『狗奴国解明早わかりガイド』 なんと二か国ありました。 本文へジャンプ
      卑弥呼Xファイル・メイキング
黒澤一功の
古代史論にようこそ
 卑弥呼Xファイル』の著者がおくる最新進捗情報」
Symbols are language that can help us understand our past.」 シンボルは言語であり、過去を理解する助けとなる。(ダビンチ・コード)

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「(女王)その南狗奴国あり」と書かれています。狗奴国があいまいでは倭国も女王国も邪馬台国も語ることはできません。魏志倭人伝は神業ともいえる一級の地理誌です。「困った時は范曄だのみ」のという論者がいますが、後漢書を頼るととんでもない間違いを犯します。
本論は原典に戻り、魏志倭人伝を原文から徹底的にサーチします。アプローチ編では必須のキーワードとなる漢字そのもの、その漢字に秘めたロジック、また連語や構文をしっかりと定義づけします。また、方位や距離を忠実に、かつ、全文のコード配列を分析し解読します。こうして今までの邪馬台国畿内説が多くの誤訳にもとづいていることを暴きます。原文は三国志です。そのカテゴリーから卑弥呼と倭国、伊都国、奴国、女王国、邪馬台国の関係を書き下ろします。魏志倭人伝の最新の訳とイノベーションをお楽しみください。

里程論の結論 邪馬台国は大分市。   

区間距離、総距離ともに方向、および一里定数0.06kmに矛盾がありません。
   Aブロックの一表 分割区間  区間里数  A1左余里を整数化・15%増しにした実数値  比定地 B1
距離単位km
 A1÷B1
km/一里
 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千餘里。 7000余   8050 金海  483km  0.06km 
 始度一海千餘里、至對海國。 8000余   1150 対馬下島  69km  0.06km 
 又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。  9000余  1150 壱岐  69km  0.06km 
 又渡一海千餘里、至末盧國。  10000余  1150 糸島前原  69km  0.06km 
 東南陸行五百里、到伊都國。(余なし)  500  500 吉野ヶ里   30km 0.06km 
  伊都国までの合計  12000 12000   720km  0.06km 

   Bブロックの一表    総里数  区間  比定地  実距離  km/里
[自伊都国] 東南至奴國百里。 奴国 12100  100 神崎郡
田手川下流 
6km  0.06km 
 [自奴国]東行至不彌國百里。 不彌國  12200  100 久留米  6km  0.06km 
h  投馬國、[自郡]南至投馬國水行二十日。 投馬国 12900  700 日田  42km  0.06km 
 邪馬壹國、[自郡]南至邪馬壹國水行十日陸行一月。 邪馬台国 13800  900 別府
・大分 
108km  0.06km 
   自郡至女王國萬二千 
A・Bブロック合計12000余=13800
 13800   828km    0.06km
*区間距離の合計は総距離に一致する。一里は0.06km
*不彌国は久留米、投馬国は日田、邪馬台国は大分と比定します。日本の地域学に根をもつ邪馬台国論とは一線を画します。


魏志倭人傳の一里を数式で解く!はじめに「余」の字を実数化する。
地域固有の一里の単位実数を計算します。(東夷里)
Stip1>魏志倭人伝の里はすべて点と点を結んだ直線距離です。(自~至~構文のの法則)
Stip2>魏志倭人伝の里数についている「余」の字を数式化します。
【定義】
α=”余”(プロパティ数値)
x=”郡から末盧國まで”==10000(余を除いた合計値)
b="末盧國から伊都国まで"=500
y==12000
上記の定義より次の数式を立て、α=余の割合を求めます。
【一次関数】 @Ikko Kurosawa 2020/05/13
α=(y-b)/x
【余の乗数】
α=1.15
αの値が分かれば魏志倭人伝の区間とその合計の値を数式で割り出すことができます。
郡から加羅韓国(金海)まで483km(Googleでの測定値) 里数は7000α=8050 
483÷8050=0.06
一里は0.06kmとなります。この値は「東夷里」と呼ぶことにします。検証は次章の「里程論」で詳しく説明します。東夷里は倭韓、楽浪郡、帯方郡の領域で適用でき、いつなんどき地図上でシミレーションしても再現性をもつ定数です。

