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随書俀國傳、裴世清の道程

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見出し(テーマ)
1)裴世清は百済南道を経由していた。対馬に寄らず、壱岐から博多へ直行していた。
2)九州にいた王室は夏王朝、禹帝の末裔だった。
3)九州の王朝はすでに12階制の官制をもっていた。「冠位十二階」が聖徳太子の発案というのは嘘。
4)秦は秦氏(はたうじ)の秦か?


1)裴世清は百済南道を通過して、韓土から済州島まで南下、対馬に寄らず、壱岐から博多へ直行していた。

参照文献_1

三國史記/卷27 ・・・・(武王八年春三月と九年三月の電子化された原文を確認できます。)
維基文庫,自由的圖書館

< 三國史記 >
武王
八年 春三月 遣扞率燕文進 入隋朝貢 又遣佐平王孝隣入貢 兼請討高句麗 煬帝許之 令覘高句麗動靜 夏五月 高句麗來攻松山城不下 移襲石頭城 虜男女三千而歸

九年 春三月 遣使入隋朝貢 隋文林郞裴淸奉使倭國 經我國南路


八年〔607年〕春3月 扞率(官名)の燕文を隋に派遣して朝貢した。また、佐平(官名)の王孝隣を隋に入貢させて、重ねて高句麗を打つことを要請した。隋の煬帝はこれを承諾して、高句麗の動静を窺うように命じた。
夏五月 高句麗が松山城に攻めてきたが城を落とせなかった。そのため石頭城に移ってきて移動してこれを襲い男女3000名を捕らえて帰った。
九年〔608年〕春3月 使者を髄に派遣して朝貢した。隋が文林郞裴淸を倭国へ使者として送ったが、わが国の南路を経由した

以上の参照文献_1と_2によると、一行は百済の街道を通りぬけ、半島の南海岸にある耽津(タムジン)船出をした。この時の百済王は武王だった。資料_1三国史記に武王9年に「經我國南路」と書かれている。南に耽羅(済州島)を望み、壱岐島を経由して、九州北岸に着く。到着したのは呼子(唐津)だろう。呼子から博多港へ迂回し、筑紫の中央、久留米から東に120kmほど進み、九州の東海岸(大分県)に着く。そこに、俀王国、いわゆる邪馬台国)があった。7世紀初頭、裴世清が見聞した王国は中国の皇帝に匹敵する天帝だった。「日本は未開の東夷であるはずなのに、どうして夏の禹帝の末裔がいるのだ。また、中国と同じような高度な文明が栄えているのか?」と、裴世清はびっくりするばかりだった。隋国使者は、「以って夷洲となすも、疑うらくは、明らかにする能わざるなり。」と記録した。「華人がたくさんおり、ここは蛮夷でなく、中国ではないのかと思われる・・・なぜなのだろうかと疑った」、というのである。これが大和王朝の前に存在していた(幻の)九州王朝なのだろか。と、いうよりも政庁としては奈良ではなく、大分にあったのだろうか。日本書紀から消された王朝のことである。随書は俀国(ついこく)と書き、倭国とは書いていないが、歴代の中国王朝が倭国と云っていた国とは所在地がまったくの誤解であったことにに気づいた。
それも、裴世清の路跡を随書が書き残してくれたおかげである。

莞㠀 (グワンド) の奥に巨大なリアス式入江がある。耽津は三国時代に使われた古代名。8世紀中頃まで日中韓貿易のハブ港として栄えた。

百済の南道の図解 随書で言う竹島は莞㠀 (グワンド)!





[打吹羽衣伝説](うつぶきはごろもでんせつ) →赤いバルーンは鳥取県倉吉市打吹地区、白壁土蔵のまちとして名高い、ここ倉吉の町に打吹山(うつぶきやま)があります。
倉吉のシンボル「打吹山」には古来「天女伝説」があります。天女とされていますが、実際に朝鮮半島から漂流してきた女と考えられます。羽衣伝説は太平洋側の三島のほうが有名ですが、わたしは日本海側に必ず類似の伝説があるはずだとおもっていました。

《打吹羽衣伝説》
 昔むかし、倉吉に住む若いきこりが、玉の仕事を終えて帰る途中、きれいな衣が木の枝にかかっているのを見つけた。「いったい誰の着物だろう…」と言いながら手に取ったところ、 「その衣は私のものです。どうぞ返して下さい。」と若い女の人の声がした。その女の人は、近くの湧き水で水浴びをしていたのだった。女の人は何度も頼んだが、とても立派な衣なのできこりは返さず、とうとう家に持ち帰ってしまった。

衣を返してもらえない女の人は、妻となり、きこりの家で暮らすしか仕方がなかった。

そして、何年か経つと二人の子供が生まれ、元気に育ったが、いつも春になると、お母さんは寂しい顔をするばかり…。

夏も近くなったある日、お母さんは二人の子供に「あなたたち、お父さんが私に何か隠しているのを知らないかい」と聞いたところ、子供たちは、お父さんに日頃行ってはいけないと言われていた屋根裏から箱をみつけてきた。 開けてみると、それは目も醒めるような、きれいな衣が入っていた。

お母さんは喜んでその衣を着ると、井戸の傍の夕顔のつるを伝って、スーッと空に舞い上がってしまった。そう、お母さんは天女だった。 「お母さーん」「おかあさーん」子供たちは泣きながら追いかけたが、どうすることもできない。「そうだ!お母さんは鼓や笛が好きだった。それで呼び返そう!」と山にかけ登り、二人は力いっぱい鼓を打ち、笛を吹いた。

母を慕って子供たちの打つ鼓と笛の音は、いつまでも、どこまでも響いていた。しかしお母さんは二度と帰ってくることはなかった。

二人の子供たちが鼓を打ち、笛を吹いたこの山を、その時から人々は『打吹山』と呼ぶようになったという。

遠い昔の悲哀に満ちたお話だが、今もこの地方では「打吹天女伝説」と言われて、広く語り継がれている。

別伝の2
《天女の羽衣伝説》
昔むかし、舎人(とねり)という狩人が
水浴びをしている天女の羽衣を見つけ、
その美しい天女を妻にしようと羽衣を隠してしまいました。

天女は、浅津(あそづ)という名前を付けられ
泣く泣く舎人の妻となり、やがて月日が流れ
二人の可愛い娘『お倉とお吉』ができました。
天女はどうしても天の事が忘れられません。
とうとう娘達から羽衣の隠し場所を聞き出し、天女は空高く天へと帰ってしまいました。
残されたお倉お吉は、くる日もくる日も母を呼び戻そうと近くの山へ登り
笛や太鼓を鳴らしましたが、ついに母を呼び戻す事はできませんでした。

この事から、その地名を二人の名前の
『倉吉(くらよし)』
「太鼓を打つ・笛を吹く」から、近くの山を
『打吹山(うつぶきやま)』
と呼ぶようになりました。


この伝説にそってお倉とお吉をイメージし
等身大で銅像化したものが
・河北小学校前SS
・倉吉駅前SS
・打吹公園SS
に設置されているお倉とお吉像なのです。

打吹童子ばやし 2019/05/22→ 鳥取県文化振興財団

参照文献_2



辺’c’が東南(乍南乍東)の要素、’a’が南の要素、bが’東’の要素です。

乍南乍東のリアルなイメージは下図の実線です。実際の郡から倭地までの道程距離は以下のようになる。
乍南乍東の作図



Dのラインは磁石の北です。赤の太めラインはGoogle Earthをつかって磁極から引いたラインです。距離は7472kmも遠くから引いてきています。下にのGoogle Earthで引いた生の線をご覧ください。D線とC線は45°です。方位八方位の角度です。aの距離は、辺aは623.52kmは、三角計の公式で、すでに計算済みです。辺aと辺bの角度は90です。郡からの辺bまでの言わば経線間の距離となります。cbの交点は奴国になります。Bの方位は底辺にあたります。済州島南のポイントから90°東方位です。角緯で(82.6°になりまます。
したがって、奴国から方位角82.6°が女王国以て北のラインです。
投馬国と邪馬台国は、吉野ヶ里の東南6kmを起点としてのこのラインの北、地図でいえば上に存在します。

 漢文の順列と配列を変えて倒置しませんと、和訳としては適切になりません。意味を十分斟酌して分かりやすいスキーム(配列)にしています。どうですか、魏志倭人伝は、上から下に順次読んだだけでは、こうした条件式がオーバーラップしていることが分かりません。

隋書
卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國
 随書俀国伝(ずいしょついこくでん) 部分
開皇二十年,俀王姓阿每,字多利思北孤,號阿輩雞彌,遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言俀王以天爲兄,以日爲弟,天未明時出聽政,跏趺坐,日出便停理務,云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。王妻號雞彌,後宮有女六七百人。名太子爲利歌彌多弗利。無城郭。內官有十二等:一曰大德,次小德,次大仁,次小仁,次大義,次小義,次大禮,次小禮,次大智,次小智,次大信,次小信,員無定數。有軍尼一百二十人,猶中國牧宰。八十戶置一伊尼翼,如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。其服飾,男子衣裙襦,其袖微小,履如屨形,漆其上,系之於腳。人庶多跣足。不得用金銀爲飾。故時衣橫幅,結束相連而無縫。頭亦無冠,但垂發於兩耳上。至隋,其王始制冠,以錦彩爲之,以金銀鏤花爲飾。婦人束髮於後,亦衣裙襦,裳皆有襈。躭竹爲梳,編草爲薦,雜皮爲表,緣以文皮。有弓、矢、刀、槊、弩、䂎、斧,漆皮爲甲,骨爲矢鏑。雖有兵,無征戰。其王朝會,必陳設儀仗,奏其國樂。戶可十萬。

  其俗殺人強盜及奸皆死,盜者計贓酬物,無財者沒身爲奴。自餘輕重,或流或杖。每訊究獄訟,不承引者,以木壓膝,或張強弓,以弦鋸其項。或置小石于沸湯中,令所競者探之,云理曲者即手爛。或置蛇甕中,令取之,云曲者即螫手矣。人頗恬靜,罕爭訟,少盜賊。樂有五弦、琴、笛。男女多黥臂點面文身,沒水捕魚。無文字,唯刻木結繩。敬佛法,於百濟求得佛經,始有文字。知卜筮,尤信巫覡。每至正月一日,必射戲飲酒,其餘節略與華同。好棋博、握槊、樗蒲之戲。氣候溫暖,草木冬青,土地膏腴,水多陸少。以小環掛鷺鶿項,令入水捕魚,日得百餘頭。俗無盤俎,藉以檞葉,食用手哺之。性質直,有雅風。女多男少,婚嫁不取同姓,男女相悅者即爲婚。婦入夫家,必先跨犬,乃與夫相見。婦人不淫妒。死者斂以棺郭,親賓就屍歌舞,妻子兄弟以白布制服。貴人三年殯于外,庶人卜日而瘞。及葬,置屍船上,陸地牽之,或以小輿。有阿蘇山,其石無故火起接天者,俗以爲異,因行禱祭。有如意寶珠,其色青,大如雞卵,夜則有光,云魚眼精也。新羅、百濟皆以俀爲大國,多珍物,並敬仰之,恆通使往來。

多利思北孤解明 卑弥呼と王系譜が同じ可能性!
開皇(かいこう)は、隋の文帝楊堅の治世に行われた年号。隋朝最初の年号。開皇20年は西暦600年です。

①「開皇二十年,俀王姓阿每,字多利思北孤,號阿輩雞彌」・・・では、姓が阿每、字(名前)が多利思北孤、阿輩雞彌と号している。整理すると、阿輩雞彌が王の称号であり、いみなとして、阿每が姓,名が多利思北孤です。こちらは、万葉仮名のスタイルです。一文字一音の音写とみます。そこで、カタカナに置き換えることができます。アメノタリシヒコ、裴世清はここで滅多にしない現地の綴りをそのまま書き記したことになりますね。
姓から感じるに、姓は阿曇、名は「多くの知恵をもった(利発な)北に離れている孤立した男」という”意味”になりますが、ここは意味とは無関係です。タリシヒコという音で読み替えるのは万葉仮名読みであり、中国人は和音をそのまま漢字の音に置き換えることはしません。
問題は阿輩雞彌の方です。阿輩の輩は「やから」であるから、阿の集団、すなわち阿氏に転じます。
雞彌の雞はニワトリ、彌は「あまねし」・・・ニワトリをトーテムとするという名前となります。いいかえると、鳥のの卵から生まれたという卵生神話をもつ男子という意味に転じます。卵から生まれるというのは天神に感じて生まれたということで、大本の先祖、国祖が卵生神話の男子という意味になるのです。まとめると、王号は「阿氏東明聖王」となるでしょう。

雞彌の雞≒家鸡、ニワトリです。でも、ここは鳥(とり)とみなします。彌は「あまねし」、どうしたことか卑彌呼にかさなってきます。卑はbēi (bei1)ですが、下のという意味です。しかし、なにか生き物に転ずれば、文型から、~から生まれた一族のということになります。いろいろと候補はあるでしょうが、卑は鹎の略体の河能性が高いのです。
、左のように拡大しました。鹎彌
鹎〔bēi〕ひなどり、と訳します。しかし、どういう意味でしょう?

『随書』 百済伝で、「婢云:「有物狀如雞子,來感於我,故有娠也。」王舍之。」とあります。(詳しくは下に百済伝の意訳があります。)「雞子(ひよこ)のような形をしたものが入ってきたので妊娠したのです。」、王に伝えます。これが受胎の原因というですが、河伯の女の言葉です。河伯の女とはこれはもう有名は女性で、高句麗の宗廟で扶余神という神名で祀られていました。高句麗の国祖、高朱蒙の母です。雞子とは直訳すればニワトリの子ですから「ひよこ」と訳してもいいでしょう。この短い神話は高句麗建国開祖の朱蒙の誕生神話で、いわゆる天光受胎神話と呼ばれています。卵生神話の一つです。日本でも平安時代までは常識的な物語でした。続日本書紀には和氏の上奏文、「それ百済の遠祖、都慕王は河伯の女日精に感じて生めるところなり。皇太后(高野朝臣新笠)はその後なり」・・・記されています。日精に感じて生まれたのは都慕王ですが、別名は東明聖王、高句麗の太祖です。都慕王とは高朱蒙の尊称です。日精とは何でしょうか?
有物狀如雞子,來感於我,故有娠也では、雞子のような物と書かれている雛が日精です。
実は、日精のシンボルが三本足にカラスなのです。「棄之廁溷,久而不死,以爲神」、豚小屋に捨てたが死ななかったので、王は以て神となした。」、王はついに日神の子だと認めたのですね。

ひなどりが、日神の化生した姿だったのです。ひなどりを意味する鹎という漢字があります。卑弥呼を鹎彌呼と文字を置換します。
どうやら、卑彌呼と卑彌弓呼の奉じる遠祖(太祖)が共に都慕王(東明聖王)すなわち高朱蒙だったということになります。これだと、卑彌呼に敵対する男王が卑彌弓呼と、一字しか違わなくても合理的な説明がつくのです。卑彌呼が扶余女王であり、男王卑彌弓呼が高句麗王です。ともに朱蒙を奉際する子孫の王統という意味付けができました。
狗奴国男王が高句麗第11代東川王であることは解説・比定済みですから、省略します。
魏志倭人伝の男王卑彌弓呼が鹎彌弓呼であるとしても高句麗の末裔であることに矛盾がありません。それどころか、朱蒙は弓の名手であったことに因む名前ですから、弓という文字がなぜ入るのかすぐに理解できます。東川王が代々継承している高句麗の宗廟、その国祖の象徴的名前だったのです。
そして、タラシヒコも、阿輩雞彌です。雞と鹎はどちらも「ひなどり」の意味です。だいたい330年ほど卑彌呼より後の時代ですが、朱蒙を太祖とする氏族だったという驚くべきことが暗示されます。

②「大業四年(608年・推古天皇16年)、上、文林郎・裴世清(はいせいせい)を遣わして倭国に使せしむ。(一行は)百済を度り、行きて竹島に至り、南に済州島を望み、対馬国を経、はるかに大海のなかに(俀国が)あり。また、東へ進んで壱岐に至り、また筑紫国に至り、また、東して秦王国に至る。その人華夏(夏王朝)に同じ、以って夷洲となすも、疑うらくは、明らかにする能わざるなり。また十余国を経て海岸に達す。筑紫国より以東は、皆俀に付庸す。」

①と併せてみると、秦王国は豊国、その王は夏王朝の末裔と同じだといっても、扶余王を奉際する安曇=阿住氏だったということらしいのです。

*秦
秦ピンインQín(周朝の国名)秦.
1名詞陝西省の別称.用例秦岭=陝西省中南部を東西に走る山脈の名.秦川=陝西・甘肅両省の秦嶺山脈以北の平原の昔の呼び方.
2名詞(周朝の国名)秦.①「国名」 
ア:「今の陝西(センセイ)省の地を領有し、戦国時代には戦国七雄の一つとなり、始皇帝の時、天下を統一した。   (紀元前778年-紀元前206年)」 
イ:「五胡十六国の1つ。晋の時に苻健が建てた国。大秦と言い広めた。都は長安。前秦という。(351年-394年)」 
ウ:「五胡十六国の1つ。姚萇(ヨウチョウ)が前秦を滅ぼして   建てた国。大秦と言い広めた。都は長安。後秦という。   (384年-417年)」 
エ:「五胡十六国の1つ。乞伏国仁(キツブクコクジン)が後秦から   独立して建てた国。都は苑川(エンセン)。西秦(385年-431年)」②「王朝の名前。始皇帝が天下を統一して建てた王朝。咸陽(カンヨウ)を都とした。三代十五年で漢の高祖に滅ぼされた。  (紀元前321-紀元前206)」③「シナ(中国)の元の呼び名」④「甘粛省(カンシュクショウ)の古い名前」⑤「陝西省の別名」

