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NO331_J・・・魏志倭人伝 文法構造で解読する


まず、訓読なり現代語訳なり、いきなり上から下にむけて順次訳すのではなく、
文法的には構造(コンストラクション)といっていいでしょうが、その配置を分析します。セオリーはところどころで解説しますが、まず、大きく6つのブロックに分けます。

1番目のブロック「帯方~九州編」の主格は、帯方から倭地(奴国)までの間の諸国。
2番目のブロック「会稽編」の代名詞”其”の主格は会稽の水人(入れ墨をしている蛮族という意味での広義の倭人)
3番目のブロック「九州編」の代名詞”其”主格は、九州の地、女王国以て北の領域の地域
4番目のブロックの「倭国編Ⅰ」代名詞”其”の主格は倭国-1
5番目のブロックの「九州番外編」代名詞”其”の主格は女王国東渡海 主題は九州から渡海する島々
6番目のブロックの「倭国編Ⅱ」(倭国-2)代名詞”其”の主格は年号(景初と正始)です。すべて倭国が朝貢したときの記録です


魏志倭人伝は大部分は、「其」語構文、「又」また構文、どこから-どこまで構文で構成されています。どこから-どこまで構文すなわち従~至~・自~至~はとくに重要です。

骨格を眺めてください。特徴的なのは「其」語がブロック内で連続していることです。「其」語は代名詞ですから、連続する「其」語の主格を分析することが重要です。「其」語の主格、つまり共有する主語がどこで変わるのか見極める必要があります。主格が変化するころがブロック分けの基準となります。主格が変化したところを改行し赤く色付けしています。

『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条 陳寿著 (280年ー297年頃)
 ->  ->  ->  -> 倭人傳

1)帯方~九州編(主題=帯方から女王国までの間)・ロケーションは帯方沙里院から神埼市(佐賀県)~大分市(大分県)までの間
倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國

<從郡>循海岸水行歷韓國乍南乍東
北岸狗邪韓國七千餘里
<從狗邪韓國>始度一海千餘里,對馬國,
大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶㠀方可四百餘里,土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴
<從狗邪韓國>南渡一海千餘里名曰瀚海一大國,官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里,多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴
從狗邪韓國>渡一海千餘里末盧國,有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之
<從末盧国>東南陸行五百里伊都國,官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸
*このブロックは乍南乍東、方位東南の斜辺のカテゴリー。
*到の文字は最終到着地であることを指示し、このブロックでは伊都国が最終地点です。

王皆統屬女王國郡使往來常所駐

<自女王国>東南奴國百里,官曰兕馬觚副曰卑奴母離有二萬戸

孫ブロック(奴国の東に並ぶ)
<自奴国>
不彌國百里,官曰多模副曰卑奴母離有千餘家
<自郡>投馬國水行二十日,官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
<自郡>邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月,官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸
*女王国より先の方位、距離が示されます。斜辺乍南乍東が縦横つまり南と東の方位要素に変わります。前のブロックと同一の直角三角形を想定します。
奴国から邪馬台国まで①東ラインが引くことができます。

 自女王國以北戸數道里可得略載
孫ブロック

 餘旁國遠絶不可得詳次;斯馬國次;巳百支國次;伊邪國次;都支國次;彌奴國次;好古都國次;不呼國次;姐奴國次;對蘇國次;蘇奴國次;呼邑國次;華奴蘇奴國次; 鬼國次;爲吾國次;鬼奴國次;邪馬国次;躬臣国次;巴利国次;支惟國次;鳥奴國次;
 
奴國此女王境界所盡①南有狗奴國男子爲王官有狗古智卑狗不屬女王

①の其は女王、②の其は狗奴国を主格にしています。この文節は独立句です。例外的に直前の名詞が主格となり、この場合は「其」語を必ず文節の中に配置します。女王と狗奴国の地理的な関係を示す重要な文節です。
女王から狗奴国まで②南のラインが引けます。

  
自郡至女王國萬二千餘里

*この大外の枠が大ブロックです。自郡至女王國萬二千餘里はこの中をすべて拘束します。
*郡から女王国までの③東南ラインがあります。

2)会稽編 (「其」語の主格:倭の水人、すなわち会稽の倭人;ロケーションは中国浙江省紹興市~船山群島
   男子無大小皆黥面丈身古以來
         *古以來は「昔からずっと」と訳し、現在まで継続している様子となります。
  A’
使詣中國皆自穪大夫夏后少康之子封於會稽斷髪丈身以避蛟龍之害,今倭水人好沉没捕魚蛤丈身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾諸國丈身各異或左或右或大或小尊卑有差計

