『後漢書』巻八五列伝・東夷傳・倭は、尚古主義的な正史の記述をそのまま踏襲している部分が少ない独自性のある史書です。後漢書倭伝は「魏志倭人伝の修正要約、先行後漢書と思われる史料の要約、漢書からの引用、三國志呉書や史記の整理」という要素で構成されています。言い方を変えれば、范曄が編集を加えて要約しているといえるのです。本紀十巻・列伝八十巻は、劉宋時代、范曄が撰したもの。宋の文帝元嘉元年(424)宣城太守に左遷され「後漢書」の編修にとりかかるが、謀反を告発されて死刑となります。獄にあって予定の十志が編めず、現後漢書の志三十巻は晋の司馬彪の「続漢書」によって、また本紀十二巻と列伝八十八巻は、唐の章懐太子の註によって補われました。後漢書は「三国志」よりも後に編まれているため倭国に関する条は、三国志を参考にした形跡が見られます。今日でいえば、類書、または、三國志のダイジェスト版といえるのかもしれません。三國志魏志と異なる初出項目は13項目、また、魏志とは全文にわたってその表現を変えています。作者自身が推測して解釈した新説の研究書のような性格をもっています。ですから、范曄の私見が多いのです。後漢書・卷八十八·西域傳第七十八
► 卷八十九·南匈奴列傳第七十九 後漢書の西域伝にあたる部分ですが、距離を測るうえで必要な【至+距離】の構文が、なんと、一つしかありません。漢書地理志とは大違いです。このことは、けっこう重いのです。そのプロセスで范曄が里数と方位の表現をオミットしているのです。後漢書では距離に苦しんでいるように思えます。あまり数式にこだわらない、というか、算術をしていないのです。どうやら理学の素養がなかったようです。ですから、後漢書の里数は信用してはならにのです。あなたはどう思われますか。
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范曄(はんよう : 東晋の安帝隆安二年(398)の生まれ。元嘉23年(445
)死刑。→wiki
*武帝(ぶてい : 劉徹。(前141~前87の間在位)前漢第七代の王。東夷・南蛮・西南蛮・匈奴を征服。
*光武帝(こうぶてい: 劉秀。前6年うまれ。(25年即位、57年没)
*安帝(あんてい : 劉祐。生年不明。(106年即位、125年没) 永初元年(107年)に倭国王と接見。
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班 固(はん こ、32年(建武8年) - 92年(永元4年))は、中国後漢初期の歴史家・文学者。字は孟堅。父は班彪。班超・班昭の兄。班勇(中国語版)の伯父。『漢書』の編纂者として一般に知られるが、文学者としても「両都賦」などで名高い。
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つぎに、全文を紹介しますが、赤くマーキングしてあるところをごらんください。
後漢書 倭伝 (南朝宋)范曄著(424頃)
倭在韓東南大海中依山㠀為居凡百餘國自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也)楽浪郡徼去其國萬二千里其西北界狗邪韓國七千餘里其地大較在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近故其法俗多同土宜禾稲麻紵蠶桑知織績為縑布出白珠青玉其山有丹土氣温腝冬夏生菜茹無牛馬虎豹羊鵲其兵有矛楯木弓矢或以骨為鏃男子皆黥面文身以其文左右大小別尊卑之差其男衣皆横幅結束相連女人被髪屈紒衣如單被貫頭而著之並以丹朱坋身如中國之用紛也有城柵屋室父母兄弟異處唯會同男女無別飲食以手而用籩豆俗皆徒跣以蹲踞為恭敬人性嗜酒壽考至百餘歳者甚衆國多女子大人皆有四五妻其餘或兩或三女人不淫不妒又俗不盗竊少爭訟犯法者没其妻子重者滅其門族其死停喪十餘日家人哭泣不進酒食而等類就歌舞為楽灼骨以卜用決吉凶行來度海令一人不櫛沐不食肉不近婦人名曰持衰若在塗吉利則雇以財物如病疾遭害以為持衰不謹便共殺之建武中元二年(57)倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬安帝永初元年(107)倭國王帥升等獻生口百六十人願請見
桓靈間(146-189)倭國大亂更相攻伐歴年無主有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆於是共立為王侍婢千人少有見者唯有男子一人給飲食傳辭語居處宮室樓觀城柵皆持兵守衛法俗厳峻自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王自女王國南四千餘里至侏儒國人長三四尺自侏儒國東南行舩一年至裸國黒齒國使驛所傳極於此矣會稽海外有東鯷人分為二十餘國又有夷洲及澶洲傳言秦始皇遣方士徐福将童男女數千人入海求蓬萊神仙不得徐福畏誅不敢還遂止此洲丗丗相承有數萬家人民時至會稽市會稽東冶縣人有入海行遭風流移至澶洲者所在絶遠不可往來
上の、全文のうち、赤くマーキングした部分がこれから解説していくところです。
抽出すると、「自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王」・・・この部分です。
この中には、狗奴國という文字になっていますね。魏略・御覧魏志・魏志倭人伝は狗奴國と書かれています。拘と狗と漢字が違いますが、後漢書が文字を変えたのですが、ここでは同じクナコクとみなして先に進みます。つぎに、魏略・御覧魏志・三國志、この三書と後漢書を対照して見ましょう。
魏略 |
女王之南又有狗奴國女男子為王
(*後ろから五列目の女字は以字が正しい。写本の転写ミス) |
御覧魏志 |
女王之南又有狗奴國男子為王 |
----------- |
--------------------------------------------------- |
A列:魏志 |
其南有狗奴國男子王為其官有狗古智卑狗不属女王 |
B列:魏志 |
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
|
👇下C列=+👆A列赤+👆B列緑 |
C列:後漢書 |
自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王 |
魏志A列の赤い文字列と魏志B列の緑の文字列が後漢書C列に合成されています。確認してください。
自至構文に、あたかもジグソーパズルのように、ぴったりハメ込まれています。後漢書が魏志倭人伝をあまり参考にしていないというどころか、パクりと改ざんをしているのですから、驚きです。ちなみに、魏志のA列とB列は、表ではつながって見えますが、違うんです。そうとう離れたところに書かれているのですよ。
魏志Aの赤くマークした文字列と、魏志Bの青くマークし文字列を切り取って、下の後漢書の一行文字列に、パズルのようにはめ込んでいることを見抜いてください。パズルのようだというのは、一字一句違っていないからです。こういうのを文字列の結合といいます。
これが後漢書が盗作だと断定できる証拠でもあり、その結果、まったく意味をなさない珍説になってしまっているのです。例えていうなら、現場を知らないキャリアが書き上げた作文に似ています。あなた、この重要ポイントが分かりますか?
