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工事中ーーーー2020/04.03~
皇極天皇と炭焼き五郎伝説
欽明、皇極、孝徳、天智、天武にはなぜ天(あめ・あま)があるのか?
皇極天皇と孝徳天皇が同じ母親から生まれた姉弟であることはあんがい見過ごされているようだ。
このことは、書記に次のように記されている。
▼『日本書紀 』巻第二十五 孝徳天皇紀
本書紀巻第廿五天萬豐日天皇《即位前期》
天萬豐日天皇 孝德天皇 「天豐財重日足姬天皇同母弟也。尊佛法、輕神道斮生國魂社樹之類、是也。」
訳:「天萬豐日天皇は天豐財重日足姫天皇と同母弟(いろど)です。天皇は仏法を尊び、神道を軽(あな)ずりたまふ。生國魂社の樹を切りたまふたぐいこれなり。」
要約すると、孝徳天皇は皇極天皇と母が同じです・・・孝徳天皇は仏法を尊んでおられるので、神道を軽んじて生國魂社の樹を切り倒してしまわれた。
*生國魂神社(いくくにたまじんじゃ)は、大阪府大阪市天王寺区生玉町に鎮座する神社。生島大神足島大神を祭る。主祭神は生島大神と足島大神の二柱の神であり、この神は神武に滅ぼされた大八島国の兄弟のこと。古事記一段では大年神と宇迦之御魂神であり、伊邪那岐の日嗣子である。東扶余(藁離國)の帶素王、とその弟、曷思王の投影であることを暗示する。すなわち、祖伸をたどると、生國魂社の祭神は皇祖神の敵だったわけで木を切り倒すぐらいで済んだなら、よかったのではないかと思われる。
書記に「兄」を「いろね」(伊呂禰)と呼び、弟をいろど(同母弟)、神代巻ではコノハナサクヤヒメが姉に「いろね」と言っています。「いろ」は、同じお腹から生まれた(兄弟姉妹)という意味の冠語です。今日では、実母の「実」にあたり、実母のことを「いろは」と言う。「いろ」は、「同母」という意味なのです。次のようになります。実母=ilo-ha(いろは)、実兄(あに)=(ilo-eいろえ)、実姉(あね)=ilo-ne(いろね)、実弟(おとうと)=ilo-do(いろど)、実妹(いもうと)=ilo-mo(いろも)
さて、同母弟にいろせ」とうルビをふることはできるでしょうか?天照大神が、「わが那勢(なせ)命が上がりくる由は、必ず良き心ならず。わが国(葦原中国)を奪わんとおもうか」と、言い放ちます。ここで、天照大神がスサノヲを「那勢(なせ)」と呼ぶのですが、アマテラスがスサノヲを「なせ」と呼ぶのは、他に数ヶ所あります。この二人の述べた言葉を重ね合わせると、共通する語は「勢」です。「せ」は、「せこ」と並んで夫、男女の関係を言い表し、異性関係で男性を「せ」、女性を「いも」と呼んだ。「わがせ」が男性の恋人、「わが(い)も=わぎも」が女性の恋人のことなのです。
那勢の「な」は、「私の」という意味。「私の恋人」が上洛してくる。謀反をもって、国を奪おうと思ってのことであろう。」としか現代語では訳せませんが、かつて恋仲だったのが、いざ、自分の国にないって来ると国を盗みに来たのではと疑ったようです。須佐之男はインベーダーだったのですね。
須佐之男と天照は姉弟ではないのです。
ヤマタのオロチの項で、スサノヲが「吾者天照大御神之伊呂勢者也」・・わたしは、天照大神の伊呂勢だ」との記述になっています。「いろせ」ですが、どうしたわけか、岩波の訳文・読み下しでは「同母弟」なり」と書き換えています。同母弟に「イロセ」とルビをつけています。おかしいですねえ。作為の改ざん?つまり、どうしても天照と須佐之男を男女の関係にしたくなかったのではないでしょうか。そうとしか思えないのです。
さて、こうして皇極と孝徳の関係をふまえると、この二人の天皇の和風諡号には天(あま)のという文字からはじまります。
天豊財重日足姫天皇(あめとよたからいかしひめすめらみこと)