3.日本のみで用いられる意味⑥「秦氏(はたうじ)日本書紀では(応神天皇の時に韓半島から渡来集団の族名)」


古来、王朝のあるところを中原と言っていたが、中夏という別名があった。夏后とは夏王朝のことだが、中夏は中華に転じ、中華と称するようになったいきさつからは、華夏とは、2つの同一意味の単語を並べていることになり、ほんらいどちらかの文字は省くはずである。あえて華に夏の文字を加えて合成しているので、夏を欠かせない語として表現しているのだろう。華はともかく、夏の文字は重要なメッセージがあると考えるべきだろう。


 秦氏が大挙渡来しすでに300年を経た頃であり、始皇帝の末裔が目をみはる土木建築のハイテクニックを見せつけていた。そこで、「秦王国」と書いたのだろう。秦は中国語でチンと発音され、いまのチャイナの語源でもある。なにしろ、他周辺国に冊封下(さくほう=臣下として扱う)に置く宗主国の使者が、日本に中国人=中夏人いると記録したことは重い意味をもつ。裴世清はさらに、驚きをもって中国に等しい文化をもっていると書き記したのである。これは秦氏一族が部族としては中国人としてみなされていることを意味している。


 607年遣隋使の国書は次のように書かれていた。



「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや云々」と書かれていた。 
随書に記録されているのは書き出し一行のみである。
 それに対して、「帝悦ばず。曰く、蛮夷の書無礼なるものあり。またもって聞することなかれ」とあり、煬帝(ようだい)の怒りをかった。そのころ、天子は皇帝の称号でそれ以下は王と号するのが常識であった。それも、中国が官を与えた上での称号である。帝はあやしんで使者の帰国にさいして、わざわざ答礼の使者文林郎裴世清(はいせいせい)を同行させることにした。「裴よ、このような書を書く人物がなぜ蛮夷の王におるのか、高句麗のように脅威となるやもしれん。しかとかの国を見届けてくるのだ。」
 そこで、この使者(小野妹子は書記の捏造)の帰国にわざわざ同行してきた裴世清(はいせいせい)とともに、日本に帰ってきたが、妹子は煬帝(ようだい)から下賜された返書は百済人に奪われてしまったと報告した。紛失を偽装したのではないかといわれているが、裴世清一行は(三国史記 武王9年)に記述があるので、確かに百済の南路(街道)を通過していることだけは確かだ。裴世清が本国にどのように報告したか。実はこの報告はその後の日本の歴史を大きく左右した。それによって、日本は大きく待遇が変化したのである。まず、中国の支配(冊封)を免れ、化外慕礼の国として扱われるようになったのである。(中国の支配の及ばない国だが、親中国の国)これは、驚くことに、日本がサラセン帝国(アッバス朝)と同じ待遇になったことを意味する。また同時に、則天武后によってはじめて日本の権力者が「王」の称号から「天子」または「天皇」「天帝」などの称号を持つことが可能になったのである。

 第一回目の国書で「天子」の文字を対等に使用し、隋皇帝煬帝(ようだい)の怒りをかった。「天子」の号は中国皇帝のみが使用し、従属国は「王」とされていたからである。にもかかわらず二回目の国書に太子が「天皇」の文字を堂々と使用することができたのは、この裴世清(はいせいせい)のおかげなのである。誤解か、策略かはわたしにも分からないが、「秦王国」「その人華夏人に同じ」と報告されたことは結果として疑いなく日本の歴史を変えた。華夏とはあの禹帝が国祖である。魏志倭人伝にも、「夏后の小康の子」という一文に夏王朝に触れているところをみると、筑紫には古の夏王朝の末裔が王、いや、本物の天帝がいた。多利思北孤が夏王朝の徐の末裔ならば、天皇の称号は当然、理に叶う。ところが、天皇の位は7世紀末に新たに忍び込んだ扶余族に乗っ取られてしまった。こうして、多利思北孤の末裔、徐の民は、みな蝦夷(えみし)にされてしまったのだ。

 実際に大和朝廷で「天皇」という文字が公けに使われたのは天武朝以後のことだ。大和王朝とは7世紀後半、クーデターで蘇我氏を倒して王権を手にした百済武王の子である姉弟が建国した国で、それ以前の記紀の天皇諡号は扶余の王統紀を参考に創作した作文なのである。聖徳太子とは、東宮ならいざ知らず上皇などという称号になって飛鳥にいたことになっているが、該当する実名の人物は多利思北孤、俀王である。
随書で書かれた秦王朝の「タリシヒコ」は九州にいた。百済の武王は裴世清一行が百済を経由して九州に向かったことをつぶさに知っていた。親書を盗んだかどうかは不詳だが、自国を素通りして行ったことに道理が無いと見た。上下関係を第一に気に掛ける儒教国家だから示しがつかないのだ。この九州にある王朝が中国からは百済の上位にある貴い国とされたことは我慢がならず、激怒した。なぜなら、百濟は中国に封じられていたからだ。こうして、武王が送り込んだのが、鎌足であり、後の藤原氏である。


○秦河勝

 「厩戸(うまやどの)皇子」と言われ、イエスの誕生をコピーしていることから、太子自身がヘブライ系だとする説もある。少なくてもだれがこうしたキリスト誕生の知識をあたえたのか疑問となる。厩戸皇子と呼び、彼をキリストに擬したのは景教の信徒であったと思われる。キリスト教の伝来は聖フランシスコ・ザビエルの伝道が初めてではない。


○隋の煬帝を怒らせえた国書の秘密

日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙(つつが)なきや云々」と書かれていた。 

 さて、このフレーズは実は旧約聖書から引いている。煬帝は怒りが静まるとしばらくしてこのことに気付き、なぜなのか不思議に思った。そこで、(小野妹子)の帰国にさいして、わざわざ答礼の使者文林郎裴世清(はいせいせい)を同行させることにした。
その太子の使った聖書の引用句はつぎのようである。


日の出る処より日の没る処までわが名はほめられるべし (詩編113-3)
  From the rising of the sun unto the going down the same the Loard's name is to be praised.

日出る処より日の没する処まで国々にわが名はあがめられている。(マラキ書1-11)
For from the rising of the sun unto the going down of the same my name shall be greate among the Gentiles;

わが名を呼ぶものを東からこさせる。かれはもろもろの王子を踏みつけて漆喰のようにし、陶器師が粘土をふむようにする。(イザヤ41-25)

from the rising sun shall he call upon my name: and he shall come upon princes as upon morter, and as the potter treadeth clay.

ここに共通するフレーズは、「from the rising sun」である。
日の昇るところから・・・・というのは聖書の慣用句なのである。隋はこのあと、すぐに滅びて唐になった。日没する処の皇帝は、書翰のとおりになった。"The rising sun"と言えば今日、欧米では驚異的な経済発展を成し遂げた日本の代名詞にもなっている。

ついで、第2回目の国書には、つぎのような書き出しになる。

「東天皇、敬って西皇帝に白す」(原文は漢文)



 はじめて「天皇」という文字が見いだせる史上最初の文献である。太子の造語だとされるが、はたしてどうだったのだろう。それ以前は大王であった。太子どころか、本物の禹帝の苗の天帝だったのだ思える。天皇と皇帝とどちらが偉いのかといえば、天皇のほうが上位であることは明らかだ。


「多くの人が東から西に来て、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブとともに、宴会の席につく・・・・」(マタイ 8-11)

Verily I saw unto you, I have not found so great faith, no, not in Israel. And I say unto you, That many shall come from the east and west, and shall sit down with Abaraham, and Issac, and Jacob, in the Kindom of heaven. (St.Matthew 8-11)


「おそれるな、わたしはあなたとともにおる。わたしはあなたの子孫を東からこさせ、西からあつめる。」
(イザヤ43-5)

Fear not : for I am with thee: I will bring thy seed from the east, and gather thee form the west.


だれが正義の人を東からおこしたか、足下によびつけ、国を奪い、王をうわまわる権威をあたえた。(イザヤ 41-2)

Who raised up the righteous man from the east, called him to his foot, gave the nations before him, and made him rule over Kings?


「みよ、イスラエルの神の栄光東より来たれり」 (エゼキエル43-2)

And behold, the glory of the God of Israel came from the way of the east:


 ここで共通なフレーズは、[from the east]であるが、長い間、十字軍のときも、蒙古の侵入のときも多くの人々が東方からキリスト教を信じる軍勢が助けにくると期待し、それを信じていた経緯(いきさつ)がある。
「光は東方から」というので、旧約ではキリストは東からくると信じられていた。秦の始皇帝が遠く東を望んで神仙の国を思い描いていたことは、中国でも東がもっとも貴ばれたからである。東岳大帝が一番偉いのだ。
ヘブライ人も東に礼拝する習慣があったとの記載がある。現在でも欧米宣教師などは、東を日本と考え、日本になにか期待するヴィジョンをもっている。 


 書紀によれば、厩戸皇子の教育には、高句麗からの渡来僧「慧慈」(えじ)が内教(ほとけのみちのり=仏教)について教えられたとされる。
さらに外典(そとふみ)を「覚袈」(かくか)が教えられたと伝える。仏教から外典といえばバラモン教だが、覚袈が西域人であることは確かだ。当時ペルシャ人をハシ人とよび、波斯人と書いた。カクカがペルシャ系の人ではないかという推測は、太子の母が穴穂部間人(あなほのはしひと)と書かれているからである。間人(はしひと)とはペルシャ人のことである。太子の母がペルシャ人の娘であり、厩戸皇子が赤い髪の毛をしていたという伝承はさらに謎を深める。また、仏像が弥勒であることは、ミトラ教の影響があったことを意味する。「秦河勝」は厩戸皇子その人であったのだろう。
広隆寺や中尊寺の「半跏思惟像」は、ガンダーラ仏に似た弥勒菩薩なのである。
かつて、広隆寺が「景教寺」と呼ばれていたことは一体なにを意味するだろうか?





女王国以て北のラインが上手の赤い線 方位角は82,6°、 邪馬台国は国東半島南端より南側にはないことが判明します

これが基底となる図です。あれこれこねくりまわした文章はもう必要ありません。絵図は数千字の表現力を持っています。活字より有効なメディアですから。

隋書』東夷傳
『隋書』は「唐」の太宗の勅命により、魏徴、長孫無忌らが編纂した。編纂には他に顔師古や孔穎達らが参加している。貞観十年(西暦六三六年)、魏徴によって本紀五巻、列傳五〇巻が完成し、その本紀、列傳の完成に遅れること二十年、顕慶元年(西暦六五六年)、長孫無忌によって志三〇巻が完成、高宗に奉呈されている。別に長孫無忌がサボっていた訳ではなく、志の編纂には非常に多大な労力が必要なためである。無論難易度も高い。

維基文庫,自由的圖書館

隋書/卷81


< 隋書>
卷八十一 列傳第四十六 東夷

高麗 百濟 新羅 靺鞨 流求國 俀國

目录
1 高麗
2 百濟
3 新羅
4 靺鞨
5 流求國
6 俀國

高麗
  高麗之先,出自夫餘。夫余王嘗得河伯女,因閉於室內,爲日光隨而照之,感而遂孕,生一大卵,有一男子破殼而出,名曰硃蒙。夫余之臣以硃蒙非人所生,鹹請殺之,王不聽。及壯,因從獵,所獲居多,又請殺之。其母以告硃蒙,硃蒙棄夫余東南走。遇一大水,深不可越。硃蒙曰:「我是河伯外孫,日之子也。今有難,而追兵且及,如何得渡?」於是魚鱉積而成橋,硃蒙遂渡,追騎不得濟而還。硃蒙建國,自號高句麗,以高爲氏。硃蒙死,子閭達嗣。至其孫莫來興兵,遂並夫餘。至裔孫位宮,以魏正始中入寇西安平,毌丘儉拒破之。位宮玄孫之子曰昭列帝,爲慕容氏所破,遂入丸都,焚其宮室,大掠而還。昭列帝后爲百濟所殺。其曾孫璉,遣使後魏。璉六世孫湯,在周遣使朝貢,武帝拜湯上開府、遼東郡公、遼東王。高祖受禪,湯復遣使詣闕,進授大將軍,改封高麗王。歲遣使朝貢不絕。

高句麗の先は扶余から出ている。扶余王の嘗[しょう・じょう「新嘗祭(にいなめサイ)のなめの字で国学者は”なめ”と訓読するが、後裔の師升、升米の升[ショウ]につながるものと思う。]は河伯族の女を得て室内に閉じ込めたところ、日光がまにまに射し込んで河伯の女を照らした。この日光に感じてついに妊娠した。大きな卵が生まれ、殻を破って男子が誕生した。その名を硃蒙と云う。扶余の家臣らは硃蒙を生かしておいてならないと殺すように口をすっぱくして王に請うた。王はこれを聞き入れなかったが、血気盛んに狩をすることを理由に有力者の多い大殿で又殺すことを奏上した。その母は硃蒙に逃げるように伝え、硃蒙は扶余を捨てて南に逃げた。大水に行き当たり、その川が深く超えることができなかった。硃蒙は叫んだ。「われは河伯の外孫である。日神の子である。馬に乗った追手が迫っている。どうやって渡ることができようか。すると、河からここにすっぽんが現れ、積み重なって橋を作った。ついに硃蒙は渡った。追手の騎乗兵は渡ることができず、還ることもできず溺れてしまった。こうして硃蒙が国を興し、国の名を高句麗とし、自ら高氏と号した。その子、閭達が次の王になり、その孫の莫來が兵を興し、ついに扶余を併合した。

注:
*並=まとまる
*硃蒙(朱蒙)の孫とは無恤(大武神王)西暦32年2月、ついに帶素王を殺す。帶素は古事記では八十神(やそがみ)で現れます。帶素王は若き頃、八神比売(やがみひめ天照御大神の若いころの呼び名)をめぐって朱蒙に嫉妬した恋敵でした。この男を朱蒙の孫が滅ぼしたのですね。帶素王の弟は金蛙王の季子(末っ子)ですが、三国史記でもいずれの史書にも名前が失われていると書いてています。兄を裏切って逃亡、100人を伴って逃亡、その先に曷思國を立てましたので、曷思王とします。この帶素王と曷思王こそが、古事記の根の国で須世理比売の父である須佐之男が「庶兄弟をば、坂の御尾に追い伏せ、また河の瀬に追ひ払いて、・・・」とある、庶兄弟とは帶素王と曷思王のことだったのです。
(メインHPの「スサノオは誰?」の「東扶余と高句麗」に詳述しています。ご覧ください。



  其國東西二千里,南北千餘里。都於平壤城,亦曰長安城,東西六里,隨山屈曲,南臨浿水。復有國內城、漢城,並其都會之所,其國中呼爲「三京」。與新羅每相侵奪,戰爭不息。官有太大兄,次大兄,次小兄,次對盧,次意侯奢,次烏拙,次太大使者,次大使者,次小使者,次褥奢,次翳屬,次仙人,凡十二等。復有內評、外評、五部褥薩。人皆皮冠,使人加插鳥羽。貴者冠用紫羅,飾以金銀。服大袖衫,大口袴,素皮帶,黃革屨。婦人裙襦加襈。兵器與中國略同。每春秋校獵,王親臨之。人稅布五匹,谷五石。遊人則三年一稅,十人共細布一匹,租戶一石,次七斗,下五斗。反逆者縛之於柱,爇而斬之,籍沒其家。盜則償十倍。用刑既峻,罕有犯者。樂有五弦、琴、箏、篳篥、橫吹、簫、鼓之屬,吹蘆以和曲。每年初,聚戲于浿水之上,王乘腰輿,列羽儀以觀之。事畢,王以衣服入水,分左右爲二部,以水石相濺擲,喧呼馳逐,再三而止。俗好蹲踞。潔淨自喜,以趨走爲敬,拜則曳一腳,立各反拱,行必搖手。性多詭伏。父子同川而浴,共室而寢。婦人淫奔,俗多遊女。有婚嫁者,取男女相悅,然即爲之,男家送豬酒而已,無財聘之禮。或有受財者,人共恥之。死者殯于屋內,經三年,擇吉日而葬。居父母及夫之喪,服皆三年,兄弟三月。初終哭泣,葬則鼓舞作樂以送之。埋訖,悉取死者生時服玩車馬置於墓側,會葬者爭取而去。敬鬼神,多淫祠。

  開皇初,頻有使入朝。及平陳之後,湯大懼,治兵積穀,爲守拒之策。十七年,上賜湯璽書曰:

