狗奴国解明・・・なんと二か国ありました!

黒澤一功の
古代史論にようこそ
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Contents Index
一部
<第一章> 
アプローチ


<第二章>
里程論
・女王国と倭国と狗奴国のロケーションを暴く


<第三章>
 原文配列構造

プログラミング言語のような構造式!

<第四章>
倭人伝現代語全文私訳

通説と対照

<第五章>
会稽の”倭人”

<第六章>
九州の地域・女王国と奴国


<第七章>
 九州外の島嶼・侏儒國・裸國・黒歯國

<第八章>
 倭国
公孫度と卑弥呼と尉仇台の関係



第二部

小論:太伯の後について
周禮が残っている地


小論:発見!倭の五王は百済王


小論:七支刀・稲荷山鉄剣・江田船山古墳の鉄刀


小論:漢書地理志 西域里の発見


小論:倭奴国と倭国の違い、金印は偽物


小論:後漢書 倭伝はお笑いの傑作


小論:随書俀國傳 邪馬台国への道程

第三部
渡来人の伝承

小論:天皇初の仏教に帰依者。皇極天皇


小論:松浦佐用比売伝説と任那


小論:鬼伝説と日本書紀


小論:羽衣伝説は日本海が本流


小論:つぬがあらひと伝説




以下は本文の抜粋と要約をコラム化したです。
Topic1:
「都」の漢文訓読が誤訳だった!魏志倭人伝、あなた、「都」を「みやこ」と思い込んでいませんでしたか?それは、とんでもない誤訳で、ほんとうは、「辺境の封地」という意味です。すると、女王は邪馬壹國にはおらず、逆に、帯方に近いところの倭国から高官・大率を派遣して邪馬台国を統治していたのです。みやこは中国語では周代は「京師」三国時代は「京都(けいと)」が正しいのです。「邪馬台国の女王卑弥呼」というイディオムは的外れだったのです。誤訳のドロ沼にはまった魏志倭人伝論と邪馬台国論は後をたちません。この国の知性にバカの壁があるといったら過言でしょうか?中国文は中国の古い辞書(説文解字)などを参照して、中国語を中国語として読む、つまり原文解釈からやり直すことですね。左のインデックスタブ、第一部アプローチの小論をぜひお読みください。
「(女王)その南狗奴国あり」と書かれています。狗奴国があいまいでは倭国も女王国も邪馬台国も語ることはできません。魏志倭人伝は神業ともいえる一級の地理誌です。「困った時は范曄だのみ」のという論者がいますが、後漢書を頼るととんでもない間違いを犯します。
本論は原典に戻り、魏志倭人伝を原文から徹底的にサーチします。アプローチ編では必須のキーワードとなる漢字そのもの、その漢字に秘めたロジック、また連語や構文をしっかりと定義づけします。また、方位や距離を忠実に、かつ、全文のコード配列を分析し解読します。こうして今までの邪馬台国畿内説が多くの誤訳にもとづいていることを暴きます。原文は三国志です。そのカテゴリーから卑弥呼と倭国、伊都国、奴国、女王国、邪馬台国の関係を書き下ろします。魏志倭人伝の最新の訳とイノベーションをお楽しみください。
Topic2:
「女王国」は倭地の一国だった!女王国は一つの国! 女王とどこか違うのか?初公開
女王国の分析
「女王国を東に海を渡ること千余里にして、また国あり、皆倭種なり」
 とある。ここでの意味は大きい。つまり、
 原文[女王國東渡海千餘里復有,國皆倭種]だが、文頭に自の脱字があり、(自)女王國東渡海千餘里復有國,皆倭種と自を補足して訳すのだ。女王国から東が海だと証明できた。したがって、
女王国は海に面しており、東に千余里(69km)海を渡ると、また国があって、倭人と同種の人が住んでいると言うのである。

「女王国より以北は、その戸数・道里、得て略載すべきも、遠絶にして詳かにできなかった”餘旁国”が次にある」
 とある。また、
「帯方郡の使いが往来していて、つねに女王国に駐在している。」
郡使が女王国まで往来しているのである。したがって、
女王国が倭地の全体ではありえない。往来しているという事実は重い。だからこそ里数を書くことができたのだ。しかし、その他の国々は、海で隔絶しているために書くことができなかったのだ。
1)女王国の以北にある国々はその戸数や道里はだいたい記載できた。
女王国の以北にも、その他の地にも国がある。戸数・道里が簡単に記載された国々は對馬國から邪馬台国まで8カ国あり、当の女王国を入れると以北にある国々は合計9カ国である。
2)奴国がある。これが女王の(支配している)領域の尽きる所である。
1)2)これを2式を連立式とすると、女王国と奴国はともに女王領域の南端にある国である。したがって、
女王国と奴国を点として結んだ線が以北にあたる境界線である。女王国以北には複数の国があるので面(エリア)のプロパティであることが証明される。
3)奴国から東に並列して、不彌国があり、奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国、女王国の5カ国は奴国と女王国をむすぶ南限の線に並立している。したがって、
奴国、不彌国、投馬国、邪馬台国、女王国の5カ国は境界線以北にあることが証明された。
4)「奴國,此女王境界所盡其南有狗奴國」からは、女王を起点に奴国が境界にあるとしているので、道里の起点が女王に変更されたのだ。狗奴国は女王の南であると言っている。したがって、
5)<自女王>南至投馬國、<自女王>南至,邪馬壹國,
4)と5)は連立式としてみると、狗奴国、投馬国、邪馬台国のいずれも女王(”倭国”)から南であり、かつ、女王国以北である。
6)道里とはA点からB点までの距離を里数(例えば500里など)で示すことである。投馬国と邪馬台国と狗奴国は里数の書式では記されていない。水行陸行なん日というのである。したがって、
投馬国と邪馬台国と狗奴国の項は郡を起点にしておらず、女王を起点にした距離の範疇だといえる。
ここで女王国というのは、倭地の全体の国であろうか。または邪馬台国のことであろうか?
「女王国より以北には、特に一大率を置き、諸国を検察せしむ」
 となっており、女王国が決して倭地の諸国全体を示す言葉でないことを、証明している。しかし、女王国以北となると面となる。
「三十ケ国には王がいて、みな女王国に服属している。帯方郡の使いが往来していて、つねに女王国に駐在している。」
 したがって、
女王国は、倭地の中の一国であり、郡使が駐在しており、かつ對馬國から邪馬台国まで8カ国は女王国に従属するのである。
また、
女王国は九州の東側の海に面しており、邪馬壹國より南にある。
「郡より女王国まで一萬二千余里である。」
まとめると、
女王国は九州島の東海岸にある一国で、以北の諸国を従える。帯方郡から一萬二千余里(13800里=828km)にある。

さて、卑彌呼は邪馬台国の女王だったのだろうか?
「奴国が女王の(支配している領域)の尽きる所である。女王の其の南には狗奴国があり、男子を王とし、狗古智卑狗が官に任じられている。女王に服属していない。」したがって、
女王の二文字は卑弥呼の居る地点であり、狗奴国は起点である女王と終点である奴国の中間にある。
「正始元年、太守弓遵(きゅうじゅん)および建忠校尉梯儁(ていしゅん)等は改元朝賀の儀に倭国を奉賀朝貢させた。(魏帝曹芳は)詣でた倭国に詔書と印綬を拝假し、倭王に併せて金帛錦、罽刀、鏡、釆物などの詔賜を齎(もたら)した。よって倭王は(倭国から)使者を出し上表をもって詔恩に答謝した。」ここで女王の二字と倭国が一致する。
その年(景初二年(238年)の十二月、魏の皇帝(明帝)は詔書を倭女王に報い、次のように語った。
 「制詔!親魏倭王卑弥呼よ!・・・」したがって、
倭女王卑彌呼は倭国の女王だったということになり、邪馬台国の女王ではない。

以下、説明、ですます調になります。
魏志倭人伝全文中、邪馬台国は一カ所、女王国は五カ所に記載されています。したがって、邪馬台国にいきなり焦点をあわせるよりも女王国にしぼって解析したほうが作業としてはやりやすいといえます。関係式を構成するためには条件文や論理文が多いほうが断然有利です。
女王国が郡から12000余里にあるのですが、余里を15%とわたしは定義しています。そこで、12000を1.15倍にして13800里です。13800里は帯方郡から女王国までの全距離を示しています。帯方郡からの表示には里数が付きますが、その他の場所を起点にするばあいは里数が書き込まれません。女王からの表記には南北の方位しか付きません。女王からの表記は、狗奴国、投馬国、邪馬台国、女王国の4カ国です。

