勝利したことの生証拠というわけです。ですから単純な奴隷でないのです。粗末な献上物ではなかったのです。明帝は北方から襄平城をせめ、海を越えて南から楽浪・帯方軍を別動隊として濊貊を挟撃する作戦を立てていたのです。卑弥呼は南方作戦に兵糧の提供や援軍をしたのです。これがまんまと成功したことを狂喜したのでしょう。北方軍の大興師(司馬懿仲達)はまだ帰還していません。ですから、なおさらのことだったのです。


奴婢=奴は男の奴隷、婢は女の奴隷のこと。商人によって売り買いされていた私物民。
《中論》
[東漢 (25年 - 220年)] 徐幹著 提到《中論》的書籍 電子圖書館
《佚文》
電子圖書館
2 打開字典顯示相似段落 佚文:
昔之聖王制為禮法,貴有常尊,賤有等差,君子小人,各司分職,故下無潛上之愆,而人役財力,能相供足也。往昔海內富民、及工商之家,資財巨萬,役使奴婢,多者以百數,少者以十數,斯豈先王制禮之意哉!
昔、聖王が礼法を為すことを命じた。貴人は常にたっとばれ、賊民は差があった。君子は小人を司分職

海内:(文語文[昔の書き言葉])) 国内.(昔は中国の周りは海に囲まれていると考えられていたため国境の内側を‘海内’と称した.)↔海外.

《後漢書》
[南北朝] 420年-445年
《列傳》《烏桓鮮卑列傳》
8 打開字典顯示相似段落 烏桓鮮卑... :
二十二年,匈奴國亂,烏桓乘弱擊破之,匈奴轉北徙數千里,漠南地空,帝乃以幣帛賂烏桓。二十五年,遼西烏桓大人郝旦等九百二十二人率眾向化,詣闕朝貢,獻奴婢牛馬及弓虎豹貂皮

二十二年、匈奴の国々は乱れ、烏桓乘弱は匈奴を破った。匈奴は数千里北に転じて移動した。漠南の地は空になり、皇帝はついに、二十五年、幣帛(へいもつ)を烏桓に贈った。烏丸の大人(王)の郝旦ら922人は衆を率いて漠南の地に向かった。闕に詣でて朝貢した、奴婢牛馬および弓、虎と貂の皮などを献じた。

众(衆)
 卑弥呼は婢千人もの持っていました。奴は男の奴隷、婢は女の奴隷です。卑彌呼の死にあたって徇葬者は奴婢百餘人です。男女の奴隷合わせて100余人と読み下します。元に戻すと、生口は奴婢と同意とみることはできません。女王卑彌呼はたくさんの奴隷を所有していたことになります。アジア的奴隷制度が中国に4000年前からありましたが、徇葬されるのはほとんどが主人の所有する奴隷だったのです。中国および韓半島の徇葬は人間から人型埴輪などに置き換えられ、やがて仏教が影響して8世紀前半には著しく減少したのです。

*中国の将軍が蛮夷との戦いに勝利したとき、たくさんの敵の捕虜を連れ帰ります。戦争では毎度のことで、いわば戦利品なのです。褒賞や地位が跳ね上がるのはいうまでもありませんが、奴隷市場で商人に売りさばくことができました。

その年(景初二年(238年)の十二月、魏の皇帝(明帝)は詔書を倭女王に報い、次のように語った。 制詔!親魏倭王卑弥呼よ!帯方太守劉夏が、汝の大夫の難升米、次使の都市牛利らを遣わし。朝賀(改元祝賀)に奉献してきた。汝の所(倭国)で獲た(公孫の)男性虜生口(捕虜)四人女性虜生口(捕虜)六人班布二匹二丈を奉献した。・・・