  朕受天命,愛育率土,委王海隅,宣揚朝化,欲使圓首方足,各遂其心。王每遣使人,歲常朝貢,雖稱籓附,誠節未盡。王既人臣,須同朕德,而乃驅逼靺鞨,固禁契丹。諸籓頓顙,爲我臣妾,忿善人之慕義,何毒害之情深乎?太府工人,其數不少,王必須之,自可聞奏。昔年潛行財貨,利動小人,私將弩手,逃竄下國。豈非修理兵器,意欲不臧,恐有外聞,故爲盜竊?時命使者,撫尉王籓,本欲問彼人情,教彼政術。王乃坐之空館,嚴加防守,使其閉目塞耳,永無聞見。有何陰惡,弗欲人知,禁制官司,畏其訪察?又數遣馬騎,殺害邊人,屢馳奸謀,動作邪說,心在不賓。朕於蒼生,悉如赤子,賜王土宇,授王官爵,深恩殊澤,彰著遐邇。王專懷不信,恆自猜疑,常遣使人,密覘消息,純臣之義,豈若是也?蓋當由朕訓導不明,王之愆違,一已寬恕,今日以後,必須改革。守籓臣之節,奉朝正之典,自化爾籓,勿忤他國,則長享富貴,實稱朕心。彼之一方,雖地狹人少,然普天之下,皆爲朕臣。今若黜王,不可虛置,終須更選官屬,就彼安撫。王若灑心易行,率由憲章,即是朕之良臣,何勞別遣才彥也?昔帝王作法,仁信爲先,有善必賞,有惡必罰,四海之內,具聞朕旨。王若無罪,朕忽加兵,自余籓國,謂朕何也!王必虛心,納朕此意,慎勿疑惑,更懷異圖。往者陳叔寶代在江陰,殘害人庶,驚動我烽候,抄掠我邊境。朕前後誡敕,經歷十年,彼則恃長江之外,聚一隅之衆,昏狂驕傲,不從朕言。故命將出師,除彼凶逆,來往不盈旬月,兵騎不過數千,歷代逋寇,一朝清蕩,遐邇乂安,人神胥悅。聞王歎恨,獨致悲傷,黜陟幽明,有司是職,罪王不爲陳滅,賞王不爲陳存,樂禍好亂,何爲爾也?王謂遼水之廣,何如長江?高麗之人,多少陳國?朕若不存含育,責王前愆,命一將軍,何待多力!殷勤曉示,許王自新耳。宜得朕懷,自求多福。

  湯得書惶恐,將奉表陳謝,會病卒。子元嗣立。高祖使使拜元爲上開府、儀同三司,襲爵遼東郡公,賜衣一襲。元奉表謝恩,並賀祥瑞,因請封王。高祖優冊元爲王。

  明年,元率靺鞨之衆萬餘騎寇遼西,營州總管韋衝擊走之。高祖聞而大怒,命漢王諒爲元帥,總水陸討之,下詔黜其爵位。時饋運不繼,六軍乏食,師出臨渝關,復遇疾疫,王師不振。及次遼水,元亦惶懼,遣使謝罪,上表稱「遼東糞土臣元」云云。上於是罷兵,待之如初,元亦歲遣朝貢。煬帝嗣位,天下全盛,高昌王、突厥啟人可汗並親詣闕貢獻,於是征元入朝。元懼籓禮頗闕。大業七年,帝將討元之罪,車駕渡遼水,上營於遼東城,分道出師,各頓兵於其城下。高麗率兵出拒,戰多不利,於是皆嬰城固守。帝令諸軍攻之,又敕諸將:「高麗若降者,即宜撫納,不得縱兵。」城將陷,賊輒言請降,諸將奉旨不敢赴機,先令馳奏。比報至,賊守禦亦備,隨出拒戰。如此者再三,帝不悟。由是食盡師老,轉輸不繼,諸軍多敗績,於是班師。是行也,唯于遼水西拔賊武厲邏,置遼東郡及通定鎮而還。九年,帝復親征之,乃敕諸軍以便宜從事。諸將分道攻城,賊勢日蹙。會楊玄感作亂,反書至,帝大懼,即日六軍並還。兵部侍郎斛斯政亡入高麗,高麗具知事實,悉銳來追,殿軍多敗。十年,又發天下兵,會盜賊蜂起,人多流亡,所在阻絕,軍多失期。至遼水,高麗亦困弊,遣使乞降,囚送斛斯政以贖罪。帝許之,頓於懷遠鎮,受其降款。仍以俘囚軍實歸。至京師,以高麗使者親告于太廟,因拘留之。仍征元入朝,元竟不至。帝敕諸軍嚴裝,更圖後舉,會天下大亂,遂不克復行。
百濟
  百濟之先,出自高麗國。其國王有一侍婢,忽懷孕,王欲殺之,婢云:「有物狀如雞子,來感於我,故有娠也。」王舍之。後遂生一男,棄之廁溷,久而不死,以爲神,命養之,名曰東明。及長,高麗王忌之,東明懼,逃至淹水,夫餘人共奉之。東明之後,有仇台者,篤於仁信,始立其國于帶方故地。漢遼東太守公孫度以女妻之,漸以昌盛,爲東夷強國。初以百家濟海,因號百濟。曆十餘代,代臣中國,前史載之詳矣。開皇初,其王餘昌遣使貢方物,拜昌爲上開府、帶方郡公、百濟王。

百済の先は高句麗から出ている。その国(古の稾離国)の王は側室を持っていた。「たちまち妊娠したので、王は自分が妊娠させたとは思えずこの側室を殺そうと思った。その時、側室が告げて言うのには、「ひなどりのような物(黄色に輝く光の比喩)がわたしに入ってきました。それで妊娠したのです。」と言った。王はこの側室を置き去りにして放っておいた。その後、一男がついに生まれた。王は豚小屋に捨てさせたところ、死ななかった。それゆえに、この赤子を神となし、この男子を養うよう命じた。その男子の名を東明といい、長ずるに及んで、稾離国の王はこの男子を亡き者にしようとした。東明は畏れて淹水まで逃亡した。扶余人は東明をそろって共に奉じた。

  其國東西四百五十里,南北九百余里,南接新羅,北拒高麗。其都曰居拔城。官有十六品:長曰左平,次大率,次恩率,次德率,次杆率,次奈率,次將德,服紫帶;次施德,皁帶;次固德,赤帶;次李德,青帶;次對德以下,皆黃帶;次文督,次武督,次佐軍,次振武,次克虞,皆用白帶。其冠制並同,唯奈率以上飾以銀花。長史三年一交代。畿內爲五部,部有五巷,士人倨焉。五方各有方領一人,方佐貳之。方有十郡,郡有將。其人雜有新羅、高麗、倭等,亦有中國人。其衣服與高麗略同。婦人不加粉黛,女辮發垂後,已出嫁則分爲兩道,盤於頭上。俗尚騎射,讀書史,能吏事,亦知醫藥、蓍龜、占相之術。以兩手據地爲敬。有僧尼,多寺塔。有鼓角、箜篌、箏、竽、篪、笛之樂,投壺、圍棋、樗蒲、握槊、弄珠之戲。行宋《元嘉曆》,以建寅月爲歲首。國中大姓有八族,沙氏、燕氏、刀氏、解氏、貞氏、國氏、木氏、苩氏。婚娶之禮,略同于華。喪制如高麗。有五穀、牛、豬、雞,多不火食。厥田下濕,人皆山居。有巨栗。每以四仲之月,王祭天及五帝之神。立其始祖仇台廟于國城,歲四祠之。國西南人島居者十五所,皆有城邑。
「・・・「国には八族の有力な姓があり、沙氏、燕氏、刀氏、解氏、貞氏、國氏、木氏、苩氏。である。婚礼の儀は于華と同じで、また葬式の制度は高句麗と同じである。牛、いのしし、家禽、多くは火を通さず食べる。その田は下が湿っている。人はみな山に住み、大きな栗がある。毎年四月の中頃に、王は天帝、および五帝の神をまつり、漢城の廟にその始祖である尉仇台の立てている。毎年四度廟祭をする。」
  平陳之歲,有一戰船漂至海東𨈭牟羅國,其船得還,經於百濟,昌資送之甚厚,並遣使奉表賀平陳。高祖善之,下詔曰:「百濟王既聞平陳,遠令奉表,往復至難,若逢風浪,便致傷損。百濟王心跡淳至,朕已委知。相去雖遠,事同言面,何必數遣使來相體悉。自今以後,不須年別入貢,朕亦不遣使往,王宜知之。」使者舞蹈而去。開皇十八年,昌使其長史王辯那來獻方物,屬興遼東之役,遣使奉表,請爲軍導。帝下詔曰:「往歲爲高麗不供職貢,無人臣禮,故命將討之。高元君臣恐懼,畏服歸罪,朕已赦之,不可致伐。」厚其使而遣之。高麗頗知其事,以兵侵掠其境。

  昌死,子余宣立,死,子餘璋立。大業三年,璋遣使者燕文進朝貢。其年,又遣使者王孝鄰入獻,請討高麗。煬帝許之,令覘高麗動靜。然璋內與高麗通和,挾詐以窺中國。七年,帝親征高麗,璋使其臣國智牟來請軍期。帝大悅,厚加賞錫,遣尚書起部郎席律詣百濟,與相知。明年,六軍渡遼,璋亦嚴兵於境,聲言助軍,實持兩端。尋與新羅有隙,每相戰爭。十年,復遣使朝貢。後天下亂,使命遂絕。

  其南海行三月,有𨈭牟羅國,南北千餘里,東西數百里,土多麞鹿,附庸於百濟。百濟自西行三日,至貊國云。
新羅
  新羅國,在高麗東南,居漢時樂浪之地,或稱斯羅。魏將毌丘儉討高麗,破之,奔沃沮。其後復歸故國,留者遂爲新羅焉。故其人雜有華夏、高麗、百濟之屬,兼有沃沮、不耐、韓獩之地。其王本百濟人,自海逃入新羅,遂王其國。傳祚至金真平,開皇十四年,遣使貢方物。高祖拜真平爲上開府、樂浪郡公、新羅王。其先附庸於百濟,後因百濟征高麗,高麗人不堪戎役,相率歸之,遂致強盛,因襲百濟,附庸于迦羅國。

  其官有十七等:其一曰伊罰幹,貴如相國;次伊尺幹,次迎幹,次破彌幹,次大阿尺幹,次阿尺幹,次乙吉幹,次沙咄幹,次及伏幹,次大奈摩幹,次奈摩,次大舍,次小舍,次吉土,次大烏,次小烏,次造位。外有郡縣。其文字、甲兵同於中國。選人壯健者悉入軍,烽、戍、邏俱有屯管部伍。風俗、刑政、衣服,略與高麗、百濟同。每正月旦相賀,王設宴會,班賚群官。其日拜日月神。至八月十五日,設樂,令官人射,賞以馬布。其有大事,則聚群官詳議而定之。服色尚素。婦人辮發繞頭,以雜彩及珠爲飾。婚嫁之禮,唯酒食而已,輕重隨貧富。新婚之夕,女先拜舅姑,次即拜夫。死有棺斂,葬起墳陵。王及父母妻子喪,持服一年。田甚良沃,水陸兼種。其五穀、果菜、鳥獸物產,略與華同。大業以來,歲遣朝貢。新羅地多山險,雖與百濟構隙,百濟亦不能圖之。

靺鞨
  靺鞨,在高麗之北,邑落俱有酋長,不相總一。凡有七種:其一號粟末部,與高麗相接,勝兵數千,多驍武,每寇高麗中。其二曰伯咄部,在粟末之北,勝兵七千。其三曰安車骨部,在伯咄東北。其四曰拂涅部,在伯咄東。其五曰號室部,在拂涅東。其六曰黑水部,在安車骨西北。其七曰白山部,在粟末東南。勝兵並不過三千,而黑水部尤爲勁健。自拂涅以東,矢皆石鏃,即古之肅慎氏也。所居多依山水,渠帥曰大莫弗瞞咄,東夷中爲強國。有徒太山者,俗甚敬畏,上有熊羆豹狼,皆不害人,人亦不敢殺。地卑濕,築土如堤,鑿穴以居,開口向上,以梯出入。相與偶耕,土多粟麥穄。水氣咸,生鹽于木皮之上。其畜多豬。嚼米爲酒,飲之亦醉。婦人服布,男子衣豬狗皮。俗以溺洗手面,于諸夷最爲不潔。其俗淫而妒,其妻外淫,人有告其夫者,夫輒殺妻,殺而後悔,必殺告者,由是姦淫之事終不發揚。人皆射獵爲業,角弓長三尺,箭長尺有二寸。常以七八月造毒藥,傅矢以射禽獸,中者立死。

  開皇初,相率遣使貢獻。高祖詔其使曰:「朕聞彼土人庶多能勇捷,今來相見,實副朕懷。朕視爾等如子,爾等宜敬朕如父。」對曰:「臣等僻處一方,道路悠遠,聞內國有聖人,故來朝拜。既蒙勞賜,親奉聖顏,下情不勝歡喜,願得長爲奴僕也。」其國西北與契丹相接,每相劫掠。後因其使來,高祖誡之曰:「我憐念契丹與爾無異,宜各守土境,豈不安樂?何爲輒相攻擊,甚乖我意!」使者謝罪。高祖因厚勞之,令宴飲於前。使者與其徒皆起舞,其曲折多戰鬥之容。上顧謂侍臣曰:「天地間乃有此物,常作用兵意,何其甚也!」然其國與隋懸隔,唯粟末、白山爲近。

  煬帝初與高麗戰,頻敗其衆,渠帥度地稽率其部來降。拜爲右光祿大夫,居之柳城,與邊人來往。悅中國風俗,請被冠帶,帝嘉之,賜以錦綺而褒寵之。及遼東之役,度地稽率其徒以從,每有戰功,賞賜優厚。十三年,從帝幸江都,尋放歸柳城。在途遇李密之亂,密遣兵邀之,前後十余戰,僅而得免。至高陽,復沒于王須拔。未幾,遁歸羅藝。

流求國
  流求國,居海島之中,當建安郡東,水行五日而至。土多山洞。其王姓歡斯氏,名渴剌兜,不知其由來有國代數也。彼土人呼之爲可老羊,妻曰多拔荼。所居曰波羅檀洞,塹柵三重,環以流水,樹棘爲籓。王所居舍,其大一十六間,雕刻禽獸。多鬥鏤樹,似橘而葉密,條纖如發然下垂。國有四五帥,統諸洞,洞有小王。往往有村,村有鳥了帥,並以善戰者爲之,自相樹立,理一村之事。男女皆以白糸寧繩纏髮,從項後般繞至額。其男子用鳥羽爲冠,裝以珠貝,飾以赤毛,形制不同。婦人以羅紋白布爲帽,其形正方。織鬥鏤皮並雜色糸甯及雜毛以爲衣,制裁不一。綴毛垂螺爲飾,雜色相間,下垂小貝,其聲如佩,綴璫施釧,懸珠於頸。織藤爲笠,飾以毛羽。有刀、槊、弓、箭、劍、鈹之屬。其處少鐵,刃皆薄小,多以骨角輔助之。編糸寧爲甲,或用熊豹皮。王乘木獸,令左右輿之而行,導從不過數十人。小王乘機,鏤爲獸形。國人好相攻擊,人皆驍健善走,難死而耐創。諸洞各爲部隊,不相救助。兩陣相當,勇者三五人出前跳噪,交言相罵,因相擊射。如其不勝,一軍皆走,遣人致謝,即共和解。收取鬥死者,共聚而食之,仍以髑髏將向王所。王則賜之以冠,使爲隊帥。無賦斂,有事則均稅。用刑亦無常准,皆臨事科決。犯罪皆斷于鳥了帥;不伏,則上請于王,王令臣下共議定之。獄無枷鎖,唯用繩縛。決死刑以鐵錐,大如箸,長尺餘,鑽頂而殺之。輕罪用杖。俗無文字,望月虧盈以紀時節,候草藥枯以爲年歲。

  人深目長鼻,頗類于胡,亦有小慧。無君臣上下之節、拜伏之禮。父子同床而寢。男子拔去髭鬢,身上有毛之處皆亦除去。婦人以墨黥手,爲蟲蛇之文。嫁娶以酒肴珠貝爲娉,或男女相悅,便相匹偶。婦人產乳,必食子衣,產後以火自炙,令汗出,五日便平復。以木槽中暴海水爲鹽,木汁爲酢,釀米麥爲酒,其味甚薄。食皆用手。偶得異味,先進尊者。凡有宴會,執酒者必待呼名而後飲。上王酒者,亦呼王名。銜杯共飲,頗同突厥。歌呼蹋蹄,一人唱,從皆和,音頗哀怨。扶女子上膊,搖手而舞。其死者氣將絕,舉至庭,親賓哭泣相吊。浴其屍,以布帛纏之,裹以葦草,親土而殯,上不起墳。子爲父者,數月不食肉。南境風俗少異,人有死者,邑里共食之。

  有熊羆豺狼,尤多豬雞,無牛羊驢馬。厥田良沃,先以火燒而引水灌之。持一插,以石爲刃,長尺餘,闊數寸,而墾之。土宜稻、梁、沄、黍、麻、豆、赤豆、胡豆、黑豆等,木有楓、栝、樟、松、楩、楠、杉、梓、竹、藤、果、藥,同于江表,風土氣候與嶺南相類。