天萬豐日天皇(あめよろづとよひのすめらみこと)
こうして、この天皇の実母と、実父はいったい誰なのだろうかとう探ってみることにします。
百済第30代武王(=余璋)在位600年-641年
諱は璋、『三国遺事』王暦には武康、献丙の別名が伝わっている。『隋書』には余(徐)璋の名で現れる。
武王には、宝公主という娘とその弟があった。この宝公主が日本書記にいう宝皇女=皇極(斉明)天皇であり、その同母弟が孝徳天皇である。
これの裏をとり、乙巳の変から白村江の戦いまでの歴史を再構築する目的で以下詳述する。
武王、602年8月新羅の阿莫山城(全羅北道南原市)を包囲したが、新羅真平王に敗れる。聖王の報復戦ならず。
隋の高句麗遠征(ずいのこうくりえんせい)は、598年から614年まで4回にわたって行われた。隋の煬帝が高句麗を攻めようとしたとき、百済は南から高句麗を攻撃する陽動作戦を提案した。煬帝はこれをたいへん喜んだ。煬帝が100万ともいわれる大軍を出発させると、「どちらが勝つかわからない、ここはしばらく様子をみよう。」と、二股をかけて、国境に兵を送っただけで戦わなかった。国と国との約束は守らない。嘘をつくのは息を吸うことの如し。煬帝はひどく怒った。日本でも、推古天皇のとき中臣連と田中臣が対外政策で口論をした。田中臣は言った。「百済はこれタ反覆しき国なり。道の間すらもなを欺く。おおよそ彼のもうすところ、皆あらず。ゆえに、百済につくべからず。」と中臣連が言う「新羅を討ち、百済に付こう」という中臣連に反論する。なんといっても、夕方には裏切る国、朝に言っていたことが夕方には覆っているということだろうか、また、道すがらなお、つぎからつぎにウソをつく・・・というのが、よく分かっている臣もいたのだなあと思われて、とても面白い。
612年隋の第二回遠征では高句麗の乙支文徳(ウルチムンドク)将軍の誘引策にひっかかり薩水大捷で隋は壊滅的な打撃を受けた。60万の大軍がたった数千の兵しか帰還できなかった。
唐が興ると武王は621年に朝貢を果たし、624年に〈帯方郡王・百済王〉に封される。
武王は伝説では新羅真平王の三女・善花(ソンファ)姫とのロマンス、薯童(ソドン)説話の持ち主だ。
維基百科,自由的百科全書 善花公主(ソンファコンジュ・선화공주):朝鮮半島三國時代的新羅國公主,為新羅真平王的第三個女兒,又稱三公主。「善花公主:朝鮮半島三国時代の新羅国の王女、新羅の真平王(チンピョン)の三番目の娘である。三公主(サムコンジュ)とも称される。
善花公主(王女)は王宮を追放されたことから廃位された。このために『三国史記』からは抹消されたのだろう。正史にはまったく記されていない。だが、13世紀末に高麗の高僧一然(1206年
- 1289年)によって書かれた私撰の史書『三国遺事』に記されている。
『三国遺事』では、新羅の真平(ちょんぴょん)王に男子なく、一女は徳曼(とんまん)、二女は天明(ちょんみょん)、三女が善花(そんふぁ)と三人のお姫様がおられた。徳曼(とんまん)王女は後の善徳女王(そんどんにょわん)で、善花はその末妹になる。金春秋(きむちゅんじゅ)は天明(ちょんみょん)の子供で聖骨(そんごる)であったが、父王が廃位されたために真骨(ちんごる)落ち、王になることができなかった。しかし、後に推戴されて共立王になり三国統一を成し遂げる。善花姫は三国史記には書かれないため史実上重要視されていないばかりか存在すら疑われていた。しかし、日本の歴史にも関係があり、実はとんでもなく重要なことなのであるが、善花姫が物語にしか残っていないのは残念である。
薯童(ソドン)説話とは武王と善花姫の恋の物語である。
薯童(ソドン)説話