わたしは、長い間、伊都国が女王国だと思い込んでいました。これが間違っていることに気づいたのは、以て北に奴国があるべきことです。奴国は伊都国の東南百里ですから、南限が12100里ということになるのです。
他方、女王国も南限です。この奴国と女王国を結んだラインがいわゆる女王の支配の及ぶ境界です。女王国以北に末盧國、伊都国、奴国、不彌國、投馬国、邪馬台国などが女王国以北になるのが道理です。この以北の条件文はいつも大きな争点なのですが、倭人伝は9カ国が以て北に矛盾なくすっぽりと収まるように論理構築がなされているのです。このことは中国語の原文の構文と構成を見ないとわかりません。また、後漢書の「倭奴國奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也」の一節では倭奴国が倭国の極南界にあるとします。後漢書は倭奴国と倭国を峻別していることについては間違っていません。

「女王國東渡海千里復有國皆倭種」について、女王国のロケーションをみるのに重要です。女王国は九州の東海岸、海浜に臨んでいます。大詰めはなんといっても邪馬台国でしょう。邪馬台国は女王国より北にあります。したがって、
別府周辺になるでしょうか。大分マリーンパレス水族館「うみたまご」の南2kmに高崎山があります。わたしは高崎山を第一候補にします。高崎山自然動物園は猿の自生飼いで有名ですが、もしそうなら、ジョークですが邪馬台国はいま猿のボスが支配者になっていることになります。ところで、「邪馬台国は別府温泉だった!」酒井正士著が2020年8月に出版されました。結論にいきつくプロセスはことなりますが、興味のある方は読まれるといいでしょう。地域学や遺跡学からみると、大分と別府は近いだけでなく文化的に一つの発展地域(エリア)です。古代の豊国(とよくに)です。注:邪馬台国は【邪馬壹國】が正しいのですが、通称として表記しています。

上の図はGoogle方位測定を使っています。左にリンクしていますので、どなたでも再現できます。お試しください。
手順:バルーン1(起点)を奴国の位置にドラッグします。次に、右の入力ウィンドウに方位を98度、距離を108kmに設定して、表示コマンドをクリックします。
実行の結果、バルーン2、女王国が表示されます。女王国のバルーンをzoomできます。拡大すると等高線のある詳細な地図がご覧になれます。(女王国のバルーン2は予断を以て手動で描画したものではありません。)

*区間距離の合計は総距離に一致する。一里は0.06km

Topic3:
里程論の結論 予断なく推測すると、女王国は大分市だった!邪馬台国はその北にあり!
邪馬台国は女王国以北で、奴国からは東に位置します。区間距離、総距離ともに方向および一里定数0.06kmに矛盾がありません。

里程論の結論 予断なく推測すると、女王国は大分市だった!邪馬台国はその北にあり、別府周辺!
区間距離、総距離ともに方向、および一里定数0.06kmに矛盾がありません。

余里の余は15%の実数にする

   Aブロックの一表 分割区間  区間里数  A1余里を整数化・15%増しにした実数値   単位km  一里実数
 從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千餘里。 7000余   8050 金海  483km  0.06km 
 始度一海千餘里、至對海國。 8000余   1150 対馬下島  69km  0.06km 
 又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。*狗邪韓国を基点に放射状  9000余  1150 壱岐  69km  0.06km 
 又渡一海千餘里、至末盧國。        **狗邪韓国を基点に放射状(距離は通算)  10000余  1150 糸島前原  69km  0.06km 
 東南陸行五百里、到伊都國。(余なし)  500  500 吉野ヶ里   30km 0.06km 
  区間距離の合計は総距離に一致する。  合計  12000 12000   720km  0.06km 

   Bブロックの一表    総里数  区間  比定地  伊都国から  奴国から
東の距離
 奴国からkm  一里実数
[自伊都国] 東南至奴國百里。 奴国は伊都国を始点に東南。
は奴国から東に転じ、以下東に並ぶ
12100  100 神崎郡
みやき町
城島大阪間 
100  -30  -1.8km   0.06km 
 [自奴国]東行至不彌國百里。 不彌國・奴国の東に並ぶ  12200  100 久留米市  200  170 10.2  0.06km  
h  投馬國、[自女王]至投馬國水行二十日。 投馬国・奴国の東に並び、女王の南にある 12900  700 日田市  900  870 52.2 0.06km  
 邪馬壹國、[自女王]至邪馬壹國水行十日陸行一月。 邪馬台国・奴国の東に並び、女王国の北、かつ女王の南にある 13770  870 杵築市または日出町 1770  1740 104.4   0.06km 
   奴國,此女王境界所盡其有狗奴國・・・  奴国が女王の南の境界。女王の南に狗奴国がある。したがって、女王と奴国の中間に狗奴国がある。          奴国から東行(里)
奴国から東行(km)  0.06km  
  J   自郡至女王國萬二千  郡から女王国まで里数。=女王国が最終地  13800  30  大分市   1800  1770里  106.2km  0.06km  
*女王の二字は倭国を指します。   13800 1800  828km     0.06km 
 


Aブロックの一表 分割区間 区間里数 A1余里を整数化・15%増しにした実数値 B1
単位km A1÷B1
一里実数
a  從郡至倭、循海岸水行、歴韓國、乍南乍東、到其北岸狗邪韓国七千餘里。 7000余 8050 金海 483km 0.06km
b  始度一海千餘里、至對海國。 8000余 1150 対馬下島 69km 0.06km
c  又南渡一海千餘里、名曰瀚海、至一大國。*狗邪韓国を基点に放射状 9000余 1150 壱岐 69km 0.06km
d  又渡一海千餘里、至末盧國。        **狗邪韓国を基点に放射状(距離は通算) 10000余 1150 糸島前原 69km 0.06km
e  東南陸行五百里、到伊都國。(余なし) 500 500 吉野ヶ里 30km 0.06km
区間距離の合計は総距離に一致する。  合計 12000 12000 720km 0.06km

Bブロックの一表 総里数 区間 比定地 伊都国から 奴国から
東の距離
奴国からkm
f [自伊都国] 東南至奴國百里。 奴国は伊都国を始点に東南。
は奴国から東に転じ、以下東に並ぶ 12100 100 神崎郡
みやき町
城島大阪間 100 -30 -1.8km
g [自奴国]東行至不彌國百里。 不彌國・奴国の東に並ぶ 12200 100 久留米市 200 170 10.2
h 投馬國、[自女王]南至投馬國水行二十日。 投馬国・奴国の東に並び、女王の南にある 12900 700 日田市 900 870 52.2
i 邪馬壹國、[自女王]南至邪馬壹國水行十日陸行一月。 邪馬台国・奴国の東に並び、女王国の北、かつ女王の南にある 13770 870 杵築市または日出町 1770 1740 104.4
奴國,此女王境界所盡其南有狗奴國・・・ 奴国が女王の南の境界。女王の南に狗奴国がある。したがって、女王と奴国の中間に狗奴国がある。 奴国から東行(里)
奴国から東行(km)
J 自郡至女王國萬二千餘里。 郡から女王国まで里数。=女王国が最終地 13800 30 大分市 1800 1770里 106.2km
*女王の二字は倭国を指します。 13800 1800 828km 0.06km

*大分県速見郡日出町(ひじまち)
伊都国から東南100里であるので、奴国の東行ラインは直角二等辺三角形の二辺の一辺の長さを差し引きます。伊都国と東西では70里ほどです。本来、伊都国からの余相当分は全道里ですから、伊都国からではなく、奴国からに置き換えなければなりません。