  俗事山海之神,祭以酒肴,鬥戰殺人,便將所殺人祭其神。或依茂樹起小屋,或懸髑髏於樹上,以箭射之,或累石系幡以爲神主。王之所居,壁下多聚髑髏以爲佳。人間門戶上必安獸頭骨角。

  大業元年,海師何蠻等,每春秋二時,天清風靜,東望依希,似有煙霧之氣,亦不知幾千里。三年,煬帝令羽騎尉硃寬入海求訪異俗,何蠻言之,遂與蠻俱往,因到流求國。言不相通,掠一人而返。明年,帝復令寬慰撫之,流求不從,寬取其布甲而還。時倭國使來朝,見之曰:「此夷邪久國人所用也。」帝遣武賁郎將陳棱、朝請大夫張鎮州率兵自義安浮海擊之。至高華嶼,又東行二日至郤鼊嶼,又一日便至流求。初,棱將南方諸國人從軍,有昆侖人頗解其語,遣人慰諭之,流求不從,拒逆官軍。棱擊走之,進至其都,頻戰皆敗,焚其宮室,虜其男女數千人,載軍實而還。自爾遂絕。

俀國
  俀國,在百濟、新羅東南,水陸三千里,于大海之中依山島而居。魏時譯通中國。三十余國,皆自稱王。夷人不知里數,但計以日。其國境東西五月行,南北三月行,各至於海。其地勢東高西下。都於邪靡堆,則《魏志》所謂邪馬台者也。古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里,在會稽之東,與儋耳相近。漢光武時,遣使入朝,自稱大夫。安帝時,又遣使朝貢,謂之俀奴國。桓、靈之間,其國大亂,遞相攻伐,歷年無主。有女子名卑彌呼,能以鬼道惑衆,於是國人共立爲王。有男弟,佐卑彌理國。其王有侍婢千人,罕有見其面者,唯有男子二人給王飲食,通傳言語。其王有宮室樓觀,城柵皆持兵守衛,爲法甚嚴。自魏至於齊、梁,代與中國相通。

  開皇二十年,俀王姓阿每,字多利思北孤,號阿輩雞彌,遣使詣闕。上令所司訪其風俗。使者言俀王以天爲兄,以日爲弟,天未明時出聽政,跏趺坐,日出便停理務,云委我弟。高祖曰:「此太無義理。」於是訓令改之。王妻號雞彌,後宮有女六七百人。名太子爲利歌彌多弗利。無城郭。內官有十二等:一曰大德,次小德,次大仁,次小仁,次大義,次小義,次大禮,次小禮,次大智,次小智,次大信,次小信,員無定數。有軍尼一百二十人,猶中國牧宰。八十戶置一伊尼翼,如今里長也。十伊尼翼屬一軍尼。其服飾,男子衣裙襦,其袖微小,履如屨形,漆其上,系之於腳。人庶多跣足。不得用金銀爲飾。故時衣橫幅,結束相連而無縫。頭亦無冠,但垂發於兩耳上。至隋,其王始制冠,以錦彩爲之,以金銀鏤花爲飾。婦人束髮於後,亦衣裙襦,裳皆有襈。躭竹爲梳,編草爲薦,雜皮爲表,緣以文皮。有弓、矢、刀、槊、弩、䂎、斧,漆皮爲甲,骨爲矢鏑。雖有兵,無征戰。其王朝會,必陳設儀仗,奏其國樂。戶可十萬。

  其俗殺人強盜及奸皆死,盜者計贓酬物,無財者沒身爲奴。自餘輕重,或流或杖。每訊究獄訟,不承引者,以木壓膝,或張強弓,以弦鋸其項。或置小石于沸湯中,令所競者探之,云理曲者即手爛。或置蛇甕中,令取之,云曲者即螫手矣。人頗恬靜,罕爭訟,少盜賊。樂有五弦、琴、笛。男女多黥臂點面文身,沒水捕魚。無文字,唯刻木結繩。敬佛法,於百濟求得佛經,始有文字。知卜筮,尤信巫覡。每至正月一日,必射戲飲酒,其餘節略與華同。好棋博、握槊、樗蒲之戲。氣候溫暖,草木冬青,土地膏腴,水多陸少。以小環掛鷺鶿項,令入水捕魚,日得百餘頭。俗無盤俎,藉以檞葉,食用手哺之。性質直,有雅風。女多男少,婚嫁不取同姓,男女相悅者即爲婚。婦入夫家,必先跨犬,乃與夫相見。婦人不淫妒。死者斂以棺郭,親賓就屍歌舞,妻子兄弟以白布制服。貴人三年殯于外,庶人卜日而瘞。及葬,置屍船上,陸地牽之,或以小輿。有阿蘇山,其石無故火起接天者,俗以爲異,因行禱祭。有如意寶珠,其色青,大如雞卵,夜則有光,云魚眼精也。新羅、百濟皆以俀爲大國,多珍物,並敬仰之,恆通使往來。

  大業三年,其王多利思北孤遣使朝貢。使者曰:「聞海西菩薩天子重興佛法,故遣朝拜,兼沙門數十人來學佛法。」其國書曰「日出處天子至書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅,謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者,勿復以聞。」明年,上遣文林郎裴清使於俀國。度百濟,行至竹嶋,南望𨈭羅國,經都斯麻國,迥在大海中。又東至一支國,又至竹斯國,又東至秦王國,其人同於華夏,以爲夷州,疑不能明也。又經十餘國,達於海岸。自竹斯國以東,皆附庸於俀。俀王遣小德阿輩臺,従數百人,設儀仗,鳴鼓角來迎。後十日,又遣大禮,哥多毗,従二百余騎郊勞。既至彼都,其王與清相見,大悦,曰:「我聞海西有大隋,禮義之國,故遣朝貢。我夷人僻在海隅,不聞禮義,是以稽留境内,不即相見。今故清道飾館,以待大使,冀聞大國惟新之化。」清答曰:「皇帝德並二儀,澤流四海,以王慕化,故遣行人來此宣諭。」既而引清就館。其後清遣人謂其王曰:「朝命既達,請即戒塗。」於是設宴享以遣清,復令使者隨清來貢方物。此後遂絕。

  史臣曰:廣穀大川異制,人生其間異俗,嗜欲不同,言語不通,聖人因時設教,所以達其志而通其俗也。九夷所居,與中夏懸隔,然天性柔順,無獷暴之風,雖綿邈山海,而易以道禦。夏、殷之代,時或來王。暨箕子避地朝鮮,始有八條之禁,疏而不漏,簡而可久,化之所感,千載不絕。今遼東諸國,或衣服參冠冕之容,或飲食有俎豆之器,好尚經術,愛樂文史,遊學於京都者,往來繼路,或亡沒不歸。非先哲之遺風,其孰能致於斯也?故孔子曰:「言忠信,行篤敬,雖蠻貊之邦行矣。」誠哉斯言。其俗之可采者,豈徒楛矢之貢而已乎?自高祖撫有周余,惠此中國,開皇之末,方事遼左,天時不利,師遂無功。二代承基,志包宇宙,頻踐三韓之域,屢發千鈞之弩。小國懼亡,敢同困獸,兵連不戢,四海騷然,遂以土崩,喪身滅國。兵志有之曰:「務廣德者昌,務廣地者亡。」然遼東之地,不列於郡縣久矣。諸國朝正奉貢,無闕于歲時,二代震而矜之,以爲人莫若己,不能懷以文德,遽動干戈。內恃富強,外思廣地,以驕取怨,以怒興師。若此而不亡,自古未之聞也。然則四夷之戒,安可不深念哉!




隋書 俀國条
俀國在百濟新羅東南水陸三千里於大海之中依山㠀而居魏時譯通中國三十餘國皆自稱王夷人不知里數但計以日其國境東西五月行南北三月行各至於海其地勢東高西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也古云去樂浪郡境及帯方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近漢光武時遣使入朝自稱大夫安帝時又遣使朝貢謂之俀奴國桓靈之間其國大亂遞相攻伐歴年無主有女子名卑彌呼能以鬼道惑衆於是國人共立爲王有男弟佐卑彌理國其王有侍婢千人罕有見其面者唯有男子二人給王飲食通傳言語其王有宮室樓觀城柵皆持兵守衛爲法甚嚴自魏至于齊梁代與中國相通開皇二十年俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕上令所司訪其風俗使者言俀王以天爲兄以日爲弟天未明時出聽政跏趺座日出便停理務云委我弟高祖曰此太無義理於是訓令改之王妻號雞彌後宮有女六七百人名太子爲利歌彌多弗利無城郭内官有十二等一曰大德次小德次大仁次小仁次大義次小義次大禮次小禮次大智次小智次大信次小信員無定數有軍尼一百二十人猶中國牧宰八十戸置一伊尼翼如今里長也十伊尼翼屬一軍尼

俀國たいこく[一]は百濟くだら、新羅しらぎの東南、大海の中に在ありて、水陸三千里[二]。山㠀さんたうに依よりて居す。魏の時、譯えきの中國に通ずるもの三十餘よ國[三]。皆みな自みずから王を稱しようす。夷人いじんは里數りすうを知らず。但ただ日じつを以て計る。其その國境こくけい、東西は五月で行めぐり、南北は三月で行めぐる。各おのおの海に至り、其その地勢、東高西下。邪靡堆やまたいの都みやこは則すなはち魏志の謂いふ所の邪馬臺やまたい者なるもの也なり。古いにしへに云いふ、樂浪らくろう郡境及および帯方郡並ならびに一萬二千里を去りて、會稽くわいけいの東に在あり。儋耳たんじと相近し。漢の光武の時、使ひを遣つかはして入朝し、自みずから大夫たいふを稱しようす。安帝の時、又また使ひを遣つかはして朝貢す。之これを俀奴たいぬ國と謂いふ。桓靈かんれいの間あひだ、其その國大おほいに亂みだれ遞たがひに相攻伐こうばつして歴年主無し。女子有り、名は卑彌呼ひみか。鬼道を以て能よく衆を惑まどはす。是これに於おいて國人、共ともに立てて王と爲なす。男弟有り、卑彌ひみを佐たすけ國を理おさむ。其その王侍婢じひ千人有り。其その面を見る者罕まれに有り。唯ただ男子二人有りて王に飲食を給じ、言語を通傳つうでんす。其その王、宮室きゅうしつ、樓觀ろうくわん、城柵じやうさく有りて、皆みな兵を持して守衛す。法を爲なすこと甚はなはだ嚴きびし。魏自より齊せい、梁りやうに至り代よ中國と相通ず。開皇二十年、俀たい王、姓は阿毎あま、字あざなは多利思北孤たりしほこ、號かうは阿輩雞彌おほきみ、使ひを遣つかはして闕けつに詣いたる。上しやう、所司に其その風俗を訪とはしむ。 使者言ふ、俀たい王は天を以て兄と爲なし、日を以て弟と爲なす。天、未いまだ明けやらぬ時に出いでて政まつりごとを聽きき、跏趺けつかして座し、日出いずれば便すなはち理務を停とどめ、我が弟に委ゆだねんと云いふ。高祖曰いはく、此これ太おほいに義理無し。是ここに於おいて訓して、之これを改あらためせしむ。王の妻は雞彌きみ[十三]と號かうす。後宮に女、六、七百人有り。太子は名を利歌彌多弗利りかみたふり[十四]と爲なす。城郭じやうくわく無し。内官に十二等有り。一に曰いはく大德たいとく、次に小德せうとく、次に大仁たいじん、次に小仁せうじん、次に大義たいぎ、次に小義せうぎ、次に大禮たいれい、次に小禮せうれい。次に大智たいち、次に小智せうち、次に大信たいしん、次に小信せうしん[十五]。員に定數無し。軍尼ぐんぢ一百二十人有り。猶なほ中國の牧宰ぼくさい[十六]のごとし。八十戸に一伊尼翼いぢよくを置く。今の里長りちやう[十七]の如ごとく也なり。十伊尼翼いぢよくは一軍尼ぐんぢに屬ぞくす。

俀国は百済、新羅の東南の海中にあり、水陸あわせて三千里のところにある。大海の中の山島に居住し、魏の時、中国に使者を派遣するところ三十国あった。みな王を自称した。夷人は里数を計ることを知らず日を数える。その国境は西に五ヶ月、南北へは三ヶ月進むとそれぞれ海に至る。その地勢は東が高く西が低い。邪靡堆に都す。即ち、魏志にいうところの邪馬臺國である。古くは、楽浪郡境、帯方郡を去り、あわせて一万二千里と言っていた。会稽の東、儋耳に近い。後漢の光武帝の時入朝し、大夫を自称した。安帝のときまた使いを遣わせて朝貢した。これを俀奴國と言う。(後漢の)桓帝と靈帝の間、俀國は大乱のさなかにあり、相攻伐して長年王がいなかった。卑弥呼という女性がいて鬼道を以て衆を惑わしていた。ここにおいて国人は共立して王とした。男の弟がいて、卑弥呼が国を治めることを佐けていた。女王は侍女を千人持ち、その顔を見る者は稀であった。ただ男子が二人王の飲食を給仕し、言葉を取り次いだ。王は宮室、楼観、城柵を持ち、みな兵に守衛させていた。法はすこぶる厳格である。魏から齊、梁に至るまで代々通交してきた。開皇二十年(西暦600年)、俀王、姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤(たりしほこ。または多利思比孤、たりしひこ)、号は阿輩雞彌(音読は、あはいけいみ、あふぁいけいみ、あはいきぇいみえ、のいずれかで「おほきみ」のこと)、使いを遣わせて宮城に詣らせた。皇帝は所司に命じてその風俗を尋ねさせた。使者曰く「俀王は天を兄とし、日を弟としています。天がまだ明けやらない頃にお出ましになり結跏趺坐して、政を聴きます。日が昇ればすぐに政務をやめて、我が弟に委ねると言います」高祖曰く「これは甚だ道理にかなっていない」ここに訓令してこれを改めさせた。王の妻は雞彌(きみ)と号す。後宮には女性が六、七百人いる。太子を利歌彌多弗利(りかみたふり)と呼ぶ。内部の官職は十二の等級に別れている。一に曰く、大德、次に小德、次に大仁、次に小仁、次に大義、次に小義、次に大禮、次に小禮、次に大智、次に小智、次に大信、次に小信。定員は決まっていない。軍尼が百二十人いて、中国の牧宰(官職名、国司ともいう)のようなものである。八十戸に伊尼翼を一人置く。今の中国の里長のようなものである。十伊尼翼が軍尼ひとりに属する。

其服飾男子衣裙襦其袖微小履如屨形漆其上繋之於脚人庶多跣足不得用金銀爲飾故時衣横幅結束相連而無縫頭亦無冠但垂髪於兩耳上至隋其王始制冠以錦綵爲之以金銀鏤花爲飾婦人束髪於後亦衣裙襦裳皆有襈攕竹爲梳編草爲薦雜皮爲表縁以文皮有弓矢刀矟弩【扁矛旁賛】斧漆皮爲甲骨爲矢鏑雖有兵無征戦其王朝會必陳設儀杖奏其國樂戸可十萬其俗殺人強盗及姦皆死盗者計贓酬物無財者没身爲奴自餘輕重或流或杖毎訊究獄訟不承引者以木壓膝或張強弓以弦鋸其項或置小石於沸湯中令所競者探之云理曲者即手爛或置蛇瓮中令取之云曲者即螫手矣人頗恬静罕争訟少盗賊樂有五弦琴笛男女多黥臂點面文身没水捕魚無文字唯刻木結繩敬佛法於百濟求得佛經始有文字知卜筮尤信巫覡毎至正月一日必射戲飲酒其餘節與華同好棊博握槊樗蒲之戲氣候温暖草木冬青土地膏腴水多陸少以小環挂鸕鷀項令入水捕魚日得百餘頭俗無盤爼藉以檞葉食用手餔之性質直有雅風女多男少婚嫁不取同姓男女相悦者即爲婚婦入夫家必先跨犬乃與夫相見婦人不婬妬死者斂以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服貴人三年殯於外庶人卜日而瘞及葬置屍船上陸地牽之或以小轝有阿蘇山其石無故火起接天者俗以爲異因行禱祭有如意寶珠其色青大如雞卵夜則有光云魚眼精也新羅百濟皆以俀爲大國多珎物並敬仰之恒通使往來