「百済国の第30代の王様は武王という者である。彼の母は寡婦で都の 南池 の近辺に家を建てて住んでいた。そんな中で池の龍と交わって子供が生まれた。いつも 薯いもを掘って売り、 暮 らしを立てていたので薯童(いもわらべ) と呼ばるようになった。
その頃、新羅国の都に 真平王の第三王女で 善花姫 というとても美しいお姫様が住んでいた。薯童はその噂を聞いて、髪を剃り坊主の姿で都に上り、「善花姫様はこっそりと嫁入りなされて、夜には薯童様と交わって去る」という 童謡を作って子供たちに歌わせた。その童謡が王様の耳に入り、善花姫は遠く離れた所に流されることになり、都を発った。
善花姫は旅の途中でやってきた薯童と出会い、あの童謡が神のお告げであったのだと信じ、一緒に百済国に辿り着き、一緒に暮らすことになった。そこで善花姫が持参した黄金を取り出して薯童に与えると、彼は黄金の値打ちが分からず、「これは何ですか」といった。善花姫は、「これは黄金です。これだけあれば百年の富でさえ大丈夫です。」というと、薯童は笑いながら「こんなものなら小さい時から薯を掘っていた所にいくらでもある」と言った。二人がそこへ行ってみると、たくさんの黄金があった。その黄金を真平王に贈ると王はたいへん喜んだ。薯童が百済王になったあと、ある日王様が夫人(善花王后)を連れて獅子寺に参る途中、龍華山の下の大きい池から弥勒仏三尊が浮
かび上がってきた。〔弥勒仏三尊の出現〕 王様夫妻はそこに寺を建立することを発願し、知命法師に相談すると、法師は神秘な力で一夜のうちに池を埋め平地
にしてしまった。そこに弥勒三尊を本尊とし、会殿、塔、廡廊を各々三カ所に建て寺名を弥勒寺と名付けた。新羅国の真平王がいろいろな工人を送ってきて助けてくれた。」
さて、この薯童)説話は日本に伝搬し、そっくりな説話が大分県で伝承されています。
炭焼小五郎物語(炭焼長者説話)
「炭焼長者(真名野長者)説話は日本全国に広く伝承されているが、その伝承の故郷は大分県三重町。
豊後国(三重町)の玉田の里に子供が生れ、幼き名を藤治と言い、三歳に父、七歳に母と死に別れ、孤児とな
る。炭焼き又五郎に育てられ、その跡を継いで名を改め炭焼小五郎と呼ばれるようになる。 〔炭焼小五郎誕生〕
その頃、奈良の都に大臣の娘で玉津姫というとても美しい姫様が住んでいたが、顔に黒い痣が出来て結婚する相
手が無く嘆き悲しんでいた。三輪明神に祈ると、「汝が夫有りと雖も、遠く山海を隔つ。是より西国、豊後三江の
山里に炭焼きの小五郎という者なり。吾が名も知らざる山賤なり。然れども此の者と嫁せば富貴自在にて、長者と
なるべし」というお告げがある。 〔神のお告げ〕
玉津姫は炭焼小五郎を訪ね、都を出て豊後に下り、神の導きによって三重町に着く。 〔姫君の下向〕
玉津姫は炭焼小五郎と出会い、神のお告げで都からはるばる下った話をすると、炭焼小五郎は困惑する。そこで
玉津姫が持参した黄金を取り出して炭焼小五郎に与えて買い物に行かすと彼は黄金の値打ちが分からなく、池で遊
んでいる鴛鴦に投げつけて手ぶらで帰ってきた。玉津姫が「あれは黄金という大事な宝物です」というと炭焼小五
郎は笑いながら、「こんなものは池の周りや炭焼き窯にいくらでもある」という。二人が池に行ってみると、池に
はたくさんの黄金があった。 〔結婚・黄金発見〕
その時、池の中から金色の亀が浮かび上がってきた。亀は、「あなた方夫婦にこの宝を差し上げよう」と言っ
て、金色の鴛鴦に姿を変え、西をさして飛び去った。神のお告げの通りその池で顔を洗うと姫は黒痣がとれ美人と
なり、小五郎は美男子と生れ変わった。 〔亀の出現〕
小五郎と玉津姫は黄金を集め、あっという間に長者となる。世間の人は小五郎を真名野長者と言うようになる。
〔長者〕
長者夫婦は山王神のお告げ通りきれいな女の子をもうけ、般若姫と名づける。その翌年、百済の船頭・龍伯が一
寸八分の黄金の千手観音を持ってきて般若姫の守り本尊とし差し上げる。長者夫婦は唐国の天台山に黄金三万両を