倭里論-以下論理式

1.~余里の余をαと定義します。"余"=α
2.α=1.15
3.("帯方":"狗邪韓国","余里")=7000*αと式にします。
4.a=("帯方":"狗邪韓国","余里")=7000*α=〔7000x1.15〕=8050
5.b=("狗邪韓国":"末盧國","余里")=3000*α=3450
6.a+b=("帯方":"狗邪韓国","余里")+("狗邪韓国":"末盧國",余里")=8050+3450=11500
7.c=("末盧國":"伊都国","里")=500
8.("帯方":"伊都国","里")=a+b+c=12000
9.("帯方":"女王国","里")=("帯方:伊都国","里")=12000
10.x=("帯方":"狗邪韓国")〔,GPSの距離〕≒483km
11.x/a=0.06km

*()内の式中に,里だけとあり余なしの場合はそのまま実数値となります。
*9.総距離は区間距離の合計と一致するという定義が成立します。
*10 .xの値は一里のメートル換算値です。倭人伝では一里60メートルとなります。
前提となるαの規定値はタグ「狗奴国を暴く」で地図上で検証しています。


卑弥呼の墓は直径23m!
魏尺では一歩は六尺で144.72cm、卑弥呼の塚は、100歩+余歩で直径約144mと考えられています。ですが、西域には西域の、東夷には東夷の、それぞれ地域ごとに異なった長さの単位が用いられています。卑弥呼の墓は中国本土にはないのですよ。みなさん、こうして中国の度(長さ)をメートル数値で換算するのは間違いだと気づきませんか。倭人伝の一里は60m(既説)で、一里は300歩、300で逆算すると一歩は20cm、100余歩は余を15%として、115歩、なんと卑弥呼の塚は23mにすぎないことになります。@2019/11/18 公開

倭国は半島の日本海側、漢の時代領東七県の中の華麗侯国だった。
《宋書》
《卷五本紀第五 文帝》
53倭國高驪東南大海中,世修貢職。高祖永初二年(421年),詔曰:「倭贊萬里修貢,遠誠宜甄,可賜除授。」太祖元嘉二年(425年),贊又遣司馬曹達奉表獻方物。贊死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍倭國王。表求除正,詔除安東將軍倭國王。

倭国は高句麗の東南大海中にあり。
ここで東南の大海とは日本海のことに違いありません。もし、楽浪海に面した帯方にあるなら、西南になるはずです。”高驪”の二字は”高句麗”、さらに、これを”狗奴国Ⅰ”に置き換えることができます。こうして「倭国は高句麗の東南大海中にあり。」の意味がやっと納得ができます。意外にも倭国は半島の日本海側、すわわち東沃沮にあったのです。@2020/07/13公開
(左のメニュータグ・里程論の後半に詳述)


東南は方位角+8度(当時の磁方位偏角) この地図のURL


倭国(女王)、狗奴国Ⅱ、帯方郡治、楽浪郡治の関係図*北は方位角+8度(当時の磁方位偏角)
魏志倭人伝:「其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」
其の字の主格は女王です。そこで狗奴国Ⅱと女王倭国は北の線上にあるということになります。こうして狗奴国が分かれば女王のいる倭国もわかるのです。倭国が公孫氏、および高句麗と交戦したことは地政学的にも整合性があります。

『三國史記』卷十七 高句麗本紀 第五 「十一年 遣使如魏 賀改年號 是景初元年也」237年、使者を派遣し、魏の年号が改まったことを祝賀朝獻した。このときが景初元年である。237年明帝が年号を景初に改元したさいには、高句麗は朝賀貢献に奉じています。高句麗が魏に反旗をひるがえすのはこの6年後となります。
「東川王十九年 春三月 東海人獻美女 王納之後宮 冬十月 出師侵新羅北邊」245年のことです。東海人が美女を献じてきた。王は後宮にいれた。
美女を献上していたことは魏書でも書かれています。以下。
漢代之後 -> 魏晉南北朝 -> 三國志 -> 魏書三十 -> 東沃沮傳
《東沃沮傳》「国は小さく、大国の間に押し詰まっているので、ついに高句麗に臣属した。高句麗はその中に大人を置き、使者(高句麗の下級官名)となして統治させた。また大加(高句麗の大官)に租税を取り立てさせ、貊布、魚、塩、海産物は千里をかついで高句麗に届けられた。また沃沮の美女を送って召使いにしたが、奴隷のように扱っていた。」「里程論」のタグから抜粋

