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NO336_kyushu・・・・魏志倭人伝 文法構造(だけ)で解読する

倭人の国々・侏儒国・裸国・黒歯國とは・・船で渡る九州地域の外側


倭人伝の現代語訳を6つのブロックに分けています。

1,帯方~九州編
2.会稽編
3.九州編
4.帯方編
5.九州番外編
6.帯方編

魏志倭人伝 6つのブロック化による構造分析
5番目の九州番外編にあたるE.ブロックを解説します。

E.九州の外

<女王國東渡海>千餘里復有國皆倭種
有侏儒國有南人長三四尺去女王四千餘里
有裸國黒齒國復在東南船行一年可至參問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周旋可五千餘里

上の原文は漢字の棒書きですが、其のを文頭にして改行すると文の構成が見えてきます。読まなくてもいいのです。全文をざっと見て、「其其構文」と「又又構文」で構築されています。又と其のが組み合わせになっています。里程論で示したように、魏と交流する諸国はみな、奴国の緯度線よりも北に在りました。これから解説する倭種の國、侏儒國、裸國、黒歯國は、みな奴国よりも南にあります。従って、女王の支配を受けていない国々です。

5)九州外編 現代語訳

E:ブロック
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
有侏儒國其南人長三四尺去女王四千餘里
有裸國黒齒國復在東南船行一年可至參問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周旋可五千餘里

 渡邊訳:
女王国の東、海を渡ること千余里に、また国がある。いずれも倭の種(族の国)である。また侏儒国(こびと)国があり、その南に位置する。人の身長は三、四尺で、女王國かは離れること四千里である。また、裸国・黒歯国があり、さらに其の東南である。船で行くこと一年で至ることができる。倭の地を訪ねると、遠く離れた海中の州㠀の上に(国が)あり、あるいは海に隔てられあるいは陸続きで、周囲五千余里ばかりである。
 女王国の東から渡海し千余里(1150里)のところに再び国(日振島)があり、その人々は皆倭種である。また女王国の東から南に渡海し、女王(国)を離れること四千余里に侏儒国(屋久島)があり、その人々は身長が三、四尺であり、皆倭種である。また女王国東から東南に舟行一年ばかりの(距離)のところに、ふたたび尋ね聞いたところの裸国・黒歯国が大小の島々にあり、あるい離れ、あるいは連なった島々の周囲を回ると五千余里(5750里)である。その地の人々もまた倭種である。

   

 Eの子ブロック
女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
有侏儒國有其南人長三四尺去女王四千餘里
有裸國黒齒國復在其東南,船行一年可參問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周旋可五千餘里
著者私訳:
 女王國東渡海千餘里復有國皆倭種
女王国東の地点(波止場)から渡海し千余里(1150里)69kmほどのところに女王國の領域(複数國)があり、その国の人々は皆倭種である。また
女王国東から渡海し、女王国)を南に離れること四千余里に侏儒国(種子島・屋久島)があり、その人々は身長が三、四尺であるである。また女王国東から東南に舟行一年の(距離)のところに、ふたたび尋ね聞いたところの裸国・黒歯国がある。それらの国は大小の島嶼の上にあり、あるいは連なり、あるいは海に隔てられた島々の周囲を回ると五千余里(5750里:直径100㎞の円)一日行=11.34km、365日をかけると、すなわち、4139.1km女王國から実測2500kmの60%になっている。
*すでに分かってい主語は略されるのがアジア語の特徴である。
*海中洲㠀=四文字の熟語で島嶼(とうしょ)のこと。大小の島々の意。アプローチのタグに詳述:
 又又構文です。Eブロックのなかをよく見てください。”又”が文頭に二つ連続しています。又は代替詞です。ここでの又は”女王国”が主格として繰り返えされます。

重箱構造で、又又構文 有~在の存在詞構文と至構文が混在している。原文は棒書きなので、あえて、文節を区切って分析の便としてみます。
有裸國黒齒國復在東南,②船行一年可,③參問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周旋可五千餘里

又の代替主語(主格)は「女王国東渡海」、其の代替は「女王国東」(原則どおり)女王を離れること4000余里は女王国の国にが脱落したものと思う。

有裸國黒齒國復在東南
①'主語+有(在)+地名+其+方向、ここまで一文節
①”「女王国から東に渡海するとその東南裸国黒歯國がある。」

②船行一年可至,
②'至の前に時間(距離の範疇)が来るので従至構文
②”従+主語+方向距離+至までで一文節(従~至構文)
「女王国の東南に裸國黒齒國があるが、女王国から東南に船行一年の距離である。」

③參問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周旋可五千餘里
③’また女王国のから東南に舟行一年ばかりの(距離)のところに、ふたたび尋ね聞いたところの裸国・黒歯国がある。それらの国は島嶼の上にあり、あるいは海に隔てられ、あるいは連なり、分かれた島々の周囲を回ると五千余里(5750里)である。その地の人々もまた倭種である。
*海中洲㠀=四文字の熟語で島嶼(とうしょ)のこと。大小の島々の意。アプローチのタグに詳述:


解説:
ここに書かれるすべての国々が女王国(地点)から海を渡った所にあります。女王国という地点が起点となり、そこから海を渡るのですから、その先に書かれる目的地は、すべて九州本島からは海で離れています。通釈すると、到着する地点はみな瀬戸内海や四国の島であることにきづきます。ここを解釈するに「又又構文」に気づいていない人の説はほとんど迷走しています。

それでは、女王国の地点は出発地点となります。a.女王国は海に出ることが容易な海の沿岸にあったと推定できます。
b.かつ、女王国は九州内諸国の以て南(逆転)になるわけです。c.これは、邪馬壹國よりは南の沿岸にあるということになます。
d.女王国の東1000余里にまた国々がある・・・e.九州東北岸の対岸にまた山島があるということです。
こういした条件がかさなっています。こうして、伊都国から1800里、108kmの女王国はどこなのかがキーとなります。
侯封地を実際にシミレートしてみましょう。


杵築でないとなぜ女王国が成立しないか、それは四国だけでなく、宇部・周防など山口県の諸国に達するからだ。
「再び国がある。皆倭種である」の魏志倭人伝が伝える倭種の国は複数だと思われる。
ここにおいて、邪馬壹國との関係では、その南になければならないから、当然別府周辺は大きくは外れない。
この周辺を探ると、船の渡し場として最適な港湾は杵築湾と八坂川である。古代中国は紀元前から楼船という軍艦をもっていた。その恰好な港となる。当時の船は桟橋や埠頭に横づけできない。
古代中国では、船を下りることを、言葉の上では乗船するという意味だった。別府湾の湾岸は浜で、かつ、短い急流な川しかないことから、女王国は別府の両サイドに求めることになる。
女王国を大分県大野川周辺にすると1000余里では到達しない、図では黄色の円周のなかに瀬戸内海の国々が入らない。
郡使が瀬戸内海一帯の国々から資源を集める租を行った場合、海賊から守る地政学的な戦略拠点があっただろう。姫島沖がとりわけ重要な航路にあたり、
次に、国東半島の国東市沖あたりである。
今は、あまり注目されていないが黒川遺跡(くろごう)が、とりわけ重要な要件である。瀬戸内海産の遺物がたくさん見つかるだろう。縄文時代~弥生・古墳時代の土器や石器が3000点以上出土、石器の出土量としては大分県でも屈指。と言われている。では、なぜ大分県知事はもっと熱心に遺跡保護をし、広報しないのだろうか?

女王国の東の地点とはどこ


日出駅と杵築駅の間ぐらいです。・所在地:〒873-0013 大分県杵築市大字日野字黒川(くろごう

・時 期:~3世紀
・時 代:旧石器時代~古墳時代初期
・形 状:-
・特 徴:-
・指 定:-

【概要】
くろごういせき。平成26年10月3-7日に埋蔵文化財の試掘を行った結果、弥生土器や小型の土坑が見つかり、遺跡として認定を受けた。平成27年1月から本調査を開始。

旧石器時代の石器、縄文時代~弥生・古墳時代の土器や石器が3000点以上出土、石器の出土量としては大分県でも屈指。

旧跡時代(2万5000年前)では、サヌカイトや流紋岩の今峠型ナイフ形石器(九州最大級=日本最大級)、三稜尖頭器と呼ばれる槍の穂先や、削器と呼ばれる木や骨などの切ったり削ったりする道具が見つかっている。

縄文時代では、縄文後期(4000-5000年前)の土器片、姫路までとれる黒曜石の鏃の穂先(石鏃)、狩猟された動物たちを料理する包丁の役割の石匙、木や骨を削る削器などが見つかっている。

弥生時代のものとしては、甕や壷などの土器、姫路までとれる黒曜石で作った鏃の穂先、稲の穂首を刈り取るための石包丁(大分県内最大)、木を切る大形の石斧(打製石斧)などがまとまって検出、竪穴状遺構、柱穴、貯蔵穴も出土した。

古墳時代の初め頃と考えられる竪穴住居跡のようなものも見つかっている。旧石器時代、縄文時代、弥生時代の三つの時代にわたって、多くの石器が作られた県内でも珍しい遺跡で、弥生時代の2000点を超える石器が出土している県内屈指の遺跡。
女王国は帯方郡使いた。したがって、郡使は貢献品を集めたに違いない。したがって、女王国は全国からあつめた品々が発見されるはずである。
内海、九州、四国などからさまざまな



女王国=【吉野ヶ里】中央からま東に108kmの描画。別府周辺になりますね。ここから渡海したと考えるべきです。ただ、別府には一級河川というか大きな河がありません。古代の港として条件をみたす良港がありません。
女王国とは、東に直列する邪馬台国じゃないかと思われますが、邪馬台国は女王国よりも北ですから、宇佐になるのです。女王国は国東半島の付け根、宇佐の反対側の日出(ひじ)あたりか、大分の西部、大野川の下流になるでしょう。女王国は諸国を監察する立場の為政地ですから、女王国に戸数はかかれていません。


渡海千餘里復有國はどこですか?
さて、杵築の黒川遺跡から東にむけたラインは1000X1.15X0.06km = 69kmのポイントはどこでしょうか?下の拡大図をご覧ください。東に渡海1000余里とは69kmで探索します。
四国や中国地方のどこかであることは確かです。では、いったいその国とはどこなのでしょうか。ズームアップしてみます。
大分から東に69㎞の円周を描いたみました。ちょうど日振島にぶつかります。
復有國皆倭種の国の一つに日振島を比定します。