班布二匹二丈

*班布二匹二丈(はんぷ)=反物で、巾:約50cm、長さ:約23mの布ということになります。これは成人の5人分の衣服が作る量です。なお、布は絹でなく、麻か綿の類でしょう。幅は機織り機によって変わりますから、さまざまな寸法があったと思われます。
「漢書 食貨志」 に 「布帛(ふはく)は横二尺二寸を巾として、長さ四丈を匹とす」と記されています。
一尺 =十寸=23cm(漢代)
一丈 =十尺=2m30cm
一反 =二丈=4m60cm=成人の一人前の布の量に当たります。
一匹 =二反=四丈=9m20cm
*異文雑綿=正始8年・・・異文雜錦二十匹」の部分・中国の文献では異文は、中国語以外の文語、すなわち文字である、異禮は挨拶の仕方が違うことをいう。したがって、<異文雑錦>とは西域文字の珍しい文様の外来の織物ということ。したがって倭錦と訳すのは倭が献上したという間違った前提があるからであろう。
丗=世の旧字体。十が3つ重なった介意文字で30の意味。30年を一代としていたので、世に変化しました。丗丗と2つ重ねると世世となり、代々の意味に転じます。
電子版などでは「有王,皆統屬女王國」と書き換えられしまいましたが、紹興本(しょうこうぼん)と紹煕本(しょうきぼん)では丗です。旧字での丗がオリジナルだとみて、丗有王は三十か国の王と分析します。
三十人の王があり、みな女王国に従属している。と訳します。一人の王だと「皆、みな」の意味が宙に浮くことになります。皆とありますから、王は複数でなければなりませんよね。代々の王〔代々王〕と訳すと、一国に王は一人ですから、単数になってしまいます。30の数詞は、倭人伝の冒頭の「今使譯(驛・えき)所通三十國」と同期します。また、倭人伝全体で出現する国名は30です。女王国以て北の9か国、その余の国、21カ国で合わせて30か国です(旁国は国名・里程論に詳述)。譯所通三十國と三十國と書いていないがら、なぜ三十と書かずに丗と記したのか、それは矛盾するのではないか?わたしは単純に文字数を減らすため(減筆)だと思いますが三十か国の王の論旨がくつがえるほどのこととは考えません。

補足すると、代々王のように訳してしまったのは後漢書の影響なのでしょう。後漢書に「此洲丗丗相承」とありますが、「この国は代々王位を継承している」という意味になりますが、丗を単独では使っていません。なぜか、世の学者は理解不能のところは後漢書に論点をずらしてしまうようです。州は隋の時代に国の意味で使われ始めた文字です。

*箭(せん) 矢のこと
*弦は古くはカラムシ、中世からは麻糸をよったものを用い、漆やクスネ(松脂と油を煮込んで練り合わせたもの)を塗った。

 
*木弓弩
短弓とは









上は高句麗の装飾壁画のレプリカ?

*短弓 上下同じ長さでΣ型。大きく引くことなく、馬上からすばやく矢を放つことができます。馬に乗りながら矢を放つにには一瞬の間しかありません。すばやく打てるというということでは連射することに向いています。l主に騎馬戦を得意とする民族に特有な弓です。もともとペルシャなど西域の武器です。退却と見せかけて、追ってくる敵を後ろ向きで矢を放ちます。こうした戦法をとる弓騎兵がいました。



燕:大燕国は鮮卑が領有する前は、周の武王の弟、召公奭(しょうこうせき)が始祖である。周の「武王」が立ったのはおよそ、紀元前1046年。弟周公旦・太公望・召公奭らの助力を借りて牧野(ボクヤ)の戦いで商(殷)を滅ぼす。武王が殷の安陽を攻略した。周は現在の西安の西方にあった西域の小国であったが、西周を建国する。武王は姫氏、その言語はアルタイ語の一つでトルコ系種族だったようだ。
中国ではもともと服装や、生活習慣、思想の違う種族(人種ではない)を蛮、夷(い)、戎(じゅう)、狄(てき)などと称して中華と区別していた。平原の主流派の文化が中華であり、その他を辺境とした。時代とともに夷人が華人になったり、華人が辺境に取り残されて夷人にみなされたりした。中国には55もの小数民族があるといわれているが、みな蛮、夷、戎、狄となる。だが、隋の楊氏や唐の李氏、北魏の慕容は鮮卑族であった。元は匈奴、清は女真族など、多くは異民族王朝であって漢族王朝は、わずかに漢と宋と明しかない。

