NO331_J・・・魏志倭人伝 文法構造で解読する
魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中國の歴史書『三國志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称です。今日現存する最古の版本は、「紹興本」と呼ばれるもので、宋の南遷直後・紹興年間(1131年~1162年)のものと言われています。それに続いて、「紹煕本」というものが刊行され、(紹煕年間(1190年~1194年))、これが最もよく目にすることのできる「三國志」の版本といわれています。
魏志倭人伝・全文 http://inoues.net/gisiwajinden.html
《紹煕刊本》(しょうきかんぽん)
《紹煕本》 横書き
Part1-前半
倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑舊百
餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國從郡至
倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪
韓國七千餘里始度一海千餘里至對海國其大
官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶㠀方可四百餘
里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無
良田食海物自活乗船南北市糴又南渡一海千
餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴
毋離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有
田地耕田猶不足食亦南北市糴又渡一海千餘
里至末盧國有四千餘戸濵山海居草木茂盛行
不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沉没取之東南
陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄
渠觚有千餘戸/丗有王皆統屬女王國郡使往來
常所駐//
Part1-後半
東南至奴國百里官曰兕馬觚副曰卑奴
母離有二萬
餘戸/
東行至不彌國百里官曰多模
副曰卑奴母離有千餘家南至投馬國水行二十
日官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸南至邪
馬壹國女王之所都水行十日陸行一月官有伊
支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可
七萬餘戸/
自女王國以北其戸數道里可得略載
其餘旁國遠絶不可得詳次有斯馬國次有巳百
支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有
好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國
次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有
鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有
躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次
有//奴國此女王境界所盡
其南有狗奴國男子爲
王
其官有狗古智卑狗不屬//
女王自郡至女王國
萬二千餘里/
/
Part2----------------------------------
男子無大小皆黥面文身自古以來
其使詣中國皆自稱大夫夏后少康之子封於會
稽斷髪丈身以避蛟龍之害今倭水人好沉没捕
魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾諸國文
身各異或左或右或大或小尊卑有差計其道里
當在曾稽東治之東其風俗不淫男子皆露紒以
木緜招頭其衣横幅但結束相連略無縫婦人被
髪屈紒作衣如單被穿其中央貫頭衣之種禾稻
紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜其地無牛馬虎豹羊
鵲兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐡鏃或
骨鏃所有無與儋耳朱崖同倭地温暖冬夏食生
菜皆徒跣有屋室父母兄弟臥息異處以朱丹塗
其身體如中國用粉也食飲用邊豆手食其死有
棺無槨封土作冢始死停喪十餘日當時不食肉
喪主哭泣他人就歌舞飲酒己葬擧家詣水中澡
浴以如練沐其行來渡海詣中國恒使一人不梳
頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人
名之爲持衰若行者吉善共顧其生口財物若有
疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰不謹/
Part3----------------------------------
出眞珠靑玉
其山有丹
其木有柟杼豫樟楺櫪投檀鳥號楓
香
其竹篠簳桃支有薑橘椒蘘荷不知以爲滋味
有獮猴黑雉
其俗擧事行來有所云爲輒灼骨而
ト似占吉凶先告所ト
其辭如令龜法視火拆占
兆
其曾同坐起父子男女無別人性嗜酒{割注・
_________}見大人所敬但搏手以當跪拜
其