後漢書は系統的には魏略と御覧魏志のグループに入ると言われています。魏志を参考にしていないと言われていますが、上の対照表をみますと、面白いですねえ。
後漢書は魏志の2つの文章の一部の文字列を切り張りして一文にしてしまったのです。これは二文を一文に合成する手法です。わたしが、後漢書が傑作だというは、皮肉なのです。
後漢書は、どうも女王国と女王の関係、伊都国と邪馬台国の地理的関係をしっかりと理解していないようなのです。その証拠が魏略、太平御覧、魏志が狗奴國を南としているのに、後漢書だけ拘奴国を東にしてしまっています。邪馬台国畿内説はこの東こそが正しいと曲解しているのですが、畿内説に有利だからです。そこで、都合のいいところだけ後漢書のレトリックを巧みにずらして邪馬台国論を展開することがいかに危険か、その間違いを認めません。范曄は地理的基礎知識をバックボーンにもっていない人物なのです。
そこで、其南と女王南にたいして女王国の違いをよりはっきりさせましょう。
具体的には魏略は日出國=倭地にある首都を「女国」としています。魏志倭人伝は「女国}を「女王国」と置き換えています。
魏略が女王とだけ書くところは、場所に置き換えると倭國(帯方の東)になります。女王南というのは倭國南と同義です。すなわち、女王とだけ記すばあいは、「女王の為政地」、あるいは、「女王の居る所」と定義できます。女王国と女國は倭國女王の支配するところで、倭地=九州の島嶼にあります。「女王」は魏志女王は、「倭國(帯方郡とは馬で3日ほど離れている。)」に置き換えることができます。
一、『魏志倭人伝』:「自郡至女王國萬二千餘里」
二、 『魏略』___:「自帯方至女國万二千余里」
三、 『御覧魏志』_:「自帯方至女国万二千余里」
郡は帯方だということがあきらかです。この郡は魏略では帯方、御覧魏志でも帯方と記されています。郡が帯方郡であることに疑問はありませんが、なんと、女王国は女國という別称になっています。女王国=女国ですから、女王国にQueenという意味はあまり重要視できないのです。
狗奴国はいったいどこの南なのか
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魏略:女王之南又有狗奴國女男子為王; 帯方の南にまた狗奴国があり、男子を王となしている。 |
*女王=高句麗から3000里東南、帯方郡治 の地 から東、日本海側ハムギャン南道
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魏志A列:其南有狗奴國男子王為其官有狗古智卑狗不属女王; 女王倭国の南に狗奴国があり、男子を王と為し、狗古智卑狗といい、官名をもっていて、帯方には服属していない。 |
用語の定義:
*女王=女王のいる所=倭国
女王国=大分県大分市
*其=女王=倭国のこと
*邪馬台国=倭国の支配するところ=曹魏が郡を通して間接支配する領域30か国のうちの一つの国。
魏志倭人伝のなかに、女王国は五か所、女王は八か所つかわれています。この定義をしっかりと踏まえておきましょう。郡と倭国はロケーションとしてほぼ同じ帯方にあるということで、倭国が魏の郡治所と同じ機関ということではありません。
では、後漢書のこの一文を精査してみましょう。
まず、自女王國の自ですが、この構文は従でなければきちんとした文になりませんね。
自を使うなら、「自女王國 至 拘奴國 (其國)東度海千餘里」としないと、ならないでしょう。
でなければ、自を従に置き換えて、「従女王國 東度海千餘里 至 狗奴國」と書き換えなければ、文法的におかしな文になります。
だから、
陳寿と范曄は・・・という論議はさておいて、先に進みます。
「女王國
東渡海千餘里復有國
皆倭種又侏儒国在東南・・・」と、其南有
拘奴國男子王為其官有狗古智卑狗
不属女王とあるる2行の文章を分解して、後漢書は魏略・御覧魏志からパクッった結果、南を東に変えてしまったのです。そこで魏志でいう女王国東を渡海して行きつく先であるはずの倭種の国を、なんと拘奴国にしてしまったのですね。
魏志では倭種の国は四国・瀬戸内になります。倭種の国があると書いているだけで狗奴国だとは書いていません。
このあたりはちょっと上級者むけで難しいですが、これぐらいにして、そろそろ感想を書きます。
なんと、大胆な作文なんでしょう。見え透いたウソですね。私のような人間に、見破られるほどですから、范曄はいかにチンプンカンプンか分かりますよね。盗作にしても、その出来具合は最低です。
にも拘わらず、「邪馬台国の全解明」の著者、孫栄健は「そこでわたしは『後漢書』説に従って、この拘奴国を考えてみる。」とし、狗奴国を瀬戸内海を東進した近畿方面にあると書いています。具体的な論拠を示さず、彼は後漢書を擁護して説を補強します。「『後漢書』は、魏志の筆法による叙述をしっかりと受け止め、応戦しているのだろう。その結果、狗奴国は、女王国の東の海を渡った地方と読み取ったのだろう。『魏志』解説に関する彼我(ひが)の能力の差を考えるとき、私は、黙って范曄に従わざるを得ない。餅は餅屋なのだ。」・・・范曄が読み取ったのだろうという文筆家の巧みなレトリック(論点ずらし)には恐れ入りますが、「餅は餅屋」のほかに「蛇使いは蛇で死ぬ」、「弘法も筆の誤り」という、ことわざもあるのですよ。
また、范曄は「自女王國南四千餘里至侏儒國人長三四尺自侏儒國東南行舩一年至裸國黒齒國」とし、魏志倭人伝では女王國の東に渡海して千里余里に国があり、みな倭種であるとして、そこ千里ほどでしかありませんから四国・山口県西部地域になります。つぎに出発点を同じくして南に四千里に侏儒國とするので、侏儒國は放射状に展開図が描けるのですが、范曄は、東をすっぽぬかして、倭種の国々を省略して、いきなり南の侏儒國を書きます。侏儒國を女王國から南四千里としてしまいました。ここは、おかしいですね。范曄をはじめとして他説は「又」という字義を精査していません。又又(またまた)構文を無視して、ふたたびぐらいの接続詞にしてます。岩元学説がこの又字構文をしっかり押さえています。岩元学説「邪馬台国への道」岩元正昭著(2011発行)
三国志魏志倭人伝は、女王國の東にある海岸を起点に、又又構文で侏儒国・裸国・黒歯國につなぎます。ここは、共通の主格は「女王國の東」の地点(九州東北海岸)なのです。魏略・御覧魏志は狗奴国を女王の南としていますから、後漢書は魏略・御覧魏志では狗奴国にあるはずが、侏儒國にしてしまったのですね。魏志もまた狗奴国を「女王國」の南とはいっていないのです。「女王」の南としているのですよ。これは春秋の筆法なるレトリックでしょうか。修辞法(レトリック)が書かないことによって、真意を伝えるのであれば、こういうところに目をつけなければなりませんよ。
どうしてこんなことが起きるのでしょうか?魏略・御覧魏志・後漢書そろって、「
女王之南又有狗奴國」と書くのですから、類書に従えば、女王の南としているのです。どんな学者も・・・陳寿の其南は女王國と安易に誤訳して其の南を女王国の南だろうと信じています。まずいことに、さらに邪馬台国と膠着してしまうのです。ですから、邪馬台国の比定地の南に狗奴国を想定するのです。その方が、コンセンサスが得やすいのでしょう。学者さんとしては無難ですからね。繰り返しますが女王=女王国ではありません。
魏略・御覧魏志は女王国の定義が、あいまいのままに読者に解釈を投げてしまったとしか考えられません。あるいは、後に写本の改訂がなされたのでしょうか。魏略・御覧魏志・後漢書も後世に、仮に唐代に加筆訂正が加えられている可能性はあります。肯定も否定もできませんから、可能性の話は、聞く耳もたずでも、結構ですが、こう言っても、多勢に無勢、わたしの説が異端視されるのは当然でしょうが、ここはどっこいそうは問屋が卸さないというのが黒澤のぐちなのです。
後漢書倭伝が魏志など低本をあんちょこにして書き上げた、かなり、いいかげんな書だということが分かりました。これは、データの信ぴょう性にかかわります。このさい、徹底的に後漢書倭伝は資料批判したほうがよさそうですね。「~は~だと思う。」といっただけではディベートになりません。論をくつがえすにはデータが存在しなければなりません。しかし、データの信ぴょう性が疑わしいようであれば、疑わしくないということを主張しなければなりませんよね。
1)狗奴国を拘奴国に変えています。さあ、狗を拘に変えることにたいして理由はないでしょうが、文字を変えていることは否定のしようがありません。後世の写本のミスでしょうか?