居拔城;隋書卷八十一列傳第四十六東夷百濟 威徳王(いとくおう、百済の第27代の王(在位:554年 - 598年)が”みやこ”とした城の名前。


狗邪韓国が倭なのか、よく議論される論点です。伽耶韓国は九州倭人とほぼ同じような貝輪を装飾にし、また、貝塚遺跡からは黒曜石の石器も出土しています。文献からは韓国の民も入れ墨をしていました。そうした意味では倭人でした。縄文・弥生時代に倭と近似した文化圏だったのはたしかです。ただ、倭人は山嶋に国を作っていたことからすると、狗邪韓国は嶋ではなく大陸と地続きなのですから、倭地にはあたりません。狗邪韓国が倭連合国の一国だ、あるいは其の北岸を倭の北岸と読んで狗邪韓国を倭地だという説は、だいぶイデオロギーのドライブがかかっているように思われます。現代のの国境の概念と連合国という概念、その社会学的な定義を前提に論じていかないと不毛な論議になります


上の図版は貝塚の出土分布図。조개(ちょげ)(貝)、흑요석(黑曜石, Obsidian)の文字がかろうじて読めます。おそらく中央の丸い輪は貝輪でしょう。
男性が使う大型の貝輪はゴボウラ貝が多いのです。女性の貝輪はイモガイだったことが明らかになっています。出土した貝輪がゴホウラ貝だとしたら。ゴホウラ貝は暖かい海の水深30メートルの海底にしか生息しません。素潜りで30メートル潜るのは現在でも難の技ですが、当時は命がけで潜水したものと思われます。種子島の広田遺跡でゴボウラ、イモガイ、オオツタノハの貝輪、装身具が人骨とともに出土しています。
貝輪が出土する貝塚が朝鮮半島南部海岸に帯状に分布しています。さて、대외교류=対外交流と読めるところがあり、倭人との交流があったとみるか、あるいは、私のように倭人の居住地だったのか、論議されるところです。ご自身で判断してください。
人骨と一緒にでている例があればもっとわかるのですがね。参照リンク→釜山東三洞貝塚展示館、この貝塚の場所を地図でみると、1600年~2000年ぐらい前の海岸線が分かります。現在より10km~20km海進しています。もう一つ、鳳凰洞遺跡貝塚展示館(金海会峴里貝塚)が釜山では有名です。

解説:大姓八族(だいせい はちぞく)
沙氏・真氏・燕氏・刕氏・解氏・貞氏・国氏・木氏・苩氏(ぺく・ボ)
開祖は解氏、真氏は王妃族。木氏は蘇我氏の本貫で木羅。
中国の歴史書『隋書』によれば、百済の大姓八族として次の八支姓を記録している。
< 隋書>卷八十一 列傳第四十六 東夷・高麗 百濟 新羅 靺鞨 流求國 俀國
「國中大姓有八族,沙氏、燕氏、刀氏、解氏、貞氏、國氏、木氏、苩氏。婚娶之禮,略同于華。喪制如高麗。有五穀、牛、豬、雞,多不火食。厥田下濕,人皆山居。有巨栗。每以四仲之月,王祭天及五帝之神。立其始祖仇台廟于國城,歲四祠之。
「国には八族の有力な姓があり、沙氏、燕氏、刀氏、解氏、貞氏、國氏、木氏、苩氏。である。婚礼の儀は于華と同じで、また葬式の制度は高句麗と同じである。牛、いのしし、家禽、多くは火を通さず食べる。その田は下が湿っている。人はみな山に住み、大きな栗がある。毎年四月の中頃に、王は天帝、および五帝の神をまつり、漢城の廟にその始祖である尉仇台の立てている。毎年四度廟祭をする。」貞については随書の真の転記ミスの可能性が高い。真氏は慰礼城地方の旧小国の勢力を背景とする貴族で,貴族連合体制のまとめ役として中央政界で活躍する。有力な王后の宗族でもあった。国中大姓有八族。沙氏、燕氏、秔氏、真氏、解氏、国氏、木氏、苗氏」と見える。
北九州市小倉北区、小倉南区がある。古代苗字の小倉とは、小倉←国羅(こくら)で、国氏の集落をいう。ここから推定すると木羅は木氏の集落ということになり、木羅万智は木氏となり、蘇我氏宗族は木氏から出たことになる。
ここで問題なのは、始祖が仇台としていることである。元祖百濟は解温祚が国祖である。ここで分かることは、日本の地では解温祚系を祀り、百濟では尉仇台を祀っていたということです。于國城とは漢城であろうが、随書では百済の社稷で最初の始祖を尉仇台としていることが注目される。