人壽考或百年或八九十年
其俗國大人皆四五
婦下戸或二三婦婦人不淫不妬忌不盗竊少諍
訟
其犯法輕者沒
其妻子重者没
其門戸及宗族
尊卑各有差序足相臣服收租賦有邸閣國國有市
交易有無使大倭監之
自女王國以北特置一大
率儉察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺
史王遣使詣京都帯方郡諸韓國及郡使倭國皆
臨津捜露傅送文書賜遣之物詣女王不得差錯
下戸與大人相逢道路逡巡入草傅辭説事或蹲
或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾
其國本亦以男子爲王住七八十年/
Part4---------------------------------
倭國亂相攻伐暦年及共立一女子爲王名曰卑彌呼事鬼道
能惑衆年巳長大無夫壻有男弟佐治國自爲王
以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給
飲食傅辭出入居處宮室樓觀城柵嚴設常有人
持兵守衞/
Part5----------------------------------
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘
里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至
參問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周旋可
五千餘里/Part6-------------------------
景初二年六月倭女王遣大夫難升米
等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京
都其年十二月詔書報倭女王曰制詔親魏倭王
卑彌呼帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次
使都市牛利奉汝所獻男生口四人女生口六人
班布二匹二丈以到汝所在踰遠乃遣使貢獻是
汝之忠孝我甚哀汝今以汝爲親魏倭王假金印
紫綬装封付帶方太守假授汝其綏撫種人勉爲
孝順汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞今以難
升米爲率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印靑
綬引見勞賜遣還今以絳地交龍錦五匹*{割注:
}絳地縐粟罽十
張蒨絳五十匹紺青五十匹荅汝所獻貢直又特
賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十
匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鈆丹各五
十斤皆裝封付難升米牛利還到録受悉可以示
汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也 正
始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印
綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡釆
物倭王因使上表荅謝詔恩其四年倭王復遣使
大夫伊聲耆掖邪拘等八人上獻生口倭錦絳青
縑緜衣帛布丹木弣短弓矢掖邪拘等壹拜率善
中郎將印綬其六年詔賜倭難升米黄幢付郡假
授其八年太守王頎到官倭女王卑彌呼與狗奴
國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斬烏越等詣郡
説相攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢
拜假難升米爲檄告喩之卑彌呼以死大作冢徑
百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服
更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與
年十三爲王國中遂定政等以檄告喩壹與壹與
遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等
還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔
靑大句珠二枚異文雜錦二十匹
*主格が代わる意味段落を色でわけています。
*𤝔→(弣〔ユヅカ・ゆみつか〕が正しい元字)
丹木弣短弓矢を一名詞単語、壹拜は「とはい」とよみ一拝ではない。
《紹興本》 横書き
倭人在帯方東南大海之中依山島為國邑旧百
餘國漢時有朝見者今使訳所通三十國従郡至
倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到
其北岸狗邪
韓國七千餘里始度一海千餘里至対馬國
其大
官日卑狗副日卑奴母離所居絶島方可四百餘
里土地山険多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無
良田食海物自活乗船南北市糴又南渡一海千
餘里名日瀚海至一大國官亦日卑狗副日卑奴
母離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有
田地耕田猶不足食亦南北市糴又渡一海千餘
里至末盧國有四千餘戸濱山海居草木茂盛行
不見前人好捕魚鰒水無深浅皆沈没取之東南