魏志倭人伝解体図


13800里は奴国で方向が東に転じますがABブロックを通した総距離です。総距離は尺のようにL字状なのです。Bブロックの表の最終地は”J”項の女王国です。なんと、女王国が最遠地になるのです。みなさん、倭国は卑彌呼がいる国で、支配者の国です。あべこべに女王国と邪馬台国は被支配者の国です。それぞれ、王がおり、女王国が邪馬台国よりも上位にあります。他方、倭国は壹與の後も中國に代々忠誠を誓って遣使貢献を果たしてきた国ですから、実態は夫餘です。倭国(女王)と女王国と邪馬台国、この三国をしっかり定義し、混同してはならないのです。それに加えて、三十ケ国には王がいて、みな女王国に服属しています。帯方郡の使いが往来していて、つねに女王国に駐在している。つまり、倭地はすべて女王国のもので、その他の王はみな女王国に服属していると言っているのです。伊都国や邪馬台国より女王国のほうが格が上なのです。こうして、女王国は諸国の王を従属させています。魏略では女国と書かれているように、女王”Queen”という意味はなく、女王国は女国に意味が近い固有名詞であるはずです。女王国だから女王が統治する國だと錯覚すると、邪馬壹國も女王の首都だとすること(実は間違いなのですが)との矛盾を解決しなければなりません。諸説は女王国を倭連合国のように集合名詞に昇華することによって矛盾を解決するわけです。
豊国という大國の図

女王国の比定地 予断を入れず地図で表示する 下図右のバルーン

予断なく女王国を指し示すと、霊山(りょうさん)と障子岳と本宮山の三山に囲まれた谷間。一帯は「大分県県民の森」といい、なにやら貯水池がある。この池は「青少年の森ゾーン」にあり、「憩いの池」と名付けられている。遊歩道、サイクリングロード、キャンプ場など行楽施設があり、県民の憩いの場になっている。さらに地図をzoomしてみると、標高で400m。はたして女王国があったのだろうか。
□この地域の遺跡学に詳しい方、好学の諸氏、ぜひご連絡ください。地域学が不足しています。よろしくお願いします。
Mail:akione96@kingchin.jp 黒澤

女王国は山城だったと考えられる。東側に武内社、磐座、本宮神社奥社がある。山城とは主に敵の攻撃にたいして防衛を主眼にしている。西北の大分川とは約4km、東側の大野川まで約7km、。どちらの川へも支流を通しての出撃できる位置にある。


女王国の周囲の古墳群。豊国を全貌してみましょう。女王国以北で有力な邪馬台国候補地は別府よりも杵築(きつき)の方が有力です。
どうしてでしょうか。八坂川は別府湾の奥入り江、守江湾(もりえわん)に注ぎ、杵築は天然の美港です。杵築や日出は古代には良港があったことは、容易に考えられます。
また、邪馬台国がこのラインの終点108kmにあるとすれば、それは杵築になります。実は108kmは別府湾の海上になってしまいます。
2014年ですから最近のことです。黒川遺跡(所在地:大分県杵築市大字日野字黒川)-弥生時代の2000点を超える石器が出土、県内屈指の遺跡が発見されました。




所在地:大分県杵築市大字日野字黒川
・時 期:~3世紀
・時 代:旧石器時代~古墳時代初期
・形 状:-
・特 徴:-
・指 定:-

【概要】
黒川遺跡 くろごういせき。平成26年10月3-7日に埋蔵文化財の試掘を行った結果、弥生土器や小型の土坑が見つかり、遺跡として認定を受けた。平成27年1月から本調査を開始。

旧石器時代の石器、縄文時代~弥生・古墳時代の土器や石器が3000点以上出土、石器3000点など、旧石器、縄文、弥生の3時代にわたる遺物が大量に出土しました。糸島の前原王墓が卑弥呼の墓だと騒がれたように、遺跡の発見によって邪馬台国の比定地がころころ変わります。「邪馬台国の可能性は否定できません!」といった考古学者の私見を切り取って新聞が報道するからですね。邪馬台国の比定地は100カ所あるとも言われています。なにか考古学的な発見のたびに流行するのはどんなもんでしょう。


大野川の中上流には古墳群と遺跡が集中している。一カ所に3から4基の古墳が見つかっている。豊後大野市周辺。
ただし、豊後大野は女王国以北にない。



Topic4:
魏志倭人傳の一里を数式で解く!はじめに「余」の字を実数化する。地域固有の一里の単位実数を計算します。(東夷里)
Stip1>魏志倭人伝の里はすべて点と点を結んだ直線距離です。(自~至~構文のの法則)
Stip2>魏志倭人伝の里数についている「余」の字を数式化します。
【定義】
α=”余”(プロパティ数値)
x=”郡から末盧國まで”==10000(余を除いた合計値)
b="末盧國から伊都国まで"=500
y==12000
上記の定義より次の数式を立て、α=余の割合を求めます。
【一次関数】 @IkkoKurosawa2020/05/13
α=(y-b)/x
【余の乗数】
α=1.15
αの値が分かれば魏志倭人伝の区間とその合計の値を数式で割り出すことができます。
郡から加羅韓国(金海)まで483km(Googleでの測定値) 里数は7000α=8050 
483÷8050=0.06
一里は0.06kmとなります。この値は「東夷里」と呼ぶことにします。検証は次章の「里程論」で詳しく説明します。東夷里は倭韓、楽浪郡、帯方郡の領域で適用でき、いつなんどき地図上でシミレーションしても再現性をもつ定数です。

倭里論-以下論理式

1.~余里の余をαと定義します。"余"=α
2.α=1.15
3.("帯方":"狗邪韓国","余里")=7000*αと式にします。
4.a=("帯方":"狗邪韓国","余里")=7000*α=〔7000x1.15〕=8050
5.b=("狗邪韓国":"末盧國","余里")=3000*α=3450
6.a+b=("帯方":"狗邪韓国","余里")+("狗邪韓国":"末盧國",余里")=8050+3450=11500
7.c=("末盧國":"伊都国","里")=500
8.("帯方":"伊都国","里")=a+b+c=12000
9.("帯方":"女王国","里")=("帯方:伊都国","里")=12000
10.x=("帯方":"狗邪韓国")〔,GPSの距離〕≒483km
11.x/a=0.06km

*()内の式中に,里だけとあり余なしの場合はそのまま実数値となります。
*9.総距離は区間距離の合計と一致するという定義が成立します。
*10 .xの値は一里のメートル換算値です。倭人伝では一里60メートルとなります。
前提となるαの規定値はタグ「狗奴国を暴く」で地図上で検証しています。
Topic5:卑弥呼の墓は直径23m!魏尺では一歩は六尺で144.72cm、卑弥呼の塚は、100歩+余歩で直径約144mと考えられています。ですが、西域には西域の、東夷には東夷の、それぞれ地域ごとに異なった長さの単位が用いられています。卑弥呼の墓は中国本土にはないのですよ。みなさん、こうして中国の度(長さ)をメートル数値で換算するのは間違いだと気づきませんか。倭人伝の一里は60m(既説)で、一里は300歩、300で逆算すると一歩は20cm、100余歩は余を15%として、115歩です「徑百餘歩徇葬者奴婢百餘人」、径とは円の直系ということです。なんと卑弥呼の塚は円墳でさしわたし23mにすぎないことになります。@2019/11/18 公開

Topic6:
狗奴国の王が明らかになった!狗奴国は句麗國の別称です。
狗奴国には南北に二か国ありました魏志倭人伝に2か所書かれている狗奴国(くなこく)が句麗國(くれこく)であると分かったら、邪馬台国についての数々の学説が、根本的に違っていたということになります。あなた、倭国が戦っていた相手が高句麗なのですよ。敵国の正体が露呈したら、さあ、たいへん!歴史がひっくりかえります。
しかも、狗奴国は二か国ありました。

北の狗奴国
卑彌弓呼が東川王


南の狗奴国
狗古智卑狗が古爾王
伯濟国



 二か国のうち、第一の狗奴国は高句麗で、卑彌弓呼こと時の王は第11代の東川王です。第二の狗奴国は伯濟国(百済)で王は狗古智卑狗こと第8代古爾王です。玄菟太守の王頎に参軍して卑弥呼が戦ったのは高句麗の東川王でした。後漢書では句驪國と書かれています。
「狗奴国が二か国ある」ということ、そして史上の人物名まで完全解明したのは、わたしが初めてです。また倭の五王は日本の天皇ではありません。倭王を名のって東晋に朝貢していたのは百済王でした。「倭の五王は百済王」のタグの章に詳述しています。小著、『卑弥呼Xファイル』は、日本の『ダビンチ・コード』になるはずなんですが・・・?

Topic7:
幻の倭国がとうとう姿を現した!倭国は現在の北朝鮮の日本海側、
咸鏡南道(ハムギョンナムド)だった!