1)距離の計算式は(12000X0.15x0.06=108km) 
2)方位は、吉野ヶ里東南6kmの地点=奴国から、東の方位、(方位角90°)です。
どうでしょう。なんとも、シンプルです。このセオリーに、異論があるとすれば東偏角のパラメータだけでしょう。より精度が高い方位偏差があるというサジェスチョンならよろこんでお受けします)
下の図で緑の線が東方位角90度です。では、日振島は方位角で7度ばかり東偏しています。これは当時の船にはコンパスがあったという証明になるかもしれません。
西暦3世紀ごろ方位磁石の方位は東に傾いており、その傾きは緯度が大きいほど、つまり北ほど傾きが大きいのでした。九州地区の方位偏差値が東偏7度だったったことが磁気考古学で証明されればいいんです。大分は緯度が約33度です。帯方ー吉野ヶ里の東南線は約8度ほど東偏していました。帯方の緯度は約37度、4度ほど九州は緯度が低いのですから8度未満であればャスティファイされます。?
宇和島港から高速船で約1時間、歴史の島・日振島(ひぶりしま)は宇和海(うわかい)に浮かぶ有人島。古くから周囲の海は船の往来が多く、夜になると島の住民が山頂で火を振って合図をしたことから名が付いたと言われている。東西に細長く、くねくねと入り江が多いのが特徴的で、入り江には北から能登(のと)、明海(あこ)、喜路(きろ)の3つの集落があり、それぞれに乗船場がある。平安時代中期、時の朝廷に反旗を翻し瀬戸内海で暴れまわった藤原純友が拠点にしていたといわれ、純友にまつわる遺構や伝説が残されている。今はハマチや真珠の養殖、一本釣りなどの水産業を中心とした長閑な島。





日本版海賊・藤原純友の本拠地だった日振島!入り江の中の養殖場


上は釣り場スポット
四国は巨大な祭祀王国

九州の銅剣銅矛の遺跡分布図はそのまま戦争地に置き換えることができます。ごらんのように、宮崎・熊本県には銅鐸の遺跡が少ないことに気づきませんか?宮崎や熊本には剣や矛ばかりです。筑紫と豊国が強国だったのです。
銅鐸については祭器との説もあり、銅鐸の分布は阿波徳島に大きいウェイトがあります。阿波徳島は阿波忌部の王国であり、天皇家の祭祀氏族でした。忌部氏が大人(主)で、阿波から東遷し、吉備、伊勢、さらに、その阿波の地名である坂東が栃木にまで及ぶように関東開拓をしています。忌部は建国以来、天照大神を支えてきた氏族で、古事記では天比理刀咩命 (アメノヒリトメノミコト、天太玉命の妃神が祖神で、「皇別氏族」です。中臣氏と共に朝廷の祭祀(お祭り)を司った斎部氏(忌部氏)の祖神に当たります『古語拾遺』では安房に移住した阿波忌部が「安房忌部」となっています。祭神は天太玉命 (アメノフトダマノミコト) 日本の全ての産業創始の神とされています。大嘗祭に麁玉(あらたま)は歴代天皇に三木家が調進していたという三木家の文書に記録が残されています。麁玉は、大麻(おおぬさ)から織り出す反物です。

大麻、春に植え、夏には2メートルを超える高さまで成長します。
三木家屋敷の前で大麻が栽培されています。
大麻は湿地帯では生育しません。山間部のほうが成長に適しています。大麻は(おおぬさ)と読まれていました。


大麻の葉
大麻比古神社の社紋は上記の麻の葉です。色は赤いですが、産着などにもつけられるように穢れを払う赤色になっているものと思われます。

おおぬさ
大麻比古神社の大麻(おおぬさ)。古代より神道の祭祀において修祓(しゅはつ、祓い)という祓具として、左右左と振って不浄を祓い清め、国家、国民の安寧を祈るため用いられてきました。別名大幣(おおぬさ)。
 現在は、布綿や紙が使われることが多いのですが、古来は麻が用いられ、麻を「ぬさ」と呼んでいました。
また、
忌部五部神
櫛明玉命 (クシアカルタマノミコト) 出雲(島根県)忌部の祖。 装飾・美術の神。
天日鷲命 (アメノヒワシノミコト) 阿波(徳島県)忌部の祖。 紡績業・製紙業の神。
彦狭知命 (ヒコサシリノミコト) 紀伊(和歌山県)忌部の祖。 林業・建築業・武器製造業の神。
手置帆負命 (タオキホオイノミコト) 讃岐(香川県)忌部の祖。 林業・建築業・武器製造業の神。
天目一箇命 (アメノマヒトツノミコト) 筑紫(福岡県)・伊勢(三重県)忌部の祖。 金属鉱業の神。
、いずれも何らかの技術を阿波に集中してみることができ、高度な技術集団がいたことは確かです。忌部氏が卜部であるのは、夫余の祭礼を担っていた外戚であり、代々妃出していた氏族と推察できます。大麻(おおあさ)の栽培と、その伝搬は阿波から始まったと思われます。ルーツを阿波に発見することができます。沙氏、燕氏、劦氏、解氏、貞氏、國氏、木氏が扶余の貴種です。大嘗祭の高御座(たかみくら)は8本立てて帳をめく、らし、八角形の蓋をのせていますが、ソウルにある八角堂など、柱が8本ある建物は扶余の八部による共立を意味するのかも知れません。江田船山古墳の章で書いた鞠智城のシンボルである鼓楼は八角形の建物です。武内宿禰は紀伊に特異な文化圏を築き、王は木氏であり、紀氏であると言われています。木氏は木羅の二字姓となり、 蘇我氏の祖です。苩氏(はくし)は、『隋書』「百済条」に百済の大姓八族の一つとして書かれていますが、白山信仰に繋がります。