陸行五百里到伊都國官日爾支副日泄謨觚柄
渠觚有千餘戸世有王皆統属女王國郡使往来
常所駐東南至奴國百里官日兕馬觚副日卑奴
母離有二万餘戸東行至不弥國百里官日多模
副日卑奴母離有千餘家南至投馬國水行二十
日官日弥弥副日弥弥那利可五萬餘戸南至邪
馬壱國女王之所都水行十日陸行一月官有伊
支馬次日弥馬升次日弥馬獲支次日奴佳鞮可
七万餘戸自女王國以北
其戸数道里可得略載
其餘旁國遠絶不可得詳次有斯馬國次有巳百
支國次有伊邪國次有都支國次有弥奴國次有
好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國
次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有
鬼國次有為吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有
躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次
有奴國此女王境界所盡
其南有狗奴國男子為
王
其官有狗古智卑狗不属女王自郡至女王國
萬二千餘里男子無大小皆黥面文身自古以来
其使詣中國皆自称大夫夏后少康之子封於會
稽断髪文身以避蛟龍之害今倭水人好沈没捕
魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以為飾諸國文
身各異或左或右或大或小尊卑有差計
其道里
當在会稽東治之東
其風俗不淫男子皆露紒以
木緜招頭
其衣横幅但結束相連略無縫婦人被
髪屈紒作衣如単被穿
其中央貫頭衣之種禾稲
紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜
其地無牛馬虎豹羊
鵲兵用矛盾木弓木弓短下長上竹箭或鉄鏃或
骨鏃所有無與儋耳朱崖同倭地温暖冬夏食生
菜皆徒跣有屋室父母兄弟臥息異処以朱丹塗
其身体如中國用粉也食飲用籩豆手食
其死有
棺無槨封土作冢始死停喪十餘日當時不食肉
喪主哭泣他人就歌舞飲酒已葬挙家詣水中澡
浴以如練沐
其行来渡海詣中國恒使一人不梳
頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人
名之為持衰若行者吉善共顧
其生口財物若有
疾病遭暴害便欲殺之謂
其持衰不勤出真珠青
玉
其山有丹
其木有枏杼橡樟楺櫪投橿烏號楓
香
其竹篠簳桃支有薑橘椒襄荷不知以為滋味
有獮猴黒雉
其俗挙事行来有所云為輒灼骨而
卜以占吉凶先告所卜
其辭如令亀法視火坼占
兆
其会同坐起父子男女無別人性嗜酒{割注1
}見大人所敬但搏手以當跪拝
其人
寿考或百年或八九十年
其俗國大人皆四五婦
下戸或二三婦婦人不淫不妬忌不盗竊少諍訟
其犯法軽者没
其妻子重者没
其門戸及宗族尊
卑各有差序足相臣服収租賦有邸閣國國有市
交易有無使大倭監之自女王國以北特置一大
率検察諸國諸國畏憚之常治伊都國於國中有
如刺史王遣使詣京都帯方郡諸韓國及郡使倭
國皆臨津捜露傳送文書賜遺之物詣女王不得
差錯下戸與大人相逢道路逡巡入草傳辭説事
或蹲或跪両手據地為之恭敬對應聲曰噫比如
然諾
其國本亦以男子為王住七八十年倭國乱
相攻伐歴年乃共立一女子為王名日卑弥呼事
鬼道能惑衆年已長大無夫婿有男弟佐治國自
為王以来少有見者以婢千人自侍唯有男子一
人給飲食傳辭出入居處宮室樓観城柵厳設常
有人持兵守衛女王國東渡海千餘里復有國皆
倭種又有侏儒國有
其南人長三四尺去女王四
千餘里又有裸國黒歯國復有
其東南船行一年
可至参問倭地絶在海中洲島之上或絶或連周
旋可五千餘里景初二年六月倭女王遣大夫難
升米等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏将送
詣京都
其年十二月詔書報倭女王曰制詔親魏
倭王卑弥呼帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升
米次使都市牛利奉汝所獻男生口四人女生口
六人班布二匹二丈以到汝所在踰遠乃遣使貢
獻是汝之忠孝我甚哀汝今以汝為親魏倭王假
金印紫綬装封付帯方太守假綬汝
其綏撫種人
勉為孝順汝來使難升米牛利渉遠道路勤労今
以難升米為率善中郎将牛利為率善校尉假銀
印青綬引見労賜遣還今以絳地交龍錦五匹{割
注2 }絳地縐粟罽
十張倩絳五十匹紺青五十匹答汝所獻貢直又
特賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五
十匹金八両五尺刀二口銅鏡百枚真珠鉛丹各
五十斤皆装封付難升米牛利還到録受悉可以
示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也
正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書
印綬詣倭國拝仮倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡
采物倭王因使上表答謝恩詔
其四年倭王復遣
使大夫伊聲耆掖邪拘等八人上献生口倭錦絳
青縑緜衣帛布丹木弣短弓矢掖邪狗等壱拝率
善中郎将印綬
其六年詔賜倭難升米黄幢付郡
仮授
其八年太守王頎到官倭女王卑弥呼與狗
奴國男王卑弥弓呼素不和遣倭載斯烏越等詣
郡説相攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄
幢拝仮難升米為檄告喩之卑弥呼以死大作冢
徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不