文頭の其語は倭水人に置き換わり、主格が倭水人となります。上の原文にある「丈」は「文」の誤記です。
B’
道里當在會稽東,治
C’
風俗不淫男子皆露紒以木緜招頭
D’
衣横幅但結束相連略無縫婦人被髪屈紒作衣如單被穿
E’
中央貫頭衣之種禾稻紵麻蠺桑緝績出細紵縑緜
F’
地無牛馬虎豹羊鵲兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃所有無與擔耳朱崖同倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣有屋室父母兄弟臥息異處以朱丹塗身體如中國用粉也食飲用籩豆手食
G’
死有棺無槨封土作冢始死停喪十餘日當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒已葬擧家詣水中澡浴以如練沐
H’
行來渡海詣中國恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人名之爲持衰若行者吉善共顧
I’
生口財物若有疾病遭暴害便欲殺之謂持衰

3)九州編 (「其」語の主格;真珠青玉を産出する地)
  
   ⇒  出真珠靑玉)
   J'
山有丹
   K'
木有枏杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香
  L'
竹蓧簳桃支有薑橘椒蘘荷不知以爲滋味有獮猴黒雉
  M'
俗擧事行來有所云爲輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜,辭如令龜法視火坼占兆
  N'
會同坐起父子男女無別人性嗜酒
【注釈:魏略曰俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀】
見大人所敬但摶手以當跪拝
  O'
人壽考或百年或八九十年
  P'
俗國大人皆四五婦下戸或二三婦婦人不淫不妬忌不盗竊少諍訟
  Q'
犯法輕者没

妻子重者滅

門戸及宗族尊卑各有差序足相臣服,収租賦有邸閣國國有市交易有無使大倭監之 自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國,於國中有如刺史,王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯,下戸與大人相逢道路逡巡入草,傳辭説事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾
  R'
本亦以男子爲王住七八十年,

4)倭国編Ⅰ(主格=倭国)・ロケーションは帯方地域(朝鮮・沙里院市)
Q'
倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲,王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆,年已長大無夫婿有男弟佐治國自爲王,以來少有見者,以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食傳辭出入居處宮室,樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞

5)九州外編(「其」の語および「又」語の主格=女王国東の地点=九州の東北海岸)
女王國東渡海千餘里復有,國皆倭種
有侏儒國有,南人長三四尺去女王四千餘里
有裸國黒齒國復在,東南船行一年可至,參問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周旋可五千餘里

九州東北海岸から背振島まで④東千余里のラインが引けます。
九州東北海岸から侏儒國まで⑤南のラインが引けます。
九州東北海岸から裸國黒歯國の⑥東南ラインが引けます。

6-1)倭国編Ⅱ以下すべて倭国が貢献してきたときの記録ですから、すべての年次項は倭国からの使者が洛陽に詣でたということが大前提です。

6-1)「其」語の主格=年号):景初。
景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝献太守劉夏遣吏將送詣京都

年十二月,詔書報"倭女王"曰制詔"親魏倭王卑彌呼","帶方太守劉夏"遣使送汝"大夫難升米次使都市牛利"奉,汝所獻男生口四人女生口六人,班布二匹二丈,以到汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝,今以汝爲"親魏倭王",金印紫綬装封付帶方太守假授,汝綏撫種人勉爲孝順汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞,今以難升米爲率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印靑綬引見勞賜遣還今以絳地交龍錦五匹, 絳地縐粟罽十張,蒨絳五十匹,紺青五十匹,荅汝所獻貢直,特賜汝紺地句文錦三匹,細班華罽五張.白絹五十匹,金八兩,五尺刀二口,銅鏡百枚,真珠鈆丹各五十斤,皆裝封付難升米牛利還到録悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也
6-2)「其」語の主格:正始
正始元年"太守弓遵"遣"建中校尉梯儁"等奉,詔書印綬詣倭國拝假,倭王并齎詔賜,金帛錦,罽刀,鏡釆物,倭王因使上表荅謝詔恩