魏志東沃沮伝に書かれた女國とは阿波忌部王国が有力地です。ただし、女國については日本の地域学から検証するしかないカテゴリーです。日本の古代の中心地、倭のへそは多々知れば知るほど候補地がでることでしょう。ただし、時代としては弥生時代から古墳時代前期、3~4世紀の事象に焦点がある必要があります。吉野ヶ里の麻布はこの大麻が原料でした。


侏儒國は屋久島だった!

下の図でバルーン、大分市から海上、南に4000余里(4600里=276km)に侏儒国でした。しかし、種子島には届きません。海の上です。中心点は大分です。


 276km 4000余里では種子島に届かない。



又又構文では侏儒国までは距離は加重計算します。又又構文の距離の処理の仕方が、特殊なのです。普通の算術ではありません。
X=D1+D2+・・・・こういう式で加重していきます。これは、プログラムの"X = X+1"という書式とよく似ています。つぎつぎと数値1をの代入する、またはGETするという仕組みです。です。

従って、D1は四国まで1000余里。==1150
D2として、南4000余里、です。==4600
D2=D1+D2
D2=D1+D2==5750
kmに換算すると、0.06kmをかけます。345kmになりました。
 5000余里=;X1.15=5750里=:x0.06==345kmです。(これは普通には見かけない式です。プログラム言語の式では、こういう書式はしょっちゅう使いますよ。DはDistanceのイニシャルを使いました。)
結果値、345kmで、はたして、どこの島に届くでしょうか。
九州という本島から外にある、つまり海上にあるという条件がこのブロックにはあるのです。どうしても屋久島と考えたくなります。
上の図はD1だけです。下のの図はD1+D2です。

345km 5000余は屋久島に到達。



屋久島の犬田布貝塚について;所在地 〒891-8327  鹿児島県大島郡伊仙町犬田布 MAP
交通アクセス (1)亀徳港/車/30分徳之島空港/車/30分

遺産概要  犬田布貝塚は今からおよそ3,100~1,600年前の遺跡と考えられている。遺跡からは、多くの土器や石器とともに、大量の貝や獣骨で作られた道具が多く出土している。特に、貝を用いて作られた道具は多くの種類があり、スクレーパー(削る道具)や矢尻、スプーン、先の尖った刺す道具、湯沸し器、釣針などが出土している。遺跡近くの海で採れる貝を積極的に利用して生活していたことがわかる。

協力 伊仙町歴史民俗資料館
縄文時代から弥生時代にかけての遺跡。奄美群島特有の土器や石器、骨角器などの道具や貝殻・獣骨などが多量に出土した。

侏儒というのは、小人ということで、身長の低い人が住んでいるという意味です。種子島には広田遺跡という人骨が多数でたまれな遺跡があります。

YouTubeで広田遺跡と検索して、ぜひ動画でごらんください。山の字貝府と呼ばれている貝に山という文字が彫られています。日本最古の文字と言われていますが、3世紀に漢字が彫られていたとすれば、かなりワクワクします。
ここからは、小著『』卑彌呼Xファイル』から抜粋します。
その南に侏儒国が在り、身長は三、四尺、女王国東から南四千余里。

*三尺=75cm、四尺=100cm(魏尺による)
*侏儒は古語:書記巻第29天武天皇に侏儒(ひきびと)とあり、「滑稽なわざを職とするこびと」と注される。
*侏儒は中国語では死語であるが、〔zhūrú〕と発音され、こびとを意味する。矮人(ǎirén)と同じ意味です。こびと、という言葉は現在、禁止用語になっているので注意を補足しておきます。

鹿児島県南種子町所在の史跡「広田遺跡」から157体の人骨が確認されていますが、弥生時代後期後半から古墳時代後期の墓地の遺跡です。3世紀後半にこには生活集団がいたことは間違いないのです。広田人は、北部九州の弥生人と比較して低身長であり、男性でも平均154センチ、女性で平均が143センチであるということが確認されています。北部九州の弥生人は、男性で平均163センチ、女性で152センチですので10cm差があります。魏志倭人伝でいうところの3~4尺というのは1メートル足らずといったところです。