2)邪馬壹國を邪馬臺國に変えています。故意に壹を臺に変えたのはやっぱり范曄が初めてだと考えた方がよさそうです。
文字を変えるということは、データーの改竄に等しいのです。数字だったら分かり易いですよ。請求書の数字の3を8に直すようなものです。なぜなら、范曄ならやらかしかねません。
魏志では、「對馬國其大官曰卑狗副曰卑奴母離」とあるように其の直前にかかりにあたる対象語があります。「対馬國その大官は・・・」のようになりますから、すんなりと其のとは対馬國だと読み下せます。一つの文節に2つの其の字があるばあい、2番目の其のは直前のかかりを取ります。
そこで、魏志の「其南有狗奴國」の一節では、対象となる語が省略されていると考えられます。
魏略と御覧魏志は陳寿の魏志よりも先行した文献で、陳寿がそれを読んで引用したりトレースしたところが多いと言われています。しかし、では、魏志はなぜ、女王國其南狗奴国と書かなかったのでしょうか。わたしは、陳寿があえて”其國”の主語を代名詞にし、省略したのだと思います。「文を錯(たが)ふるを以て義を見し、一字を以て褒貶(ほうへん)を為す」という陳寿の春秋の筆法を考えれば、前に書かれた正史の文字を変えたところは特に真剣に考えるべきです。
いま、私たちにできることは、要するに、「□□□其南有狗奴國」と、□□□を補って読めばいいのです。
では、□□□に代入できる地点がクウェスチョンになります。
答えを先にかきましょう。□□女王」だけでもいいのですが、「倭国」です。
倭国は中国が認識している倭国で世世貢献を欠かさなかった東扶余です。高句麗の東南、百済の北にありました。郡より東、日本海側にあったのです。
全文の構成を思い出してください。親ブロックの中の最後の一つ前の行に、「□□□其南有狗奴國」が書かれています。
親ブロックの最後の行は、「自郡至女王國萬二千餘里」です。「自郡至女王國萬二千餘里」が親ブロックのグローバルな条件式なのです。郡からのルートと女王(倭国)からのルートの2つのルートがに在らねばなりません。それは、構文の論理的な解釈を無視してはいけませんね。郡からのコースにはみな道里(里数または時間)が記述されています。
郡から女王國まで・・・郡が始点で、終点は女王國です。女王國は郡使の為政地目的地なのです。ですから、「自郡至女王國萬二千餘里」からは、”女王國”を領域と解釈することはできません。
郡から女王國の間が領域なのです。
もし、あなたが、□□□に女王國をいれたら、狗奴国はその南限、奴国を越えて、さらに南にあるということになります。先ほどの終点女王国を飛び越してしまいます。そこで、多数の説は、狗奴国が九州筑紫平野の南部、熊襲になるのですね。熊本や宮崎県の方面です。これが、あなた大方の通説なのです。訓読だけを読むと、正しいような感じがしますよね。しかし、構造の中で考えると、それがおかしいことに気づくのです。
魏略・御覧魏志は「女王」を、「女王が居る所」と定義したに違いありません。それでは女王が居る所は倭国であって、女王國ではありません。倭国と女王國は一つだとみなせません。女王国は洛陽に何度も遣使朝獻していません。魏志の景初2年から正始8年までの朝貢は洛陽で記録されていて、主体は倭国です。こうして、倭国と女王国のロケーションは700km以上差があることに気づきませんか。郡と倭国、および郡と女王国のそれぞれのロケーションをしっかり踏まえないと解は無限ループに陥ってしまいます。倭国は固有名詞です。女王国だけ抽象名詞にできません。国名はすべて固有名詞と見なさなければなりません。「例:余傍國」
後漢書では、「女王國」という単語は、「自女王國東度海千餘里至拘奴國」が初出なのです。その前の文節には、「女王國」という単語は一つもありません。ですから、自女王國と、自を付けたのは、魏略・御覧魏志のように、其のとか、又とかいう代名詞を使うことができないので、必要があってつけたのです。ご丁寧に自を添えたわけではありません。
これは、御覧魏志を”あんちょこ”にしていたのではなく、魏志倭人伝が書き換えられた可能性が高いのですよ。魏略・御覧魏志に関して言えば、女王国をあいまいに両立てして使用しているようです。地点としての固有名詞なのか、領域を指す名詞なのか区別していないのです。その上をいく間違いを犯しているのが後漢書です。後漢書は完全に拘奴國を女王国の”東”と記し、かつ、一千里とし、魏志とは完全に異なる地域を拘奴国にしてしまっています。これが邪馬壹國畿内説論者の支持を得て、後漢書が流行したです。
倭人伝の系統は類書としては9史あるのですが、魏志倭人伝の陳寿は朝貢記録だけでなく、伊都国に通う”郡使”の日記や報告書などを精査したといえないでしょうか。陳寿の書には魏略が節略しているところを埋めた地名の初出項目が多いのです。魏志東夷傳序文には「この国を選んで、わが国と同じことやら違うことなど、前史が備えていなかったところにつないで補うものとする」、とあり、陳寿が東夷の倭地(日の出るところの異面の人がいる所)について、前史の書かなかったことを付け加えた(加筆)のはそのためでしょう。(魏志倭人伝東夷傳:序文の解説はアプローチ編TAB)
御覧魏志が「邪馬台国・・・其の属小国有二十一皆統之」・・・これは三国志魏志を下敷きにして書いているのです。なぜなら、魏志倭人伝と違う初出なり改編が正しければバレないのですが、間違ってことを書いているのです。 魏志倭人伝では、余傍國は20か国しか初出していないのです。また、邪馬台国が支配しているとは全く書いていません。三国志魏志では女王國にすべての王が統属していると書いています。つまり、女王國=邪馬台国だと御覧魏志は踏んで書いたことになります。そこで、20か国の小国も邪馬台国に服属しているとしてしまったのです。
翰苑(かんえん)は、唐の時代に張楚金によって書かれた類書ですが、卑彌呼を太伯の苗といっています。しかし、魏略も御覧魏志も同じことを書いています。「太伯之後」となっています。魏略も御覧魏志は魏志倭人伝より少し古く、魏志倭人伝の底本だといわれているのです。しかし、ここが問題です。魏略が太伯の後といっているのは、わたしは会稽の倭人のことに違いないと思われます。魏略は、「自帯方至女國萬二千里其俗男子皆點而文。聞其舊語自謂太伯後」と書くものですから、女國の男子が太伯の後裔だと自称していると解釈できてしまうのです。自称太伯後は、倭国の使いが大夫と自称していることにつながるのです。翰苑は太伯の後を卑彌呼が太伯の苗と書き直したのです。翰苑は偽作だと疑っていい書です。なぜなら、「邪馬台国に鎮し、もって都を建つ、職を分かち官を命じ女王に統ぜられて部に列せしむ、卑弥は妖惑にして翻って群情に叶う、壹與は幼歯にして方に衆望に諧う、文身黥面、なを太伯の苗と称す」・・・ここは、現在の通説、「邪馬台国の卑弥呼」と全く同じバグです。バグの原本、初出本なのですね。この部分ですが、魏略に初出しているなら、なぜ、魏志倭人伝には太伯の文字がないのでしょうか。さあ、やっぱり陳寿の春秋の筆法なのでしょうかね。前の正史と矛盾させて、真を語るためです。
こうして、「太伯之後」については、魏略が後世、それも唐代に木版製作が可能になってから、改編されているのではないかと、わたしは疑うのです。梁書、晋書、北史なども「太伯之後」をみな倣っています。随書だけは例外ですよ。
こうして、原本の成立した時期が古くても、データの出所が新しいのです。呉の太伯の話は、卑弥呼Xファイルに詳しく書いていますが、わたしも魏志倭人伝にないこの「太伯の後」には、翰苑を真に一杯食わされた、というのがわたしの感想です。
後漢書の矛盾
一、会稽の倭(南倭)と韓東南大海中の倭を一つにしています。出白珠、青玉。其山有丹土は韓東南大海中の倭の風土です。「持衰」の風習のあるのは南倭、会稽の倭水人です。
一、韓傳では月支国を目支国と誤記しています。