服更相誅殺當時殺千餘人復立卑弥呼宗女壹
與年十三為王國中遂定政等以檄告喩壹與壹
與遣倭大夫率善中郎将掖邪拘等二十人送政
等還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千
孔青大句珠二枚異文雑錦二十匹
*割注1:魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀
紹興本と紹煕本の文字の違い
對
馬國 《紹興本》
對海國 《紹煕本》
其戸数道里可
得略載
其戸数道里可略載
會稽断髪
丈身
會稽断髪文身
魚蛤丈身
魚蛤文身
まず、訓読なり現代語訳なり、いきなり上から下にむけて順次訳すのではなく、文法的には構造(コンストラクション)といっていいでしょうが、その配置を分析します。セオリーはところどころで解説しますが、まず、大きく6つのブロックに分けます。
プログラムは、規則性がないと作れません。プログラミング思考とは、文字の定義ばかりでなく、配列にある分岐要素の規則性などに目をむけます。平たく言うと、中文はどこで切るのが重要で、これができれば80%は読めるようになります。上の「棒書き」をどう切っていくかの作業が大切で、これによって解釈が異なってくる場合があります。通説の訓読読み下しを何百回読んでも迷路におちいります。
1番目のブロック「帯方~九州編」の主格は、帯方から倭地(伊都国)までの間の諸国の状態。従と自の構文の違いで、前段、後段の二段落に分割される。コースとしては、郡から狗邪韓国まで、直線、そこから三分岐、末盧國から伊都国まで、直線、伊都国から分岐して、一つは奴国ー邪馬壹國コース、二つめは伊都国から女王国までのコース。よって、伊都国から二分岐となる。
2番目のブロック「会稽編」の代名詞”其”の主格は会稽の水人。
3番目のブロック「九州編」の代名詞”其”主格は、九州の地、女王国以て北の領域の地域の状態。
4番目のブロックの「倭国編Ⅰ」代名詞”其”の主格は倭国-1
5番目のブロックの「九州番外編」”其”の主格は女王国東渡海、九州から渡海する島々の国の状態、女王国以て北にはいりません。魏と通行していない島嶼の国々です。
6番目のブロックの「倭国編Ⅱ」(倭国-2)代名詞”其”の主格は年号(景初と正始)です。すべて倭国が朝貢したときの洛陽での記録です。
第一ステップ ブロックの分割
Part1-前半----------------------------
倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑舊百
餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
從郡至倭循海岸水行歴韓國乍南乍東到其北岸狗邪
韓國七千餘里始度一海千餘里至對海國其大
官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶㠀方可四百餘
里土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無
良田食海物自活乗船南北市糴又南渡一海千
餘里名曰瀚海至一大國官亦曰卑狗副曰卑奴
毋離方可三百里多竹木叢林有三千許家差有
田地耕田猶不足食亦南北市糴又渡一海千餘
里至末盧國有四千餘戸濵山海居草木茂盛行
不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沉没取之東南
陸行五百里到伊都國官曰爾支副曰泄謨觚柄
渠觚有千餘戸
丗有王皆統屬女王國郡使往來常所駐
Part1-後半
東南至奴國百里官曰兕馬觚副曰卑奴母離有二萬餘戸
東行至不彌國百里官曰多模副曰卑奴母離有千餘家
南至投馬國水行二十日
官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月
官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸
自女王國以北其戸數道里可得略載
其餘旁國遠絶不可得詳次有斯馬國次有巳百
支國次有伊邪國次有都支國次有彌奴國次有
好古都國次有不呼國次有姐奴國次有對蘇國
次有蘇奴國次有呼邑國次有華奴蘇奴國次有
鬼國次有爲吾國次有鬼奴國次有邪馬國次有
躬臣國次有巴利國次有支惟國次有烏奴國次
有奴國此女王境界所盡
其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王
自郡至女王國萬二千餘里
Part2----------------------------------
男子無大小皆黥面文身自古以來
其使詣中國皆自稱大夫夏后少康之子封於會
稽斷髪丈身以避蛟龍之害今倭水人好沉没捕
魚蛤文身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾諸國文
身各異或左或右或大或小尊卑有差計
其道里
當在曾稽東治之東
其風俗不淫男子皆露紒以
木緜招頭
其衣横幅但結束相連略無縫婦人被
髪屈紒作衣如單被穿
其中央貫頭衣之種禾稻
紵麻蠶桑緝績出細紵縑緜
其地無牛馬虎豹羊
鵲兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐡鏃或
骨鏃所有無與儋耳朱崖同倭地温暖冬夏食生
菜皆徒跣有屋室父母兄弟臥息異處以朱丹塗
其身體如中國用粉也食飲用邊豆手食
其死有
棺無槨封土作冢始死停喪十餘日當時不食肉
喪主哭泣他人就歌舞飲酒己葬擧家詣水中澡
浴以如練沐