倭国の実態は219年ごろ遺民であった東夫餘人が公孫康によって帯方に国をつくりました。この国は帯方を舞台にし新設されていますが、もともとは東沃沮に迦葉原扶余という国があったのですが、高句麗に滅ぼされています。倭国は、このとき高句麗の属国だったことがわかります。どうして倭国と魏から認められたのかは謎ですが、魏志倭人伝の正始5年に正式に倭国の倭王として詔を賜っています。
正始元年(240年)、(帯方)太守弓遵(きゅうじゅん)は建忠校尉梯儁(ていしゅん)らを改元朝賀の儀に奉賀朝貢させた。(魏帝曹芳は)詣でた倭国に詔書と印綬を拝假し、倭王に併せて金帛錦、罽刀、鏡、釆物などの詔賜を齎(もたら)した。よって倭王は(倭国から)使者を出し上表をもって詔恩に答謝した。以上の訳はわたしの新訳ですが、ここをNHK的には倭国に詣でたなんて訳すから倭国がまったく見えなくなるのです。

狗奴国は句麗國の別称です。狗奴国には南北に二か国ありました
魏志倭人伝に2か所書かれている狗奴国(くなこく)が句麗國(くれこく)であると分かったら、邪馬台国についての数々の学説が、根本的に違っていたということになります。あなた、倭国が戦っていた相手が高句麗なのですよ。敵国の正体が露呈したら、さあ、たいへん!歴史がひっくりかえります。
しかも、狗奴国は二か国ありました。
 二か国のうち、第一の狗奴国は高句麗で、王は第11代の東川王です。第二の狗奴国は伯濟国(百済)で王は第8代古爾王です。玄菟太守の王頎に参軍して卑弥呼が戦ったのは高句麗の東川王でした。後漢書では句驪國と書かれています。
「狗奴国が二か国ある」ということ、そして史上の人物名まで完全解明したのは、わたしが初めてです。また倭の五王は日本の天皇ではありません。倭王を名のって東晋に朝貢していたのは百済王でした。「倭の五王は百済王」のタグの章に詳述しています。小著、『卑弥呼Xファイル』は、日本の『ダビンチ・コード』になるはずなんですが・・・?
伯濟国


卑弥呼の卑は鹎だった!”ベミコ”といいます。
随書 俀國傳 俀王姓阿每,字多利思北孤,號阿輩雞彌、随書俀國傳の有名なアメノ.タリシヒコの姓名です。王号は阿輩・彌ですが、この雞は家禽(家鸡)、ニワトリという意味です。彌は「あまねし」、どうしたことか卑彌呼にかさなってきます。転ずれば、文型から、鳥から生まれた一族のということになります。いろいろと候補はあるでしょうが、雞彌の雛(ひなzhī)と、卑の文字は同意とみることができます。鹎(ひなどり)の省略文字が卑なのです。
卑弥呼→鹎彌居
bēi〕ひなどり、と訳します。しかし、どういう意味でしょう?随書 百済伝で、「婢云:「有物狀如雞子,來感於我,故有娠也。」王舍之。」とあります。これは、河伯(はべく)の女の言葉です。「雞子(ひよこ)のような形をしたものが入ってきました。それに感じてわたしは妊娠したのです。」、王に伝えます。これが受胎の原因ということですが、雞子とは直訳すればニワトリの子です。この短い神話は高句麗建国開祖の朱蒙の誕生神話で、いわゆる天光受胎神話と呼ばれています。卵生神話の一つです。日本でも平安時代までは常識的な物語でした。続日本紀には和氏の上奏文、「それ百済の遠祖、都慕(つぼ)王は河伯の女日精に感じて生めるところなり。皇太后(高野朝臣新笠)はその後なり」・・・日精に感じて生まれたのは都慕王、高句麗の太祖です。都慕王とは別名、東明聖王、古事記では大国主、またの名を葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)と言います。これらは高朱蒙の別称です。なんと、記紀・神代の物語の主役中の主役です。
さて、随書の続きですが、「棄之*廁溷,久而不死,以爲神」、これは「豚小屋に捨てたが死ななかったので、王は以て神となした。」、この王の名を随書では扶余王の嘗(しょう・じょう)と記しています。「新嘗祭(にいなめサイ)のなめの字で国学者は”なめ”と訓読します。後裔の師升、升米の升(ショウ)につながるものとわたしは思います。書紀では八千矛神です。河伯の女は沼河日売で登場します。とうとう日神の子だと認めたのですね。実は、日精または日神が三本足の烏(カラス)なのです。 鹎bēi〕は中国辞書では、黒褐色の羽と白い腹をもつ鳥です。