一、「建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也。光武賜以印綬。安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。」
倭国王と扶余王とを混同しています。安帝永初元年(107年)の朝獻は扶余王の誤りです。
建武中元二年(57年)の奉賀朝貢は大夫の一語を含みますからは南倭に違いありません。東南大海中の倭には「自古以來,其使詣中國,皆自稱大夫。」という形容は当たりません。「古来、其の使いが中国に詣でるとき、みな大夫と自称している」、まず、昔から中国に詣でていたという国に楽浪大海中の倭にはあてはまりませんし、そもそも大夫とは周の衣冠制度です。楽浪大海中の倭に内官制が敷かれていたとは思えません。この奉賀朝獻とは光武帝が泰山で封禅(ほうぜん)の儀を執り行ったことの祝いの祝賀です。光武帝は封禅を行った翌年なくなりました。
一、安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見・・・倭国王順帝永和元年(136年)の誤りです。
《後漢書 夫餘傳》 「建武中、(25年 - 56年)《正しくは建武中元(57年)のこと》東夷の諸国はみな雒陽に来て獻見した。(建武)二十五年(49年)に夫餘王は使いを派遣して朝貢してきた。光武帝はこれに厚く答えそれに報いた。ここにおいて毎年朝貢するようになった。安帝永初五年(111年)にいたって扶余王始將は步騎七八千人で楽浪郡を略取した。郡の官僚や衆人を殺傷したのち、再び後漢に帰属した。永寧元年(120年),扶余王はの嗣子尉仇台を乃遣嗣子尉仇台が雒陽の印闕(楼閣)に貢獻してきた。天子は尉仇台に印綬金綵を与えた。順帝永和元年(136年)、尉仇台は夫餘王として雒陽に来朝した。順帝は舞踊の宴を開かせた。{*黃門鼓吹《舞踊劇》、角抵戲《秦の東海黃公》を主題とした古典舞踊)
桓帝劉志の代、延熹四年(161年),使者を派し朝賀貢獻した。永康元年(167年),王夫台將は二萬餘人をもって玄菟郡を寇鈔(略奪)した。玄菟太守公孫琙(ユ)はこれを擊破し、斬首千餘級という戦果をあげた。靈帝熹平三年(174年)にいたり、ふたたび奉章貢獻をした。夫餘はもともと玄菟郡に属していた。獻帝時(189年-220年),其王は遼東郡に属することを願い出た。(夫餘が遼東に移動したのは200年頃となる。これは公孫度が遼東郡を分割し、遼西中遼郡を置いたことと期を同じくする。まず、公孫度に服属したこと、その場所は遼西中遼郡に移動し尉仇台はそこで倭国王と号したことになろう。尉仇台が強勢となった契機である。)
後漢書が倭国の極南界と書いたわけ。
先秦兩漢 -> 史書 -> 後漢書 -> 列傳 -> 東夷列傳
《東夷列傳》
29 打開字典顯示相似段落 東夷列傳:
「建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也,光武賜以印綬。安帝永初元年,倭國王帥升等獻生口百六十人,願請見。」
現代語訳;「建武中元二年(57年)、倭奴國が朝賀式典((封禅の儀とそれに伴う改元)に奉貢してきた。(雒陽に詣でた)使者は大夫と自称していた。この倭奴国は倭国の極南にある。倭国は安帝永初元年(107年)に倭国王の師升らが捕虜160人を献上し謁見を願い出た。
結論をいえば、後漢書のこの一文は倭奴国奉貢朝賀は倭国奉貢朝賀でなければなりません。そして、倭國之極南界は倭奴国倭國之極南界としなければなりません。要するに奉貢朝賀したのが倭国で、倭国の極南海にあるのが倭奴国です。范曄はこんな初歩的なミスをしているのですよ。
さて、建武中元(けんぶちゅうげん)は、後漢の光武帝劉秀の治世に行われた2番目の元号。56年 - 57年。劉秀が建武中元元年:2月、泰山で封禅の儀をおこなう。4月、改元して建武32年を建武中元元年とする。光武帝の晩年の62歳になってやっと封禅の儀を行ったことになります。ところが光武帝は建武中元2年2月5日に63歳で没しています。倭国が朝賀したのはこの泰山での封禅の儀をおこなったことを契機とした改元祝賀奉献のために雒陽に詣でたのです。
一方、この倭奴国は倭国から遠く南の端てにあるのです。倭国の朝獻のもう一つ、安帝永初(えいしょ)は、後漢の安帝劉祜の治世に行われた最初の元号。107年
- 113年。となり、なんと107年になります。倭国こと夫餘王の師升が遼東を冠略した高句麗と戦って獲た慮兵160人を献上したというのが事実です。倭国王師升とは百濟始祖王の尉仇台の前王になります。こうして、倭奴国と倭国は別々の国で、互いに遠く隔絶していた国だった判明します。
生口:捕虜のこと、詳細はアプローチの章をご覧ください。
後漢書に書かれた「建武中元二年,倭奴國奉貢朝賀」はどんな祝い事だったのか後漢書の裏をとってみると・・・
建武中元(けんぶちゅうげん)は、後漢の光武帝劉秀の治世に行われた2番目の元号。56年 - 57年。『後漢書』の光武帝紀では中元となっているが、祭祀志・東夷伝(倭伝)では「建武中元」となっており、「中元」は「建武中元」の誤写か、省略だと考えられている。泰山にのぼり、封禅の儀を執り行い、改元したのが建武中元なのです。
裸國黒齒國の出発点も誤解する范曄
自女王國南四千餘里至侏儒國人長三四尺自侏儒國東南行舩一年至裸國黒齒國使驛所傳極於此矣
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上記は後漢書です。下の魏志倭人伝と比べると、まず、又の字がありません。これは女王国から放射状に記した陳寿の意図を改ざんしています。
裸國黒歯國は、侏儒国からではありません。魏志倭人伝で正しくは、女王国からでなければなりません。
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女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
又有侏儒國在其南人長三四尺去女王四千餘
里又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至
參問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周旋可
五千餘里
このように論じるに足らないほどひどいのです。范曄は地理的な知識の素養がまったくないと言っていいでしょう。
一、建武32年(56年)は4月に改元され、建武中元元年となった。
二、建武中元(けんぶちゅうげん)の出来事
元年
2月:泰山で封禅の儀を行う。
4月:改元して建武32年を建武中元元年とする。
2年
1月:倭奴国王の使者が来朝献見。倭奴国王印(印綬)を授ける?
2月:光武帝崩御。明帝劉荘が即位。
以上、Wikipedia年号による検索
先秦兩漢 -> 史書 -> 後漢書 -> 紀 -> 光武帝紀下
《光武帝紀下》
顯示相似段落 光武帝紀... :「中元元年春正月,東海王彊、沛王輔、楚王英、濟南王康、淮陽王延、趙王盱皆來朝。」来朝した六王が記されるだけだが、元年春正月とあるので、改元朝賀だと推測するしかない。
三、容齋隨筆/卷十一 (“燕昭漢光武之明”章节)
漢光武建武三十年,車駕東巡,群臣上言,即位三十年,宜封禪泰山。詔曰:「即位三十年,百姓怨氣滿腹,吾誰欺?欺天乎!何事汙七十二代之編錄!若郡縣遠遣吏上壽,盛稱虛美,必髡令屯田。」從此群臣不敢復言。後二年,上齋夜讀《河圖會昌符》,曰「赤劉之九,會命岱宗」。感此文,乃詔梁松等案索《河》、《雒》讖文言九世封
容斎随筆(ようさいずいひつ)は、宋代中国の洪邁の著作。淳熙7年(1180年)に婺州で公刊された。孝宗はその議論の内容が優れているので賞賛した。
容斎随では建武三十年宜封禪泰山としている。
後漢書では拘奴國がなぜ東渡海1000余里としたのか?