種子島の広田遺跡から出土した人骨、男子平均身長は154cm。吉野ヶ里遺跡の人骨、男子の平均身長は165cmです。

日本の人骨発見史6.広田遺跡(弥生時代)gooブログ:https://blog.goo.ne.jp/garfsn1958/e/cc6610976fe7035e61bb211333b9b2b1
 この身長の差には実は原因がありました。広田遺跡で出土する頭蓋骨の後頭部の全てが扁平であることから、意図的に頭蓋骨を変形させる習俗があったと考えられています。人工変形頭蓋と認められています。これは、幼児の頭が柔らかいうちに、頭に石を押しつけて平らにしたということで、完成前の頭蓋骨に施す整形外科手術のようなもの。後頭部が扁平であるということで、頭蓋は短頭で丸形になります。はたして、身長が短くなるにしてもせいぜい3cm~5cmぐらいでしょう。種族のDNAの影響が大きいのでしょうか。
『三国志魏書』弁辰伝では「兒生、便以石厭其頭、欲其褊。今辰韓人皆褊頭」とあり、弁辰は後の新羅国です。つまり金海、新羅地方にも、この習慣があったと記されています。
。日本では広田人以外に変形頭蓋の人骨の発見はありません。
侏儒国の人の身長が低かったことが魏志倭人伝に書かれたことは大きな意味を持ってきます。

当時の中国人が背が高い男女は八尺とみています。漢書地理志西域では、
「東离國,居沙奇城,在天竺東南三千餘里,大國也。其土气、物類與天竺同。列城數十,皆称王。大月氏伐之,遂臣服焉。男女皆長八尺,而怯弱。乘象、骆驼,往來邻國。有寇,乘象以战。」と書かれた箇所があります。

「東离國、王は沙奇城にいます。天竺の東南三千余里にある大国です。その民の士気や物品の類は天竺と同じです。城は列して数十もあり、各城の支配者はみな王と称しています。(マハラジャのことでしょう?)大月氏国がこれを討伐し、みな焉耆國に従属しました。男女みな身長が八尺もありますが、それなのに臆病です。ゾウやラクダに乗って隣国と往来し、乗るゾウによって身分が決まっているようです。」
以上を読んでみると、国名は東に離れた国です。そして、かなり身長が高い部族がいるということですね。
当時は一尺、23cmの寸法でしたから、その身長は、八尺をメートルに直すと184cnですね。現代人でも高い方でしょう。その背の高いインド人からみると種子島の男女の身長は約半分ですから、小人のいる国というリアルな感想が出たのでしょう。そうして、侏儒國という国名になったのでしょう。

覚えておきたい種子島の遺跡

○横峯遺跡(よこみねいせき) 鹿児島県熊毛郡南種子町に所在する後期旧石器時代初頭の遺跡。鹿児島県の史跡。 1992年に発掘調査された際、種子島で初めて発見された旧石器時代の遺跡であり、旧石器時代、縄文時代にヒトが住んでいた跡が見つかっている。約3万年前の土層からは、日本国内最古の調理場跡が発見されている。2003年4月28日、鹿児島県指定文化財となった。

○上野原遺跡(うえのはらいせき)
霧島(きりしま)市の上野原(うえのはら)には、約9,500年前の縄文(じょうもん)時代初めの、日本最古・最大規模(きぼ)の定住集落跡(あと)があります。

○指宿橋牟礼川遺跡(いぶすきはしむれがわいせき)
縄文(じょうもん)時代が弥生(やよい)時代より古いということを証明(しょうめい)したのが指宿(いぶすき)市の橋牟礼川遺跡(はしむれがわいせき)です。

○横瀬古墳(よこせこふん)
大崎(おおさき)町の横瀬(よこせ)にある古墳(こふん)時代中期の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)
○横瀬古墳(よこせこふん)
大崎(おおさき)町の横瀬(よこせ)にある古墳(こふん)時代中期の前方後円墳(ぜんぽうこうえんふん)
○広田遺跡(ひろたいせき)
種子島(たねがしま)の南種子(みなみたね)町の太平洋に面した砂丘(さきゅう)で見つかった、弥生(やよい)時代後期から古墳(こふん)時代後期にかけての集団墓地(しゅうだんぼち)の遺跡(いせき)です。いろいろな貝製品(せいひん)で飾られた(かざられた)人々が埋葬(まいそう)されていました。総数4万4,000個に及ぶ貝製品(せいひん)が出土し、注目を集めています。




 広田遺跡 出土物 Wikiより 沖縄のゴボウラ貝のブレスレット、貝輪があります。
高価な品々で、交易の中継地だったことが見えてきます。



裸国・黒歯国は、サイパン島!

A:又有裸國黒齒國復在其東南船行一年可至參問倭地絶在海中洲㠀之上或絶或連周旋可五千餘里

絶在海中洲㠀之上とあります。いったいどう訳したらいいのでしょう?
海中洲とはどいう意味でしょうか?
《康熙字典》嶼:海中洲
《說文解字·山部》:嶼:㠀也。
《廣韻·敘》: 嶼:海中洲也。
康熙字典では海中洲は嶼のことです。では嶼とは嶼とは、ショ・しま/小さな島を意味します。
島嶼(トウショ)という連語は海に浮かぶ大小の島々を意味します。
海中洲㠀で、大小の島々、つまり群島と訳せます。
①《後漢書》: 其珠崖、儋耳二郡在海洲上,東西千里,南北五百里
②《太平御覽》: 《南史》曰:干陁利國在南海洲上。 顯示全文
③《太平廣記·訶陵國》: 訶陵在真臘國之南,南海洲中,東婆利,西墮婆,北大海。
上の、①②③とも海洲は島と訳せばいいのです。