買地券=古代中国や朝鮮では土地にはそれぞれ神が宿っているという思想に基づいて、墓地にたいし、神の保護を祈る葬祭儀礼として、石、鉛版などに名前を書きつけて墓に納めたもの。神から墓地を買った代価、墓地の保護とともに子孫繁栄祈願が記される。


卑彌呼以死大作冢について

[卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人]は、卑弥呼が死んだ。(すぐに)大いに塚(墓丘)を作った。円の直径は百余歩〔115歩、約23メートル〕、徇葬する者は百余人。と単純に訳してみた。もって死すが、殺されたとか、何か問題があって自殺したばあいに限られているという説がありました。『卑彌呼と倭王』阿部英雄著、岡本健一は二十五史の中で以て死すの用例は761例あり、刑死、賜死、戦死、自死、事故死などすべて非業な死だったと調べたといいます。しかし、魏志倭人伝では卑彌呼がなにか責任をとらされるような原因はなにも書かれていません。以て死すがすべて非業な死であるという用例には、例外もいっぱいあるのですが、以て死すは、日本語の用法とちがい文の冒頭にいいたいことを先に書く文型パターンで、孤立言語ではよく使われます。中国語では、よく使われる慣用文型なのです。たとえば、日本語では~が大事です。と語尾に大事ですといいますが、この場合、大事なことは~です。というように、冒頭に倒置されるのです。

したがって、~以て+補助動詞+動詞の文型は~したので~した。と過去形で訳せばいいのです。
《儒家》《說苑》[西漢 (公元前206年 - 9年)] 劉向著
《正諫》 諸子弟爭立,我以死爭之於先王
《儒家》《孟子》[戰國] 公元前340年-公元前250年
《祭法》
夫聖王之制祭祀也:法施於民則祀之,以死勤事則祀之
それ、聖王の祭祀制度なり、民の祀りごとは法施であり、死をもってこれを祀ることは勤事である。

《儒家》論衡》[東漢] 80年 王充著
《卜筮》
5 天地有體,故能搖動。搖動有、生之類也。生、則與人同矣。問生人者,以生人,乃能相報。如使死人問生人,則必不能相荅。今天地生而蓍龜死,以死問生,安能得報?枯龜之骨,死蓍之莖,問生之天地,世人謂之天地報應,誤矣。天地には体があり、ゆえに搖動があり、生のあるものは皆搖動がある。生とは人と同じことなるや。死をもって生を問う。ぜひとも必要なことをもって人は生まれたので、かくてよく相い通じるのである。死人をつかうごとく、生きた人もすなわち必ず相答えるのである。いま、天地がうまれて、亀の甲は死んでいるようだた、死をもって生を問えば、たやすく答えてくれるのである。枯れた亀の骨、ノコギリソウの茎は天地の生を問い、世人はこれを天地の応報というのは誤りだなあ。

*蓍亀(しき)とは、ノコギリソウと亀甲を指し、昔は占いに用いていた。

 一里は60mは再現性があるので確実な定数としてみなせます。

ご自身で実験してみてください。
Google 方位測定=URL:https://user.numazu-ct.ac.jp/~tsato/webmap/sphere/concentric/
一里60mで検証してみたパート7

卑弥呼の墓を測定:卑弥呼の塚は直径23m!