どうやら、卑彌呼と卑彌弓呼の遠祖(太祖)が共に都慕王(東明聖王)すなわち高朱蒙だったということになります。これだと、卑彌呼に敵対する男王が卑彌弓呼と、弓の一字しか違わなくても納得のゆく説明がつくのです。卑彌呼も卑彌弓呼も河孫(河伯の女から生まれた子孫)だったのです。卑彌呼が扶余女王、卑彌弓呼が高句麗王東川王です。源流北扶余は公孫氏の配下で高句麗と果敢に戦いました。高句麗とは昔から敵同士です。そして、随書のタラシヒコも、雞彌です。だいたい330年ほど卑彌呼より後の時代ですが、朱蒙を太祖とする末裔だったという驚くべきことが暗示されます。

鹎彌は雞彌と同じで2文字2音ですが、「呼」は「居」の変体文字です。居は付属形態素として (身を)置く,任じる.【거・コ】という意味です。
あなた、「鹎彌居」が元字だったのです。
私たちがヒミコと通称してもまったく問題はありませんが元字は意味を取らねばなりません。
百済も高句麗も扶余から派生した国で、百済の当の王名は古爾(こに)王です。狗古智卑狗の卑も同じです。南の狗奴国も句麗國から分離した国だったのです。

(女王)その南狗奴国あり」、これを直に解釈すると、狗奴国の北に女王卑弥呼はいたのです。狗奴国はソウルと比定しましたので、卑弥呼はソウルより北方にいたのです。卑彌呼は東沃沮の華麗城(漢式土城)にいたと考えられます。今、北朝鮮の元山市北方約50km。里程論、倭国と狗奴国のロケーションで詳述しています。
卑弥呼は夫餘と密接な関係にあることを暗示させます。

の本字は

bēiの漢字は雛(ひな)で、日本の辞書にはありません。
新華辞典 鹎(鹎)bēi
1.主に黒褐色の羽と白い腹、短くて細い脚を持ち、果物や昆虫を食べる鳥の属。
(鳥類的一屬,羽毛大部為黑褐色,腹白,腿短而細弱,食果實和昆蟲
ーーーーー

東明聖王(とうめいせいおう、トンミョンソンワン、朝鮮語: 동명성왕)は、高句麗の初代とされる王(在位:紀元前37年 - 紀元前19年)であり、東明王、都慕王(つぼ→転化→日向國一之宮 都農神社)とも呼ばれる。姓は高、諱は朱蒙(しゅもう、朝鮮語주몽チュモン)または鄒牟(すうむ転化→水無・飛騨一宮水無神社)、チュモ、朝鮮語: 추모)、衆解(しゅうかい、チュンゲー、朝鮮語: 중해)とされる。
『ウィキペディア(Wikipedia)』

広開土王碑には鄒牟(チュム)

高句麗本紀では東明聖王、姓は高氏名は朱蒙、別称 鄒牟、象解

新撰姓氏録=>鄒牟(すむ)、須牟祁(すむき)王の後なり。
須牟祁王が第一番目の須佐之男=初代東明聖王
須世理比売の父。

新撰姓氏録=>都慕王(つぼおう)

続日本紀=仲牟王、都慕王

古事記神代=五人いる大国主命の一人
古事記神代=葦原色許男=大国主の若いころの名。

河伯(ハベク)の女、名を柳花(ゆふぁ유화)という。(三国史記)河伯族の王の娘。
朱蒙の母。
河伯の女=古事記では沼河比賣(ぬなかはひめ)のお名前で歌を一首詠っています。


简位居(かんいご)=简は姓、位居は”王”。すなわち、简王です。(尉仇台の嫡子。魏志倭人伝・景初2年の難升米の実名。
居:付属形態素 (身を)置く,任じる.【거・コ】
用例
身居要职=要職に身を置く.
以功臣自居=功臣をもって自任する.