漢の時代嶺東七県の中の華麗侯国。麗の文字がさまざまな推理を呼び起こす!《宋書》
《卷五本紀第五 文帝》
53倭國在高驪東南大海中,世修貢職。高祖永初二年(421年),詔曰:「倭贊萬里修貢,遠誠宜甄,可賜除授。」太祖元嘉二年(425年),贊又遣司馬曹達奉表獻方物。贊死,弟珍立,遣使貢獻。自稱使持節、都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍倭國王。表求除正,詔除安東將軍倭國王。珍又求除正倭隋等十三人平西、征虜、冠軍、輔國將軍號,詔並聽。二十年(444年),倭國王濟遣使奉獻,復以為安東將軍倭國王。二十八年(452年),加使持節、都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事,安東將軍如故并除所上二十三人軍、郡。濟死,世子興遣使貢獻。世祖大明六年(462年),詔曰:「倭王世子興,奕世載忠,作籓外海,稟化寧境,恭修貢職。新嗣邊業,宜授爵號,可安東將軍倭國王。」興死,弟武立,自稱使持節、都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事、安東大將軍倭國王。
以下、私訳。
「倭国は高句麗の東南大海中にあり、代々貢職を修めている。高祖(武帝・劉裕)永初二年(421年)、皇帝は次のように詔した。「倭賛は萬里(長城)の修貢し(燕長城の貢職)その深遠な誠はよろしく、よって、徐授を賜うべし。」太祖(文帝・劉義隆)元嘉二年(425年)に司馬曹達は賛を奉賀朝貢に遣わした。賛が死に、弟に珍が即位し、遣使貢献してきた。珍は「使持節都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事、安東大將軍倭國王」を自称して、上表し徐正(進号)を求めてきた。皇帝は詔して、安東將軍倭國王と徐授した。珍は又倭隋等十三人、平西征虜冠軍、輔國將軍などの号の除正を求めたので、並びに聞き入れて除正した。文帝20年(444年)倭国王済が遣使し奉賀朝獻してきた。済を安東將軍倭國王に戻した。文帝28年(452年)文帝は倭国王済を使持節都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事安東將軍と徐正し、軍、郡の二十三人の授正を以前のように併せて詔した。濟が死に、太子興が遣使を出して貢獻してきた。世祖(孝武帝劉駿)大明六年(462年)皇帝は詔をだした。「倭王太子興は、代々忠実に朝獻し,籓を外海に作り,天意に従い国境を寧(やす)んじ,うやうやしく貢職を修め。新たに辺業を継ぐ,爵号を安東將軍倭國王に授正するのにふさわしい。」興が死んで、弟の武が即位した。「使持節都督,倭,百濟,新羅,任那,加羅,秦韓慕韓七國,諸軍事,安東大將軍倭國王」を自称して上表してきた。

*奕世=累世,代々の意。倭国は初代王からずっと漢に貢献を絶やさなかったのです。したがって、倭国は(元)日本ではなかったのです。中国がこのことに気づいたのは隋書以降です。旧唐書では日本国を倭国の別種と表現しています。元史・日本伝「日本国は東海の東に位置し昔は倭奴国と称した。」、いずれも日本という国号を定めた以降に倭国とは違うことを表現するようになったのだと言えます。
*司馬:中国、周の六卿の一。夏官の長で、官制・祭祀(さいし)・軍事をつかさどった。前漢には大司馬と称し、三公の一。司馬は元々軍事をつかさどる官職のことである。曹達という人物は不明であるが、帯方郡?太守に次ぐ高官であるとみる。
*元嘉元年8月:(424年)宋の文帝こと劉義隆が即位、元嘉と改元。元嘉二年に改元奉賀朝貢が行われたもの。奉賀朝貢は太守が推薦仲介する。
*南朝宋の何承天が元嘉20(443)年に作成した暦法。定朔望の採用を主張したが,反対にあって実行されなかった。しかし同22年以後梁初までの暦はこれによって計算された。
*世祖:430年8月、文帝(劉義隆)の三男として生まれた。436年9月、武陵王に封じられた。439年、都督湘州諸軍事・征虜将軍・湘州刺史となった。440年、使持節・都督南豫豫司雍并五州諸軍事・南豫州刺史に転じた。444年、撫軍将軍の号を受けた。445年、寧蛮校尉・雍州刺史に転じた。448年、安北将軍・徐州刺史に任じられ、彭城に駐屯した。450年、汝陽の敗戦の罪に連座して鎮軍将軍に降格された。451年2月、北魏の侵入を許した罪で、北中郎将に降格された。3月、南兗州刺史となり、山陽に駐屯した。6月、南中郎将・江州刺史に転じた。
30年2月:皇太子劉劭、文帝を殺害し即位。太初と改元。453年1月、長兄にあたる皇太子劉劭が文帝を殺害すると、劉駿は兄を討つべく江州で起兵した。4月、新亭に進軍して、皇帝に即位した。元号は(454年)初め孝建。孝建(454年-456年)/大明(457年-464年)孝建三年後太明に改元。諡号は南朝宋の第4代皇帝・光武帝:

★「倭国は高句麗の東南大海中にあり。代々貢職を修める。・・・」南宋は倭国を日本の地にあるとは思っていなかったのです。
ここで東南の大海とは日本海のことに違いありません。”高驪”の二字は”高句麗”、さらに、これを”北の狗奴国Ⅰ”に置き換えることができます。こうして「倭国は高句麗の東南大海中にあり。」の意味がやっと納得ができます。意外にも倭国は朝鮮半島の日本海側、すわわち東沃沮、今の咸鏡南道(ハムギョンナムド)にあったのです。
@2020/07/13公開
(左のメニュータグ・里程論の後半に詳述)

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倭国(女王)、狗奴国Ⅱ、帯方郡治、楽浪郡治の関係図*北は方位角+8度(当時の磁方位偏角)ほんとうの北と、磁石針のN極が指す方向がずれているということです。50年ぐらいの間隔で、磁方位はほんとうの北より西に傾いたり、東に傾いたりしているのです。このことは磁気考古学で証明されています。
(わかりやすく言い換えますと、地図全体を8度左回転させるということです。すると、現代の地図をみているのと変わらず、南北は経線にぴったり合うことになります。上の地図を中心あたりから左回転させるイメージで見てください。倭国ー狗奴国Ⅱのラインが垂直線になるはずです。)
魏志倭人伝:「其南有狗奴國男子爲王其官有狗古智卑狗不屬女王」
其の字の主格は女王です。そこで狗奴国Ⅱと女王倭国は北の線上にあるということになります。こうして狗奴国が分かれば女王のいる倭国もわかるのです。倭国が公孫氏、および高句麗と交戦したことは地理的にも可能であったのです。

『三國史記』卷十七高句麗本紀第十五 第六代太祖大王  「四年(56年)秋七月、東沃沮を討伐して、その旧領を接収して、城邑とした。(直轄地とした)これによって高句麗の領土が拡大し、東は蒼海(日本海)、南は薩水(清川江)にまでおよんだ。西暦55年には玄莬郡を制圧し、高句麗は東沃沮を自国の領土としました。

漢代之後->魏晉南北朝->三國志->魏書三十->東沃沮傳

《東沃沮傳》「国は小さく、大国の間に押し詰まっているので、ついに高句麗に臣属した。高句麗はその中に大人を置き、使者(高句麗の下級官名)となして統治させた。また大加(高句麗の貴族・部族長)に租税を取り立てさせ、貊布、魚、塩、海産物は千里をかついで高句麗に届けられた。また沃沮の美女を送って召使いにしたが、奴隷のように扱っていた。」「里程論」のタグから抜粋
*古代朝鮮人は貊族、濊族、韓族の三大部族で形成されていたと考えられていました。東沃沮は貊(ペク)族だったことが貊布の文字から分かります。貊族は北扶余、東扶余、卒本扶余に分裂していましたが、おおむね新興の高句麗に統一されていったのです。ここで高句麗の朱蒙が育った東扶余が東沃沮にあったということはあまり理解されていません。また、玄菟郡太守は華麗城におり、118年のころ太守は姚光(ようこう)だったと《後漢書》列伝巻85東夷列伝高句麗に記されています。東扶余と第一次玄菟郡は近い距離だったと思われ、玄菟郡は嶺東の華麗県にあったようです。

『三國史記』「東川王十九年(245年) 春三月 東海人獻美女 王納之後宮 冬十月 出師侵新羅北邊
東海人が美女を献じてきた。王は後宮にいれた。
美女を献上していたことは魏書でも書かれています。以下魏書三十》《濊傳》正始6年の条。