其その服飾、男子の衣は裙襦くんじゆにして其その袖そでは微小。履くつは屨形くけいの如ごとく其その上に漆うるしをして之これを脚あしに繋つなぐ。人庶は多く跣足せんそく。金銀を用ゐて飾かざりと爲なすを得ず。故時、衣は横幅おうふく、結束けつそくして相連つらね、而しかうして縫ほう無し。頭亦また冠くわんむり無く但ただ髪を兩耳りようみみの上に垂たらす。隋に至りて其その王、始めて冠くわんむりを制す[二十一]。錦綵きんさいを以て之これを爲なし、金銀を以て花を鏤ちりばめて飾かざりと爲なす。婦人は髪を後うしろで束たばね、亦また衣は裙襦くんじゆ、裳せう。皆みな襈攕ちんせん有り。竹を梳くしと爲なす。草を編みて薦せんと爲なし、雜皮さふひを表と爲なし、文皮を以て縁ふちとす。弓、矢、刀、矟さく、弩ど、【扁矛旁賛】さん、斧有り。皮に漆うるしして甲と爲なし、骨を矢鏑してきと爲なす。兵有りと雖いへども征戦無し。其その王、朝會ちやうくわいに必ず儀杖ぎじやうを陳設ちんせつし、其その國の樂がくを奏そうす。戸、十萬まん可ばかり。其その俗、殺人、強盗及び姦かんは皆みな死。盗ぬすむ者は贓ざうを計り物を酬むくひさせ、財無き者は身を没して奴どと爲す。自餘じよは輕重けいちやうにより或いは流し、或いは杖じやうす。獄訟ごくせうを訊究じんきうする毎ごとに承引しよういんせざる者は木を以て膝ひざを壓あふし、或いは強弓きやうきうを張り弦を以て其その項うなじを鋸きよす。或いは小石を沸湯ふつたうの中に置き、競する所の者に之これを探らしめ、云いふ、理、曲なる者は即すなはち手、爛ただると。或いは蛇を瓮中をうちやうに置き、之これを取らさしめ、云いふ、曲なる者は即すなはち手に螫ささると。人頗すこぶる恬静てんせいにして争訟さうそ罕まれ。盗賊少すくなし。樂がくに五弦の琴、笛有り。男女多おほくは臂ひに黥げいし面に點てんして身に文す。水に没して魚を捕とらふ。文字は無く、唯ただ木に刻み、繩なわを結むすぶ。佛法ふつはふを敬うやまひ、百濟くだらに於いて佛經ふつけいを求め得て始めて文字有り。卜筮ぼくせいを知る。尤もつとも巫覡ふげきを信ず。正月一日に至る毎ごとに必ず射戲しやぎ、飲酒す。其その餘節よせつ華くわと同じ。棊博きはく、握槊あくさく、樗蒲ちよほの、戲たはむれを好む。氣候きこうは温暖。草木は冬、青し。土地は膏腴かうゆにして水多く陸少なし[四十一]。小環せうくわんを以て鸕鷀ろしの項くびすじに挂かけ、水に入りて魚を捕へさしむ。日に百餘よ頭を得る。俗に盤爼ばんそ無く、檞葉かいえふを以て藉しき、食するに手を用ゐて之これを餔くふ。性質は直にして雅風有り。女多く男少なし。婚嫁こんかに同姓を取らず[四十四]。男女相悦よろこべば即すなはち婚と爲なす。婦、夫家に入るに必ず先に犬を跨またぎ、乃すなはち夫と相見まみえる。婦人婬妬いんとせず。死者は棺槨くわんくわくを以て斂おさめ]、親賓しんぴんは屍しかばねに就つきて歌うたひ舞おどる。妻子兄弟は白布を以て服を製す。貴人は三年外で殯もがりす。庶人は日を卜ぼくして而しかうして瘞うずむ。葬はうむるに及およんで屍しかばねを船上に置き、陸地で之これを牽ひく。或いは小轝せうれんを以てす。 阿蘇山有り。其その石いわ、故ゆゑ無く火が起こり天に接すれば、俗、以て異因と爲なし禱祭たうさいを行おこなふ。如意寶珠じよいはうしゆ有り。其その色青く、大きさ雞卵けいらんの如ごとし。夜則すなはち光有り。魚眼の精と云いふ也なり。新羅しらぎ、百濟くだら、皆みな俀たいを以て大國にして珎物ちんぶつ多おほしと爲なし並ならびに之これを敬仰けいぎやうし恒つねに通使が往來おうらいす。

その国の服飾について、男性は裙襦(短い上着とスカート)でその袖はとても短い。履き物は外側に漆を塗った革靴のような形で、足にかけて履く。庶民の多くは裸足である。金銀を使って飾り立てたりできない。昔は、幅広の衣を互いに連ねて結束し、縫製しなかった。頭に冠を被らず、ただ両耳の上に髪を垂らしていた。隋の時代になって、俀國王は冠の制度を定めた。錦やあやぎぬで冠を作り、金銀で花を作って散りばめて飾り付ける。女性は後ろで髪を束ね、また裙襦(短い上着とスカート)と裳(長いスカート)を着ている。皆、襈攕(ちんせん)あり。竹を櫛に使う。草を編んで敷物にする。色々な皮で表を覆い、美しい皮で縁取りをする。弓矢、刀、矟(矛の一種か?)、弩、【扁矛旁賛】(さん)、斧があり、漆を塗った皮を甲冑にし、鏃に骨を使う。兵がいるとはいえ、征戦することはない。その王、朝会に必ず儀仗兵を並べ置き、国の音楽を演奏させる。戸数は十万ばかりある。その風俗として、殺人、強盗、姦通はみな死刑にし、盗みを働いた者は盗んだ物に応じて弁済させ、財産がない場合は、その身を没して奴隷にする。それ以外は、罪の軽重によって流罪にしたり、杖罪にしたりする。犯罪事件の取調べでは毎回、罪を認めない者は木で膝を圧迫したり、あるいは強く張った弓の弦でそのうなじを打つ。あるいは小石を沸騰した湯の中に置いて競い合う者同士でこれを探させる。その際、道理の正しくない者は手が爛れると伝える。あるいは蛇を亀の中に入れ、これを取り出させる。その際、邪な者はまた手を噛まれると伝える。人々はとても落ち着いており、訴訟は稀で、盗賊も少ない。楽器には、五弦の琴、笛がある。男女の多くは肩から手首までに入れ墨をし、顔にも小さな入れ墨を点々と入れ、体にも入れ墨をしている。水に潜って魚を捕らえている。文字はなく、ただ木を刻んだり縄を結んで文字の代わりとしている。仏法を敬い、百済で仏教の経典を求めて入手して、初めて文字を読み書きするようになった。卜筮が知られている。巫覡を最も信じている。毎年正月一日には必ず射撃競技をし、酒を飲む。その他の節句は中華とほぼ同じである。かけ囲碁、すごろく、さいころ博打の遊戯を好む。気候は温暖で、草木は冬にも枯れない。土地は土が柔らかく肥えており、水辺が多くて陸地が少ない。小さな輪を川鵜の首に掛けて水中で魚を捕らせ、日に百匹あまりを得る。食事の俗では盆や膳、敷物はなく、かしわの葉に食事を盛り、手を使って食べる。性質は素直で雅風がある。女が多く男が少ない。同姓は結婚しない。男女が情を交わすことが即ち結婚である。妻が夫の家に入る時は、必ずまず犬を跨ぎ、それから夫に相見える。妻は浮気したり、嫉妬したりしない。死者は棺(ひつぎ)槨(うわひつぎ)に収める。故人に親しい客は屍のそばで歌い踊り、妻子兄弟は白い布で服を作って着る。身分の高い人は外で三年間もがりし、庶民は日を占って埋葬する。葬儀になると、屍を船の上に置き、陸地でこれを牽く。あるいは小さな輿に乗せる。阿蘇山がある。その岩は理由なく天に接するばかりの火柱をおこすのが慣わしであり、これを異常なことと考えるがゆえに祭祀を執り行う。如意寶珠があり、その色は蒼く、大きさは鶏卵ほどで、夜になると光り、魚の目の精霊だと伝えているそうだ。新羅、百済はみな俀を大国で珍物が多いのでこれを敬い仰ぎ見ており、常に使者が往来している。

大業三年其王多利思北孤遣使朝貢使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法其國書曰日出處天子致書日没處天子無恙云云帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞明年上遣文林郎裴清使於俀國度百濟行至竹㠀南望【扁身旁冉】羅國經都斯麻國迥在大海中又東至一支國又至竹斯國又東至秦王國其人同於華夏以爲夷州疑不能明也 又經十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀俀王遣小德阿輩臺従數百人設儀仗鳴鼓角來迎後十日又遣大禮哥多毗従二百余騎郊勞既至彼都其王與清相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢我夷人僻在海隅不聞禮義是以稽留境内不即相見今故清道飾館以待大使冀聞大國惟新之化清答曰皇帝德並二儀澤流四海以王慕化故遣行人來此宣諭既而引清就館其後清遣人謂其王曰朝命既達請即戒塗於是設宴享以遣清復令使者隨清來貢方物此後遂絶

大業たいげふ三年、其その王多利思北孤たりしほこ、使ひを遣つかはし朝貢ちやうこうす。使者曰いはく、海西の菩薩ぼさつ天子、重かさねて佛法ふつはふを興おこすと聞く。故ゆゑに遣つかひして朝拜ちやうはいし、兼かねて沙門さもん數すう十人來きたりて佛法ふつはふを學まなぶ[五十四]。其その國書に曰いはく、日出いずる處ところの天子、日没する處ところの天子へ書を致す。恙つつが無なきや云云うんぬん。帝、之これを覧らんじて悦よろこばず。鴻臚卿こうろけいに謂いひて曰いはく、蠻夷ばんいの書に無禮ぶれい有れば復また以て聞ぶんする勿なかれ[五十五]。明くる年、上しやう、文林郎ぶんりんらう裴清はいせい[五十六]を遣つかはし、俀たい國に使ひす。百濟くだらに度わたり行きて竹㠀ちくたう[五十七]に至る。南に【扁身旁冉】羅たんら國[五十八]を望み、都斯麻つしま國を經て迥はるか大海中に在り。又また東に一支いき國へ至る。又また竹斯ちくし國へ至る[五十九]。又また東へ秦王しんおう國へ至る。其その人、華夏くわかに同じ。以て夷州いしうと爲なす。疑うたがふも明あきらかにすること能あたはず也なり[六十]。又また十餘よ國を經へて海岸に達す。竹斯ちくし國自より以東は皆みな俀たいに附庸ふやうす。俀たい王、小德せうとく阿輩臺おほたいを遣つかはし數すう百人を従へ儀仗ぎじやうを設まうけ鼓角こかくを鳴らし來迎らいげいす。後のち十日、又また大禮たいれい哥多毗かたひを遣つかはし、二百余騎を従へ郊かうで勞ねぎらふ。既すでに彼かの都みやこへ至り、其その王、清と相見まみえ大おほいに悦よろこび曰いはく、我われ、海西に大隋たいずい禮義れいぎの國有りと聞く。故ゆゑに遣つかはして朝貢ちやうこうす。我われ夷人いじん、海隅かいぐうに僻在へきさいし、禮義れいぎを聞かず。是これを以て境内けいだいに稽留けいりうし、即ただちに相見まみえず。今、故ことさらに道みちを清め、館を飾り、以て大使を待つ。冀こいねがはくば大國惟新ゐしんの化を聞かん。清、答へて曰いはく、皇帝の德とくは二儀に並ならび、澤たくは四海に流る。以て王を慕したひ化す。故ゆゑに行人を遣つかはし此ここに來きたりて宣諭せんゆす。既すでに清を引かせて館に就つかしむ。其その後、清、人を遣つかはして其その王に謂いひて曰いはく、朝命既すでに達す。即すなはち塗みちを戒いましめんことを請こふ。是これにおいて宴享えんきやうを設まうけ、以て清を遣つかはし、復また使者を清に隨したがひて來きたらしめ、方物を貢みつぐ。此この後あと遂つひに絶つ。

大業三年(西暦六〇七年)俀国の王、多利思北孤が使いを遣わし、朝貢してきた。使者曰く「海西の菩薩天子が重ねて仏法を興しなされたと伺ったので、遣使して朝廷に拝謁させて頂き、あわせて仏僧数十名が仏法を学ぶためにやって来ました」その国書に曰く「日出ずる処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙なきや云々」皇帝はこれをご覧になって不快に思われ、鴻臚卿(外交担当の卿)に「蠻夷の書に無礼な点があれば、今後は取り次ぐな」と仰った。翌年、上(皇帝)は、文林郎の裴清を俀國に使者として派遣した。百済に渡り竹島へ行き、南に【扁身旁冉】羅國を望み、都斯麻國を経て遙かに大海中にあり、また東へ行き一支國へ至り、また竹斯國へ至る。また東に行き秦王國へ至る。そこの人は中華の人の末裔であり、東夷の中に国を建てている。疑わしいがはっきりさせることができなかった。また十国あまりを経て海岸に達した。竹斯國から東は、すべて俀の属国である。俀王は小德の阿輩臺を遣わし、数百人を従えて儀仗兵を並べ、鼓角を鳴らして歓迎した。十日後にまた大禮の哥多毗を遣わして、騎兵二百騎あまりを従え、郊外で慰労した。裴清が都へ至ると俀の王は相見えて大変喜んて言った「私は海の向こう西の方に、大隋という礼儀の国があることを聞いていた。そのため朝貢したのです。私は野蛮な者で、海の隅っこの田舎に住んでいて、礼儀を耳にしたことがありません。そのため、国内に入って頂いておりながら、すぐにお会いすることをしなかったのです。今道を清め館を飾りましたので、大使をお迎えし、大国維新の化をお聞きしたいと切に願っています」裴清答えて曰く「皇帝の徳は天と地を覆い、恩恵は四海に流れ、そのため王を慕い教化されるのです。だからこそ使者を派遣し、これを教え諭すのです」裴清は館に引き上げた後、人を遣って俀王に伝えさせた。曰く「朝命は既に達成されました。帰国を命じて下さい」ここにおいて宴会を催し、裴清を送り出した。また使者を裴清に随行させて様々な献上品を貢ぎに来た。この後、とうとう朝貢は途絶えた。