「倭の地を参問するに、海中州島の上に遠く離れて存在し、あるいは絶えあるいは連なり、一周五千余里ばかりである。」『新訂 魏志倭人伝 後漢書倭伝 宋書倭国伝 随書倭国伝』 石原道博編訳」』

B:「倭の地を訪ねると、遠く離れた海中の洲島の上にあり、あるいは海に隔てられて連なり、周囲五千余里ばかりである。」・・・渡邊義浩著『魏志倭人伝の謎を解く』

C:黒澤一功の新訳・・・「また女王国の東の地から東南に舟行一年ばかりの距離のところに、ふたたび尋ね聞いたところの裸国・黒歯国がある。離れ離れの大小の島々上に国がある。そのうち裸國と黒歯国の周囲を回ると五千余里(5750里)である。その地の人々もまた倭種である。
訳の違いのキーポイント
①Bの訪ねると、このように訳すと、実際に倭地にいったことになる。→船行1年と矛盾→リアルに訪問していない。
②絶在海中洲㠀之上の”絶”を遠く離れたという修詞句にしているが、絶は島と島が離れていることを言っているので、遠いという意味は余分です。私の解釈では、絶とは間が離れている・・・との修詞句にとります。絶在とはどういう意味でしょうか。対馬にも、絶㠀方四百余里と書かれています。その結果、複数の島々、諸島とか群島というのが正解でしょう。

そもそも、倭地を一つと考えている人には、周旋可五千餘でもって迷路におちいることになります。倭地は一周すると五千余里と・・・素直に訳すことができません。大いに混乱するのです。日本列島から船行一年という距離がある遠いところにも大小の群島にもいわゆる倭人の住む所(倭地)があるのですよ。

右のバルーンから海上、渡海して1年ほどで、裸國、黒歯國があります。東南に直線距離で到達する群島をさがせばいいのです。すると、マリアナ諸島になります。 マリアナ諸島のなかで、大きな島のサイパン島とテニアン島が、ちょうど方位143度のラインにあります。船行1年ですので、2500kmは任意ですが、Google Earth では、2474km、1%ほど誤差がでてしまいました。Google Earthのほうが正確なのでしょうか???


絶在とはどういう意味でしょうか。対馬にも、絶㠀方四百余里と書かれています。
絶で、離れている状態を示しているのです。
サイパン島とテニアン島のは8kmほど離れています。この両島をなら対馬と同じように絶島といえるのです。サイパン島は115平方キロメートル、テニアン島h100平方キロメートルです。


図の青いバルーンは方位143度、距離25000kmです。さて、方位はやはり東偏8度になっています。

すると、裸国がサイパン㠀、黒歯国がテニアン島なのでしょうねか。どちらが、裸国で、どちらがっ黒歯国なのかは、よくわかりません。当時の住民の風俗がわかりませんと決められません。
最後に、周旋5000餘里ですが、結果値一里60mを適用します。そして余里と、ここでも餘があることを無視できません。そこで、余の切り捨て分の15%増しにします。すると、5250里、一里60メートルでキロメートルにすると、315kmです。これを素直に円周とみます。すると、直径は、π(パイ)で割ればいいんでした。
条件としては、裸国・黒歯國は直径100kmの円の中にあればいいのですね。

つぎに、サイパン島とテニアン島の間の海峡に中心軸をおいて直径100kmの円を描いてみますと、その円の中にすっぽりと収まります。




地図のバルーンを囲む一番小さな円の直径が100kmです。
なんと、内芯にサイパン島テニアン島の間におけば、両島がぴったりとその円のなかに収まっています。

方位と距離、諸条件だけで裸国・黒歯國がサイパン島とテニアン島だったということがご納得できましたでしょうか。

さて、サイパンまで約2500kmでした。「自至」の構文上、距離を時間は互換性があります。サイパン島まで航行1年ほどです。そこで、2500kmを365日として割っています。一日当たりの航行距離は6.85kmに匹敵します。船行一日は6.85kmになりました。
これは実際の当時の船の速度ということではありません。

 さて、サイパン島とテニアン島だと比定したとき、陳寿がなぜサイパン島とテニアン島を倭人伝に書いたのかは大きな謎です。それは、倭地だと書かれていますので、サイパン島にも黥面文身の人々がいたということになるでしょう。それは確かですが、それ以外は参問、つまり、「九州で尋ねて聞いた話によると、」という、伝聞記事であることは明らかなのです。ですから、サイパン島から九州にカヌーで移住してきた住民に尋ねたのではないだろうか・・・・と、いろいろ想像はできますが、証明することができません。

しかし、全ブロックの共有するカテゴリーが倭人ですから、倭種の国だったことは確かですね。
それなら、根拠があります。サイパン島には、古代チャモロ人「タガ族」という民がいたそうですが、黥面文身していたことを証明すれば足りるのですよ。下の、画像をごらんください。

なぜ、倭地なの?