烏丸鮮卑東夷傳第三十 
漢代之後->魏晉南北朝->三國志->魏書三十->韓伝〔韓傳〕

桓靈之末,韓濊彊盛,郡縣不能制,民多流入韓國。建安中,公孫康分屯有縣以南荒地為帶方郡,遣公孫模、張敞等收集遺民,興兵伐韓濊,舊民稍出,是後倭韓遂屬帶方。景初中,明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣、越海定二郡,諸韓國臣智加賜邑君印綬,

「桓帝と霊帝の末(後漢末期)には韓、濊(わい)が強勢になり、郡や県は支配することができず、住民の多くが韓国に流入した。(後漢最後の献帝の)建安年間(196~219)に公孫康が楽浪郡の屯有県以南の荒地を分けて帯方郡と為した。公孫康(こうそんこう)は公孫模(ぼ)や張敞(ちょうしょう)等を派遣して(東扶余の)遺民を集めて兵を興し、韓や濊を伐ったので、元の旧民(阿残=楽浪国人)がわずかながら、少しずつ出てきた。この後、倭(嶺東夫餘)と韓はついに帯方郡に属した。景初中に、明帝は密かに帯方太守・劉昕と楽浪太守・鮮于嗣を派遣し、海を越え二郡を定めた。諸韓国の王には邑君の印綬を与えた。」

やがて公孫康が帯方郡を新設すると、扶余の遺民を集合して侵入し、東沃沮(嶺東)に「阿扶余」という新国家を作った。さらに王は尉仇台は遼東の小水に国をつくった。倭の五王の太祖である。公孫度は宗女を尉仇台の妻としたが、この宗女こそ倭国女王卑弥呼としか考えられない。公孫氏滅亡の同年に魏への遣使を果すことができたのはなぜだろうか。そこをつっこむと、謎が解ける。
三国志魏書東夷伝 扶余。
夫餘はもと玄菟に属す。漢末、公孫度海東に雄を張り、外夷威服し、夫餘王尉仇台さらに遼東に属す。句麗・鮮卑強なる時、夫餘二慮の間にあるを以って、度、宗女を以って妻となす。

扶余は昔、玄菟郡(漢)に属していたが、その後高句麗に従属していた。公孫度が濊と韓を討伐して東の海に進出すると、扶余は公孫に属した。さらに領地を遼東の西部にも広げた。高麗や鮮卑が強力な時、高句麗と鳥桓(鮮卑)の間に位置して不安なため、公孫度は宗女を尉仇台に与えて婿とした。ひとつ、「阿扶余」という新国家が誕生した。「阿」という冠をつけた扶余である。また異端の夫餘とも扶余の別種とも云われる。阿扶余こそが中国が言うところの倭国の別称なのです。

《魏書三十》《夫餘傳》
3打開字典顯示相似段落夫餘傳:
夫餘本屬玄菟。漢末(118年),公孫度雄張海東,威服外夷,夫餘王尉仇台更屬遼東。時句麗、鮮卑彊,度以夫餘在二虜之間,妻以宗女。尉仇台死,簡位居立。無適子,有孽子麻余。位居死,諸加共立麻余。牛加兄子名位居,為大使,輕財善施,國人附之,歲歲遣使詣京都貢獻。正始中,幽州刺史毌丘儉討句麗,
 夫餘はもともと玄莬郡に属していた。(しかし、西暦55年以降、高句麗に領有されていたが)、公孫度が海東に雄を張り、外夷を威服した。扶余王尉仇台は(東沃沮)に国を作ったが、さらに遼東に属することになった。特に句麗(高句麗)や鮮卑の強国にはさまれていたので宗女をもって尉仇台の妻とした。宗女が卑弥呼であることは疑いない。尉仇台の後嗣子简位居が立った。卑弥呼の子は早世してしまい、简位居に男子がなく、庶子の弟麻余を諸加が共立したが、牛加の位居が太子(大使は太子の誤りだろう)となって国人は位居についた。これが正始8年の相誅殺しあった乱です。牛加は消奴加、代々王を出す松譲王系の宗族です。尉仇台は太祖ですが、壹與を最後に、女系の血統は絶えたといえます。

『三國史記』卷十七高句麗本紀第五「十一年 遣使如魏 賀改年號 是景初元年也」237年、使者を派遣し、魏の年号が改まったことを祝賀朝獻した。このときが景初元年である。237年明帝が年号を景初に改元したさいには、高句麗は朝賀貢献に奉じています。景初二年高句麗は司馬懿に二千の兵を助軍しています。高句麗が魏に反旗をひるがえすのはこの5年後となります。実は、倭国は正始元年の改元のときに奉賀貢献しています。以下。
『魏志倭人伝』正始元年太守弓遵遣建中校尉梯儁等奉,詔書印綬詣倭國拝假,倭王并齎詔賜金帛錦罽刀鏡釆物倭王因使上表荅謝詔恩(魏志倭人伝・新訳)
正始元(240)年、(帯方)太守弓遵(きゅうじゅん)は建忠校尉梯儁(ていしゅん)らを改元朝賀の儀に奉賀朝貢させた。(魏帝曹芳は)詣でた倭国に詔書と印綬を拝假し、倭王に併せて金帛錦、罽刀、鏡、釆物などの詔賜を齎(もたら)した。よって倭王は(倭国から)使者を出し上表をもって詔恩に答謝した。梯儁(ていしゅん)は中国皇帝にから建忠校尉という称号の明帝の臣です。上位が属国である倭国に詣でる」というイディオムは成立しません。また、奉は奉賀朝獻の略です。いままでの学説?が根本的に誤訳をしています。なんと梯儁(ていしゅん)が日本に来たと曲解をして邪馬台国論を展開しているのですからすべて詐欺となります。なんとしても卑弥呼が邪馬台国にいることに固執しているのはなぜでしょうか。不思議ですね。卑弥呼は朝鮮半島東北部にいたのですから、卑弥呼の墓が日本にあるわけはないのです。学会というヒエラルヒーは隠蔽プロパガンダをする魔界の機関になっています。

《魏書三十》《濊傳》:
正始六年,樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵以嶺東濊屬句麗,興師伐之,不耐侯等舉邑降。其八年,詣闕朝貢,詔更拜不耐濊王。居處雜在民間,四時詣郡朝謁。二郡有軍征賦調,供給役使,遇之如民。

正始6年(245年)樂浪太守劉茂と帶方太守弓遵は嶺東と濊が句麗に属しているので興師(毌丘倹)を以てこれを征討した。不耐王らは邑をあげて投降した。正始8年、不耐王は洛陽に朝貢し、詔を受け、不耐濊王に序された。城壁はなく、不耐濊王は邑の民の間に雑居している。一年に4回季節ごとに洛陽に詣でて謁見する。楽浪郡と帯方郡は嶺東と濊において軍を整え、税や物産を徴収し、役人を供して(奴隷ではなく)民のように待遇した。

★245年春には楽浪郡と帯方郡の太守は東沃沮を制圧し軍政を敷いています。その前年まで東沃沮は高句麗に属し、その同じ245年正始6年に卑弥呼が帶方太守弓遵の政治下にあったことが明確なのですから、卑弥呼がいた場所は嶺東に違いありません。嶺東七県は「東傥,不而,蠶台,華麗,邪頭昧,前莫,夫租。」21世紀になっても、日本の学説とやらは、「邪馬台国の女王卑弥呼」のイディオムから離れていません。卑弥呼は倭国の女王であって、邪馬台国の女王ではありません。「女王之所都」の都は”みやこ”とは違います。「都(ど)は都鄙(とひ)の略語です。君主が王族や貴族に与える地方の直轄地です。邪馬台国は卑弥呼の直轄地の一つにすぎなかったのです。卑弥呼は邪馬台国にはいなかったのです。倭国と女王国、邪馬台国を一つにまるめて、混同している学説?は実は、そうとう漢文語学力のレベルが低い」のです。