送った。 〔黄金送り〕
天台山では百済の僧・蓮城法師に薬師観音の像を持たせて日本に送り、長者は薬師観音を迎え喜んで朝夕祈念す
る。(伝説では蓮城寺<内山観音>を建立する) 〔蓮城法師の来朝〕」
大分県の「真名野長者伝説・物語」と韓国:金賛會著より抜粋
父の真平王が領土を拡張し、とうとう漢江の河南に風穴をあけて西海(そへ=黄海)に進出したから、百済も坐していられなくなった。
616年隋が唐に滅ぼされると手のひらをかえして626年に高句麗と和親を結び、こんどは盛んに新羅を攻め立てるようになった。善花王后の宮中の異変はこうした最中にあったのだろう。そんな最中に、632年、弥勒寺(全羅北道益山市)を建立した。
2009年1月14日に弥勒寺址石塔(ミルクサソッタップ))の解体修理によって発見された金製舎利奉安記に、「百済第30代王・武王(ムワン)の沙宅后が富を喜捨して寺を建てた」と書かれていた。沙宅后は佐平沙宅積徳の娘である。弥勒寺が完成したときにはすでに善花は王后ではなくなっていた。佐平沙宅をはじめとする反新羅派のクーデターによって善花は廃位させられた。が、殺されることはなく離宮に幽閉されていた。
この寺の建立は新羅の陰謀と曲解されて、善花姫は家臣の讒言によって幽閉されてしまったという信ぴょう性が高まった。新羅の真平王が工人を送って建立を助けたのは善花が娘であったからだ。善花姫の子たちは、異母兄の義慈王(うぃじゃ)が立つと、さっそく追放された。義慈王の義慈は国を亡失した王であるためおくり名ではなく諱(いみな)である。
日本書紀 巻第二十四 皇極天皇紀
元年十一月:「百濟弔使傔人等言、去年十一月、大佐平智積卒。又百濟使人擲崐崘使於海裏。今年正月、國主母薨。又弟王子兒翹岐及其母妹女子四人、內佐平岐味、有高名之人卌餘、被放於嶋。
「百済の弔いの使者に従う者らが言った。「去年の11月、大佐平(だいさへい)智積(チジョン)が死んだ。また、百済の使人が崐崘(こんろん・西域の国)の使者を海に投げ捨てた。今年の正月に國主の母が亡くなり、また(皇極の同母)弟王子の兒翹岐(アギョンギ)およびその義妹四人、内佐平岐味(キミ)など名高い人四十余人を島に追放しました。」
書記「皇極紀・元年条 ここに、遠島されたのは、ソンファ姫の子、兒翹岐である。ここに國主母・・・と記されている。皇極と孝徳が同母弟であることからの兒翹岐こそが孝徳天皇その人であるべきか。義慈王は母の妹、冬服妹も含めて重臣を、ともども四十余人を島に追放した。追放令の数か月後に大使として倭国に勅使として派遣することに特赦した。これが義慈王二年二月に死罪以外はみな許したという記述が三国史記に残る。追放の処罰を日本に勅使(サシン)に変更したのである。重臣の内佐平とは王室を補佐する人事を担当する最高官職である。その高官ら40余人、家族もろともとなると少なくとも300人を超す大集団だったろう。翹岐は日本にやってきて2年後、皇極天皇が史上初の譲位によって孝徳天皇として即位する。驚くことに乙巳の変((645年)の2日後であったという。書記にある軽皇子は中大兄の皇子の叔父にあたるので、翹岐こそが軽皇子の別名なのである。
「天豐財重日足姬天皇四年六月庚戌、天豐財重日足姬天皇、思欲傳位於中大兄而詔曰、云々。中大兄、退語於中臣鎌子連。中臣鎌子連議曰、古人大兄、殿下之兄也。輕皇子、殿下之舅也。方今、古人大兄在而殿下陟天皇位、便違人弟恭遜之心。且立舅以答民望、不亦可乎。於是、中大兄深嘉厥議、密以奏聞。天豐財重日足姬天皇、授璽綬禪位。策曰、咨、爾輕皇子、云々。輕皇子、再三固辭、轉讓於古人大兄更名、古人大市皇子。曰、大兄命、是昔天皇所生而又年長。以斯二理、可居天位。於是、古人大兄、避座逡巡、拱手辭曰。奉順天皇聖旨、何勞推讓於臣、臣願出家、入于吉野、勤修佛道、奉祐天皇。辭訖、解所佩刀、投擲於地。亦命帳內、皆令解刀。卽自詣於法興寺佛殿與塔間、剔除髯髮、披着袈裟。