其行來渡海詣中國恒使一人不梳
頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人
名之爲持衰若行者吉善共顧
其生口財物若有
疾病遭暴害便欲殺之謂
其持衰不謹
Part3----------------------------------
出眞珠靑玉
其山有丹
其木有柟杼豫樟楺櫪投檀鳥號楓
香
其竹篠簳桃支有薑橘椒蘘荷不知以爲滋味
有獮猴黑雉
其俗擧事行來有所云爲輒灼骨而
ト似占吉凶先告所ト
其辭如令龜法視火拆占
兆
其曾同坐起父子男女無別人性嗜酒{割注・
・・・・・・・・・・・}見大人所敬但搏手以當跪拜
其
人壽考或百年或八九十年
其俗國大人皆四五
婦下戸或二三婦婦人不淫不妬忌不盗竊少諍
訟
其犯法輕者沒
其妻子重者没
其門戸及宗族
尊卑各有差序足相臣服收租賦有邸閣國國有市
交易有無使大倭監之自女王國以北特置一大
率儉察諸國畏憚之常治伊都國於國中有如刺
史王遣使詣京都帯方郡諸韓國及郡使倭國皆
臨津捜露傅送文書賜遣之物詣女王不得差錯
下戸與大人相逢道路逡巡入草傅辭説事或蹲
或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾
其國本亦以男子爲王住七八十年/
Part4----------------------------------
倭國亂相攻伐暦年及共立一女子爲王名曰卑彌
呼事鬼道
能惑衆年巳長大無夫壻有男弟佐治國自爲王
以來少有見者以婢千人自侍唯有男子一人給
飲食傅辭出入居處宮室樓觀城柵嚴設常有人
持兵守衞
Part5----------------------------------
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
又有侏儒國在
其南人長三四尺去女王四千餘
里又有裸國黒齒國復在
其東南船行一年可至
參問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周旋可
五千餘里
Part6---------------------------------
/景初二年六月倭女王遣大夫難升米
等詣郡求詣天子朝獻太守劉夏遣吏將送詣京
都
其年十二月詔書報倭女王曰制詔親魏倭王
卑彌呼帶方太守劉夏遣使送汝大夫難升米次
使都市牛利奉汝所獻男生口四人女生口六人
班布二匹二丈以到汝所在踰遠乃遣使貢獻是
汝之忠孝我甚哀汝今以汝爲親魏倭王假金印
紫綬装封付帶方太守假授汝
其綏撫種人勉爲
孝順汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞今以難
升米爲率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印靑
綬引見勞賜遣還今以絳地交龍錦五匹*{割注:
・・・・・・・・・・・・・}絳地縐粟罽十
張蒨絳五十匹紺青五十匹荅汝所獻貢直又特
賜汝紺地句文錦三匹細班華罽五張白絹五十
匹金八兩五尺刀二口銅鏡百枚真珠鈆丹各五
十斤皆裝封付難升米牛利還到録受悉可以示
汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也 正
始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉詔書印
綬詣倭國拜假倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡釆
物倭王因使上表荅謝詔恩
其四年倭王復遣使
大夫伊聲耆掖邪拘等八人上獻生口倭錦絳青
縑緜衣帛布丹木短弓矢掖邪拘等壹拜率善
中郎將印綬
其六年詔賜倭難升米黄幢付郡假
授
其八年太守王頎到官倭女王卑彌呼與狗奴
國男王卑彌弓呼素不和遣倭載斬烏越等詣郡
説相攻撃状遣塞曹掾史張政等因齎詔書黄幢
拜假難升米爲檄告喩之卑彌呼以死大作冢徑
百餘歩徇葬者奴婢百餘人更立男王國中不服
更相誅殺當時殺千餘人復立卑彌呼宗女壹與
年十三爲王國中遂定政等以檄告喩壹與壹與
遣倭大夫率善中郎將掖邪狗等二十人送政等
還因詣臺獻上男女生口三十人貢白珠五千孔
靑大句珠二枚異文雜錦二十匹
上記のように、6つに分割しました。これから、其の字を行頭に改行して、さらに構造を見ていきます。
魏志倭人伝は大部分は、「其」語構文、「又」また構文、どこから-どこまで構文で構成されています。また、どこから-どこまで構文すなわち従~至~・自~至~は
とくに重要です。
書式構造を眺めてください。特徴的なのは「其」語がブロック内で連続しているところを見つけることです。「其」語は代名詞ですから、連続する「其」語の主格を分析することが重要です。そのためには、「其」語の主格、つまり共有する主語がどこで変わるのか見極める必要があります。主格が変化するころがブロック分けの基準となります。6つのブロックにわけて解説するのは主格の違いを区分条件にしているからなのです。
『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条 陳寿著 (280年ー297年頃)
漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 魏書三十 -> 倭人傳
1)帯方~九州編(主題=帯方から女王国までの間)・ロケーションは帯方沙里院から神埼市(佐賀県)~大分市(大分県)までの間
倭人在帶方東南大海之中依山㠀爲國邑舊百餘國漢時有朝見者今使譯所通三十國