魏志倭人伝の里程論では、一里の単位が争点になり、ずいぶんと説が割れています。いわゆる長里とか短里とかの違いですが、その詳しい説明はパスして、後漢書ではいったい一里をどうみているのか、探ってみます。
後漢書は一貫して魏尺によるいわゆる中国里(長里)を採用しているようです。魏の一里は434.2メートルです。
1000余里とは、434,2キロメートルと少し多い距離となります。これは後漢書だけのカテゴリーです。
自女王國東度海千餘里至拘奴國雖皆倭種而不屬女王が間違った作文であることはすでに解説しました。
どんなに、文章で書くよりも、地図で示すようが文の数十倍の情報を、見ただけで確認できるはずです。
後漢書の「自女王國
東度海千餘里至狗奴国」をもう一度読み直して、図版として地図化できません。
これは、狗奴国の記述の対照で違うのは、南と東です。范曄が最初に書いた通り、魏志倭人伝の二項目を合成してしまたとしか考えられませんね。南が東では、どうしようもありません。あべこべです。范曄は地図音痴で、まったく吟味していません。
さて、ダメだしをした後ですが、もうすこし范曄につきあってみます。
拘奴国が海を渡っていくと1000里です。魏の公里では434,2キロメートルですが、青い線は実距離430キロメートルなのです。 (これが直線距離だと147キロメートルぐらいしかありませんから、渡海といったばあい後漢書では、これを航路の距離としていることが分かります。)
里程論については、ここでは詳述しませんが、すべてGPSでの距離測定によって考え直す必要があります。 三国志は長里で書かれています。中国の領域は絶対里数で書くのが大方のルールだったのですが、中国の領域外、たとえば東夷伝や西域伝の里数は例外となります。(乞う:西域伝参照)
永井正範氏が、『邪馬臺国か? 邪馬壹国か?』 の論文の中で『後漢書』の改編部分を資料化しています。
とても役立つ資料です。
ⅰ.『三国志』の冒頭の【倭人】を、『後漢書』は【倭】にし、
ⅱ.『三国志』の【在帶方東南大海之中】を、『後漢書』は【在韓東南大海中】にし、
ⅲ.『三国志』の【使譯所通三十國】を、『後漢書』は【使驛通於漢者三十許國】とし、改ざん。
ⅳ.『三国志』で王の居る国は邪馬壹國、伊都国、拘奴国だけの処?、『後漢書』は【國皆稱王】とし、
ⅴ.『三国志』の【邪馬壹國】を、『後漢書』は【邪馬臺國】とし、
ⅵ.『三国志』の【會稽東治之東】を、『後漢書』は【會稽東冶之東】としています。
ⅰ.【建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。~光武賜以印綬】 〔これは別資料に拠っています〕
ⅱ.【安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見】 〔これも別資料に拠っています〕
ⅲ.【桓霊間、倭國大亂、更相攻伐、暦年無主。有一女子名曰卑彌呼。(以下略)】 〔この部分は、
『三国志』を改変したものです倭國乱れ・・・後漢書」は、女王国が男子を以て王となし7,80年経っていたの7,80年を乱れた年数と誤解して「倭国大乱」と書いています〕
2.次に、「後漢の年次を記した三記事」があります。(157 字、20%)
ⅰ.【建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。~光武賜以印綬】 〔これは別資料に拠っています〕
ⅱ.【安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見】 〔これも別資料に拠っています〕
ⅲ.【桓霊間、倭國大亂、更相攻伐、暦年無主。有一女子名曰卑彌呼。(以下略)】 〔この部分は、
『三国志』を改変したものです〕
3.最後に、「倭国の周辺国を記した二記事」があります。(187 字、23%)
ⅰ.【自女王國東~拘奴國。~朱儒國、~裸國・黒齒國~】 〔『三国志』を改変したものです〕(東となったため、拘奴国は女王の南のところ、ある説では拘奴国は四国・瀬戸内海方向にされてしまいました。)
ⅱ.【會稽海外有東鯷人~】 〔別資料に拠っています〕
『後漢書』倭伝はこのように簡便ですが混乱した構成になっています。
このうち、2 のⅰの【光武帝が印綬を賜った倭奴國の記事】(37 字)
2 のⅱの【後漢に朝貢した倭國王帥升の記事】(25 字)
3 のⅱの【會稽海外に有るという東鯷人と夷洲及澶洲の記事】(113 字)
の三記事(計 175 字、全体の 22%)は、『三国志』にありません。『三国志』以外に後漢代の資料が別に有って、その別資料に拠ったと見られます。倭國王帥升とは夫餘王のことです。
この三記事を除く残り 78%の記事は全て『三国志』に有り、范曄は別な資料によったとみられています。
改編部分 |
資料批判 |
ⅰ.『三国志』の冒頭の【倭人】を、『後漢書』は【倭】に |
倭人を倭地に変えた。 |
ⅱ.『三国志』の【在帶方東南大海之中】を、『後漢書』は【在韓東南大海中】に |
地理的な差異はさほどないが、帯方と韓はおよそ1000余里ほど離れている。「自女王國東度海千餘里至拘奴国」 |
ⅲ.『三国志』の【使譯所通三十國】を、『後漢書』は【朝鮮使驛通於漢者三十許國】と |
使を傳、譯を驛に変えたものでしょう。誤筆かどうか不明ですが、譯は通訳官でいいのです。朝鮮使驛の独自の解釈が加わっています。中国には古く駅伝制が秦のころからあり、およそ4kmごとに亭、12kmごとに驛、馬の中継地がありました。馬が少なかった日本に驛という馬の伝所があろうはずがありません。范曄は日本の実情には疎かった。范曄は、ずうずうしくも根拠なく大胆な想像で書いたのです。また朝鮮という国号は隋唐の代になって則天武后に決められた国号ですから、朝鮮の二文字は唐代に挿入改編した可能性があります。 |
ⅳ.『三国志』で王の居る国は邪馬壹國、伊都国、狗奴国だけのようだが、王は皆女王国に服属している。『後漢書』は【國皆稱王】 |
後漢書の解釈は正しい。 |
ⅴ.『三国志』の【邪馬壹國】を、『後漢書』は【邪馬臺國】と文字を変えた。 |
豆は供え物をのせる高坏(たかつき)のことで、土器のもの、銅製のもの、木製のものとありました。”と”、と発音します。壹は一と同義ではありません。器に蓋(ふた)があるのが壹、供物がのせられていれば豊になります。范曄は臺の文字に変えました。このため、tái、”たい”、と発音しなくてはならなくなりました。致命的な誤筆になるでしょう。「草書体で解く邪馬台国への道程」井上よしふみ著に詳しいのですが、壹は一と同義で、臺が正しいとしています。古田武彦が『「邪馬台国」はなかったー解読された倭人伝の謎ー』で、金石文字の壹と壹は似ていないことを指摘しています。 |
ⅵ.『三国志』の【會稽東治之東】を、『後漢書』は【會稽東冶之東】 |
会稽倭人と九州倭地の地理を混雑している結果、位置も独自解釈したものである。 |
ⅰ.【建武中元二年、倭奴國奉貢朝賀。~光武賜以印綬】 |