四年倭王復遣使"大夫伊聲耆掖邪狗"等八人上獻生口,倭錦絳靑 縑緜衣,帛布,丹木𤝔短弓,矢掖邪狗等壹"率善中郎將"印綬

六年詔賜"倭難升米"黄幢付郡假授

八年"太守王頎"到官,倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状,遣"塞曹掾史張政"等因齎詔書黄幢拝假,難升米爲檄告喩之,卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人,更立男王國中不服,更相誅殺當時殺千餘人,復立"卑彌呼宗女壹與"年十三爲王,國中遂定,政等以檄告喩壹與,壹與遣"倭大夫率善中郎將掖邪狗"等二十人送政等還,因詣臺獻上男女生口三十人,貢白珠五千孔 靑大句珠二枚,異丈親錦二十匹

以下現代語訳:黒澤一功版
倭人は帯方の東南にあり、大海にある山によってなる島々に国と邑(ゆう)を為して住んでいる。前漢のころ、もともと百余国あり、朝見する者があった。今(後漢末期)、郵驛を使って通交する所は三十カ国である。帯方郡から倭地までの間。帯方郡から倭国の北岸にある狗邪韓国までは、あるいは南にあるいは東に海岸に沿って韓国を通過する。この間は七千余里である。[狗邪韓國から]対馬までは、はじめて一つの海を渡り、その間は千余里である。その代官は卑狗(ひこ)といい、副を卑奴母離(ひなもり)という。その代官がいるところは方四百余里(460里四方)の断絶した島である。土地は山が険しく、林が深く、道路は野鹿の類(たぐい)が通る道のようである。千余戸があるようである。良い田はなく、海産物を食用して自活し、舟に乗って南北の市場に行き食料を買い入れている。また[狗邪韓國から]一大國(壱岐)まで南に一つの海を渡るが、(この海は)名づけて瀚海(かんかい)という。その間は千余里である。官をまた(対馬と同じで)卑狗(ひく)といい、副を卑奴母離(ひなもりという。(広さは)ちょうど方三百里(300里四方)で、竹木や叢林(そうりん)が多く、三千ばかりの家がある。田畑は少しあるが、田を耕しても食べる分には足りないので、また南北から食料を買い入れている。また[狗邪韓國から]末盧国まではまた一つの海を渡り、千余里である。(人家は)四千戸で、山裾と海のはざまの干潟に住んでいる。草木(茅)が繁茂しており、その草木は前の人が見えないくらい高く伸びている。深い浅いを、とわず、好んで潜って魚やあわびを捕っている。末盧国から伊都国までは陸を東南に進み、その間は五百里である。官を爾支(にき)といい、副を泄謨觚(せまこ)という。(人家は)千余戸である。三十ケ国には王がいて、みな女王国に服属している。帯方郡の使いが往来していて、つねに女王国に駐在している。女王国から奴国まで東南百里である。官を兕馬觚といい、副を卑奴母離という。(人家は)二万余戸である。 奴国から東に並列して、不彌国があり、(距離は)百里、官は多模(たま)といい、副を卑奴母離という。(人家は)千余家である。奴国から東に並列して〕投馬国があり、(帯方郡から)投馬国まで、(距離は)南水行20日、長官は彌彌、副長官は彌彌那利といい、五万戸ばかりである。
〔奴国から東に並列して〕邪馬壹国があり、女王卑弥呼に属している所である。(帯方郡から)邪馬壹国(やまとこく)まで(距離は)南水行十日陸行一月、官に伊支馬、次に彌馬升、次に彌馬獲支、次に奴佳鞮という長官がいて、およそ7万余戸である。女王国の以て北にある国々はその戸数や道里はだいたい記載できた。 其(①女王国以て以北の国々)のほかに周辺国が次にあるが、海に分断されて遠く隔てられており、(戸数や道里を)詳細にすることができなかった。②斯馬國(しまこく)が次にあり、③巳百支國(しおきこく)が次にあり、④伊邪國(いやこく)が次にあり、⑤都支國(ときこく)が次にあり、⑥彌奴國(みなこく)が次あり、⑦好古都國(こことこく)が次にあり、⑧不呼國(ふここく)が次にあり、⑨姐奴國(しゃなこく)が次にあり、⑩對蘇國(たいそこく)が次にあり、⑪蘇奴國(そなこく)が次にあり、⑫呼邑國(こゆうこく)が次にあり、⑬華奴蘇奴國(かなそなこく)が次にあり、⑭鬼國(きこく)が次にあり、⑮爲吾國(いごこく)が次にあり、⑯鬼奴國(きなこく)が次にあり、⑰邪馬国(やまこく)が次にあり、、⑱躬臣国(きゅうしんこく)が次にあり、、⑲巴利国(はりこく)が次にあり⑳支惟國(きいこく)が次にあり㉑鳥奴國(おなこく)が次にある。
奴国が女王の(支配している)領域の尽きる所である。女王(女王のいる所から)其の南には狗奴国があり、男子を王とし、狗古智卑狗が官に任じられている。女王に服属していない。帯方郡治所から女王国まで一万二千余里である。