 魏尺では一歩は六尺で144.72cm、卑弥呼の塚は、100歩+余歩で直径約144mと考えられています。ですが、西域は西域の、東夷には東夷の長さ単位が用いられていることはすでに例証してきました。卑弥呼の墓は中国本土にはないのですよ。みなさん、こうして中国の度(長さ)の単位そのままのメートル数値で換算するのは間違いだと気づくはずです。倭人伝の一里は60mで、一里は300歩、300で逆算すると一歩は20cm、100余歩は余を15%として、なんと23mにすぎないことになります。直径23mの円墳として卑弥呼の墓を探すようにしてください。
6尺=一歩
10尺=一丈
300歩=一里
1800尺=一里

順位 古墳名 墳丘規模
全長(約m)
所在地
1 仁徳天皇陵古墳(大山古墳) 世界文化遺産 構成資産 486 大阪府堺市堺区大仙町
2 応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳) 世界文化遺産 構成資産 425 大阪府羽曳野市誉田
3 履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳) 世界文化遺産 構成資産 365 大阪府堺市西区石津ヶ丘
4 造山古墳 350 岡山県岡山市新庄下
5 河内大塚山古墳 335 大阪府羽曳野市南恵我之荘・松原市西大塚
6 五条野丸山古墳 310 奈良県橿原市見瀬町・五条野町
7 ニサンザイ古墳 世界文化遺産 構成資産 300以上

大阪府堺市北区百舌鳥西之町

8 渋谷向山古墳(景行陵) 300 奈良県天理市渋谷町
9 仲姫命陵古墳(仲津山古墳) 世界文化遺産 構成資産 290 大阪府藤井寺市沢田
10 作山古墳 286 岡山県総社市三須
11 箸墓古墳 280 奈良県桜井市箸中
12 五社神古墳(神功陵) 275 奈良県奈良市山陵町
13 ウワナベ古墳 255 奈良県奈良市法華寺町
14 市庭古墳(平城陵) 250 奈良県奈良市佐紀町
メスリ山古墳 250 奈良県桜井市高田
16 仲哀天皇陵古墳(岡ミサンザイ古墳) 世界文化遺産 構成資産 242 大阪府藤井寺市藤井寺
行燈山古墳(崇神陵) 242 奈良県天理市柳本町
18 室大墓古墳(室宮山) 238 奈良県御所市室
19 允恭天皇陵古墳(市野山古墳) 世界文化遺産 構成資産 230 大阪府藤井寺市国府
20 宝来山古墳(垂仁陵) 227 奈良県奈良市尼ヶ辻町
21 太田茶臼山古墳(継体陵) 226 大阪府茨木市太田
22 墓山古墳 世界文化遺産 構成資産 225 大阪府羽曳野市白鳥
23 巣山古墳 220 奈良県北葛城郡広陵町
24 ヒシアゲ古墳(磐之媛陵) 219 奈良県奈良市佐紀町
西殿塚古墳(手白香皇女陵) 219 奈良県天理市中山町
26 佐紀石塚山古墳(成務陵) 218 奈良県奈良市山陵町
27 川合大塚山古墳 215 奈良県北葛城郡河合町川合
28 築山古墳 210 奈良県大和高田市築山
西陵古墳 210 大阪府泉南郡岬町淡輪
太田天神山古墳 210 群馬県太田市内ヶ島
31 津堂城山古墳 世界文化遺産 構成資産 208 大阪府藤井寺市津堂
32 桜井茶臼山古墳 207 奈良県桜井市外山
陵山古墳(日葉酢媛陵) 207 奈良県奈良市山陵町
34 コナベ古墳 204 奈良県奈良市法華寺北町
35 御廟山古墳 世界文化遺産 構成資産 203 大阪府堺市北区百舌鳥本町
36 摩湯山古墳 200 大阪府岸和田市久米田摩湯町
白鳥陵古墳(軽里大塚古墳) 世界文化遺産 構成資産 200 大阪府羽曳野市軽里
新木山古墳 200 奈良県北葛城郡広陵町三吉
島の山古墳 200 奈良県磯城郡川西町
神明山古墳 200 京都府京丹後市
両宮山古墳 200 岡山県赤磐市