ミクロネシアのカロリン諸島の入れ墨をした男性の画。
F・リュートケ「世界一周の旅」(1826~1829)の中の版画
文身黥面、倭人と瓜二つだった? ふんどし、ちょんまげなのも似ています。
成人になると、入墨する習慣があったと言います。 19世紀半ばに描かれたスケッチ。ミクロネシア人は入れ墨をしていました。
サイパン島があるマリアナ諸島は、ミクロネシアの中にあるのです。(下図)


マリアナ諸島はミクロネシアの中にあります。
チャモロ人という原住民がスペインと戦っています。チャモロ人の「タガ族」が倭人伝で書かれた事象の3世紀半ばにサイパン島にいたかどうか?(民俗学や南太平洋の地理志など他学によるしかありません。)魏志倭人伝からはチャモロ人が入植していたと考えられます。ただ、学問的に証明できていないのです。なぜなら、西欧人は12世紀までミクロネシアは全くの無人島だったと考えているのです。

黒潮渡海族というのはミクロネシア人だった。
黒潮渡海の可能性
「参問倭地」と書かれています。裸国・黒歯国はA官吏が自ら質問し、取材した記事です。では、誰から聞いてみたのかというと現地で広田人に聞いたとしか考えられません。
「薩摩の古老が語ったことによれば・・・」、とか現代の紀行記のように訳せば理解できます。この広田人自ら語ったという仮定からは驚くべき推理が派生するのです。広田人が図を書いて「わしらはこここから来たのだ」と語ったと推理できます。裸国・黒歯国もおそらく文身黥面の種族(倭人)が住む倭種の国として記録したのでしょう。会稽編で書きました『儋耳』と『朱崖』、海南島にも倭人がいたという視点も容易に成り立ちます。
カロライン諸島あたりから黒潮に乗ればカヌーでも鹿児島か紀州半島、駿河沖に着くことが確かめられています。広田人が黒潮にのって渡海した人種かどうか、その可能性について考えてみましょう。2006年、うなぎの産卵場所は、東京大学の研究所によってサイパン近海のマリアナ海溝にあるスルガ海山付近であることが特定されました。ウナギの稚魚がはるか古代より日本へのルートをDNAに刻み込んでいたのです。なんと、うなぎのふるさとだったのです。言い換えると、うなぎの回遊ルートだったのですね。
このスルガはポリネシア語で「天国」という意味だそうです。駿河湾と無関係とは思えないのはどうしてでしょう。黒潮に乗れば、たとえ漂流であっても船は鹿児島か、紀伊半島、伊豆半島に着きます。スルガの南洋渡航ルートは富士山を目標に渡海していたとすれば、日本の駿河は彼らの発音だったのではないでしょうか。葛飾北斎の「富嶽三十六景」から富士山は海上から、はっきりとその情景が見てとれますが、サイパン・テニアンの人たちは富士山が見えたら上陸する準備をしていたのでしょう。


 この説はその女王国の東をキーポイント、すなわち出発地点と定め、方位は東南、原文のままです。まだ、疑問のある方は最初のアプローチの仕方のページをお読みください。サイパン・テニアン説も方位ー距離ー地勢ー地名の優先順位の原則を貫いています。
 裸国・黒歯國がサイパン・テニアン島だなんて、そんな馬鹿な!とお思いの人、ほかに、いいアイディアがありますでしょうか。例えば、東南をさかさまにして青森という説もあります。それと、比べてみてください。多分、奇想天外な候補地という点では大同小異でしょうが、方位を押さえ、かつ「周旋可五千餘里」にこれほどぴったりあてはまる説はありません。原文にたいして忠実度がより高い説を選択すべきですよ。

さて、入れ墨をしていた人々がいた国ということでは文身国という言い方は、分かりやすく適切が名称ですが、チリ沖3000㎞にあるイースター島も、そう考えると文身国といえそうです。イースター島にはモアイ像という石像があります。この謎に満ちたモアイについてはYouTubeをご覧ください。ここでは、あまり注目されていないモアイの特徴をお知らせします。

モアイには背中に入れ墨があります。



モアイ像の背中のデッサン。
<続く>
トピックス 地図の上では国のことを州といいます。
州とは国のことです。ええっ、国を州というのですか?そうなんです、それでは中国人の地図の描き方を見てみましょう。私は島の上にある国は州と特記しているのではないかと思います。


大明地図 大明地図は中国人の抱いていた世界観を示す好個の資料です。海東諸国記 の中の海東諸国総図と地名の記載が類似する点が多い。
地域名として畿内・東海道・,東山道・,山陰道・,山陽道・,西海道・,南海道・,北陸道の各道がすべ て記されている。地方名としては九州が見出され るのみで,本州や四国などの地名 はない。
さらに この図には国名が記されているが,それは 「○○州」 と記載されている。
州 という記載の仕方は海東諸国総図と同じである。 また薜俊編「日本考略」,鄭若会撰 「日本図纂」と 「万里海防図論」等中国で発行 された本の日本図も州を付している。
西海道に は筑前州,筑 後州,肥 前州,肥 後州,豊 前州,豊後州,日向州,大隅州,薩摩州の8か国が全部記されている。南海道には紀伊州・,淡路関・,讃岐州・,伊予州・,土佐州・,河波州(阿波州)が記されてい る。
海東諸国総図には淡路州と記されているが,この図には淡路関とあり,その近傍には遣明往来の倭船の寄港地 として知られる尾路関(尾道)も記 してあり,海上ルー トの重要な場所である ことを示したものであろう。(抜粋)