Topcs8:
壹與は285年まで倭国女王、51歳で退位した。

晉書 卷九十七列傳第六十七四夷傳 倭人「卑彌呼,宣帝之平公孫氏也,其女王遣使至帶方朝見,其後貢聘(こうへい)不絕。及文帝作相,又數至。泰始初,遣使重譯入貢。
「卑彌呼は宣帝(司馬懿仲達)が討ち取った公孫氏なり。その女王が使者を帯方郡に派遣し、その使者は朝見に至った。その後も朝貢が絶えなかった。文帝(司馬昭のこと)が相国に就任すると(西暦263年)、またしばしば朝貢にやってきた。泰始(西暦265年〜西暦274年)の初めごろ、使者を決まったように繰り返し入貢してきた。」(卑弥呼は帯方に遣使をおくり、さらに洛陽に遣わしたのですから、帯方郡太守弓遵のの支配領域にいたと考えられます。正始6年には健在だったのです。『晉書』では、正始6年、帯方に遣使をし、その後と朝貢不絶とされています。
文帝は司馬昭(しばしょう)のこと。司馬懿仲達の次男で、(生没年は211年~265年)。司馬昭の子司馬炎が初代の晋の皇帝武帝であり、魏の元帝の禅譲により西晋を建国しました。泰始年号がその初の年号で泰始は265年-274年です。

《魏書三十》《濊傳》:
正始六年,樂浪太守劉茂、帶方太守弓遵以領東濊屬句麗,興師伐之,不耐侯等舉邑降。其八年,詣闕朝貢,詔更拜不耐濊王。居處雜在民間,四時詣郡朝謁。二郡有軍征賦調,供給役使,遇之如民。

正始6年(245年)樂浪太守劉茂と帶方太守弓遵は嶺東(貊)と濊が高句麗に属しているので興師(毌丘倹)を以てこれを征討した。不耐王らは邑をあげて投降した。正始8年、不耐王は洛陽に朝貢し、詔を受け、不耐濊王に序された。城壁はなく、不耐濊王は邑の民の間に雑居している。一年に4回季節ごとに洛陽に詣でて謁見する。楽浪郡と帯方郡は領東と濊において軍を整え、税や物産を徴収し、役人を供して民のように優遇した。

依慮王とは?
三国志』魏書 三十 扶余傳「夫餘本屬玄菟。漢末,公孫度雄張海東,威服外夷,夫餘王尉仇台更屬遼東。時句麗、鮮卑彊,度以夫餘在二虜之間,妻以宗女。尉仇台死,簡位居立。無適子,有孽子(げつし=庶子)麻余。(簡)位居死(難升米),諸加共立麻余。/牛加兄子名位居,為大使,輕財善施,國人附之,歲歲遣使詣京都貢獻。正始中,幽州刺史毌丘儉討句麗,遣玄菟太守王頎詣夫餘,位居遣大加郊迎供軍糧。季父牛加有二心,位居殺季父父子,籍沒財物,遣使簿斂送官。舊夫餘俗,水旱不調,五糓不熟,輙歸咎於王,或言當易,或言當殺。麻余死,其子依慮年六歲,立以為王。漢時,夫餘王葬用玉匣,常豫以付玄菟郡,王死則迎取以葬。公孫淵伏誅
扶余はもともと玄莬に属していた。漢の末、公孫度は海東(沃沮、濊貊)に雄を張り、外夷を征服し、扶余王の尉仇台はさらに遼東に属した。その時、句麗(高句麗)・鮮卑が強勢で公孫度は扶余が二虜の間にあるので、宗女をもって妻となした。尉仇台死に、嫡子の简位居が立った、景初二年に大夫として朝獻を果たす。简位居に嗣子がなく、麻余という庶子がいた。简位居が死ぬと、諸加(六畜部族)は麻余を共立して王となした。/牛加の位居という兄子を太子にした軽い財物をよく施したので国人は彼についた。毎年、京都(洛陽)に遣使貢献していた。正始中に幽州勅使毌丘倹が高句麗を撃った。玄莬太守の王頎は扶余を詣でさせ、位居は大加(一品の高官)を郊外まで出迎えて歓迎し、軍の食糧を提供した。牛加の末の父に二心(謀反)あり、位居はこの父子を殺し、門籍や財物を没収し、遣使をだし簿斂(ぼけん)を送官た。むかしから夫餘では、やた。水害や干害で五穀が凶作となると、王を咎めて変えるべきだとか、殺すべきだとかいう。麻余は死に(誅殺された)、その子依慮が六歳で王となった。漢のとき、夫餘の王は王の葬儀に玉匣を供するが、その玉匣はつねに玄莬郡に質入れしていた。王は死ぬとすぐに遺体を迎えて葬る。公孫淵が降伏して誅殺された。

*扶余王が死ぬと魏の使者も招きますが、木棺に玉匣(たま-くしげ)や金銀を入れていたのです。それらは玄莬郡に預けていたと書かれています。徇葬者はみな純白の服を着せて棺にいれています。郭はありましたが、木製のため遺跡として残ることはなかったようです。玉匣とはたま-くしげ【玉櫛笥・玉匣】櫛(くし)などの化粧道具を入れる美しい箱のことです。

依慮(イロ)は自殺し依羅は東扶余に遁走、旧国に還る

(出典:《隋唐》《通典》[唐]801年杜佑著《兵十四》《邊防一》《夫餘》3:至太康六年(285年),為慕容廆所襲破。廆,呼罪反。其王依慮自殺,子弟走保沃沮。武帝以何龕(かがん)為護東夷校尉。明年,夫餘後王依羅遣使詣龕(がん),求率見人還復舊國。龕遣督郵賈沈以兵送之。爾後每為廆掠其種人,賣於中國,帝又以官物贖還,禁市夫餘之口。自後無聞。

太康六年(285年)、慕容廆(ぼようかい)によって遼西扶余は全軍が撃破され、王の依慮(イロ)は海に入水自殺し、子弟は逃れて沃沮に保護された。武帝はこの事態に何龕(かがん)を護東夷校尉となした。明年、依慮の後の王依羅は何龕(かがん)に使者を送り、国人を率いて(沃沮に)還し旧国を復するよう求めた。何龕(かがん)は督郵・賈沈(かじゅう)に兵をもたせて国人を送らせた。その後、慕容廆は毎度のようにその種の人々を略奪し中国に売っていた。武帝は官の財物を使って奴隷を買い戻し、夫餘の奴隷を売買することを禁じた。これからのちに、扶余のことを聞くことが無くなった。

285年に子弟は沃沮(オクチョ・朝鮮半島東海)に逃れている。この子弟が依羅、晋平二郡を放棄し、東沃沮に復国した。

*依羅は扶余の人々、見人⇒国人?、民を旧国に戻るように求めた、この旧国とは東沃沮です。結果、この時まで扶余は遼西晋平県と東沃沮に二つの王城をもっていたことになります。*相国(しょうこく)は漢代に於ける廷臣の最高職。後漢の末に董卓が相国に就任。文帝は晋王。次の司馬炎(しばえん)は、咸熙2年(265年)8月に司馬昭が没すると、晋王・相国の位を継ぎ、12月には、元帝に禅譲を迫って初代皇帝に即位、新王朝を「晋」と名付け、元号を泰始と改めた。諡号は武帝

仇台系扶余、中国ではこれを後東扶余と読んでいますが、始祖・尉仇台ー简位居ー麻余ー依盧ー依羅ー玄王ー余蔚王ー近肖古王ー近仇首王ー枕流王ー辰斯王ー阿莘王ー腆支王ーと続きますが、この王統が倭国と自称することがなぜできたのでしょうか。麻余が死んだとき次の王の依慮はまだ六歳でした。男王が死んだというのは麻余だったのですが、互いに誅殺しあったというのは、麻余が牛加の謀反で殺されたということです。依慮が6歳だったからでしょう。再び女王にかつぎだされたのが壹與ですが13歳でしたね。壹與が宗女とされるのは、尉仇台の嫡男ある简位居の女子だったからです。简位居には継承する男子がなかったことは書かれていますが、女子がいないとは書かれていないのです。