*今ある30カ国は皆曹魏に従属している。舊(旧)の一文字を正確に解釈すると、その意味するところは、漢の武帝の当時100余国に分かれていたが、250年ぐらい経て、今は、100余国は併合されたり、30カ国に収れんした。倭地の領域は楽浪郡の領有する所だったが、204年以後、帯方郡に従属している。倭地の地理的、および地勢的な状態を示している。
*国邑:国は大きく、邑は小さいという差があるが、単語として大小の国々と解釈する。
從郡(・・・・・・・(循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里)がここに入れ子としてはいる。ネスト構造・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)至倭
(=主格、ここは独立句、直訳ではいわゆる宣言文のようにになります。)「從郡・・・至倭」従郡と至倭の間が入子になっているのです。
中国語の構文では、郡治所と・・・伊都国までの従属節全文が入ります。
伊都国以下は自至構文にかわり、最後のくくり閉めは「自郡至女王國萬二千餘里」です。
<從郡>(循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里)・・・*前節に移動する
従郡は構文にするために補足追加します。伊都國,官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸、その後ろに<至倭>を復元します。すると、《循海岸水行歷韓國乍南乍東到其北岸狗邪韓國七千餘里~伊都国》までは入れ子構文となり、平序文になります。渡るとか到(着く)、陸行とか、一般動詞になり、例えば郡使の具体的ないルートの3D表現であることが確かめることができます。
<從狗邪韓國>始度一海千餘里,至對馬國,
其大官曰卑狗副曰卑奴母離所居絶㠀方可四百餘里,/土地山險多深林道路如禽鹿徑有千餘戸無良田食海物自活乗船南北市糴
又<從狗邪韓國>南渡一海千餘里名曰瀚海至一大國,官亦曰卑狗副曰卑奴母離方可三百里,多竹木叢林有三千許家差有田地耕田猶不足食亦南北市糴
又從狗邪韓國>渡一海千餘里至末盧國,有四千餘戸濱山海居草木茂盛行不見前人好捕魚鰒水無深淺皆沈没取之
東南陸行五百里到伊都國,官曰爾支副曰泄謨觚柄渠觚有千餘戸))))<至倭>
*このブロックは郡から伊都国までの間の状態を書いています。*到の文字は到着地であることを指示し、このブロックでは伊都国が最終地点で、郡から12000里ちょうどになります。其北岸の其のは倭です。陸路を経由して着くところは韓国の南岸ですから、倭の北側になります。すなわち、状態として、狗邪韓国の先は海だという至極もっともなことを述べています。この狗邪韓国にも到の字があります。到の字があると、郡からの始点はリセットされ、狗邪韓国から再スタートします。到にはこのような区切りの分岐規則をもっています。伊都国もしかりで、奴国以下は伊都国を始点にした里程に変化しています。郡からの始点では、伊都国まで12000里、奴国まで12100里、不彌國まで、12200里、女王国まで12,000余里です。これら4つの式を連立すると、所在地の距離の関係式が成立します。
主格=女王国に転じる。従郡(・・・)至倭の入れ子です。
丗有王皆統屬女王國郡使往來常所駐
この一節は独立句、女王国の宣言文であり、かつ、この文節の前は、従至構文、後ろは自至構文に表記方法が変化する。という意味では、分岐行でもある。ロケーションの転換ともなっている。注:女王国は国邑群ではなく、郡使往来常駐から一国の国名と定義する。女王国は魏の総督府に相当し、他方、伊都国は公孫氏の総督府だったことになるだろうか?こうした、ヒントにつながる。
<自伊都国>東南至奴國百里,官曰兕馬觚副曰卑奴母離有二萬戸
(奴国の東に並ぶ)
<自奴国>東行至不彌國百里,官曰多模副曰卑奴母離有千餘家
<自不彌國>南至投馬國水行二十日,官曰彌彌副曰彌彌那利可五萬餘戸
<自投馬国>南至邪馬壹國女王之所都水行十日陸行一月,官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮可七萬餘戸
奴国から東に不彌國が列し、100里ほどである。多模副、卑奴母離という二人の官がおり、千輿戸である。東に投馬国、邪馬壹國が行列している。ほぼ、一直線にならんでいる様子を行の一字が示しています。
不彌國の南に筑後川があり、上流に3日ほど行くと、投馬国があり、彌彌副と彌彌那利という官がおり、五万戸ほどの戸数がある。
投馬国の南に筑後川があり、上流に船で1日半、水行が停まる地点で船から陸に下船して、4日半で邪馬台国に至る。邪馬壹國は女王が総督府をおいて支配している所で、官有伊支馬次曰彌馬升次曰彌馬獲支次曰奴佳鞮と四人の官がおり、戸数は7万余戸ちょうどである。(新訳)
*旅程の日数は20分の3になる。いわゆる15%のグローバル関数定義を適用する。
*奴国は神崎郡にあり、南に筑後川が流れている。したがって、水行は、筑後川を船で行くことで、まさに東に向かって進んでいる。奴国の東に、不彌國、次に投馬国、次に邪馬壹國と列していることは東行で明らかなので、水行は東に向かう筑後川を船行することである。奴国から100里、6kmほど引いて、不彌國と日田との間、三分の二の距離に投馬国があり、もう三分の一ほど上流にある日田から陸行4日半で邪馬壹國がある。したがって、朝倉甘木は投馬国となり、次の日田市から4日半の歩行ではおおかた東海岸の大国に着く。宇佐市か、杵築市、別府市、大分市などがリストアップされる。途中、英彦山・耶馬溪(やばけい)を経由するかどうかなど関係するが豊国の首都というべき宇佐をわたしは有力視している。