由是、輕皇子、不得固辭、升壇卽祚。于時、大伴長德字馬飼。連、帶金靫、立於壇右。犬上建部君、帶金靫、立於壇左。百官臣連國造伴造百八十部、羅列匝拜。是日、奉號於豐財天皇曰皇祖母尊、以中大兄爲皇太子。」
皇極天皇は中大兄皇子に譲位したいと詔(みことのり)を述べられたが中大兄はいったん退出すると中臣の鎌子連と密談しました。「古人大兄は、あなたの兄です。軽皇子は殿下の舅(しゅうと)です。古人大兄を天皇の位にのぼると、あなたは弟としてつつしみ、したがふ心を持つと後世に伝えられるでしょう。舅をもって天皇にすれば民衆の願いに答えたというになるでしょう。どちらにしても問題はないでしょう。これはすべて鎌足の入れ知恵だったのです。
中大兄皇子は皇太子でありながら、どうして自らの即位を避けたのででしょう。乙巳の変の後遺症でまだ王位につくのは早い、かといって弟の古人大兄(後の天武天皇)にするのも嫌だ。弟の立場では謀反でも起こさない限り復権することができない。そこで、ひとまず叔父の軽皇子を立てておこう。こんな談合が中大兄と鎌足の間でなされたのでしょう。古人大兄は吉野に行き僧侶になりたいと即位を固辞します。蘇我の入鹿を殺したことを許せないという諸臣が古人皇子について吉野に下野したのです。つまり、壬申の乱の伏線ができていたのです。鎌足(藤原)包囲網がすでにできていたのです。実権を握り続けたのは中大兄皇子ですが、舅である翹岐(ぎょうき)にはかなり手こずったようです。さて、翹岐すでに46歳、子を亡くす。書記は子の喪は親族が一切関わらないというのが百済、新羅の風俗であると云う。両親と兄弟親族が子の喪に望まなかった。日本書紀は慈悲なく、獣と何ら異なることはない・・・と書き、翹岐と妻、その一族を珍しく侮辱している。書記に書かれている謎を呼ぶ一文ではあるが、翹岐が異邦人であることを如実にしめしている。孝徳天皇は浪速に遷宮、難波の馬飼(うまかい)、犬上建部(いぬかみのたけべ)など有力氏族をすでに従わせていた。この馬飼(うまかい)の難波の民が入れ墨をしているという記述が残るが、入れ墨の記録としては史上最後の記述になるだろう。馬飼とは、氏名であり馬を飼っていたこという意味は直接的にはない。
翹岐が、勅使(サシン)として日本に来たときは妻子共々渡来している。子供の弔いに夫婦とも出ず冷淡で、犬畜生のようだと紀は書くからである。だが、母が弥勒寺建立に功があったように、この翹岐は天皇になるとものすごく仏教に熱心であった。孝徳のおくり名のごとく徳も高かったようである。
孝徳天皇は在位の間、仏教を広めただけでなく、民に公平な善政を実行している。あたかも行基と同一人物であるかの如くである。こうしたことで、中大兄、仏教推進派の蘇我氏を殺いだばかりなのに、この浮世離れした叔父に呆れてのことか、孝徳天皇を捨てて倭飛鳥河辺行宮に還ってしまう。わたしは、孝徳天皇は暗殺の危険を察知して自らg退位して出家したのだろうと推測する。
日本書紀文中より仏教を実践した記述の要点は以下のようである。
その1 墳墓を作ることは民を貧しくする。愚か者のすることでであり、葬りを隠せと 述べた。宝物を納棺するなど旧い墓制を改めようとした。
その2 流人や囚人の恩赦を国司に命じた
その3、2100余の僧侶、尼僧に一切経を読ませた。
その4 2700の灯明を宮中にともして高僧に経を読ませた。
その5 36の仏像を作った。また、命じて千仏の像や多くの仏菩薩の像を作った。
その6 221人の学問僧らを唐に送った。唐に派遣したのは一回だけではない。
その7 聖主(ひじり)の天皇(すめらみこと)と讃える表現がある。