中国を詣でる(会稽の倭水人の)遣使はみな大夫と自称している。夏王朝の六代目の少康の庶子(無余)が会稽の王に封じられた際、髪を切って文身した。竜蛇に噛まれる被害を防ぐために短髪にして体に入れ墨をしたという。 今の倭の水人たちは潜って上手に魚や蛤を採取する。かつて入れ墨は大魚や水鳥の害を避けるためのものだったが、後に次第に装飾となっている。水人の諸国の入れ墨の施し方は国によって各々異なっており、また、左右、大小、その身分の尊卑が分かるようにおのおの差がある。会稽の倭水人たちが住んでいる所の道里(道行き)は会稽の東に当たる。倭水人たちは、この会稽の東を治めている。 (会稽の倭水人)の風俗は淫乱ではなく、男性は皆、(衣冠や幘〔さく〕)など)頭に何も被らないで、髷(まげ)を結ったまま露出させ、木綿(きわた)の布で頭を巻いている。 (会稽の倭水人)の衣服は、幅広い一枚の布を結び束ねているだけで縫うことはない。婦人は髮を結わずに曲げて束ねる。衣服は単被(ひとえ)のように作る。会稽の倭水人たちの衣服はその中央に穴を開け、これに頭に通して着ている。稲や紵麻(ちょま=カラムシ)を栽培し、養蚕して絹織物を紡いでいる。細い紵麻(ちょま)や薄い絹織物を作っている。(会稽の)その地には、牛・馬・虎・豹・羊・鵲(カササギ)がいない。矛、楯、木弓を用いている。木弓は下が短く上が長い、竹の矢には鉄の鏃(やじり)、あるいは骨の鏃(やじり)を付けている。その物産や習俗など、あることないこと全部が(海南島の)儋耳(たんじ)と朱崖(しゅがい)の倭人と同じである。倭の地は温暖で、冬や夏も四季を通して生野菜を食べ、皆が裸足である。家には室があり、父母・兄弟は寝転がって寝るが、子供は別の部屋に寝かせる。朱丹のおしろいを身体にも塗り、中国で白粉を用いて化粧をするように身体にも塗っている。飲食には竹や木で作った杯器に盛って、手で食べる。(会稽の)倭水人が死ねば、棺(かんおけ)を用いるが槨(かく)(外棺=そとばこ)はなく、土を盛って塚を造る。死去から十日あまりは喪に服し、その間は肉を食べず、喪主は大声で泣き、他の人々は歌い舞ったり酒を飲んだりする。埋葬が終われば、家人は皆が水中に入って禊(みそぎ)をする。中国で言っている練沐(練り絹を着ての沐浴)のようである。(会稽の倭水人が)海を渡って中国に詣でる(朝貢)ために行来(ゆきき)する時は、いつでも一人の持衰(じさい)を乗船させる。航行の最中は、髪を梳かさず、シラミをとらず、衣服は垢で汚れたままとし、肉を食わず、女性を近づけず、服喪中のようにさせる。この人間を持衰(じさい)という。もし航海が吉祥で無事に済めば、共に行く者たちが、その生口〔虜・持衰のこと〕に財物を与えその労に報いる。
もし、航行中に病人が出るなり、海が荒れるような災難に会った時は、人々はその持衰を殺そうと欲する。それはその持衰の清めが足らず、その不謹慎が災いを招いたというのだ。