箸墓は大きすぎて候補から真っ先に脱落しますね。しかし、古墳とは、4世紀半から以後のものが大半で、中には須恵器が出土したりしてますよね。卑弥呼の墓とは3世紀中半です。上のリストの古墳はすべて卑弥呼の塚=墳墓ではありません。

阿人について



楽浪人=(卑弥呼Xファイル54p) 旧民がだんだん出てきた、旧民とは楽浪人、 阿残のことです。

メインドメイン 幻の楽浪国と倭国のタブで解説しています。
「魏志」韓伝 建安中、公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡、遣公孫模、張敞等收集遺民、興兵伐韓濊、舊民稍出、是後倭韓遂屬帶方。

 建安年間(196年~220年)、公孫康は屯有県(とんゆうけん)以南の荒野を分けて帯方郡とし、公孫摸や張敞などを派遣して(後漢の)遺民を収集するため、兵を挙げて韓と濊を討伐したが、旧民はだんだんでてきた。この後、倭と韓を帯方郡に属させた。
倭韓を征服したのは公孫模、張敞ら、武将です。兵は集めた元楽浪郡の旧民です。

この旧民は阿人であることを例証してみましょう。中国系の遺民です。

《魏書三十》
《辰韓傳》
1 打開字典顯示相似段落 辰韓傳:
辰韓在馬韓之東,其耆老傳世,自言古之亡人避秦役來適韓國,馬韓割其東界地與之。有城柵。其言語不與馬韓同,名國為邦,弓為弧,賊為寇,行酒為行觴。相呼皆為徒,有似秦人,非但燕、齊之名物也。名樂浪人為阿殘;東方人名我為,謂樂浪人本其殘餘人。今有名之為秦韓者。始有六國,稍分為十二國。

辰韓は馬韓の東にあり、その耆老が昔から代々伝えることによると、秦の苦役を避けて亡人が韓国にやって来た。馬韓は東の界を割いて土地を与えた。城柵があり、言語は馬韓と同じではなかった。國を邦といい、弓を弧といい、族を寇、行酒を行觴と言っていた。集団でともに呼び合うのに徒といい、秦人のようであり、燕人ではない。齊の名をもつものなり。齊の名をもつ秦人とは徐福から分枝した氏族だろうか?名を楽浪人を阿残とし、東方人の名は我を阿とし、いわゆる楽浪人をその残余の人だという。公孫が尉仇台に国を作らせたとき、旧民が出てきたというが阿人、とも秦人とも言っていた民なのであろう。今、秦韓者といい、初め六國、枝分かれして12国になっている。初め六国から始まった国は後の新羅であり、馬韓の東とは大邱から東の慶尚道であろう。
(故に応神紀に来島した秦氏は百済ではなく、新羅から来たと考えらる。広隆寺の由緒では秦氏が百済から来訪とあるのは疑問。)


1)阿人(阿残)は燕や斉ではなく、楽浪にいた。
2)阿人も馬韓人も入れ墨をしていた。
3)阿人の男子は髪が長く、馬韓人は坊主頭が多かった。
4)阿人と馬韓人とは言葉が違っていた。
5)阿人と違って馬韓人は頭が皆扁平だった。「兒生、便以石厭其頭、欲其褊。今辰韓人皆褊頭」『三国志魏書』弁辰伝
6)阿人には城郭があり、馬韓人は城郭がなかった。
7)阿人は馬韓人よりも礼節があった