その8 田を百姓に公平に分け与えた。(公地公民制・国郡制度・班田収授の法)(租・庸・調)など大化の改新である。貴族、豪族の冊封権を朝廷に返上することになり、貴族の反乱を生んだ。藤原氏排除という壬申の乱の伏線がここにあるのである。兵は紀伊(吉野)、近江、尾張、東国坂東などから続々と集結した・・・みな物部・大伴・蘇我をはじめとする旧氏族の軍勢である。)
その9 寺を作ることができなければ、朕は皆助けて作らせると言い、寺院の建設を奨励した。
その10 無量寿経を講話させた。
その11 処々に大道を作った。浪速大道は幅員は約23m~場所によっては40m以上もあった。現在の高速道路より幅の広い直線の道なので物議を呼んでいる。)
その12 京都の宇治橋を造るなど土木事業を盛んに行った。
その13 遣唐使を出した。道昭、浪速の出自で653年-660年 唐で三蔵法師に師事。この凡そ7年間。)
その14 七色の冠位13階を決めた。〔ななつのいろのとをあまりみしな之冠〕
難波で花を咲かせた聖徳というにふさわしい人物だが、実権は中大兄皇子の手にあった。641年武王が崩御。645年、任那国を以て百済に属け賜ふ。孝徳天皇大化元年の記事。ここで読めることがある。乙巳の変は蘇我氏の持つ任那の朝貢利権を奪い、任那を百済に併合するためだったのだ。
善花王女は新羅の真平王と摩耶夫人の娘で長女・善德女王と次女・天明王女に次ぐ末の妹である。
武王の寡婦で池の三国史記では義慈王は武王の元子《ウォンジャ》と書かれるが、出生(母)が不明である。元子とは長子である意味で立太子に予定された王子という意味はない。つまり、いつ世子になったのか不明である。正妃を貶めて廃位させ、その後に王后になった佐平沙宅氏の娘が産んだ子であろう。沙氏は百済八姓の一つで天下第一の大姓だ。おそらく義慈が庶子だったことが隠されたのだろう。
*
朝廷の政変で沙宅氏が権力を掌握(外戚政治)した。沙宅積徳氏の娘の名前は弥勒寺(みるくさ)址(そ)石塔(たっぷ)の解体修理によって発見された金製舎利奉安記に「佐平沙宅積徳の娘が富を喜捨して寺を建てた」とあった。正妃であった善花妃が消されたのは、反新羅の門閥勢力のクーデターのせいだ。門閥制度の最大の欠点は姓氏に高低貴賤の区別を厳しく制度的に設けることである。妃は養女にしないと姓が変わらない。魏晋南北朝の時代の祖禰の業績で南朝の陳代まで十七代にもわたって代々高官についた王氏は一例にすぎないが、大姓豪族の子弟はその看板によって無能であっても手厚い俸禄を得ることができた。儒教とはこうした社会体制を正当化し、祖先崇拝と氏姓の序列のバックボーンなのである。
さて、皇極天皇とはあめとよたからいかしひたらしひめという、”あめ”のがついた和風諡号の天皇であり、天が冠となる諡号がなにを意味しているか、また、天がない諡号とどう区別できるのか論じた説はありません。
諡号のなかに別(わけ)と禰子(ねこ)を抽出して別王朝と禰子王朝の二系統の王朝があったと考え方はあるが、”あめ”のある王朝とない王朝の違いについてはまだ聞いたことがないのです。は継体を区切りとして王統が断絶していると考えていますが、継体以後、もう一度断絶しているとわたしは考えています。
それは欽明天皇です。継体天皇の血統ではないと考えるのは一つには、欽明天皇の諡号にあめがあるからです。
「あめくにおしひらきひろにはのすめらみこと」、下の図表で確認できます。どうですか、あめの・・・という天皇諡号は、欽明、皇極、孝徳、天智、天武と4名です。
継体の後は安閑が子とされますが、安閑には子供がいません。つぎの宣化と欽明は継体の弟とされます。