その地は真珠や青玉〔ヒスイ〕を産出する。その地の山には丹砂がある。楠木(クスノキ)、栃(トチ)、樟(クス)、櫪(クヌギ)、橿(カシ)、桑(クワ)、楓(カエデ)などの樹木がある。その地には竹篠(シノダケ)、桃支(メダケ)がある。生姜(ショウガ)、橘(タチバナ)、椒(サンショウ)、茗荷(ミョウガ)などがあり、食料として滋味なることこの上ない。猿や黒い雉(きじ)がいる。そこの風習は、事を起して行動に移るときには、亀の骨を焼いて吉凶を占うが、初めに占うことを告げる、その礼句は中国の亀卜法に似ている。骨に生じた裂け目の方角を観て兆(きざし)を占う。そこでは卜占を行う祭祈堂は座席の順序や男女や親子など立ち居を区別することなく、一同に会している。人々の性質は酒好きである。人々は大人(高貴な者)への敬意を表すにはもっぱら手を合わせている(合掌のこと)。それでもって、中国の跪拝(ひざまずいて礼をすること)にあたるようである。そこの人々は長生きする者が多く、百年、あるいは八、九十年生きる。そこの風俗は、国の部族長(有力者)は皆、四、五人の妻を持ち、庶民でも中には二、三人の妻を持つ者がある。その妻たちは貞節で互いに嫉妬をしない。そこの地では窃盗をしないので、訴訟は少ない。法を犯せば、軽い罪は妻子の没収、重罪はその家族あるいは一族を処罰する。身分の尊卑は階級の序列があり、互いに臣服の秩序が整っている。租賦を収める所は邸閣(高床式倉庫)で、また国々にそれぞれ市場があり、人々は出かけて行って双方物資を交易しあっているが、諸国の王は各々大倭(部族長=管轄官)を任命して交易の有無やその多寡を監理している。
女王国から北には、(女王は)特別に大率を置き、諸国を検察しており、他の諸国はこの大率を畏れ憚(はばか)っている。大率は常に伊都国で治め、国の中での立場は中国における皇帝の刺史のようである(景初二年8月まで伊都国は公孫康の都督府が置かれていたが卑弥呼が統括するようになった)。
伊都国の王が京都(洛陽)・帯方郡に詣でさせるとき、ならびに諸韓国に使者を送るとき、および、(伊都国に駐在する)郡使が倭国(女王)に使いをだすとき、皆(王・大率・郡使ほか属史ら)全員で波止場に出向いて、奏上書や献上品を点検し、詣でた際に女王との間にくいちがいがないようにする。
 庶民が国の有力者に道で出会った際は、後ずさりして草むらに入り、道をあける。有力者に対面して話たり、何か事情を説明するときは敬意を表すため、蹲(うずくま)るか、跪(ひざまず)いて、両手を常に地面に着けておくしきたりである。返事をする声は噫(yī)と言い、これで承諾を示すようである。
女王国はもともと男子が王となって七、八十年ほど経っていた。倭国(の朝廷)は乱れ、敵も味方もはっきりしない紛争が一年余も経過した。そこで、女子を共立して王とした。名付けて卑彌呼という。鬼道に習熟し、よく民衆を歓喜させた。老齢になったので、すでに夫は亡く、夫の異母弟が国の統治を補佐していた。その男弟が自ら王と為して以来、卑彌呼を見る者は少なくなった。1000人もの女卑が卑弥呼に自ら侍り、ただ、一人の男子が飲食や伝辞を伝えるなど卑彌呼の居る処に出入りしている。宮室、楼観、城作が堅牢に設けられており、兵が常時守衛している。女王国の東(の地)から渡海し千余里(1150里)ほどのところに再び国(日振島)があり、その人々は皆倭種である。また女王国の東の地から南に渡海し、女王を離れること四千余里に侏儒国(屋久島)があり、その人々は身長が三、四尺である。また女王国東から渡海し、女王(国)を離れること四千余里(1150+4200=5350里)に侏儒国(屋久島)があり、その人々は身長が三、四尺であり、皆倭種である。また女王国の東の地から東南に舟行一年ばかりの(距離)のところに、ふたたび尋ね聞いたところの裸国・黒歯国がある。それらの国は、切り離れた島嶼(とうしょ)の上にあり、あるい離れ、あるいは連なった島々の周囲を回ると五千余里(5750里)である。その地の人々もまた倭種である。