邪馬臺」国でもなく「俀(たい)」國である。私は「大倭(たゐ)」の音を写したものだと考える。隋唐の頃は発音が変化しており「邪馬臺」は「やまたい」ではなく「やまだい」と読むようになっていたからである。
隋の一里は、約五百三十一メートル。三千里は一千五百九十三.五十四メートルになる。隋の国境から北九州まで大凡それくらいの距離になる。どうやって出したのだろうか。あるいは地理志を読めばわかるのかも知れないが、とても取り組む時間が取れない。
この一文だけでも魏徴が前史を孫引きして済ませたのではなく、丹念に調査したことがわかる。さすが、諫議大夫に任じられるだけのことはあると思わせる箇所である。魏徴の人となりは『貞観政要』にもよく表れている。
この記載は重要である。隋以前に使者を倭に送ったことが正史に記載されている王朝は、三国時代の魏しかない。つまり『魏志倭人伝』では倭人から聞き取りした内容を記述した部分は日数を距離に単純計算していることを示す。ところがその魏は実際に使者を送って卑彌呼に勅語を伝えているので、その所在記事が倭人からの聞き取りだけで成立しているとは考えにくい。従って倭人からの聞き取りであることが確実なのは、せいぜい侏儒国、裸國、黑齒國の所在くらいであろうか。
隋の頃といえば飛鳥時代である。旅行には米くらいは担いでいったかも知れないが、副菜は現地調達だっただろう。たっぷり財産のある豪族であれば、配下を使って狩りや山菜木の実の収集をさせればよいとはいえ、一日に進める距離には限界がある。街道が整備され、駅伝が置かれた江戸時代にあってさえ、大名行列の進行速度は一日平均三十八㎞だったという。駅はおろか街道すら整備されていたかどうか疑わしいこの時代、一日十㎞も進めなかったのではないだろうか。あるいは船でも潮待ちがあるので事情はあまり変わらなかっただろう。
東側の標高が高く、西側が低いという地勢は、大和には当てはまらない。なにせ盆地である。まあ大阪を西と見なせばそう言えないこともないが、大和の地勢を述べるのに大阪を含めるほど隋の遣使は魯鈍ではなかろう。
ルビで読むと同語反復になっているが、「馬(ma)」と「靡(mjie̯、mǐe、mjĕ、mie)」、「臺(dʰɑ̆i、dɒi、dʰAi、dəi)」と「堆(tuɑ̆i、tuɒi、tuAi、tuəi)」で発音が異なる。
「倭奴」國だったので、倭を俀に機械的に置換したのだと思われる。ここの錯誤はそれだけでなく、後漢の安帝の時代(西暦一〇七年)に朝貢した国を間違えている。あるいは魏徴のことだから、諸記録を丹念に調べて『後漢書』東夷傳にある「倭国王帥升等」が「倭奴國」の者であったという記録を見つけたのだろうか。東夷の一国のためにそこまで労を割くとも思えないが。
一人であった男子が二人に増えている。これは何を参照して変更したのか非常に気になる。あるいは単なる誤りだろうか。
ここまでが「古云」の内容である。
俀王に「姓」があることに注意。天皇に姓はない。その姓が「阿毎」であり「天」であることは間違いないだろう。「多利思北孤」は「多利思比孤」の誤りとする説もあるが、例によって「似ている」が根拠である。これは「国書」に書かれていた自署をそのまま写したものであり、間違いの可能性は低い。この頃には既に「オオキミ」号が成立していたことがわかる。古来天皇は「命」号だったのだ。あるいは「天皇(すめらみこと)」とやはり「みこと」である。この点からも、俀國、つまり倭國はヤマト王権とは別の王権であることがわかる。いや、ヤマト王権なるものがそもそも天武天皇の時代までなかったのではなかろうか。なお、「阿輩雞彌」は音読すると「あ(お)はいけいみ」「あ(お)ふぁいけいみ」「あ(お)はいきぇいみえ」のいずれかだろう。「闕」とは古代中国の宮殿を表す。
複式統治の様子が語られている。兄が天であるので、祭祀王である。弟がその天を巡る日なので、政治王となる。
音読すると「けいみ」「きえいみえ」で、つまり「きみ」。「きさき」でないことに注意。
音読すると「りかみたふっり」「りかみえたふぃぁっり」、つまり「りかみたふり」。
順序は多少違うが、『冠位十二階』を表したものと通常は解釈されている。仮にそれが正しいとしてもヤマト王権の冠位十二階は「倭」が授与するものであったことがわかる。
「牧宰」とは「刺史」あるいは「牧」と呼ばれた中国の地方長官のこと。警察権、司法権、兵権を併せ持ち、強大な権力を行使した。
隋唐の「里長」とは地方行政単位の里の長で律令制の最末端の吏。漢代・唐代に里正,明代の里甲制では里長と呼ぶ。時代が外れるが、明の頃の「里」は、徭役負担の義務をもつ百十戸を基準として一里を編成し,丁糧の多い富裕戸十戸を里長戸,残りの百戸を甲首戸とし,これを十戸ずつ十甲に分けた。そして里長一人,甲首十人が毎年輪番でその里のさまざまの役に当たり十年で一周したという。つまり、戸を十戸従えていた。隋唐の頃も余り変わりなかったと思われる。
どんな服装であったかは「職貢図」(倭國使図写真)「職貢図」倭國使
が参考になる。「裙」はスカート状の着衣のことだが、「裙嬬」となると元がどんな服か想像できない。あるいは「嬬裙」と同じ意味だろうか。それなら女性の服と言うことになるので、高腰嬬裙
高腰嬬裙などの上着を想像すればよいことになる。これの袖を絞ったか、ほとんど袖のない衣裳に似ていたか。「職貢図」に描かれた倭國使の上着がそう見えないこともない。なお「職貢図」に描かれた倭國使の姿だが、裸足で書かれているので相当古い時代の資料を根拠にしていることがわかる。おそらく三国時代に魏へ朝貢した使者の姿だろう。
「履如屨形」で「履」も「屨」もくつである。次の図の履・屨
上から三つめが「屨」らしい。「舃」とは底が二重になったもので、泥の中に立っていなくてはならない時に使ったようだ。「屨」など通常の履の底は一重。
庶民は金銀の使用が禁止されていたというのが、厳しい身分秩序のあったこを窺わせる。
隋の時代になってから、つまり六世紀末に冠の制度を定めたとある。『梁書』諸夷傳にも記述があったように、それまでにも冠をつけることはあったが、それは個人的な趣味であって、国家体制に組み込まれたものではなかった。故に、先の十二階と併せて「冠位十二階」の制定を指したものと解釈されることが多いが、位階は位階、冠は冠で別に定められたと解釈することも可能である。ひとつの制度なら併せて記録するのが本来だからである。
「錦綵」とあるところから、冠というより「帽」に近いものだったようである。
高松塚古墳の壁画に描かれた女性が来ている服がこれに近いのではないかと思う。
嬬裙・裳
「撷芳殿洒扫的日记」の「明代宫廷服饰简介(八)——皇后常服」によると、「缘襈裙」というものがあって、
缘襈裙
どうも襈は装飾の一種らしいということがわかる。「攕」も同様だろうが筆者には何を指すものか探し出せなかった。ご存じの方がいらっしゃればご教示願いたい。
この草とは何だろう。藁であろうか。あるいはい草を畳表のように編んで敷物にしたのであろうか。
矟とは馬上で振るう矛のこと。【扁矛旁賛】(さん)は文字そのものがユニコードに定義されていない。小型の矛らしい。
これが魏徴ら編纂者の誤りでなければ、倭は遂に北を抑えることに成功したことになる。註[五十二]の部分にある通り、百済、新羅とは使者が通交していた。この時の倭の版図はどこまでであっただろうか。武蔵国はまだ併呑されておらず、その設置はヤマト王権に委ねられた。東は 越前国、越中国、越後国、尾張国、三河国、遠江国までが地続きで、加えて安房国、上総国、下総国が既に勢力圏であったと言ってよいだろう。南は無論、種子島、屋久島、奄美大島に及んでいたと考えられる。西は五島列島まで配下にしていただろう。倭の五王の構想は実現したのだろうか。
この風習はヤマト王権に継承された気配がない。なぜだろうか。
『魏志倭人伝』に記載された戸数を合算すると、十五万戸になる。この数字に誤りがないとすると大きく人口が減っていることになる。長年の遠征で人口が減少してしまったのだろうか。あるいは新たに征服した地に大規模な植民を行っていった結果、元の倭の人口が減ったとも考えられる。
殺人、強盗はともかく、「姦」も死罪となっている。「姦」とは姦通、つまり結婚した女性の浮気のことを言う。この記述はこの時期の倭國が嫁取婚に移行していたことを示す。
捜査が峻厳を通り越して拷問を加えている。冤罪も多かったのではないだろうか。
これを「盟神探湯(くがたち)」と言う。本当に手を入れさせようとしたのではなく、原告被告の両者が神に宣誓させた上でそう脅すのである。その結果、不正直な方は神威を畏れて自白したというわけである。従って盟神探湯の実効性を信じて疑わない族の者にしか意味がない。
これも「盟神探湯」と同様の手順を踏んだものと思われる。
隋は実際に使者を送っているので『魏志倭人伝』の引用とは思えない。しかし訴訟が少ないのはともかく、窃盗が少ないというのは本当だろうか。平安時代のだらしなさを見ていると、かなり法が厳格に執行されていたことの方が驚きだ。
五弦の琴は今日の和琴の原型である。よく見かける箏を琴だと思っている人が多いが、箏は奈良時代に唐から伝わった別物。
男女とも腕に入れ墨し、顔にもぽつぽつと入れ、身体にも入れ墨をする。女性もすることでファッション化が進んだであろうか。この頃には「鯨面」でなかったことがわかる。
始めて文字が移入されたのなら、今までの朝貢の際の上表文は何だったんだということになるが、ここは民間の習俗を書いた下りであると言うことを思い起こさなくてはならない。上表文などを読み書きしたのは支配階級であり、ここはその下の層に文字が広がったことを述べているのである。
筮は周代から中国では広く行われた占い法である。大陸から情報を収集していた倭が知らないはずがない。実際はかなり早い段階から用いられるようになっていたのではないだろうか。巫覡の「巫」は女性で「覡」は男性。ともに神がかりの状態から神託を下す者をいう。
新年を祝うのは今と同じであったようだが、射戲、つまり弓で的に当てる競技(むろん、神事であった)があったことが目を引く。後世「射礼」となったものだと思うが、倭王武の尚武の気風が受け継がれていたことを窺わせる。
「棊博」はかけ囲碁、かけ将棋の類。「握槊」はすごろくの類。「樗蒲」さいころ博打。つまり、賭け事好きは変わってないということだ。
「膏腴」は「地味が肥えていること。また、そういう土地や、そのさま」。水辺が多くて陸地が少ないとは、人家や田畑が海岸沿いや川沿い、川洲に集まっていることを示す。博多湾岸や筑後平野、有明はもとより、九州自体がそういう地勢である。この点も「倭」の国が大和などにはなく、九州にあることを表している。
「鸕鷀」は「鵜」のこと。読んでおわかりの通り「鵜飼い」があったことを示す文章である。既に漁法として完成されていることから、その始まりはもっと古く、少なくとも一千五百年以上の歴史があることになる。
『魏志倭人伝』に「食飲用籩豆手食」とあるのと矛盾する。この前後、庶民の生活風景を描いていることから、庶民の食事作法を述べたものではないかと思う。しかし相変わらず手で食べている。煮物など冷めてから食べていたのだろうか。謎だ。
なぜ「女が多く男が少ない」が繰り返されているのだろうか。答礼使の裴清は実際に倭の国へ行ったのだから、本当に女が多いかどうか見たはずである。にも関わらずこう書いているということは本当に女が多かったのか。これが倭の五王の時代のように戦争に次ぐ戦争の時代であれば、兵となる男が次々に死んでいき女が多くなることも、あるいはあったかも知れない。しかしこの時代戦争はなく、男女比が狂う理由がない。出産の時男児が生まれたら殺していたとでも考えなければ辻褄が合わない。謎である。さらに同姓不婚とある。これは元々中国の習俗で、同姓=同族なので、同族同士は結婚しないというタブーから来ている。その習俗が移入されていたことを示す。少なくとも倭の支配者層は同族で婚姻はしなかったのだろう。尤も、妻問婚は通常よその氏族の女に通うものだから、自然とそういう風習ができあがっていたと言えなくもない。
中国との交際も長くなれば、その婚姻習俗も取り入れられていてもおかしくない。何せ一時は王自ら中国名を名乗ったくらいである。従って、倭の国が、あるいはその支配者層が嫁取り型の婚姻であったとしても驚くに値しない。ただし「男女相悦者即爲婚」とあるのは、所謂「嫁取婚」とは大きく風俗が異なることを示している。お互いが気に入って性交すればそれが即ち結婚だということであるから、随分「妻問婚」的である。「婦入夫家必先跨犬」とあるのは「火」の誤りであるとする説がある。「火跨ぎ」は昭和中頃まで残っていた風習で、嫁入りの際、婚家に入る時に新婦に火をまたがせる儀式である。ではそれで決まりかというと、犬の嗅覚が鋭いことは古来より知られており、新婦に邪悪な霊が憑いていたらこれを拒んで吠えると考えられていたとしてもおかしくなく、つまり犬を跨がせることにも意味があることになる。「乃與夫相見」をここで「初めて」夫と顔を合わせると理解している人がいるが、それでは「男女相悦者即爲婚」が意味不明になってしまうので、そんな解釈は取れない。ここは「婚家で夫と顔を合わせる前に、犬もしくは火を跨がせる」の意である。あるいは、これは嫁取りなどではなく、新婦が夫の実家をはじめて訪ねる際の儀式を言っているだけという解釈もあり得る。中国では結婚とは嫁を取ることなので、魏徴は「婚嫁」と書いたが、隋の史官に説明した倭の使者はそんなつもりで言っていなかったと考えるのである。なお、またまた「婦人不婬妬」と女性が浮気や嫉妬をしないことを特記している。そんなに、そんなに羨ましかったのか。
長い間「無槨」と書かれていたが、ここで初めて「槨」を作ると説明が変わっている。中国の風習がかなり取り入れられていることがわかる。
『魏志倭人伝』の頃から故人に親しかった者が歌や舞を披露して故人の霊を慰めるのは変わっていない。
日本も元々は白い喪服を着けることが習慣であった。喪服が黒に変わるのは、明治時代に入ってからである。
殯の風習が既に定着していたことを示す。殯がいつから始まっていたかは定かではないものの、縄文時代には既にあったのではないかという人もいる。ただしここにも記載されている通り、長い間殯ができるのは豪族層だけで、庶民はそんな暇も余裕もなかったことがわかる。
船に死体を乗せて陸から引いて葬送するというのは早くに廃れてしまった習俗だが、小さい輿に乗せて葬送する俗は後々まで残り、江戸時代、明治、大正を経た後、昭和になって戦後に自動車が普及するまで一般に行われた。宮型の霊柩車が妙に飾り立てられているのは、この輿を飾ったことに由来する。
阿蘇山は富士山のように遠くから眺めても見える山ではなく、峰々の中を指さしてあの山ですと言われなければわからない。その阿蘇山が記述されているということは、答礼使一行がそのそばを通ったからであり、倭が九州にあったことの何よりの証左となる。中国には火山がなかったので確かに記すに足る山である。
『好太王碑』第一面、永楽五年(西暦三九五年)の箇所に「百残新羅舊是屬民由來朝貢而倭以辛卯年來渡海破百残■■■羅以爲臣民」「百残、新羅はもとこれ屬民なり。由來朝貢す。しかるに倭は辛卯の年を以て渡海して來り百残■■■羅を破り、以て臣民と爲す」(■は碑文が欠けて読めなくなっている字)とある。高句麗と倭の死闘の始まりである。いや、既に何度も激突していたのかも知れない。そしてこの頃、百済、新羅が倭を大国として仰ぎ見て使者や手紙がやりとりされている、というのは即ち倭に対して百済、新羅が朝貢していたことを表す。無論、両国とも隋唐にも朝貢しているから、魏徴としてはそう書けるものではない。
開皇二十年(西暦六〇〇年)の朝貢とこの大業三年(西暦六〇七年)の朝貢は、帝紀に記されていない。
「多利思北孤」が篤く仏教に帰依していたことがわかる。この点が聖徳太子と結びつけられて考えられる所以なのだが、もちろん聖徳太子はヤマト王権の人なので、九州の倭國王とは何の関係もない。
「無礼な書があったからもう取り次ぐな」と解釈する人が多いが、そんな馬鹿なことを言ったわけではない。わざわざ鴻臚卿(外交担当の大臣)に言ったのは、「また無礼な表を提出する蛮夷の者がいたら、取り次ぐ前に、お前がよく教え諭して書き方というものを教えてやれ」ということを意味する。書を使者から受け取るのは、当たり前だが鴻臚卿だからである。
『日本書紀』推古天皇一六年の条に「十六年夏四月小野臣妹子至自大唐唐國號妹子臣曰蘇因高卽大唐使人裴世淸下客十二人從妹子臣至於筑紫」「十六年夏四月、小野臣妹子、自ら大唐へ至る。唐國は妹子臣を號して曰く蘇因高。卽ち大唐使人裴世淸、下客十二人、妹子臣に從ひて筑紫に至れり」とあり、この裴世清と同一人物であるとされている。
韓国の莞島(ワンド、Wando、완도)ではないかとする説がある。このあたりはこの頃から百済、倭、中国を繋ぐハブ港として機能していたらしい。
現在の済州島にあった国。
都斯麻(対馬)國からここまでルートは『魏志倭人伝』で魏使が辿ったコースと同じ。
秦王國というくらいであるから「秦」の末裔と称していたのではないだろうか。しかも容貌、風俗が中国人そのものであった。こんなところに「秦」の遺民がいるとは不審であるが、しかし白黒つけることはできなかった。この秦王國の所在地は今なお不明である。
竹斯(筑紫)國からずっと東へコースを取り、海岸へ到着したということは、周防灘か別府湾に出たはずである。いくら地理に不案内の裴清一行とはいえ、方位を間違えるほど間抜けではあるまい。
裴清一行が海岸に出てほどなく小德の阿輩臺ら数百人の歓迎を受け、それから十日で俀國の都の郊外に着き、そこで大禮の哥多毗ら二百騎の出迎えを受けている。この十日が悩ましい。ずっと歩き通しだったわけではなかろうし、実際の移動距離、方向が書かれていないため、俀國の都の位置がさっぱりわからない。後世、国家に重要な事項は、宇佐八幡宮の神託を受ける慣例になっていたことから、宇佐近辺に都があったのではないかと私は考えている。倭の勢力圏をを九州、出雲国、安芸国、吉備国、四国と考えた場合、宇佐に都が置かれることは不自然ではない。むしろ、安芸国や吉備、四国との交流の便を考えるとここしかないが、根拠に乏しい。なお、宇佐八幡宮の主神は八幡大神 (はちまんおおかみ)=誉田別尊(応神天皇)だが、比売大神 (ひめのおおかみ)については異説がある。私は代々仕えた倭の「キサキ」(祭祀王)が神格化されたため、固有名詞がつけられないまま祀られるに至ったと考えている。この神宮も創建に諸説あり、いつのことであるかすらわかっていない。当初倭王武が祀られていたのが応神天皇にすり替えられたのだとしても私は驚かない。
裴清は実際に多利思北孤に面語しており、当たり前だが勅命を伝える相手が俀王であることを確かめているはずである。従って多利思北孤が摂政皇太子でしかなかった聖徳太子の可能性は全くなく、無論、蘇我馬子でもありえない。推古女帝に至っては論外である。多利思北孤には妻がいたのだから男性以外の何ものでもない。
煬帝が不快に思ったことは鴻臚卿を通じて倭の使者に伝わったはずだから、当然多利思北孤もそれを聞いているのである。ここはそれに対する弁明の言葉である。「日出ずる処の天子」の国書は多利思北孤が祭祀王であるが故の独尊に基づくものであり、政治王は別にいたとする説があるが、それは「高祖曰此太無義理於是訓令改之」とあるのを余りに軽く考えている。実際に改めさせることができたから正史に書かれているのであって、勅だけあって効なければ、無視するのが作法である。ではなぜ多利思北孤はそのような国書を書いたのだろうか。それはまさに「新羅百濟皆以俀爲大國」とあるように、大国であるという自負がそう書かせたと思われる。ところが意に反して隋が不快を表明したので、対立を避けるために遁辞を構えたのであろう。
つまり礼儀を教えることが勅命であり、それを多利思北孤が弁明し、また歓迎ひとかたならぬことから既にその意図が理解されていることが明白なので、自分のすべきことはもうない、役目は終わったと言ったのである。
「請即戒塗」「戒」は「告げる」、「塗」は「みち」で、帰路に就くことを告げて欲しいという意味になる。勅命によりやって来たのだから、相手の承諾がないと帰国できないのである。
答礼使一行の帰国に付き従わせた朝貢使のことが煬帝帝紀の大業四年(西暦六〇八年)に記されている「壬戌百濟倭赤土迦羅舍國並遣使貢方物」「壬戌、百濟、倭、赤土、迦羅舍國並びて使ひを遣はし方物を貢ぐ」。また、この遣使のことは東夷傳流求國条にも記載されている「帝復令寬慰撫之流求不從寬取其布甲而還時倭國使來朝見之曰此夷邪久國人所用也」「帝、復た寬をして之を慰撫せしむが、流求從はず。寬、其の布甲を取りて還る。時に倭國使來朝す。之を見て曰く、此は夷邪久(いやく)國人の用ゐる所也」
「此後遂絶」とあるが、倭がこの後、大業六年(西暦六一〇年)春正月に朝貢している記事が煬帝帝紀にある。「己丑倭國遣使貢方物」「己丑、倭國、使ひを遣はし方物を貢ぐ」。