Topic9:
卑弥呼の卑は鹎だった!”ベミフ”といいます。
随書 俀國傳 俀王姓阿每,字多利思北孤,號阿輩雞彌、随書俀國傳の有名なアメノ.タリシヒコは字名です。王号は阿輩・雞彌ですが、この雞は家禽(家鸡)、ニワトリという意味です。彌は「あまねし」、どうしたことか卑彌呼にかさなってきます。転ずれば、文型から、鳥から生まれた一族のということになります。いろいろと候補はあるでしょうが、雞彌の雛(ひなzhī)と、卑の文字は同意とみることができます。鹎(ひなどり)の省略文字が卑なのです。卑弥呼→鹎彌呼鹎〔bēi〕ひなどり、と訳します。しかし、どういう意味でしょう?随書 百済伝で、「婢云:「有物狀如雞子,來感於我,故有娠也。」王舍之。」とあります。これは、河伯(はべく)の女の言葉です。「雞子(ひよこ)のような形をしたものが入ってきました。それに感じてわたしは妊娠したのです。」、王に伝えます。これが受胎の原因ということですが、雞子とは直訳すればニワトリの子です。この短い神話は高句麗建国開祖の朱蒙の誕生神話で、いわゆる天光受胎神話と呼ばれています。卵生神話の一つです。日本でも平安時代までは常識的な物語でした。続日本紀には和氏の上奏文、「それ百済の遠祖、都慕(つぼ)王は河伯の女日精に感じて生めるところなり。皇太后(高野朝臣新笠)はその後なり」・・・日精に感じて生まれたのは都慕王、高句麗の太祖です。都慕王とは別名、東明聖王、古事記では大国主、またの名を葦原色許男神(あしはらしこおのかみ)と言います。これらは高朱蒙の別称です。なんと、記紀・神代の物語の主役中の主役です。さて、随書の続きですが、「棄之*廁溷,久而不死,以爲神」、これは「豚小屋に捨てたが死ななかったので、王は以て神となした。」、この王の名を随書では扶余王の嘗(しょう・じょう)と記しています。「新嘗祭(にいなめさい)のなめの字で国学者は”なめ”と訓読します。後裔の師升、升米の升(ショウ)につながるものとわたしは思います。古事記では八千矛神です。河伯の女は沼河日売で登場します。とうとう日神の子だと認めたのですね。実は、日精または日神が三本足の烏(カラス)なのです。鹎〔bēi〕は中国辞書では、黒褐色の羽と白い腹をもつ鳥です。

どうやら、卑彌呼と卑彌弓呼の遠祖(太祖)が共に朝鮮史での東夫餘王だった金蛙王(クムワワン)だったのです。金蛙王(クムワワン)の側室に柳花がいました。柳花が日神に感じて、後の都慕王(東明聖王)すなわち高朱蒙をうんだのです。河伯の女こと柳花は高句麗の祠堂では扶余神とされ、朱蒙は登高神とよばれています。周書 高句麗伝 また、神廟が二所あり、一つは扶余神といい、木を刻んで婦人(女神)の象を作る。一つは登高神といい、その始祖の扶余神の子だという。官を並置して司り、遣人が守護する。それらは河伯の女と、ともに朱蒙に該当するという。(この二人は母子の関係です。) 卑彌呼に敵対する男王が卑彌弓呼と、弓の一字しか違わなくても納得のゆく説明がつくのです。卑彌弓呼は河孫(河伯の女から生まれた子孫)だったのです。卑彌呼が扶余女王になったのは扶余王師升の子、尉仇台と結婚したからでしょう。卑彌弓呼が高句麗王東川王です。源流北扶余の尉仇台は公孫氏の配下で高句麗と果敢に戦いました。漢の公孫氏に付いていましたから高句麗とは交戦した敵同士です。そして、随書のタラシヒコも、雞彌です。だいたい330年ほど卑彌呼より後の時代ですが、朱蒙を太祖とする末裔だったという驚くべきことが暗示されます。鹎彌は雞彌と同じで2文字2音ですが、「呼」は「フー1」と発音します。百済も高句麗も扶余から派生した国で、狗古智卑狗の当の王名は古爾(こに)王です。狗古智卑狗の卑も同じです。南の狗奴国も句麗國から分離した国だったのです。(女王)その南狗奴国あり」、これを直に解釈すると、狗奴国の北に女王卑弥呼はいたのです。南の狗奴国Ⅱはソウルと比定しましたので、卑弥呼はソウルより北方にいたのです。卑彌呼は東沃沮の華麗城(漢式土城)にいたと考えられます。今、北朝鮮の元山市北方約50km。咸鏡南道です。のWEB「里程論、倭国と狗奴国のロケーション」で詳述しています。


鹎〔bēi〕の漢字は雛(ひな)で、日本の辞書にはありません。
新華辞典 鹎(鹎)bēi
1.主に黒褐色の羽と白い腹、短くて細い脚を持ち、果物や昆虫を食べる鳥の属。いる。
(鳥類的一屬,羽毛大部為黑褐色,腹白,腿短而細弱,食果實和昆蟲)

日本サッカー協会JFAのシンボルマーク
八咫烏(ヤタガラス)が中国の古典に登場する三足烏(さんそくう)か?このカラスがなぜ、三本の足をもつのか太陽神のシンボルだということだけが確かなようです。
-----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------------東明聖王(とうめいせいおう、トンミョンソンワン、朝鮮語:동명성왕)は、高句麗の初代とされる王(在位:紀元前37年-紀元前19年、生年紀元前58年~紀元前19年)であり、東明王、都慕王(つぼ→転化→日向國一之宮都農神社)、姓は高、諱は朱蒙(しゅもう、朝鮮語주몽チュモン)または鄒牟(すうむ転化→水無・飛騨一宮水無神社)、チュモ、朝鮮語:추모)、衆解(しゅうかい、チュンゲー、朝鮮語:중해)とされる。』広開土王碑には鄒牟(チュム)高句麗本紀では東明聖王、姓は高氏、名は朱蒙、別称 鄒牟、象解新撰姓氏録=>鄒牟(すむ)、須牟祁(すむき)王の後なり。須牟祁王が第一番目の須佐之男=初代東明聖王、須世理比売の父。須牟祁(すむき)王の実名は高无胥(北扶余六世)。須佐之男は代名詞で二人となる。二人目はもちろん朱蒙。朱蒙は高无胥の婿となり、王位を譲位されたので解氏を改め高氏となり、国名を句麗國に高をつけて高句麗としたのです。新撰姓氏録=須牟祁(すむき)王、第一番目の須佐之男、須世理比売の父。第一の須佐之男こと一人目の東明王。新撰姓氏録=>鄒牟(すむ)、都慕王(つぼおう)==高朱蒙のこと続日本紀=仲牟王、都慕王=高朱蒙のこと□古事記神代=五柱いる大国主命の正体大国主神=①~⑤①八千矛神=伊邪那岐大御神==金蛙王、中国随書では嘗②二人目の須佐之男=葦原色許男=大穴牟遅神==朱蒙=第二の東明王=東明聖王。③大歳神=八十神=兄宇迦斯==帶素王④胸形の奥津宮に坐す神=胸形大神==阿曇氏=三女伸系⑤少名毘古那神=日子番迩々芸命=八幡神《リンク>別編 スサノヲは誰?よりまとめ》大国主命が日本の神話では出雲の神としか教えられていないのは残念です。記紀を深読みすると物語の原型が見えてきます。東扶余と阿扶余の系統と沸流・温祚の百済系統、記紀はこの三つの王統をつなげているのです。つなげるのはいいのですが、神武・崇神・応神を縦系列にしていますが、それぞれの建国は100年の差もありません。神武と応神はほぼ同世代の人物なのですが、王統史には王統史なりの書式に則ったのでしょうか?□天照大神の別名神産巣日祖命=高御産巣日神=若きころの名は八上比米==朝鮮での別の名を召西奴(ソソノ)。□河伯の女=古事記では沼河比賣(ぬなかはひめ)のお名前で歌を一首詠っています。(このグループは紀元前70年~30年ごろまでの史実にもとづく物語です。)沼河比売=河伯(ハベク)の女、名を柳花(ゆふぁ유화)という。朱蒙の母。天照大神の姑(しゅうとめ)になるのです。卑弥呼は西暦175年~248年で、天照大神の活躍した期間紀元前60年~とはおよそ230年の時代差があります。天照大神が卑彌呼だなんて、どんな統計学で年代のつじつまを合わせてもまやかしです。天照大神が卑彌呼だとする説はいっこうに絶えないのはなぜでしょう?简位居(かんいご)=简は姓、位居は”王”。すなわち、简王です。(尉仇台の嫡子。魏志倭人伝・景初2年の難升米の実名。居:付属形態素(身を)置く,任じる.【거・コ】用例身居要职=要職に身を置く.以功臣自居=功臣をもって自任する.位居:位する【”위거イゴ】ある地位につく=王*廁溷(しこん)=廁所(人糞を豚に食わせていたので厠と豚小屋は同じ構造物になっていた。)=便所のこと。