景初二年(238年)の六月、倭の女王(卑弥呼)が大夫難升米らを郡に派遣し、天子に詣でて朝献することを求めた。よって太守劉夏は属吏”將”を派遣し、(將は応諾の答えを求めに)京都(洛陽)に詣でさせた。その年(景初二年(238年)の十二月、魏の皇帝(明帝)は倭女王に詔書で報いて曰く、
 「卑彌呼を親魏倭王に制詔する。帯方太守劉夏が、汝の大夫の難升米、次使の都市牛利らを使者を遣わし戦勝儀式(凱旋祝賀)に参じた。汝の献じる(公孫の)男性虜生口(捕虜)四人女性虜生口(捕虜)六人、班布二匹二丈を奉じて送ってきた。汝のいる所はとても遠いにも拘わらず、貢献してきたのは汝の忠孝を示すものであり、我は甚だ汝を慈しむ。
いま汝を親魏倭王に為す。詔書と金印紫綬など包装し封印して帯方太守(劉夏)に付託して仮授する。汝、その所の住民をいたわり安んじさせよ。また、民を勤めて孝順を尽くすよう教化せよ。汝の使者の難升米、牛利は遠路をはるばると来た労に報いて、いま以て難升米を率善中郎将、牛利を率善校尉と為し銀印青綬を仮し、引見ししたうえ懇(ねんご)ろに送り還えらせる。
今、絳地交龍錦、〔絳綈〕(交龍・龍が交わる絵柄の錦織)を五匹〔*〕、絳地縐粟罽(縮みの掛ける毛織物)十張、蒨絳(茜色と深紅)五十匹、紺青五十匹、これらを汝の献上品にたいする返礼とする。
また、特別に汝(卑弥呼)には紺地の句文(文様染め)錦三匹、細班華罽(細かい花模様がら絨毯)五張、白絹(無地の絹)五十匹、金八両、五尺の刀剣を二口、銅鏡を百枚、真珠、鉛丹各々五十斤を賜う。いずれも包装封印して難升米、牛利に託するので、帰還したら受けとるがよい。(それらの)すべてを汝は国中の人々に顕示し、魏国が汝に熱い親愛の情をもっていることを知らしめよ。それ故に鄭重に汝によき品々を与えたのである。」〔一〕絳地交龍錦五匹の文字の内、裴松之が考えるに「地」は「綈」でなくてはならない。漢の文帝が「皂衣」と言うのは「弋綈」のことである。この字が間違っているのは魏朝の失敗ではなく、伝写した者の誤りである。〕

正始元(240)年、(帯方)太守弓遵(きゅうじゅん)は建校尉梯儁(ていしゅん)らを改元祝賀の儀に奉賀朝貢させた。(魏帝曹芳は)詣でた倭国に詔書と印綬を拝假し、倭王に併せて金帛錦、罽刀、鏡、釆物などの詔賜を齎(もたら)した。よって倭王は(帯方から)使者を出し上表をもって詔恩に答謝した。

正始4年(243年)、倭王は復(ふたた)び大夫伊聲耆、掖邪狗ら八名を遣わし洛陽に詣でさせ、生口(高句麗の捕虜)、倭錦絳靑、縑緜衣帛布、丹木のゆみつかを持つ短弓と矢を献上した。掖邪狗らは率善中郎將の印綬を一拝した。

正始6(245)年、(後漢皇帝曹芳は)難升米に制詔し、黄幢を倭の難升米に賜い、郡に付託して假授した。

正始八(247)年、玄莬太守の王頎が帯方に着任した。倭女王卑彌呼と狗奴国王卑彌弓呼(高句麗・東川王)は敵対しており和平することはなかった。(王頎は倭国に)遣使し倭載斯・烏越等を郡治に詣させ、狗奴国(高句麗)を相(あい)攻撃状を(王頎が)説いた。(王頎は)その攻撃状を塞曹掾史張政等らを(洛陽)に派遣し皇帝に届けた。よって(皇帝曹芳は)、難升米に黄幢を拝假する詔書をもたらし、激と告喩を為した。卑弥呼は(すでに死んでいたが)この時を以て死んだとされ、大いに塚(墓丘)を作った。円の直径は百余歩〔115歩、約23メートル〕、徇葬する者、奴婢(男女奴隷)は百余人。今までいた男王(倭王)は更新して共立王として立とうとしたが国中が服さず、さらに謀反が起きて敵の陣営を)誅殺し合い、千余人が殺された。今一度卑弥呼の宗女壹與を共立王とした。壹與は13歳であった。国中がついに定まった。

(内乱が収束したので、)張政等は再び、激をもって壹與に告喩をなし、(王頎玄莬軍・楽浪軍)とともに出兵する命令を出した。沃沮の制圧が終了し、壹與は倭の大夫率善中郎將,掖邪狗ら二十人を遣わして張政らが帰還するのを護衛して送った。同行した者たちは臺(洛陽の高楼)に詣でて男女生口三十人(高句麗の捕虜)を献上し、白珠五千個、靑大句珠二枚、異丈親錦二十匹を貢献した。



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