位居:位する【”위거イゴ】
ある地位につく=王

*廁溷(しこん)=廁所
(人糞を豚に食わせていたので厠と豚小屋は同じ構造物になっていた。)=便所のこと


3世紀にあった方位磁石「指南魚」
 右の写真は「指南魚」と呼ばれ、一種の羅針盤でした。なんと2500年前、最初に磁石にN極とS極があることに気づいたのは中国人だったのです。戦国時代にはすでに、実用化されていたのです。3世紀頃より中国で使われた、コンパスの元祖とも言える道具が「指南魚」(しなんぎょ)です。魚をかたどって彫られた木片に磁石を埋め込み、水に浮かべると魚の頭が常に南を向く仕組みになっています。南の方角を指す魚なので、指南魚と呼ばれました。
こうしたことで、中国の後漢、それに次ぐ魏・晋の官吏は、今日でいうコンパスのような「指南魚」で方位を測っていたのです。
 「指南魚」が使われていたのは三世紀。これは卑彌呼(174-249)の時代ではありませんか。あなた、古代中国の科学知識をあまり馬鹿にしてはいけませんよ。わたしは谷あり山ありの地上では磁石で方位を取っていたと思います。

移動式コンパスは紀元前にすでに軍用に使われていました。
中国の戦国末期、指南車という「移動式の方位測定器」がありました。指南針を埋め込んだ人形の手がいつも南を指し示すのです。2600年前、紀元前500年ごろから軍事的に使用されていました。王充の論衡には、「司南之杓,投之於地,其柢南指。」と書かれ、指南針の使用がそうとうに普及していたことを伺わせます。
 因みに、「指南する」という日本語表現は、この指南針からきているのです。諸葛亮は兵器にいろいろと工夫をした人物ですが、諸葛亮が好きそうな軍事品ですね。

卑弥呼の時代、東北アジアでは磁方位は東に傾いていました。
磁石の指す方向は、N極が北をさすということは知っていても、真北を指していないということを知ってましたか? 真北というのは、「しんぼく」と読み、地球の地軸の先にある北極星の方向のことです。磁石の方位は真北から西に傾いています。現在東京では平均、約7度ほど西に傾いています。これを、西偏しているといいます。方位偏差というのですが、7度も違うのですから、あなた、磁石だけを頼りに遠くへ行くほど、目的地からは離れてします。
 卑弥呼の時代は、方位偏差が東偏だった事実が磁気考古学で判明しています。現代は西偏ですが、AD200年ごろは、東に10度近く東偏していました。魏志倭人伝の頃の帯方郡の磁方位は、方位偏差を加えて修正しなくてはなりません。仮に3世紀初頭のGPSの地図を想定しますと、東南135度の方位角に、8度ぐらい足して、143度が当時の磁方位・東南になります。方位143度というのが陳寿の描いていた東南なのです。そこで、143度にチューニングしてGPSシミレーションしなくてはならないのです。やってみてください。

 驚くべき結果が得られました。方位角143度ラインに、帯方郡・ソウル・釜山(金海)・対馬(上島)・糸島(筑前前原)・吉野ヶ里が一直線上に並ぶのです。郡ー狗邪韓国ー對馬―末盧国ー伊都国とは、この143度ラインに並んでいたのです。これはGoogle Map 距離測定で再現できるという意味で科学的証明なのですよ。次に、下のコラムをご覧ください。

過去2000年の磁気方位角推移グラフ

東北アジア史を知らなくては、あなたの頭は鎖国時代と同じですよ。
あなた、郡より倭まで、そして、郡から女王国まで東南12000余里と魏志倭人伝に書かれているのですよ。郡は出発点で、伊都国を終点とする直線距離が12000里ジャストなのです。出発地である郡とはどこでしょうか?
 帯方郡です。著名な邪馬台国論者は、帯方郡がソウル周辺だというんですが、ソウルには、伯濟国という国が西暦55年からあったのです。卑彌呼と同年代の王は古爾王です。なんと、あなた、この王は正始7年に魏の帯方太守弓遵(きゅうじゅん)を戦死させてしまったのですよ。
ゆえに、女王に服属していない国が現ソウル一帯にあったのです。その国の名は5世紀から百済と呼ばれていました。

GPS_時代になっても鎖国時代の説を鵜呑みにしますか?
そうですね。江戸時代の新井白石先生がどんなに知識がある人でも、やっぱり鎖国時代に生涯を過ごした人なので、世界観には限界がありますよね。
わたしは、[Google Map]で地名を総当たりしました。[Google Map]という武器を使わない手はありません。とくに、末盧国、伊都国、奴国までは学会に異論がないというけれど、発端が名前が似ているということが優先してますから、方位や距離については、つじつまを合わせるのが困難になるのはあたりまえです。
伊都国から奴国まで奴国は筑紫川の港だった