天のは天孫直系を意味することは、古事記神代で明らかですが、なぜ7世紀中の諡号に再び登場しているかというと、その裏をとらなければならないでしょう。その事実を探ると、皇極は宝のイニシャルがあるように、武王と善花の子なのだった。王の直系であることが天の意味付けなのです。百済王族の中でも宗室にはいる身分である。また、豊の文字が、皇極、孝徳、斉明まであって、天智にはない。皇極、孝徳は母を同じくする姉弟であり、新羅の金春秋とは従妹(いとこ)になる。(斉明は皇極の重祚)
義慈王(ぎじおう、599年 - 660年)は、百済の第31代、最後の王(在位:641年 - 660年)で、諱は義慈。第30代の武王の嫡男である。母は不詳。(新羅の真平王の娘
善花公主という説、百済貴族出身の沙宅王后という説がある。)『旧唐書』高宗本紀などには扶余義慈として現れる。義慈王は羅唐に敗れ、洛陽に連行される。彼を最後に百済は滅亡したため諡(おくりな;死後にその人を尊んで贈る称号)されず、諱(生前の実名)のまま義慈王と呼ばれる。即位まもなく智積と翹岐を追放したのだから、母が善花である可能性はなく、大佐平沙宅積徳の娘だったろう。もし、善花を母とすれば善徳女王の甥になってしまい、金春秋のいとことなる。また、皇極および翹岐こと孝徳天皇と同母兄弟となり、ありえない人間関係とわたしは思います。そうして、義慈王とは孝徳の母親が違うという前提で白村江の戦い(663年)を見る必要がありそうです。
解説:大姓八族(だいせい はちぞく)
沙氏・真氏・燕氏・刕氏・解氏・貞氏・国氏・木氏・苩氏(ぺく・ボ)
開祖は解氏、真氏は王妃族。木氏は蘇我氏の本貫で木羅。
中国の歴史書『隋書』によれば、百済の大姓八族として次の八支姓を記録している。
< 隋書>卷八十一 列傳第四十六 東夷・高麗 百濟 新羅 靺鞨 流求國 俀國
「國中大姓有八族,沙氏、燕氏、刀氏、解氏、貞氏、國氏、木氏、苩氏。婚娶之禮,略同于華。喪制如高麗。有五穀、牛、豬、雞,多不火食。厥田下濕,人皆山居。有巨栗。每以四仲之月,王祭天及五帝之神。立其始祖仇台廟于國城,歲四祠之。」
「国には八族の有力な姓があり、沙氏、燕氏、刀氏、解氏、貞氏、國氏、木氏、苩氏。である。婚礼の儀は于華と同じで、また葬式の制度は高句麗と同じである。牛、いのしし、家禽、多くは火を通さず食べる。その田は下が湿っている。人はみな山に住み、大きな栗がある。毎年四月の中頃に、王は天帝、および五帝の神をまつり、漢城の廟にその始祖である尉仇台の立てている。毎年四度廟祭をする。」
ここで問題なのは、始祖が仇台としていることである。元祖百濟は解温祚が国祖である。ここで分かることは、日本の地では解温祚系を祀り、朝鮮では尉仇台を祀っていたということです。于國城とは漢城。
孝徳天皇↓
和風諡号に「天」があるのは欽明、皇極(同:斉明)、孝徳、天智、天武の5人であることを確認してください。わたしは皇極(斉明)、孝徳が同母、天智と天武は異母兄弟ではないかと思えてなりません。もし天智と天武が皇極の子であれば、天が諡号に盛られることに違和感を感じます。皇極の子であれば父は王以外の人物、王族であろうと別系になるはずです。
さて、日本の天皇という系譜はいつから始まったのだろうか?男大迹王、継体天皇が初代ということになるでしょう。国宝「隅田八幡神社人物画像鏡」和歌山県橋本市の隅田八幡神社が所蔵が癸未年(503年)継体天皇10年、男大迹が意柴沙加宮にいたとが明かすように、継体天皇が史実上、天皇といえる初の大王とわたしは思います。
推古天皇三十二年「夫れ仏法、西国より漢にいたりて、三百年を経て、すなわち伝えて百済国にいたりて、わづかに一百年になりぬ。しかるにわが王、日本のすめらみことの賢哲を聞きて、仏像および内典を貢上りて百歳にも満らず。」、皇極から100年?ほど前は推古天皇です。推古天皇にも「豊」の文字があります。豊は豊葦原が語源というころからすると、百済王純系を意味するのではないかと推理します。豊葦原の瑞穂の国