隋書俀国伝
 隋書は唐の魏徴撰。唐の二代目、太宗(李世民)の貞観二年(628)、学者を率い、数年かけて戦乱の間にバラバラになってしまった四部書(経、史、子、集)を校訂したとされている(旧唐書魏徴伝。新唐書では貞観三年)。隋書もこの間に編纂された。魏志倭人伝の「壱与」を「台与」と記す梁書(姚思廉撰)の編纂にも魏徴が関与している。


俀国在百済新羅東南水陸三千里於大海之中 依山島而居 魏時譯通中國三十餘國 皆自稱王 夷人不知里數但計以日 其國境東西五月行南北三月行各至於海 地勢東高西下 都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也 古云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與儋耳相近
「倭国は百済、新羅の東南、水陸三千里の大海の中に在る。山の多い島に居住している。魏の時、通訳を介して中国と交流したのは三十余国で、みな自ら王を称していた。夷人(倭人)は里数を知らない。ただ日を以って計算している。その国境は東西は五ヶ月行、南北は三ヶ月行でそれぞれ海に至る。地勢は東が高く西が低い。邪靡堆(ヤビタイ)を都にする。すなわち、魏志の言うところの邪馬臺(ヤバタイ)である。古には、楽浪郡境(後漢書、この頃帯方郡は存在しない)及び帯方郡(魏志)から一万二千里離れていて、會稽(郡)の東にあり、儋耳に近いと言われていた。」

 最初は、他の史書と同様、地理関係の情報が整理されている。魏の時と書いているが、三十余の友好国はみな王を称していたと記すなど、魏志ではなく、少し異なる後漢書の記述を採用している。魏志は「邪馬壱国」と書き、後漢書は「邪馬台国」と記す。隋代に、日本から遣隋使が派遣され、邪馬台国の所在地は「ヤマト」だ解釈した。魏志より後漢書の方が正確、信頼がおけるというのが、魏徴のチーム、つまり、当時の中国の評価だったのである。それは現在に至るまで変わっていないだろうが、後漢書は独自の説であって、信頼がおけない。魏志の邪馬壱は単なる転写間違いと考えられ、古田武彦氏が現れるまで、問題になることはなかった。しかし、様々なデータを勘案した結果、古田氏の指摘どおり「邪馬壱国」が正しいと思われる。詳細は「魏志倭人伝から見える日本1,邪馬台国か邪馬壱国か」、「邪馬壱国説を支持する史料と解説」へ。記紀に、名前の交換伝承を記された神功皇后により、各地の地名の変更が行われた可能性がある。
 倭人は里数を知らないということは、倭人は中国の度量衡の度を知らないというということで、魏志倭人伝に書かれた里数はすべて蛮夷里で、中国の単位とは違うことを意味している。魏志の陳寿が倭の領域に限って想定した里数ということになる。魏志の里数あるいは日数で書いた記述を後漢書の范曄は理解できなかった。そこで言えることは、現代、邪馬台国への道といった里程論を後漢書を引いて構築した邪馬台国論は妄想的虚偽である。後漢書そのものが間違いだらけなのだから非論理的であり、すべて砂上の楼閣である。

 弥生時代初期、米作はすでに福山にまで展開しているし、崇神記には、ヤマトから北陸へ派遣された大彦と東海へ派遣された建沼河別が会津で出会ったという伝承が記されている。東北まで人が往来していたわけで、古代から本州が島だという認識はあったのではないか。しかし、「東西五ヶ月行、南北三ヶ月行で海に至る」という記述は魏代の伝承ではなく、隋代に新しく得られた知識と思われる。
 魏志言うところの「邪馬台」と書いてあり、この記述を鵜呑みにして、魏志も元々は「邪馬台国」と書いてあったとするのが通説だが、疑義があることは上に述べた。後漢書を重んじ、魏志を軽んじているのは、魏に関する記述なのに、内容の異なる後漢書を採用していることから明らかである。


漢光武時遣使入朝自稱大夫 安帝時又遣使朝貢謂之俀奴国
「(後)漢の光武帝の時、使者を派遣し入朝し、大夫を自称した。安帝の時また遣使して朝貢した。これを俀奴国といった。」 

 ここからは、後漢書に記された倭国の歴史を整理している。後漢書には、光武帝の建武中元二年(57)に倭奴国が遣使してきたと書いてある。倭奴が隋書では俀奴になっているから、隋書俀国伝も倭国伝だとわかる。当時は「俀」という文字が用いられていたのであろう。翰苑や倭人字磚にも「倭」ではなく、少し異なる文字が書かれている。餧(ヰ)、餒(ダイ)という文字がある。同じく「飢える」という意味である。捼(ダ)と挼(ダ)も「もむ」という意味で同字である。萎(ヰ)、荽(スヰ)も同字。緌(ズヰ)と綏(スヰ)も「冠の紐」という同じ意味を持つ。このようにたくさん見られるのは、元々、異体字だったものが、そう認識されずに、音を変えて現在まで伝わったのか、あるいは、「委」と「妥」を混同して使用するケースが多かったのかということになるだろう。
 安帝の時に遣使したのは倭国王帥升等とされていて、倭奴国ではない。隋書は同一視しているが、まとめた際の勘違いである。宋本通典には「倭面土国王師升」、翰苑の後漢書引用では「倭面上国王師升」になっている。魏徴の使用した後漢書は、現在のものと同樣で、すでに面土が省かれていたと思われる。


桓霊之間其國大亂遞相攻伐/歴年無主有女子名卑彌呼能以鬼道惑衆 於是國人共立為王 有男弟佐卑彌理國 其王有侍婢千人 罕有見其面 唯有男子二人給王飲食通傳言語 其王有宮室樓觀城柵 皆持兵守衛 為法甚嚴 自魏至于齊梁代與中国相通
「(後漢の)桓帝と霊帝の間に、その国は大きく乱れ、互いに攻撃し合い、長い間、主導者がいなかった。これは捏造というか、新解釈である。魏志はこう書く。「其國本亦以男子爲王住七八十年」、無主ではなく男王がいる。だから、新解釈であり、其の国を倭國と考えるのは間違いである。じつは女王國である。

其の国の代名詞の主格は前節の女王国であり、つぎの暦年無主という新解釈を加えてのこの国の主格は倭国に転じているのである。
女王国の述語と倭国の述語をつなぎ合わせたのも後漢書であり、まったく後漢書は困った書物であり、中国正史なのが恥ずかしいといえる。
「倭国には卑弥呼という名の女性がいて、鬼道でうまく衆を惑わした。国人は共立して王にした。男王があってその弟が卑弥を助けて国を治めていた。その王には侍女千人がいる。その顔を見たものはほとんどいない。ただ男子二人がいて、王に飲食を供給し、言葉を通し伝えている。その王には宮室や樓観、城柵があり、みな兵器を持って守衛している。法の適用は、はなはだ厳しい。魏から斉、梁代に至るまで中国と交流していた。」・・・以上現代語訳をしてみたが・・・・最後の、[。魏から斉、梁代に至るまで中国と交流していた。」は、倭国が隋の前の南朝にいたるまで朝貢していたということである。つまり、倭国が女王国とは違うということである。私は女王国とは伊都国だとう論者である。伊都国が内地なら、倭国は外地であって邪馬台国であろうはずがない。魏から隋にいたる南朝に朝貢していたのは夫餘百濟である。

 魏志、後漢書とも、卑彌呼の食事の世話をしているのは一人の男子で、ここで二人というのは転写間違いと考えられる。「桓霊の間」や「法がはなはだ厳しい」というのは後漢書のみに見られる記述で、魏志には客観的な書き方しかない。


開皇二十年 俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言 俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰此大無義理 於是訓令改之
「開皇二十年、倭王の姓”アマ”、字”タリシホコ”。号”アハケミ”が遣使して宮中にやって来た。お上(高祖)は所司(担当官)に命令して、その風俗を訪ねさせた。使者は”倭王は天を兄とし、日を弟として、天がまだ明けない時に出て政務を聴き、跏趺して坐っています。日が出るとそれをやめ、我が弟に委ねようといいます。”と言った。高祖は”これはあまりにも筋の通らないことだ。”と言い、訓令してこれを改めさせた。」

 開皇二十年(600)は推古天皇の八年にあたる。この年に遣隋使の記録はないが、中国側の記録の正確さや、ウソをつく理由がないことなどを考慮して、隋書を信じるべきであろう。逆に言えば、日本書紀はウソを書く理由があると言うことである。
 姓と字の「アマタリシホコ」は「アメタラシヒコ」の聞き取り誤差。号の「アハケミ」は「オホキミ」の聞き取り誤差である。「アメタラシヒコ」は「天から降りてきた男」という意味で、中国語で言うなら、翰苑にある「天児(天の子)」ということになるが、翰苑は誤解して、大王を表す「アハケミ」を天児の称号だとしている。「ヒコ」なので、大王は男である。聖徳太子ということになる。跏趺は足を組み足の甲を反対側のももの上にのせる座り方。僧にならったもので、仏教の浸透がうかがえる。


王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子為利歌彌多弗利 無城郭 内官有十二等 一曰大德 次小德 次大仁 次小仁 次大義 次小義 次大禮 次小禮 次大智 次小智 次大信 次小信 員無定數 有軍尼一百二十人猶中国牧宰 八十戸置一伊尼翼如今里長也 十伊尼翼屬一軍尼
「王の妻は”ケミ”と号する。後宮には女性が六、七百人いる。太子を名づけて”リカミタフリ”としている。城郭はない。内官(中央官僚)には十二等級がある。一を大徳という。次は小徳、次は大仁、次は小仁、次は大義、次は小義、次は大礼、次は小礼、次は大智、次は小智、次は大信、次は小信である。人員の定数はない。軍尼(クニ)一百二十人があり、中国の牧宰(官名)のようである。八十戸に一人の伊尼翼を置く。今の中国の里長(官名)のような役職である。十の伊尼翼が一つの軍尼に属している。」

 王の妻は「キミ」と呼ばれていた。妻のいる王は、当然、男である。太子は「利歌弥多弗利」だが、タラシヒコをタ利シホコと聞いているから、利はラ音の可能性がある。ラカミタフラということになり、これには田村皇子(後の舒明天皇)が該当するのではないか。聖徳太子が大王で、田村皇子が太子だったと思われる(天皇即位順は、推古-舒明-皇極)。推古天皇は天皇だったのであろう。聖徳太子が大王だったということに関しては「天皇号の成立(聖徳太子と推古天皇の真実)」へ
 聖徳太子(太子ではないが、便宜上、太子と記す。当時の資料には法皇、法王と書いてある)が定めたという冠位十二階が記されている。ただ、日本書紀とは中、下位の序列が異なっていて、紀では、徳、仁、礼、信、義、智の順になっている。どちらが正しいかは不明。
 クニは国司、国造か。聖徳太子の十七条の憲法の中にその名が見える。伊尼翼(イニヨク、イニョク?)の翼は冀の間違いで(イニキになる)、稲置(いなぎ)ではないかという。天武天皇の八色の姓の最下位に稲置がみえる。聖徳太子時代の官名としては残っていない。イミキ(忌寸)かもしれないし、無理に稲置にしなくても、わからないことはわからないで置いておけばよい。八十戸の上に一伊尼翼で、戸籍が存在したと思われる。


其服飾男子衣帬襦 其袖微小 履如屨形漆其上繋之於脚 人庶多跣足 不得用金銀為飾 故時衣横幅結束相連而無縫 頭亦無冠但垂髪於両耳上 至隋其王始制冠以錦綵為之 以金銀鏤花為飾 婦人束髪於後亦衣帬襦裳皆有襈 攕竹為梳 編草為薦雜皮為表縁以文皮
「その服飾は、男子はスカートのように下半身を巻く衣服、たけの短い上着を身につける。その袖は非常に小さい。はきものは麻などで編んだクツのような形で、その上は漆で塗られている。これを紐で足に繋ぐ。庶民ははだしが多い。金銀を装飾として用いない。昔は、着物は横幅の布を結び合わせて連ねるだけで縫うことがなかった。頭は冠をかぶらず、ただ髪を両耳の上に垂らしていた。隋代に至って、その王は始めて冠を制度化し、錦や模様のある布でこれを作り、金、銀の花模様を散りばめて飾りとしている。夫人は髪を後ろで束ね、後にはまたスカート状の服、短い上着を着るようになった。皆ふち飾りがある。くさび形の竹を櫛にしている。草を編んで敷物と為し、いろいろな皮で表を覆って、模様のある皮で縁取りする。」

 中国官服の袖口はダブダブなので、埴輪の衣服に見られるような筒袖は微小という表現になる。下はスカートのような形というから埴輪のズボンとは異なっている。魏志倭人伝は布を結びつなげるだけで縫っていないと記しているから、そちらに近いのかもしれない。クツは、防水のためか漆を塗り、脱げないように紐で足にくくりつけていたらしい。紐通しの穴を開けてあったのだろう。しかし、庶民の大多数は裸足だった。
 男子の昔の服装は魏志のみに見られる記述である。魏志と後漢書を読み比べ、足りない記述を魏志から補っている。そして、矛盾するときには後漢書を優先しているわけである。「髪を両耳の上に垂らす」というのは魏志の露紒の説明として新しく得られた情報らしい。「みずら」のことである。中国では魋結(椎髻=槌型の髪、漢書西南夷両粤朝鮮伝の願師古注に、「耳この下」と書かれている)という。これも古墳から出土する男子埴輪像で確認できる。
 聖徳太子の冠位十二階は、冠の色や装飾の違いで階級を示している。金銀鏤花は金、銀を薄くのばして花模様を透かし彫りにしたものと思われる。階級ごとに様々な形があり、それを冠に貼り付けていたのであろう。くさび形に一方を細くした竹で櫛を作るなどと、非常によく観察している。


有弓矢刀矟弩讚斧 漆皮為甲骨為矢鏑 雖有兵無征戦 其王朝會必陳設儀仗奏其国楽 戸可十万
「弓、矢、刀、長い矛、弩、小さな矛、斧がある。漆を塗った皮をよろいとし、骨をヤジリにしている。兵器はあるけれども征伐の戦いはない。その王の朝廷の集会には、必ず儀仗(儀式に用いる装飾的な武器と兵)を並べその国の音楽を演奏する。戸数は十万ほどである。」

 漆で強化した革のよろいを着ている。古墳からは鉄製のよろいが出土しているが、すべての兵士がこれを身につけたとは思えないから、当時からこういうものが存在したかもしれない。腐ってしまうので残らないだろう。魏志より武器の種類は増えているが、魏志が代表的なものを書いていただけではないか。斧など昔から使っていたと思われる。戸数は魏志の七万余戸より増えていて、順調な発展をうかがわせる。


其俗殺人強盗及姦皆死 盗者計贓酬物 無財者没身為奴 自餘軽重或流或杖 毎訊究獄訟 不承引者以木壓膝或張強弓以絃鋸其項或置小石於沸湯中令所競者探之云理曲者卽手爛或置蛇瓮中取之云曲者卽螫手矣 人頗恬靜罕爭訟少盗賊
「その風俗では、殺人、強盗及び姦淫はすべて死刑になる。窃盗は盗んだ品を計算して物で賠償させる。財産のないものは身分を没収して奴隷にする。その他は軽重にあわせ流したり、杖で打ったりする。つねに争い事を尋問、追求し、(罪を)承認しない者には、木でヒザを圧迫したり、強い弓を張って、ゆづるでその首すじをノコギリのように引いたりする。沸騰した湯の中に小石を置き、争いの当事者にこれを探らせる。筋道の曲がった者は手がただれるのだという。あるいは、蛇を瓶の中に置き、これを取らせる。曲がったことをした者は手をかまれるのだという。人は非常に心が安らかで靜かで、訴えごとはほとんどなく、盗賊も少ない。」

 煮え湯の中の石を取らせる盟神探湯(くがたち)は、応神紀の武内宿祢と甘美内宿祢の争いの際にみられるし、允恭紀にも氏姓を定めるために行ったという記述がある。遣隋使に訊ねたのか、日本を訪れた隋の使者、裴世清が記録したものか、新しい知識が大量に加えられている。