自女王國以北其戸數道里可得略載
瀬戸内地方の21カ国が主格になります。
其餘,①旁國遠絶不可得詳次有;②斯馬國次有;③巳百支國次有;④伊邪國次有;⑤都支國次有;⑥彌奴國次有;⑦好古都國次有;⑧不呼國次有;⑨姐奴國次有;⑩對蘇國次有;⑪蘇奴國次有;⑫呼邑國次有;⑬華奴蘇奴國次有;⑭鬼國次有;⑮爲吾國次有;⑯鬼奴國次有;⑰邪馬国次有;⑱躬臣国次有;⑲巴利国次有;⑳支惟國次有;㉑鳥奴國次有;
「自女王國以北其戸數道里可得略載」の中にある其戸数の其は、女王国から以北の諸国で、略載記述がある對馬国から女王国まで九か国が該当します。
それら諸国は以北の八か国ですが、みな女王国に従属しています。女王国には戸数や官名が書かれませんが、以北ということで女王国も含み、ここでは九か国になります。
したがって、女王国が南限になるわけですが、このことに気づく人はあまりいません。いっぽう、奴国も以北の国になりますが、女王の境界が尽きる所なので、南限なのです。したがって、女王国とは並行した緯線にあるのです。
*遠絶の絶は九州から海で断ち切られたという意味で、これらの諸国は四国、中国、近畿地方にあります。旁國は一つの國名・すなわち固有名詞です。なぜなら有構文は主語+有の配列ですから、有の数と同じ数の主語、すなわち国がなければならないのです。すると21か国になり、九州の九か国と合計すると三十か国になるわけです。九州本島は女王国を一国として、対馬〜女王国まで9カ国になります。
*旁 [páng] 傍ら,付近,わき,際,あたり
主格は女王と奴国、女王と狗奴国に変わります。
奴國此女王境界所盡
①其南有狗奴國男子爲王②其官有狗古智卑狗不屬女王
奴国は女王が支配する領域の尽きるところである。
女王が居る所の南に狗奴国(馬韓の伯濟国)があり、男子を王として、官に狗古智卑狗(古爾王)がおり、女王には従属していない。
*①の其は女王=女王の居る所=倭國、②の其は狗奴国を主格にしています。女王と狗奴国の地理的な関係を示す重要な文節です。女王は女王のいる所で、即ち倭国です。邪馬台国ではありません。(邪馬台国の女王卑彌呼は根本的な間違い))
倭國は、沃沮にあり、その真南に馬韓の伯濟国がある。(後の百済)
主格=女王;注:女王国ではありません。女王と女王國ははっきりと区別しなかればなりません。 主格=女王国から女王に転じるので、従郡(・・・)至倭の入れ子ではありません。しかし、女王倭国と倭の南北間にあります。
主格が郡から女王国までになります。
自郡至女王國萬二千餘里
九州外編も主格=女王国で、続いて読めば九州外編で女王国の東は海であることがあきらかになります。
伊都国、奴国まで、および女王国は郡からの里数で示されますが、投馬国、邪馬台国は女王(倭国)から南という道里になり、水行、陸行の日数に変わります。
*ABブロックの締めくくりです。「従郡至倭」の大ブロックの止めになります。自郡至女王國萬二千餘里はこの里程のすべての最終句です。女王国は単独の国で、邪馬台国や伊都国よりも上位の大国です。九州の東北海岸にあります。到がつかわれていないのは、さらに東に旁国から鳥奴国まで21カ国が続くからです。また、東に渡海して1000余里(69KM)には四国、瀬戸内地方の倭種の国々が隣接してる状態が見て取れます。
2)会稽編 (「其」語の主格:倭の水人、すなわち会稽の倭人;ロケーションは中国浙江省紹興市~船山群島
男子無大小皆黥面丈身自古以來
A’
其使詣中國皆自穪大夫夏后少康之子封於會稽斷髪丈身以避蛟龍之害,今倭水人好沉没捕魚蛤丈身亦以厭大魚水禽後稍以爲飾諸國丈身各異或左或右或大或小尊卑有差
文頭の其語は今倭水人に置き換わり、主格が倭水人となります。上の原文にある「丈」は「文」の誤記です。ここから会稽の”倭水人”が主格になります。
B’
計其道里當在會稽東,治之東
C’
其風俗不淫男子皆露紒以木緜招頭
D’
其衣横幅但結束相連略無縫婦人被髪屈紒作衣如單被穿
E’
其中央貫頭衣之種禾稻紵麻蠺桑緝績出細紵縑緜
F’
其地無牛馬虎豹羊鵲兵用矛楯木弓木弓短下長上竹箭或鐵鏃或骨鏃所有無與擔耳朱崖同倭地温暖冬夏食生菜皆徒跣有屋室父母兄弟臥息異處以朱丹塗其身體如中國用粉也食飲用籩豆手食
G’
其死有棺無槨封土作冢始死停喪十餘日當時不食肉喪主哭泣他人就歌舞飲酒已葬擧家詣水中澡浴以如練沐
H’
其行來渡海詣中國恒使一人不梳頭不去蟣蝨衣服垢汚不食肉不近婦人如喪人名之爲持衰若行者吉善共顧
I’
其生口財物若有疾病遭暴害便欲殺之謂其持衰
すべて会稽の倭水人が其の主格です。 *自古以來は「昔からずっと」と訳し、現在まで継続している様子となります。地勢、貫頭衣や持衰の風俗習慣はすべて九州の倭族にはあてはまりません。
驚くべきことに、男から衰まで687文字がすべて誤訳だったのです。
3)九州編 (「其」語の主格;真珠青玉を産出する地)
出真珠靑玉
J'
其山有丹
*倭、九州本島の倭人が主格になります。
K'
其木有枏杼豫樟楺櫪投橿烏號楓香
L'
其竹蓧簳桃支有薑橘椒蘘荷不知以爲滋味有獮猴黒雉
M'
其俗擧事行來有所云爲輒灼骨而卜以占吉凶先告所卜,其辭如令龜法視火坼占兆
N'
其會同坐起父子男女無別人性嗜酒
【注釈:魏略曰其俗不知正歳四節但計春耕秋収為年紀】
見大人所敬但摶手以當跪拝
O'
其人壽考或百年或八九十年
P'
其俗國大人皆四五婦下戸或二三婦婦人不淫不妬忌不盗竊少諍訟
Q'
其犯法輕者没
其妻子重者滅