建武中元二年(57年)光武帝劉秀中元元年2月に封禅の儀を泰山で行ったので、朝賀への奉献はありうるが、建武中元二年の2月に崩御しているので1月にしか機会がない。倭国と号する国が成立していなかった。 |
ⅱ.安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見】(初出) |
安帝永初元年(107年)は永寧元年(120年)の誤り。太平御覧では扶余王始将の名がある。高句麗の遼東六県侵攻118-121年の際に獲た捕虜(生口)を貢献したのは夫餘王。扶余王を倭国王に誤解した間違い。 |
ⅲ.桓霊間、倭國大亂、更相攻伐、暦年無主。有一女子名曰卑彌呼。 |
桓霊(かんれい)の間 - 後漢の桓帝・霊帝のころ。すなわち147〜189年の間。後漢の桓帝・霊帝のころ(すなわち147〜189年の間)、倭国は大いに乱れて(小国が多数、分立していた?)、統一する王がいなかったと主張。まったくのでたらめ。 |
ⅰ.【自女王國東~拘奴國。~朱儒國、~裸國・黒齒國~】 |
魏志倭人伝から周辺国をまるでちがう地理に改変してしまった。 |
ⅱ.【會稽海外有東鯷人~】 |
魏志にない、新説・東鯷人を挿入。 |
なぜ會稽東冶の東が間違いなのか
ⅵ.『三国志』の【會稽東治之東】を、『後漢書』は【會稽東冶之東】としています。
「会稽東治之東」を、「會稽東冶之東」に後漢書は改編しました。治と冶が違っています。東冶(とうや)も後漢書が初出のようです。実際に、東冶県はあったようです。
「治」と「冶」。サンズイとニスイ、点一つしか違わないはないのですが、そこから想定される場所は大きく違います。東冶県は会稽東治より南北で約400キロメートルも離れています。(上図)さて、最近、会稽東治が項羽の出身地である会稽の下相城跡=江蘇省宿遷市宿城区【座標:33.564985,118.125252】の遺跡に比定する説も登場していますが、項羽が禹帝と関係しないという点で下相城跡と考えるのは無理があります。
そこで、中国でも、「東冶県は確認できるが、東治県というのはなかった」といい、『三国志』の治は冶の間違いだろう結論にいたったようです。まあ、この結論は、後漢書を支持していますね。これについては、会稽東は、女王國東と同じように解釈すべきです。会稽の東にある地点をさしますが、どちらも海につきあたります。会稽山の東には船山群島までのロケーションが想定されます。会稽東は場所ですから治を「治める」と読んでいくべきでしょう。場所+治+目的語となります。
治めるのは主語になるのは、倭の水人です。(倭水人=魏志)魚やアワビをとって生活する人々で、それらの衆が住む土地です。ここは脱字を想定します。會稽東□冶之東の□に、其を入れます。「倭水人は会稽の東、この東を治めている。」と、すんなり訳せます。夏王朝の初代皇帝、禹帝は姓を姒《sì》氏、名を文明といいました。文明の出身地ともいわれ、「大禹陵」は会稽山の北麓にあります。また、禹帝は治水に成功したあと、協力した諸侯たちをこの地に集めて協議をおこないました。禹、文明がこの地を統治することに合意してもらう会議だったので、「会(集める)」と、「稽(とどめる・かんがえる)」を合わせて会稽という地名ができたとい言い伝えられています。
すなわち、治水の土木工事を禹帝と一緒になしとげ、会議に習合したのは東夷族です。華北からみれば、会稽は東夷にあたります。夏后(夏王朝)は5代続きましたが一旦滅びました。第6代の帝”小康”(実際は禹帝から三世です)は夏王朝を中興した天子でした。その庶子の無餘がありました。この
無餘を会稽に封じ、禹祭をまもるよう命じました。どうして、東夷だとわかるのですか? 倭人伝では、小康の子が会稽に封しられ、断髪文身したということから、倭人の地であったことが魏志倭人伝からすでに明らかです。なぜ、東夷族が倭人なのかの答えはでています。夏の王子が、その地の人心を得るためだったのでしょう。なぜなら、会稽の東にいた倭人たちを治め、禹廟とその祭祀を守るためです。それが、「会稽東治之東」の真意でしょう。禹祭と一緒に日本にやってきたと思われるのが鯉のぼりの祭り、そして、狐の行列などです。(ここは江南倭人渡海説などで明らかにします。)そして、なによりも、この魏志倭人伝に設定したブロックは、会稽の倭人がテーマでした。会稽東を、会稽東渡海とまで解釈できないのですよ。倭人とは黥面文身をしていたというのが私の定義ですから、越人という種族であっても倭人です。倭人という固有の種族あるいは固有の民族がいたわけではないのです。
『史記』「夏本紀第二」では、「禹はこれにおいて天子の位につき、南面して天下を治めた。国号は夏后という。姓は姒氏。」
また、『史記』「越王勾踐世家第十一」では、「越王勾踐(こうせん)、その先祖は禹の後裔にして、夏后の帝、小康の庶子である。会稽に領土を与えられ、祖先の禹の祭祀(さいし)を行い守った。身に入れ墨をし、髪を切り、草の荒れ地を開いて村とした。その後、二十余代を経て允常(いんじょう)に至った。允常の時、呉王闔蘆(こうろ)と戦い、互いに怨んで攻撃しあった。允常が亡くなり、子の勾踐が越王となった。」
越王は夏后、禹帝の子孫だったというのです。じゃあ、倭人じゃないんじゃないの? そこが倭人を一つの種族みてしまう落とし穴なのです。倭人の歴史は日本の歴史ではないのです。倭とは入れ墨をした輩という意味で、民族、人種、加えて言語も越えた元義なのです。そこを間違えると、なぜ、会稽のことが魏志倭人伝に書かれるのか・・・説明できなくなります。魏志倭人伝を日本書紀から解読しようというのは無理筋というわけです。いいですか、倭国=邪馬台国=女王の都(みやこ)ではお話になりません。
紀元前334年、春秋戦国時代、楚の威王は越を破り、浙江にいたるかつての呉地を席捲、越は小国の集まりとなり、楚に朝貢するようになりました。中国ドラマ「ユ・ミエ」では、威王が越を滅ぼした次の王懐王(かいおう(在位:紀元前329年
- 紀元前299年))の時代、秦王の嬴駟(えいし)と対峙して張儀が活躍していたころの話となりますが、ミ・ユエが嬴駟とはじめて出会うシーンでは、首都・郢に潜入していた越人らが、突如、ミ・ユエと姉を襲うところから始まります。顔に入れ墨をした越人の無頼漢たちを嬴駟が追い払います。このミ・ユエのミですが、姓は羋で名は月で、ミユエと発音します。懐王は姓は羋、氏は熊です。かの詩人で相承だった屈原の姓は羋、氏は屈です。楚の王族・貴族にはこの羋姓が多いのです。羋は羊の啼く声からきているともいわれます。ミ・ユエは楚の王族、公主(王女)でした。正后の娘、羋姝の秦への輿入れに同行します。嬴駟、恵文王に才媛を認められ、羋八子(bipazi)と呼ばれるようになります。八子は秦王の夫人の位の一つで(王后、夫人、美人、良人、八子、七子、長使、少使)上から五番目、下から四番目と、身分的には高くはありませんが側室になり、恵文王に気に入られます。後宮ドラマの一面も多いのですが、まずはドラマをごらんあれ。楚から側室になった身分の低い一公主が、のちに、秦王に即位する昭襄王の母として宣太后となり、秦の政治を動かしたのです。