楽有五絃琴笛 男女多黥臂點面文身 没水捕魚 無文字唯刻木結繩 敬佛法於百濟求得佛經始有文字 知卜筮尤信巫覡
「楽器には小型の琵琶、琴、笛がある。男女の多くは腕に入れ墨し、顔に黒い点を入れ、体に模様を入れる。水に潜って魚を捕る。文字はなく、ただ木を刻んだり、縄を結んで文字代わりにしていた。仏法を敬い、百済に仏典を求めて手に入れ、始めて文字を知ったのである。卜筮(卜は亀甲や骨で占う。筮は筮竹を使う占い)を知っているが、みこ(巫は女、覡は男)の言うことをもっとも信じる。」

 魏志の記述の「黥面」より顔の入れ墨は穏やかになっている気配だが、単なる表現の違いかもしれないし、文字の転写間違いの可能性もある。はっきりしたことはわからない。
 百済から仏典が伝わるまでは無文字というのは誤った情報で、古墳時代の稲荷山古墳出土の鉄剣銘文(五世紀、雄略天皇の少し後)では、すでに万葉仮名的な使い方がされている。それ以前から、漢字文化の蓄積があり、和風に消化してきたことがうかがえる。宋書倭国伝には倭王武(雄略天皇)の上表文が記されている。他にも江田船山古墳出土太刀銘や隅田八幡宮人物画像鏡銘文など、仏教以前の文字資料がある。
 卜は亀甲の割れ目を見て占う方法で、魏志倭人伝にも「骨を火で焼いて裂け目を見て吉凶を占う」と書いてある。倭の五王時代(五世紀)に、かなり活発に中国へ遣使しているので、筮竹を使う占いはそのころ伝わったものだろう。「みこ」の伝える神の言葉を信じるのは、やはり、卑彌呼の鬼道の伝統である。


毎至正月一日必射戯飲酒 其餘節略與華同 好棊博握槊樗蒲之戯 氣候温暖草木冬靑 土地膏腴水多陸少 以小環挂鸕鷀項令入水捕魚 日得百餘頭
「正月一日に至るごとに、必ず射的競技をし、酒を飲む。その他の季節行事はほとんど中国と同じである。囲碁、すごろく、樗蒲(サイコロ賭博のようなもの)の遊びを好む。気候は温暖で草木は冬も青い。土地は肥えていて、水沢地が多く陸が少ない。小さな環を鵜の首筋にかけ、水に入らせて魚を捕る。一日に(魚)百余匹を得る。」

 中国でも鵜に魚を捕らせる漁法はあるが、日本の海鵜の成鳥を捕らえて慣らす手法と違って、川鵜を犬のように家畜化し、紐を付けずに自由に魚を追わせている。魚を捕らえた鵜が自ら船に戻ってくるテレビ映像を見て驚いたものである。おそらく起源は中国内陸で、中国海岸部に移動した部族が海鵜で代用し、その手法が日本に入ったものではないか。鵜に仲間意識を持たせる方がずっと難しいように思える。


俗無盤爼藉以檞葉食用手餔之 性質直有雅風 女多男少 婚嫁不取同姓 男女相悦者卽為婚 婦入夫家必先跨犬乃與夫相見 婦人不淫妬
「その風俗では皿や板台はなく、カシワの葉を敷き、食べるときは手づかみで食べる。性格は飾り気がなく正直で、優雅な感じがある。女が多く、男が少ない。縁組みでは同姓とは組まない。男女でお互いに好き合ったものが結婚する。妻が夫の家に入るとき、必ず先に犬をまたぐ。それから夫と顔を合わせる。婦人は淫らではないし、嫉妬もしない。」

 魏志倭人伝では、飲食には籩豆(竹を編んだり、木をくり抜いたりしたたかつき)を用いると書いてある。邪馬壱国と大和朝廷は食器が違っていたようである。カシワの葉は縄文北方系の大和朝廷の伝統なのであろう。(弥生の興亡「縄文の逆襲」参照)。
 しかし、自由恋愛と婚姻は南方系習俗である。新婚の妻が夫の家に入るときに犬をまたぐのは、半人半狗の神、槃瓠を祭るヤオ族ならありそうである。これは文・漢系の物部氏などに可能性がある。北史では「火をまたぐ」になっていて、これは現在の中国少数民族の間でも見られる風俗である。楚人は祝融という「かまど神」を祭っているから、あり得るであろう。こちらは紀氏、藤原氏などの秦系氏族に可能性がある。(弥生の興亡「帰化人の真実」参照)。 通説のように、北史を根拠に、犬は火の転写間違いと言い切れないものがある。


死者歛以棺槨 親賓就屍歌舞 妻子兄弟以白布製服 貴人三年殯於外 庶人卜日而瘞 及葬置屍舩上陸地牽之或以小轝。
「死者は棺、槨に収める。親戚や親しい客は屍に付き従って歌ったり舞ったりする。妻子や兄弟は白い布で(喪)服をつくる。貴人は三年の間、外でかりもがりする。庶民は(良い)日を占って埋める。埋葬の時には屍を船の上に置き陸地でこれを引いたり、小さな輿に乗せたりする。」

 魏志倭人伝では「有棺無槨(棺ありて槨なし)」なので、中国風に改めていたのか。死者を葬る時には陸上で船に乗せて引くと書いてあるが、貴重な実用品を、船底を痛めるような形で使うだろうかと疑問を感じる。修羅(しゅら)のことではないか。越語で船をシュラと言ったらしいのである。(「中国朝鮮史から見える日本2/3、越語に由来する日本語」)


有阿蘇山其石無故火起接天者 俗以為異因行禱祭 有如意寶珠其色靑大如雞卵 夜則有光云魚眼精也 新羅百濟皆以俀為大國多珎物並敬仰之恒通使往來
「阿蘇山がある。その石は理由もなく火がおこり天にとどく。人々はわけのわからないことだとして、祈って祭る。如意宝珠というものがある。その色は青で、大きさはニワトリの卵くらい。夜になると光る。魚のひとみだと言っている。新羅と百済は、どちらも、倭は大国で珍しい物が多いと考え、敬い見上げている。常に使者を通わせて往来している。」

 日本に火山はたくさんある。阿蘇山を特筆するのは、このころ話題になるような爆発を起こしたからかもしれない。如意宝珠は該当しそうなものが思い浮かばない。魚の残すものだから海か川で採れるのだろう。ヒスイなら中国人も知っているはずである。しかし、これは倭人から聞いたことをそのまま書いただけかもしれない。梁書には蛇と鯨を合成したような妖怪のことが書かれている。同じく倭人の法螺話かと思える。(梁書倭伝)


大業三年 其王多利思北孤遣使朝貢 使者曰聞海西菩薩天子重興佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛法 其國書曰 日出處天子致書日没處天子無恙云云 帝覧之不悦謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞
「大業三年(607)、その王のタリシホコは使者を派遣し朝貢した。使者は『海の西の菩薩のような天子が手厚く仏法を興隆させていると聞きましたので、朝拝に(私を)派遣するとともに、出家者数十人が仏法を学ぶため来ました。』と言った。その国書にいう。『日が昇るところの天子が書を日の沈むところの天子に届けます。お変わりありませんか。云々』 帝(煬帝)はこれを見て喜ばず、鴻臚卿に『蛮夷の書で無礼のあるものは二度と聞かせるな』と言った。」

 最初の開皇二十年(600)の遣使は、隋の始祖、楊堅(文帝)の時代だった。この大業三年(607)は二代目、煬帝の三年目である。「お変わりありませんか(お元気ですか)」という挨拶は初対面の人間に対するものではないであろう。初対面なら自己紹介から始めるのではないか。以前の遣使があるから、こういう挨拶になった。日本には帝の代替わりが伝わっていなかったらしい。国書は文帝にあてたものだったのである。
 日本書紀は、推古天皇十五年、小野妹子を大唐に遣わすと記している(隋と書かずに、意図的に大唐と書いている)。鴻臚卿は接客をつかさどる鴻臚寺の長官、外務大臣といったところである。小野妹子は中国では蘇因高と表記されたという(推古紀16年)。因高(インコー)はイモコという音を写したものとわかる。姓の蘇は慣用音では「ス」で、これが唐代の音だとすれば、越王や文・漢氏の姓、騶(スウ)につながる。小野氏は和邇氏の同族である。


明年 上遣文林郎裴淸使於俀国 度百濟行至竹島 南望聃羅國經都斯麻國逈在大海中 又東至一支國 又至竹斯國 又東至秦王國 其人同於華夏以為夷洲疑不能明也 又經十餘國達於海岸 自竹斯國以東皆附庸於俀
「明くる年(大業四年、608)、お上(煬帝)は文林郎の裴世清を派遣して倭国へ行かせた。百済へ渡り、竹島に至る。南に耽羅国を望み、はるかな大海の中にあるツシマ国を経て、また東のイキ国へ至る。またチクシ国へ至り、また東の秦王国に至る。その人は中国人と同じで、夷洲と考えるが、はっきりしたことはわからない。また十余国を経て海岸に到達する。チクシ国以東はみな倭に付属している。」

 大業四年(608)中国から裴世清が派遣され、日本にやって来た。このあたりの記述は裴世清の帰国後の報告に基づくものであろう。唐の太宗の諱が李世民なので、唐代に書かれた隋書では世の字をはばかり、裴世清は裴清と書かれている。竹島を過ぎてから南に済州島(耽羅)が見えるのだから、竹島は現在の珍島かと思える。朝鮮半島南岸を航海して対馬に至るのである。このあたりは東へ航海していると言える。魏志倭人伝で(帯方郡使が)南と考えていた方向が、正確に東と認識されるようになった。しかし、壱岐や筑紫は南で合っていたのに、すべてが東に改められている。隋代に至っても、方向認識はいいかげんである。
 日本書紀によれば、小野妹子の帰朝に同道していたことになる。小野妹子は隋帝からの国書を百濟で盗まれたと報告したが、日本の無礼をとがめるきつい言葉が書いてあったので、なくしたことにしたのだろうという説がある。ありそうなことである。
 竹斯国は九州の玄関口であった、現在の福岡市、古代の奴国のあたりと思われるが、東の秦王国の所在地を推定する手がかりはない。秦氏の展開地であろうとは想像できても、北九州市付近とかたくさんある。隋書のいう夷洲ではない。元々、中国人だったのだから、昔の風俗、言語を守り続けていれば中国と変わらない感じを受けるだろう。
 瀬戸内海を航海して十余国を通過したあと、大阪湾で行き止まった。それを「海岸に達する」と表現している。筑紫以東は倭に属すと記すが、ツシマ国、イキ国も倭語の地名である。


俀王遣小徳阿輩臺従數百人設儀仗鳴皷角來迎 後十日又遣大禮哥多毗従二百餘騎郊勞 既至彼都
「倭王は小徳のアハタ(イ)を派遣し、数百人を従え儀仗を設けて、太鼓や角笛を鳴らしやって来て迎えた。十日後、また大礼のカタビを派遣し、二百余騎を従え、郊外で旅の疲れをねぎらった。既にこの国の都に到達した。」

 聖徳太子は難波へ小徳の阿輩台を派遣して歓迎した。事前に連絡が入っていたのである。オホキミを阿輩雞彌と書くのだから、阿輩台はオホタ(イ)と読むべきだろう。日本書紀の、この歓迎式典の際に記された人物のうち、該当しそうなのは大河内直糠手(おほしかふちのあたい・あらて)である。十日後に都のある大和の郊外へ入った時には可多毗が迎えた。これは額田部連比羅夫(ぬかたべのむらじ・ひらぶ)と思われる。


其王與淸相見大悦曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢 我夷人僻在海隅不聞禮義 是以稽留境内不卽相見 今故淸道飾館以待大使 冀聞大國維新之化 淸答曰皇帝徳並二儀澤流四海 以王慕化故遣行人來此宣諭 既而引淸就館
「その王は裴世清と会見して大いに喜んで言った。『私は海の西に大隋という礼儀の国があると聞いて、使者を派遣し朝貢した。私は未開人で、遠く外れた海の片隅にいて礼儀を知らない。そのため内側に留まって、すぐに会うことはしなかったが、今、道を清め、館を飾り、大使を待っていた。どうか大国のすべてを改革する方法を教えていただきたい。』 裴世清は答えて言った『(隋)皇帝の徳は陰陽に並び、うるおいは四海に流れています。王(であるあなた)が隋の先進文化を慕うので、使者である私を派遣し、ここに来てお教えするのです。』 対面が終わって引き下がり、清は館に入った。」

 会見した王は、これまで書いたとおり、聖徳太子である。聖徳太子を日本書紀の記述どおりに太子と考えるから、隋書が理解できなくなる。推古天皇は聖徳太子に政務のすべてをまかせたとされており関与していない。聖徳太子は大王(オホキミ)であり、推古天皇は祭祀を受け持つ象徴天皇なのである。(天皇号の成立「聖徳太子と推古天皇の真実」参照。)
 煬帝は日本の国書に怒りながらも、大国としての太っ腹を見せ、聖徳太子の求めに応じて、文林郎の裴世清を派遣し、隋の政治や社会の仕組み、文化などを教えようとしたらしい。文林郎は秘書省に属し、「二十人(注に従八品)。文史を撰録し、旧事を検討するをつかさどる。」と隋書百官志下にあるから、過去から現在に至るまで、どういう制度があり、どういう効果があったかなどを良く知っていたわけである。おそらく、文帝の時の遣使(600年)の際、隋からの国書で政治に道理がないと指摘され、他にもさまざまなアドバイスをもらっていたと思われる。もっと詳しく知りたい、学びたいという意欲が昂じて、小野妹子や留学僧の派遣につながったのであろう。
 日本書紀では、裴世清が持ってきた親書には「鴻臚寺の掌客、裴世清」とか「このごろは常の如し」とか書いてあったという。隋が官名を間違うわけはないし、腹を立てていた日本国書の「つつがなきや」に対応する返答も書くわけがない。これは隋書を読み、それに合わせて創作したものである。国もずっと大唐としていて、日本書紀に隋が書いてあるのは、推古二十六年(617)に高句麗の使者が来て、隋の煬帝が高句麗を攻めたがうち破ったと語る場面だけである。日本書紀の編纂時は唐代で、新唐書に歴代天皇が書かれているから、唐にも届けられている。そういう事情に配慮して、敵対王朝の隋を消したようである。


其後淸遣人謂其王曰 朝命既達請卽戒塗 於是設宴享以遣淸 復令使者随淸來貢方物 此後遂絶
「その後、裴世清は人を遣って、その王に伝えた。『隋帝に命じられたことは既に果たしました。すぐに帰国の準備をしてください。』 そこで宴を設けてもてなし、清を行かせた。また使者に命じて清に随伴させ、(隋へ)来て方物を貢いだ。このあと遂に交流は絶えてしまった。」

 隋書の煬帝本紀には大業四年(608)三月に「百済、倭、赤土、迦邏舎国、並びて使を遣し、方物を貢ぐ。」とある。次いで、大業六年(610)正月に「倭国は使を遣し、方物を貢ぐ」と記されている。
 隋書百済伝では、大業三年(607)に百済の二度の遣使、大業七年(611)の遣使が記されている。三国史記百済本紀では、武王の八年(607)に二度と九年(608)、十二年(611)に隋へ遣使した記録が見られる。九年(608=大業四年)には隋の文林郎、裴清が倭国への使者となり、我が国の南路を通ったと書いてある。百済本紀は隋書煬帝紀に合わせて大業四年(608)の遣使を加えた可能性がある。煬帝本紀にある大業四年(608)の倭国の遣使は考えにくい。おそらく、大業三年(607)に到着した小野妹子等が、翌年(608)の三月に他国の使者と共に煬帝に朝見し、煬帝紀に記されたものとと思われる。一つの遣使が記録された文書の違い(たとえば、鴻臚寺に残された外交文書と、煬帝の起居注によるものとか)により、大業三年と四年に別れた可能性がある。
 以上から、倭国の遣使は大業三年(607)で、翌年の大業四年(608)に煬帝に朝見、その使者の帰国に同道して裴世清が渡来した。その後、大業六年(610)の遣使と結論してもよいと思われる。
 日本からの遣使は(文帝)開皇二十年(600)、(煬帝)大業三年(607)、(煬帝)大業六年(610)の三度ということになる。日本書紀では607、608、614の三度で、608の遣使は、百済本紀と同様、隋書煬帝紀を見て書き加えたものであろう。
 裴世清を送り届けて朝貢したあと、連絡は絶えてしまったとされているから、裴世清の帰国が610年ということになる。二年ほど日本で「大国維新の化」を講義していたのである。日本書紀ではひと月ほどで帰国したことになっている。これでは成果は上がるまい。610年で交流が絶えたとすれば、614の遣使はあり得ない。日本書紀にはさまざまなウソがある。日本と隋の交流に関しては隋書を元に歴史を組み立てるべきである。
 隋書の(東夷)列伝では俀国になっているが、煬帝本紀には倭国と書いてある。俀と倭は同文字の異体字である。外交をつかさどる鴻臚寺などに残された文書に俀国と書かれ、それが俀国伝にそのまま記された。宮中に保存された起居注の様な文書に倭国と書かれていて、それが煬帝紀に記されたのであろう。二つの文字に分かれたのは隋書の引用元の違いによると思われる。そのあたりを隋書は整理統一していない。煬帝紀と俀国伝の担当者が異なったということか。

天皇号の成立(聖徳太子と推古天皇の真実)

東亜古代史研究所 塚田敬章




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