1)楽浪郡の阿人が馬韓に侵入した。馬韓はこれを嫌って東に土地を割譲した。弁辰と辰韓と別れた。
4)馬韓人はみな扁平な頭をしていた。これは人為的な習慣でつくられる扁平頭蓋で、日本には広田遺跡以外あまり例がない。
5)馬韓人は中国人のように城郭の中で生活していなかった。

阿残について、楽浪国の旧民です。阿人とは倭種でもちょっと違います。中国系渡来人、それが新羅を建国したということです。初め6国、別れて12国になった国は、当初は「斯蘆国(、さろ)、後の新羅(しるら)です。日本においては、秦氏や鴨氏の租なのだろうと思われます。ただ2)を見ると刺青をしていたということが重要です。阿人にも馬韓人と同じように入れ墨をしていたようです。
入れ墨をしていれば倭人です。わたしの倭人の定義は、刺青をした輩でしたね。でも、楽浪人はみやびやかな風流を好む、気品のある中華系の人々でしたが、刺青をしていた人々と雑居していたのです。別に不思議なことではありません。あの呉の太伯も夏の小康ももとは中華人でありながら入れ墨をしたのですから。
伽耶が新羅に降って新羅で一応王族の仲間になっています。ひとつには馬韓人や扶余人のような礼節を知らないところの国、つまり百済には投降せず、新羅や日本にみな逃亡したのです。逃亡先は九州の志賀島です。それが安曇氏=阿曇氏です。阿曇氏は海神、辰国の大王の系統です。船をたくさん主有していました。海に接していない長野県の諏訪神社の祭りでも、船が神輿がわりなのは阿人だからです。近江から東山道沿いに開拓して、日本に拡散していきました。日本馬の東遷を研究すればわかります。


1.貫頭衣について
《漢書地理志》地理志下:
「武帝元封元年略以為儋耳、珠崖郡。民皆服布如單被,穿中央為貫頭。男子耕農,種禾稻紵麻,女子桑蠶織績。亡馬與虎,民有五畜,山多麈嗷。兵則矛、盾、刀,木弓弩,竹矢,或骨為鏃」=武帝の元封元年に略式の命令を以て儋耳(たんじ)、珠崖(しゅがい)を郡になした。民はみな中央に穴をあけて頭に通して被るだけの一枚の布を衣服としている。男子はの稲やカラムシのなど穀物の種を植えて農耕し、女子は桑蠶(かいこ)から糸を紡いで織りなしている。馬とトラはいない。みな、五種類の家畜を飼っており、山には鹿のなく声が多い。兵は矛、盾、刀、木弓弩を身に着けている。矢は竹で、骨の矢じりのあるものもある。
元封元年は紀元前110年です。その時の記録になります。そこに書かれた儋耳、珠崖の風俗として面白いことが書かれています。「民はみな中央に穴をあけて頭に通しているl被るだけの一枚の布を服としている。」、中国南方の原始的な衣服であったことが推定できます。この衣服は日本の倭人のことではありませんよ。
他方、倭人伝会稽編では、『其衣横幅但結束相連略無縫婦人被髪屈紒作衣如單被穿=(会稽の倭人)の衣服は、幅広い一枚の布を結び束ねているだけで縫うことはない。婦人は髮を結わずに曲げて束ねる。衣服は単被(ひとえ)のように作る。縫うことはないといっていることが重要です。縫製技術がありません。すなわち、幅の一枚布に頭が通るだけの穴を開けて、前後の布は紐、や帯で体に巻き付けただけという衣服なのです。さて、頭が通る布の幅は70cmは必要です。ところが、吉野ヶ里遺跡では織機では30㎝の布しか織り出していません。頭が通らないことは明らかで、タートルネックにはなりません。結局たすきがけのようにし、首周りはVネックに復元し、また、袖を縫製しているのです。つまり、弥生人はいわゆる貫頭衣を着ていなかったのです。こうしたことを隠したまま、だんまりを決め込んでいるのでしょう。日本の小中学校の教科書は間違っているままです。

吉野ヶ里歴史公園 復元公開展示。

<工事中:続く>

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