中国出土、八咫烏(ヤタガラス)の元祖。



Topic10:
東夷傳全体は方位磁石で測定していた!魏志倭人傳は東偏角8度だった!
地図全体を8度左回転させる!魏志倭人伝は方位をどうやって計っていたのか?それは磁石です。方位磁石ですが、コンパスともいいますよね。アジアの船で代表的なのはジャンク船です。ジャンク船は櫂船(かいせん)ではありません。櫂船の能力ももっていますが、れっきとした帆船(はんせん)です。なによりも漕ぎ手が基本的には不要です。この漕ぎ手がいらないということは、その人数分を戦闘員を乗り込ませることができます。漕ぎ手は一本の櫂に三交代、三人の奴隷が必要です。櫂が12本あれば36人の奴隷が必要です。帆船ならば水夫兼戦闘要員の奴隷のかわりに本格的な水兵軍団を乗せることができるようになっていたのです。三国志の赤壁の戦いでは、軍船対軍船の戦いでした。仮にある郡使が船で日本にやってきます。彼はまず上陸するやいなや、すぐに方向を知ろうとするでしょう。さて、問題です。彼はどうやって方位を知るのでしょうか。船の羅針盤を陸に上げて使えばいいのです。方位の計測につかうことは容易なことです。北の方位は常にわかります。それと自分の進んでいる方位を同時に教えてくれるのですから、便利このうえありません。3世紀の卑弥呼のころ、羅針盤があったのでしょうか?また、当時の磁石は正しく真北を指していたのでしょうか?新たな謎に挑戦します。

佐渡上島町佐島八幡神社の天井に吊るされている。1640年 - 1740年頃 東西の表示が逆の航海用の羅針盤。子が北、午が南で目盛りは12方位、30度単位である。方位盤の東西が逆になっているので逆針羅針盤と呼ばれる。方位盤は船に子の中心を船の舳先に合わせて固定しておく。磁針が指すところが進行方向となる。


ぱふう家のホームページ「チバニアンは一番新しい地磁気逆転の記録」より抜粋

3世紀にあった方位磁石「指南魚」 右の写真は「指南魚」と呼ばれ、一種の羅針盤でした。なんと2500年前、最初に磁石にN極とS極があることに気づいたのは中国人だったのです。

戦国時代にはすでに、実用化されていたのです。3世紀頃より中国で使われた、コンパスの元祖とも言える道具が「指南魚」(しなんぎょ)です。魚をかたどって彫られた木片に磁石を埋め込み、水に浮かべると魚の頭が常に南を向く仕組みになっています。南の方角を指す魚なので、指南魚と呼ばれました。


こうしたことで、中国の後漢、それに次ぐ魏・晋の官吏は、今日でいうコンパスのような「指南魚」で方位を測っていたので
 「指南魚」が使われていたのは三世紀。これは卑彌呼(174-249)の時代ではありませんか。あなた、古代中国の科学知識をあまり馬鹿にしてはいけませんよ。わたしは谷あり山ありの地上では磁石で方位を取っていたと思います。
移動式コンパスは紀元前にすでに軍用に使われていました。中国の戦国末期、指南車という「移動式の方位測定器」がありました。指南針を埋め込んだ人形の手がいつも南を指し示すのです。2600年前、紀元前500年ごろから軍事的に使用されていました。王充の論衡には、「司南之杓,投之於地,其柢南指。」と書かれ、指南針の使用がそうとうに普及していたことを伺わせます。
 因みに、「指南する」という日本語表現は、この指南針からきているのです。諸葛亮は兵器にいろいろと工夫をした人物ですが、諸葛亮が好きそうな軍事品ですね。

▽日本書紀に指南車の記述があります。
「天智天皇即位5年 起癸亥年(663年)至于三歲、並賜官食。倭漢沙門智由、獻指南車」
大和の漢人(あやびと)の僧侶智由がが指南車を献上したといいます。東国に2000人の百済亡命人を移したことへのお礼でしょうか?天智天皇即位5年とは癸亥年(みずのとい) 白雉14年とされ663年です。
卑弥呼の時代、東北アジアでは磁方位は東に傾いていました。磁石の指す方向は、N極が北をさすということは知っていても、真北を指していないということを知ってましたか? 真北というのは、「しんぼく」と読み、地球の地軸の先にある北極星の方向のことです。磁石の方位は真北から西に傾いています。現在東京では平均、約7度ほど西に傾いています。これを、西偏しているといいます。方位偏差というのですが、7度も違うのですから、あなた、磁石だけを頼りに遠くへ行くほど、地図の目的地からはどんどん離れてしまいます。

 卑弥呼の時代は、方位偏差が東偏だった事実が磁気考古学で判明しています。現代は西偏ですが、AD250年ごろは、東に10度近く東偏していました。魏志倭人伝の頃の帯方郡の磁方位は、方位偏差を加えて修正しなくてはなりません。仮に3世紀初頭のGPSの地図を想定しますと、東南135度の方位角に、8度ぐらい足して、143度が当時の磁方位・東南になります。方位143度というのが陳寿の描いていた東南なのです。そこで、143度にチューニングしてGPSシミレーションしなくてはならないのです。やってみてください。

 驚くべき結果が得られました。方位角143度ラインに、帯方郡・ソウル・釜山(金海)・対馬(上島)・糸島(筑前前原)・吉野ヶ里が一直線上に並ぶのです。郡ー狗邪韓国ー對馬―末盧国ー伊都国とは、この143度ラインに並んでいたのです。これはGoogleMap距離測定で再現できるという意味で科学的証明なのですよ。

永年変化モデル>過去2000年の磁気方位角推移グラフ
下の図、250年のポイントとNの円周まで直線を引き、伏角40度ぐらいのポイントが卑彌呼のいたところの偏角です。
磁方位の偏角は東偏8度になります。確認してください。


地磁気の方向が水平面となす角度。水平から下向きを正、上向きを負にとる。水平面内の方向は偏角という。伏角が0度、つまり地磁気の方向が水平である場所を磁気赤道という。伏角は赤道付近で0度に近く、高緯度になるにしたがい北半球では正の大きな値に、南半球では負の大きな値になる。伏角がプラス90度、またはマイナス90度になるところは北磁極、南磁極とよばれ、現在はそれぞれカナダのバフィン島の北および南極アデリー・ランドの北の海中にある。250年のポイント:日本は伏角が58度ぐらいにある。北朝鮮の伏角は40度~。
方位偏差を知らなくては、あなたの頭は鎖国時代と同じですよ。あなた、郡より倭まで、そして、郡から女王国まで東南12000余里と魏志倭人伝に書かれているのですよ。郡は出発点で、伊都国を終点とする直線距離が12000里ジャストなのです。出発地である郡とはどこでしょうか?
 帯方郡です。著名な邪馬台国論者は、帯方郡がソウル周辺だというんですが、ソウルには、伯濟国という国が西暦55年からあったのです。卑彌呼と同年代の王は古爾王です。なんと、あなた、この王は正始7年に魏の帯方太守弓遵(きゅうじゅん)を戦死させてしまったのですよ。
ゆえに、女王に服属していない国が現ソウル一帯にあったのです。その国の名は5世紀から百済と呼ばれるようになりました。
したがって、帯方郡は大同江の南支流・沙里院市にありました。GPS_時代になっても鎖国時代の説を鵜呑みにしますか?そうですね。江戸時代の新井白石先生がどんなに知識がある人でも、やっぱり鎖国時代に生涯を過ごした人なので、世界観には限界がありますよね。
わたしは、[GoogleMap]で地名を総当たりしました。[Google Map]という武器を使わない手はありません。とくに、末盧国、伊都国、奴国までは学会に異論がないというけれど、発端が名前が似ているということが優先してますから、方位や距離については、つじつまがを合わなくなるのはあたりまえです。また、歩いた道程を距離とするので、背振山山系を歩いて越えることは不可能です。登山道を郡使が歩いたとは考えられないのです。輿にのって越えられるのは鈴鹿ぐらいです。ですから、東南を東に変えたのですね。新井白石は、手紙のなかで、「魏志は実録に候、日本紀などは、はるか後にこしらえたて候事ゆえに、おおかた一事も尤もらしき事はなき事に候」と、書いています。日本紀には、真実らしいことは一つもないと言い放っているのですから、魏志は魏志、日本紀は日本紀とべつべつの学問領域としなければなりませんね。