其門戸及宗族尊卑各有差序足相臣服,収租賦有邸閣國國有市交易有無使大倭監之自女王國以北特置一大率檢察諸國諸國畏憚之常治伊都國,於國中有如刺史,王遣使詣京都帶方郡諸韓國及郡使倭國皆臨津搜露,傳送文書賜遺之物詣女王不得差錯,下戸與大人相逢道路逡巡入草,傳辭説事或蹲或跪兩手據地爲之恭敬對應聲曰噫比如然諾
R'
其國本亦以男子爲王住七八十年,
JからRまで、ここで其が連続しています。其の主格は倭国ではありません。女王国以て北の九州にある諸国です。丹と青玉を産出する国です。
したがって、倭国大乱が七、八十年続いたという通説は誤りで、王の文字は遣使する伊都国の王とみなせます。「伊都国は男子を王として七、八十年続いていた」、と訳します。帯方郡使が女王国に駐在して国邑群を監察統治しています。女王国の下に伊都国が従属していたのです。遣使するということは下位の者が遣使させられるのですから、郡および倭國に従属する国でなければなりません。女王国は郡使のいる都護ですから、京都と帯方郡および倭國に貢献するとはいいません。倭國が大卒をおいて監督している関係からは、伊都国しかないのです。
4)倭国編Ⅰ(主格=倭国)
Q'
倭國亂相攻伐歷年乃共立一女子爲,王名曰卑彌呼事鬼道能惑衆,年已長大無夫婿有男弟佐治國自爲王,以來少有見者,以婢千人自侍,唯有男子一人給飲食傳辭出入居處宮室,樓觀城柵嚴設常有人持兵守衞
*倭国の状態について書かれます。中国からみて自称であるところの男王が卑弥呼になりかわっています。年を取った卑弥呼を見かける者は少なくなっていたのです。
5)九州外編(「其」の語および「又」語の主格=女王国東の地点=九州の東北海岸)
女王國東渡海千餘里復有,國皆倭種
又有侏儒國有,其南人長三四尺去女王四千餘里
又有裸國黒齒國復在,其東南船行一年可至,參問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周旋可五千餘里
*九州東北海岸から放射状に海上の島嶼の国々が書かれます。
*下線を引いた去女王四千餘里のうち、女王は女王國の誤りと考えます。國を落としたのは転写を繰り返すうちに起きた脱字と思われます。ここでの女王は又侏儒国有りとあり、又字によって、女王国東渡海と主格を共有します。ですから、女王国を去ること四千餘里と読解すべきです。国の一文字が脱字していると見極めるには又の字が主格を共有しているという法則からわかるのです。
6-1)倭国編Ⅱ以下
6-1)「其」語の主格=年号):景初。
景初二年六月倭女王遣大夫難升米等詣郡求詣天子朝献太守劉夏遣吏將送詣京都
其年十二月,詔書報"倭女王"曰制詔"親魏倭王卑彌呼","帶方太守劉夏"遣使送汝"大夫難升米次使都市牛利"奉,汝所獻男生口四人女生口六人,班布二匹二丈,以到汝所在踰遠乃遣使貢獻是汝之忠孝我甚哀汝,今以汝爲"親魏倭王"假,金印紫綬装封付帶方太守假授,汝其綏撫種人勉爲孝順汝來使難升米牛利渉遠道路勤勞,今以難升米爲率善中郎將牛利爲率善校尉假銀印靑綬引見勞賜遣還今以絳地交龍錦五匹, 絳地縐粟罽十張,蒨絳五十匹,紺青五十匹,荅汝所獻貢直,又特賜汝紺地句文錦三匹,細班華罽五張.白絹五十匹,金八兩,五尺刀二口,銅鏡百枚,真珠鈆丹各五十斤,皆裝封付難升米牛利還到録受悉可以示汝國中人使知國家哀汝故鄭重賜汝好物也
*ここからは年号が冒頭に書かれ、紀年体ではなく、めずらしい年表式の記述になります。以下、すべて、雒陽で記録された事柄が書かれます。倭国の朝貢について、みな魏の朝廷書記官が記したものです。すべて倭国が貢献してきたときの記録ですから、すべての年次項は倭国からの使者が洛陽に詣でたということが大前提です。倭国は九州の諸国の海外にあります。
6-2)「其」語の主格:正始
正始元年"太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉,詔書印綬詣倭國拝假,倭王并齎詔賜,金帛錦,罽刀,鏡釆物,倭王因使上表荅謝詔恩
其四年倭王復遣使"大夫伊聲耆掖邪狗"等八人上獻生口,倭錦絳靑 縑緜衣,帛布,丹木𤝔短弓,矢掖邪狗等壹拝"率善中郎將"印綬
正始4年(243年)、[魏帝曹芳が元服した。]倭王は復(ふたた)び大夫伊聲耆、掖邪狗ら八名を洛陽に奉賀に詣でさせ、生口(高句麗の捕虜)、を献上し、倭錦絳靑、縑緜衣帛布、丹木のゆみつかを持つ短弓と矢を壹拝(とはい)した。掖邪狗らは率善中郎將に徐され印綬を与えられた。
其六年詔賜"倭難升米"黄幢付郡假授
其八年"太守王頎"到官,倭女王卑彌呼與狗奴國男王卑彌弓呼素不和,遣倭載斯烏越等詣郡説相攻撃状,遣"塞曹掾史張政"等因齎詔書黄幢拝假,難升米爲檄告喩之,卑彌呼以死大作冢徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人,更立男王國中不服,更相誅殺當時殺千餘人,復立"卑彌呼宗女壹與"年十三爲王,國中遂定,政等以檄告喩壹與,壹與遣"倭大夫率善中郎將掖邪狗"等二十人送政等還,因詣臺獻上男女生口三十人,貢白珠五千孔 靑大句珠二枚,異丈親錦二十匹
*正始元年、太守弓遵が配下の建忠校尉に命じて倭国を洛陽での改元朝賀に奉じさせます。奉の後ろで区切りを入れて解読します。梯儁(ていしゅん)等が(日本の地)に来たというのはとんでもない真逆の誤訳です。
用語:奉賀致禮 《後漢書》
[《列傳》
《桓榮丁鴻列傳》
11 打開字典顯示相似段落 桓榮丁鴻... :
永平十五年,入授皇太子經,遷越騎校尉,詔敕太子、諸王各奉賀致禮。
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