九州の外地である島嶼が記録されたのは謎である。陳寿ととりわけこの段落をもうけた謎を推測してみよう。これらの島々に住む人々は大きく言えば皆倭種だが、侏儒國は背の小さい人々の国と地名に表現した。侏儒九州の本島とは違う人種とみていたのではないだろうか。九州の人の方が背が高かったのです。おおよそ10cmぐらいは明らかに差ががったようです。縄文人DNAが濃かった地域なのだ。*侏儒は古語:書記巻第29天武天皇に侏儒(ひきびと)とあり、「滑稽なわざを職とするこびと」と注される。また、*侏儒は中国語では死語であるが、〔zhūrú〕と発音され、こびとを意味する。矮人(ǎirén)と同じ意味です。こびと、という言葉は現在、禁止用語になっているので注意を補足しておきます。矮人(ǎirén)が倭人の語源かどうかは、はっきりとしません。
縄文人のDNAは東北から北海道にかけて多く、また、沖縄に多く出現する。弥生人は始皇帝のころの徐福一団、中国の斉から第一波、箕子朝鮮の流れ、長江楚、呉越から第二派の渡来があった。近年、中国・四川省の三星堆遺跡から黄金の仮面がでてきましたが、日本との関係も問いただされています。これが米の稲作と銅矛・銅鐸文化の花を咲かせた。その後、4世紀からは朝鮮半島から鉄器をもった多くの武力侵攻があった。おおむね渡来の履歴として、古墳から出る武器やよろいから、そう見ることができる。こうした波状的な外来種の渡来にもかかわらず、5母音の基底母語が崩れなかったのはなぜだろうか。つまり、母語とは母親の言語を踏襲するので、日本が母系制社会であったことが大きいのだろう。また、中国人は中華街をつくり宗族集団で固まるため、地方に分散することがなかった。縄文人が波状的にやってくる外国語にたいして母語の形成が揺るがなかったのは他にも原因があろう。圧倒的な人口で、かつ海人であるので海上交通の利権は奪われなかった。従属はしていても外来技術を吸収して生産力と経済力を保持していたのだろうと推測できる。さて、平安時代に仮名文字が成立すると、上層支配階級だけが使っていた宮廷語(公用語)にあった8母音が消失、万葉音借漢字の甲乙類の使い分けも消失し、しだいに武人でもひらがなを使うようになった。朝鮮外来語は日本の口語に吸収、収れんされたとみてとれる。
日本語は明治時代まで書き言葉と口語がおそろしいほど乖離していた。文法においてはアルタイ語系になったが、庶民の日常語はオーストロネシア語系(マオリ語)・またはインドド・ラヴィダ系言語(タミル語・ディダイイ語・サンターリー語)ではないかとされる。およそ1万1500年前、インドネシアやミクロネシアから海路北上し、北海道にいたるまで広範に旧石器遺跡をのこしたのが縄文人だ。1万9千年前から海面が毎年1mから2m上昇して、ちょうど7000年まえ、今より海面が100メートル高くなった。ちょうど縄文前期にあたりで、このころが縄文海進のピークである。ミクロネシアの島々は当然のことながら海に沈んでしまう、そのとき、カヌーで島を脱出したら、彼らはいったいどこを目指ししただろうか。日本だろう。黒潮に乗って、風が順調なら鹿児島、紀伊半島、伊豆半島に20日ほどで到着するはずである。黒潮渡海族という別称もある。このころは日本列島は亜熱帯で北の方ほど住みやすかったといわれている。この縄文海進という地球規模の異変は極ジャンプ説が有力で北極の氷床が融けたのだろうとされる。6500年前頃から寒冷化が進んだ。このころを縄文中期という。山内丸山遺跡は5500年まえから4000年まえまでの1500年間存在した。ちょうど、縄文後期になるのが4000年前。山内丸山は食物を栽培していたが、縄文後期には降雪が毎年のように続いて栽培している植物の北限が到来したのだろう。人口が激減したという。山内丸山は放棄された。縄文海洋部族が大陸系部族に支配されはじめたのが2200年前ごろからだ。米の炭素化された遺物の分析では江南種だった。米栽培は以来、弥生人の人口増加が爆発的だったので、旧縄文人はしだいに領有地をうしなったが、女は混血児を産んでしたたかに生き延びたのだ。女が事実上勝利したのだ。魏志倭人伝には「大人は皆4、5人の婦人をもち、下戸(民衆)でも2,3人の婦人を持っていて、婦人たちはみな貞節で、互いに嫉妬しない」と書かれている。一夫多妻が当然だったのだ。そこで、中国人である郡使が種子島や屋久島でみた人々は異人種だと、その目にうつったのではないだろうか。そうすると、わざわざ女王国東渡海する島々を倭人伝にとりあげた謎が解けた気がする。なんだか関裕二のような仮説の上塗りを、ずいぶんしてしまったが、日本語タミル語源説は国学者、大野晋が唱えた説です。じつは韓国の学者も加羅語もタミル語との音韻一致語が500余もあったという発表をしている。

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