さて、夏后と日本と一番縁が深いのが徐福ですが、「徐は嬴(えい)姓、伯益の後、夏、除を封ず。」とあり、除という国がありました。伯益は通称、「益」、堯、舜、禹の三代に仕えた賢臣で、禹のもとで宰相を務め、やがて禹から禅譲によって帝位を継ぎ、禹が没した後、3年の喪があけて禹の息子である啓に帝位を譲りました。徐が氏で姓は嬴、始皇帝と同じ嬴姓であり、徐福の先祖は禹帝に仕えた宰相の末裔ということになります。啓の子が魏志倭人伝に登場する小康です。啓が2代目、小康は6代目ですが、この間は小康の叔父たちが王位を継いでいました。小康は啓の子ですから、わずか、一世代しか経っていませんが、夏后は消滅しかけていました。小康が夏后の帝に即位すると夏后は復興したといわれています。
(続く)
古代中国地図による会稽の位置
會稽東□冶之東の□に、其を入れます。「倭人が治めていた地は会稽の東です。」です。船山列島に会稽の倭人が住んでいたと、すんなり理解できます。道里とは路すじの距離であり、絶対に海をこえることはありません。
後漢書は「會稽海外有東鯷人分為二十餘國又有夷洲及澶洲」とし、東鯷人とは何者ですかね?。西班牙文辞典では、鯷は、アンチョビの類ってでていましたけど。漢書地理志、呉地には、「会稽海外に東鯷人あり、分かれて二十余國を為す。歳時を以て来たり献見したと伝う」とあります。後漢書は、「漢書地理志」を引いているのですね。「鯷冠秫縫」は、呉人の風俗でナマズの皮で作られた小さな冠のことです。これを貴人が被っていたとされています。すると、呉人と同じように、ナマズの冠を被って呉國に定期的に朝見していた国になりますよ。夷州が台湾です。そこで澶洲が沖縄とすれば、東鯷人とはおそらく琉球人でしょう。沖縄は列島で、たくさんの島国に分かれていますから、20余国というのはあてはまると思われます。そして、後漢書の「在會稽東冶之東與朱崖儋耳相近」と訳してみると「会稽東冶県の東と、海南島の朱崖儋耳は相近い」というふうに変えています。倭人伝では風俗・風習・産物などが同じであったのですが、後漢書は(距離が)相近いというのですが、おかしいですね。會稽東冶之東と朱崖儋耳が距離としては400kmもあり、近くありません。魏志倭人伝では風俗習慣が何一つ変わりがないといっているのです。これも、後漢書のあいまいな改編なのです。
加えて、日本の学説では、魏志倭人伝の「会稽東」は、邪馬台国にあたるそうです・・・相近いはずがありません。ずいぶん遠い地にまで線引きしてしまったのですね。それも、某氏の説では、日本列島が南北が、さかさまな地図をもってきて陳寿の地図と称しています。(ここは工事中です。続きます。2018年10月14日)
志賀島の金印は光武帝が与えたのか???
後漢書を読んで、光武帝が金印を与えたと思っていた人が大半ではないでしょうか?《後漢書》《列傳》《東夷列傳》(光武帝劉秀)建武中元,東夷諸國皆來獻見とあるように、光武帝の即位祝典だと思われます。即位時には特赦が恒例なように、東夷の諸国ばかりでなく西域もを広く封國とし侯王から王に任命し、諸国皆に金印・銀印などを大盤振る舞いしたのです。その数は1000個にも及んでいます。(魏志韓伝) 新n王莽が各国王を候王に格下げしたことで西域各国や匈奴が造反したことの反動でしょうか。
「(原文)建武中元二年(57年)倭奴國奉貢
朝賀使人自稱大夫
倭國之極南界也光武賜以印綬。」
光武帝劉秀の建武中元二年とは、光武帝の二番目の元号です。朝賀とは四方の蛮族の祝賀をうける儀式です。建武中元二年(57年)光武帝劉秀中元元年2月に封禅の儀を泰山で行ったので、朝賀への奉献があったと考えられます。しかし、建武中元二年の2月に崩御しているので1月にしか機会がありません。朝廷の(西暦57年、倭国から離れて南の極限にある倭奴国が朝賀の奉献をしたと書いています。しかし、その使者は大夫と自称していました。大夫とは周以来の官名で、国家の体制が整った国であることを示します。また、光武帝が印綬を賜ったのは安定の永初元年(107年)に倭国王帥升らが奴隷160人を貢献し、朝見を願い出た時と書いています。倭奴国が倭国の極南界とかくことは、倭奴国と倭国が離れた別国家だということを後漢書は意識していることになります。
1)57年の朝貢と107年の朝見の間に50年の差があります。しかも、倭奴国と倭国をはっきりと区別しています。
3)印綬を光武帝があたえたと書いていますが、後漢の光武帝劉秀の治世建武中元二年(57年)です。57年に九州の辺地に倭国と号する国があったとは思えません。この一文は史実から見れば混乱しているとしか言えません。
4)朝賀とは、祝賀式典です。そうして考えると、たくさんの属国が奉じて来朝しているはずです。会稽の倭人の章で倭人が往来して朝貢してしていることはすでに書きましたが、その使節が大夫と名乗っているという記事があります。会稽東
冶の東と改ざんした范曄ですから、あんがい混乱の元は会稽の倭人との区別ができていなかった、そのあたりが原因でしょうか。
》 後漢書には「安帝永初元年倭國王
帥升等獻生口百六十人願請見」と書かれています。
後漢書の安帝の永初元年とは、107年になります。『太平御覧』《扶余》では建武25年(111年)この時に大いに扶余王
始將を厚く報い、136年にその子の尉仇台に金印金彩を与えたと出てきます。倭國王
帥升とは扶余王だったのです。この金印の紐(ちゅう)は鹿でした。扶余のシンボルは鹿だったはずです。
《宋明》
《太平御覽》 [北宋] 977年-984年/
《四夷部二·東夷二》
夫餘》
建武二十五年(49年),夫餘王遣使奉貢,光武厚報答之,於是使命
歲通。至安帝永初五年(118年),夫餘王
始將步騎七八千人寇鈔樂浪,殺傷吏人,後復歸附。永寧元年(120年),乃遣嗣子
尉仇臺詣闕貢獻,天子賜尉仇臺印綬金彩。順帝永和元年(136年),其王來朝京師(洛陽),帝作黃門鼓吹角抵戲以遣之。桓帝時((146年- 168年)亦朝貢。獻帝時(189年
- 220年)求屬遼東云。
建武二十五年(西暦49年)、夫餘王は使者を遣わし、貢物を献上する。光武帝は厚くこたえて之に報い、
この使者に於いて歳時の朝見を命じた。
さあ、太平御覧では、建武二十五年(49年)に光武帝に貢献したのは扶余王
始將とします。後漢書東夷列伝では「建武中,東夷諸國皆來獻見。」としか書かず、(安帝劉祜)永寧元年(120年),乃遣嗣子尉仇台印闕貢獻,天子賜
尉仇台印綬金綵。」とあり、太平御覧と後漢書東夷列伝、後漢書倭伝とも年代にずれがでてきます。
太平御覧では、光武帝が扶余王とし、順帝劉保の永和元年(136年)洛陽(京師)に出向いて金印の下拝を受けたのは夫餘王始將の嗣子だった尉仇臺だと書いています。
《史書》
相關資源
《後漢書》
[南北朝] 420年-445年 提到《後漢書》的書籍 電子圖書館
《列傳》
《東夷列傳》
8 打開字典顯示相似段落 東夷列傳:
(光武帝劉秀)建武中,東夷諸國皆來獻見。二十五年(49年),夫餘王遣使奉貢,光武厚荅報之,於是使命歲通。至安帝永初五年(111年),夫餘王始將步騎七八千人寇鈔樂浪,殺傷吏民,後復歸附。(安帝劉祜)永寧元年(120年),乃遣嗣子尉仇台印闕貢獻,天子賜