(とよあしはらのみずほのくに))が沸流百済の発祥地です。日本ではなく、これは仁川(インチョン)のことです。)弥鄒忽区(ミチュホル)は、大韓民国仁川広域市の区。「弥鄒忽」とは仁川の古名です。
また、「豊葦原中津國」は、ソウル(慰礼)のことです。
*(注)大王の兄弟が王位を継ぐ、継体から三代、欽明から三代は兄弟継承です。世代でいえば継体と欽明は二世代、親子の時代差しかありません。
▼日本書紀 巻第二十 敏達天皇紀
石姬皇后武小廣國押盾天皇女(むすめ)也。天皇、不信佛法而愛文史。(欽明)廿九年、立爲皇太子。(欽明)卅二年四月、天國排開廣庭(欽明)天皇崩。元年夏四月壬申朔甲戌、皇太子卽天皇位。尊皇后曰皇太后。是月、宮于百濟大井。以物部弓削守屋大連爲大連如故、以蘇我馬子宿禰爲大臣。五月壬寅朔....→
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▼日本書紀 巻第二十一 用明天皇~崇峻天皇
第四子也、母曰堅鹽媛。天皇信佛法尊神道。十四年秋八月、渟中倉太珠敷天皇崩。九月甲寅朔戊午、天皇卽天皇位。宮於磐余、名曰池邊雙槻宮。以蘇我馬子宿禰爲大臣、物部弓削守屋連爲大連、並如故。壬申
、詔曰、云々。以酢香手姬皇女、拜伊勢神宮奉日....→ このページで合計1件ヒット
▼日本書紀 巻第二十二 推古天皇紀
成。 二曰。篤敬三寶。三寶者佛法僧也、則四生之終歸萬國之極宗。何世何人、非貴是法。人鮮尤惡、能教從之。其不歸三寶、何以直枉。 三曰。承詔必謹。君則天之、臣則地之。天覆地載、四時順行萬氣得通、地欲覆天則致壞耳。是以、君言臣承、上行下靡。....→ このページで合計3件ヒット
▼日本書紀 巻第二十五 孝徳天皇紀
豐財重日足姬天皇同母弟也。尊佛法、輕神道斮生國魂社樹之類、是也。爲人柔仁好儒。不擇貴賤、頻降恩勅。天豐財重日足姬天皇四年六月庚戌、天豐財重日足姬天皇、思欲傳位於中大兄而詔曰、云々。中大兄、退語於中臣鎌子連。中臣鎌子連議曰、古人大兄....→
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▼日本書紀 巻第三十 持統天皇紀
問訊。朕世亦如之、故當勤心奉佛法也。」是日、授宮人位記。三月壬申朔甲戌、宴公卿於西廳。丙子、天皇觀公私馬於御苑。癸巳、詔曰「若有百姓弟爲兄見賣者、從良。若子爲父母見賣者、從賤。若准貸倍沒賤者、從良。其子雖配奴婢所生、亦皆從良。」夏....→
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日本書紀だけが明かしていた皇極と孝徳天皇の出生の真実
天萬豐日天皇 孝德天皇 序文”あめよろづ,とよ,ひの,すめらみこと”、とは孝德天皇の和風諡号です。
「天萬豐日天皇、天豐財重日足姬天皇同母弟也。」
日本書紀で佛教という字は3件ヒットする。
西暦 | 王朝 | 主な出来事 | |
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600年 | 隋 | ||
607年 | 隋 | ||
608年 | 隋 | ||
614年 | 隋 | ||
630年 | 唐 | ||
653年 | 唐 | ||
654年 | 唐 | ||
659年 | 唐 | ||
665年 | 唐 | ||
669年 | 唐 | ||
702年 | 唐 | ||
717年 | 唐 | ||
733年 | 唐 | ||
746年 | 唐 | ||
752年 | 唐 | ||
759年 | 唐 | ||
761年 | 唐 | ||
762年 | 唐 | ||
777年 | 唐 | ||
779年 | 唐 | ||
804年 | 唐 | ||
838年 | 唐 | ||
894年 | 唐 |