尉仇台印綬金綵。順帝永和元年(136年),其王來朝京師,帝作黃門鼓吹、角抵戲以遣之。桓帝延熹四年(161年),遣使朝賀貢獻。永康元年,王夫台將二萬餘人寇玄菟,玄菟太守公孫域擊破之,斬首千餘級。至靈帝熹平三年,復奉章貢獻。夫餘本屬玄菟,獻帝時,其王求屬遼東云。
13 打開字典顯示相似段落 東夷列傳:
後句驪王宮生而開目能視,國人懷之,及長勇壯,數犯邊境。和帝元興元年春,復入遼東,寇略六縣,太守耿夔擊破之,斬其渠帥。安帝永初五年(111年),宮遣使貢獻,求屬玄菟。(安帝劉祜)元初五年(118年),復與濊貊寇玄菟,攻華麗城。建光元年春(121年),幽州刺史馮煥、玄菟太守姚光、遼東太守蔡諷等將兵出塞擊之,捕斬濊貊渠帥,獲兵馬財物。宮乃遣嗣子遂成將二千餘人逆光等,遣使詐降;光等信之,遂成因據險阨以遮大軍,而潛遣三千人攻玄菟、遼東,焚城郭,殺傷二千餘人。於是發廣陽、漁陽、右北平、涿郡屬國三千餘騎同救之,而貊人已去。夏,復與遼東鮮卑八千餘人攻遼隊,殺略吏人。蔡諷等追擊於新昌,戰歿,功曹耿耗、兵曹掾龍端、兵馬掾公孫酺以身扞諷,俱沒於陳,死者百餘人。秋,宮遂率馬韓、濊貊數千騎圍玄菟。夫餘王遣子尉仇台將二萬餘人,與州郡并力討破之,斬首五百餘級。
倭国大乱の珍説
傳第三十 韓伝
桓靈之末,韓濊彊盛,郡縣不能制,民多流入韓國。
三国志魏書東夷伝の韓伝のここを引いたのでしょう。郡県制が不能になったとかかれています。 烏丸鮮卑東夷傳第三十 韓伝 「桓靈之末,韓濊彊盛,郡縣不能制,民多流入韓國。」・・・桓帝と霊帝の末(146年
- 168年;168 - 189年)に、郡県制が不能になったと書かれています。
後漢書はこの桓帝と霊帝の間を倭国大乱があった期間とします。韓と濊が強盛になったというのは中国からみれば大乱と解することができますが、いったいどこが大乱をおこしたのでしょう。それは九州の倭地ではないのです。
「建武中元二年(57年)倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬。安帝永初元年(107年)倭國王
帥升等獻生口百六十人願請見桓靈間倭國大亂更相攻伐歴年無主有一女子名曰卑彌呼年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆於是共立為王侍婢千人・・・。」これは、楽浪郡・玄菟郡・遼東郡が直轄支配ができなくなったということです。また、桓靈之末頃は、鮮卑族の檀石槐が大暴れしていた時期です。倭国大乱を鮮卑の反乱に結合したのでしょうか?倭国大乱は「魏志倭人伝」を珍解釈したものです。
「其國本亦以男子爲王住七八十年」が魏志倭人伝ですが、其の主格は女王国です。
女王国はもともと男子が王となって七、八十年たっていた。・・・と解釈すべきところを、倭国と置き換えて、なんと倭国の大乱に妄想、でっちあげています。
安帝永初元年倭國王帥升等獻生口百六十人願請見は、これが戦争であることを意味します。生口とは捕虜です。
その後の『翰苑』 倭国の条、北宋版『通典』、『唐類函』の百十六巻の倭の条などに継承されました。〔安帝永初元年107年〕が引き継がれています。尉仇台は公孫度の推挙によって扶余王の代理として京師(洛陽)に出向いたのです。献帝5年、扶余王太子尉仇台、遼東部の属したいと申し出て、公孫度に服属しました。公孫度に推挙されて朝貢し扶余王が印綬金綵((きんさい)を徐授したのは、なんと西暦203年です。なんと、父子の関係で100年間の差はありえないことです。
父王が扶余王
始將(
帥升)でした。父王は、楽浪を撃ち、後漢を裏切ったあと、後漢に帰順したのです。その後、尉仇台が後漢に再び帰順したのですが、なんと、80年近くたった後、扶余王の二代目が帰順しているのです。
その2:生口百六十人を貢献したことをどう解釈したらいいのでしょうl。この奴隷たちは、鮮卑、烏丸、高句麗と戦闘を交えて捕獲しています。どこで捕虜を得たかは定かではありません。
「朝鮮使驛」という范曄の独自の解釈について。
『三国志魏書 倭人伝』の【使譯所通三十國】を、『後漢書』は【朝鮮使驛通於漢者三十許國】とし、「朝鮮使驛」としています。譯は通訳とする説が多いようです。類書も譯の出現率は高いのですが、訳するのは人間ですから、譯長など人称代名詞になるはずです。譯所は人称代名詞とはならず、譯所が一単語としては成立しないのです。○所+通は場所を指す代名詞になるのです。そこで後漢書が譯所を驛に変えた解釈は正しいでしょう。ただし、朝鮮という修飾が入ります。しかし、これは事実と思われます。が、しかし、朝鮮という国号は中国正史の上では唐の末期に成立した国号です。3世紀に朝鮮という呼称が正史にあったとすればそれは箕子朝鮮でしょう。ひょっとすると後漢書は7世紀頃に改編された、または、捏造されたのではないでしょうか。わたしは感じるのですがあまりにも要領よくまとめているのが怪しいのです。唐の時代に張楚金が撰した翰苑(かんえん)と同じ程度のものだと思います。*驛所とは馬を常備する早馬の中継所。常駐するのは馬飼であって通訳史ではありません。
丗を世に変えたこと。
ⅳ.『後漢書』は【國皆稱王】としました。三十カ国に皆王がいる・・・ここまではいいとして、『三国志』で丗王としか書いていない、ここを、丗丗傳統、世襲の王がいると新解釈を入れ込みました。文字は丗ですが世の意味に転じています。したがって、
丗丗は世々、代々という意味になっています。これは誤訳でしょう。
*
朝鮮使驛通於漢者三十許國國皆稱王丗丗傳統其大倭王居邪馬臺國
ⅴ.『三国志』の【邪馬壹國】を、『後漢書』は【邪馬臺國】とし、大倭王という新語を登場させています。さらに大倭王が【邪馬臺國】にいるとしたのです。ここは畿内説が大倭を大和とつなげるかっこうのリンクとなっています。しかし、九州の30か国を監察していた首都ともいえる国が伊都国です。今日、邪馬台国が卑弥呼のみやこというフレーズとリンク相乗して、大倭をヤマトと音訳したため、邪馬台国が突出して注目を浴びることになったようです。その大本の原因となったのは、後漢書というわけです。
金印は後漢書の誤りを誤りのままトレースしてしまった。文献証拠もないとなると、じゃあ偽物ですね。
志賀島で出土した金印は、光武帝が57年に徐授したと言われていますが、後漢書を根拠にしています。さて、「光武賜以印綬」をしたのは鹿の紐で、扶余王師升にあたえた107年の事例と誤解しているのでしょう。こうして倭奴国に金印徐授した文献的証拠はなにもありません。おりしも、2018年、金印はさらい彫りという江戸時代の技法が使われており、偽造品であることが工学の技法解析から証明されました。金印が真贋だという決め手は全くなくなりました。国宝であっても、ああ、もう後戻りできません。どうしようもないですね。
倭人伝に関して言えることは、後漢書を正しい説とみると赤っ恥を掻くことになります。後漢書に依拠した諸々の説は大部分が砂上の楼閣なのです。
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